――いい匂いがした。


 それは、魚の出汁と味噌が混じった匂いだ。
 野菜の甘さも混じっているかも知れない。
 お腹が空いた時に嗅いだら、一発でノックアウトされてしまうやつだ。


「……お腹空いたぁ……」


 しみじみ呟いて、ゆっくりと目を開ける。するとそこには、人形へと変身した朧の顔があった。


「へっ⁉」


 驚きのあまり、ジタバタと手足を動かして、まるで挙動不審の変な人みたいに辺りを見回す。見ると、そこには全員が顔を揃えていた。屋敷の瓦礫の横に焚き火を起こして、それぞれが適当な瓦礫に腰掛けている。焚き火の温かな光に照らされたみんなの顔は、どれもこれもが安堵の色を浮かべていた。


 どうも、私は朧の膝の上で眠っていたらしい。体が大きい朧の膝に乗ると、小柄な自分はまるで子どもみたいだ。それが、なんとも恥ずかしくて逃げ出そうとしたけれど、朧にがっちりと押さえられて、どうにも動けなかった。
恨めしげな視線を朧に向ける。すると、朧はクスリと小さく笑った。


「朧~……」
「怪我をしていたんだから、安静にしろ」
「え? あ、そうだった‼ 私、朧に噛みつかれて……あ、あれ?」


 腕を確認する。すると、まったく痛みがないことに驚いた。着物の袖は血で汚れているから、確かに怪我をしたらしいのだが、腕そのものにはなんの異常もない。不思議に思ってまじまじと見つめていると、そんな私に獣頭の神が言った。


「我の秘薬を使ってやったのよ。傷ひとつないだろう。ありがたく思うがいい。なかなか貴重な薬なのだぞ」


 すると、朧がたちまち眦を釣り上げた。
「獣頭の。お前が余計なことをしなければ、こんなことにはならなかったと思うが」
「ほう、言うようになったな、朧」


 僅かに眉を顰めた獣頭の神は、やれやれといった風に肩を竦めた。


「流石の我も、たかがあれくらいのことで、主が自暴自棄になるとは思わなんだ。いやしかし、神として見立てが甘かったことは認める。赦せよ」
「……それが、謝る側の態度か」
「ワハハハハハ! 確かに!」


 ――仲良いなあ。
 朧が離してくれないので、仕方なしに体を預けて、ぼんやりとふたりの話を聞く。


 そう言えば、どうして朧は正気を失ってしまったのだろう。確か、私がいなくなった理由を聞いた瞬間、暴れ出したそうだが……。
 どうにも気になって、訊いてみようと口を開く。


「朧、あのね……」


 けれども、それは叶わなかった。なぜなら、目の前にお椀が差し出されたからだ。


 その瞬間、白い湯気と共に、食欲を誘ういい匂いが鼻を擽った。
 くぅ、とお腹が悲鳴を上げて、思わず視線をお椀に落とす。すると、そこには鱈のアラ汁が入っていた。


 そう、これこそが、私が朧のためにと作った料理。


 旬真っ盛りの真鱈を、丸ごと根菜と一緒に煮込んだアラ汁は、魚の旨みと味噌の香ばしさ、根菜の出汁が渾然一体となった、寒い時期にこそ嬉しい一品。
台所が壊れて使えず、どうにか焚き火で調理できるものをと考えた結果、選んだのが鱈のアラ汁だった。


「真宵、食え。傷は治ったが、血は戻っていないらしい。食って力をつけろ」


 お椀を差し出したのは父だった。 目を真っ赤に腫らした父は、どう見ても疲れ切っていて、先ほどよりもやつれているように見える。


「……お父さん。ありがとう」


 お礼を言うと、父は顔をくしゃくしゃにして笑った。そして、みるみるうちに仏頂面になった父は、朧にもお椀を差し出した。


「真宵がお前のために作ったもんだ。食え。食わないとは言わさねえぞ」
「……ああ」


 お椀を受け取った朧は、父に視線を向けた。父はキュッと眉間に皺を寄せると、私にふたり分の箸を押し付けて、ドスドスと乱暴な足取りで戻っていった。


 朧と顔を見合わせて、お椀に視線を戻す。
 真鱈は、料理をすることを決めた後、凛太郎がわざわざ買い出しに行ってくれた。下拵えの方法や、調理のコツなんかは両親や櫻子が色々と教えてくれた。


 わが家では毎年冬になると、知り合いの魚屋さんから、大きな真鱈を一匹丸ごと買ってきて、それを鍋にするのが恒例行事だった。
 私はこれをとても楽しみにしていて、両親も毎年張り切って作ってくれていた。まさに、冬を代表するわが家の味。それが、このアラ汁なのだ。


 ……ぐう。


 その瞬間、誰かのお腹が鳴る音が聴こえて、何度か目を瞬く。顔を上げて、朧を見つめる。すると、朧はどこか遠くを見て固まっていた。


「ふ、ふふふ……」


 私が笑うと、朧は小さく咳払いをした。そして、私を見下ろして言った。


「食べよう」
「はい!」


 私は、箸を朧に渡すと、いそいそとお椀を口元に近づけた。正直、私もお腹が減って仕方がなかったのだ。先程は聞かれずにすんだようだが、朧にお腹の音を笑われる前に、なにか口にしたい。


 ふう、と息を吹きかけて、おそるおそるお椀に口をつける。思いのほか熱々なことにたじろぎながら、アラ汁を口に含んだ。


「はあ……」


 その瞬間、真鱈の旨みが口いっぱいに広がって、うっとりと目を細めた。
 真鱈は、冬が旬の魚の中でも取り分け上等な出汁が出る。切り身だけを入れた鱈ちりも美味しいけれど、やはり魚を丸ごと入れたアラ汁の方が、その旨みを味わうのにふさわしい。


 出汁が染みて茶色くなった大根も、コラーゲンたっぷりの皮の部分も、噛みしめるごとに旨みが脳天を突き抜けて、的確に食欲を満たしてくれる。淡白な身のプリプリ加減を楽しみながら汁を啜れば、お腹の底からポカポカと温かくなった。


 ――うん。美味しくできたと思う。
 会心の出来と言っても過言ではない。
 これなら、朧にも満足して貰えるかも知れない――。
 そう思って、黙々と食べている朧の様子を窺った。


「……!」


その瞬間、私は軽く目を見張った。


 味の感想を訊くまでもない。普段は表情に乏しい朧の顔が、ありありと語っていたのだ。僅かに細めた瞳が、緩んだ頰が、優しい眼差しが、軽く持ち上がった口角が。


 その一杯が――朧にとって満足のいくものであると。


「……朧」


 胸がいっぱいになって、涙がこみ上げてきた。朧の大きな胸板に体を預けて、泣くまいと必死に堪える。泣いてしまったら、感情に流されてきちんと言いたいことを言えないかも知れない。なるべく、冷静なままで自分の想いを伝えたかった。


 ――でも。そんな私の努力は、なにもかも無駄だった。
 だって、突然、朧が私を見つめたのだ。赤と黒の色違いの瞳に、優しさをたっぷり湛えて、私に向かってこう言ったのだ。


「……美味い。真宵の作るものは、本当に美味いな。いつもありがとう」


 ――もう駄目だ。
 心が震え、なにかが振り切った感覚がした。


「朧。朧。朧……ッ‼︎」


 私は、激情のままに朧に抱きついた。手にしていたお椀が落ちて、雪の中に沈んでいく。朧の胸に顔を押し付け、みんなが近くにいることなんてすっかり忘れて、体の中に満ちている甘い衝動に身を任せた。


「ま、真宵……?」


 朧は、そんな私に酷く驚いているようだった。私の肩に手を添えて、心配そうに覗き込んでくる。私は、そんな朧を涙ぐみながら見上げると言った。


「これでも、私を一年で手放しますか」
「……真宵」
「私、これからも美味しいごはんを作ります。家庭菜園のお世話も頑張ります。お仕事の手伝いだってします。だから、一年で良いと言ったあの言葉を、どうか取り消してくれませんか」


 そして、朧の胸に顔を埋めると、掠れた声で言った。


「……私は、なんの取り柄もないただの人間です。それでも、朧の――神さまの傍に妻としていることを、許してください」


 ギュッと手が痛くなるくらいに握りしめて、震えながら声を絞り出す。


「朧が、あなたが、好きなんです……」


 心臓が早鐘を打ち、どくどくと大きな音を立てている。目眩がしそうなほど不安に駆られ、どうしようもなく逃げ出したくなる。こんなにも外は寒いというのに、全身が熱くて、どうにも居た堪れない。まるで、時が止まったのかと錯覚するほどに、ゆっくりと時間が流れていく。パチパチと焚き木が爆ぜる音が聞こえる。けれども、それ以外の音はなにも聞こえず、星の瞬く音すら聞こえてきそうだった。


「――……」


 たっぷりと沈黙した後、朧は長く息を吐いた。


 呆れられたかと、不安に思って顔を上げる。
 けれども、そこにあった色違いの瞳に、熱のようなものを感じて鼓動が跳ねた。


 朧は、お椀を地面に置くと、私に手を伸ばした。想いを受け入れて貰えないのではという恐怖が沸き起こってきて、体を縮こませる。すると朧は、私の頬を酷く優しい手付きで撫でながら言った。


「知っているか。お前がどれほど俺の心を救ったか。どれほど俺を癒してくれたか。残されたすべてをかけてもいいと思えるほどに、俺の心を占めていることを」
「え……?」


 思わず声を上げると、朧は私の体を強くかき抱き、耳もとに顔を寄せて言った。


「……お前が、俺に愛想を尽かしたと聞いた時、もうなにもかもがどうでも良くなった。何故、自分の命はまだ尽きていないのかと恨めしくも思った。神として生まれ、けれど役目を全うできなかった自分にとって、お前が幸せになるのを手伝うことだけが、できることだと思っていたのに。それすらもままならない自分に絶望した」


 やや早口で言うと、朧は私を抱く力を益々強めてきた。


「お前を、この家に招き入れた時。本当は、欲しくて欲しくて堪らなかった。ずっとずっと求めていたものが、手の中に転がり込んできたのだ。自分だけのものにして、誰にも見せないように閉じ込めておきたかった。だが――」


 朧の吐息がかかると、そこから熱が広がっていくようだった。けれども、同時に当時のことを思い出して、心が冷えていくような感覚があった。


初めて朧と対面した時、私は恐怖を浮かべた。怯えて、いつ逃げ出そうかとそればかりを考えていた。それが――朧にあの行動を取らせたのだ。


「もしかして、私の心の声を聞いたのですか」
「……ああ。あの時、お前は……早くここから去りたい、あの家に戻りたいとばかり望んでいた。それを聞いて、頭が真っ白になった」


 ……それは、朧の能力。相手の望むものを、知ってしまうという能力だ。
 そのせいで、朧は私に一年間という条件を提示したのだ。すべては、私自身が招いたことだった!


「朧、朧。ごめんなさい。私がそんなことを思わなければ」


 自分の愚かさを呪い、謝罪の言葉を口にする。けれど、朧は小さく首を横に振ると、私をじっと見つめて言った。


「自分の存在が、如何に人を恐れさせるのか、理解しているつもりだ。だから、お前が気に病むことはない。俺が、臆病だっただけなのだ」


 ――それに、お前は俺への恐怖を克服してくれただろう?


 私の耳元で囁くように言った朧は、少し恥ずかしそうに頬を赤らめて言った。


「あの時……お前を帰さなかったのは、俺の欲のためだ。神のくせに愚かしいとは思うが、どうしてもお前をここに留めて置きたかった。神の矜持もなにもかも忘れて、お前と只々一緒にいたかった」


 朧は、私に頰を擦り付けた。


 まるで、動物が相手にマーキングするみたいな行動に、擽ったくて体を攀じる。すると、僅かに体を離した朧は、私をじっと見つめて言った。


「真宵、もう一度聞かせてくれ。本当に……本当に、俺のことが好きなのか」


 朧の言葉に、一瞬、キョトンとする。


「……!」


 そして、言葉の意味を理解すると、すぐに顔が熱くなった。さっきは勢いで告白したから良かったものの、改めて口にするとなると、どうにも気恥ずかしい。あまりの羞恥心に、誤魔化したい衝動に駆られる。でも、ここでそんなことをしたら、なにもかもが台無しだ。


 覚悟を決めた私は、朧を真っすぐに見つめると、心のままに言った。


「……嘘なんてつきません。私は、本当に朧が好きです。朧を、心から愛しています」


 その瞬間、朧が泣きそうな顔をした。整った顔をくしゃりと歪めて、まるで泣くのを堪えている子どもみたいに口をへの字にした。


 私は、体勢を変えて手を伸ばすと、朧の首に抱きついた。
 そしてもう一度、言葉を重ねた。


「私は、朧が好き。ねえ、心の声を聞いて。心は嘘をつかないでしょう?」


 朧の頭を自分の胸に当てる。
 そこからはきっと、私の心音以外のものが聞こえるはずだ。


 するとその瞬間、朧がふるりと身を震わせた。
 私の心の声を……私が真に望むものを、聞いたのかも知れない。
 朧の瞳がみるみるうちに潤んで行き、なんとも情けない顔になった。


 ――ああ、私の心が、気持ちが伝わった。


 それを確信して微笑む。すると、目の奥から涙が滲んできて驚いた。
 ちっとも悲しくないのに、次から次へと溢れてくる雫に戸惑う。けれどもそれは、まるで朧に寄り添った時みたいに、温かな温度を持っていたから――私は、その涙を受け入れることにした。


 そして――朧の頰に手を伸ばすと、朧の頰を濡らしている涙に触れた。そして、それも私と同じ温度を持っていることに心底安心すると……。
 心からの願いを口にしたのだった。


「……私を、本当のお嫁さんにしてください」


 それは、あの春の日に半ば自棄になって凛太郎に言った言葉と、とてもよく似ていた。けれども、その言葉が持つ熱は比べ物にならないほどで、私は大きく頷いてくれた朧に満面の笑みを浮かべると、彼の耳に口を寄せた。
 そして、小さく呟くように言ったのだった。


「……ありがとう。私の旦那様」