実際に仕事をするフロアは、地下と言っても現実の外光と連動させた、季節感重視、時間経過も天候も考慮に入れた照明設備が設置されているため、いわゆる地下感は全くない。
バーチャルな窓もついている。
私はたけるをマナーモードに切り替えてから、デスクの定位置に置いた。
前日までの作業内容を確認しながら、今日の仕事内容をチェックする。
個人の人格、健康、経歴、財産、趣味趣向など、人生のありとあらゆる全ての情報が、記録されている部署なのだ。
その人の全てが、ここにあると言っても過言ではない。
そのために、日々激しいハッキングの対象となり、かつ誤記入や、意図的な不正が後を絶たない。
これだけPP制度が世間に浸透した現在でも、いまだに根強い反対論者もいて、物理攻撃の爆破予告も後を絶たない。
私たちの仕事は、コンピューターがはじき出した不正疑惑の対象や、異常値を示すアカウントの可否を判断し、その原因を調査、解明することを主な業務としている。
毎日上がってくる何百という事案を、一つ一つ確認していくだけでも、気が滅入る。
AIが処理した報告事案に、ただただエンターキーを押し続けて、承認していればいいというだけの仕事ではないのだ。
「せんぱ~い、今日のお洋服、かわいいですぅ!」
後輩の萩野七海、二十二歳、独身、女性。
市川くんと同様、この年代の入社局員は、とても可愛らしくて素直でよい。
「ありがとう、七海ちゃんもかわいいね」
「うふふ、先輩の女子力も、今日は上がり気味じゃないんですか?」
職員専用のアプリをスマホで開けば、そんな情報も簡単に手に入る。
「あ、今日の明穂さん、ストレス値日常平均よりやや高めですけど、ファッションと睡眠係数良好で、全体1756ポイントですよ」
「1800切ってるじゃない」
「でも、1700越えてるから、上位三十%には入ってるじゃないですか」
「あんまりうれしくないな」
「私もチェックしてみよー、あ、なによこれ1600代じゃない、やだなんで?」
七海ちゃんは、スマホをいじりながらどこかへ立ち去ってしまった。
いつも思うんだけど、あの子、ここへ何しに来てるんだろう。
今日は仕事する気ないのかな。
純粋に天然っぽい市山くんと比べて、七海には養殖疑惑がある。
つまり、可愛さを演技しているのではないかということだ。
ぼんやりしているようで、シメるところは、しっかりシメる。
小柄な体格に、肩までのやわらかな印象のふんわりとした茶色い髪と巨乳、抜け目のない、ある意味完璧な女子だ。
しっかりと作り込まれた外見に、全くのスキがない。
まさに女子の鏡。
女子オブ女子だ。
まぁいいや。
彼女はそれでも自分のやるべき仕事はいつもしっかりこなしている。
私は自分のやるべきことをちゃんとしよう。
淹れたてのコーヒーをすすりながら、メインコンピューターによって振り分けられた、本日のチェックリストを淡々と処理してゆく。
仕事の割り振りは、与えられた日課と長期目標を、スケジュール通りにこなしていけばいいので、出退勤時間も休憩も、基本自由に設定できる仕組みだ。
「今日もはりきってるね、そんなに仕事急いで、午後から何すんの?」
私の肩にがっつり腕をのっけて、のぞきこんできたのは、米坂さくら、二十七歳、独身、女性。
私の唯一の同僚女性だ。
「うーん、最近肌の張りがちょっと気になって。パーソナルメンテに行って、アドバイスとエステ受けてこようかなと思って」
「あんたさぁ、まだ見栄張って食事プログラム続けてんの?」
「努力は必要でしょ」
肩にのった手を払いのけ、振り向きざまにキッとにらむ。
だが、そんなことくらいで、ひるむ彼女ではない。
「早めに身分相応にしておかないと、パーソナルポイントの回復力が衰えちゃうよー」
さくらは笑いながら自分の席についた。
素知らぬ顔で、でも自分はしっかりとフルーツジュースを飲みながら、仕事を始めている。
口は悪いが、根は優しい親友。
とにかくアグレッシブで、外のことにしか興味がない。
さくらなんかに言われなくても、分かってるよ!
その栄養管理の変更とポイント回復のための診断プログラムに、今日は参加しに行くんだもんね。
予約も入れたし、今日は何があっても、早く仕事を終わらせないと。
昼食は社内食堂のAIが作成した、管理システムお勧めのランチ。
設定してある目標体重がやや厳しめのせいか、提供される食事の総カロリーが控えめなので、ついつい間食をしてしまう。
それが原因でさらにカロリー減の食事内容を提示され、文句の一つも言いたくなるけど、言ったところで相手は機械。
『設定を変更しますか?』
『保健省の提案するBMIの、上限を超える可能性がありますが、よろしいですか?』
なんて、お決まりのセリフで返ってくるだけ。
ため息をついて、出された食事と同じカロリーくらいのおやつを食べている。
プログラムに内緒にしておきたくても、購入履歴と血糖値でバレるから、不可能なんだよね。
てゆーか、自分の今の仕事が、そんなどうしようもない毎日の管理から逃れたかったり、誤魔化そうとしてるアカウントとの戦いなんだから、それこそどうしようもない。
そう、これは、人類の平和と繁栄と美容と健康のためでもあるのだ。
冗談抜きで。
局内の電光掲示板に、警報システムが点灯した。
その合図に、瞬間的にオフィスに緊張がはしる。
だけど今のそれは、職員向けの外的緊急性の低い警告ランプだった。
同じ部署の局員の誰かが、高ストレス値を計測して、本日欠勤扱いとなる連絡。
その分、他の局員への仕事の分配が増えることになる。
だけど、この警告は……。
顔を上げた。
その場いた誰もが気づいていながら、それを口に出そうとはしない。
分かってはいるけど、触れたくない、重たい問題がここには残されていた。
横田さんが立ち上がる。
「今期のケアマネージャーは、保坂だったな」
「はい」
局員の健康管理と、出勤及び業務内容は、個人ではなくチームで責任を持つ。
もう長い間、顔を見せていない局員が、この部署にはいた。
電光掲示板の連絡は、その対応を求めている。
「一緒に来い」
横田さんと二人で、廊下に出た。
白く細長く無機質な、だけど照明だけは暖かい廊下を通り抜け、地上部分の社屋に向かう。
この真っ白なトンネルが、外の世界と繋がる唯一の通路だった。
問題の局員は、三階建て地上社屋の二階、職員福利厚生フロアの面談室にいた。
浜岡介司、三十一歳、独身、結婚歴一回、子供なし、男性。
横田さんは、無言で廊下の先を歩く。
「今日は、局長の応対じゃないんですね」
「何か大事な用事があって、今は対応出来ないらしい」
「大事な用事って?」
私は顔を上げた。
「爆破予告でないことは、確かだ」
横田さんの横顔が、いつにもまして厳しい。
浜岡さんは、横田さんと同期入社の局員だ。
お互いに切磋琢磨しあったよきライバルのような関係だったが、奥さんを病気で亡くしてから、情緒が安定しない。
「実は、俺が局長にお願いしたんだ。あの人が相手だと、いつまでも甘えて話しにならない」
先を歩く横田さんの顔は、まっすぐに前を向いていた。
たどり着いた面談用のブースに、浜岡さんは一人で座っていた。
入ってきた私と横田さんを見て、顔色が変わる。
視線だけで、彼のじっとりと追い詰められるような感覚が、こちらにも伝わってくる。
空気の張りつめた室内に、3人が座った。
「これからの会話はすべて録音し、五年間保存されることが法律で義務付けされている。それでも、いいな」
横田さんの言葉に、浜岡さんはしっかりとうなずいた。
これからする話しは、そういう内容だということを、それだけで察したようだ。
「あぁ、そろそろそういう時期だってことは、分かってたよ」
横田さんは録音機器をテーブルの上に置くと、スイッチを押す。
「浜岡介司、さんですね」
「はい、そうです」
それが厳かな儀式の始まり。
「あなたのパーソナルポイント、PPが、1000ポイントを下回りました。我が社の規定では、1300ポイント以上が就労条件となっているのは、ご存じですよね」
「はい」
彼のPPを下げている主な要因は、体重の変化、血糖値、睡眠係数の悪化。
それに加えて、社会的な変動要因となる、継続的な私的欠勤、もしくは、過労による高ストレスでの、公的な就労不能状態が続いていること。
健康に問題があるような、過度のストレス状態での勤務は、法律上許されない。
「食事も取れず、睡眠の質が悪い。抑鬱傾向もみられる。もうずっとだな」
浜岡さんはじっと前を見つめたまま、静かに座っていた。
「君の、奥さんが亡くなった時期から、始まっていることだ」
淡々と話す横田さんの物言いに、全くの感情はない。
これまでは横田さんではなく、優しい局長がずっと浜岡さんの話を聞き、彼の相談相手を務めていた。
「大事な人だったんだ」
「反対しただろ」
浜岡さんは、全く表情を変えない横田さんを見上げた。
横田さんは、そのまま続ける。
「君たちはPPが近く、趣味や性格、思考、行動パターンなども確かに似通っていた。お前との相性は、誰がどうみても完璧な、最良の相手だった」
「俺は、運命の出会いを感じたんだ」
「運命だなんて、そんなものは存在しない。全てスーパーコンピューターがはじき出した、当然のマッチング結果だ」
「そうだと頭では分かっていても、やっぱり彼女と出会えたことは、奇跡のように感じたんだ!」
浜岡さんの語気が強まる。
握りしめた拳が、小さく震えていた。
「奇跡じゃない、必然だ。だからこそ俺は反対したんだ。こうなることが分かっていたから」
そんな浜岡さんを前にしても、横田さんは決して変わらない。
ホルモンバランス、食事内容、著しい筋力と気力の低下。
行動パターンと思考の劇的な変調と、感情コントロール不全。
「彼女には大きな欠点があった。病歴だ。彼女の持つ遺伝子には、重大な欠陥があった。発症率も高く、予後も悪い」
「それでも、俺は構わないと思ったんだ。医療技術にかけたんじゃない、彼女との、幸せな人生を、ただ送りたかっただけなんだ」
「希望通りの人生を、送ったじゃないか」
「あぁ、そうだよ」
浜岡さんの声色が、涙でにじむ。
彼はとても優しくて、あたたかい人だった。
「俺は、彼女に生きていてよかったと、思ってほしかった。遺伝子に問題があっても、生まれてくる価値を教えたかった。そして何よりも、彼女と過ごした日々が、俺にとって人生最良の日々だった」
「君は、彼女を幸せに看取った」
これら、すべての数値が低下していることと、欠勤状態が長く続いたため、局員同士との関わりが低下。
一日のうちで、その人がある人物と交流した時間割る二十四時間で計算する交流率から計算される親密度が下がったために、組織内でのチームワーク指数を著しく低下させてしまった。
もう、局内には残れない。
「事前に予測出来た、当然の結果だ」
「そうだな、彼女を幸せに看取ることが、俺にとっての幸せだった。人生の目的を失った今、仕事に身が入らないのも事実だ」
「以上の結果から、解雇を宣言しなくてはならないが……、分かってくれるか」
「あぁ」
本来の労働者保護基準監督新法の基準から判断すると、最後の横田さんのセリフは規定外となり、裁判になれば正式な解雇は認められないだろう。
普段ならば、彼には絶対にしないミスだ。
そこを問いただせば、今回の面談は無効だと、浜岡さんにも分かっているはず。
だけど、彼は笑った。
かつての同僚の気持ちを推し量った言葉に、素直にうなずいた。
「今までありがとう。ここで働けて、楽しかったよ」
「退職の手続きと残りの給与に関しては、後日人事部から連絡がある」
「分かった」
最後に、二人が固く握手をする姿が見られてよかった。
横田さんはずっと、この人のことを気にかけていた。
「カウンセリングと、更正プログラムに参加しているみたいだな」
「更正って言うなよ、俺にとっては、生まれ変わるみたいなもんだ」
「生まれ変わりは、ない」
そう言い放った横田さんに、浜岡さんはまた笑った。
「俺は、自分のような境遇の人間をサポートする事業に回るよ。今の、そしてこれからの俺の人生にとって、最良の選択をするつもりだ」
「確かに、お前なら向いているし、それが出来るだろう」
「挨拶はしない、みんなによろしく伝えておいてくれ」
「分かった」
笑顔で社屋を後にした浜岡さんを見送って、この問題は終了した。
そうか。
横田さんは、ここを去る浜岡さんに、最後に会いたかったんだ。
「いい世の中になったな」
「そうですね」
私たちは、彼を見送りに出た。
日の当たる、緑の芝生に続く小道を、ゆっくりと下っていく彼の後ろ姿は、確かに輝きを取り戻していた。
「生存に必要な福祉は全てまかなわれ、生活に必要不可欠な生産工程は、産業ロボットによって、調整されている」
「ヒトは生まれてきたら……」
「自分の生きる目的のために、生きればいいんだ」
横田さんと目が合った。
この人と、何のわだかまりもなく笑顔を交わせるのも、珍しいことかも。
「さぁ、戻って仕事だ。俺たちは、そんな生活を守るための、基礎情報を守っているんだ」
「はい!」
緑豊かな敷地と、白く輝く社屋。
その地下には、私たちの人生を決定する大切な情報が、今もうごめいている。
月経前症候群でイライラした体に、うっかりひねった右の足首が痛い。
おかげでパーソナルポイント、PPが1524にまで落ちてしまった。
「そうだね明穂、体調が悪いようだけど、大丈夫?」
「大丈夫よ、ちょっと辛いけど、PP回復のためにも、頑張らないと」
「そうだね明穂、気をつけて、だけどあんまり無理しちゃダメだよ」
「ありがとう、たける。そろそろ行こうか」
「そうだね明穂、今日も元気に出発だ!」
イケメン年下執事アイドルのたける(ピンクうさぎAI)と一緒に、今日も仕事へ向かう。
人間には、目的と義務が必要だ。
それなのに、自分では人生の目的を見つけられない一般的大多数である75%以上の人類のために、人工知能がマッチングした職業の中から、自分の好みにあった仕事を選ぶ。
それがいいか悪いかなんてのは、結局はどんな仕事であれ、その仕事に就いた自分がどう楽しむかでしかない。
AIが選択を提示したりなんかせず、自分で一から考えて、転職と挫折をくり返し荒廃していく人生なんかより、ずっと効率がいい。
おばあちゃんも言っていた。
昔なんて、就職活動してたのよ。
それでも自分の希望する仕事とか会社に素直に入れる人間なんて、ほとんどいなかったわ。
決まった会社で、それなりに頑張るしかなかったのよ。
今じゃ自分の希望が一番、しかもAIがマッチングで選んでくれるなんて、ずいぶん楽になったわねーって。
私は、初めからこの仕事を目指していたわけではない。
というか、こんな仕事がこの世に存在することすら、知らなかった。
世の中にごまん以上ある職業のうち、大学卒業と共に受けた職業適性マッチングの項目の一つに、この仕事があった。
自分の知らない仕事をAIが提示してくれるのも、この仕組みの素晴らしいところ。
人生の岐路後に知った新たな職業に、自分もなってみたかったなーなんてことに、ならなくてすむ。
ここが特殊な職場であることも事実だ。
全就労人口における就労率が1%以下、そこに惹かれた部分もある。
これだけの管理・監視社会の中で、いったいどんなことが起こっているのか。
何がどう管理され、運営されているのか、それが知りたかった。
そうじゃなかったら、私は警官になることを夢見ていた。
出局して淡々と業務をこなしているのに、さっきから私の横顔に、ちくちくと刺さる視線がある。
分かっていながら無視してるのに、これだけチラ見されると、さすがに無視もしづらくなってきた。
「さっきからなんですか、横田さん」
「PPが落ちてる。君はこのまま、仕事をしていてもいいのか」
この人は、仕事熱心といえば仕事熱心なのだが、神経質といえば神経質すぎる。
「大丈夫です。たいしたことではないので」
そのセリフに、なぜが冷徹横田の顔が真っ赤になった。
「じょ、女性の生理は自然現象であり、生理前後にPPが落ちるのは全くの問題にならない。人体に炎症反応もみられる。どこか怪我をしているんじゃないのか?」
「……横田さんって、そういうところは古くさい考えをお持ちなんですね。生理だからって、平気ですよ」
「俺は、チームのことを考えて言ってるんだ! 無理に仕事をする必要はない!」
「本人が大丈夫だって言ってるんだから、いいじゃないですか」
「そーか、ならもう知らん、好きにしろ」
少し離れた席で、真っ赤になったままデスクに向かう冷血横田の背中は、何か笑える。
女嫌いで有名なこの人でも、気を使うところには、案外ちゃんと気を使う人なんだな。
「そりゃそうですよ、だってもうすぐ、PP1800ポイント以上の、ハイクラス交流会があるんですもの、ねぇ?」
PP1802ポイントを引っさげたさくらが、余裕の表情で絡んでくる。
「横田さんも、参加なさるんでしょう?」
「それが人類の義務だから仕方がない。他に予定の入らないかぎり、出席だけはするようにしている」
「無差別級とか、ポイント低めの回に行っても、行くだけ無駄っていうか、面白くないですもんね」
「あたりまえじゃないか、そういった無駄と不幸を回避するためのPPであり、そのためのクラス別交流会なんだからな」
「だって、明穂!」
「だから、その前にPPを回復させなきゃいけないんでしょ」
「そうだよ、今度もまた、一緒に行こう」
さくらは、グッと親指を立てて、『あたしに任しとけ!』みたいなポーズ。
さくらが誘ってくれなかったら、私はそんなところに行こうとすら思わなかっただろう。
だけど、自分もそろそろ、変わらなくちゃいけない。
それは分かってる。
「1800越えの会なら、安心できるもんね、リハビリも兼ねて」
「そう言われてるから、前も行ったんじゃない」
「うふふ~、頑張ってねぇ~」
さくらは、それだけを確認すると、余裕の笑顔で去って行った。
ポイント1800は、私にしてはそれほど難しい数字ではない、ちょっと頑張れば、すぐに手の届く数値だ。
「なるほど、そういうことか。分かった、頑張れ」
横田さんが、突然冷静さを取り戻す。
変な気遣いも、よけいなことも言わないのが、この人流。
「ありがとうございます」
しかし、さくら以上に、余裕で2000ポイント越え、かつ、それより下に落ちたことがないという鉄仮面横田の応援の方が、しゃくにさわる。
悔しいけど、だけどそんなことを気にしたところで、自分のポイント回復になんの影響もないので、気にしないでおく。
むしろ負の感情は、PPにとってもマイナス要素だ。
「ちょっと、いいかな?」
そう言って、突然現れた森部局長の後ろに、すらりと背が高く痩身の、多分誰から見ても美人だと答えが返ってくるような、美しい女性が立っていた。
「このチームに、新しく配属が決まった山下芹奈さんだ」
山下芹奈、三十二歳、独身、女性。
この時代に、人手不足なんていう言葉はない。
必要な労働は、基本的にAIが行い、産業用ロボットによって管理生産されている。
全人類は、人間のために働くロボットによって、かつての貴族的な生活が可能となった。
働きたければ、働けばいい。
自分のしたいことを、したいように追求できる総貴族社会。
今やベーシックインカム、15歳未満300万円、15歳以上500万円の時代だ。
コミュニケーションセンターにいけば、無料で入れるお風呂に娯楽施設、図書館、マッサージ機に宿泊施設、併設されるレストランでは、誰でも利用できるバイキング形式の食事が、二十四時間待っている。
高性能産業ロボットと高機能AIに支えられ、まさに現在によみがえる古代ローマ人生活!
とは言っても、誰もがなりたい職業、やりたい仕事に就けるわけではない。
AIがマッチングした適正検査に、パスした職業でなければならない。
いくら医者になりたいと本人がわめいても、ただ熱意があるだけでは不可能で、やはりそれなりの知識と努力は求められる。
AIの誤作動を、監視する役割もあるからだ。
この職場も、政府独立機関であり、人の人生に関わるデータを扱う部署である以上、誰もが望んで就ける職種ではないのだ。
人手不足も関係ないとすれば、彼女は、それなりのエリートということになる。
私ももちろん、そのうちの一人なんだけど!
「中途採用でこちらにまいりました。今までは、学校教師をしていました。ここでは一番の新人になりますので、皆さんのご指導のほど、よろしくお願いいたします」
所作も優雅で、大人の女性ってかんじ。
市山くんは、早くも視線をくぎ付けにされてる。
「はいー、よろしくお願いしますぅー」
にっこり笑うその笑顔からも、フェロモン満載、PPは?
2135?
こりゃお手上げだ、完敗。
「ちゃんとマッチングを受けて、この部署に指定されたんだ。浜岡くんのこともあったし、君たちとなら、うまくやっていけると思うよ」
「当然ですよ、局長。だからこそ、ここに配属が決まったんです」
横田さんは立ち上がった。
「よろしくお願いします」
差し出した手で、しっかり握手。
彼女自身も、ほっとした表情に変わった。
「分からないことだらけなので、よろしくお願いします」
とりあえず一番PPの高い横田さんが、このチームのリーダーなので、新人教育係りもこの人かな。
横田さんはぶっきらぼうに横向いて仕事再開したけど、彼女との握手が照れくさかったのか、顔が真っ赤だ。
「じゃ、あとはよろしく頼んだよ」
いつもにこにこ笑顔の局長が、いつものように、にこにこと去って行く。
彼女はさっそく、横田さんの隣の席をあてがわれ、コーヒーを自主的かつ積極的に運んだ市山と一緒に、仕事の説明とかいう会話のコミュニケーションを楽しんでいる。
「私も早く、ああなりたいですぅ!」
七海ちゃんが、目をキラキラさせて言った。
「そうかな?」
今の私が言えるどうでもいい精一杯の強がりは、それだけだった。
「やっぱPP2000越え女子は強い」
さくらはため息をついて、椅子に戻った。
張り合ったところで、負けると分かっている勝負をわざわざしにいく必要はない。
無理なものは、無理。
PPには、こういった無駄な争いを避ける役割もある。
ため息をついて、いつもそばにいてくれる、たけるを抱きしめた。
なんとなく、AI執事のたけるから送られてきた、私自身のPP計算の詳細に目を通す。
たけるのアドバイスは実に多岐に渡っているので、とりあえず私の嗜好にあった、回復させやすい項目順に並び替える。
行動パターン別の項目をクリックすると、トップに上がってきたのは、外的志向性の低下。
その項目に関連している購入履歴から、全消費におけるファッション関係の購入率が低下していることが分かった。
そう言えば、最近化粧品買ってないし、通っていた料理教室も、規定回数が終了してから継続してないし、ジム通いもサボってるな。
年上新人格上女子の芹奈さんは、清楚で飽きのこない定番スーツをあでやかに着こなしている。
メイクもナチュラルメイクで、とにかく何もかもが完璧なのに、そこに一切の無理がない。
「聞きましたよ~、PP1800目指してるって!」
市山くんが戻ってきた。
「僕も今1600代なんで、1800目指そうかと思ってるんです」
「市山くんも1800目指してるの? そのレベルまでいったことあるの?」
2000越えの皆様を前にして、随分レベルの低い会話だ。
「実はないんですよ~、1760ぐらいが最高ですね」
普通に過ごしていれば、私も1600ぐらいが標準値だ。
エキサイティングしてるっていうか、毎日の生活に、確かな充実を感じている時期には、1800代になってる。
ちょっと落ち込んだり、疲れたりすると、1500~1600代。
本当は自分は、そのくらいの人間なのだ。
「1300ぐらいが、気楽に付き合えて、ちょうどいいレベルなんだけどねー」
「はは、でもそれくらいだと、友達止まりにしかならないって、こないだ明穂さん、自分で言ってたじゃないですか」
「まあねー」
ちらりと視界に入った横田さんは、なぜかタブレット端末で自分の顔を半分隠しながらしゃべっている。
あれじゃあ、聞いてる方も聞き取り辛いだろうに。
芹奈さんは普通に対応してるけど、あの人はいつまで顔を赤くしているつもりなんだろう。
仕事の説明なんだから、普通にしゃべってればいいのに。
「僕も1800の会、行きたいです!」
「じゃあ、一緒にがんばろっか」
正直、2000越えの世界は、私には分からない。
もちろん、PPは回復させておいた方がいいに決まっている。
だけど私の場合、それが今度の交流会が目的ではない。
元医師の経歴を持つさくらに言わせれば、それが私にとってのリハビリになるらしいんだけど、私自身、本当はもう、そんなことはどうだっていいのだ。
市山くんとふたりで、身の丈のあったもの同士、あーだこーだと話しが盛り上がっているところに、後輩女子の七海ちゃんがやってきた。
そういえば、この子には彼氏がいたっけ。
「あぁ、そういえば七海ちゃんの彼氏のPPって……」
「1900です」
「あっそ」
私と市山くんの顔が一気に曇る。
充分ハイスペックな数字だ。
「どこで知り合ったんだっけ」
「大学ですよ、そこで普通につき合うのが、一番自然で長続きするっていうじゃないですか」
それでうまくいくなら、苦労しないんだけどなー。
「七海ちゃんは、今は……」
「1600ですけど、なにか?」
そのセリフが放つ、彼女のこれ以上なにも言うなよオーラが威圧感マックス過ぎて、私は市山くんとふたりの、現実世界に逃げる。
「で、市山くんは、なんかスポーツでも始めるの?」
「そーなんですよ、僕も最近運動量が落ちて、疲労物質がたまり気味、体重もやや増加傾向にあるんで、考えてもいいかなと」
「一緒に行く?」
「いいですね、お互いの会話スキルも上がりそうですし」
七海ちゃんは手にしたカップを持ったまま、余裕の表情で立ち上がった。
「あ、私はそういうの興味ないんで、彼とふたりのお出かけサイトを検索してきまーす」
他人をうらやむ時間があるなら、自己研鑽に励むべし。
かくして、私と市山くんの奮闘記が始まった。
当日の朝、リュックにはスポーツウェアと着替えを突っ込み、たけるを抱きしめて家を出た。
「そうだね明穂、市山くんは、もう車に乗ったみたいだよ」
「え? 本当?」
「そうだね明穂、明穂も急がなくっちゃ」
たけるに急かされて、小走りで道を急ぐ。
家から少し離れたところに予約しておいた、全自動運転の配車に乗り込んだ。
「市山くんに、車に乗ったことを報告したよ」
「うん、ありがと」
私と市山くんは、時間通り同時に、目指す施設の前に到着した。
理想的健康生活管理棟。
誰でも利用できる、まさに理想的な健康生活を管理してくれる公共の専門施設だ。
愛称はハイジア。
健康を司る、神さまの名前に由来する。
「散々迷って、やっぱりここですかね」
清潔感あふれる四角いお豆腐みたいな建物。
緑の芝生が広がり、植え込まれた木立からは、小鳥の鳴き声が聞こえる。
「職場からも無理なく通えるし、ここなら私も何回か来たことあるから」
全国各地にある、PP回復維持のための公的設備だ。
最近では豪華さや特殊性を売りにした民間施設も、いくらでもある。
私は市山くんを見上げた。
「嫌だった?」
「いえ。僕は明穂さんと一緒なら、どこでもいいです」
それだけを言い残して、彼は先に建物の中へと入って行った。
施設の中は白しかない空間で、壁も床も天井も、何もかもが柔らかなデザインになっており、余計なものは一切置かれていない。
「ようこそおこし下さいました。市山さま、保坂さま」
自動受付のガイドシステムボックスが語りかけてくる。
予約した段階で、住所などの個人情報もプログラムに必要な身体情報も送信済みなので、到着してから必要な手続きなんて、何もない。
真っ白なだけだった壁に、すーっと男女別の扉が開いた。
「せっかく一緒に来たから、一緒にプログラムを受けるやり方もあるのに」
市山くんが、入りかけた扉から視線だけを覗かせた。
「じゃ、終わった先で待ってますからね」
「うん」
ありがとう。
だけどゴメンね。
これは、市山くんの問題ではない、私の問題なのだ。
市山くんのことは、イヤじゃない。
むしろ、特殊なくらい平気。
私はこの場所の、ただ白しかない部屋が好きだった。
頭の中を真っ白にして、気持ちが切り替わる瞬間。
滑らかですべすべで、ひんやりとしているようで、冷たすぎない白の世界。
もし生まれ変わりがあるとしたら、その途中で通る道は、きっとこんな感じなんだろうなと、勝手に思っている。
「現在の、より正確な身体情報を確認します。荷物はこちらにお預け下さい」
壁が割れて現れたボックスに、大切なたけるをあずける。
「お着替えはどうなさいますか?」
ここでは施設専用のウェアが用意されているけど、私は自分の持参した服に着替えた。
「用意が出来たら、測定台にお乗り下さい」
柔らかなブルーのライトが光る、台の上に足をのせた。
五秒後には終了の合図がなる。
「管理プログラムを作成中です。そのまま前にお進み下さい」
継ぎ目なんて見当たらない、自由自在に変化する目の前の壁が左右に開いた。
エレベーターに乗って、階上へ進む。
開いた扉の先には、女性専用のトレーニング設備が揃い、何人かの利用者が、それぞれの器具で運動をしていた。
筋トレマシンの一つに、赤いランプが点滅している。
その下には、私の名前。ここからスタートということだ。
「それでは、運動プログラムから開始します」
応援モードに、女性ボイスと男性ボイス、優しく応援と叱咤激励コースが用意されていた。
私は女性ボイスの叱咤激励コースを選択する。
「さぁ! しっかり体を動かしていきましょう!」
器具の上に手を置く。
それから二時間、私はこのジムを巡回し、体を動かし続けた。
予定されていた運動プログラムが終了して、休憩のためのスペースに入る。
まだ少し荒い息を整えながら、空いていた椅子を見つけて、そこに座った。
柔らかな光が差し込むゆったりとしたスペースには、たくさんの利用者がのんびりとくつろいでいた。
アシスタントロボットが、近づいてくる。
「お飲み物を用意しました」
「私の荷物から、AI執事を連れてきて」
「かしこまりました」
トレーから飲み物を受け取ると、ロボットは静かに滑り出す。
すぐにピンクうさぎのたけるを連れてきてくれた。
私はほっとして、たけるを抱きしめる。
一人が怖い。
知らない人がたくさんいるところと、慣れない場所は苦手。
たけるがいてくれれば、それだけで少し安心できる。
一呼吸して落ち着いてから、それからやっと、出された飲み物に口をつけた。
「こんにちは」
目の前に、突然男の人が現れた。
知らない人。
ここの利用者だ。
たけるのAI管理機能を、すぐにマックス最大限作動させる。
「たける、ちゃんと起きて」
それがたけるへの私からの救援モードへの切り替え合図。
「そうだね明穂、僕はもう大丈夫だよ、ちゃんと生きてるよ」
「それが君専用のタブレット?」
その人はにっこりと笑って、勝手に私の前の席に座った。
「かわいいね、ピンクのうさぎのぬいぐるみ」
施設の貸し出しウェアを着ている。
歳は同じくらい。
ここは職場じゃないから、いつものように、詳細なPPを勝手に盗み見することができない。
「名前は?」
そう言って、彼はスマホを取り出した。
私の方にカメラを向けると、相手には私の情報が瞬時に伝わる。
「明穂ちゃんか、PP1630ね、俺のも同じくらいだよ」
彼はそう言って、今度は自分のプロフィール画面を見せてくれようとしたけど、私はたけるの背中のファスナーから専用タブレットを取り出して、彼の情報を見た。
自分で詳細な分析画面をカスタマイズしたタブレットだ。
竹島尚人、二十七歳、独身男性、PP1215。
ごくごく一般的かつ基礎的な公開情報。
これ以上の内容は、お互いにフレンド登録しないと公開の範囲が広がらない。
私とのマッチング結果、相性56%。
「すいません、私、相性70%以上の人としか、話さないようにしているので」
「そうなの? 俺は、50%以上の相手が近くにいたら、通知が来るようにしてるんだ」
にこにこしてるけど、PPが同じくらいというのも嘘だし、相性50%以上で通知が来るというのも嘘。
なぜなら、私の方が70%以上の人間以外は、アクセスブロックしているからだ。
「チートツールですか?」
「違うよ、それって違法だろ? 俺はそんな悪いことしてないし、もしそうだとしても、こんなところで堂々と言えるわけないだろ、そんなこと」
こういう人間には、なんて言ったらいいのか分からない。
適当に見かけの好みだけで話しかけてくるタイプだ。
PPの存在なんて、完全無視。
どれだけPPが進化しても、生身の人間の、個人の口から発する言葉までは制御できない。
つまり、『嘘』はいくらでもつけるのだ。
私は保身のためにタブレットは外に出したまま、たけるをぎゅっと抱きしめた。
「あれ? ここにはPP上げに来たんでしょ? 初対面の人間と円滑なコミュニケーションをとって交流係数増やすのも、PPアップの大事な要素って、知ってるよね?」
「もちろん、知ってます……」
全身が、凍ったように動かなくなる。
神経の末端が冷え切って、触感をもはや感じない。
舌の先が、異常に乾く。
「あー、人見知りするタイプだったかな?」
彼は困ったような素振りを見せた。
嘘つき、本当は困ってるんじゃなくて、私の態度に怒ってるくせに。
一般向けのアプリでは、フレンド登録でもないかぎり、彼の感情の起伏までは教えてくれない。
私はたけるを強く抱きしめることで、めまいと吐き気と、遠のいていく意識を何とか繋ぎ止めている。
「明穂さん!」
市山くんが、ようやく現れた。
「すみません、彼女がなにか、ご迷惑をおかけしましたか?」
「いえ、そんなことはないですよ」
市山くんの確かなPPに裏付けられた、コミュニケーション能力にウソやゴマカシはない。
本物だ。
とっさに出てくるそのセリフは、うまく相手に引き上げてもらうためのもの。
「すいませんでした。くつろいでいらしたところを、お邪魔してしまったようで」
「いえ、こちらこそ、お邪魔しました。ゴメンね、明穂ちゃん」
勝手に下の名前を呼んだその彼は、だけど素直に立ち上がって去って行く。
よかった。
ギリギリで間に合ってくれた。
もう少し市山くんが来てくれるのが遅かったら、私は息が出来なくなっていたかもしれない。
市山くんがその人の座っていた目の前の席に座って、息を一つ吐き出す。
私は急速に自分の体温を取り戻して、全身から汗が吹き出した。
市山くんなら間違いなく、あの人がずっとここに居座ったとしても、うまく助けてくれただろう。
「見て、凄い手汗かいちゃった」
「だから、一緒にやれるようにしようって言ったのに」
「それはそれで、なんか嫌なの!」
AIに急かされながら、必死の形相でふんばってる姿なんて、あんまり他人には見られたくない。
「たけるが苦しそうだよ」
そう言われて、私はようやくきつく抱きしめていた腕を緩めた。
「完全プライベートの施設もあったのに」
「でも、そういうところだと、知らないところだから、あんまり知らないところには、行きたくないし……」
「ま、僕に関しては、最初っからその男性恐怖症が発症しなかったのは、うれしかったけどね」
にこっと笑って、ウインクをしてみせるアイドル並の愛嬌と、白い肌に中性的な顔立ち、ぱっと気を利かせて話題を切り替える能力は、私にとってなによりもありがたい存在だった。
同じ職場に配属される人間同士のマッチング精度には、本当に感謝している。