ここへ来て2日目の朝、私は5時半に目が覚めた。静かにドアを開けてトイレへ向かう。あたりはまだ薄暗い。リビングのソファーでパパが頭から毛布をかぶって寝ている。音を立てて起こさないようにそっとトイレのドアを開けて中へ入る。
ここのトイレも快適だ。もちろんウォシュレットもついている。昨日は緊張していたせいかウンチがでなかった。私は小さいころから緊張すると便秘気味になる。パパはまだ寝ているしゆっくりできる。そう思ってじっくり待っている。
下を向いていたら、ドアが静かに開いた。顔を上げるとパパの驚いた顔があった。目が合った。瞬間、お互いに固まった。
きっとほんの一瞬だったと思うけど、時間が止まったような印象を受けた。「あっ」と声が出た。「ごめん」という声が聞こえた。
すぐにドアが閉じられた。
「ごめん。気が付かなかった。ごめんね。寝ているものとばかり思っていたから」
動転していて声がでない。すぐに内鍵をかけた。鍵をかけ忘れていた。
「ごめん。本当にごめん。勘弁して。これからは絶対にないから」
恥かしくて声が出ない。それに今出ていけない。もう少しで出そうだ。今しておかないと、もっとひどくなるのが分かっている。ここは頑張るしかない。
ずいぶん時間がたったような気がする。パパは私が返事をしないで籠城しているので声掛けをあきらめたみたい。もう少しこのままにしておいてほしい。
ようやくその時が来た。よかった。ほっとした。水を流すけど臭いが気になった。もう一度水を流す。鍵を開けて出て行った。パパはソファーで心配そうな顔をしていた。
「ごめんなさい。驚かしてしまって、鍵をかけていませんでした」
「こちらこそごめん、入っているとは思わなかった。照明がONになっていたけど消し忘れと思って気にしなかった」
「朝、目が覚めて、すぐにトイレに入りました。パパはまだ寝ていたので音がしないように静かに入りました。だから気が付かなかったのは当たり前です」
「気分を害した? 随分出てきてくれないので心配した。ごめん。本当にごめん」
「出てこなかったのは気分を害したのではありません。あのー便秘気味で時間がかかりました。それを中から言い出せなくて。だから気分を害したのではありません。気にしなくてもいいです」
「本当に?」
「本当です」
「よかった。返事をしてくれないし、出てきてくれないので、このままここを出て行ってしまうのではと心配した」
「ご心配をおかけしました。そんなことは絶対にありません。ここにおいて下さい」
「もちろん」
「私はこれまで緊張すると便秘気味になるんです。昨日は緊張していたんだと思います」
「久恵ちゃんを緊張させた僕の配慮が足りなかった。もっと気楽にいてもらえるようにするから、気の付いたことなら何でも言ってくれていいから、遠慮しないでいいから」
「それなら、トイレに入るときは必ずノックするようにしましょう。それと内鍵もかけるようにしましょう」
「分かった。そうしよう」
「崇夫パパも同じようなことがあったの。パパとママが結婚して一緒に住むようになった中学1年の時、今日と同じだった。パパは私と目が合って一瞬固まっていた。それからは必ずトイレに入るときはノックしていた。私とママが横にいる時でも」
「兄貴らしいな。これからは必ずそうするよ」
私の話を聞いてパパはほっとしたみたい。立ちあがってトイレの方に歩いてくる。今入られると困る。もう少し待ってほしい。ドアの前に立って入場を阻止するほかはない。
「しばらく待って下さい」
「どうして、出ちゃうよ」
「我慢して下さい」
パパは諦めてソアーに戻った。時計を見て15分ほど経過したので、トイレに入って確かめた。これなら大丈夫。水を念のため流しておく。「お騒がせしました」と言って部屋に戻った。
パパの驚いた顔、あんな顔するんだ。初めて見た。これからは必ず内鍵をかけておこう。
◆◆ ◆
午前10時に私の荷物が2トントラックで届いた。ダンボールが20個程と小さなテーブル、プラスチックの衣装箱が4個、机、椅子、本棚、小型テレビ、布団だけだ。
少ないと思っていたけど、部屋に運び込んでもやはり少ない。これならすぐに片付けられる。パパが荷解きと片付けを手伝ってくれるというのでお願いした。
「意外と荷物が少ないね」
「服はママと共用にしていたの。体形がほとんど同じ、靴のサイズも同じだった。お金に余裕がないのが身についていたのね。でも便利だった。だから、これがママの遺品です。着ているとママに守られているような気がします」
「来週の休日、久恵ちゃんの服を買いに行こう。僕も買いたいから」
「はい」
私は、大切にしている上半分が鮮やかな赤色の小さいグラスを本棚に飾った。
「とってもきれいなグラスだね」
「パパが『Little Lady』という名前をつけていたもので、私のイメージにそっくりだからと言って、渡してくれたものなの。アメリカ製の古いものだとかで、光が当たると、とてもきれいなの」
「この小さな赤いグラスを見ていると、兄貴が久恵ちゃんを愛しく大切に思っていたのが分かるよ」
「それから、このグラス、使ってください。パパの遺品です。パパがウイスキーを入れて飲んでいたものだけど、これも光が当たるととても綺麗です」
「ありがとう大切にするよ」
それから食器や調理器具をキッチンの棚にしまった。これで料理ができるようになった。
部屋に戻ると、荷物の後片付けをした。私は整理整頓があまり得意ではない。時間をかけてゆっくり行うことにした。
意外と時間がかかったので、昼食は朝食用のパンで済ませた。パパには冷凍食品をチンして食べてもらった。
3時近くなって、ようやく片付いた。最後の方は疲れてきたので、とにかく棚に全部しまった。リビングのソファーに座って休んでいたら眠ってしまったみたい。
気が付いたら毛布を掛けてもらっていた。パパがかけてくれたと思って、周りをみるとパパもそばで眠っていた。じっと覗き込んでいると目を開けたので、目が合った。
「眠っていた?」
「私も眠っていました。目が覚めたらそばでパパが寝ているから、寝顔を見ていました。よい夢でも見ていたの? にやにやしていたけど」
「夢? 見ていたかもしれないけど覚えていない。そんなにニヤニヤしていた?」
「そう、その証拠によだれを垂らしている。ほら跡があるけど」
パパは慌てて顎に手を当てた。よだれを確認してはにかんでいる。でも気を取りなおして話題を変えてきた。
「もう5時を過ぎているから夕食を食べに行こう。近くに美味しいカレー屋さんがあるから行ってみる?」
「カレーは大好きだから行ってみたい。それと調理器具や食器がそろったので、明日から食事を作り始めます。それで材料を仕入れてきたいです」
「それなら帰りにスーパーへ寄って食材を仕入れてこよう。でも無理をしなくてもいいからね、慣れてからでいいからね」
食事を終えた後、スーパーで二人では持ちきれないほどの食材を買ってきた。私はそれらを冷蔵庫と冷凍庫にきちんと片付けた。明日から食事を作ります!
◆◆ ◆
月曜日、パパは休暇を取ってくれていた。二人で蒲田にある調理師学校を訪ねた。私が面接を受けておかなければならなかったからだ。入学手続きはすでにパパが済ませてくれていて入学金や授業料の払い込みも済ませてあった。これで4月から通学ができる。
時間があったので蒲田の街を二人で見て歩いた。私は街の大きさに驚いていた。パパは私に負担がかからないように、夕食にお弁当を買って帰ろうと言ってくれた。
明日火曜日からパパは出勤する。私は3月中はマンションで家事の練習をすることになっている。お弁当を食べてから、明日からの一日のスケジュールを相談した。
5時少し前に目が覚めた。もう少しで目覚ましが鳴るところだった。すぐに起きなきゃ。今日からパパが出勤する。昨晩に打ち合わせたとおりに朝食の準備をしてあげなきゃいけない。
音のしないように部屋のドアを開けて、洗面所へ向かう。ドアの内鍵はかけていない。パパはかけておくように言っているけど無視している。洗面所で歯を磨いて、顔を洗って、部屋に戻り、軽くお化粧をする。
ママと同じで私は薄くしか化粧をしない。化粧品の節約のためにそうしている。ママもそうしていた。
すぐにお化粧は終わるので、キッチンへ行って、パパの希望の朝食を2人分作る。調理する必要がないからすぐに用意できる。パパがこれまで自分でしていた朝食だから、全く手数がかからない。
時間があるからリビングのテレビをつけて、音を出さないでニュースを見る。
5時半きっかりにパパが起きてきて洗面所で歯を磨いて、お髭を剃って、顔を洗う。それから部屋に戻って。出勤時のスーツ姿になって、座卓に座って食事を始める。テレビのボリュームを上げる。
「朝食の献立、それでよかったですか?」と聞くと、嬉しそうに頷いて食べている。私もそれで安心して食べ始めた。
「ごちそうさま。準備ありがとう。僕が朝食の準備をしてもいいけど」
「いえ、私の仕事ですから」
「まるでお嫁さんをもらったみたいだ」
「そう思っていてください。やりがいがありますから」
そう言って後片付けを始めた。パパはこれを聞いてどう思ったかしら。やはり悪い気はしなかったみたい。しめしめ、作戦どおり。
「今日から昼間は一人になるけど、大丈夫?」
「大丈夫です」
「来訪者が来たらモニターで十分に確かめてから、開錠してね。セールスは来ないと思うけど、必要ありませんと言って、相手にならないこと。そうすると帰っていくから。それと部屋を空けるときは玄関の鍵を必ずかけること。いいね」
「大丈夫です」
大事なことだから2度言っておくと言って、2度も同じことを言った。このフレーズどこかで聞いた?
分かっています。私は成人した大人です。まだ、中学生と思っているのかしら。でもこれを言うのはやめておいた。よっぽど私のことが心配らしい。ありがたい。これほどまでに心配してくれて嬉しかった。崇夫パパと同じだ。やっぱり兄弟だ。
丁度6時45分に出かけた。玄関で「いってらっしゃい」というと嬉しそうに出かけて行った。
◆◆ ◆
6時半に携帯にメールが入った。[今、自由が丘]
聞いていたよりも1時間も早い。ということは7時前には帰ってくる。でも夕食の準備はとっくにできている。今日はシチューにした。帰ってきてから温めても十分に時間がある。
玄関ドアの鍵を開ける音がする。すぐに玄関に跳んで行く。
「おかえりなさい」
「ただいま、いいにおいがするね」
「すぐに食事にしますか、先にお風呂に入りますか?」
「それとも、わ・た・し?」と言おうとしたけどやめておいた。新婚の妻だったらそう言うと思うけど、パパには冗談でも刺激が強すぎる。
「お腹が空いているから食事にしたい」
パパはすぐに自分の部屋で着替えて出てきた。
「初めての夕食はクリームシチュウにしてみました」
「美味しそうだ」
「食べてみてください。味はどうですか?」
パパはニコニコしてスプーンで一口食べてみてくれる。
「美味しい」
「よかった。美味しいと言ってもらえて。たくさんありますからお替りしてください」
美味しかったとみえて二回もお替りをしてくれた。昼からすぐに始めて時間をかけて工夫して作ってよかった。
後片付けを手伝おうかと言われたがもちろん断った。それで残念そうにソファーで私の後片付けを見ている。
「コーヒーをいれるけど、久恵ちゃんもどう?」
「いただきます」
「コーヒーの後片付けは僕がするから」
「お願いします」
後片付けが終わるタイミングに合わせてコーヒーを入れてくれた。パパは本当に几帳面な性格だ。入れてもらったコーヒーをソファーの隣に座って飲む。とっても美味しい。そういうとパパは嬉しそうにほほ笑んだ。
◆◆ ◆
いつものとおり、パパに先にお風呂に入ってもらった。私が上がって冷たい水を飲みにキッチンへ行くと、パパがソファーでうたた寝をしていた。座卓の上には飲みかけの水割りが置かれていた。
いつもは晩酌をしていると言っていたけど、私がここへきてからは出勤していなかったこともあるけど、お酒は飲んでいなかった。今日は久しぶりに出勤して緊張して疲れていたんだ。でもこんなところでうたた寝をしていたら風邪をひいてしまう。
「もう寝ましょうか?」
その声でパパは跳び起きた。言い方が刺激的過ぎた? キッチンにいる私をじっと見つめて、なぜ私が声をかけたか分かったみたい。
「久しぶりに出勤したので疲れた。そうしよう」
ソファーから起き上がって自分の部屋に入って行った。
次の土曜日は東京を案内してくれると、二人で渋谷まで買い物に出かけた。私の身の回りの小物や洋服、それに化粧品などを買ってくれると言う。
スクランブル交差点へきたけど、あまりに人が多いので驚いた。観光名所にもなっているというが納得した。
私のような若い女性向けのショップが多く入ったビルで店を見て回る。さすがにここではパパは場違いに見える。父親が娘とショッピングは今時ないと思うし、顔も似ていないのでどう見ても援助交際にしか見えないと思う。それを言うと、気にするから絶対に言わない。
その場違いを感じ取ってか、パパは私とは距離を取って歩いていて、私が気に入ったショップに入ると外で待っている。
気に入った白い長袖の薄手のワンピースがあったので、見てもらおうとパパを呼びに行った。
あれほど呼んではダメと言われていたのに「パパ」と呼んでしまった。それで店員さんがパパをじっと見ていた。きっと援助交際のスポンサーと思ったに違いない。これからは気を付けよう。
店員さんに断って試着させてもらった。着替えてパパに見てもらった。パパがOKのサインを出したのでこれに決めた。パパは私の足元を見ている。
「靴が合っていないね。せっかくのワンピースが映えない。靴も買ったらどうかな」
「私は靴には無頓着でこのほかにも歩きやすいので気に入っているのが5足ありますから、帰ったら合わせてみます。大丈夫です」
「そう言わないで、靴は何足あってもいいから」
そうまで言われたので、ヒールが高めの白いシューズを買ってもらった。私は小柄だからパパと並ぶと肩までしかない。でもこれを履くとかなり背が高くなったように感じるので二人で歩くときのために、これに決めた。せっかく買ってもらったのだから足慣らしのためにもそのまま履いて帰ることにした。
今度はパパのシャツを探しに行った。パパは昔から目立つのが嫌いで、着るものも地味な色やデザインのものにしていたと言っていた。私から見ると実際よりも老けて見えてオジサン臭くていやだった。せっかくのイケメンがこれではもったいない。
「私と一緒に歩くときはもっと若い人が着ているようなものにしてくれないと恥ずかしい」と言って、若々しい派手な色遣いのシャツを選んであげた。当ててみると今着ているものよりもずっといい。本人もそう思ったみたい。
ズボンも選んであげた。シャツと合わせて着るととても若々しく見える。パパは私が選んだ若者向けのシャツとズボンを気に入ってくれて購入した。
それから、私のために流行りの化粧品を店員さんに選んでもらって買ってくれた。使い方も指導してもらった。可愛く綺麗にしていてほしいというパパの気持ちが分かったので熱心にそれを覚えた。
買い物がひととおり済むと、パパは会社の同じ部の女性に聞いたという表参道のヘアサロンへ連れて行ってくれた。
上京した時に私が髪をポニーテイルに束ねているのを見て、どうしているのか聞かれた。自分で適当にカットしていると答えておいた。ママが生きているときはママが私の髪をカットしてくれていた。サロンに行くと高いからだった。
「好きな髪形にしてもらうといいよ」
「思い切ってショートにしてみたいです。学校へ行ったら髪が長いと調理するときに何かと不都合だと思っています」
「そうだね、それがいい。ショートの久恵ちゃんも見てみたい」
どんどん髪がカットされていく。慣れた手つきでどんどんカットが進む。鏡の中の自分が今までとは全く違った自分に変わっていくのに驚いた。さすが表参道のヘアサロンはセンスがいい。
出来上がったので、パパが見に来た。パパの私を見る目が変わったのに気がついた。ジッと鏡の中の私を見ている。男の目を感じる。
「少しは綺麗になった?」
「とってもチャーミングだ」
パパはすごく嬉しそうだった。それは私以上だった。間違いない。
◆◆ ◆
「こんなに買ってもらってありがとう」
帰りの電車の中で改めてお礼をいった。
「久恵ちゃんは『プリティ・ウーマン』という映画見たことある?」
「テレビで見たわ」
「コールガールが若きやり手の実業家の富豪と知り合い、妻になるというシンデレラストーリー。大ヒットしたけど、あの映画は男の目線で作った男のロマンを描いたもの。素質のある女性を自分好みの理想の女性に育てるという。女性に人気があったけど、男性が見ても共感できる。ジュリア・ロバーツが素晴らしい変身を見せた。映画に出てくるホテルの支配人が今のおじさんだ。おじさんも久恵ちゃんをもっと素敵な女性にしたい。素敵な男性が見つかるように」
「ありがとう、期待に沿えるかわからないけど」
でも、ちょっと違うと思う。だからあえてそっけなく答えた。
窓の外を見ると沿線は桜がもう満開近くに咲いている。
「桜がきれいだね」
「お花見がしたい」
「じゃあ、明日、近くの洗足池公園へお花見に行こう。あそこは桜の名所だ」
「朝の天気予報では明日は朝から雨と言っていたと思うけど」
パパがスマホで天気予報を調べると確かに明日は朝から雨模様となっていた。
「明日雨が降ると桜が散ってしまうね。来週まではもたないし」
「諦めます」
「それなら今晩、夜桜見物にいかないか?」
「夜桜見物?」
「あそこは夜桜見物もできる。昔、近くの独身寮にいた時に行ったことがあるから」
「夜桜見物に行きましょう」
マンションに戻ると一休みした。私は買ってもらったものを部屋で片付けた。それから駅前で買ってきたお弁当を二人で食べた。
私は素早く出汁を取ってお味噌汁を作った。このお味噌汁がとてもうまいとパパはお替りをしてくれた。これで夜桜見物の準備は完了した。
6時を過ぎると暗くなってきた。春になったとはいえ、夜は冷えるから少し厚着をして出かけることにした。
マンションを出て大通りを公園の方に歩いて行くことにした。パパは「電車で行ってもいいけど、ここからは歩ける距離だし、時間もそんなに変わらない。どうする?」と聞いてきた。私は歩きたいと答えた。
マンションを出るとすぐに私はパパと腕を組んだ。そのために買ってもらった高いヒールの白い靴を履いてきた。これを履くと背が高くなって腕が組みやすいと思ったからだ。
パパが私の方を見るけど、もう知らんぷりで当然のことのように腕を組んでいる。パパも悪い気はしなかったようでそのままにしている。いい感じで二人は歩いて行った。
12~3分で公園に着いた。思っていたよりも人が多い。ゴーというような音がする。人ごみの音だ。
桜が満開で照明に映えてとても綺麗だった。人が多いからもう腕を組んで歩けない。それでも手を繋いで桜を見上げながら公園を一回りする。
「すごい人だね」
「東京はどこへ行っても人が多いですね」
「でもそれが当たり前になると、だんだん人ごみに慣れてくる。人が多いと何故か安心感があるから不思議だ。皆と同じことをしているという安心感かもしれないね」
「私も慣れてくるかしら」
「自然と慣れてくる。そのうち都会の生活が良くなってくるから」
「私も都会の絵の具にすっかり染まってしまうのかしら」
「良しにつけ悪しきにつけ、染まらないと生きていけない。でも大丈夫だから、僕が久恵ちゃんを守ってあげるから」
「パパは結婚しないの? 誰か良い人いないの?」
「いない。この歳になったから、もう考えないことにした。マンションを買ったのも一人での老後に備えるためだったから」
「そうなんだ」
なにげなく、聞くことができた。前からそうは思っていたけど、パパにはいわゆる彼女はいないことが確認できた。よかった! これで私の努力次第でどうにでもなる。それにパパは私のことが気になっているのは間違いない。
そんなことを考えていたら、石に躓いて転んだ。足首が痛い。パパが驚いて手を差し伸べてくれる。手につかまって起き上がろうとするけど足首が痛くて起き上がれない。
「大丈夫か?」
「足首が」
「捻ったかな、捻挫したかもしれない。いつもよりヒールが高かったからね」
何とか起き上がらせてもらったけど、足首が痛くて歩けない。パパが困っている。するとパパが私の前に背中を向けてかがみこんだ。
私はパパが何をしようとしているのかすぐに分かった。さすがパパ、私の保護者、いや守護神。しっかりと背中に抱きついて首に腕をまわす。パパの背中は大きくて温かい。
パパは私の太ももをおそるおそる手で抱えてゆっくりと立ち上がった。周りの人が一斉に何事かと私たちを見ている。恥ずかしいので顔を背中にくっつけた。パパがゆっくり歩き出した。そんなに重くは感じていないみたいで安心した。
しばらく歩くと私も周りを伺うゆとりができてきた。パパが私をおんぶして歩いているので、行く先の人は何だろうと道を空けてくれる。だから割りとスムースに歩けている。大事におぶられているというこの何とも言えない安心感に浸っている。
ようやく大通りが見えるところまできた。ここまでくると道も混んでいない。もっとおぶられていたい。
「もうすぐ大通りだ。大丈夫か? すぐにタクシーを拾うから」
「大丈夫です」
「歩いてみる?」
「このままおんぶして行って下さい」
「分かった」
ようやく大通りに着いた。私を下ろしてタクシーが通りかかるのを待っている。私はパパに摑まって立っている。
ようやくタクシーが捕まった。私を先に乗せてパパが乗り込んでくる。そして段差の少ないマンションの裏口までの道順を説明している。
着くまでの間、私は黙ってはパパに寄り掛かっていた。パパはずっと私の肩を抱いていてくれた。
ようやくマンションの裏口に到着した。パパが先に降りて私が降りるのに手を貸してくれた。タクシーが戻って行った。何とか、たどり着いた。
私は無理すれば歩けたけど歩かなかった。立ったまま待っていた。私はパパがどのくらい私のことを心配してくれるか試そうとしていた。パパがしょうがないなあというような顔をして背を向けてかがみ込んだ。しめしめとしっかり抱きついた。
エレベーターに乗ってようやく部屋までたどり着いた。結局ソファーまでおんぶしてくれて座らせてくれた。
「大丈夫か?」
「捻挫したみたいです」
「今日は土曜日でこの時間だから、このままここで手当てして様子を見よう」
「手当てしてください」
「まず、氷で冷やそう。それから湿布する。今日はお風呂はやめておいた方がいい。下手に入ると悪化するから」
「そうします」
パパはすぐに氷を持って来て濡れタオルで包んで足首に巻いて冷やしてくれた。それから自分の部屋に戻って湿布薬を持ってきてくれた。足首が冷えたところで、湿布薬を張って、その上からまた氷で冷やしてくれた。なかなか手際がいい。
それから私のためにいつものようにコーヒーを入れてくれた。至れり尽くせりだ。
「これで一応の処置をしたから様子を見よう」
「ありがとうございました。私の不注意でした。はしゃいでしまってご免なさい」
「いや、今日は渋谷に出かけたり、夜桜見物に歩いて行ったりして、それに新しい靴だったから、疲れて足に負担がかかったからだと思う。僕の配慮が足りなかった」
「おんぶしてもらって嬉しかったです」
「いや、いいんだ、こちらこそ」
こちらこそ? あとは私が気にすると思って言わなかったが、私の太ももを抱えていたことや背中にお乳が当たっていたことがよかったみたい。おんぶしてもらったので、それくらいのことがないと申し訳ない。
私のお乳は大きくはないが小さくもない。ほどほどの大きさはあると自負している。形も悪くないと思っている。おんぶしてもらった時、胸を離そうとはしないで、それができるだけパパに分かるように背中に押し付けていた。パパは相当気になったと思う。ちょっとやりすぎたかなと思うけど、これくらいの刺激がパパには丁度良い。
◆◆ ◆
日曜日はやっぱり朝から雨だった。やはり昨晩、夜桜見物に行っておいてよかった。朝、目が覚めて、起き上がって足の具合を確かめていると、パパがドアをノックした。
「今日一日、僕が食事を作ってあげるから安静にしていて」
「すみませんがお願いします」と答えた。足の具合は悪くはなかった。痛みもほとんどなく歩いても気にならないくらいに回復していた。パパの応急手当てがよかったからだ。でもお言葉に甘えてそうさせてもらうことにした。
今回の捻挫では、図らずもパパの私への気持ちを試すことになった。でも私のために一生懸命におんぶも手当てもそれに食事の用意もしてくれた。大切に思われている。それがとっても嬉しかった。
私がここへ来てからもう3週間ほどになる。調理師専門学校にも慣れて、家事もなんとかこなしている。パパは毎日機嫌が良い。食事も美味しいと言って食べてくれている。
新婚生活ってこんな感じ? やっぱりちょっと違うかな? あまりドキドキ感がないし、当たり前だけどHもない!
もともと私とパパは性格が似ていると思っていたけど、一緒に生活して違うところもあることが分かってきた。
倹約家で、ものを無駄にしない、無駄なものを買わない、ものを大切にする。これは私と同じ。ケチとは違う。お金を出すべきところは思い切ってしっかりと出す。「出す必要のないものを出さないのが倹約、出すべきものを出さないのがケチ」とか言っていた。同感。
それからせっかちなところ、私もせっかちだけど、それ以上だ。今相談していたことをすぐに実行に移す。決まったことはすぐにしないと気が済まないようだ。
それから綺麗好き。ただ、私ほどではない。目に見えるところはとても気にするが、自分の部屋でも見えないところに結構ほこりが溜まっている。
それからシャツなど汚れていないと1回着てもすぐに洗濯しない。でもそれを言うとしぶしぶ洗濯に出してくれる。私は1回着ると洗濯しないではいられない。
理由を聞くと、あまり洗濯をすると生地が傷んで長持ちしないからと言っていた。まあ、一理ある。私はしょっちゅう洗濯するからブラウスでも早く着られなくなることがある。
それから、整理整頓が上手というか、片付けがうまい。きちっと論理的に並べていると言うか整理している。だから、すぐに探し物が出てくる。要領を聞いたら、分からなくなったら、自分だったらどこに片付けるかを考えるそうだ。そしてその場所を探すそうだ。
私にはまねできない。私は綺麗好きだけど、整理整頓や片付けは大の苦手だ。下着でも綺麗にたたむところまではできるのだが、それを種類別に分けてしまうことが苦手だ。
私の衣装箱を一見すると綺麗に入っているが、種類は順不同になっている。でもそれが不規則なりに繰り返されているので、実際にはそんなに困らない。
でもパパはそんな私に小言も言わずに整理や片付けを手伝ってくれる。ありがたい。私にはここでは大切にされている、守られているという安心感がある。
でもちょっとドキドキした間違いがあった。朝起きてトイレに入ったら、下ろした下着がなにか違う。よく見たらパパのブリーフだった。それも後ろ前に履いていた。
昨晩、お風呂に入ったときに、洗濯したものと着替えたけど、気が付かなかった。ただ、少し緩いなと思っただけだった。ゴムが緩んだとしか思わなかった。そういえば夜中、お尻のあたりがいつもの感じと違うと思っていた。
へへへと思わず笑ってしまった。いつ、どうしてパパのブリーフが私のところへ混入したか分からなかった。確かに分かっていればこんなことは起こらない。
すぐに部屋に戻って自分のものと履き替えた。そしてすぐに洗濯機を回した。よくよく考えてみると、パパのが1枚、私のところへ混入したとすると、私のが1枚、パパのところへ混入したかもしれない。でもパパは何も言っていなかった。
パパが出勤した後にパパの部屋に入って、初めてパパのクローゼットを開けた。記帳面なパパらしく綺麗に整理整頓されている。
すぐの下着のプラケースが見つかった。開けてみると整然と下着が入っている。ブリーフもきちんと整理されて入っていた。
ただ、私の下着は見つからなかった。まさか、パパが気付かないで履いて行ったはずはない。でもあり得るかもしれない。私も気づかないで履いていたから。確信はもてなかった。それなら、何か言ってくるだろう。
残念ながら私は自分の下着の枚数を把握していなかった。1週間分7枚くらいはあったと思うけど定かではない。それまで待っていればいいことだし、謝ればすむこととだ。
◆◆ ◆
すっかり、忘れていた。間違えたことが分かった翌日に洗濯が終わって、ベランダで干していると、私の下着が2枚あった。確か昨日は1枚しか着替えなかったはず。1枚はどこから出てきた? 先日の洗濯の際に取り出すのを忘れて残っていた? そんなはずはない。昨日は1枚畳んでしまったのを覚えている。
ということは、パパが出した? でもパパのブリーフはちゃんと1枚ある。どこからか1枚出てきた。考えてみるとパパしか考えられない。きっと間違えたことが分かって、私がいやな思いをしないように、分からないようにしたんだと思う。聞いてみてもきっと知らないと言うと思う。
でもそれから1か月くらい後になって、パパは何を思ったのか、白のブリーフを黒のボクサー型のパンツに徐々に買い替えていった。ほとぼりが冷めたと思ったのだろう。そのとき私はパパも私のものを間違えて穿いたんだと確信した。
でもパパらしい。私が嫌がると思って気を使ってくれたんだ。それまで私のことを大切に思っていてくれることが嬉しかった。だからこのことは気がつかなかったことにしておこう。
今日、パパは仕事で帰りが遅いといっていた。おそらく午前様になるから先に寝ていてくれればいいと言っていた。
こんなに遅くなることは初めてだった。同居生活を始めてから7時前後には帰ってきていた。たまたま仕事で遅くなってもせいぜい8時ごろだった。
私が食事をしないで待っていてくれるから悪くて早く帰るようにしているのだとか。新婚さんはこういういう感じかなとか意味深なことを言っていた。
パパは私のことをどう思っているのかはっきり分からない。父親代わりとして、私の面倒を見てくれているし、可愛いと思ってくれているのは間違いない。だって、洋服を何着も買ってくれたし、ヘヤサロンにも連れて行ってくれた。
髪形をショートにした時に私をジッと見た目は確かに男の人の目だった。それに私がパパと呼んで良いかって聞いたときに、一瞬見せた寂しそうな表情、あれは何なの? 私を一人の女性としてみてくれているの?
私は元々パパが大好きだった。私好みのイケメンで、初めて会った時から叔父さんというより男性として見ていた。血のつながった叔父と姪は結婚できないけど、全くの他人だから当たり前だと思う。
事故があるまでは数えるほどしか会っていないけど、素敵な人と思っていた。だから、東京へ来て一緒に住まないかと言われた時は嬉しかった。
でもパパは私のことを大切にするだけで、手は繋いでくれても、自分からは指一本触れてこない。私の部屋には絶対に入ってこない、ノックするだけ。話すときもドア越しだ。
でもお風呂上りの私を見る目、あれは男の人の目だ。もし、パパが私を押し倒して、求めてきたら、どうする? 少し抵抗して受け入れる? そんなこと絶対に起こらないと思うけど、受け入れると思う。そんなこと考えていたら、眠ったみたい。
夢うつつの中で、私の部屋のドアが開く気配を感じる。誰かが布団をまくって布団の中に入ってきて私に覆いかぶさる。夢を見ているの? 夢じゃないと分かると、とっさに恐怖感から「ギャー」と奇声を連発してしまった。
でも少し変、覆いかぶさるだけで、何もしない。体重が私にかかる。アルコールの匂いがする。それにこれはパパの匂い? 酔った勢いで私の部屋に?
布団の中でドタバタしていると、外から玄関ドアをたたく音がする。隣の住人がマンションの警備会社へ連絡したので、ガードマンが急遽到着した。合鍵を使って部屋に入って、その侵入者を取り押さえた。
明るくなるとやっぱりパパだった。その後、パトカーが来るやらで一騒動になった。
私は驚くやら恥ずかしいやらで、どうしてよいか分からず、泣き出してしまった。私が泣いたことによってますますパパの立場は悪くなった。
パパは酔って間違って前に自分が使っていた部屋に入ったと言い訳をしているけれど、全く聞いてもらえない。こうなった状況からはDV(ドメスティックバイオレンス)か何かがあったと見られて当然だ。
それにパパと私の関係を聞かれていた。義理の姪だと答えていた。間違いがないけど、この状況ではなおさらDVを疑われる。
お巡りさんが私に事情を確認するころには、私も状況が呑み込めて、事の重大さが分かってきたので、パパの勘違いと私の思い違いをなんとかうまく説明できた。
お巡りさんは何度も私に本当にDVはなかったのか、そういうことで間違いないかと確認していた。私が何度も否定したこと、でようやくお巡りさんも納得したみたいで、パパは解放された。もう酔いはすっかり醒めたみたい。
ガードマンやお巡りさんが引き上げていった。ようやく平穏が戻った。疲れがどっと出た。パパはうなだれてぐったりしている。
「申し訳ない。酔っていたとはいえ、以前の自分の部屋と間違えたことは、全く迂闊だった。誤解しないでほしい。信じてほしい」
パパは手をついて謝ってくれた。
「始めは本当に不審者が入ってきたと思ったから大声を上げてしまいました」
「本当に驚かしてごめん」
「でも、でも少し変だったの。覆いかぶさるだけで、何もしないし、アルコールの匂いがしました。それにパパの匂いがしたから、酔った勢いで私の部屋に入ってきたと思ったの」
「ごめん、本当に自分の部屋と間違えたんだ」
「パパだと分かってからは、驚くやら恥ずかしいやらで、泣いてしまって」
「本当にごめん」
「それに部屋の内鍵をかけていませんでした。こういう間違いも起こると分かったので、これからは必ず鍵をかけます」
「そうしてくれると安心だ。でも二度とこういうことがないように気を付けるから」
「事情はよく分かりました。パパは疲れているみたいだから、もう寝てください」
「ああ、そうさせてもらうよ。おやすみ」
「私も寝ます。おやすみなさい」
その後、お互いに気まずさを感じながらも疲れて就寝した。
次の朝、パパはひどい二日酔いになった。
「酔っぱらいには本当に手数がかかりますね。身体に悪いのでこれからは飲みすぎに注意して下さい」
「今回のことで、身に染みて分かった」
それで朝食にお粥を作ってあげた。パパは、照れくさそうに「美味しい」と言って食べてくれた。
いつもより2時間遅れて、近所を気にしながら二人一緒に出かけた。なんとかお互いに信頼関係を修復できたみたいでほっとした。
でも、泥酔して無意識で私の部屋に侵入したのは、パパの心の片隅にそういう思惑があったのかもしれない。もしそうなら正々堂々ときてほしい。やっぱり無理かな?
パパの今日の予定は同僚と飲み会と聞いていたけど、8時前には帰ってきた。私は帰りが遅いと思って先にお風呂に入って丁度上って着替えたところだった。
「ただいま」
「おかえりなさい。夕食はパスで良かったですね」
「同僚とビヤホールで済ませた」
「飲んだのに早かったね」
「この前の失敗があるから早めに切り上げたんだ」
玄関に迎えに出た時から、パパはなぜか私と目を合わせない。何かを隠そうとしている? うしろめたいことでもあるの?
ひょっとすると、飲み会の相手は女性? カバンを持って後ろを歩くといつもとは違うような匂いがするので、鎌をかけてみる。私は匂いには結構敏感な方だ。
「パパ、同僚は嘘でしょ。女の人の匂いがする。女性の同僚?」
「ええ!」
驚いているので、図星かな?
「洗濯しているから分かるの」
「そんな匂いする?」
困った顔をしている。
「好きな人がいるなら、はっきり言って」
畳みかけて聞いてみる。パパがおどおどしている。ますます怪しい。
「本当に今日は男性の同僚と飲んでいたんだ。好きな女性や付き合っている女性なんかいない。し・し・しいていえば、久恵ちゃんだよ」
「本当?」
「誓って」
真顔になっている。これは信用してもいいかな?
「私、マンションでは妻ということになっているのでお忘れなく。浮気は絶対にダメ!」
私が続けさまに問い詰めるので、パパはすごく困った顔をしていたが、好きな女性は私と言ってくれたことが嬉しかった。そして、浮気は絶対ダメと言ったら真顔になっていたけど嬉しそうだった。
でも、何かいつもと違う。お酒を飲んでいるからか、浮き浮きしているように見えるんだけど。なんていうか顔が緩んで満ち足りた感じ? お酒を飲んで、憂さ晴らしをしたから?
それから、パパは自分の部屋でスーツを脱いで、急いでお風呂に入った。怪しいと言われた匂いを消すため? まあいいかな、好きな女性は私と言ってくれたからと部屋に戻った。
パパは女の人をほしくならないのかしら。ソープランドへでも行っている? あの真面目なパパがありえない。
そういえば、2週間ほど前に夜中にトイレに起きたら、パパの部屋からうめき声が聞こえたので、パパに何かあったのかなと、ノックして大丈夫と聞いたら、返事がなかった。
心配なのでドアを開けると暗がりの中でテレビがついていたけど、真っ黒なビデオの画面だった。パパは布団をかぶって寝ていた。「呻き声がしていたので大丈夫?」と聞いたけど「大丈夫だから」と言っていた。
あのときHビデオでも見ていたのかもしれない。気になるから、今度、パパのいない時にこっそり探してみよう。
◆◆ ◆
次の日、夕食の準備が終わったので、ソファーで一休みする。パパが帰るのは7時前後で、まだ時間があるので、こっそりパパの部屋を探検することにした。
見られたくないものを隠す時のことを考えるとありそうな場所は大体想像がつく。プラスチックケースの中は工具だった。本棚の引出しの奥には貯金通帳と印鑑があった。クローゼットの棚の奥の方にプラスチックのケースが並んでいるのを発見した。
DVDのケースが30枚くらい、背中を向けてタイトルが見えないようにきちんと並べてある。ケースの写真を見るととても見ていられない恥ずかしいものばかり。でもどういう訳か、パパをいやらしいとは思わなかった。それよりやっぱりパパも男なのねと安心した。
私に見つからないように隠したんだ。知らないふりをしておこう。それより、時間を見つけてこっそり見てみたい。
今日、パパは同期会があって帰りが遅くなるから食事は不要で、2次会まで行くから帰り時間は11時を過ぎるかもしれないと言っていた。
8時を過ぎているけど、お風呂にも入って、ほかやることもないし、時間は十分にある。パパの隠してあったHビデオの鑑賞会をさせてもらうことにした。
クローゼットを開けて隠してあったビデオを取り出して、品定めをする。短大のころ、仲の良い友達の家へ遊びに行ったときに一度だけ見せてもらったことがある。その時は恥ずかしいこともあり、しっかり見ていなかった。
タイプ別に並べてある。パパの几帳面さはこんなところにも出ている。一巻一巻内容を確かめる。ケースの写真を見ると恥ずかしいものばかり。私には刺激が強すぎる。見たことが分からないように元あった場所に戻す。
まず始めは無難なものを選んだ。DVDレコーダーの取り扱いはすぐに分かった。所要時間は120分と書いてあるので、時間は大丈夫だと思う。パパの部屋は狭いので壁に寄り掛かってみるのに丁度良い。
もう真剣に見てしまった。肝心な大切なところはぼかしてあるけど、間違いなくしていることは分かる。私にはあんなこと、とても無理だ。2時間はあっという間に過ぎた。緊張して見ていたせいかすっかり疲れた。
丁度終わりかけの時に、廊下を誰か歩いてきて部屋の前で止まったみたい。パパ? そう思っていると、玄関の鍵を開ける音がする。何で今帰ってくるの?
まずい! 急いで部屋を出て玄関へ迎えに行かなくてはならない。すぐにビデオレコーダーとテレビを消した。DVDのケースをテレビの裏に隠すと慌てて部屋を飛び出した。足がもつれる。
「お、おかえりなさい。洗濯物を片付けていました」
「ただいま、2次会が中止になったから帰ってきた。行きたい人がほとんどいなくて」
「そうですか、酔いを醒ましてからお風呂に入った方がいいですよ」
「分かった」
パパはすぐに自分の部屋に入って行った。酔いを醒ましてから入るのかと思ったけど、すぐにお風呂の用意をして浴室に入った。
お風呂に入ったのを確かめてから、すぐにパパの部屋に入った。ビデオレコーダーからDVDを取り出してテレビの裏に隠しておいたケースに入れてクローゼットの元の場所に戻した。ほっとした。これでバレない。
パパが上機嫌でお風呂から上がってきた。見れば分かる。分かりやすい人だ。今日は良いことあったのかな?
「今日はゆっくりでしたね。私の入った後だからぬるかったでしょう。ごめんさない」
「い、いや、ゆっくり入れてよかった」
上がってきたところに私が突然声をかけたので、パパはびっくりしたようで急いで部屋に入って行った。そういえば、私の後にお風呂に入った時は、概して機嫌がいい。私のあとに入って私の裸でも想像している。だとすればパパは変態かも?
部屋に戻って、しばらくして私は大変なミスに気付いた。テレビをビデオ画面のままにして、もとに戻すことを忘れていた。パパがニュースでも見たら気が付くかもしれない。でもDVDは片付けたから、気が付かないとは思う。
◆◆ ◆
次の朝、パパが出勤してから部屋に入ってテレビをつけてみた。ビデオの画面になっていた。ホッとした。すぐに戻しておいた。パパが気付かなかったことを確信した。
それから、パパには帰るときにはメールを入れてくれるように頼んだ。特に帰り時間が予定よりも早くなる時には必ずメールを入れてくれるように言っておいた。これで安心して鑑賞できる。
30巻の中にはソフトなものから非常に過激なものまでいろんなタイプのものがそろっていた。私はそのほとんどを見ていった。だんだん慣れてきて平気で見られるようになった。私って変態?
Hビデオを見過ぎたために私は気持ちが大胆になってきていたのかもしれない。私はパパを挑発してみたくなっていた。
パパが私に関心のあることはよく分かっている。私を見ないような振りをしているけど、いつも私のことをじっと見ている。時々、パパの方を見るとあわてて視線を逸らすことが多い。あれは私を見守っている父親代わりの目ではない。明らかに男の目だ。それは直感的に分かる。
でもじっと見ているだけで、私に決して触れたりはしてこない。私の部屋にも絶対に入ってこない。一歩近づくと一歩離れて一定の距離を保つタイプだ。きっと我慢しているのだと思う。だから試してみたくなった。
今まではお風呂に入ったら、浴室でパジャマに着替えてから部屋に戻っていた。でも最近はパパがリビングにいないことが分かると、バスタオルを身体に巻いたまま、部屋に戻っていた。
昨日、パパが自分の部屋にいることが分かったから、バスタオルを身体に巻いたまま、部屋に戻ろうとした。その時、パパが部屋から急に出てきて鉢合わせした。一瞬二人とも固まった。
パパは目のやり場がない振りをして、しっかり見ていたので、私は「見ないで!」と言ってすぐに部屋に入った。さすがパパ、一瞬を無駄にしない。しっかり見ていた。
見たいのなら見せてあげようと思って、次の日からパパがリビングにいても、堂々とバスタオルを巻いたままで、部屋に戻ることにした。
パパとしては目のやり場がないとは言いながら、黙ってしっかり見ているに違いない。これは間違いない。そこで突然振り向いた。やっぱりじっと見ていた。慌てて目を逸らす。でも手遅れ。
「見ないで!」
へへと勝ち誇ったように私は部屋に戻った。私ってそんなに色っぽい? 魅力的? 女を感じる? すぐにパパがドアをノックする。
「ごめんね、見ないようにするから」
「気を付けてください」
これに味を占めて、もう少しエスカレートしてみる気になった。部屋に戻るとき、ゆっくり後ろを振り向いてパパの視線を確かめる。パパはすぐに視線を逸らす。でも私が前を向くとすぐに視線を戻すことは分かっている。それで急にもう一度後ろを振り向く。やっぱ見ていた。
「見ないで!」
そう言うと、背中を向けてバスタオルを両手で開いた。後ろでパパが唖然としている様子が気配で分かった。私はバスタオルを両手で開いたまま、悠然と部屋に戻った。面白かった。
パパがすぐに部屋の前まで来てドアをノックして言った。
「あまり僕をからかわないでくれないか? 今度したら我慢できなくなって襲い掛かるかもしれないよ」
「見なきゃいいでしょう」
でも思った。ひょっとすると本音かもしれない。これ以上挑発したらパパの理性は持たないかもしれない。
それからしばらくの間は、私がお風呂に入ったら、パパは自分の部屋にいて、私がお風呂から上がって部屋に戻るまでは部屋から出てこなくなった。
それなら見るようなこともないし、挑発にも合わないと思ってのことだろう。そうすれば襲い掛かることもない。あれは本音だった?
◆◆ ◆
金曜日の晩、パパが好きなアクション映画がテレビ放映される。自分の部屋のテレビは中型で迫力がないから、アクション映画放映の時にはいつもリビングの大型テレビで見ている。私はアクション映画があまり好きではないので、お風呂に入った。
私はいつものようにお風呂からバスタオルを身体に巻いて出てきた。パパが私のことを気にも留めないで、テレビに夢中になっているのが気に入らなかった。そのまま冷蔵庫にペットボトルを取りに行った。パパの視線が私に向かったのが分かると、背中を向けてまた両手でバスタオルを開いた。
パパが「久恵ちゃん」と言ってソファーから立ち上がろうとするのが分かった。それが分かると私はあわてて部屋へ戻ろうとした。でも今回は手にペットボトルを持っていたのと、風呂上がりで足が濡れていた。滑ってバランスを崩して浴室の前の廊下で転んだ。太ももが、お尻が露わになる。
パパはソファーを立ち上がって私のところへ来ようとしている。いやだ。私はお尻を手で隠して廊下を這って部屋に向かう。濡れている足が滑る。
パパが「大丈夫?」というのと私が部屋に入ったのは同時だった。部屋の前まで来てもう一度「大丈夫?」と声をかける。私は内鍵をそっとかけた。パパは入ってこようとしなかった。ほっとした。
「お尻は大丈夫だけど、足を捻ったみたい」
「見てあげる」
「ちょっと待って」
パジャマを着てからドアを開いた。
「ほら、言わないことじゃない。僕をからかうからだ」
「パパが本当に襲い掛かってくると思ったから慌てた」
「冗談に決まっているだろう。信用がないな」
足首に触って動かした感じではそれほど重症でもなさそうだった。パパは湿布薬を持ってきて足首に巻いてくれた。歩くと少し痛いけど大丈夫だと思った。
私はそうなることを決心して、パパを挑発していた訳ではないことが分かった。その証拠に本気だと思って慌ててしまった。でもそうなることも期待して始めたことなのに、自分の気持ちがよく分からなくなった。
そのことをよくよく考えてみると、襲い掛かかられてパパのものになりたいというより、優しくされてパパのものになりたいのだと思った。
それから私は挑発を止めなかったが控えめにした。やっぱり見られてないと寂しいし、いつも私をじっと見ていてほしい。