4月の朝、5時に目覚ましが耳障りの悪い音を鳴らす。ギリギリまで寝ていたい私は目覚ましを起きる時間きっかりに合わせている。
まだ薄暗いけど、すぐに起きなきゃ。私は家事をして学校へ行かせてもらっている身、寝過ごすことはできない。部屋のドアをそっと開けて洗面所へ向かう。ドアにカギはかけていない。
パパは私に夜は部屋の鍵をかけておくようにと言っているけど意味不明。自分への戒め? 私の部屋に押し入って私を無理やりなんて考えることでもあるのかしら? それの裏返し? それなら堂々と入ってきてほしい。
私はもうここへ来ると決めたときにとっくに覚悟はできている。いや、そうなってほしいとさえ思っている。私はパパのお嫁さんになりたいと思っていた。ここへ来るときの決心は今も少しも揺らいでいない。
洗面所でも音がしないように歯を磨いて顔を洗うと、すぐに部屋に戻って身支度を整える。それからキッチンで朝食の準備をする。
朝食はトーストにマーガリンを塗ってブルベリージャムを載せたもの、牛乳、6Pチーズ、プレーンのヨーグルトにフルーツゼリーを加えたもの、リンゴとバナナ。
一人で生活していた時と同じにしてほしいと言われて準備している。免疫能が上がる健康を考えての献立だとか。今の会社の研究所にいたことがあると言うけど本当にそうなの? 私の好みの1人分を別に作るのも面倒なので、これを二人分用意している。
5時半になるとパパが起きてくる。洗面所で歯磨き、お髭を剃り、顔を洗ってから、部屋に戻ってスーツに着替えて、リビングダイニングに来て、二人で朝食を摂る。
「おはよう」
「おはようございます」
「パパの今日の予定は?」
「今日は記者クラブとの交流会で遅くなります。2次会まで付き合う予定だから帰りは午前様になるかもしれません。夕食はパスでお願いします」
「了解」
「久恵ちゃんの予定は?」
「学校の友達と帰りにショッピングに行く予定です。7時前には帰ってきています」
「お小遣いはあるの? 足りなければ遠慮はいらないからね。前借りもOKだよ」
「ありがとう、大丈夫です。十分にあるから」
「東京にはまだ慣れていないから、気を付けてね」
「大丈夫、パパこそ飲み過ぎに気を付けてね」
パパは6時半過ぎに出勤する。こんなに早く出勤する必要があるの? 最寄りの駅は池上線の雪谷大塚だけど、健康のためとか言って、東横線の自由が丘まで約25分かけて歩いているという。まだ、若いのにそんなに健康を気にする? 飲み過ぎにもっと気をつければいいと思う。
パパの名前は川田《かわだ》康輔《こうすけ》、年齢38歳、独身、大手食品会社に勤めていて、役職は課長代理とか。スーツに着替えてネクタイを締めたところは、すごくカッコいい。頼もしくて、私の守護神。
ここのところ楽しそうで機嫌が良い。元々性格は穏やかな方で今まで怒ったことは一度もない。極めて精神が安定していて、気難しいところがなくて、言いたいことを言っても軽く受け流してくれて、安心して一緒に暮らしていける。
ただ、超真面目で男性としてはドキドキ感が無くて少し物足りない。年齢差が18歳もあるとこうなのかな。私がちょっと挑発するとドギマギしているのに平静を装うところはやはり大人を永くやっていることはある。
私は川田《かわだ》久恵《ひさえ》、20歳、専門学校生、もちろん独身。パパは義理の叔父さんにあたる。なぜ、「パパ」かというと、話は4か月ほど前まで遡る。
去年の12月9日、両親が突然の自動車事故で他界した。もらい事故で、居眠り運転の車が車線をはみ出して、対向車線を走っていた義父の車に正面衝突した。助手席の母は即死で、義父は1日後に死亡した。私は友人と別行動をしていた。
昼頃スマホに祖母から連絡が入り、その事故を知った。病院に駆けつけると母はもう帰らぬ人となっていた。死に顔は安らかできれいだった。あまりに驚いて泣くこともできず涙も出なかった。
私は義父が生きているのにほっとした。義父が生きていてくれたら、ママの代わりができる、そう思った。大好きな義父と二人で暮らせる、そう思った。そんなことを思っていたから罰《ばち》が当たったのかもしれない。
義父は危篤状態で意識が混濁していた。医師からは内臓が損傷しているので、ここ1日がやまと言われた。
義父は意識が朦朧とする中「パパしっかりして」と呼びかける私に気が付くと手を握って「康輔叔父さんを頼れ、いいね」と譫言のように繰り返し言っていた。
6時過ぎになって、康輔叔父ちゃんが東京から到着した。「兄貴しっかりしろ」と叫んでいたが、義父の意識が一瞬もどり、叔父ちゃんと分かると「康輔か、どうか久恵を頼む」というのが聞こえた。
義父の意識は段々と戻らなくなり、1日後に息を引きとった。涙が溢れて止まらなかった。ただ、泣いてばかりはいられない。私が喪主を務めなければならなかった。
葬儀社との打ち合わせなどは叔父ちゃんが全部してくれたが、弔問客からの挨拶は私が受けるしかなく、挨拶を受けるたびに悲しみが募っていった。
葬儀を終えて家に帰り、改めて両親の遺影と遺骨の前に座ると、もう泣く気力も残っていなかった。ただ、一人ぼんやりとしているだけだった。
この先、どうしよう。義父だけでも生きていてくれたら、何度もそう思った。そして、義父の「康輔叔父さんを頼れ」と言っていたことが耳に残って離れなかった。
あれから何日経ったか分からない。これじゃだめだと思うようになってきた。何とかなる、でも何ともならない、これからどうしよう。
叔父ちゃんは帰省するたびに私を訪ねて励ましてくれていた。叔父ちゃんは義父の弟だけあって、義父の面影があった。時々私をじっと見ているのに気づいて、叔父ちゃんを見ると慌てて目をそらした。あの目は男性が女性を見る目だと直感的に思った。私はもう20歳になっていた。
叔父ちゃんは私のことどう見ているの? ひょっとして好かれている? 私は胸が熱くなった。一人ぼっちになったと思っていたけど、叔父ちゃんがいた。その時、義父が「康輔叔父さんを頼れ」と言っていた意味が分かったような気がした。
義父は再婚だった。母はシングルマザーで私を一人で育ててくれていたが、義父の会社でパートとして働いていたのが縁で結婚することになった。義父は実家で祖母と同居していたが、結婚を機に近くに中古の住宅を購入して、私たち家族3人で生活を始めた。
叔父ちゃんとは両親の結婚式の時に初めて会った。当時、私は中学1年生だった。
「久恵ちゃん、新しく叔父さんになる康輔だけど、よろしくね」
「久恵です。こちらこそよろしくお願いします」
「久恵ちゃんのような可愛い姪ができてうれしいよ」
義父よりも5歳年下で、その時は30歳を過ぎていたくらいだった。私からは歳は離れているけど若々しい叔父さんと言った感じだった。私は小さい時からイケメンの男の子が好きになる方だった。義父もイケメンだったけど、叔父ちゃんの方がより私好みだった。お嫁さんになるなら叔父ちゃんみたいな人がいいなと思っていた。
その後は年に1回くらい、叔父ちゃんが帰省した時に会う機会があったけど、会ったのはせいぜい3、4回だったかな。会えば、お年玉やお小遣いをくれた。唯一人の姪だから可愛がってくれたのだと思う。
◆◆ ◆
2月の初めに叔父ちゃんが家を訪ねて来てくれた。まず、両親の遺影にお参りしてくれた。
もう49日も過ぎて、私は落ち着きを取り戻しつつあった。学校へも行き始めていた。せっかく義父が私の将来を思って進学させてくれたのだからなんとしても卒業はしなくてはならない、そう思って期末試験に備えていた。
叔父ちゃんは義父の会社の負債や家や財産の状況を説明してくれた。義父は実家の家電サービス会社を継いで一生懸命に経営していた。しかし、義父の死により経営が破たんしたという。
銀行からの融資残額が4,000万円近くあり、ほかにも会社の整理にお金が必要なので、事故の保険金や3人が住んでいた家と祖母が住んでいる実家を売却して、これに充てることにしたという。
叔父ちゃんが仕事で世話になった弁護士さんに頼んで、なんとか借金が残らないように収拾できるようで、私にも当面の生活資金が残るという。
両親は実家の祖母の面倒も見ていたが、これもできなくなるので、祖母は高齢者専用住宅に入居すると聞いた。祖母は気丈で会社の始末は私がつけると言って義父の名義になっていた実家の売却を承諾したという。
祖母には幾ばくかの預金と祖父の遺族年金があり、叔父ちゃんも面倒を見るので、今後の生活については困らないと聞いた。
「分かりました。叔父ちゃん、ありがとう。両親がご迷惑をかけました」
「いや、それよりも久恵ちゃんの今後の身の振り方について相談しよう。3月に短大(短期大学部)卒業だよね。就職は決まっているの?」
「公務員試験受けたけど不合格だった。銀行の求人に応募したけど不採用で就職活動中。3月までに良い就職先が決まらなければ、パパの会社のお手伝いをすることになっていたけど、こういうことになって」
「住む家がなくなるけど、どうする? 就職先も見つかっていないし、良かったら東京の叔父さんのところへ来ないか? 一部屋空いているから。叔父さんは兄貴から久恵ちゃんのことを頼まれているから力になりたいと思っている」
「ありがとう。心配してくれて」
「短大の専攻は?」
「コミュニティー文化学科。私、お勉強にはあまり向いてなくて、パパには高校までで良いといったけど、これからは女の子でも大学まで出ておいた方よいと言い、それでは迷惑がかかると断ったけど、お嫁に行く時も今では短大くらいは出ていないと相手の両親が気に掛けると説得されて、短期大学部に入ったの」
「久恵ちゃんは何がやりたいの?」
「やりたいことがよく分からないんです」
「何が好きなの?」
「強いて言えば、お料理かな。ママに教えてもらっていたけど好きです。ママは料理が上手で、パパが美味しい美味しいと食べていました。それを見ていたから、私も料理が好きになり上手になりたいと思うようになりました」
「料理か・・・」
「これからは女子も自立できなくてはいけないと思う。兄貴も久恵ちゃんが自立できるようにしたかったのだと思う。東京へ来ても今からでは大きな会社への就職は難しいけど、派遣社員になれば何か仕事はあると思う」
「それでもいいけど」
「だけど自立するには、何か手に職をつけるとか、資格を持っていないとだめだ。叔父さんの提案だけど、好きな料理の勉強をするのはどうかな?」
「料理の勉強って?」
「東京へ来たら、調理師の学校へ行ったらいい。1年位で調理師免許がとれると思う。給料は底々だけど、就職口は沢山あると思う。好きなことを仕事にするのが一番良い。好きなら頑張れるし、上手くなる。才能があれば一流にもなれるし、お金は後からついてくる」
「叔父ちゃんはどうだったの? 今の仕事は好きなの?」
「ううーん、いろいろあって今の仕事をしているけど、やっているうちにやりがいがあると思うようになって好きになった。仕事ってそんなものかもしれないね」
「調理師の学校か、料理を基礎から勉強したいから行ってみたい。東京へいきます。お願いします」
「学費は叔父さんが出そう」
「そんな迷惑かけられないわ。少しだけどお金があるから。住まわせてもらうだけで十分です」
「兄貴との約束を果たすだけだから、気にしないで。叔父さんにまかせて」
「でもそれじゃー・・・・愛人になって、そのお手当ということでは?」
「ええ! 驚かすなよ」
「へへ冗談」
「そんなこと二度と口にしないで」
「ごめんなさい」
ちょっと反応を見るために言ってみたけど、叔父ちゃんの驚き方が面白かった。もしそうなったら、一石二鳥、生活は保障されるし、叔父ちゃんも私のものになる。言ってみるだけ言ってみたけどやっぱり、そうはうまくいかないか?
「だったら、家事をやってもらうということでどうかな? 掃除、洗濯、料理など家事一切をお願いする。学費と生活費とお小遣いは叔父さんが負担する」
「家事をすることでいいのなら、そう難しくないし、気が楽なので、それでお願いします。叔父ちゃんの家計は大丈夫?」
「叔父さんはこの歳だから妻子を養えるぐらいの給料は貰っている。久恵ちゃんを扶養家族にするから、税金も安くなるだろうし、健康保険も大丈夫だから」
「親身になってくれて、何から何までありがとうございます。よろしくお願いします」
「一緒に暮らすことになるけど安心していていいから。叔父さんは、昔、研究所にいるとき、『乾燥剤』と言われていたくらいだから」
「乾燥剤?」
「書いてあるだろう。人畜無害、でも食べられません!」
「そんなことないです。とても素敵です」
それから、叔父ちゃんは実家の整理や祖母の引越しのために何回か帰省してくれた。そのたびに、叔父ちゃんは私を励ましに家に寄ってくれた。私は3月末までこれまでどおり家に住むことができて、両親の持ち物の後片付けをしながら、短大を卒業することができた。
3月下旬の土曜日の朝、私の荷物を引越し屋さんに託して、昼前には新幹線で叔父ちゃんと二人東京へ出発した。
窓際に座らせてもらってしばらくは景色を眺めていた。故郷から遠ざかるにつれて、これを機会に今までのことは忘れようと思った。
叔父ちゃんの方に目を向けると、叔父ちゃんはあわてて目をそらした。やっぱり私のことをずっと見ていた?
「新幹線からの景色は良くないみたい。楽しみにしていたんだけど」
「そうだね、防音壁があるし、トンネルも多いね。在来線よりも海側から離れたところを走っているので海もほとんど見えなくなった」
「東京での生活は不安だけどよろしくお願いします」
私は頭を下げて改めて叔父ちゃんに挨拶した。
「叔父さんも初めて上京するときは不安だった。その経験もあるから気持ちはよく分かる。心配しなくてもいいから、できるだけサポートするから大丈夫、安心して」
それから駅で買ってきたお弁当を食べた。間が持たないのか、叔父ちゃんはひと眠りしようと言う。新幹線ができてから乗り換えがなくなったので安心して眠れるそうだ。
それならと私はすぐに叔父ちゃんの肩にもたれかかって眠る体勢を整える。私が突然肩に持たれかかたのでびっくりしたのか、肩と腕が緊張している。そんなことはお構いなしに目をつむる。なんかいい感じ。しめしめ、これから一緒に住むのが楽しみ。
叔父ちゃんもまんざらでもなさそうでジッとしている。そのうちに肩と腕の緊張が取れていった。途中の停車駅で目が覚めた。叔父ちゃんの様子を見ると眠っていた。
◆◆ ◆
途中で目が覚めてから私はずっと考えていた。叔父ちゃんは私のことをきっと気に入ってくれている。だから東京へ来ないかと誘ってくれた。それにあの私を見る目、いつも叔父ちゃんの視線を感じている。私がそれに気づいて目をやると慌てて目線をはずす。だから直感的にそう思う。
私は最初に会った時からイケメンでカッコよくて憧れていた。こんなことになって渡りに船ということだ。それに叔父ちゃんは有名大学を卒業して大手の食品会社に就職している。結婚相手としては誰が見ても申し分ないと思う。今まで独身なのは奇跡みたいだ。本当に彼女がいないのか確認しておかないといけない。そのうち何気なく聞いてみよう。
東京駅に着いたけど叔父ちゃんはすっかり眠っている。良い夢でも見ているのか穏やかな顔、よだれをたらしている。可愛い!「着いたよ」と揺り起こしてあげる。
ここで、まず山の手線に乗り換えて、五反田駅で池上線に乗り換える。マンションまで40~50分だと言う。
東京駅は初めて来た。とても広い。金沢駅の何倍もある。人が多いので歩いていると人とぶつかりそうになる。叔父ちゃんはこんな人ごみでも足が速い。叔父ちゃんを見失うと迷子になるので、スーツケースを引きずりながら、必死で後について行く。
ようやく山手線のホームにたどり着くが、そのホームの長いこと。叔父ちゃんはホームをどんどん歩いて行く。時々振り向いて私がついてきているのを確認してくれている。
「どこまで行くんですか」
「ホームの一番後ろへ。次の五反田での乗り換えに一番近いから。ほら電車が来るから気を付けて」
電車がホームへ勢いよく入ってくる。叔父ちゃんは電車を気にもしないでどんどん歩いて行く。電車が止まった。それでも歩き続けている。ついて行くのがやっとだ。電車のドアが開いたら、突然止まった。
「乗るよ」
「はい」
「一番後ろまで行きたかったけど、ここまで」
息が切れた。後ろの車両は空いていた。空いている席に叔父ちゃんと二人並んで座る。電車が動き出す。初めて見る東京の街、高層ビルが続く。頻繁に電車がすれ違う。目まぐるしく移り変わる景色に目を奪われている。
「次で降りるよ」
「はい」
五反田駅に到着した。ここで池上線に乗り換えるという。エスカレーターでホームへ向かう。ホームはガラッとしていて人が少ない。叔父ちゃんはホームの一番前まで歩いて行く。
「ここが降りる時に一番便利だから」
「ホームでは乗る位置が決まっているの?」
「時間の短縮のためさ。さっきの山の手線のホームは長いから端から端まで歩くと3分くらいは優にかかる。反対の位置で乗車して、乗り換えの場所まで歩いていると、次の電車が入ってきてしまうくらい時間がかかる」
「へー、乗り換えにも頭を使うね」
「4月はじめに新入社員や新入生が通勤通学を始めると駅が混雑する。降り替え口や出口の位置が分かっていないから、離れている場所に下車してホーム内を移動する。それですごく混雑する。ただ、1週間もすると次第に混雑がなくなる。乗る場所が決まってくるからだと思う」
「人が多すぎるわ」
「地方には働く場所がないから、都市部に集まる。都市への一極集中の弊害だ、田舎は閑散としているのにね」
電車が入ってくる。この乗車口からは誰も降りてこないからすぐに乗れた。一番前の車両の一番前に二人で腰かける。
「『池上線』という歌があるけど知ってる?」
「知らない」
「叔父さんもここに住んで知ったけど、路線名が歌詞になっていて、いい曲だよ。そのうち教えてあげる」
二人の近くに乗客がいないので、叔父ちゃんはこれから行く住まいの話をしてくれた。
就職して上京した時に最初に入った独身寮がこの沿線の洗足池駅から徒歩10分ほどのところにあったそうで、今のマンションを3年前に買ったのも何かの縁だと言っていた。
会社の独身寮が廃止になり、使うこともなく自然に貯まったお金があったので、老後を考えて見つけた物件で、洗足池駅から2駅目の雪谷大塚駅で下車して徒歩7~8分のところにあるという。
もう結婚しそうもないから1LDKを考えていたところ、ちょうど売りに出ていた2LDKがあって気に入って決めたそうだ。それで1部屋ゆとりがあったので、私を引き取れたという。
会社が低利で購入資金を貸してくれたのと、祖母が援助してくれたので、ローンはあるけど僅かで負担になるほどの額ではないそうだ。完済の目途もついていると言っていた。
雪谷大塚駅で降りると、確かにすぐ前にエスカレーターがあった。駅前は大通りで車の往来が激しい。車の音がうるさそう。
駅から歩いて丁度7分で到着したマンションは大通りから少し住宅街へ入ったところにあった。ここでは車の騒音があまり気にならない。
大通り沿いだから夜も車の往来が激しく、私が大通りの歩道を夜遅く一人で帰っても心配がないと言っていた。
「すごくきれいなマンションですね。思っていたよりも素敵です」
「気に入ってもらえてよかった」
正面入り口を入って、叔父ちゃんが財布をパネルの突起にかざすと、奥のドアが開いた。すごい。「玄関はオートロック」と説明してくれた。
監視カメラもついていた。24時間警備会社が監視しているので、セキュリティも万全で、私が一人で部屋にいても安心していられる。
エレベーターで3階へ。エレベーターの隣に階段があり、その横が叔父ちゃんの部屋だった。叔父ちゃんは鍵を取り出してドアを開ける。叔父ちゃんについて恐る恐る中に入る。緊張する。
短い廊下を抜けて奥へ向かうと、ソファー、その前に小さめの絨毯が敷いてあり、座卓があった。傍らにリクライニングチェアー、それに大型テレビだけのがらんとしたリビングダイニングがあった。時計を見ると4時少し前だった。
「いらっしゃい。ここが我が家です。このとおり殺風景だけど、独身の男所帯だから勘弁して」
「素敵なところですね。よろしくお願いします」
荷物を置くとすぐに部屋を案内してくれた。
「お部屋だけど、久恵ちゃんの部屋は鍵のかかるこの部屋だ」
「叔父ちゃんは向かいのこの部屋」
「大きい方の部屋を私に、ですか? 小さな方のお部屋で十分ですけど」
「小さめの部屋の方が何でも手が届いて便利だし、落ち着いて眠れると分かったから僕はここでいいんだ。もう引っ越しも済ませたから、大きい方を遠慮しないで使ってほしい。クローゼットが大きいので洋服もたくさん入ると思う」
「私、家具や洋服は少ないんです。小さいときからママと二人で小さなお部屋に住んでいたから荷物も多くありません。パパが買った家も大きくはなかったけど4畳半の勉強部屋がもらえて、とても嬉しかった。こんなテレビに出てくるようなマンションのお部屋に住むのが夢でした。ありがとうございます。とっても嬉しいです」
「久恵ちゃん、神様は人生を皆平等にしてくれている。小さな部屋に住んでいた人には後から大きな部屋に住まわせてくれる。叔父さんも子供の時には、風の吹きこむ小さな部屋に兄貴と二人でいたんだ。人生悪い時もあれば良い時もある。両親を同時に亡くしたけど、また良いこともある。今を大切に過ごせばいいんだよ」
「はい、お陰様で良いことがありそうな気がしてきました」
「それから、ここがトイレ。反対側が洗面所で中に洗濯機置き場。その奥がお風呂。スイッチを入れるだけでお湯が入って、満杯になるとお湯が止まって知らせてくれるからとっても便利だ」
「素敵なお風呂ですね。私はお風呂が大好きでいくらでも入っていられるの」
「それはよかった。ゆっくり入って」
「お茶をいれます。ガスコンロがありませんが?」
「ガスではなく電磁調理器IH。このマンションはオール電化されている」
「へー、でも電気代、高くない?」
「それほどでもない。なんせ、昼間はいないから。独り身でずぼらにはもってこい。その上安全だから」
テレビドラマにでてくるような素敵なマンションに住めるなんて来てよかった。それに私を守ってくれるカッコいい叔父ちゃんと一緒に住めるなんて最高だ。叔父ちゃんのいうとおり、なにか良いことがありそう。
「明朝、荷物が入るから管理人さんに伝えておこう。それから久恵ちゃんの紹介もしておこう。それからこれが部屋の鍵だから持っていて、玄関で使い方を教えてあげる」
そういえば、ここへ着いた時は玄関脇の管理人室には誰もいなかった。5時にはいなくなるというので、今度はいるだろうと二人で階段を下りて、管理人室へ挨拶に行った。
年配の親切な管理人さんで叔父ちゃんとは馬が合うと言っていた。
「管理人さん、家族を紹介します。」
「私、妻の久恵です。よろしくお願いします」
「ええ! いやその・・・」
叔父ちゃんは言いかけてやめた。まあいいかと思ったのか、否定はしなった。それから、慌てた様子で明日荷物が搬入される時間を伝えていた。
「なぜ、妻といったの。義理の姪じゃないか。管理人さんは驚いていたぞ」
「でも、叔父ちゃんも訂正しなかったでしょ。なぜ?」
「うーん」
「名前が川田康輔と川田久恵だから、妻の方が自然でしょ。義理の姪でもよかったけど、義理の姪と独身男性が一緒に住むのはおかしいし、娘ならなおさらおかしいでしょう。突然、独り身の男に顔の似てない娘ができたら。やっぱり妻が自然だと思ったから」
屁理屈だと分かっていたけど、ここは引き下がらない。
「どうかな、歳の差からかなり無理があると思うけど」
やんわり否定してくる。叔父ちゃんらしい。
「それから、呼ぶときだけど、叔父ちゃんは寅さんみたいでやめたいの。パパと呼んでいい?」
「パパ?」
「呼びやすいから。だって父親代わりなんでしょ。そう言いました!」
「まあ、そうは言ったけど、パパか」
「パパ」というと同じ地方出身の同期を思い出すと言う。研究所の行事に東京出身の奥さんが来ていて「パパ」と呼ぶので、思わず顔を見て吹きだしそうになったとか。とても「パパ」という顔付きではなかったそうだ。
それからはどこかで「パパ」と呼んでいる声を聴くと思わず呼ばれた「パパ」の顔を見てしまうとのことだった。
「ねえ、二人だけのときは、パパでいいでしょ」
「他人の前では絶対にだめだ。顔も似てないから親子というより援助交際か愛人関係と思われてしまうよ」
「気にするほどのことではないと思うけど」
「確かに父親代わりなんだから、まあ、二人だけの時なら良しとしようか」
そう言った時、パパは少し照れたような、それでいて少し寂しそうな顔をしたのを覚えている。だったら「妻と管理人さんに言ったので『あなた』と呼んでいい?」と聞いてもよかった。でもこれは刺激が強すぎる。きっと目を丸くしたと思う。
「疲れてない? ひと休みしたら、まず駅の回りを案内しよう。東京の私鉄沿線の典型的な駅前商店街があって、レストランもあるし、スーパーもある。夕食を食べて買い物をしてこよう」
「いいところだなあ。私、東京に住んでみたかったので嬉しい」
「東京に住むって大変だよ」
「おじちゃんも上京してきた時は慣れるのに髄分かかった。今は地方にもほとんどのものがあるけど、東京にしかないものが結構ある。来週末には東京を案内してあげよう」
「慣れるのに時間がかかるかもしれないけど、叔父ちゃん、いえ、パパがいるから安心しています」
「月曜日は休暇を取ってあるから学校へ行ってみよう。専攻はフランス料理にしたけど、よかったのかな? フランス料理は料理の王道だから、物事やるなら王道をいくべし」
「仰せのとおりに! 習ったら家で試してみるね」
「ああ楽しみだ」
◆◆ ◆
外へ出るともう薄暗くなっていた。今度は駅までの裏道を教えてくれると言って、裏口を出て歩いて行った。
私は裏口を出るとすぐに手を繋いだ。パパが私を見た。でも何も言わなかった。私は黙って歩いている。
この裏道は車も自転車もほとんど通らないので落ち着いて歩けると言っていた。大通りの歩道は自転車が通るのでぶつかりそうになることがあるから気を付けてとも言っていた。
それから帰りは安全のため必ず大通りの歩道を歩くようにと何回も言われた。私のことを父親のように心配してくれているのがよく分かった。
商店街をざっと歩いて様子を教えてくれた。その後、駅前のファミレスで夕食を食べた。それからスーパーで朝食用の牛乳やパンやフルーツ、それに冷凍食品などを買って帰ってきた。ちょっと疲れた。
◆◆ ◆
帰宅後、私が疲れているのが分かったようで、すぐにお風呂の準備をしてくれた。それから「1日だけ気にならなければこれで寝てほしい」と、私の部屋にシーツを換えた叔父ちゃんの布団や枕を運んでくれた。
明日には私の荷物が到着するので、叔父ちゃんは今晩一晩、リビングのソファーで寝るという。すぐにお礼を言った。
私がお部屋でお風呂に入る準備をしていると部屋をノックされた。
「お風呂の準備ができたから、先に入って」
「私はパパの後でいいから先に入って下さい」
「僕の後じゃ汚れていて悪いから先に入って」
「かまいませんから先に入って下さい」
そうまで言ったので、パパが先に入った。意外と早くお風呂から上がってきた。私はゆっくり入る方だから驚いた。
「どうぞ、上がったよ」
私がパジャマやら着替えを抱えて部屋から出ていくとパパが言ってくる。
「浴室には鍵が付いているから中からかけておいてね」
「パパを信頼していますから鍵はかけません」
「いや、かけといて、間違って開けるかもしれないから」
「ええ、そんなにパパは自分自身が信用できないんですか?」
「念のためだ、そうすれば安心して入っていられるだろう」
「そこまで言うのならそうしますが、でも万が一、私がお風呂で気を失ったりしたら入ってこられませんけど大丈夫かしら」
「大丈夫、もしそんなことがあったら開けられるようになっている」
「ええ!」
「こっちへ来て、ノブの下にネジの頭のようなものがあるだろう」
「ありますが」
「鍵がかかっていても10円玉で回せば鍵が開くようになっている。子供が誤って中から鍵をかけても開けられるようになっているのだと思う。久恵ちゃんの部屋の内鍵も同じだけど」
「それなら、鍵をかける意味がないじゃないですか」
「うっかり開けるのを防げる」
「誰かが入っているのにドアをうっかり開けることはないと思いますが」
「そうだね。分かった。考え過ぎだったかな。好きなようにして」
パパはどういう訳か鍵にこだわっていた。自分自身に自信がない? 衝動が抑えきれない? ありえない。あっても覚悟はできている。
ここのお風呂は最高。足が伸ばせるし、温度調節も、湯量の調節も簡単。気持ちがいいからいくらでも入っていられる。それにパパとのこれからを考えていると時間はいくらあっても足りない。
「お風呂長いけど、大丈夫?」
「大丈夫です。すぐに上がります」
長湯だからパパが心配して声をかけてくれた。本当に私のことをいつでも思っていてくれている。これは脈がありそう。嬉しくなった。
そろそろ上がった方がよいみたい。お風呂から上がると持ってきた小さな花柄のパジャマに着替えた。
浴室から出て行くとじっと見られた。それが分かって目線を合わせようとすると目をそらされた。でもあの目は私を可愛いと思って見ていた男の目だった。間違いない。
「よかった。返事がなかったら、鍵を開けて中を覗くところだった」
「覗くきっかけを作って上げられなくてごめんなさい。今度は返事しないで鍵を開けて覗くのを待ってみようかしら」
「ええ、でも返事がないとそうするよ」
「へへ、どんな顔をして覗くのか楽しみ」
パパをからかうのは楽しい。超真面目に反応する。人柄が表れている。
「冗談はこれくらいにして早く寝よう。今日は疲れた」
「私も少し疲れました。おやすみなさい」
布団に入ると懐かしい匂いがする。死んだパパの匂い? 兄弟だから匂いが似ているんだ! 懐かしい匂いに包まれてすぐに眠りに落ちた。
ここへ来て2日目の朝、私は5時半に目が覚めた。静かにドアを開けてトイレへ向かう。あたりはまだ薄暗い。リビングのソファーでパパが頭から毛布をかぶって寝ている。音を立てて起こさないようにそっとトイレのドアを開けて中へ入る。
ここのトイレも快適だ。もちろんウォシュレットもついている。昨日は緊張していたせいかウンチがでなかった。私は小さいころから緊張すると便秘気味になる。パパはまだ寝ているしゆっくりできる。そう思ってじっくり待っている。
下を向いていたら、ドアが静かに開いた。顔を上げるとパパの驚いた顔があった。目が合った。瞬間、お互いに固まった。
きっとほんの一瞬だったと思うけど、時間が止まったような印象を受けた。「あっ」と声が出た。「ごめん」という声が聞こえた。
すぐにドアが閉じられた。
「ごめん。気が付かなかった。ごめんね。寝ているものとばかり思っていたから」
動転していて声がでない。すぐに内鍵をかけた。鍵をかけ忘れていた。
「ごめん。本当にごめん。勘弁して。これからは絶対にないから」
恥かしくて声が出ない。それに今出ていけない。もう少しで出そうだ。今しておかないと、もっとひどくなるのが分かっている。ここは頑張るしかない。
ずいぶん時間がたったような気がする。パパは私が返事をしないで籠城しているので声掛けをあきらめたみたい。もう少しこのままにしておいてほしい。
ようやくその時が来た。よかった。ほっとした。水を流すけど臭いが気になった。もう一度水を流す。鍵を開けて出て行った。パパはソファーで心配そうな顔をしていた。
「ごめんなさい。驚かしてしまって、鍵をかけていませんでした」
「こちらこそごめん、入っているとは思わなかった。照明がONになっていたけど消し忘れと思って気にしなかった」
「朝、目が覚めて、すぐにトイレに入りました。パパはまだ寝ていたので音がしないように静かに入りました。だから気が付かなかったのは当たり前です」
「気分を害した? 随分出てきてくれないので心配した。ごめん。本当にごめん」
「出てこなかったのは気分を害したのではありません。あのー便秘気味で時間がかかりました。それを中から言い出せなくて。だから気分を害したのではありません。気にしなくてもいいです」
「本当に?」
「本当です」
「よかった。返事をしてくれないし、出てきてくれないので、このままここを出て行ってしまうのではと心配した」
「ご心配をおかけしました。そんなことは絶対にありません。ここにおいて下さい」
「もちろん」
「私はこれまで緊張すると便秘気味になるんです。昨日は緊張していたんだと思います」
「久恵ちゃんを緊張させた僕の配慮が足りなかった。もっと気楽にいてもらえるようにするから、気の付いたことなら何でも言ってくれていいから、遠慮しないでいいから」
「それなら、トイレに入るときは必ずノックするようにしましょう。それと内鍵もかけるようにしましょう」
「分かった。そうしよう」
「崇夫パパも同じようなことがあったの。パパとママが結婚して一緒に住むようになった中学1年の時、今日と同じだった。パパは私と目が合って一瞬固まっていた。それからは必ずトイレに入るときはノックしていた。私とママが横にいる時でも」
「兄貴らしいな。これからは必ずそうするよ」
私の話を聞いてパパはほっとしたみたい。立ちあがってトイレの方に歩いてくる。今入られると困る。もう少し待ってほしい。ドアの前に立って入場を阻止するほかはない。
「しばらく待って下さい」
「どうして、出ちゃうよ」
「我慢して下さい」
パパは諦めてソアーに戻った。時計を見て15分ほど経過したので、トイレに入って確かめた。これなら大丈夫。水を念のため流しておく。「お騒がせしました」と言って部屋に戻った。
パパの驚いた顔、あんな顔するんだ。初めて見た。これからは必ず内鍵をかけておこう。
◆◆ ◆
午前10時に私の荷物が2トントラックで届いた。ダンボールが20個程と小さなテーブル、プラスチックの衣装箱が4個、机、椅子、本棚、小型テレビ、布団だけだ。
少ないと思っていたけど、部屋に運び込んでもやはり少ない。これならすぐに片付けられる。パパが荷解きと片付けを手伝ってくれるというのでお願いした。
「意外と荷物が少ないね」
「服はママと共用にしていたの。体形がほとんど同じ、靴のサイズも同じだった。お金に余裕がないのが身についていたのね。でも便利だった。だから、これがママの遺品です。着ているとママに守られているような気がします」
「来週の休日、久恵ちゃんの服を買いに行こう。僕も買いたいから」
「はい」
私は、大切にしている上半分が鮮やかな赤色の小さいグラスを本棚に飾った。
「とってもきれいなグラスだね」
「パパが『Little Lady』という名前をつけていたもので、私のイメージにそっくりだからと言って、渡してくれたものなの。アメリカ製の古いものだとかで、光が当たると、とてもきれいなの」
「この小さな赤いグラスを見ていると、兄貴が久恵ちゃんを愛しく大切に思っていたのが分かるよ」
「それから、このグラス、使ってください。パパの遺品です。パパがウイスキーを入れて飲んでいたものだけど、これも光が当たるととても綺麗です」
「ありがとう大切にするよ」
それから食器や調理器具をキッチンの棚にしまった。これで料理ができるようになった。
部屋に戻ると、荷物の後片付けをした。私は整理整頓があまり得意ではない。時間をかけてゆっくり行うことにした。
意外と時間がかかったので、昼食は朝食用のパンで済ませた。パパには冷凍食品をチンして食べてもらった。
3時近くなって、ようやく片付いた。最後の方は疲れてきたので、とにかく棚に全部しまった。リビングのソファーに座って休んでいたら眠ってしまったみたい。
気が付いたら毛布を掛けてもらっていた。パパがかけてくれたと思って、周りをみるとパパもそばで眠っていた。じっと覗き込んでいると目を開けたので、目が合った。
「眠っていた?」
「私も眠っていました。目が覚めたらそばでパパが寝ているから、寝顔を見ていました。よい夢でも見ていたの? にやにやしていたけど」
「夢? 見ていたかもしれないけど覚えていない。そんなにニヤニヤしていた?」
「そう、その証拠によだれを垂らしている。ほら跡があるけど」
パパは慌てて顎に手を当てた。よだれを確認してはにかんでいる。でも気を取りなおして話題を変えてきた。
「もう5時を過ぎているから夕食を食べに行こう。近くに美味しいカレー屋さんがあるから行ってみる?」
「カレーは大好きだから行ってみたい。それと調理器具や食器がそろったので、明日から食事を作り始めます。それで材料を仕入れてきたいです」
「それなら帰りにスーパーへ寄って食材を仕入れてこよう。でも無理をしなくてもいいからね、慣れてからでいいからね」
食事を終えた後、スーパーで二人では持ちきれないほどの食材を買ってきた。私はそれらを冷蔵庫と冷凍庫にきちんと片付けた。明日から食事を作ります!
◆◆ ◆
月曜日、パパは休暇を取ってくれていた。二人で蒲田にある調理師学校を訪ねた。私が面接を受けておかなければならなかったからだ。入学手続きはすでにパパが済ませてくれていて入学金や授業料の払い込みも済ませてあった。これで4月から通学ができる。
時間があったので蒲田の街を二人で見て歩いた。私は街の大きさに驚いていた。パパは私に負担がかからないように、夕食にお弁当を買って帰ろうと言ってくれた。
明日火曜日からパパは出勤する。私は3月中はマンションで家事の練習をすることになっている。お弁当を食べてから、明日からの一日のスケジュールを相談した。
5時少し前に目が覚めた。もう少しで目覚ましが鳴るところだった。すぐに起きなきゃ。今日からパパが出勤する。昨晩に打ち合わせたとおりに朝食の準備をしてあげなきゃいけない。
音のしないように部屋のドアを開けて、洗面所へ向かう。ドアの内鍵はかけていない。パパはかけておくように言っているけど無視している。洗面所で歯を磨いて、顔を洗って、部屋に戻り、軽くお化粧をする。
ママと同じで私は薄くしか化粧をしない。化粧品の節約のためにそうしている。ママもそうしていた。
すぐにお化粧は終わるので、キッチンへ行って、パパの希望の朝食を2人分作る。調理する必要がないからすぐに用意できる。パパがこれまで自分でしていた朝食だから、全く手数がかからない。
時間があるからリビングのテレビをつけて、音を出さないでニュースを見る。
5時半きっかりにパパが起きてきて洗面所で歯を磨いて、お髭を剃って、顔を洗う。それから部屋に戻って。出勤時のスーツ姿になって、座卓に座って食事を始める。テレビのボリュームを上げる。
「朝食の献立、それでよかったですか?」と聞くと、嬉しそうに頷いて食べている。私もそれで安心して食べ始めた。
「ごちそうさま。準備ありがとう。僕が朝食の準備をしてもいいけど」
「いえ、私の仕事ですから」
「まるでお嫁さんをもらったみたいだ」
「そう思っていてください。やりがいがありますから」
そう言って後片付けを始めた。パパはこれを聞いてどう思ったかしら。やはり悪い気はしなかったみたい。しめしめ、作戦どおり。
「今日から昼間は一人になるけど、大丈夫?」
「大丈夫です」
「来訪者が来たらモニターで十分に確かめてから、開錠してね。セールスは来ないと思うけど、必要ありませんと言って、相手にならないこと。そうすると帰っていくから。それと部屋を空けるときは玄関の鍵を必ずかけること。いいね」
「大丈夫です」
大事なことだから2度言っておくと言って、2度も同じことを言った。このフレーズどこかで聞いた?
分かっています。私は成人した大人です。まだ、中学生と思っているのかしら。でもこれを言うのはやめておいた。よっぽど私のことが心配らしい。ありがたい。これほどまでに心配してくれて嬉しかった。崇夫パパと同じだ。やっぱり兄弟だ。
丁度6時45分に出かけた。玄関で「いってらっしゃい」というと嬉しそうに出かけて行った。
◆◆ ◆
6時半に携帯にメールが入った。[今、自由が丘]
聞いていたよりも1時間も早い。ということは7時前には帰ってくる。でも夕食の準備はとっくにできている。今日はシチューにした。帰ってきてから温めても十分に時間がある。
玄関ドアの鍵を開ける音がする。すぐに玄関に跳んで行く。
「おかえりなさい」
「ただいま、いいにおいがするね」
「すぐに食事にしますか、先にお風呂に入りますか?」
「それとも、わ・た・し?」と言おうとしたけどやめておいた。新婚の妻だったらそう言うと思うけど、パパには冗談でも刺激が強すぎる。
「お腹が空いているから食事にしたい」
パパはすぐに自分の部屋で着替えて出てきた。
「初めての夕食はクリームシチュウにしてみました」
「美味しそうだ」
「食べてみてください。味はどうですか?」
パパはニコニコしてスプーンで一口食べてみてくれる。
「美味しい」
「よかった。美味しいと言ってもらえて。たくさんありますからお替りしてください」
美味しかったとみえて二回もお替りをしてくれた。昼からすぐに始めて時間をかけて工夫して作ってよかった。
後片付けを手伝おうかと言われたがもちろん断った。それで残念そうにソファーで私の後片付けを見ている。
「コーヒーをいれるけど、久恵ちゃんもどう?」
「いただきます」
「コーヒーの後片付けは僕がするから」
「お願いします」
後片付けが終わるタイミングに合わせてコーヒーを入れてくれた。パパは本当に几帳面な性格だ。入れてもらったコーヒーをソファーの隣に座って飲む。とっても美味しい。そういうとパパは嬉しそうにほほ笑んだ。
◆◆ ◆
いつものとおり、パパに先にお風呂に入ってもらった。私が上がって冷たい水を飲みにキッチンへ行くと、パパがソファーでうたた寝をしていた。座卓の上には飲みかけの水割りが置かれていた。
いつもは晩酌をしていると言っていたけど、私がここへきてからは出勤していなかったこともあるけど、お酒は飲んでいなかった。今日は久しぶりに出勤して緊張して疲れていたんだ。でもこんなところでうたた寝をしていたら風邪をひいてしまう。
「もう寝ましょうか?」
その声でパパは跳び起きた。言い方が刺激的過ぎた? キッチンにいる私をじっと見つめて、なぜ私が声をかけたか分かったみたい。
「久しぶりに出勤したので疲れた。そうしよう」
ソファーから起き上がって自分の部屋に入って行った。
次の土曜日は東京を案内してくれると、二人で渋谷まで買い物に出かけた。私の身の回りの小物や洋服、それに化粧品などを買ってくれると言う。
スクランブル交差点へきたけど、あまりに人が多いので驚いた。観光名所にもなっているというが納得した。
私のような若い女性向けのショップが多く入ったビルで店を見て回る。さすがにここではパパは場違いに見える。父親が娘とショッピングは今時ないと思うし、顔も似ていないのでどう見ても援助交際にしか見えないと思う。それを言うと、気にするから絶対に言わない。
その場違いを感じ取ってか、パパは私とは距離を取って歩いていて、私が気に入ったショップに入ると外で待っている。
気に入った白い長袖の薄手のワンピースがあったので、見てもらおうとパパを呼びに行った。
あれほど呼んではダメと言われていたのに「パパ」と呼んでしまった。それで店員さんがパパをじっと見ていた。きっと援助交際のスポンサーと思ったに違いない。これからは気を付けよう。
店員さんに断って試着させてもらった。着替えてパパに見てもらった。パパがOKのサインを出したのでこれに決めた。パパは私の足元を見ている。
「靴が合っていないね。せっかくのワンピースが映えない。靴も買ったらどうかな」
「私は靴には無頓着でこのほかにも歩きやすいので気に入っているのが5足ありますから、帰ったら合わせてみます。大丈夫です」
「そう言わないで、靴は何足あってもいいから」
そうまで言われたので、ヒールが高めの白いシューズを買ってもらった。私は小柄だからパパと並ぶと肩までしかない。でもこれを履くとかなり背が高くなったように感じるので二人で歩くときのために、これに決めた。せっかく買ってもらったのだから足慣らしのためにもそのまま履いて帰ることにした。
今度はパパのシャツを探しに行った。パパは昔から目立つのが嫌いで、着るものも地味な色やデザインのものにしていたと言っていた。私から見ると実際よりも老けて見えてオジサン臭くていやだった。せっかくのイケメンがこれではもったいない。
「私と一緒に歩くときはもっと若い人が着ているようなものにしてくれないと恥ずかしい」と言って、若々しい派手な色遣いのシャツを選んであげた。当ててみると今着ているものよりもずっといい。本人もそう思ったみたい。
ズボンも選んであげた。シャツと合わせて着るととても若々しく見える。パパは私が選んだ若者向けのシャツとズボンを気に入ってくれて購入した。
それから、私のために流行りの化粧品を店員さんに選んでもらって買ってくれた。使い方も指導してもらった。可愛く綺麗にしていてほしいというパパの気持ちが分かったので熱心にそれを覚えた。
買い物がひととおり済むと、パパは会社の同じ部の女性に聞いたという表参道のヘアサロンへ連れて行ってくれた。
上京した時に私が髪をポニーテイルに束ねているのを見て、どうしているのか聞かれた。自分で適当にカットしていると答えておいた。ママが生きているときはママが私の髪をカットしてくれていた。サロンに行くと高いからだった。
「好きな髪形にしてもらうといいよ」
「思い切ってショートにしてみたいです。学校へ行ったら髪が長いと調理するときに何かと不都合だと思っています」
「そうだね、それがいい。ショートの久恵ちゃんも見てみたい」
どんどん髪がカットされていく。慣れた手つきでどんどんカットが進む。鏡の中の自分が今までとは全く違った自分に変わっていくのに驚いた。さすが表参道のヘアサロンはセンスがいい。
出来上がったので、パパが見に来た。パパの私を見る目が変わったのに気がついた。ジッと鏡の中の私を見ている。男の目を感じる。
「少しは綺麗になった?」
「とってもチャーミングだ」
パパはすごく嬉しそうだった。それは私以上だった。間違いない。
◆◆ ◆
「こんなに買ってもらってありがとう」
帰りの電車の中で改めてお礼をいった。
「久恵ちゃんは『プリティ・ウーマン』という映画見たことある?」
「テレビで見たわ」
「コールガールが若きやり手の実業家の富豪と知り合い、妻になるというシンデレラストーリー。大ヒットしたけど、あの映画は男の目線で作った男のロマンを描いたもの。素質のある女性を自分好みの理想の女性に育てるという。女性に人気があったけど、男性が見ても共感できる。ジュリア・ロバーツが素晴らしい変身を見せた。映画に出てくるホテルの支配人が今のおじさんだ。おじさんも久恵ちゃんをもっと素敵な女性にしたい。素敵な男性が見つかるように」
「ありがとう、期待に沿えるかわからないけど」
でも、ちょっと違うと思う。だからあえてそっけなく答えた。
窓の外を見ると沿線は桜がもう満開近くに咲いている。
「桜がきれいだね」
「お花見がしたい」
「じゃあ、明日、近くの洗足池公園へお花見に行こう。あそこは桜の名所だ」
「朝の天気予報では明日は朝から雨と言っていたと思うけど」
パパがスマホで天気予報を調べると確かに明日は朝から雨模様となっていた。
「明日雨が降ると桜が散ってしまうね。来週まではもたないし」
「諦めます」
「それなら今晩、夜桜見物にいかないか?」
「夜桜見物?」
「あそこは夜桜見物もできる。昔、近くの独身寮にいた時に行ったことがあるから」
「夜桜見物に行きましょう」
マンションに戻ると一休みした。私は買ってもらったものを部屋で片付けた。それから駅前で買ってきたお弁当を二人で食べた。
私は素早く出汁を取ってお味噌汁を作った。このお味噌汁がとてもうまいとパパはお替りをしてくれた。これで夜桜見物の準備は完了した。
6時を過ぎると暗くなってきた。春になったとはいえ、夜は冷えるから少し厚着をして出かけることにした。
マンションを出て大通りを公園の方に歩いて行くことにした。パパは「電車で行ってもいいけど、ここからは歩ける距離だし、時間もそんなに変わらない。どうする?」と聞いてきた。私は歩きたいと答えた。
マンションを出るとすぐに私はパパと腕を組んだ。そのために買ってもらった高いヒールの白い靴を履いてきた。これを履くと背が高くなって腕が組みやすいと思ったからだ。
パパが私の方を見るけど、もう知らんぷりで当然のことのように腕を組んでいる。パパも悪い気はしなかったようでそのままにしている。いい感じで二人は歩いて行った。
12~3分で公園に着いた。思っていたよりも人が多い。ゴーというような音がする。人ごみの音だ。
桜が満開で照明に映えてとても綺麗だった。人が多いからもう腕を組んで歩けない。それでも手を繋いで桜を見上げながら公園を一回りする。
「すごい人だね」
「東京はどこへ行っても人が多いですね」
「でもそれが当たり前になると、だんだん人ごみに慣れてくる。人が多いと何故か安心感があるから不思議だ。皆と同じことをしているという安心感かもしれないね」
「私も慣れてくるかしら」
「自然と慣れてくる。そのうち都会の生活が良くなってくるから」
「私も都会の絵の具にすっかり染まってしまうのかしら」
「良しにつけ悪しきにつけ、染まらないと生きていけない。でも大丈夫だから、僕が久恵ちゃんを守ってあげるから」
「パパは結婚しないの? 誰か良い人いないの?」
「いない。この歳になったから、もう考えないことにした。マンションを買ったのも一人での老後に備えるためだったから」
「そうなんだ」
なにげなく、聞くことができた。前からそうは思っていたけど、パパにはいわゆる彼女はいないことが確認できた。よかった! これで私の努力次第でどうにでもなる。それにパパは私のことが気になっているのは間違いない。
そんなことを考えていたら、石に躓いて転んだ。足首が痛い。パパが驚いて手を差し伸べてくれる。手につかまって起き上がろうとするけど足首が痛くて起き上がれない。
「大丈夫か?」
「足首が」
「捻ったかな、捻挫したかもしれない。いつもよりヒールが高かったからね」
何とか起き上がらせてもらったけど、足首が痛くて歩けない。パパが困っている。するとパパが私の前に背中を向けてかがみこんだ。
私はパパが何をしようとしているのかすぐに分かった。さすがパパ、私の保護者、いや守護神。しっかりと背中に抱きついて首に腕をまわす。パパの背中は大きくて温かい。
パパは私の太ももをおそるおそる手で抱えてゆっくりと立ち上がった。周りの人が一斉に何事かと私たちを見ている。恥ずかしいので顔を背中にくっつけた。パパがゆっくり歩き出した。そんなに重くは感じていないみたいで安心した。
しばらく歩くと私も周りを伺うゆとりができてきた。パパが私をおんぶして歩いているので、行く先の人は何だろうと道を空けてくれる。だから割りとスムースに歩けている。大事におぶられているというこの何とも言えない安心感に浸っている。
ようやく大通りが見えるところまできた。ここまでくると道も混んでいない。もっとおぶられていたい。
「もうすぐ大通りだ。大丈夫か? すぐにタクシーを拾うから」
「大丈夫です」
「歩いてみる?」
「このままおんぶして行って下さい」
「分かった」
ようやく大通りに着いた。私を下ろしてタクシーが通りかかるのを待っている。私はパパに摑まって立っている。
ようやくタクシーが捕まった。私を先に乗せてパパが乗り込んでくる。そして段差の少ないマンションの裏口までの道順を説明している。
着くまでの間、私は黙ってはパパに寄り掛かっていた。パパはずっと私の肩を抱いていてくれた。
ようやくマンションの裏口に到着した。パパが先に降りて私が降りるのに手を貸してくれた。タクシーが戻って行った。何とか、たどり着いた。
私は無理すれば歩けたけど歩かなかった。立ったまま待っていた。私はパパがどのくらい私のことを心配してくれるか試そうとしていた。パパがしょうがないなあというような顔をして背を向けてかがみ込んだ。しめしめとしっかり抱きついた。
エレベーターに乗ってようやく部屋までたどり着いた。結局ソファーまでおんぶしてくれて座らせてくれた。
「大丈夫か?」
「捻挫したみたいです」
「今日は土曜日でこの時間だから、このままここで手当てして様子を見よう」
「手当てしてください」
「まず、氷で冷やそう。それから湿布する。今日はお風呂はやめておいた方がいい。下手に入ると悪化するから」
「そうします」
パパはすぐに氷を持って来て濡れタオルで包んで足首に巻いて冷やしてくれた。それから自分の部屋に戻って湿布薬を持ってきてくれた。足首が冷えたところで、湿布薬を張って、その上からまた氷で冷やしてくれた。なかなか手際がいい。
それから私のためにいつものようにコーヒーを入れてくれた。至れり尽くせりだ。
「これで一応の処置をしたから様子を見よう」
「ありがとうございました。私の不注意でした。はしゃいでしまってご免なさい」
「いや、今日は渋谷に出かけたり、夜桜見物に歩いて行ったりして、それに新しい靴だったから、疲れて足に負担がかかったからだと思う。僕の配慮が足りなかった」
「おんぶしてもらって嬉しかったです」
「いや、いいんだ、こちらこそ」
こちらこそ? あとは私が気にすると思って言わなかったが、私の太ももを抱えていたことや背中にお乳が当たっていたことがよかったみたい。おんぶしてもらったので、それくらいのことがないと申し訳ない。
私のお乳は大きくはないが小さくもない。ほどほどの大きさはあると自負している。形も悪くないと思っている。おんぶしてもらった時、胸を離そうとはしないで、それができるだけパパに分かるように背中に押し付けていた。パパは相当気になったと思う。ちょっとやりすぎたかなと思うけど、これくらいの刺激がパパには丁度良い。
◆◆ ◆
日曜日はやっぱり朝から雨だった。やはり昨晩、夜桜見物に行っておいてよかった。朝、目が覚めて、起き上がって足の具合を確かめていると、パパがドアをノックした。
「今日一日、僕が食事を作ってあげるから安静にしていて」
「すみませんがお願いします」と答えた。足の具合は悪くはなかった。痛みもほとんどなく歩いても気にならないくらいに回復していた。パパの応急手当てがよかったからだ。でもお言葉に甘えてそうさせてもらうことにした。
今回の捻挫では、図らずもパパの私への気持ちを試すことになった。でも私のために一生懸命におんぶも手当てもそれに食事の用意もしてくれた。大切に思われている。それがとっても嬉しかった。
私がここへ来てからもう3週間ほどになる。調理師専門学校にも慣れて、家事もなんとかこなしている。パパは毎日機嫌が良い。食事も美味しいと言って食べてくれている。
新婚生活ってこんな感じ? やっぱりちょっと違うかな? あまりドキドキ感がないし、当たり前だけどHもない!
もともと私とパパは性格が似ていると思っていたけど、一緒に生活して違うところもあることが分かってきた。
倹約家で、ものを無駄にしない、無駄なものを買わない、ものを大切にする。これは私と同じ。ケチとは違う。お金を出すべきところは思い切ってしっかりと出す。「出す必要のないものを出さないのが倹約、出すべきものを出さないのがケチ」とか言っていた。同感。
それからせっかちなところ、私もせっかちだけど、それ以上だ。今相談していたことをすぐに実行に移す。決まったことはすぐにしないと気が済まないようだ。
それから綺麗好き。ただ、私ほどではない。目に見えるところはとても気にするが、自分の部屋でも見えないところに結構ほこりが溜まっている。
それからシャツなど汚れていないと1回着てもすぐに洗濯しない。でもそれを言うとしぶしぶ洗濯に出してくれる。私は1回着ると洗濯しないではいられない。
理由を聞くと、あまり洗濯をすると生地が傷んで長持ちしないからと言っていた。まあ、一理ある。私はしょっちゅう洗濯するからブラウスでも早く着られなくなることがある。
それから、整理整頓が上手というか、片付けがうまい。きちっと論理的に並べていると言うか整理している。だから、すぐに探し物が出てくる。要領を聞いたら、分からなくなったら、自分だったらどこに片付けるかを考えるそうだ。そしてその場所を探すそうだ。
私にはまねできない。私は綺麗好きだけど、整理整頓や片付けは大の苦手だ。下着でも綺麗にたたむところまではできるのだが、それを種類別に分けてしまうことが苦手だ。
私の衣装箱を一見すると綺麗に入っているが、種類は順不同になっている。でもそれが不規則なりに繰り返されているので、実際にはそんなに困らない。
でもパパはそんな私に小言も言わずに整理や片付けを手伝ってくれる。ありがたい。私にはここでは大切にされている、守られているという安心感がある。
でもちょっとドキドキした間違いがあった。朝起きてトイレに入ったら、下ろした下着がなにか違う。よく見たらパパのブリーフだった。それも後ろ前に履いていた。
昨晩、お風呂に入ったときに、洗濯したものと着替えたけど、気が付かなかった。ただ、少し緩いなと思っただけだった。ゴムが緩んだとしか思わなかった。そういえば夜中、お尻のあたりがいつもの感じと違うと思っていた。
へへへと思わず笑ってしまった。いつ、どうしてパパのブリーフが私のところへ混入したか分からなかった。確かに分かっていればこんなことは起こらない。
すぐに部屋に戻って自分のものと履き替えた。そしてすぐに洗濯機を回した。よくよく考えてみると、パパのが1枚、私のところへ混入したとすると、私のが1枚、パパのところへ混入したかもしれない。でもパパは何も言っていなかった。
パパが出勤した後にパパの部屋に入って、初めてパパのクローゼットを開けた。記帳面なパパらしく綺麗に整理整頓されている。
すぐの下着のプラケースが見つかった。開けてみると整然と下着が入っている。ブリーフもきちんと整理されて入っていた。
ただ、私の下着は見つからなかった。まさか、パパが気付かないで履いて行ったはずはない。でもあり得るかもしれない。私も気づかないで履いていたから。確信はもてなかった。それなら、何か言ってくるだろう。
残念ながら私は自分の下着の枚数を把握していなかった。1週間分7枚くらいはあったと思うけど定かではない。それまで待っていればいいことだし、謝ればすむこととだ。
◆◆ ◆
すっかり、忘れていた。間違えたことが分かった翌日に洗濯が終わって、ベランダで干していると、私の下着が2枚あった。確か昨日は1枚しか着替えなかったはず。1枚はどこから出てきた? 先日の洗濯の際に取り出すのを忘れて残っていた? そんなはずはない。昨日は1枚畳んでしまったのを覚えている。
ということは、パパが出した? でもパパのブリーフはちゃんと1枚ある。どこからか1枚出てきた。考えてみるとパパしか考えられない。きっと間違えたことが分かって、私がいやな思いをしないように、分からないようにしたんだと思う。聞いてみてもきっと知らないと言うと思う。
でもそれから1か月くらい後になって、パパは何を思ったのか、白のブリーフを黒のボクサー型のパンツに徐々に買い替えていった。ほとぼりが冷めたと思ったのだろう。そのとき私はパパも私のものを間違えて穿いたんだと確信した。
でもパパらしい。私が嫌がると思って気を使ってくれたんだ。それまで私のことを大切に思っていてくれることが嬉しかった。だからこのことは気がつかなかったことにしておこう。
今日、パパは仕事で帰りが遅いといっていた。おそらく午前様になるから先に寝ていてくれればいいと言っていた。
こんなに遅くなることは初めてだった。同居生活を始めてから7時前後には帰ってきていた。たまたま仕事で遅くなってもせいぜい8時ごろだった。
私が食事をしないで待っていてくれるから悪くて早く帰るようにしているのだとか。新婚さんはこういういう感じかなとか意味深なことを言っていた。
パパは私のことをどう思っているのかはっきり分からない。父親代わりとして、私の面倒を見てくれているし、可愛いと思ってくれているのは間違いない。だって、洋服を何着も買ってくれたし、ヘヤサロンにも連れて行ってくれた。
髪形をショートにした時に私をジッと見た目は確かに男の人の目だった。それに私がパパと呼んで良いかって聞いたときに、一瞬見せた寂しそうな表情、あれは何なの? 私を一人の女性としてみてくれているの?
私は元々パパが大好きだった。私好みのイケメンで、初めて会った時から叔父さんというより男性として見ていた。血のつながった叔父と姪は結婚できないけど、全くの他人だから当たり前だと思う。
事故があるまでは数えるほどしか会っていないけど、素敵な人と思っていた。だから、東京へ来て一緒に住まないかと言われた時は嬉しかった。
でもパパは私のことを大切にするだけで、手は繋いでくれても、自分からは指一本触れてこない。私の部屋には絶対に入ってこない、ノックするだけ。話すときもドア越しだ。
でもお風呂上りの私を見る目、あれは男の人の目だ。もし、パパが私を押し倒して、求めてきたら、どうする? 少し抵抗して受け入れる? そんなこと絶対に起こらないと思うけど、受け入れると思う。そんなこと考えていたら、眠ったみたい。
夢うつつの中で、私の部屋のドアが開く気配を感じる。誰かが布団をまくって布団の中に入ってきて私に覆いかぶさる。夢を見ているの? 夢じゃないと分かると、とっさに恐怖感から「ギャー」と奇声を連発してしまった。
でも少し変、覆いかぶさるだけで、何もしない。体重が私にかかる。アルコールの匂いがする。それにこれはパパの匂い? 酔った勢いで私の部屋に?
布団の中でドタバタしていると、外から玄関ドアをたたく音がする。隣の住人がマンションの警備会社へ連絡したので、ガードマンが急遽到着した。合鍵を使って部屋に入って、その侵入者を取り押さえた。
明るくなるとやっぱりパパだった。その後、パトカーが来るやらで一騒動になった。
私は驚くやら恥ずかしいやらで、どうしてよいか分からず、泣き出してしまった。私が泣いたことによってますますパパの立場は悪くなった。
パパは酔って間違って前に自分が使っていた部屋に入ったと言い訳をしているけれど、全く聞いてもらえない。こうなった状況からはDV(ドメスティックバイオレンス)か何かがあったと見られて当然だ。
それにパパと私の関係を聞かれていた。義理の姪だと答えていた。間違いがないけど、この状況ではなおさらDVを疑われる。
お巡りさんが私に事情を確認するころには、私も状況が呑み込めて、事の重大さが分かってきたので、パパの勘違いと私の思い違いをなんとかうまく説明できた。
お巡りさんは何度も私に本当にDVはなかったのか、そういうことで間違いないかと確認していた。私が何度も否定したこと、でようやくお巡りさんも納得したみたいで、パパは解放された。もう酔いはすっかり醒めたみたい。
ガードマンやお巡りさんが引き上げていった。ようやく平穏が戻った。疲れがどっと出た。パパはうなだれてぐったりしている。
「申し訳ない。酔っていたとはいえ、以前の自分の部屋と間違えたことは、全く迂闊だった。誤解しないでほしい。信じてほしい」
パパは手をついて謝ってくれた。
「始めは本当に不審者が入ってきたと思ったから大声を上げてしまいました」
「本当に驚かしてごめん」
「でも、でも少し変だったの。覆いかぶさるだけで、何もしないし、アルコールの匂いがしました。それにパパの匂いがしたから、酔った勢いで私の部屋に入ってきたと思ったの」
「ごめん、本当に自分の部屋と間違えたんだ」
「パパだと分かってからは、驚くやら恥ずかしいやらで、泣いてしまって」
「本当にごめん」
「それに部屋の内鍵をかけていませんでした。こういう間違いも起こると分かったので、これからは必ず鍵をかけます」
「そうしてくれると安心だ。でも二度とこういうことがないように気を付けるから」
「事情はよく分かりました。パパは疲れているみたいだから、もう寝てください」
「ああ、そうさせてもらうよ。おやすみ」
「私も寝ます。おやすみなさい」
その後、お互いに気まずさを感じながらも疲れて就寝した。
次の朝、パパはひどい二日酔いになった。
「酔っぱらいには本当に手数がかかりますね。身体に悪いのでこれからは飲みすぎに注意して下さい」
「今回のことで、身に染みて分かった」
それで朝食にお粥を作ってあげた。パパは、照れくさそうに「美味しい」と言って食べてくれた。
いつもより2時間遅れて、近所を気にしながら二人一緒に出かけた。なんとかお互いに信頼関係を修復できたみたいでほっとした。
でも、泥酔して無意識で私の部屋に侵入したのは、パパの心の片隅にそういう思惑があったのかもしれない。もしそうなら正々堂々ときてほしい。やっぱり無理かな?