就職してからもう2週間たった。お給料をもらうのは大変なのが良く分かった。学生のうちは本当に楽だった。
幸い職場では皆親切にしてくれる。仕事も教えてくれる。女の子だからかもしれないが、甘えてはいけないことも分かっている。
ホテルのコックさんの仕事は始めに思っていたよりもはるかに大変だった。シフト制で早番、遅番があるし、急に宴会が入って遅くなることも少なくなかった。
休みも週に2日ほどあるけど、不規則でウィークデイが多い。土日に休みのこともあるが、疲れて、昼ごろまで寝ていることが多くなった。
早番の時は、始発の電車に乗って出勤している。遅番では帰るのが終電に近いことも度々だった。新入社員だからそれなりに気を使って早番の時は早めに出勤して、遅番の時は最後まで残っている。
勤め始めると家事は毎日できなくなった。それでも休日にまとめてするようにしているが、疲れて昼頃まで寝ていることが多く、思うようにできていない。
パパはできるだけ家事に協力してくれて、私に過度の負担がかからないように気を使ってくれている。パパが気を使っていてくれるのが嬉しい反面、何もしてあげられない自分にいら立つこともある。
それにすれ違いが多くなり、一緒にいる時間が学校に通っているときよりもずっと少なくなったので、会話ができなくて、寂しくてものたりない感じがする。
私は徐々にピリピリ、イライラしてきているのが分かっているが、なんともならない。それがまたイライラの原因になる。
◆◆ ◆
勤めはじめて2週目の土曜日、遅番の日だった。前日も遅番だった。だから朝は起きられなくてゆっくり起きてきた。
「おはよう。お昼まで寝ていていいんだよ。午後から出勤だろう」
「そんな訳にはいかないわ。お昼ご飯の準備をします」
「いいから、休んでいて」
私はすぐに昼食にチャーハンを二人分作った。パパは一口食べると「このチャーハンは実にうまい。どこかの中華料理店よりもはるかにうまい」と言ってくれた。作ったかいがある。
「後片付けは僕がするから」
「私がしますから」
パパにさせないように食べ終わるとすぐに二人の食器を持ってキッチンへ向かう。洗い終わるとすぐに自分の部屋に入った。
パパに褒められて、機嫌を良くした私はすぐに出勤の準備を始める。もう少しゆっくり出勤しても良いと思うけど、新人だから早めに行くことにしている。
出がけに、明日は非番だから久しぶりに二人でゆっくりできると言うとパパは嬉しそうだった。私も嬉しい。
◆◆ ◆
私が遅番の時にはパパは必ず起きて私の帰ってくるのを待っていてくれる。駅まで迎えに行ってもいいと言ってくれるけど、パパも疲れているのにそこまでしてもらうのは申し訳ないので、それは必要ないと言っている。
気が付いたら五反田駅に戻っていた。これで2回目だ。もう終電がなくなっていた。慌ててパパに電話する。まだ起きていてくれると思う。すぐに出てくれた。
「久恵です。今、五反田です。終電に乗り遅れました」
「ずいぶん遅いので心配した。それならタクシーで帰ってきたらいい」
「そうしようと思います」
「タクシーで帰ってきたことは?」
「ありません。タクシーなんてもったいなくて」
「行き先だけど、どう言うか分かっている?」
「東急の雪が谷大塚駅かな?」
「それじゃあ、行き過ぎだ。また、歩いて戻らなくちゃいけない。いいか、中原街道を行って、外を見ていて洗足池駅を過ぎたら注意していればいい。何回か歩いたことがあるからどこを走っているか分かると思う。坂を上ったところ、僕が肩を脱臼してタクシーで降りた辺りで降りたらいい。迎えに出ているから」
「分かった」
大通りのタクシーで降りる場所あたりでパパが待っていてくれた。タクシーを降りて駆けて行って抱きついた。パパはしっかりと抱き締めてくれた。それからゆっくりマンションへ戻った。
「ご心配をかけしました」
「夜遅くまで仕事大変だったね」
「すぐに休みます」
私はお風呂に入る元気が残っていなかった。すぐに休みたかった。お布団に横になると安心してすぐに眠った。そのまま朝までぐっすり眠った。
◆◆ ◆
翌日の日曜日、私は物音で目が覚めた。12時になっていた。すぐに部屋を出ていく。
「ごめんなさい。昨晩は遅くなって」
「もう元気になった?」
「ぐっすり眠れたので疲れがとれました」
「食事の用意ができているから食べよう」
「すみません」
食事をしながら、昨夜のことをパパに話した。
五反田に着いたのは11時半過ぎで、まだ電車が何本もある時間だった。ところが電車に乗って目覚めたら蒲田だった。乗り過ごしたのでそのまま待って電車に乗っていたところ、目が覚めたら五反田だった。
今度こそ降りようと思っていたけど、目が覚めたら蒲田だった。本当に今度こそと思っていたけど、目が覚めたら五反田でもう電車がなかった。それで驚いて電話したのだった。
まさか、眠って2往復もしようとは思ってもみなかった。やはり、よっぽど疲れていたのだと思う。
「終電が近い時は絶対に席に座ったらだめだ。眠ってしまい、こういうことになる。僕も飲み過ぎた時に何回かこういうことがあった。この路線は短くていいけど、会社の人で目が覚めたら雪国で雪が降っていたという話もある」
「疲れていたので五反田でも蒲田でも席が空いているので座ってしまいました。それが悪かったと思います。これからは気を付けます」
「疲れているんだね」
「そうかもしれません」
「今日は一日ゆっくりして、食事は僕が作ってあげよう」
「そうさせてください」
いつもなら「私がします」というところだけど、私は食事を終えるとすぐに部屋に引き上げた。昨日の乗り過ごしのショックからまだ立ち直れていなかった。
今日は遅番だけど比較的早く帰れた。まだ、11時前だ。いつもだと、パパは私の作り置きの料理を食べて食器の後片付けも済ませてくれている。そしてお風呂も済ませている。
「ただいま」
「おかえり」
「パパ、夕食は食べた?」
「ごちそうさま、美味しかった。ビールのつまみもありがとう」
「後片付けしてくれてありがとう」
「久恵ちゃん、夕食は?」
「賄いで済ませました。すぐにお風呂に入ります」
「疲れているみたいだから、少し休んでからにしたら?」
「大丈夫、早く寝たいから」
パパはお風呂が好きだ。ここのお風呂は私も大好き、バスタブが広くて、足が伸ばせて、ゆったりできる。
パパは熱いのが好きで、私は温めが好きなので、後から入るといつも丁度いい湯加減になっている。それで結構な長風呂になる。あまり長いとパパが必ず「大丈夫」と声をかけてくれる。
いつものようにゆっくり入る。お風呂は気持ちいい。ましてこんなお風呂に入れるなんて最高、疲れがとれる。髪と身体を洗って、また、バスタブにつかる。もうすでにかなりの長風呂になっている。
パパがいつものように「大丈夫」と聞いてくる。「大丈夫」と応える。気持ちいい、最高、今日はいろいろあって疲れた。でも早く帰れてよかった。
◆◆ ◆
夢を見ているみたい。誰かが私を抱きかかえている?「大丈夫?」の声が聞こえる。冷たいものが首の下に入れられる。額に冷たいものが載せられる。
目を開けるとパパが心配そうにのぞき込んでいる。
「気が付いてよかった」といって、水を飲ませてくれる。バスタオルにくるまっているけど、裸のままだ。状況が分かってきた。
「私、お風呂で眠っていた?」
「返事がないから覗いてみたら、眠ったまま浮かんでいた。早く気づいたから溺れなくてよかった。あのままだと体温が上がって死んでいたかもしれない」
「ありがとう、疲れていたので眠ったみたい」
「気が付いてよかった。ゆっくり休んだら」
「うん、着替えるから」
「ちょっと待って」
パパはキッチンへ行って冷蔵庫からポカリのボトルを持ってきて枕元に置いてくれた。そして部屋から出ていった。
持ってきてくれたポカリを飲んだ。冷たくて美味しい。ようやく、意識がはっきりしてきた。
私、お風呂で眠ってしまったんだ。裸で浮かんでいた? ここまで運んだのはパパ? 裸のままの私を運んだ? ええええ・・・!
気を取り直して着替える。パパに裸を見られた? 恥ずかしい。
パパがまたドアをノックして、ドア越しに声をかけてくれる。
「大丈夫? もう寝るけど?」
「もう大丈夫です。寝てください。本当にありがとう」
「びっくりしたよ、でもよかった、大丈夫そうで」
「パパ、私の裸見たでしょ」
「慌てていて、そんなゆとりは全くなかった」
「どうだった、私の裸?」
「本当に、驚いてそんな見ているゆとりなんかなかったんだ。感想を聞かれるのならもっとよく見ておくんだった」
「やっぱり見ていたんだ。でもしかたないわ、助けてくれたお礼ということで」
「明日の朝、身体の調子を見て、仕事に行くか決めたらいい。おやすみ」
パパは慌てて戻っていった。絶対にしっかり見ていたはず。まあ、いいかパパには見られても。本当に疲れた。おやすみなさい。
翌朝、目覚めたときに、身体がとてもだるいので、ホテルに体調がすぐれないので1日休ませてもらうと電話を入れた。初めて体調不良で休んだ。パパは心配そうに出勤した。
昼過ぎまで寝ていたらようやく回復した。やっぱり、疲れが出たんだなあ。
◆◆ ◆
私の最初のお給料日にパパは家事とお手当についての相談をしたいと言った。私が就職して扶養家族ではなくなったので、これからは家事のお手当を廃止すること、共働きの家庭と同じように、私に過度の負担がかからないように自分も家事を分担することなどを提案してくれた。もちろん一緒に住むことも。そして私も食費と光熱水費の一部を負担することになった。
夕食は先に帰った方が準備する。
朝食はそれぞれが作って食べて出勤する。
洗濯は随時、それぞれが行う。
洗濯物の取入れは、先に帰った方が行う。
浴室の乾燥室は乾きが悪いので、衣料乾燥機を購入する。
自分の部屋は自分で掃除し、共通スペースはそれぞれが空いた時間に行う。
食材などの買い出しはメールでお互い連絡する。
メールでの連絡を密にする。
問題があればお互いその都度遠慮なく相談する。などなど。
「今日初めてお給料をいただきました。自立できるようにしてもらって本当にありがとうございます」
「兄貴との約束を果たしたまでで、恩にきるようなことではないから、気にしないで」
「本来ならば、アパートを借りてここを出ていかなければいけないけど、今の給料では不十分なので、このまま住まわせて下さい。とてもありがたい提案をしてもらってとっても嬉しいです。これからもよろしくお願いします」
「久恵ちゃんがいてくれた方が楽しいから、遠慮しないでずっとここにいてほしい」
「でもできるだけ家事はやります。だってここでは妻ということになっていることを忘れていないから」
「気にしないで無理をしないこと。体を壊したらもっと大変だ。できないときはできないと遠慮なく言ってくれればいい。久恵ちゃんが来る前は全部自分でやっていたので、全く平気だからね」
「ありがとう」
「もっと仕事を楽しんでほしい。今は仕事も家事も苦痛じゃないの。就職してから久恵ちゃんは少しピリピリ・イライラしているから分かる」
「家事が十分できていないのが申し訳なくて」
「働いているとできないのが当たり前だから」
「分かりました。もっと手抜きして提案に甘えることにします。でも家事をしたいんです」
「ありがとう、その気持ちだけで十分だから」
「甘えついでに一つお願いがあるんですけど聞いてもらえますか?」
「いいよ、何でも聞くよ」
「初めてのお給料でベッドを買いたいんです。友達の家へ遊びに行ったら、ベッドがあってそういう生活にあこがれていたので、ほしいんだけど、いいですか?」
「自分の部屋だから、何をおいても自由だから、買ったらいい」
「うれしい。ありがとう」
次の休みの日に友達とベッドを買いにいった。ほしかったのは、ソファーがついていて、配置も変えられる大型の組み立て式のものだった。そこそこの値段がしたけれど、思い切って買うことにして配達を依頼した。
それから、パパにネクタイを買った。朝、手渡して締めてあげると、パパははにかんでいたけど、とても喜んでくれた。よかった。
◆◆ ◆
まもなくベッドが届いた。でもいざ梱包を開けてみると、やはり一人では組み立てられないことが分かった。パパに頼んだら喜んで組み立てを手伝ってくれた。組み立てに結構時間がかかったけど楽しかった。
配置してみると、広めの部屋の1/3を占有するほど大きい。「一緒に寝てみて」と言ったら「いいよ、いいよ」とあわてて部屋を出ていった。二人で寝てみたかったのに!
この後、パパの提案した家事の分担ができて、私には少しずつ生活パターンができてきた。生活パターンができてくると、イライラもなくなってきた。パパと一緒にいる時間もできるだけ作った。
話をすることでまた、距離が近くなった気がする。パパも私と話をしているととても楽しそうだ。私のことを好きになってくれていると思うとなぜか心が安らかになる。ただ、姪や娘としてじゃなくて、好きになってほしい。
就職してから3か月がたって生活にリズムができてきた。私は落ち着きを取り戻し、働きながら生活していくことに自信もついてきた。パパに仕事の話を聞いてもらうようになり、仕事を楽しむ余裕もでてきた。
「明日は早番で早く終わるので、同僚に頼まれた合コンに参加したいけど、どう思う?」
「若い人は若い人との付き合いが大事だから、遠慮しないで行っておいで」
「後学のために一回は行ってみたいと思っていたのでそうさせてもらいます」
「帰り時間をメールで知らせてくれる?」
「はい、心配しないように連絡を入れます」
すんなりと合コンに行くことを承諾してくれた。パパとしては行くなとはいえないだろう。でも少しは心配してほしかった。
◆◆ ◆
1次会の合コンで盛り上がったので、2次会に行くことになった。みんなで新宿のディスコのような踊れるところへ行くというので、どんなところかと興味があってついて行った。
午後8時過ぎに、2次会に行くとのメールをパパに入れると、すぐに[了解、気を付けて]と返信があった。
終電の時間が近づいてきたので、荷物を取り出そうとしたが、ロッカーの中は空っぽだった。ロッカーの場所を間違えていないかと探したが、間違いなく盗難にあったことが分かった。血の気が引いた。店の人に言っても、らちが明かないので、警察へ行った。
バッグの中味は財布、金額は1万円くらい、運転免許証、健康保険証、マンションの鍵、スマホ、化粧品セットなど。警察で盗難届と運転免許証の再発行の手続きをした。
友人から交通費を借りて始発電車に乗ってマンションにたどり着いた。
マンションの入り口で部屋番号を押して、呼び出す。パパは起きてるかな? すぐにインターホンから声がした。
「久恵ちゃん?」
「久恵です。開けてください」
入口のドアーが開いたので、エレベーターで部屋にたどり着く。玄関のロックは外されていた。
「ただいま」
「おかえり、どうした、何かあった」
「心配かけてごめんなさい」
急いで、自分の部屋に駆け込んだ。部屋に戻ってほっとした。しばらく茫然としていたが、パパが待っていると思ったので、部屋着に着替えた。
それから、ソファーにいたパパの隣に座って、これまでの顛末を話した。
「起きていてくれて、ありがとう。パパの声を聴いて安心して力が抜けてしまって、疲れがどっとでてきたの」
私は泣きだしていた。パパは私を抱き締めてくれた。私は泣き続けた。
「盗難だけで済んで良かった。免許証や保険証は再発行してもらえばいい、携帯電話はまた買えばいい、久恵ちゃんの身に万一のことがあったらと心配でならなかった。無事で本当によかった」
パパに抱き締められている。大きな胸の中で、両腕で身動きできないくらいに強く抱き締められている。この守られているという安心感、このパパの匂い大好き。このまま腕の中で眠りたい。
パパが腕を緩めて、私をそっとソファーにもたれさせてから、キッチンに立った。そして、トーストとコーヒーを用意してくれた。
「これを食べて、少し休んだら? 今日は休みなんだろう」
「ありがとう、少し休みます」
それから、私は部屋に戻って、眠りについた。
気が付いたらもうお昼を過ぎていた。パパは私のことを心配して一人にしておけないと、会社を休んでくれていた。
パパはまだ寝ているみたい。部屋は静かだ。よっぽど心労で疲れていたんだと思う。申し訳ないのと、ありがたいのと、嬉しいのとで複雑な気持ちだ。私は音がしないように自分の部屋の片づけをした。
パパは3時過ぎに起きてきた。私が気を取り直して、元気になっているのを見て安心していた。
「もうあんなところ、絶対に行かない。ろくな男いないし。パパみたいな良い男は、早く家へ帰って、ちゃんと食事をして、お風呂にはいって体を休めて、好きなテレビを見たり、本を読んだり、お酒をのんだり、音楽を聴いたり、部屋を片付けたり、明日のための準備をしているのね」
パパは笑って聞いていた。気合を入れて夕食を作る。でもあんなにきつく抱き締めてくれたのは、父親として? 私が好きだから?
私はこのごろ仕事にも慣れて心のゆとりができてきた。時々、非番の休日に友人と食べ歩きをしている。チーフからいろいろ食べ歩くこともコックには必要なことだと言われていることもある。
一緒に食べ回っているのは専門学校の同期の女友達で、あのベッドを一緒に買いに行ってくれた米田さんだ。彼女はパティシエで職場は違うが、気が合って今は時々食べ歩きを一緒にしている。
でも私たちはいわゆるB級グルメで高級レストランを回っているわけではない。まあ、そんな贅沢はできないし、腕を磨くためと言っても限度がある。
美味しいケーキさんでお茶したり、人気のラーメン店やランチが美味しというレストランなどを回っている。私はこってりした味の料理が好きだけど、彼女も割と濃い味の料理が好きで、味の好みも似通っている。
やっぱりこってりした料理を食べてきた次の日はトイレの後が臭う。換気扇を回してもなかなか臭いが消えない。パパに悪いから消臭剤を持って入って噴霧してから出るようにしている。注意はしているが、消しきれない臭いが残ることがある。
昨日は早番だったので、友達とB級グルメの探索をした。パパはにおいに敏感だから、帰ってきた時に「今日は美味しいもの食べた?」と聞かれた。
今日の土曜日、私は非番で休日だ。二人の休日が重なる日は貴重だ。
私はベランダへ出てガラス戸を拭いて、それからベランダを履き掃除している。今日はお天気が良くて清々しい風が吹いて、心地よい休日だ。
パパはソファーに寝転んで私を見ている。戸口から心地よい風が部屋に入っている。パパは気持ちよさそうだ。こういう毎日が幸せな日々というのかとふと思ってしまう。
気持ちがいいけど、ちょっと催して、意識しないで漏らしてしまったみたい。
「なんか異臭がする。外から風にのって入ってきているみたいだから、中に入った方がいいよ」
「ベランダでは臭わないけど、どんなにおい?」
私は、まさかと思って、中へ入ってクンクンした。
「何も臭わないけど」
そういうとまたベランダへ出た。でも、我慢しきれなくなってまた漏らした。やっぱりさっきの異臭というのは私の?
「やっぱり異臭がする。とりあえず中に入っていた方がいい」
また、中に入ってくんくんする。今度は臭いが分かった。「へへ」と照れ笑いするしかなかった。そして「大丈夫だと思う」と言った。
「どんな臭いか分かった? すごい臭いだろう。命の危険を感じない?」
「命の危険? これくらいの臭い大丈夫じゃない。それも微量だし」
パパが私をじっと見てる。笑いを隠せない。もう隠せない。すぐに謝ることにした。
「へへ、ごめんなさい。我慢できなくて、ベランダだから大丈夫だと思った」
「ええ、勘弁してよ、風上でするのは」
「昨日、お友達とガーリックが効いた美味しい料理を食べたの。それで今朝、お布団の中で漏らしたら、この臭いがした。ごめんなさい」
「確信犯だ!」
「これからは気を付けます」
それから私はB級グルメめぐりではにおいのきつい料理を避けることにした。美味しいけどしようがない。米田さんにはその理由を話せなかった。
パパは私のいないところではしているかもしれないけど、私の前では絶対にしない。パパの部屋に入ると変なにおいがすることがある。
お互い目の前でするようになれば夫婦も本物だという話を聞いたことがある。でもパパとこきっこをするなんて、想像するだけでも興ざめだ。
今日、私は遅番だったので、マンションへ帰ってきたのは11時を過ぎていた。明日から3日間は自宅待機で家にいることになった。それで浮き浮きした気分で帰ってきた。
立食パーティーで会場に料理を運んで行った時に、嘔吐したお客さんがいたので介抱した。嘔吐はノロウイルスによるものと疑われているので、コックの私が感染した可能性があることから様子をみるために自宅待機となった。
3日間は良い休養になる。朝から家事に専念できるし、パパの面倒も十分に見てあげられる。ただし、発病しなければの話だ。
それから2日目の朝、朝食の後でパパが激しい嘔吐に襲われて、すぐにトイレに駆け込んだ。朝起きた時から下痢していて体調がすぐれなかったようだ。
「ひょっとするとノロウイルスに感染したかもしれません。今日は会社を休んでお医者さんに診てもらった方がいいと思う」
「そうする」
「近くの医院の方がいいです。それから行く前に電話をしてから」
ホテルで感染が分かった場合の対処法を聞いていたので教えてあげた。パパは9時になると会社に連絡して状況を伝えた。それから、近くの医院へ電話して診てもらいに行ってきた。
診断の結果、おそらくノロウイルスに感染したとのことだった。2~3日で良くなるので、自宅で療養するように言われたという。それにノロウイルスには効果的な薬はないそうだ。
ほかの原因の可能性も否定できないので、抗生物質と制吐剤を処方してくれた。下痢はそのうち治まるので、脱水症状が出ないように水分を補給するように言われたそうだ。
「ホテルに家族がノロウイルスに感染したようだと連絡したら、その家族が回復するまで自宅待機するように言われました」
「それは大変だ」
「でもパパを看病してあげられるからよかった」
パパにはすぐに部屋で寝てもらった。それからトイレから出たら必ず手を良く洗うことを厳命した。
私は自分に感染するのを予防するために使い捨ての手袋をしてトイレをはじめ家の中をくまなく漂白剤を薄めた液で消毒した。
食事はマスクをした私が部屋まで運んだ。その日は下痢が続いたので夕方まではポカリだけを飲んでもらった。夕方には下痢が収まったので、夕食にはおじやを作ってあげた。
吐き気は制吐剤を服用しているためか治まっている。次の日は朝、昼、晩と食事ができるようになった。でもお腹に優しいおかゆが主体の食事にした。
「これじゃあ、力も出ないし、回復しない」とパパが言っている。明日からは普通の食事にしてあげよう。
3日目にパパはすっかり回復した。下痢、吐き気は全くない。明日から出社することになった。私もホテルに連絡したら明日から出勤するように言われた。
ようやくひと騒動終わった。幸い私は発症しなかった。でもなぜパパだけ感染して発症したのだろう。感染しても発症しない人もいると聞いた。
でもパパが休んでいた3日間、私のせいでパパが感染したのだと思って、据え膳下膳でつきっきりで一生懸命に看病した。それはそれで楽しい日々だった。
今回の感染騒動では、私もゆっくりできてよい休養になった。まあ、不幸中の幸いと思うしかない。
玄関を入るとパパがすでに帰宅していた。そういえば、今日は、午後からお台場の国際会議場へ食品関係の展示会を見に出かけて直帰すると聞いていた。
「ただいま」と言って、付き添ってくれた山田さんと急いで自分の部屋に入った。
「山田さんありがとうございました。家まで付き添ってくれて」
「私に任せて、無理しないでしばらく休んでいればいいから」
「しばらくは行けそうもないので休暇届をお願いします」
「分かったわ、叔父さまに言いにくかったら、私から事情を話しましょうか?」
「いいえ、落ち着いたら自分で話そうと思います」
「それならいいけど。ホテルの状況は私から連絡してあげる」
「もしかすると、これきりでやめるかもしれません」
「まあ、じっくり考えて。連絡は携帯へするから」
山田さんが帰るので見送りに部屋を出た。
「私にまかせて、無理しないでしばらく休んで、いいわね」
山田さんは、玄関に見送りに来たパパに「彼女が自分から話をするというので、よく聞いてあげてください」とだけ言って帰って行った。
自分の部屋に戻ってこれからどうしようかと考えた。でも一人で考えていても、悔し涙が出るだけで、思い切ってパパに話を聞いてもらう決心をして部屋を出た。ソファーにパパが座っている。
「よく面倒を見てくれていたチーフに、仕事中、突然キスされたの。チーフは40歳前後の独身で、フランス料理はかなりの腕前で、新入社員の私を親切に指導してくれていたの。私は彼を先輩として尊敬していたのだけど、思いもしない突然のことなので、驚いてトイレに駆け込んだの。上司として尊敬していたけど、男性としては全く意識していなかったから。でも、こんなことになって、このまま黙っていると、どんどんエスカレートしそうで心配になって。でも口に出したら、ここにいられなくなるかもしれないと、何度も悩んだけど、誰かに相談しようと、気が合って親しい先輩の事務の山田さんに相談しにいったの。そうしたら山田さんは『それはセクハラ、ちゃんとしなきゃダメ』と言って、すぐに副支配人のところへ報告に行ってくれました。それから、副支配人に呼ばれたので、山田さんの立会いの下で、事情を話したら、事実確認をするので、今日は帰るように言われました。あれこれ考えてしょんぼりしていると、山田さんが心配して家までついてきてくれました。休暇が残っているので、とりあえず、休暇届を出すのを山田さんに頼みました。しばらく、どうするか考えるけど、私は今の職場を今月一杯でやめようと思っています」
パパは黙って話を聞いてくれた。
「パパも賛成だ。いったん壊れた人間関係の修復は困難、いやできない。どうしても、しこりが残る。だから、どんな時でも、最後まで絶対言ってはいけない一言や、絶対してはいけないことがある。それを通り越したらもう引き返せない。仲直りして、忘れたようであっても、何かの拍子に思い出す。覆水盆に戻らず。パパも何回もそれで痛い目にあっている」
ホテルをやめると思うと悔し涙が出てきた。この気持ちをなんとかしなければと思っていると一発逆転の良い考えが浮かんできた。
「パパお願いがあるの。どうしても聞いて、でないと立ち直れそうにないから」
「何? 何でも聞くけど」
「キスして下さい」
「ええ! 今それで大変なことになり、悩んでいたんじゃないのか?」
ここは頑張ってどうしてもキスしてもらうときめた。パパも拒否しないだろう。賭けてみたい。
「お願い、どうしてもお願い」
「うーん、分かった。それで立ち直れるというのなら。目をつむって」
パパは唇に軽く触れるだけなので、私は目を開いて「そんなんじゃなくてもっと強く」といって唇を押し付けた。パパが慌てて引き下がる。
「もう一回、強く、しっかり、お願い!」
今度はパパも意を決したのか、両手を頬にやさしく触れて、丁寧にゆっくりと長めのキスをしてくれた。気持ちが込められていたのが分かったので、驚いてじっとしていた。
「もう一回お願い!」
今度は両手で身体をやさしく抱いて、思いを込めてキスしてくれた。それがすごく長い時間のように感じられた。身体から力が抜けてうっとりした。パパはキスがとってもうまい、なぜ? パパが身体をゆっくり離すけど、恥ずかしくて顔が見られない。
「これで3回してもらった。チーフより2回多い」
「ええ、回数の問題か?」
「回数は大事。だってパパの方が私の唇の感触をより多く知っているでしょ!」
「これで立ち直れるのならいいけど」
「もう大丈夫、ありがとうございました。ご心配をおかけしました」
私は急いで自分の部屋に戻った。パパに抱かれてキスされた感触が唇やら身体に残っている。うっとりして、しばらく何もできなかった。抱かれてキスされている時の安心感というか幸福感は初めての経験だった。
私はパパが本当に好きなんだ。あの抱き方、あのキスの仕方、パパも私のこと好きで、私がほしいのかもしれない。チーフのことなんかすっかり忘れて元気が出てきた。キスしてもらうことにしたのは確かに名案だった。
◆◆ ◆
後日、ホテルから家族の方に来てほしいとの連絡が入り、約束の日にパパは出かけて行った。パパの話では、約束の時間に訪ねると支配人以下、総務部長など幹部数人が部屋に集まっており、今回のセクハラ事件の謝罪があったという。
現在、処分を検討中で、後日結果を知らせるとのことだった。そして、パパは私に一切の落ち度がなかったことを確認して謝罪を受け入れたと言っていた。
また、今月末で退職することを伝えて、今後の私の再就職活動中に中傷や妨害があったら、断固とした処置をとることを明言して帰ってきたそうだ。父親代わり、ありがとうございました。
◆◆ ◆
それから、私は1か月就職活動をした。幸い調理師免許を持っていると、給料は底々ではあるが、就職口はいくらもあった。私は社員食堂の運営会社に就職を決めた。
その理由は、昼食を作るがメインの仕事で、朝は定時に出勤すればよく、4時過ぎには帰れる。夜遅くなるのは、食堂でパーティーがある時だけで回数は少ない。年末年始、土日祝日は休み、つまり生活パターンがパパと同じになるということだ。
あと、フランス料理の料理人になるセンスがないと自覚したからでもある。それは、自由が丘のレストランを1週間位、見習いで手伝っていたけど、良い待遇が受けられないことが分かったからだ。その理由はシェフにセンスを見抜かれたからに違いないと思っている。
自分がフランス料理のコックに向いているか分からないといって、パパに相談したことがあった。
「久恵ちゃんの料理は美味しいし、味付けもなかなか良い。パパは大好きだ。ただ、料理人としてみた場合、上手なだけでキラッと光るものは感じられない」
「キラッと光るものって?」
「センスと言ってもよいのかもしれない。これは生まれながらにして備わっているもので、必ずしも努力で補えるものではないと思う。直感的にできてしまう何かだ。パパも研究や仕事でそういう人、何人かに会っている。この人にはどうしてもかなわないなと思う人に」
「確かに、調理師学校でも同期にそういう人がいたわ。ほんの一人か二人。私とは全然違う。格が違うというか」
「それが分かるということは、久恵ちゃんもある程度はセンスが良いのかもしれないね」
「分かった、ありがとう。参考になりました」
「それから、人には何か、他の人よりすごく優れている点が必ずある。それが何か分からないだけだ。また、何でも上手くできる人はいない。天は二物を与えず。お勉強が凄くできても、運動はからっきしダメとか。神様は人間を平等に作られている。久恵ちゃんもそれを探したら良い」
再就職後、二人の生活パターンが同じになったことにより、会話の時間が増えて、生活にも落ち着きが出てきた。休日は朝寝したり、二人でショッピングや食事に出かけたりと、まるで、共働きの夫婦のような生活で毎日が楽しい。
ただ、あのキスの後、私のパパへの思いがすごく変わった。以前よりまして男性としてみるようになった。だから、一緒に生活していてドキドキすることが多くなった。また、いろいろ気になることが出て来て聞いてみたいことも出てきた。
「なぜ、パパは結婚しなかったの?」
「自分にとって大切に思える人がいなかったから」
「一人で寂しくなかったの」
「人は生まれた時も死ぬ時も一人。その寂しさが分かったので、人を大切にできるようになった」
「私も一人になったので、分かる」
もっといろいろ聞いてみたいけど思いつかないし、きっかけがない。
パパが3月下旬に2泊3日で伊豆の下田で行われる研修会の出張が決まったという。
「久恵ちゃんが東京に来てから、ほぼ2年たつけど、気分転換に旅行にでも行くつもりで一緒に来ないか?」
「伊豆なんて行ったことないから連れて行ってもらえますか? 有給もあるから」
「昼間は研修会に出席していていないから、一人で気ままに辺りを散策すればいい」
「そうするわ」
「部屋はどうする?」
「一緒でいいですけど」
誘われた時、パパの気持ちを試す良い機会だからとすぐに決めた。「部屋はどうする?」と聞いてきたけど、どういう意味か分からなかった。「一緒でいいか?」と聞いてはこなかった。パパはそういう人だ。私の気持ちを一番に考えてくれる。
別の部屋にするのは他人行儀すぎるし、パパと同じ部屋で過ごしたかった。パパは海が見えるという民宿に一室を予約した。
◆◆ ◆
朝、品川駅から特急で伊豆下田へ直行した。途中、河津桜が満開で綺麗だった。予約した宿に到着したけど、ほとんど旅館と同じだった。案内された部屋は2階で海が見える。
午後1時から研修が始まるので、二人で近くの食堂へ行って昼食を摂った。食べ終えるとパパはその足で研修会へ、私は付近の散策に出かけた。「早く帰って」「迷子にならないで」と別れた。
3月の伊豆は暖かくて、気持ちがいい。水族館があったので入ってみる。いろんな魚がたくさんいた。アシカショーをしていたけど、一人で見るのはつまらなかった。歩き回るのに疲れたので、ほどほどにして宿に帰ってきた。
2階の部屋で海をみていると、自然と今夜のことが頭に浮かんでくる。ここまで一緒に来たけど、どうしよう。
5時過ぎにパパが戻ってきた。
「どうだった、見物できた?」
「海岸をブラブラして、水族館があったので入ったけど、一人じゃつまらないので、早々に引き上げて来て、ここで海を見ていました」
「食事まで、時間があるそうだから、海岸へ散歩に行かないか?」
「うん、行く」
海はもう薄暗くなっていて、月が出るところだった。黙って月を見ていると、パパが後ろからそっと抱きしめてくれて、頬にキスをした。
キスされるとは思っていなかったので驚いた。パパはどうして私にキスしたんだろうと考えて黙ってじっとしていた。それから二人はしばらく黙ったままだった。
「寒くなってきたから、お部屋に戻りましょう」
「そうだね。風邪を引くといけない」
私から手を繋いで歩いて帰ってきた。パパは私の手をしっかり握ってくれた。
部屋に戻ると夕食を用意しているところだった。民宿なので、豪華な食事ではないけど、新鮮なお刺身、焼き魚などが並んでいる。
宿の人が食事の準備を終えて出ていくときに、私に向かって「奥さんお願いします」と言った。それを聞いて私は緊張してきた。黙ってご飯をお椀によそってパパに渡す。
パパは私の顔を黙って見ていて、何も言わなかった。二人で手を合わせて「いただきます」と食事を始める。
パパが「美味しいね」と話しかけるが「うん」と言う返事しかできない。私は頭の中が今夜のことでいっぱいになっていた。
「身体の具合でも悪いの?」と聞いてくるけど「何でもない」とそっけない返事しかできない。これじゃあいけない。何か話さなければと思っても緊張して言葉が出てこない。
「初めての伊豆はどう?」
「海岸線が綺麗です」
「明日はどこを回る予定?」
「まだ、考えていません」
何か気の利いた返事ができないか考えているけど、思いつかない。話が続かない。パパも何かないかと話題を考えているけど、私がのってこなければ話のしようがない。
パパは食事に集中する。申し訳なく思ってパパを見ていると、パパが私の視線に気が付いて私の方を見る。私はあわてて視線を逸らす。食欲もあまりない。
「これ美味しいね」
「うん」
話のはずまない食事が終わった。パパとの楽しいはずの夕食を台無しにしてしまって、ごめんなさい。パパも私が何を考えているか気が付いたみたいで、笑顔を装って、時々私をチラ見している。
係りの人が食事を片付けながら「お風呂まだじゃないですか」と聞いてくる。「パパ、先に入って」と言うと、パパは一階の浴室へ降りて行った。
係りの人が後片付けを終えると、今度はお布団を敷いてくれる。布団を2組並べて敷いてくれた。これからどうしようとジッと見つめている。
ほどなくパパが戻ってきた。「お風呂どうぞ。温泉だよ」と言われて、黙って浴衣と着替えを持って浴室へ降りて行く。
この後のことも考えて、丁寧に身体を洗った。そして覚悟を決めた。私からパパの布団に入って行こう。拒まれたら、抱きついて、泣いちゃえばいい、何とかつくろえる。下着はつけないことにした。
部屋に戻ると、パパは縁側のソファーに腰かけて海を見ていた。さっきの月が随分高くなっている。何を考えているんだろう。何か話しかけてくるかと思ったけど何も言わなかった。きっと私が緊張していたのが分かったからだと思う。
並んでいた布団がかなり離してある。きっとパパは自分からは行ってはいけないと思っているに違いない。でも私が欲しいことは間違いない。あのキスをしてもらったときに確信したから。
だからやっぱり、私から行くしかない。でも拒絶されたらどうしよう。それが怖い。黙って離れた布団に入ってパパに背を向けた。
私が黙って布団に入ったので、パパは部屋の明かりを消して布団に入った。明かりは枕もとの小さいスタンドだけだけど、部屋にはカーテンを開けた窓から月の光がさしている。
沈黙の時間が続く。どれくらい時間が経たか分からない。パパはやっぱり来てくれない。私は決心して起上るとパパの布団の中に身体を滑り込ませた。恥ずかしいので顔を向けられない。
パパが手を握ってくる。私はその手を強く握り返しながら「明かりを消して」と言って抱きついた。明かりを消してくれた。
パパはあの時のように私を抱き締めてキスしてくれた。それからのことは頭の中が真っ白になってよく覚えていない。
突然痛みが走って「痛い痛い!」と言ったら「ご免ね、止める?」と耳元でいうので「止めないで」と言う。パパが続けるとやっぱり痛い。「痛い」と言うと止めてくれる。
でも「痛いけど絶対に止めないで我慢するから」と言った。それでも私が痛がるので「これでおしまい」とパパが身体を離した。
そして「大丈夫?」と聞いてくれた。薄暗い中で見たパパの優しいあの目が忘れられない。パパは私を抱き寄せてくれた。
「ちゃんとできたかな?」
「うん、大丈夫」
パパの顔が見たいけどもう恥ずかしく見られなかった。
「よかった、これで私はパパのもの、ああ疲れた、寝ましょう」
この時はすっかり緊張が解けて元の私に戻っていた。パパは優しく私を後向きにして、後ろから抱きかかえるようにして寝てくれた。背中が暖かい。
◆ ◆ ◆
明け方、生理になりそうなのに気づいて目が覚めた。外は雨が降っている。パパはまだ眠っている。そっと布団を抜け出して1階の浴室へシャワーを浴びに行った。
部屋に戻ると窓際のソファーに座ってパパの寝顔を見ながら、昨夜のことを思い出していた。恥ずかしい、あんなことがよくできた、でもよかったと幸せの余韻に浸る。
パパが目を覚ました。
「おはよう、昨日の夜はありがとう、嬉しかった。でも今日はだめよ、生理になっちゃった」
「そうなんだ、大丈夫?」
パパはそれだけ言うと、やさしく微笑んだ。
食堂で民宿らしい朝食を二人で食べている。私はお腹が空いていた。美味しい。二人ともほとんど話をしない。でも心は満ち足りていて幸せな気持ちでいることがお互いに分かる。パパの私を見る目が優しい。時々ジッと見つめている。視線を感じると恥ずかしくなる。
パパの研修会2日目。出がけに「今日は雨の日だけと見物に出かける?」と聞かれた。
「ここで海を見ている。早く帰って」と答えると「もちろんだよ。ゆっくり休んで」と言って出ていった。今日は雨の日だし、ここで一日中、海を見ながら幸せに浸りたい。
◆◆ ◆
研修からパパが帰ってきた。ずっと一人で海を見ながら帰りを待ちわびていた。長い時間のようで短いようにも思えた。
拒絶されたらどうしようと思ったけど、気持ちが通じた。昨夜は決心して本当によかった。帰ってきたら飛びついて抱きつこうと思っていたけど、何故かそれができなかった。いつもの私ではない。
もじもじしているとパパがソファーのところまで来てハグしてくれた。この時初めて私はしっかり抱きついた。そしてキスをねだった。
2日目の夕食も話が弾まなかった。私のせいだった。私はパパの顔を見ると恥ずかしくなって、話ができない。話しかけられてもうまく話せない。どうしたことか、もどかしい自分が分からない。
それでも食事の後に二人でソファーに座って暗くなっていく外の景色を見ながら腕にしがみついていると落ち着いてきた。パパと交代で今日もお風呂に入った。
並べて敷いてある布団にパパが先に横になっている。私はお風呂から戻って隣の布団に入って話始めた。
「私が中学3年生の時、高校受験のため夜遅くまで勉強していた時だけど、夜中に1階のトイレに下りてゆくと何か声が聞こえるの。パパとママの部屋の戸がほんの少し空いているので中をそっと覗いたら、パパとママが愛し合っていたの。驚いてそこを離れなければと思ったけど、見続けてしまったの。薄暗い中でママの顔が見えたけど、今までに私が見たこともない幸せそうな表情だったわ。でパパはというと、怖いような顔をしてママを見てるの、でもママにとっても優しくしていた。そっと戸を閉めて2階に上がったけど、二人の姿が目に焼き付いて眠れなくなって」
「・・・・」
「私、始めは痛いと聞いていたけど、少しだけで、あとはママのようにもっと素敵なことを想像していたんだけど、ごめんなさい」
「そのうち慣れてくると痛くなくなってママのような幸せを感じるよ」
「昨日明かりを消してもらったのは、パパの怖い顔を見たくなかったから」
「男はそういうときには怖い顔になるんだ、全神経を集中して愛するために」
「ふーん、そうなんだ」
パパは私の顔をじっと見ている。私が見つめると照れくさそうに微笑んだ。私が手を伸ばすと手を握ってくれた。
「おやすみなさい」
◆◆ ◆
研修3日目は12時で終了した。宿に戻って、今日は晴れたので、その辺りを二人で散策した。
ほとんど会話らしい会話をしなかった。ただ腕を組んで歩き回るだけでよかった。それでも二人の気持ちは十分に通い合っていた。
「早くお家へ帰りたい」
「そうだね。家でゆっくりしたいね」
それで早めに帰宅の途についた。帰りの電車で私はしっかりパパの腕を抱えて座っていた。ほとんど話をしなかったが、心は満たされていて、電車の揺れがとっても心地よかった。
◆◆ ◆
マンションへ帰ってまた普段の生活が始まった。私は、生理中は自分のベッドで眠り、パパの布団に入っては行かなかった。本当は後ろからやさしく抱かれて眠りたかった。でも私はあの晩のことを思い出すだけで十分に幸せな気持ちでいられた。
やっと生理が終わった。お風呂から上がるとすぐにパパの部屋へ行って布団に入る。
「生理終わった」
「待ち遠しかった。久恵ちゃんのいい匂い久しぶり」
「久恵ちゃんは生理の時には、布団に入ってこなかったけどどうして? 少し寂しかったけど」
「ごめんね。生理の匂いが気になるから」
「そうじゃないかと思っていた。生理の匂い、分かるよ。昔、一緒に研究していた女性のにおいで気が付いた」
「あまりいいにおいではないと思うけど、どう?」
「男にとっては良いにおいではないと思う。いつもの久恵ちゃんの匂いとは全然違う。やっぱり、嗅ぎたくないにおいかな」
「自分でもそう思うから、生理の時は遠慮していたの」
「生理中は、妊娠しないけど、やはり、血とかにおいでする気がしないし、できないかな。妊娠しない時には、接触を避けるための自然の摂理なのかもしれないね」
「狭い部屋の方が落ち着くね」と私が抱きつくと「久恵ちゃんが心配で無理しないよ」と言って、パパはやさしく私を可愛がってくれた。
やっぱりまだ痛い。痛いと言うとパパは止めてしまうから、我慢している。でもやっぱり痛い。
「痛い痛い」と声を出してしまった。パパは心配そうに私を見て、すぐに「これでおしまい」と言った。
「ごめんなさい。心配してくれてありがとう」
「昔、同期の友人が得意げに結婚した時のことを話していたけど、初めてなので痛がって、まともにできるようになるまで1週間かかったと言っていたよ」
「ええ、1週間もかかるの? でもまた明日頑張る。初めての夜にしてくれたように、後ろから抱いて寝て下さい」
「ああ、そうしてあげる」
「あの最初の夜に、後ろから抱いて寝てくれたけど、温かくて、包まれているようで、安心して眠れたから」
「お互いに前向きに抱き合って寝ようとすると、身体を真っ直ぐにしないと、密着できない」
「確かにそうね」
「どうしても前向きにしようとすると久恵ちゃんが足を曲げて丸くならないと抱え込んで抱き締められないだろう」
「それでも、しっかり抱かれているという感じがしないと思う。それに前向きだと、顔も近づくので、眠りにくいかもしれない」
「その時は顔を胸にうずめるしかないと思うけどね」
「ちょっと息苦しいかも」
「人間は母胎の中で丸まって育ってきたから、眠る時は大体、丸まって眠る。後ろから抱いて眠ると、自然な形で二人が密着できる。抱いている方は、身体全体で包み込めるので、しっかりと密着して抱くことができるし、身体の中、腕の中にあるという満足感がある」
「だから抱かれている方は包まれて守られているようで安心して眠られるのね。でも後ろ髪が顔に当たらない?」
「髪の匂いもいいけどね。それに冬は湯たんぽみたいに温かいと思う」
「やっぱり、後ろから抱いて寝てもらうのが一番いい」
「でも、これにも欠点がある」
「なに?」
「寝顔を見られない」
「私、時々よだれを垂らして寝ているみたいで、そんな寝顔みられたくない」
「久恵ちゃんの寝顔はとても可愛い。新幹線で僕の肩にもたれて眠っていたとき、それをずっと見ていた。この腕の中に抱き締めて寝てそれをみてみたい。そんな衝動に駆られた」
「それなら遠慮なく見て下さい」
「そのうち見せてもらう。楽しみにしている。おやすみ」
「おやすみなさい」
私は少しずつだけど愛されることに慣れてきている。ただ、まだ痛みがある。パパもそれが分かっているので、頃合いを見計らって「おしまい」という。でも少し物足りない。
気持ちのゆとりもできて、そのあとパパと話をするようになっている。これがピロートーク? 今だったら何でも言うことを聞いてくれるのが分かっている。だから、したいことを遠慮なく言ってみる。
「パパ、お願いがあるの。パパの上で寝ていい?」
「上で?」
「お腹の上で」
「いいけど、どうして」
「私、小さい時に公園の芝生で父親が上向きに寝て、赤ちゃんをお腹の上で寝かせているのを見たことがあるの。私、父親がいなかったから、とてもうらやましく思って見ていたの。一度でいいからお腹の上で寝かせて」
「何度でもいいけど。久恵ちゃんは小柄で軽いから大丈夫だと思う」
「嬉しい。お願いします」
「じゃあ、パジャマを着てから上に載って、僕が膝を立てて脚を少し広げるから、久恵ちゃんはうつ伏せて、脚を開いて、膝の外側へ、両手は両脇へ、そうすると、落ちにくいと思うけど」
「うん、安定して落ちにくい。顔は横向きね。パパの温もりを感じて、気持ちいい。重くない?」
「大丈夫そう。上から布団をかけるよ。おやすみ」
パパは私の上から上手に布団をかけてくれた。私と掛け布団だから結構な重さになると思う。パパは我慢しているのか黙って動かずにいる。
パパの胸とお腹に私の胸とお腹が密着する。あそこもパパのあそこに当たっている感じがする。そういえばこの感触、どこかであった。あの花見の時におんぶしてもらった時の感覚だ。
あのときはパパの背中に抱きついてとっても幸せな気持ちだった。身体を密着させるっていい感じ。お腹がぽかぽかして温かい。すぐに睡魔に襲われた。
崖から滑り落ちる夢をみた。必死でしがみついていたけど、落ちてしまった夢だった。気がついたら上で寝ていたはずが、パパの横に落ちていた。落ちた時の夢だったみたい。パパは気持ちよさそうに眠っている。
上に乗った時すぐに眠ってしまって、その感覚を十分に味わっていなかった。それでまた乗って眠ることにした。パパは「うーん」といって苦しそうなので、腕と脚で身体を支えて重さがかからないようにしてあげた。静かになった。それで私も眠った。
明け方寒いので気が付いたら、布団の外で寝ていた。パパはしっかり布団をかけて眠っている。布団に潜り込んでパパの上に乗る。
それでも気が付いたら、パパの横に落ちていた。もうすっかり目が覚めた。パパは無意識に私を横に落としている? そう思ったのでもう一度上に乗ってパパの反応をみた。
上に乗ってしばらくするとパパが苦しそうにしている。うなされているみたいだ。そう思っていると身体を傾けてきた。ずり落ちそうになる。必死で我慢してずり落ちないようにする。この時に夢を見たのだと思った。もっと角度をつけてくる。限界。横へ落ちた。パパは横になったまま。顔はやすらかだ。
そうこうしているうちに寝返りをして上向きになった。無意識とはいえ落とされたのが借だったからもう一度上に乗った。
「おはよう」
私がお腹の上に乗ったので目を覚ました。
「重くなかった?」
「少しね」
「朝、目が覚めたら横で寝ていた」
「夜中に落ちたんだね。急に楽になったような気がした」
「夜中に崖から滑り落ちる夢をみたの、必死でしがみついていたけど、落ちてしまった夢。気がついたらパパの横に落ちていた。それでまた乗って寝た」
「満足した?」
「気が済んだけど、なぜか寝足りない気がする。熟睡できなかったみたい。だからこれは気が向いた時だけにする」
「その方がいいよ」