8月下旬になってもまだまだ暑い毎日が続いている。パパの脱臼した右肩の調子もまずまずで、吊っていた三角巾も外してよくなった。ただ、完治までは週1回は病院へ行ってリハビリをしなくてはいけない。全治3か月の怪我だった。
怪我もよくなってきたので、私は今週の土曜日に二子玉川で花火大会があるから行ってみたいとパパに言ってみた。
パパが言うには、数年前に行ったことがあるけど、すごい人出であることが分かったから、ここのところ、花火はもっぱらテレビで見ることにしているとのことだった。クーラーの効いた部屋を暗くして大型テレビでビールでも飲みながら観るのが最高だと言っている。
「そういう年よりじみたことを言わないで一緒に花火見物に行こう。お願い!」
強引に誘ってみる。私が誘ったらパパが断るわけがないと思っている。パパは一度行けば分かるとか悟ったようなことを言いながら一緒に行ってくれることになった。
◆◆ ◆
当日は天候が不安定で夕立もあるとの予報が出ていた。パパは朝からリュックに折り畳み傘やら敷物やら飲み物などを入れて出かける準備をしていた。さすがパパ、抜かりがない。
私は部屋に閉じこもって浴衣を衣装ケースから取り出して着ていた。黄色地に真っ赤な大きな花柄が入っている。それに真っ赤な帯を巻く。祖母に教えてもらったとおりに着てみるがなかなかうまく着られない。
何回か試みるうちに思い出してきた。1時間は優にかかった。クーラーが効いているからよかった。何とかうまく着こなせた。
「パパがもう行かないか」と催促している。
ドアを開けて出ていくとパパが驚いて見ている。
「すごく浴衣が似合っている。とてもいいね」
「そう言っていただけると時間をかけて着たかいがあります」
「自分で着られたのなら大したもんだ」
「おばあちゃんが着付けを教えてくれました。これは崇夫パパが買ってくれたものです。成人式の着物を買ってくれるというので、それは貸衣装でいいと言ったら、それならとこれを買ってくれました。一度だけこれを着て3人で花火を見に行きました」
「思い出の浴衣なんだね」
「だからこれを着てみたくて、そしてパパにも見てもらいたくて」
「ありがとう。とっても素敵だ」
「そういえば成人式には出席したの?」
「両親が亡くなって49日も済んでいなかったので出る気になれず、欠席しました」
「気が付かなくてごめんね。何とか出席させてあげたかった。兄貴もそう思っていたはずだから」
「もう過ぎたことです。それより早く出かけましょう」
旗の台で大井町線に乗り換えた。私のように浴衣姿の若い女性が目につく。でも私が一番と思っている。出かけるときに鏡に映して見てきた。パパも私を連れていて悪い気はしないと思う。
もうずいぶん電車が混んできている。乗り込んで奥の方へ進む。席に座っている中年の女性が私たち二人を見上げている。親子だろうか? でも顔が似ていない。まさか恋人同士ではいないだろう。歳が離れ過ぎている。そんな怪訝な顔をして見ていた。
大岡山、自由が丘でも大勢の人が乗ってくる。降りる人は少ないので電車がますます混んでくる。パパと身体が触れ合うくらいだ。パパは必死で身体を離そうとしている。いいのに!
ようやく二子玉川へ到着した。ホッとした。ホームは人でいっぱいだった。改札口を出ても人でいっぱいだ。まるで渋谷のスクランブル交差点を歩いているみたいだ。しっかり手を繋いで離れ離れにならないように注意して前進する。すごく蒸し暑い。
辺りはまだ明るい。花火が始まるのは7時を過ぎて十分に暗くなってからだ。パパが「明るいうちに二人が座れる場所を見つけておかなければならない」と言うので。河原の方へ降りて行くことにした。
幸い二人でなんとか座れる場所を見つけて陣取った。パパは敷物をリュックから取り出して敷いてその上に私を座らせてくれる。そのすぐ隣にパパが座った。身体が密着するほど狭いけどその方がいい。
私が汗でびっしょりなのに気が付いて、パパがリュックからタオルを出して汗を拭くように渡してくれた。
「すごい汗だ、よく拭いて」
「ありがとう。こんなに人が多いとは思わなかった」
「でも何とかこうして座れてよかった。始まるまでまだ時間がある」
パパはリュックから持ってきたポカリのボトルを2本取り出して1本を私に渡してくれた。私は汗をかいて喉が渇いていたので一息で飲んだ。美味しかった。パパは半分くらい飲んでまたリュックにしまっていた。
それから、パパはリュックから扇子を取りだして私を扇いでくれた。蒸し暑いので助かる。至れり尽くせりだ。
「さすがにパパは準備が良いからいつも感心する。だからパパと一緒だと安心していられる。本当に私の守護神ね」
「そのとおりだ。僕は久恵ちゃんをどんなことがあっても必ず守る。兄貴との約束だからね」
そのお礼と言わんばかりに私は身体をパパに持たれかけた。こうするとパパも悪い気がしないことが分かっている。案の定、じっとして動かない。
私がもたれかかっているとパパももたれかかってきたみたい。二人でバランスをとる。段々暗くなってくる。パパは微動だにしないで下を向いている。よく見ると眠っているみたいだ。いびきもかいている。
ドーンという音が聞こえた。花火が始まった。あたりはもうすっかり暗くなっている。
「とっても綺麗」
「始まったんだ」
「いびきをかいて寝ていたけど、目が覚めた?」
ドーン、ドーンという音が心地よく響いて聞こえる。風向きによって時々火薬のにおいがする。私はずっと見上げたまま上がる花火を見ていた。とっても綺麗。近くで見る花火は迫力がある。来たかいがあった。
「喉が渇いた。飲み物はまだある?」
「2本しか持ってこなかった。僕のが半分残っているけど、これでよければ」
「ありがとう」
受け取ると一気に飲んだ。喉が渇いていた。悪いと思ったけど全部飲んでしまった。パパはそれを黙ってじっと見ていた。間接キスした?
花火が終わった。長いようであっと言う間に時間が過ぎた。一斉に人が立ち上がり、帰りの駅に向かって歩き出す。私たちも駅へ急いだ。
雲行きが怪しくなっている。遠くで稲光がしている。でも人が多くて動きが遅い。電車に乗るまで随分と時間がかかった。
ようやく電車に乗れた。来た時と同じ通勤ラッシュ並みの満員電車だった。雨が降り出した。電車の窓がびしょ濡れだ。稲光がしている。予報どおりになった。幸い傘はパパが準備してくれているので安心だ。
雪谷大塚の駅を降りても雨はやんでいなかった。というよりすごい土砂降りになっている。早くお家へ帰りたい。旗の台で乗り換えをした時からおしっこがしたくなっている。
「少し雨宿りする?」
「すぐに帰りたい」
すぐにでも早く家にたどり着きたい。旗の台で乗り換えの時にしておけばよかった。でもトイレが混んでいるのが見えたから我慢した。
パパは折り畳み傘を取り出して、傘をさしてくれる。土砂降りの中を相合傘で歩き出す。私は黙々と歩いている。いつもよりずいぶん早歩きだ。
いつもなら腕を組んでゆっくりお話をしながら歩いていたが、そんな場合ではなくなっている。今思うと飲みすぎた。喉が渇いていたとはいえ、ペットボトル1本半も飲んでいた。
パパも歩調を合わせて帰り道を急いでくれている。裏道の方が少し近いはずだが、こんな時に限って随分遠い感じがする。
マンションの裏口が見える。もう一息だ。エレベーターに乗って3階へ。もう限界に近い。パパがドアを急いで開けようとするが鍵を持つ手が震えている。早く開けて! ドアが開くとすぐに私を先に入れてくれた。
間に合ったと思って油断した。駆け込みたかったけど足が濡れているので滑って早く歩けない。少し漏れたかもと思ったが、急いでトイレに駆け込んだ。
ほっとした。快感! すぐに水を流す。下着がびっしょり濡れている。やっぱり漏らしてしまっていた。あと一息だったのに。脱いで絞る。
トイレを出ると床の水滴に気が付いた。すぐにトイレットペーパーを持ってきて拭き始めた。それを見ていたパパがすぐに手伝おうと雑巾を取りに行こうとした。まずい、バレる。
「大丈夫です。浴衣の雨水ですから、私が拭いておきます」
「分かった。まかせる。僕はお風呂の準備をしてあげよう」
そう言って、パパはすぐに浴室に入っていった。ひょっとして気が付いた? きれいに拭いておこう。念のため水拭きしておこう。においが付いていないか確かめたが、においはしないみたい。よかった。
そうこうしているうちにお風呂の準備ができた。パパは雨に濡れて身体が冷えているからと私に先に入るように言ってくれた。お言葉に甘えることにした。
部屋に戻って下着とパジャマを持ってきてすぐにお風呂に入った。脱いだ浴衣と下着を入れてすぐに洗濯機を回した。
バスタブに浸かってようやく落ちついた。疲れていたこともあり、ぬるめのお湯にゆっくり浸からせてもらった。生き返った。随分と長く入っていた。途中で何度もパパが「大丈夫?」と声をかけてくれるくらいだった。
元気を取り戻して上がった。そして、ボトルのジュースを飲みながらパパに言った。
「今度から花火はテレビで観ることにしましょう」
パパはにっこり頷いて何も言わなかった。パパはパパなりに楽しかったのかもしれない。
パパは私のことをどう思っているんだろう。わざとドキッとすることを言って挑発してもそらしてしまう。でも、こちらがよそよそしくすると、機嫌をとりにくる。一歩前に出ると一歩さがってしまう。付かず離れずでパパはずるい。好きじゃないと一緒に住んだりしないのに。
考えごとをしていて油断した。指が何かに当ったと思ったら血が飛び散った。痛い指が! 指がフードプロセッサーの刃に触れたみたい。
「キャー」というと、周りの人が気付いてくれて、大騒ぎになった。指が血だらけでとても痛い。それを見て腰が抜けた。
すぐに先生が救急車を呼んでくれて、近くの病院へ運んでくれた。まず、指のレントゲンを撮った。それから処置室へ入った。
女の先生が真っ赤に染まった手ぬぐいを外していく。怖くて見ていられない。痛いのか痛くないのか分からないくらいに頭が変になっている。
指の様子を見た後、先生は指に包帯を巻きながら「大丈夫、すぐ手術するから」と言った。
手術は5時からと聞いた。そこへパパが駆けつけてきた。パパの顔をみると涙があふれた。パパが着いたので、主治医の女医さんが来て、傷の説明をしてくれた。
診断の結果、右手中指は第1関節の先の傷が5㎜程度の深さで縫うだけで済んだが、薬指第一関節の先の傷が深く、かろうじて指先がつながっているので、すぐに手術するとのことだった。
細い血管の縫合は難しいのでやって見ないとわからないが、薬指の先がなくなる可能性もあると言われた。
パパが手術の承諾書に署名捺印した。パパはよろしくお願いしますと何度も頭を下げていた。
パパは「大丈夫だから、気をしっかり持って」と励ましてくれたが、不安が一杯で手術室に入った。
手術は2時間かかった。局所麻酔で意識があったが、全身麻酔で意識をなくしてほしかった。指がつながりますようにと何度もお祈りした。苦しい時の神頼み。
手術は長い時間のようにも短い時間のようにも感じられた。手術は順調に終わり、1~2日で成功したか分かると説明を受けた。
病室に運ばれた。右腕は固定されて、左腕には点滴の針が刺されている。身動きができない。外はすっかり暗くなっている。もう8時になっていた。
看護婦さんが出ていった後は、誰もいない一人部屋の病室で、とっても心細い。窓からライトアップした橋が見える。そこへパパが心配そうに入ってきた。
「夜景がきれいだね」
「うん。ごめんなさい」
「結果は1、2日でわかるそうだ」
「先生から聞いた」
「指が壊死すればあきらめて」
「うん、私の不注意。考えごとをしていたの」
「実習中は集中しないとだめ」
「分かっています」
「心配事があるのなら、相談にのるよ」
「大丈夫」とは言ったけど、パパのことを考えていたなんてとても言えない。
「綺麗な女医さんだったね」というので、パパは何なのこんな時にと、カチンと来て「こういうときに不謹慎でしょ」と怒鳴ってしまった。
「ごめん。そういう意味では」
「じゃあ、どういう意味?」
絡んでしまった。パパは黙り込んでいる。いけない、感情的になってしまった。
「許してあげる。それより、1週間は入院しなければならないので、着替えを持って来てもらえませんか? 分かる?」
「いいけど、下着だよね」
「うん。プラケースの中にあるから、適当に2~3枚ずつ、見れば分かるから」
「いいのかい」
「仕方ないでしょ」
「分かった。あすの朝、出勤途中に寄るから」
「お願いします」
「ほかに何かほしいものある?」
「喉が渇いているのでジュースが飲みたい」
「じゃあ、すぐに売店で2,3本買ってくるよ」
パパは出て行った。でも、その前に頼めばよかった。おしっこがしたい。そういえば、実習が始まる前に行ったきりでずっと行く機会がなかった。手術があったので緊張してしたくなかったこともある。
気になるとますます我慢できなくなる。どうしよう。出ちゃいそう。でも動きが取れない。右腕は包帯で胸の前に固定されて、左腕には点滴の管が支柱にまでつながっている。パパ早く戻ってこないかな。思ったよりも時間がかかっている。
ようやくパパがジュースを3本持って戻ってきた。
「トイレに行きたいの、我慢できない」
「看護師さんを呼んでくる。いや、そこのコールボタンを押せばいい」
「待てない。出ちゃう。怪我した時からずっとトイレに行ってないの。すぐにつれてって」
「ええ!」
「早く私を起こして、手を貸して、お願い」
漏らしそう。冷汗が出てくる。
「早く早く」
ようやく、トイレにたどり着いた。とてつもなく長い時間がかかったような気がする。
「下着を下して早く」
「えええ!」
「でも、見ないで、絶対に」
パパは後ろからそっと下着を下してくれた。そして慌てて外へ出て戸を閉めた。これでやっとできる。
大きな音がする。静かな部屋だから余計に大きく聞こえる。すぐに水を流す。パパに聞こえたかな? 恥ずかしい。でもホッとした。
この前のように途中で床に漏らすことがなくてよかった。ようやく正気を取り戻した。立ち上がって戸に背を向けた。
「パパ、下着を上げて」
「は、はい」
パパは恐る恐る入ってきて、ゆっくり上げてくれた。それから、ベッドに連れて行ってくれた。そして「今度から早めに看護婦さんに頼むように」と言い残して慌てて帰っていった。ありがとうパパ。
次の日の朝、朝食を摂っていると、パパが着替えを持ってきてくれた。帰りにも寄ってくれた。「汚れたものはない?」と聞かれたが、下着を出すのが恥ずかしいので、返事しないでいると、パパは「そうか」と言って、帰って行った。
下着の替えがなくならないか心配だったけど、退院が間に合った。幸いにも縫合部分の壊死もなく、指はつながった。安心した。
そのあと2週間ほど自宅療養した。朝食の準備と後片付けはパパがしてくれた。お昼ごはんは冷凍食品で済ませた。夕食はパパが毎日違うお弁当を買ってきてくれた。
洗濯は自分の下着は自分で洗った。小さいものが多いので片手でもできた。パパの分は自分で洗ってもらった。洗濯物の取り込みは私がなんとか片手でもできた。
お風呂は怪我したほうの手をビニール袋で覆って入ったが、着ているものは、時間がかかったけれど、なんとかひとりで脱げた。上がって身体を拭くのが一苦労で、さらにパジャマを着るのがまた一苦労だった。
退院したばかりのころは、パパに目をつむってもらって脱がせてもらった。前に回ったときは、目をつむっているが、後ろに回ったときは、きっと目を開けていたと思う。しょうがないか、パパだから。
2週間でほぼ回復した。手には包帯が残っていたが、日常生活はできるようになり、再び学校へ行けるようになった。
「パパ、本当に心配と迷惑をかけてごめんなさない。親身になってくれてありがとう」
「今回は退院後の世話を十分してあげられなくて悪かったね。久恵ちゃんのママが生きていてくれたらと、女の子には母親が必要なことを痛感した」
「いえ、十分にお世話してもらったから、そんなことはありません」
「父親がどんなに愛情を注いでも、母親にはかなわない。母親の子供への愛情は父親の愛情とはかなり異質のような気がする」
「私は、物心がついた時から父親がいなかったので、比較できないけど、ママは私を命がけで育ててくれた。母親の愛って本当に一方的ですごいものだと思います」
「また、考えごとをしていてはだめだよ」といわれたけど、パパのことを考えていて怪我したとは、とても言えなかった。内緒にしておこう。でも、これからは本当に気を付けよう。
でも、パパはやっぱり男親、限界が明らかだった。ママが生きていてくれたら、随分助かったと思う。女の子にはいつまでも母親が必要なんだとつくづく思った。
パパは夕食を終えてソファーでテレビを見ている。後片付けが終わったので相談に行った。
「コーヒーをいれてあげよう」
「ありがとうございます。ちょっとご相談があります」
「何? 深刻な顔をして。コーヒーを飲みながら聞こうか」
パパがコーヒーをカップに注いでくれた。今日買ってきたと言うモカブレンドだ。モカの特徴が出ているまろやかな美味しいブレンドだと言っていた。
「専門学校の同じ班のクラスメイトから結婚を前提にしたお付き合いを申し込まれているんです。同じ班なので気軽にお話していたらこんなところまで話が進んでしまって」
「どんな人?」
「有名オーナーシェフの息子さんで大学を卒業してから父親の跡をつごうと一から勉強を始めたと言っていました。私のことが気に入って、この前の怪我の時も何回か見舞いに来てくれました」
「そうなの。いい人みたいじゃないか? 付き合ってみたらどうなの?」
パパはそっけない。関心がないはずはないのにこの言い方は何?
「今はそんな気になれませんとお断りしました。それでも先方は納得がいかないようで、パパに直接お願いしてもいいかと言ってきた」
「僕に直接? なぜ?」
「その人の父親もはじめは母親から相手にされなかったので、父親が直接母親の親の家へ行って、交際をさせてほしいと頼み込んだそうなの。その父親の熱意に打たれて母親が徐々にその気になって結ばれたということらしいんです」
「その成功体験を父親から吹き込まれている?」
「そうみたいです。有名なシェフで本人も父親を尊敬していて、父親のようになるのを目指しているみたいですから」
「いやなの?」
「ちょっとファザコンみたいで」
「男のファザコンはないと思うけど。父親を尊敬して父親のようになりたいというのはいい話じゃないか」
どういう訳かパパは勧める。本気でそう言っているの?
「いやなものはいやなんです」
パパに安堵の表情が表れた。そんなにカッコつけなくてもいいのに。
「それで」
「日曜日に訪ねてきて、パパに会いたいと言っているの」
「ずいぶん積極的だね。よっぽど久恵ちゃんが気に入っているんだ」
「どこが気に入られているの? 聞いてみた?」
「母親と性格がそっくりなんだとか」
「そういうところはマザコンかもしれないね」
「そんなの先方の勝手な思い込みです」
「今のところは先方の片思いというところだろうけど」
「けど?」
「一方的な片思いはいずれ終わると思う。なぜなら、高まっていかないからいずれは醒めていく。でも、一方が好きになって好きだと伝えると、それに応えるように相手も好きになってくれるようになる。好意を持ってくれる人に好意を持つというのは、自然のことで、恋愛もここから始まると思うけどね」
「好意は分かりますけど、私はどうかというとそんなことにはならないような気がしています」
「まず、相手を好きになったら好きと言わなければ、相手も好きになってくれない。正攻法で来ているのは好感がもてる」
「説得力のある話だけど、それじゃ困るの」
「じゃあ、どうしたいの」
「ここに来てもらって、パパの口からきっぱり断ってもらいたいの!」
「断っても引き下がりそうには思えないけど」
「だから困っているの。でも、いい断り方を考えたから、これなら一発で引くと思う」
「何?」
「私と内縁関係にあるときっぱりと言ってください」
「内縁関係?」
「だって、管理人さんにも妻と言ってあるでしょう。調べれば納得すると思う」
「彼はどこまで僕たちのことを知っているんだ」
「きっと父親に頼んで学校に手をまわして調べたのだと思いますが、ここの住所と叔父と同居していることを知っていました」
「確かに入学手続きの書類に保証人は僕で関係は叔父としていたし、住所も書いた。久恵ちゃんの住所も同じだからね。先方も本気だね」
「付き合ってみてもいいじゃないの?」
また、それを言う。本当にいいの?
「いやなんです。さっき言ったように本当に好きになったらどうするんですか?」
「それならそれでいいと思うけど」
口ではこう言っているけど、本当にそれでいいの? 何なのこの優柔不断さは。
「いやなものはいやなんです」
パパがホッとしたような表情になった。分かりやすい人だ。
「じゃあ、日曜日に会うことにしようじゃないか」
ようやくパパに気合が入ってきた。
◆◆ ◆
彼が訪ねて来るという日曜日、パパは朝から落ち着きがない。「娘をお嫁さんに下さいと言いに来る彼氏を待っている父親の心境がよく分かる」とか分かったようなことを言っていた。
パパに最初にこの話をした時に、私にとって悪い話ではないと言っていた。確かに客観的に考えると悪い話では少しもない。でも、そうですねと言って、パパから離れて彼に近づくことなど到底できない。
パパもこんな降って湧いたような話に気乗りがしないのは話していてすぐに分かった。私に勧めるときでも気持ちが入っていなかった。口ではそういっているが顔は無表情だった。でもその優柔不断さが気に入らなかった。
約束の時間が近づくと、パパはソファーに座ってずっと考えていたみたいだ。マンション入り口のチャイムが訪問者を知らせて鳴っている。パパは急いでパネルの画面をのぞいている。
「どなた様ですか?」
「飯塚《いいづか》昇《のぼる》といいます」
「3階の306号室へどうぞ」
マンションの入口のロックを解除する。パパは玄関へ迎えに出た。私は玄関へは行かずにソファーに座っていた。
パパが彼を案内してリビングへ連れてきた。そしてソファーに座ってもらった。私は席を立ってコーヒーをいれた。コーヒーを配り終わるまで、沈黙が続いた。私が席に戻ると飯塚君が話し始めた。
「不躾だとは思ったのですが、川田さんと交際させていただきたいので、直接叔父様にお願いに上がりました。本人が固辞されていますが、諦めきれなくてここまで押しかけてきました。どうか交際させて下さい。お願いします」
「本人は理由を申し上げていないのですか?」
「直接、叔父様に聞いてほしいと言っています」
「そうですか、申し訳ありませんでした。歳も離れているので、本人の口から申し上げにくかったのでしょう」
そう言って、パパは私の顔を見た。パパは演技がうまい。思わず笑いそうになるのを懸命にこらえる。
「僕と交際できない理由ってなんですか?」
「歳が離れているので、お恥ずかしい話ですが、私と久恵は内縁関係にあるのです」
「叔父さんと姪御さんが内縁関係ですか? 確か叔父と姪は3親等内なので結婚できないはずですが、それで内縁関係なのですか?」
「いいえ、久恵とは血縁関係はありません。久恵は兄の結婚相手の連れ子なのです。兄夫婦が昨年の暮れに交通事故で他界いたしまして、それで久恵を引き取って面倒を見ていました」
「それで内縁関係になってしまったということですか」
「歳が離れていますが、お互いに気心が通じ合ったと言いますか、お恥ずかしい限りです。久恵もこのことを口外したくなかったのでしょう。いずれ学校を卒業したら籍を入れようと思っています」
「そういうことならしかたありません。分かりました。諦めがつきます」
「このことは学校では口外なさらないでいただけますか? そして、久恵とは友人のままいてやっていただけないでしょうか。お願いします」
「分かりました。そうさせていだだきます」
そういうと、彼は一礼して帰って行った。二人で玄関まで彼を見送った。好感の持てる人だった。パパは一仕事終えて安心したのか、ソファーに座ってため息をついた。でも私はパパが懸命に演技してくれて断ってくれたのが嬉しかった。
「パパ、迫真の演技だった。あれなら騙される」
「そうか? ここのところずっとどう言おうか考えていたから」
「でも、歳が離れてお恥ずかしいはないと思う。歳が離れていてもいいと思うし、恥ずかしがらなくもいいんじゃない。もっと自信を持って」
「そうは言っても、そういうから説得力があるんだ」
「そうなの」
「それに、つい我慢できなくて手を出してしまったとも言えないだろう」
「それはDVです。私の立場もあるから当たり前です。とても上品な言い方でした。ありがとうございました」
そう言って私は自分の部屋に機嫌よく引き上げてきた。パパは私のことを手放したくない。確信をもってそう思えた。
9月14日はパパの誕生日だ。今日は夕食の品数を増やして、手作りのケーキも用意した。
「今日の夕食はごちそうだね」
「お誕生日おめでとうございます」
「そうか、今日は僕の誕生日だった。知っていたの?」
「崇夫パパに聞いてずいぶん前から知っていました。私も同じ9月ですから覚えやすかったです」
「この歳になると、歳を取るのが怖くなるんだ。だから誕生日はおめでたくないし、忘れようとしている」
「どうして? まだまだパパは若いわ」
「若いままでいたいんだが、35歳をピークに体力が落ちてきた。体力が落ちると気力も落ちてくる。仕事でも直観力が落ちているのが分かる。なんとか今までの経験と要領でしのいでいるけどね」
「パパは運動不足じゃないの?」
「毎朝、自由が丘まで歩いているし、会社でもエレベーターを使わないで階段で上り下りして運動不足にならないようにしているけど」
「でも電車では席に座りたがるし、帰りは歩いていないんでしょう」
「帰りは疲れているから、電車にしているけど」
「この歳で体力が低下して、なんて言ってほしくありません。これからはもっと精の付く料理を心がけます」
「若ぶって無理をするのが一番いけないと思っているけどね。運動も歳相応でいいんだよ。最近、高齢者の登山事故や自動車事故のニュースが多いだろう。いつまでも若いと思っていたらろくなことがない」
「それが年寄り臭い言い方だと思います」
「ケーキありがとう。蝋燭まで用意してくれて」
「学校でパティシエを目指している友人に作り方を教えてもらいました。何とか食べられると思います」
太い蝋燭3本と細い蝋燭9本を立てて火を点けて部屋を暗くして、Happy Birthdayを歌ってあげて、火を吹き消してもらった。照れてはいたけれどパパはとても喜んでくれた。
「ごめんさない。プレゼントはなしです。良いものが思いつかなかったので」
「久恵ちゃんからのプレゼントだったら嬉しくてなんでも大切にするから」
「久恵ちゃんの誕生日は9月28日だったね。覚えていたけど、話題にすると僕の誕生日も聞かれると思って黙っていた。僕の誕生日が過ぎてから、誕生日プレゼントに何がほしいか聞こうと思っていたんだ」
「実はそれを期待していました」
「それは丁度よかった。何でもほしいものを言ってみて。値段は気にしなくていいから」
「へへ、それじゃあ、誕生石の指輪を買ってください」
「9月はサファイヤだね」
「そうです。別に高価なものでなくていいんです。小さな石がひとつ付いていればいいんです」
「分かった。今度の週末に買いに行こう」
へへ、作戦通り。パパは本気で私の誕生日プレゼントに誕生石の指輪を買うつもりになっている。
◆◆ ◆
土曜日に早速、指輪を買いに銀座へ出かけた。ここならジュエリーショップもデパートもあるから好みのものが選べるし、何軒か回ってから気に入ったものを買えばいいとパパが言っていた。
まず、有名ブランドのショップへ行った。パパは高価なものでも良いと思っていたみたいだけど、ここは桁が違う。私も値札を見て気が引けた。これは無理だし、こんな高価なものを買ってもらう訳にはいかないと思った。それですぐに次の店へ行ってみたいと言った。
でもブランド店はどこも同じような価格だった。それでデパートへ行くことにした。ここでは想定した範囲内のお手ごろな価格のものがそろっていた。二人共、口には出さないがほっとした。それで今度は本気で気に入ったものを探し始めた。
「この小さいサファイヤが3つ並んだのを見せてください」
価格は45,000円だった。これでも相当高価だと思ってパパの顔を見ると平気な顔をしていたので、これがいいと思った。でもパパは同じタイプで6つ並んだデザインが気に入ってじっと見ていた。でも価格は倍以上していた。
「その6つ並んだのも見せてください」
私は驚いてパパの顔を見た。本気みたい。
「両方着けてみて」
私は始めに3つのもの、次に6つのものを指にはめてみた。6つのものの方がよく似合うのは私にでも分かった。
「サイズはどう?」
「どちらもぴったりです」
「じゃあ、その6つの指輪にしてください」
店員さんは満面の笑みで「承知しました」といった。私は嬉しいやらパパに無理をさせて申し訳ないやらで複雑な気持ちだった。
「折角だからして帰る?」
「ええ・・・」
「じゃあ、このままして帰りますから、お願いします」
パパがカードを店員さん渡した。そのまま店員さんは支払いの手続きをするために指輪とカードを持ってそこを離れた。
私たちをどんな関係とみていたんだろう。でも婚約指輪ならお給料3つ分とか聞いたことがある。パパの年齢の給料を考えると100万円以上の婚約指輪になる。そう考えると高過ぎることはないのかもしれない。
「こんな高価なものを買ってもらおうとは思っていませんでした。買ってほしいとおねだりしてすみません。もっと安いもので良かったのにごめんなさい」
「いいんだ。僕の気に入ったものを僕が買っただけだ。気にすることは少しもない。僕は6つのデザインの方が好きだったから、せっかくしてもらうならこちらと思っただけだ」
「私も6つの方が素敵だと思いました」
「それならそれでいいじゃないか」
「いいんですが、申し訳なくて複雑な気持ちです」
そこへ店員さんが満面の笑みでケースを入れた紙のバッグと値札をとった指輪がおかれた黒い小さな台を持って戻ってきた。
私は指輪を左手の薬指に丁寧に嵌めた。パパはそれ左手じゃなくて右手じゃないのかと言おうとしたみたい。でも店員さんがじっとみているので、黙って見ていた。
私は指輪をはめた手をかざして満足そうにパパの顔を見てニコッと笑ってみせた。パパは嬉しそうな満足した顔をした。
私はパパの手を取って店を出た。
「もうお昼を過ぎているから何か食べようか?」
「銀座はどこでも高いからやめましょう。パンを買って家で食べましょう」
パパは誕生祝に食事でもと考えていたみたいだけど、これ以上お金を使わせるのは悪いと思った。すぐに近くのパン屋さんへ入って、おいしそうなパンを見繕って買った。
そして、また手を繋いで駅まで歩いた。有楽町駅から山手線、池上線経由で帰ってきた。
「今日は高価な誕生日プレゼントありがとうございました。無理させて申し訳ありませんでした」
「久恵ちゃんがとっても喜んでくれたからもう元が取れた。気に入ってもらってうれしい」
「大切にします。でもいつもつけていてもいいですか」
「もちろん、そのためにプレゼントしたんだから」
「なくさないようにします」
「なくしたらまた買ってあげる」
「いえ、絶対になくしません」
「それで気になっているんだけど、左手の薬指は婚約指輪か結婚指輪をするときで、独身者は右手の薬指にするものだと思うけどね」
「これでいいんです」
「どうして?」
「こうしておけば男除けになります」
「男除けって?」
「学校であれからもたびたび付き合ってくれと言われて、そのたびに気を悪くさせないように断るのが大変で」
「そんなに言い寄られているのか?」
「飯塚さんを含めてこれまで3人くらいですが」
「気に入った男なら付き合ってみればいいのに」
また、そういう。本当にそう思っているの? パパのそういうところが気に入らない。
「言い寄ってくるのは、年下でそれもちゃらちゃらした人ばかりでその気にもなりません」
「まあ、それが役立つのならいいかも」
思いがけずに高価な指輪を買ってもらった。私はパパ自身が気に入った指輪を買ってくれたことが嬉しかった。本当に私に似合うと思う指輪を一生懸命に探してくれた。それが一番嬉しかった。
私はこの指輪を左手の薬指に嵌めることにした。私は勝手にパパと婚約する決意をした。その証に左手にしたつもりだった。パパにはああ言ったけど、いつかパパを私のものにしたいと誓った誕生日プレゼントだった。だから少しは私の気持ちを分かってほしい。
12月9日(木)は両親の1周忌になる。その日は学校も仕事もあるので12月5日(土)に私とパパと一緒に日帰りでお墓参りに行くことになった。
新幹線を使えばこういうことが可能だ。パパは祖母にも一緒に行こうと電話をかけていた。駅からタクシーに乗って、高齢者住宅で祖母を乗せて、墓地へ向かう。
元気で現れた二人を見て、祖母はとても嬉しそうだった。パパは週末毎に電話を入れて健康状態などを聞いていた。見た目はすこぶる元気で安心した。
墓地は郊外の低い山の中腹にあり、とても眺めがよいところだ。納骨の時は周りをみるゆとりなんかなかった。祖父が生前に買っておいたところという。買ってから1年も経たずに心筋梗塞で亡くなったとパパが言っていた。
ふもとの入り口にあるお店でお花とお線香と蝋燭を買って、また、狭い道を上っていく。タクシーを待たせてお参りをする。
パパはお墓に供えられた枯れたお花を持ってきたレジ袋に片付けている。月命日には祖母がお参りをしているという。綺麗になったお墓にお花を供え、蝋燭を点して、線香に火をつける。
風が強くて蝋燭の火が消えそうだ。そういえば納骨の時は雪が降って風が強くて蝋燭に火がつかなかった。それで寂しさが募ったのを思い出した。
3人がそれぞれお数珠を取り出して手を合わせる。私のお数珠はママの形見だった。パパのものは生前に父親が買ってくれたものだと言っていた。
私は長い間手を合わせていた。3人で暮らしたことが思い出されてなかなかその場を離れられなかった。お参りに来られなくてごめんね。私は康輔叔父ちゃんと幸せに暮らしています。
「もう行こうか?」とパパが私を促した。私はあの時を思いだして泣いていた。パパは私の肩を抱いてタクシーのところまで歩いてくれた。
もう1時を過ぎていた。祖母はお腹が空いたので皆で回転寿司を食べに行こうと言って、運転手さんに行きつけの回転寿司に行くように頼んだ。
店はもう1時を過ぎていたので空いていた。ボックス席に座った3人は思い思いの皿を取って食べ始めた。私は懐かしいお店へきて嬉しかった。好きなお皿を選んで食べている。
「ここへは3人でも時々食べに来ていました。結構おいしいんです」
「思い出の店だったんだ。大丈夫?」
「過ぎたことを悔やんでもしかたないでしょ。それよりも好きなだけ食べていい? ここは久しぶりだから」
「久恵ちゃんの好きなだけ食べていいからね。ここはおばあちゃんがご馳走するから。今日はお墓参りありがとう。崇夫も潤子さんも喜んでいると思いますよ」
私はお腹が空いていたのと、久しぶりのお寿司だったので、夢中で食べている。お腹が膨れてくると悲しい思い出もどこかへ消えて行ってしまった。目の前ではパパも美味しそうに食べている。
お腹がいっぱいになったところでタクシーを呼んだ。途中で祖母を高齢者住宅の前で下ろした。別れ際、祖母がパパに私の面倒をよく見るように言っているのが聞こえた。
それから「久恵ちゃんが康輔のお嫁さんになってくれたらいいのだけどね」と独り言のようにポツリと言ったのが聞こえた。
パパは聞こえないふりをしたのか、何も答えなかった。私の方を見るので私も聞こえなかった振りをした。
そのまま駅に向かう。駅で夕食用のお弁当を2つ買って、帰りの新幹線に飛び乗った。これで7時前にはマンションに帰れる。
新幹線が動き出した。私は黙っては外を見ていた。3月に一緒に上京した時のことを思い出していた。もうあれから8か月以上も一緒に暮らして楽しい毎日が続いている。これでよかったのだ。
「さっき、おばあちゃんの言ったこと聞こえた? 気にしなくていいんだからね」
「何て言ってた?」
「それならいいんだ」
パパは私に聞こえたはずだと思っていた。確かに聞こえた。でも私は何と答えてよいのか分からなかった。私もそう思っていると言う勇気がなかった。もしそう言って「僕はそんなことは考えていないから」と言われたらどうしよう。パパなら言いかねない。取り返しがつかない。そう思ったからだ。
私の気持ちは態度で示すほかはないと思って、座席の間のひじつきを上げてパパの腕を抱えて肩にもたれかかった。
あの時は遠慮しながらおそるおそる肩に持たれてみたけど、今は気合をいれて当然といった勢いでもたれかかる。はたから見ると父親に寄り掛かっているというより恋人に寄り掛かっているように見えるだろう。これでいい。私の無言の答えだ。どうするパパ?
パパは目をつむっている。眠ってはいない。腕に寄り掛かっているのだから直感的に分かる。腕が緊張している。でも私の方が眠ってしまった。目が覚めたら大宮駅を出るところだった。もうここまで帰ってきた。もう一息だ。パパはすっかり眠っている。
「着いたよ」
パパを起こした。上京した時と同じだった。
もうクリスマスが近くなってきた。光陰矢の如し、時の経つのは早い。パパとの楽しい生活が続いているからそう感じるのかもしれない。もう少しゆっくり時間が過ぎていってほしい。この時間をもっと楽しんでおきたい。
クリスマスが終わると新年、また歳を取る。パパはそれがいやみたい。若い私と一緒に暮らして歳を取るのがいやみたい。だから、誕生日も嬉しくないと言っていた。
まあ、二人とも同じように歳を取るので歳の差が開いてゆくことはない。縮まるに越したことはないけどそれは無理だ。パパはどうも二人の歳の差を気にしているみたい。
クリスマスはどうしようかとパパから聞かれた。
「外食すると高くつくので私がクリスマスの料理を作ります。ケーキを買ってもらえればそれで十分です。それに家でした方が落ち着くし、ゆっくり二人でクリスマスを祝いたい」
そういうと少しがっかりしていた。パパは私と二人でどこかのホテルのメインダイニングでの夕食を考えていたようだった。でもここで二人っきりも悪くないと思ったみたい。気を取り直して聞いてきた。
「クリスマスプレゼントは何がいい?」
「お誕生日に高価な指輪を買ってもらったのでクリスマスプレゼントは必要ないです」
「クリスマスはクリスマス、誕生祝いとは関係ないから」
「じゃあ、冬のブーツを買ってください」
「ブーツ?」
「みぞれが降っても、雪が降っても歩けるブーツ、安いものでかまいません」
「分かった」
「一緒に買いに行く?」
「選んでいただければそれでいいです」
「サイズは確か23㎝だったね」
「そうです」
「そういえば、久恵ちゃんは赤のブーツを持っていなかった?」
去年の両親のお葬式の時、私は濃い赤のブーツを履いていた。
「あのブーツ、もう履きたくないんです」
「どうして?」
「あの赤いブーツは前の年の崇夫パパからのクリスマスプレゼントだったんです。短大生になったので、もう少しおしゃれしてほしいと言って。それまでは赤いゴムの長靴を履いていましたから」
「兄貴からのプレゼントだったのか。それで分かった。お葬式の時に履いていた訳が」
「あの事故の日、私はその赤いブーツを履いて友達と町へ出かけました。出がけにパパがそれを見て、嬉しそうに『似合っている』と言って送り出してくれました」
「そうなんだ」
「パパから今年のクリスマスプレゼントは何がいいと聞かれていましたが、あれが最後のクリスマスプレゼントになりました」
「だから、もう履く気になれないの?」
「あの時の嬉しそうな顔が忘れられません。だから大切に箱に入れてしまってあります」
崇夫パパの思い出の品だと言ったので、パパはまだ忘れられないのかと思ったみたい。黙ってしまった。
「分かった。今度は僕が久恵ちゃんに似合うブーツを選んでプレゼントしよう」
気を取りなおしたように言った。
◆◆ ◆
今年のクリスマスイブは木曜日、クリスマスは金曜日だから23日水曜日の祝日に早めのクリスマスをすることになった。
12月のはじめの1周忌のお参りから帰ってきてから、気分を変えようと、私は小さなクリスマスツリーをリビングの端の台の上に飾っていた。これだけでもクリスマスの雰囲気が出るから不思議なものだ。
朝のうちに二人でスーパーへ買い物に出かけて料理の材料を仕入れてきた。私のためにとノンアルコールのシャンパンも1本買ってきた。
それからケーキは駅の近くのケーキ屋さんで、いわゆるクリスマスケーキはやめて、ショートケーキを2個ずつ、それぞれの好みのものを選んで買った。
私はそれぞれを半分ずつ食べれば、4種類も食べられると言ってそうしてもらった。ついでにローソクを仕入れた。それぞれに1本ずつ立てることにした。
3時過ぎから私は料理に取り掛かった。献立だけど「雰囲気だけ出ればいいでしょう」とメインは鶏料理で若鳥の照り焼き、サーモンのカルパッチョ、生ハムとチーズの野菜サラダ、それにポタージュスープにした。
4時過ぎには準備がすっかり整った。お腹もすいてきているし、もう暗くなってきているので始めることになった。
食事を始めてから私がキッチンに立つ必要がないように、座卓の上に準備した料理、シャンパン、ケーキをすべて並べた。パパがジャンパンの栓を抜いてグラスに注いでくれる。そして乾杯!
「メリークリスマス」
すぐに料理の味を確かめる。
「これ食べてみて、どう?」
パパは黙って食べている。
「美味しい?」
「返事できないくらいに美味しい」
ようやく答えてくれたので、自分も食べてみる。まあまのできだ。
「ポタージュスープも美味しいね」
「色々混ぜたから味に深みがあると思うけど」
「これまた作ってくれる」
「気に入ってもらえたのならいつでも作ります」
料理を食べ終わったころ、外はすっかり暗くなっていた。ケーキに蝋燭を立てて火を点す。部屋の明かりを落とす。
私は蝋燭をじっと見つめている。パパと二人だけのクリスマス、あれから1年たったけどようやく落ち着いてきた。今は幸せな気持ちでいられる。パパのお陰だ。ありがとう。パパの顔を見た。
「吹き消して」
「しばらくこうして見ていたい」
私はそのまま蝋燭の火を見ていた。
「蝋燭もいつかは燃え尽きてしまうのね」
1/3ほど燃えたところで1本1本ゆっくり吹き消していった。
真っ暗になった。私は泣いてしまった。パパがすぐに部屋の明かりを点けた。私の泣いているのに気が付いた。
「どうしたの」
「こんな幸せ、いつまでも続かないのね」
「続くさ」
「明日のことなんて分からない。でも今は確かにあるから今を大切にしたい」
「そうだね」
私の気持ちが沈んでいると思ったのか、パパは話題をすぐに変えた。
「プレゼントを受け取ってほしい。気に入るか分からないけど、リクエストにはお答えしたつもりだけど」
そう言うと部屋に行ってプレゼントの箱を持ってきた。私も部屋に行ってプレゼントを持ってきた。パパが嬉しそうに私のプレゼントを見ている。プレゼントを交換する。
私はパパにシルクのスカーフをプレゼントした。
「そのスカーフ、リバーシブルで両方のデザインが好きだけど、私と歩くときはその青と水色の柄にしてほしいの、若く見えるから。会社へ行くときは反対側のシックなデザインにして」
「分かった。そうする。ありがとう。こんなスカーフが欲しかった。ウールのマフラーは外ではいいけど、暖房が効いている電車の中だと暑苦しいから」
「気に入ってもらえてよかった。お小遣いを貯めたかいがありました」
「僕の選んだブーツも見てくれる?」
「ええ、本当に買ってくれたの、ありがとう」
すぐに開けてみる。
「すごくいい色。派手過ぎず、地味過ぎず、センスいい。履いてみていい?」
ソファーに腰かけて、足を入れる。立って2、3歩歩いてみる。
「いつでも履いてくれるね」
「二人で出かける時しか履きません。一人で履いて出かけて、パパに何かあるといけないから。二人なら一緒に事故にあっても思い残すことはないから」
パパは何も言わずに黙ってしまった。でもせっかくのブーツだから大切にしたい。それと一緒にどこへでも出かけたい。
次の日、パパはプレゼントのマフラーを言われたとおりにシックなデザインを表にして会社へ出かけてくれた。喜んでもらえてよかった。
今年の年末年始はパパと二人だけで過ごすことになる。パパは28日(月)が仕事納めで29日(火)から年末休暇に入り、仕事始めは1月4日(月)からなので6日間の長期休暇になる。私はもう学校が休みになっていて家事に精を出している。
私は綺麗好きなので、汚れているところが少しでもあると気に入らない。丁度良い機会だとキッチン、リビング、ベランダ、浴室、トイレ、玄関などあらゆるところの大掃除を毎日している。パパが休みになると、パパの部屋の大掃除をしてもらった。
パパはここを購入して以来、大掃除なんかしたことがないと言っていた。パパもどちらかというと綺麗好きだから、目に見えるところに汚れなどあるとその都度すぐに綺麗にしていたみたい。トイレももちろん毎週掃除していたそうだ。
でもよく見ると汚れているところがたくさんあった。
「だから、中年の独身男は不潔と言われるのよ」
そう言って隅々まで掃除をして回っていた。よしよし、綺麗になった。
パパは私がここへ来てからアルバイトをさせてくれなかった。学校へ通って、家事をして、その上アルバイトなんて休日に限っても到底できないというのがその理由だった。
それに「身体でも壊したらそれこそ大変だし、兄貴に申し開きができない。それよりも休日は二人でゆっくり過ごしたい」と言っていた。
そのかわり家事のお手当として毎月2万円を渡してくれた。そう提案され時には、両親が亡くなった時の保険金などがあるので必要ないと断ったけど「衣服や化粧品を買ってお洒落して僕のために可愛く綺麗でいてほしい」と言われて、それならと受け取ることにした。ありがたい話だと感謝している。
お手当は言われたとおりに使っている。衣服も高くないもので可愛いものを選んで着るようにしている。パパの好みがはっきりとは分からないけれども、時々、じっと嬉しそうに見ている服は気に入っているみたいだ。それでだんだん好みが分かってきた。
どちらかというと、大人びたものよりも、可愛いのがいいみたい。どちらかというとロリコン趣味? あまり極端にならないように気を付けているけど、まあ、そんな感じ。
「お正月用におせち料理を作る」と言って30日に買い出しに付き合ってもらった。ママがいつも作っていて、私に作り方を教えてくれていたので、作ってみたいと思ったからだ。ここでは私が主婦だから絶対にうまく作って見せる。
◆◆ ◆
「そろそろこちらへきて一緒にテレビをみないか?」
「これですべて出来上がりです。年越しそばを作りました。それに作ったお節を食べてみてください」
座卓に天ぷらそばと小分けしたお節料理を並べる。パパは買ってきてあった日本酒を冷蔵庫から出してきて、小さなグラスも2個用意している。
「せっかくだから、お酒も飲んでいい。こんなに美味しそうなつまみもあるから」
「ゆっくり飲んでください。お酒に合えばいいいけど」
「久恵ちゃんもどう?」
「酔っぱらってしまいそうだから、止めておきます」
私はお酒にとても弱いことが分かっているから、今日は飲まないときっぱり断った。パパは「日本酒は後で回るから注意しないといけない」と言いながら結構飲んでいた。
テレビを見ているとあっという間に12時になっていた。テレビからは除夜の鐘の音が聞こえる。私は立ち上がってベランダに出た。
「除夜の鐘が聞こえないかな?」
「どう聞こえる?」
「聞こえない」
「前のお家では聞こえたのに」
「この近くにお寺はないと思う。テレビの音で我慢して」
「それなら初詣に行こう」
「今から?」
「テレビでは皆、初詣をしているから、私もしたい。一昨年は3人で近くの神社へお参りに行ったから」
「ここなら洗足池まで行けば神社があってお参りできるけど、どうしても行く? 明日の朝じゃだめ?」
「すぐに初詣に行きましょう。二人で」
私がせがんだらパパは抵抗しないことはもう分かっている。すぐに出かける用意をしてくれる。紺のダウンジャケットに私がプレゼントしたマフラーを私に言われないうちに若向きの派手な柄を表にしてくれている。
私もパパに合わせて赤のダウンジャケットにシルクのオレンジ色のマフラー、それにパパがプレゼントしてくれた紺のブーツを履いた。
歩いて行くことにした。外へ出ると冷気を顔に感じる。私はすぐに腕を組んでパパに身体を寄せる。パパは悪い気はしないはず。いい感じだ。
神社の前まで来るとこの時間なのにすごい人出だ。もうすでに長い行列ができている。並んでいると前へ進むので10分ほどでお参りができた。2礼2拍手1礼でお参りを終えた。
「おみくじを引きたい」というと、私が代表して引いてほしいと言われた。「末吉」だった。
「末吉って、後々良いというけど」
「そのとおり、今は悪くてもこの後良くなるということ」
「今も結構いいから、この後はもっといいことがあるということね。安心した」
「今も結構良いって思っている?」
「当り前でしょう。こんないい生活をさせてもらって、それにとっても楽しいし」
「そう思ってくれているのなら言うことはない。じゃあ帰ろう」
帰りも腕を組んで帰ってきた。まるで恋人同士みたいだった。マンションに着くとさすがに私は疲れていた。今日は午後からお節を作っていた。それで、お風呂には入らずにすぐに寝たかった。パパも疲れたので、そのまま寝るといっていた。
お酒を飲んで歩いたのでやっぱり疲れたのだろう。付き合ってくれてありがとう。おやすみ。
◆◆ ◆
元日は9時に目が覚めた。ぐっすり眠れた。すぐに起きて食事の支度をしなければならない。
昨夜は初詣にでかけて帰ってきてすぐに寝てしまったので、キッチンの片付けがされていない。新年早々これはまずかった。すぐに片づけを始める。
片付けが終わって一休みしているとパパが起きてきた。
「おはよう、いや、明けましておめでとう」
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ。何時に起きた?」
「9時、今起きたばかりです。昨日の後片付けが終わったばかりで、これから準備します」
「ゆっくりして、朝昼兼用でいいから」
「そのつもりです。お雑煮とお節でお願いします。お餅はいくつですか?」
「3つでお願いします」
パパが身なりを整えてここへ来る前には、すっかり準備ができていた。お節とお雑煮だから時間はかからなかった。
パパと一緒に新年初の食事だ。ゆっくり味わって食べる。
「パパ、初詣に行きたい」
「昨夜、行っただろう」
「明治神宮へ行ってみたい。いつもニュースで見ていたので一度行ってみたいと思っていたから」
「結構混んでいるけど、いいの?」
「お願い」
「分かった。何事も経験だから」
午後から出かけることになった。パパは行くことを承諾した。私がどうしてもと言うとパパは決してダメとは言わない。それが分かってきた。でも甘えてはいけないことも分かっている。
パパが理由を言って行くのを渋るけど、それは大体当たっている。私のためを思って言ってくれているのは分かっている。花火の時もそうだった。
でもどうしてもと言って甘えてみたい。私のことをどれくらい思ってくれているのかいつも試してみたい。パパも私と一緒に出掛けることを嫌がっている訳ではないことは分かっている。決していやいやではない。むしろ楽しんでいる。だからなおさら強引に行こうと言ってみたい。
原宿駅を降りるともうすごい人出だった。
「こんなに人が多いとは思わなかった」
「言ったとおりだろう」
「テレビに映るのは拝殿前だけだから、こんなに人が多いと今分かった」
私の想像を絶する人出だった。でも来た以上は参拝して帰る。私は人ごみで迷子にならないようにパパの腕にしがみついて歩いている。パパは私がしがみついているのを楽しんでいるように時々私を見て微笑んでいる。
人ごみの中を二人は少しずつ前へ進んでいく。拝殿まで長い時間がかかったけど、参拝はあっという間に終わった。後ろが続いているのでゆっくりお参りしていられない。
「せっかく来たのだから、ここでもおみくじを引きたい」
「また、引くの?」
「もっと、良いくじが出るかもしれないから」
「昨日は末吉で満足していたのに、凶が出るかもしれないよ」
「縁起の悪いこと言わないで」
それを気にしながらせっかくだから引いてみた。
「やっぱり、末吉だった」
「そうなると思った。僕は昔おみくじを引いて凶が出たことがあった。それで縁起が悪いからもう一度引いたらやっぱり凶だった。もう、ぞっとした。それからおみくじは2度と引かないことにしている」
「それで私に引かせていたの?」
「そういう訳でもないけど」
「それでその1年は悪いことはあったの?」
「まあ、それもあって気を付けていたので何事もなく1年が過ぎた」
「当たっていなかった?」
「引かなければ注意しなかったから何かあったかもしれないけど、注意していたからか無事何もなかった。それで凶が出るとよいと言う人もいる。それに凶は最悪なので次に引くときは良くなるから」
「でも、その次も凶はありえるね」
「だから、それからは引かないことにしている」
「結構、信心深いんだ」
「毎日、毎日、気を付けて、一生懸命に生きればいいことだし、神様だけが知っていればいいことを僕が知る必要はないと思うようになったからね」
「私もおみくじはもう止める。せっかく末吉が出たのだから」
◆◆ ◆
帰りはスムースだった。
「せっかく、原宿まででてきたから、どこかで初売りの福袋でも買おうか?」
「私は福袋を買わないことにしています」
せっかく言ってくれたのに、そっけない返事をしてしまった。
「どうして?」
「福袋はお得かもしれないけど何が入っているか分からないし、必要ないものも入っているかもしれない。欲しいものを欲しい時に買えばいいから、無駄な出費はしたくありません」
「確かにそうだ。そういう考え方もあるね」
パパは感心していた。気分を害さなくてよかった。
そのまま、マンションに帰ってきた。トイレを我慢していた。私はブーツを脱ぐとトイレに駆け込んだ。今度は完全に間に合った。
人ごみの中を歩いてきたせいか、マンションに戻るとどっと疲れが出た。私は「夕食はお節を食べて下さい」とパパにお願いした。お節も飽きてきたので、明日は何か作ろう。
パパも私もお風呂から上がるともう眠くてしょうがない。やっぱり明治神宮の初詣は人が多くて疲れた。来年は近場で十分だ。「おやすみ」といって部屋に入ってすぐに眠りに落ちた。
◆◆ ◆
次の朝、二人が目覚めたのは9時を過ぎていた。
「おはよう。初夢どうだった?」
「初夢?」
「見なかったの?」
「ぐっすり眠れて目が覚めたら朝だった」
「実をいうと僕もみなかった」
「昨日は初詣に行って疲れ過ぎました。来年は遠くへ初詣に出かけるのはやめましょう」
パパはいわないことじゃないと笑っていた。でもパパも楽しかったでしょ。
「でも年が明けて初めて見る夢が初夢だから、今夜を楽しみにしよう」
「そうね、今夜も早めに寝ましょう」
これじゃあ、あっという間に三が日が過ぎていく。
調理師専門学校は1年間なので、3月に卒業の予定だけど、そろそろ就職先を決めたいと思っている。
「専攻はフランス料理だけど、実際のレストラン、特に高級なレストランに行ったことがないので、どこかに連れて行ってもらえませんか、お金はかけなくていいですから」
「そういえば、久恵ちゃんとレストランで食事したのは、上京した時の案内で銀座のレストランで食事してからずっと行ってないね。ごめんね、気が付かなかった。もっと外食する機会をつくるべきだった。いいよ、適当なところを探しておくから。久恵ちゃんと二人でレストランで食事か、楽しみだ」
そういって、パパは嬉しそうに引き受けてくれた。
そういえば、パパはあまり外食が好きでないみたい。一人で生活している時も外食はほとんどせず、自分で作るか、スーパーかコンビニで総菜を買てくるか、弁当を買ってきて食べるという生活をしていたという。
理由を聞くと、食事の時に必ず晩酌をするので、酔いが回って気持ちよくなってきたところで、家に帰らなければならないのが面倒だとか。私と同居するようになってからも、缶ビールか缶チューハイを1本かウイスキーの水割りを飲んでいる。ただし、休日は飲まない。
1杯飲みながら食べた後、少し酔いの回ったところで、ゴロっと横になって、テレビを見たり、うたた寝をするのが好きだと言っていた。そういえば、食事の後はいつもごろごろしていることが多い。
今度の金曜日の午後6時に第1回レストラン見学会開催ということで、銀座の有名ホテルのメインダイニングに予約を入れてくれた。
◆◆ ◆
当日、ホテルのロビーで待ち合わせることにした。パパは会社の帰りにそのまま直行するという。私は一度家に帰って着替えをしてホテルへ向かうことにした。着ていく服がなかなか決まらないので、家を出るのが遅れてしまって、6時過ぎに走ってロビーにたどり着いた。
「ごめんね、服を合わせるのに時間がかかってしまって」
「とっても素敵だ。見違えた。久しぶりだね、レストランで食事なんて」
「ごめんなさい。無理を言って」
「いやいや、こんな楽しい無理なら大歓迎だ、気にしないで、いざ見学に」
「嬉しい」
パパは上機嫌だ。私をエスコートしてメインダイニングへ向かう。パパが受付で予約を告げると年配のウェーターが席に案内してくれるが、少し緊張している二人をどう見ているのか興味深々だ。
席に着くと椅子を引いてくれる。さすがに一流レストラン。着席して渡されたメニューを見る。フランス料理だからフランス語も書かれている。日本語とフランス語を照らし合わせて読んでいる。
事前に打ち合わせたとおり、パパが今日はアラカルトでと告げると、ウェーターは少し残念そうに、お飲み物はと聞く。パパはビール、私はジンジャエールにした。
それぞれサラダとスープをチョイスし、メインはフィレステーキとした。デザートはセットメニューを注文した。パパはメインの時に、赤のグラスワインを二人にと注文した。
「シャーベットは、本当はソルベットというのを知っている? 英語で発音するとソルベット」
「知っている。フランス語ではソルベ、習ったから」
「ハンバーガーは注文するときにはサンドイッチ、ハンバーガーだけほしいときはジャスト・サンドイッチ」
「知らない。へー、パパ英語できるの」
「2年間ニューヨーク勤務をしたことがある」
「知らなかった。それで食事はどうしていたの?」
「赴任した始めのころは、毎日夕食はその辺のレストランで食べていたけど、注文は、いつもビール、シーザースサラダ、ステーキ、ソルベット、コーヒーだった」
「いくらくらいかかるの?」
「チップも含めて20ドルから40ドルくらいだったかな」
「結構かかるね」
「毎日、ステーキを食べていたなんてパパらしいわ」
「僕は気に入った食べ物があるとすぐに何回も繰り返して食べてしまう癖がある。だから、せっかく美味しいものでも、すぐに飽きてしまう。今は美味しいものがあっても、できるだけ食べないようにしている」
「私もそうかもしれない。気に入ったものがあるとすぐにやみつきになってしまって、マイブームと言っているけど、ブームが去るのもあっという間」
「ハンバーグの代わりにチキンを挟んであるサンドイッチが好きになって、週に3~4回買っていたら、店の女の子にソースの好みを覚えられて、こちらが言う前に『ハニーマスタード?』と確認されるようになった」
「日本人だから覚えられたのね」
「そのとき『ジャスト・サンドイッチ』を覚えた」
「確かに実用英語ね」
「それから、事務所の人にデリカテッセンで総菜を買うことを教わった。まあ、総菜屋さんのことで肉料理からシチュウ―、スープ、サラダ、フルーツなどを売っている。パックに好きなものを好きなだけ詰め込んでレジに行く。丁度、ビュッフェスタイルの食事でお皿に料理を盛りつける感じかな。レジでは重さをはかって料金が計算される」
「料理ごとに料金が決まってはいないの?」
「計算がめんどうなのか、どこでもそうだった。それに肉料理は少量でも重いけど野菜サラダはかさが多くても軽いからシンプルで合理的だと思った」
「それはそうね」
「でも毎日これが続くと、さすがに日本食が食べたくなって」
「分かる。その気持ち」
「日本食の食材屋でお米と冷凍のウナギのかば焼きとたれ、それにパック入りの豆腐、即席みそ汁、醤油を買って、自分で鰻重定食をつくって食べた。もう最高にうまかった。日本人に生まれてよかったと、つくづく思った。それからは自炊することにした」
「食材って高いの?」
「日本食の食材屋は日本から取り寄せているので、値段は高め。お米は米国産で安かったし、味もよかった。スーパーでは肉類はすごく安い。普通のステーキなら1ドルから2ドルくらい、すこし良い肉でも5ドルも出せば十分。野菜や果物も安い。自炊すると食費はとても安く上がった」
パパがうれしそうに話してくれる。そういえば、パパはあまり自分のことを話さない。聞くと話してくれるから、もっと聞かなくちゃ。
「聞き上手だね」
「パパの話、面白いし、聞くのは好きよ」
そこへ料理が運ばれてきた。私は海外での生活や、今の会社の仕事など、いろいろなことを聞いたので、話がはずんだ。パパは私とこんなに話をしたのは初めてでとても楽しいと喜んでいた。
話に夢中になって、私はメインの時に頼んだグラスワインを空けてしまった。
「お酒強いの? 大丈夫?」
「弱いけど、飲みやすいから知らないうちに飲んじゃった。大丈夫かな?」
「まあ、僕がいるから安心していいよ」
「ママもお酒はだめで、飲んでいるのを見たことなかったけど、私もダメみたい。成人式の後にビールをコップ半分飲んだけど、ひどく酔いが回ったのを覚えているから」
「ワインは度数が高く口当たりが良いからパパも注意している。以前、送別会で飲み過ぎてひどい二日酔いで死ぬ思いをしたことがある。その時はボトル2本位飲んだと思う。どんどんワインを追加した幹事が悪い」
「飲んだ本人が一番悪いと思うけど」
「レストランではハウスワインをグラスで頼むのが一番、1本では多すぎる。レストランが厳選しているので値段の割に美味しい。ただし、ワインは日本酒と同じで後から回るから飲み過ぎは禁物だ」
デザートの後、コーヒーを飲み終えて退席した。これで第1回レストラン見学会は終了した。パパがレジでカードを出して支払いを済ませる。
「ありがとう。ご馳走様でした。ゴールドカード、かっこいい」
「就職したらカードを作ったらいい」
「私は、いつもニコニコ現金払い、無駄使いするからカードなんか作るつもりはありません」
「堅実なんだ!」
それから、有楽町駅までゆっくり歩いた。昼間暖かかったので薄めコートにしたらすこし寒いので、腕を組んで身体を寄せて歩く。パパも悪い気はしないみたいで黙って歩いている。週末で、周りは腕を組んだカップルが多いので目立たない。
五反田駅でエスカレーターを昇って、池上線に乗り換え。1本電車を待って二人座って帰った。
ただ、座席に座ってからは断片的な記憶しかない。急に酔いが回ったみたい。雪谷大塚駅で揺り起こされて駅を出たのは憶えている。パパに抱えられて気持ちよく帰った記憶がある。身を任せている安心感と快い酔い心地だった。
部屋で介抱されて寝かせられた。この時とばかり酔った勢いで「大好き」と言ってパパに抱きついた。パパは一瞬緊張したみたい。そっと腕をほどいて、私に布団をかけたのは憶えている。それから朝まで爆睡した。
◆ ◆ ◆
朝、目が覚めて、パジャマに着替えていないのに気が付いて、飛び起きた。断片的な記憶をたどると、帰りに酔いが回って、すぐに寝込んだことが分かった。
パパはもう起きているみたい。部屋のドアをノックする。
「パパ、ありがとう、昨夜はごめんなさい。酔っ払ってしまって」
「調子はどう?」
「パパと一緒だからよかった。ほかの人とだったらどうなっていたことかと考えるとゾッとする。もう、絶対にお酒は飲まないから」
「二日酔いはどう?」
「ぐっすり眠れて気分爽快、あとで一緒に散歩に行きましょう」
それから、パパは、2回、渋谷と新宿のホテルでレストランの見学会を週末に催してくれた。もちろん、私はお酒なしだった。
私は、広尾の通りから少し入ったところにある中堅のホテルにコックとして就職することになった。
私は無事に調理師専門学校を卒業して調理師免許を取得することができた。いや、指の怪我があった。
卒業式のあった次の週末にパパへの感謝のために、卒業記念謝恩夕食会を開くことにした。主賓はもちろんパパ一人でフランス料理風?のフルコースを作ることにした。「風」とつけたのは全部手作りできないのと材料費を安くするので味付けで勝負するためだ。
それから出来上がったものを二人で一緒に食べることにしている。せっかくだから二人で味わって食べたい。でも一人二役は大変そうだけど、頑張ってやってみることにした。
土曜日の午前中に私はひとりで自由が丘まで食材の買い出し出かけた。パパは駅の近くのスーパーでお祝いだからと赤と白の少し高価なフランスワインを買ってきた。私がようやく卒業して一人前になったので、今日は二人でゆっくり飲んで少し酔ってみたい気持ちはよく分かる。
私は昼過ぎから料理の下ごしらえを始めている。パパには何もしないでただ席に座って出てくる料理を一緒に味わって食べてほしいと言ってある。忙しそうにしていても手伝わないでほしいと言ってあるので、私の準備の様子をソファーから見守ってくれている。
パパには昨日のうちにフルコースのメニューを渡してある。オードブル(前菜)、パン、スープ(コンソメ)、ポワソン(魚料理)、ソルベ(お口直し)、ヴィヤンド(肉料理)/レギューム(肉料理と供されるサラダ)、フロマージュ(ブルーチーズ)、デセール(ケーキ)、コーヒーを予定している。
5時にはすべて準備ができたので、始めることにした。まず、冷蔵庫で冷やしておいたオードブルを運んでいく。パンはここでは焼けないので美味しいお店から買ってきたものをバスケットにいれて出した。
オードブルは3品作った。一品一品はほんの少ない量だけど、一品ごとに手をかけて作ったので、詳しく説明する。
パパは熱心に聞いてくれている。いや、聞いているふりをしている?「どうぞ召し上がって下さい」と言うと、すぐに食べる。まるで、犬がご馳走を前にお預けをさせられていたのと同じだ。
パパは白ワインを飲みながら食べている。すぐに食べ終わった。本当に味わって食べてくれたのだろうか? 私は白ワインを飲まない。飲むと後々大変なことになるのが分かっている。パパはそれが分かると私の白ワインも飲んでいる。
「もう少し味わってゆっくり食べて下さい!」
「ごめん、お腹が空いていた」
「どうだった?」
「美味しかった」
「それだけ?」
「いろんな味がして味付けに深みがある」
せっかく一生懸命に作っているのに、本当によく味わって食べてくれているのか分からない。これ以上感想を聞いてもしかたがないとあきらめて、スープの準備に取り掛かる。
もうできているので、温めるだけでいい。スープ皿に丁寧に注ぐ。結構手間をかけたので説明する。今度こそ味わって飲んでもらいたい。パパは早く飲みたいのか、頷きが多い。
「そうぞ、召し上がって下さい」というと、スプーンでそっとすくって口に入れている。美味しいとみえて、味わって飲んでいる。
「どう?」
「美味しい。本格的なコンソメスープだ。コンソメの素でつくるのとは全く違う」
「当たり前でしょ。ほかに言い方はないのかしら」
もう、あきれて返す言葉がない。見ているうちにスープ皿は空になった。私は出来を確かめるようにゆっくり飲んでいた。まず、まずの出来だ。
パパはと見ると、もう次の料理が出てくるのを待っている。ポワソン(魚料理)は鯛をつかった料理にした。オーブンレンジで温めてから出した。お腹が空いているみたいだからあえて説明は簡単にした。どうぞというとすぐに食べ始める。
「味はどうですか?」
「鯛の皮のパリパリ間がすごくいい。鯛の本当のうまみが引き出されていて美味しい」
パパが今度は自信がありそうに答えた。待っている間に考えていた? 私も食べてみる。
「そうね。まあまあね」
これもパパはすぐに食べてしまった。食べるのが早いこと。私は作って配膳してから食べるので時間がかかっている。それに出来をチェックして食べているから時間がかかる。
口直しのソルベを運ぶ。これは買ってきたものでモモとブルーベリーの2種類だ。やはり口直しにはアイスクリームよりもソルベがすっきりしていい。
「美味しいソルベだね。もう少しないの?」
「残りは後でお風呂上がりに私がゆっくり食べるから」
「そうなの」
ここまで食べたので、パパもお腹が落ちついてきたみたい。パンも結構食べていた。次はメインのヴィヤンドとレギュームだ。パパが赤ワインを二人のグラスに注いでいる。もうこれで料理も終わりだから私も飲むと思ったのだろう。
葉物を中心としたレギュームを運ぶ。ドレッシングを作り忘れていた。考えてはいたのだけど、お肉のソースを作るのに時間がかかったので忘れてしまった。これから作るのもなんだからいつもの市販のドレッシングにした。容器だけ洒落た入れ物にした。
パパはドレッシングをかけて食べている。私は肉を焼いている。最高級の肉を買った。一度買ってみたかったお肉だ。でもあまりにも高くて少量しか買えなかった。焼きあがったのでソースをかけて運ぶ。
パパは小さいお肉を見て、なんだそれだけというような顔をしている。
「最高級の肉を買ってきたから小さめですが、食べてみてください」
パパは小さいお肉を今度は少しずつ味わって食べている。
「とても美味しいお肉だね。高いだけあるね。でもこの倍くらいは食べたいね」
「安いお肉ならね。これは高くてとても無理。でも一度食べてみたくて買ってみたけど、もう少し安いのにすればよかった」
「ソースがよくできているからそれでもよかったかもしれないね」
ソースを褒めてくれた。確かにもう少し安い肉でもよかった。次からはそうしよう。
「このドレッシングもなかなかよくできているね」
「ごめんなさい。それ、いつも買ってきているドレッシングなの。ソースをつくのに夢中になってドレッシングを作るのを忘れていました」
パパがそれを先に言ってよと言わんばかりの顔をした。料理がおいしいとドレッシングも美味しく思えるのかしら。よしよし。
もう、料理はこれでおしまい。私も赤ワインのグラスを口に運んで一口飲んだ。美味しいワインだった。この料理にぴったりだ。もう一口飲んだ。
フロマージュはブルーチーズを買ってきておいた。パパが好きな銘柄で時々テレビを見ながら水割りを飲むときに食べているものだ。私も気に入っていて、時々そばに行ってつまんで食べていた。赤ワインにも実によく合う。
私はグラスの赤ワインを空けた。ここは自宅だから、酔っぱらっても帰りの心配はない。パパが介抱してくれるし全く問題はない。むしろその方が好都合だ。それを狙っている。
デセールは買ってきたチーズケーキとモンブランを出した。一人で2個は多いので、半分ずつ食べることにしてある。コーヒーはコーヒーメーカーで作って入れた。これで全ておしまい。
ホッとした。私はパパの隣に座った。そして寄り掛かる。少し酔いが回ってきたみたい。パパも少し酔ってきているみたいで、お互いに寄り掛かってバランスを取っている。このひと時がなんとも言えない。
「ありがとう。僕のために作ってくれて、本当に美味しかった」
「手抜きもあったけど、学校へ行かせてもらった成果をみてもらいたかったので、美味しいと言ってもらえて本当によかった」
「後片付けは僕がしてあげよう。もう少ししたら始めるから休んでいて」
「いえ、私がしますから。しばらく休めば大丈夫ですから」
もたれ合って坐っていたらすこし眠ったみたいだった。パパも白ワインをグラス3杯、赤ワインもグラス2杯は飲んでいた。
パパが後片付けをしようと立ち上がったので、寄り掛かっていた私も気が付いた。
「後片付けは私がします」
立ち上がろうとするけどよろけた。これ幸いとパパに抱きついた。パパは私を受け止めてソファーに座らせてくれた。
「ごめんなさい」
「いいから、いいから、休んでいて」
パパはキッチンに行って後片付けを始めた。洗い物には慣れているみたいで、食器を洗って洗い籠に入れている音が聞こえる。その音を聞きながら眠ってしまった。
「久恵ちゃん、部屋で寝た方がいいよ」
「ええ」
パパが抱え起こして部屋まで連れていってくれた。部屋には布団を引いておいた。私がパパの買ってきたワインを飲んで酔っ払うことを想定しての準備だった。この前の時と同じシチュエーションになることは容易に想像できたし、そうなるように赤ワインのグラスを空けた。
パパはお布団を敷いてあったことを何とも思わなかったのだろうか? 私の覚悟を察しなかったのだろうか? 布団をまくって「このままでいいか?」と言って、私をそこへ横たえようとした。今日はゆったりしたワンピースの部屋着を着ていた。
この前の時と同じだ。私は力一杯「パパ大好き」と言ってしがみついた。私は恥ずかしかったので目をしっかりつむっていた。
それが悪かったのかもしれない。ホテルのレストランで会食した時も帰って来てからこうだったから、パパは飲んだらいつもこうなると思ったみたい。
そっと首に回した手をほどいて、私を寝かしつける。私は力を抜いてそれにあえて抵抗はしなかった。掛布団をかけて、頭を撫でて「今日は本当にありがとう。おやすみ」と言って部屋を出ていった。
どうして、あの時、目を開けてしっかり、もう一度「パパ大好き」と言って抱きつかなかったのだろう。後悔してもしきれない。
そうしたらパパはどうしていただろう。私を抱き締めてパパのものにしただろうか? 分からない。
でも、その勇気が私にはなかった。
そうはしても、パパのことだから、私を抱き締めて「僕も大好きだよ」と言って、私を寝かしつけていたに違いない。
その時、私はきっと大声で泣いただろう。そうなったら、引き返せない。もうとてもパパと一緒にいられないし、いたくない。
それが怖かった。
私は悲しくなって布団の中で泣いた。泣きつかれて眠ってしまった。
次の日の朝、パパと顔を合わせた時、私は笑みを作って「おはよう。酔っぱらって寝ちゃってごめんなさい」と言った。
やはり、昨晩はあれ以上のことをしなくてよかったと思った。チャンスはまたきっとある。