Hビデオを見過ぎたために私は気持ちが大胆になってきていたのかもしれない。私はパパを挑発してみたくなっていた。
パパが私に関心のあることはよく分かっている。私を見ないような振りをしているけど、いつも私のことをじっと見ている。時々、パパの方を見るとあわてて視線を逸らすことが多い。あれは私を見守っている父親代わりの目ではない。明らかに男の目だ。それは直感的に分かる。
でもじっと見ているだけで、私に決して触れたりはしてこない。私の部屋にも絶対に入ってこない。一歩近づくと一歩離れて一定の距離を保つタイプだ。きっと我慢しているのだと思う。だから試してみたくなった。
今まではお風呂に入ったら、浴室でパジャマに着替えてから部屋に戻っていた。でも最近はパパがリビングにいないことが分かると、バスタオルを身体に巻いたまま、部屋に戻っていた。
昨日、パパが自分の部屋にいることが分かったから、バスタオルを身体に巻いたまま、部屋に戻ろうとした。その時、パパが部屋から急に出てきて鉢合わせした。一瞬二人とも固まった。
パパは目のやり場がない振りをして、しっかり見ていたので、私は「見ないで!」と言ってすぐに部屋に入った。さすがパパ、一瞬を無駄にしない。しっかり見ていた。
見たいのなら見せてあげようと思って、次の日からパパがリビングにいても、堂々とバスタオルを巻いたままで、部屋に戻ることにした。
パパとしては目のやり場がないとは言いながら、黙ってしっかり見ているに違いない。これは間違いない。そこで突然振り向いた。やっぱりじっと見ていた。慌てて目を逸らす。でも手遅れ。
「見ないで!」
へへと勝ち誇ったように私は部屋に戻った。私ってそんなに色っぽい? 魅力的? 女を感じる? すぐにパパがドアをノックする。
「ごめんね、見ないようにするから」
「気を付けてください」
これに味を占めて、もう少しエスカレートしてみる気になった。部屋に戻るとき、ゆっくり後ろを振り向いてパパの視線を確かめる。パパはすぐに視線を逸らす。でも私が前を向くとすぐに視線を戻すことは分かっている。それで急にもう一度後ろを振り向く。やっぱ見ていた。
「見ないで!」
そう言うと、背中を向けてバスタオルを両手で開いた。後ろでパパが唖然としている様子が気配で分かった。私はバスタオルを両手で開いたまま、悠然と部屋に戻った。面白かった。
パパがすぐに部屋の前まで来てドアをノックして言った。
「あまり僕をからかわないでくれないか? 今度したら我慢できなくなって襲い掛かるかもしれないよ」
「見なきゃいいでしょう」
でも思った。ひょっとすると本音かもしれない。これ以上挑発したらパパの理性は持たないかもしれない。
それからしばらくの間は、私がお風呂に入ったら、パパは自分の部屋にいて、私がお風呂から上がって部屋に戻るまでは部屋から出てこなくなった。
それなら見るようなこともないし、挑発にも合わないと思ってのことだろう。そうすれば襲い掛かることもない。あれは本音だった?
◆◆ ◆
金曜日の晩、パパが好きなアクション映画がテレビ放映される。自分の部屋のテレビは中型で迫力がないから、アクション映画放映の時にはいつもリビングの大型テレビで見ている。私はアクション映画があまり好きではないので、お風呂に入った。
私はいつものようにお風呂からバスタオルを身体に巻いて出てきた。パパが私のことを気にも留めないで、テレビに夢中になっているのが気に入らなかった。そのまま冷蔵庫にペットボトルを取りに行った。パパの視線が私に向かったのが分かると、背中を向けてまた両手でバスタオルを開いた。
パパが「久恵ちゃん」と言ってソファーから立ち上がろうとするのが分かった。それが分かると私はあわてて部屋へ戻ろうとした。でも今回は手にペットボトルを持っていたのと、風呂上がりで足が濡れていた。滑ってバランスを崩して浴室の前の廊下で転んだ。太ももが、お尻が露わになる。
パパはソファーを立ち上がって私のところへ来ようとしている。いやだ。私はお尻を手で隠して廊下を這って部屋に向かう。濡れている足が滑る。
パパが「大丈夫?」というのと私が部屋に入ったのは同時だった。部屋の前まで来てもう一度「大丈夫?」と声をかける。私は内鍵をそっとかけた。パパは入ってこようとしなかった。ほっとした。
「お尻は大丈夫だけど、足を捻ったみたい」
「見てあげる」
「ちょっと待って」
パジャマを着てからドアを開いた。
「ほら、言わないことじゃない。僕をからかうからだ」
「パパが本当に襲い掛かってくると思ったから慌てた」
「冗談に決まっているだろう。信用がないな」
足首に触って動かした感じではそれほど重症でもなさそうだった。パパは湿布薬を持ってきて足首に巻いてくれた。歩くと少し痛いけど大丈夫だと思った。
私はそうなることを決心して、パパを挑発していた訳ではないことが分かった。その証拠に本気だと思って慌ててしまった。でもそうなることも期待して始めたことなのに、自分の気持ちがよく分からなくなった。
そのことをよくよく考えてみると、襲い掛かかられてパパのものになりたいというより、優しくされてパパのものになりたいのだと思った。
それから私は挑発を止めなかったが控えめにした。やっぱり見られてないと寂しいし、いつも私をじっと見ていてほしい。
私は本当の父親を知らない。もちろん顔も名前も知らない。ママからは私が生まれる前に亡くなったと聞かされていた。ずっと父親がいない中で育ってきたので、どうとも思わなくなっていた。
パパから本当の父親について聞かれたことがあったが、ママから聞いたとおりのことを話した。
「私には優しい崇夫パパがいたし、新しいパパもここにいるので普通の人よりずっといい」と言っておいた。
食事の後片付けが終わるのを見計らってパパがコーヒーを入れてくれると言う。パパはレギュラーコーヒーが好きで会社の帰りにときどきコーヒー豆を買ってきて、コーヒーメーカーで入れてくれる。
コーヒーを飲みながら、昨晩、祖母からかかってきた電話の話を聞かせてくれた。それは降って湧いた驚くべき話だった。
昨日、祖母の住む高齢者住宅に吉村真一という人が訪ねて来たという。吉村という人は若い時の知り合いの女性が、亡くなった私の母と同一人物か確かめたいということだった。
吉村という人は50歳ぐらいで京都の大きな会社の社長をしているとのことだった。去年12月の自動車事故が全国で放送されて、母の潤子という名前と年齢が一致していたので、気になって新聞記事を頼りに探して祖母のところまでたどりついたとのことだった。
祖母は私たち3人の家族写真を見せたが、すぐに探していた潤子という人だと分かった。お墓参りをさせてほしいと言われたので、一緒に墓参りに行ったが、長い時間、お墓の前で手を合わせていたそうだ。
一緒に写っていた私のことを聞かれたので、潤子さんの連れ子だと話したら、顔色が変わったという。私のことを教えてほしいというので、東京で次男が父親代わりになって一緒に暮らしていると話したという。
吉村という人に私の子供かもしれないので会わせてもらえないかと頼まれた。祖母の一存では答えられないと言って、とりあえず引き取ってもらったが、どうしたものかとパパに相談の電話を入れたのだという。
先方の住所、氏名、電話番号を聞いているので、私と相談してどうするか考えてほしいということだった。
話を聞くうちに。私は頭の中が真っ白になっていった。何も考えられない。
「どうする、会ってみる? 久恵ちゃんの気持ち次第だけど」
「いまさらそういうことを急に言われても会う気になれません。それならどうしてもっと早く会いに来てくれなかったの?」
「なにか事情があったのだろう」
「そんなの向こうの勝手な事情でしょ」
「会わなくていいのか、後悔するよ」
「今は会いたくありません」
「それなら、僕が会ってきてもいいかな? 僕は久恵ちゃんの父親代わりだから、娘のためならできるだけのことはしたい。吉村という人のことも調べておきたいし、本人から直接事情も聞いておきたい」
「そうまで言うのなら、パパに任せます」
◆◆ ◆
次の日、パパは会社で祖母から聞いていた電話番号に連絡を入れてくれた。こちらの名前を言うとすぐに繋がったと言う。
先方の電話の応対は丁寧で好感が持てたようで、私が今は会いたくないと言っていることとパパが代わりに会ってもよいと伝えたところ、是非会いたいとのことだった。
丁度東京へ出張するというので、ホテルのラウンジで今週の金曜日の夜7時に会う約束をしたとパパから聞いた。
約束の日、パパは会社から直接ホテルへ向かうことになっていた。せいぜい1時間くらいとパパが話していたが、9時前になってようやくメールが入った。食事が用意されていて二人で食事をしながら話をしたと言う。これから帰るのメールだった。
夕食を二人で食べようと待っていたのに裏切られたような気がした。夕食を簡単に済ませると後片付けをした。
9時半過ぎにパパはマンションへ帰ってきた。パパはそのままリビングのソファーに座った。私はすぐにパパのところへ行く気になれなかった。それでキッチンの掃除をしていた。
「久恵ちゃんのお父さんに会ってきた」
「どうして父親だと言えるのですか?」
「一目見て分かった。久恵ちゃんに目元と鼻それに口元もそっくりだった」
「他人の空似もあります」
「久恵ちゃんのママとのことも詳しく聞いてきたから、間違いないだろう。辻褄も合うから」
それから、パパは私に聞いてきたこと一部始終を話してくれた。
パパが約束の時間にホテルのラウンジで約束を告げると、すぐに奥の方の個室へ案内された。食事ができるようになっていて、そこに50歳くらいの品のいい紳士が待っていた。
パパが来たことが分かると立ち上がって一礼をした。顔を見てすぐに私の父親であることを確信したという。目元と鼻と口元がそっくりだったそうだ。
名刺交換をした。名前は吉村真一、京都の有名ホテルチェーンの社長だった。吉村という人は母とのことを話してくれた。大学を卒業してから父親のホテルでホテルマンの修業をしていたころに同じホテルに勤めていた母と親しくなったという。母は控えめで、不器用で失敗ばかりしていた彼を励ましてくれたと言う。
彼は一人息子だった。母と結婚したいと言うと両親から猛反対されて、母もホテルを辞めさせられて、行方知れずなってしまったと言う。
妊娠していたことは知っていたか聞いたところ、身に覚えがあったが、妊娠していたら自分に黙って身を隠すようなことはしないと思ったそうだ。
母は自分のために身を引いた、いや引かされた。そう思うと申し訳ないのと両親への反発もあって、それから何年も縁談を断り続けたという。
それから20年経って、偶然テレビで交通事故に夫婦が巻き込まれたというニュースを見たそうだ。写真が母に似ていたし、名前と年齢が一致していたので、気になったという。興信所に頼んで、新聞記事から住所を探してもらって、ようやく祖母のところにたどりついたという。
それで娘さんがいたのでもしやと思って聞いたら、母の連れ子だったので驚いた。年齢から自分の娘だと確信したという。
娘に会って謝りたいという。知らなかったでは済まされないと言った。是非、会わせてほしいと懇願されたと言う。そういう父親の気持ちはよく理解できるとパパは言った。
私にはそう伝えるが、ここへ来る前にこの話を伝えたとき、動転して会うことを拒絶したので、今は会わないで静かに見守ってやってほしいとお願いしたと言う。いずれ、私の気持ちの整理がついたら便宜を図ると言っておいたという。パパらしい。
それから亡くなった兄が父親代わりをして、私も兄を慕っていたことを話した。また、今は自分が父親代わりをしていることも話した。だから安心しているように言っておいた。
彼はどうか娘のことをよろしくお願いしますと何回も何回も頭を下げたそうだ。気持ちの優しい誠実な人だと思ったと言う。
「会ってあげたらどうなんだい」
「会いたくありません。死んだものと思っています。大体、避妊もしないで妊娠させるなんて、男として最低!」
「でも、久恵ちゃんのママは彼を愛していたのではないのかな。だから彼のために妊娠していることも黙って身を引いたのじゃないのかな。そしてママには愛した人の子供である久恵ちゃんが生きがいだったのではないか。僕は彼に会ってそう思った」
「そんな身勝手なこと、子供には迷惑な話です」
「じゃあ、ママが嫌いになった?」
「・・・・」
「死んだものと思っているのなら、遺影だと思って見てみるかい? 彼の写真を数枚撮ってきた。確かに会ったという証拠のために僕と一緒の写真も撮っておいた」
「見たくありません」
「遺影だと思って、父親の顔も知らないと言っていたけど、顔ぐらい知っていてもいいんじゃないか、ほら見て」
パパはスマホに撮ってきた写真を無理やり私の目の前に出して見せた。どういう訳かじっと見入ってしまった。
「どう?」
「どうって、普通のおじさん、まあ、普通より少しはましな方かな」
「転送しようか?」
「いいえ、パパが持っていて下さい」
「じゃあ、大事にしまっておくよ」
「今日は私のためにありがとう。疲れたでしょう。ゆっくりお風呂に入って下さい」
そういうと私は自分の部屋に入った。一人になりたかった。
小さい時になぜ私にはパパがいないのだろう。パパと遊ぶ子がうらやましく思っていた。私は顔も知らない。でもそれを言うとママが困るのが分かっていたので、何も言わなかった。
もっと早く私たちを探していてくれたらと思わずにはいられなかった。ママの気持ちを考えるとひとりでに涙が出てきて泣いてしまった。
パパが私のためを思って写真を撮ってきてくれた。私は初めて父親の顔を見ることができた。確かに私と似ているから間違いないと思う。死んだものと思っていたから、私はそれで十分だ。
それに私には親身になってくれた崇夫パパがいたし、今はパパがそばにいて私を守ってくれている。それで十分だし、それ以上を求めてはいけない。そう思うと気持ちが治まってきた。
パパから[今日は急に外の会合に出なければならなくなった、懇親会があるから夕食はいらないけど遅くはならない]とのメールが入った。
6時ごろから雨が降り始めた。パパ、大丈夫かな? いつも傘は持っているとか聞いてはいたけど。
パパから電話が入る。帰りに地下鉄の階段で転んだので、タクシーで帰るけど、雨でタクシーが捕まらないので遅れるとのことだった。
大丈夫と聞くと、肩が痛いけど大丈夫との返事だった。でも声に元気がなくて、痛そうな感じが伝わってきた。心配!
大通りのいつもタクシーを降りる場所で待っていることにした。タクシーが1台止まった。パパが降りてくる。
「パパ、大丈夫?」
「ありがとう、迎えに来てくれて、階段で転んで肩を打撲した、すごく痛い」
「カバンを持つわ」
「助かる」
傘をさしてあげる。パパは肩が痛そうでゆっくり歩いている。ようやくマンションへたどり着いた。部屋に布団を敷いておいたので、部屋着に着替えてから、そこへ寝てもらった。
「痛みはどう?」
「すごく痛い。明日の朝、病院に行くから」
「顔色もよくないから、すぐに病院にいかなきゃだめ」
「もうこんな時間だし、病院は明日でいいから」
「だめ、病院に行かなきゃ。いやでも私が連れて行く」
そうだ、119番に電話すればいい。階段で転んで怪我したので、今からでも診てもらえる病院を聞いた。時間がかかったけど近くの病院を紹介してくれた。教えてもらった番号へ電話する。今から行っても診てもらえることを確かめた。
「見てもらえる病院が見つかったからこれからすぐに病院へ行きましょう」
急き立てるとパパはようやく病院へ行く気になってくれた。
外へ出ると、もう雨は上がっている。大通りの上り方面側で空車を待つ。すぐにタクシーは捕まった。紹介された病院へ向かう。パパによると車なら10分くらいだと言う。
裏口にある守衛さんのいる受付を通って院内へ入り、案内された処置室へ向かう。整形外科医が待っていてくれた。パパが喜びそうな美人の女医さんだった。
女医さんは肩の様子を見るとすぐにレントゲンを撮るように言った。パパと一緒にレントゲン室に行くと、係りの人がいてすぐに撮ってくれた。それからパパはまた処置室へ入って行った。パパの声が聞こえる。痛そう!
「痛い痛い」「痛い痛い」「痛タタタ・・・・」「・・・・・」
しばらくして、パパが三角巾で腕を吊って処置室から出てきた。ほっとした顔をしている。
「どうだった」
「右肩の脱臼だった。女医さんが引っ張って入れてくれた。ポコンと嵌ったのが分かった。幸い骨折はないそうだ。明日、もう一度病院へ来るように言われた」
それから、受付で当面の費用を払って、タクシーを呼んで帰宅した。
タクシーの中でパパが「女医さん美人だったなあ」と言うので、かっとした。
「こんな時に不謹慎極まりない」
「心配させて、そんなに浮かれていていいの」
「あのままにして病院に行かなかったらどうなっていたか分からないのに、自覚が足りない」
「階段で転ぶって、浮かれて油断しているからよ」
ありったけの小言を言ってやった。パパは反省したのか演技なのかしょんぼりしていた。
部屋に着くと、パパは改まって、お礼を言った。
「ありがとう、久恵ちゃん。一人で生活していたらすぐには病院へは行かなかった。今日行かなかったら、もっとひどいことになっていた。本当にありがとう、助かった」
「私ね、パパには長生きしてもらいたいの。崇夫パパのように早死にしてもらいたくないの。長生きして私を守ってもらいたいの。だって、ママもいないし、パパのほかはもう誰もいないのよ」
「僕は死ぬまで久恵ちゃんを守り抜く覚悟だよ。兄貴と約束したから」
「私もパパを守り抜くから、絶対に死なせない」
「ありがとう」
「ママは、自分のためには生きられなくとも、娘のためなら生きられるものよ。自分のためよりも人のためなら生きられるものなのよといつも言っていたわ」
どうしてなんだろう。死んだパパとママを思い出して泣いてしまった。
「私、とっても悪い子なの。両親が事故でなくなったのは私のせいなの。私ね、ママが死んだら、パパの世話をするから、安心してとママにいつも言っていた。ママはお願いねと言っていたけど。ママが死んだ時のことばかり考えていたこともあるの。それはね、私がいつからかパパのことを好きになったからなの。罰が当ったのね、二人とも死んでしまった」
パパが後ろから片手で抱き寄せてくれた。突然のことなので身構えて泣くのを忘れた。パパもそれを感じてすぐに手を放した。
「そんなこと考えたらだめだ。久恵ちゃんのせいじゃない。兄貴を好きになってくれてありがとう。きっと喜んでいるよ」
「一度だけ、死んだパパも今のように後ろから抱きしめてくれたことがあるの、ママのいない時に、嬉しかった。パパ、私も好きよといったら、驚いて手を放したわ。後も先もそれ1回だけだったけど」
「きっと兄貴も久恵ちゃんのことをとっても好きだったと思うよ。事故は久恵ちゃんのせいなんかじゃない、それが運命だった」
「運命って?」
「定めと言っても良いかもしれない。そう思うと楽になれる」
そう言って、パパは私を慰めてくれた。でもパパはなぜ私を抱きしめてくれたのだろう。可愛いから? 父親代わりの愛情? 死んだパパと同じ気持ちから? 死んだパパはどんな気持ちだったの? 分からない。
8月下旬になってもまだまだ暑い毎日が続いている。パパの脱臼した右肩の調子もまずまずで、吊っていた三角巾も外してよくなった。ただ、完治までは週1回は病院へ行ってリハビリをしなくてはいけない。全治3か月の怪我だった。
怪我もよくなってきたので、私は今週の土曜日に二子玉川で花火大会があるから行ってみたいとパパに言ってみた。
パパが言うには、数年前に行ったことがあるけど、すごい人出であることが分かったから、ここのところ、花火はもっぱらテレビで見ることにしているとのことだった。クーラーの効いた部屋を暗くして大型テレビでビールでも飲みながら観るのが最高だと言っている。
「そういう年よりじみたことを言わないで一緒に花火見物に行こう。お願い!」
強引に誘ってみる。私が誘ったらパパが断るわけがないと思っている。パパは一度行けば分かるとか悟ったようなことを言いながら一緒に行ってくれることになった。
◆◆ ◆
当日は天候が不安定で夕立もあるとの予報が出ていた。パパは朝からリュックに折り畳み傘やら敷物やら飲み物などを入れて出かける準備をしていた。さすがパパ、抜かりがない。
私は部屋に閉じこもって浴衣を衣装ケースから取り出して着ていた。黄色地に真っ赤な大きな花柄が入っている。それに真っ赤な帯を巻く。祖母に教えてもらったとおりに着てみるがなかなかうまく着られない。
何回か試みるうちに思い出してきた。1時間は優にかかった。クーラーが効いているからよかった。何とかうまく着こなせた。
「パパがもう行かないか」と催促している。
ドアを開けて出ていくとパパが驚いて見ている。
「すごく浴衣が似合っている。とてもいいね」
「そう言っていただけると時間をかけて着たかいがあります」
「自分で着られたのなら大したもんだ」
「おばあちゃんが着付けを教えてくれました。これは崇夫パパが買ってくれたものです。成人式の着物を買ってくれるというので、それは貸衣装でいいと言ったら、それならとこれを買ってくれました。一度だけこれを着て3人で花火を見に行きました」
「思い出の浴衣なんだね」
「だからこれを着てみたくて、そしてパパにも見てもらいたくて」
「ありがとう。とっても素敵だ」
「そういえば成人式には出席したの?」
「両親が亡くなって49日も済んでいなかったので出る気になれず、欠席しました」
「気が付かなくてごめんね。何とか出席させてあげたかった。兄貴もそう思っていたはずだから」
「もう過ぎたことです。それより早く出かけましょう」
旗の台で大井町線に乗り換えた。私のように浴衣姿の若い女性が目につく。でも私が一番と思っている。出かけるときに鏡に映して見てきた。パパも私を連れていて悪い気はしないと思う。
もうずいぶん電車が混んできている。乗り込んで奥の方へ進む。席に座っている中年の女性が私たち二人を見上げている。親子だろうか? でも顔が似ていない。まさか恋人同士ではいないだろう。歳が離れ過ぎている。そんな怪訝な顔をして見ていた。
大岡山、自由が丘でも大勢の人が乗ってくる。降りる人は少ないので電車がますます混んでくる。パパと身体が触れ合うくらいだ。パパは必死で身体を離そうとしている。いいのに!
ようやく二子玉川へ到着した。ホッとした。ホームは人でいっぱいだった。改札口を出ても人でいっぱいだ。まるで渋谷のスクランブル交差点を歩いているみたいだ。しっかり手を繋いで離れ離れにならないように注意して前進する。すごく蒸し暑い。
辺りはまだ明るい。花火が始まるのは7時を過ぎて十分に暗くなってからだ。パパが「明るいうちに二人が座れる場所を見つけておかなければならない」と言うので。河原の方へ降りて行くことにした。
幸い二人でなんとか座れる場所を見つけて陣取った。パパは敷物をリュックから取り出して敷いてその上に私を座らせてくれる。そのすぐ隣にパパが座った。身体が密着するほど狭いけどその方がいい。
私が汗でびっしょりなのに気が付いて、パパがリュックからタオルを出して汗を拭くように渡してくれた。
「すごい汗だ、よく拭いて」
「ありがとう。こんなに人が多いとは思わなかった」
「でも何とかこうして座れてよかった。始まるまでまだ時間がある」
パパはリュックから持ってきたポカリのボトルを2本取り出して1本を私に渡してくれた。私は汗をかいて喉が渇いていたので一息で飲んだ。美味しかった。パパは半分くらい飲んでまたリュックにしまっていた。
それから、パパはリュックから扇子を取りだして私を扇いでくれた。蒸し暑いので助かる。至れり尽くせりだ。
「さすがにパパは準備が良いからいつも感心する。だからパパと一緒だと安心していられる。本当に私の守護神ね」
「そのとおりだ。僕は久恵ちゃんをどんなことがあっても必ず守る。兄貴との約束だからね」
そのお礼と言わんばかりに私は身体をパパに持たれかけた。こうするとパパも悪い気がしないことが分かっている。案の定、じっとして動かない。
私がもたれかかっているとパパももたれかかってきたみたい。二人でバランスをとる。段々暗くなってくる。パパは微動だにしないで下を向いている。よく見ると眠っているみたいだ。いびきもかいている。
ドーンという音が聞こえた。花火が始まった。あたりはもうすっかり暗くなっている。
「とっても綺麗」
「始まったんだ」
「いびきをかいて寝ていたけど、目が覚めた?」
ドーン、ドーンという音が心地よく響いて聞こえる。風向きによって時々火薬のにおいがする。私はずっと見上げたまま上がる花火を見ていた。とっても綺麗。近くで見る花火は迫力がある。来たかいがあった。
「喉が渇いた。飲み物はまだある?」
「2本しか持ってこなかった。僕のが半分残っているけど、これでよければ」
「ありがとう」
受け取ると一気に飲んだ。喉が渇いていた。悪いと思ったけど全部飲んでしまった。パパはそれを黙ってじっと見ていた。間接キスした?
花火が終わった。長いようであっと言う間に時間が過ぎた。一斉に人が立ち上がり、帰りの駅に向かって歩き出す。私たちも駅へ急いだ。
雲行きが怪しくなっている。遠くで稲光がしている。でも人が多くて動きが遅い。電車に乗るまで随分と時間がかかった。
ようやく電車に乗れた。来た時と同じ通勤ラッシュ並みの満員電車だった。雨が降り出した。電車の窓がびしょ濡れだ。稲光がしている。予報どおりになった。幸い傘はパパが準備してくれているので安心だ。
雪谷大塚の駅を降りても雨はやんでいなかった。というよりすごい土砂降りになっている。早くお家へ帰りたい。旗の台で乗り換えをした時からおしっこがしたくなっている。
「少し雨宿りする?」
「すぐに帰りたい」
すぐにでも早く家にたどり着きたい。旗の台で乗り換えの時にしておけばよかった。でもトイレが混んでいるのが見えたから我慢した。
パパは折り畳み傘を取り出して、傘をさしてくれる。土砂降りの中を相合傘で歩き出す。私は黙々と歩いている。いつもよりずいぶん早歩きだ。
いつもなら腕を組んでゆっくりお話をしながら歩いていたが、そんな場合ではなくなっている。今思うと飲みすぎた。喉が渇いていたとはいえ、ペットボトル1本半も飲んでいた。
パパも歩調を合わせて帰り道を急いでくれている。裏道の方が少し近いはずだが、こんな時に限って随分遠い感じがする。
マンションの裏口が見える。もう一息だ。エレベーターに乗って3階へ。もう限界に近い。パパがドアを急いで開けようとするが鍵を持つ手が震えている。早く開けて! ドアが開くとすぐに私を先に入れてくれた。
間に合ったと思って油断した。駆け込みたかったけど足が濡れているので滑って早く歩けない。少し漏れたかもと思ったが、急いでトイレに駆け込んだ。
ほっとした。快感! すぐに水を流す。下着がびっしょり濡れている。やっぱり漏らしてしまっていた。あと一息だったのに。脱いで絞る。
トイレを出ると床の水滴に気が付いた。すぐにトイレットペーパーを持ってきて拭き始めた。それを見ていたパパがすぐに手伝おうと雑巾を取りに行こうとした。まずい、バレる。
「大丈夫です。浴衣の雨水ですから、私が拭いておきます」
「分かった。まかせる。僕はお風呂の準備をしてあげよう」
そう言って、パパはすぐに浴室に入っていった。ひょっとして気が付いた? きれいに拭いておこう。念のため水拭きしておこう。においが付いていないか確かめたが、においはしないみたい。よかった。
そうこうしているうちにお風呂の準備ができた。パパは雨に濡れて身体が冷えているからと私に先に入るように言ってくれた。お言葉に甘えることにした。
部屋に戻って下着とパジャマを持ってきてすぐにお風呂に入った。脱いだ浴衣と下着を入れてすぐに洗濯機を回した。
バスタブに浸かってようやく落ちついた。疲れていたこともあり、ぬるめのお湯にゆっくり浸からせてもらった。生き返った。随分と長く入っていた。途中で何度もパパが「大丈夫?」と声をかけてくれるくらいだった。
元気を取り戻して上がった。そして、ボトルのジュースを飲みながらパパに言った。
「今度から花火はテレビで観ることにしましょう」
パパはにっこり頷いて何も言わなかった。パパはパパなりに楽しかったのかもしれない。
パパは私のことをどう思っているんだろう。わざとドキッとすることを言って挑発してもそらしてしまう。でも、こちらがよそよそしくすると、機嫌をとりにくる。一歩前に出ると一歩さがってしまう。付かず離れずでパパはずるい。好きじゃないと一緒に住んだりしないのに。
考えごとをしていて油断した。指が何かに当ったと思ったら血が飛び散った。痛い指が! 指がフードプロセッサーの刃に触れたみたい。
「キャー」というと、周りの人が気付いてくれて、大騒ぎになった。指が血だらけでとても痛い。それを見て腰が抜けた。
すぐに先生が救急車を呼んでくれて、近くの病院へ運んでくれた。まず、指のレントゲンを撮った。それから処置室へ入った。
女の先生が真っ赤に染まった手ぬぐいを外していく。怖くて見ていられない。痛いのか痛くないのか分からないくらいに頭が変になっている。
指の様子を見た後、先生は指に包帯を巻きながら「大丈夫、すぐ手術するから」と言った。
手術は5時からと聞いた。そこへパパが駆けつけてきた。パパの顔をみると涙があふれた。パパが着いたので、主治医の女医さんが来て、傷の説明をしてくれた。
診断の結果、右手中指は第1関節の先の傷が5㎜程度の深さで縫うだけで済んだが、薬指第一関節の先の傷が深く、かろうじて指先がつながっているので、すぐに手術するとのことだった。
細い血管の縫合は難しいのでやって見ないとわからないが、薬指の先がなくなる可能性もあると言われた。
パパが手術の承諾書に署名捺印した。パパはよろしくお願いしますと何度も頭を下げていた。
パパは「大丈夫だから、気をしっかり持って」と励ましてくれたが、不安が一杯で手術室に入った。
手術は2時間かかった。局所麻酔で意識があったが、全身麻酔で意識をなくしてほしかった。指がつながりますようにと何度もお祈りした。苦しい時の神頼み。
手術は長い時間のようにも短い時間のようにも感じられた。手術は順調に終わり、1~2日で成功したか分かると説明を受けた。
病室に運ばれた。右腕は固定されて、左腕には点滴の針が刺されている。身動きができない。外はすっかり暗くなっている。もう8時になっていた。
看護婦さんが出ていった後は、誰もいない一人部屋の病室で、とっても心細い。窓からライトアップした橋が見える。そこへパパが心配そうに入ってきた。
「夜景がきれいだね」
「うん。ごめんなさい」
「結果は1、2日でわかるそうだ」
「先生から聞いた」
「指が壊死すればあきらめて」
「うん、私の不注意。考えごとをしていたの」
「実習中は集中しないとだめ」
「分かっています」
「心配事があるのなら、相談にのるよ」
「大丈夫」とは言ったけど、パパのことを考えていたなんてとても言えない。
「綺麗な女医さんだったね」というので、パパは何なのこんな時にと、カチンと来て「こういうときに不謹慎でしょ」と怒鳴ってしまった。
「ごめん。そういう意味では」
「じゃあ、どういう意味?」
絡んでしまった。パパは黙り込んでいる。いけない、感情的になってしまった。
「許してあげる。それより、1週間は入院しなければならないので、着替えを持って来てもらえませんか? 分かる?」
「いいけど、下着だよね」
「うん。プラケースの中にあるから、適当に2~3枚ずつ、見れば分かるから」
「いいのかい」
「仕方ないでしょ」
「分かった。あすの朝、出勤途中に寄るから」
「お願いします」
「ほかに何かほしいものある?」
「喉が渇いているのでジュースが飲みたい」
「じゃあ、すぐに売店で2,3本買ってくるよ」
パパは出て行った。でも、その前に頼めばよかった。おしっこがしたい。そういえば、実習が始まる前に行ったきりでずっと行く機会がなかった。手術があったので緊張してしたくなかったこともある。
気になるとますます我慢できなくなる。どうしよう。出ちゃいそう。でも動きが取れない。右腕は包帯で胸の前に固定されて、左腕には点滴の管が支柱にまでつながっている。パパ早く戻ってこないかな。思ったよりも時間がかかっている。
ようやくパパがジュースを3本持って戻ってきた。
「トイレに行きたいの、我慢できない」
「看護師さんを呼んでくる。いや、そこのコールボタンを押せばいい」
「待てない。出ちゃう。怪我した時からずっとトイレに行ってないの。すぐにつれてって」
「ええ!」
「早く私を起こして、手を貸して、お願い」
漏らしそう。冷汗が出てくる。
「早く早く」
ようやく、トイレにたどり着いた。とてつもなく長い時間がかかったような気がする。
「下着を下して早く」
「えええ!」
「でも、見ないで、絶対に」
パパは後ろからそっと下着を下してくれた。そして慌てて外へ出て戸を閉めた。これでやっとできる。
大きな音がする。静かな部屋だから余計に大きく聞こえる。すぐに水を流す。パパに聞こえたかな? 恥ずかしい。でもホッとした。
この前のように途中で床に漏らすことがなくてよかった。ようやく正気を取り戻した。立ち上がって戸に背を向けた。
「パパ、下着を上げて」
「は、はい」
パパは恐る恐る入ってきて、ゆっくり上げてくれた。それから、ベッドに連れて行ってくれた。そして「今度から早めに看護婦さんに頼むように」と言い残して慌てて帰っていった。ありがとうパパ。
次の日の朝、朝食を摂っていると、パパが着替えを持ってきてくれた。帰りにも寄ってくれた。「汚れたものはない?」と聞かれたが、下着を出すのが恥ずかしいので、返事しないでいると、パパは「そうか」と言って、帰って行った。
下着の替えがなくならないか心配だったけど、退院が間に合った。幸いにも縫合部分の壊死もなく、指はつながった。安心した。
そのあと2週間ほど自宅療養した。朝食の準備と後片付けはパパがしてくれた。お昼ごはんは冷凍食品で済ませた。夕食はパパが毎日違うお弁当を買ってきてくれた。
洗濯は自分の下着は自分で洗った。小さいものが多いので片手でもできた。パパの分は自分で洗ってもらった。洗濯物の取り込みは私がなんとか片手でもできた。
お風呂は怪我したほうの手をビニール袋で覆って入ったが、着ているものは、時間がかかったけれど、なんとかひとりで脱げた。上がって身体を拭くのが一苦労で、さらにパジャマを着るのがまた一苦労だった。
退院したばかりのころは、パパに目をつむってもらって脱がせてもらった。前に回ったときは、目をつむっているが、後ろに回ったときは、きっと目を開けていたと思う。しょうがないか、パパだから。
2週間でほぼ回復した。手には包帯が残っていたが、日常生活はできるようになり、再び学校へ行けるようになった。
「パパ、本当に心配と迷惑をかけてごめんなさない。親身になってくれてありがとう」
「今回は退院後の世話を十分してあげられなくて悪かったね。久恵ちゃんのママが生きていてくれたらと、女の子には母親が必要なことを痛感した」
「いえ、十分にお世話してもらったから、そんなことはありません」
「父親がどんなに愛情を注いでも、母親にはかなわない。母親の子供への愛情は父親の愛情とはかなり異質のような気がする」
「私は、物心がついた時から父親がいなかったので、比較できないけど、ママは私を命がけで育ててくれた。母親の愛って本当に一方的ですごいものだと思います」
「また、考えごとをしていてはだめだよ」といわれたけど、パパのことを考えていて怪我したとは、とても言えなかった。内緒にしておこう。でも、これからは本当に気を付けよう。
でも、パパはやっぱり男親、限界が明らかだった。ママが生きていてくれたら、随分助かったと思う。女の子にはいつまでも母親が必要なんだとつくづく思った。
パパは夕食を終えてソファーでテレビを見ている。後片付けが終わったので相談に行った。
「コーヒーをいれてあげよう」
「ありがとうございます。ちょっとご相談があります」
「何? 深刻な顔をして。コーヒーを飲みながら聞こうか」
パパがコーヒーをカップに注いでくれた。今日買ってきたと言うモカブレンドだ。モカの特徴が出ているまろやかな美味しいブレンドだと言っていた。
「専門学校の同じ班のクラスメイトから結婚を前提にしたお付き合いを申し込まれているんです。同じ班なので気軽にお話していたらこんなところまで話が進んでしまって」
「どんな人?」
「有名オーナーシェフの息子さんで大学を卒業してから父親の跡をつごうと一から勉強を始めたと言っていました。私のことが気に入って、この前の怪我の時も何回か見舞いに来てくれました」
「そうなの。いい人みたいじゃないか? 付き合ってみたらどうなの?」
パパはそっけない。関心がないはずはないのにこの言い方は何?
「今はそんな気になれませんとお断りしました。それでも先方は納得がいかないようで、パパに直接お願いしてもいいかと言ってきた」
「僕に直接? なぜ?」
「その人の父親もはじめは母親から相手にされなかったので、父親が直接母親の親の家へ行って、交際をさせてほしいと頼み込んだそうなの。その父親の熱意に打たれて母親が徐々にその気になって結ばれたということらしいんです」
「その成功体験を父親から吹き込まれている?」
「そうみたいです。有名なシェフで本人も父親を尊敬していて、父親のようになるのを目指しているみたいですから」
「いやなの?」
「ちょっとファザコンみたいで」
「男のファザコンはないと思うけど。父親を尊敬して父親のようになりたいというのはいい話じゃないか」
どういう訳かパパは勧める。本気でそう言っているの?
「いやなものはいやなんです」
パパに安堵の表情が表れた。そんなにカッコつけなくてもいいのに。
「それで」
「日曜日に訪ねてきて、パパに会いたいと言っているの」
「ずいぶん積極的だね。よっぽど久恵ちゃんが気に入っているんだ」
「どこが気に入られているの? 聞いてみた?」
「母親と性格がそっくりなんだとか」
「そういうところはマザコンかもしれないね」
「そんなの先方の勝手な思い込みです」
「今のところは先方の片思いというところだろうけど」
「けど?」
「一方的な片思いはいずれ終わると思う。なぜなら、高まっていかないからいずれは醒めていく。でも、一方が好きになって好きだと伝えると、それに応えるように相手も好きになってくれるようになる。好意を持ってくれる人に好意を持つというのは、自然のことで、恋愛もここから始まると思うけどね」
「好意は分かりますけど、私はどうかというとそんなことにはならないような気がしています」
「まず、相手を好きになったら好きと言わなければ、相手も好きになってくれない。正攻法で来ているのは好感がもてる」
「説得力のある話だけど、それじゃ困るの」
「じゃあ、どうしたいの」
「ここに来てもらって、パパの口からきっぱり断ってもらいたいの!」
「断っても引き下がりそうには思えないけど」
「だから困っているの。でも、いい断り方を考えたから、これなら一発で引くと思う」
「何?」
「私と内縁関係にあるときっぱりと言ってください」
「内縁関係?」
「だって、管理人さんにも妻と言ってあるでしょう。調べれば納得すると思う」
「彼はどこまで僕たちのことを知っているんだ」
「きっと父親に頼んで学校に手をまわして調べたのだと思いますが、ここの住所と叔父と同居していることを知っていました」
「確かに入学手続きの書類に保証人は僕で関係は叔父としていたし、住所も書いた。久恵ちゃんの住所も同じだからね。先方も本気だね」
「付き合ってみてもいいじゃないの?」
また、それを言う。本当にいいの?
「いやなんです。さっき言ったように本当に好きになったらどうするんですか?」
「それならそれでいいと思うけど」
口ではこう言っているけど、本当にそれでいいの? 何なのこの優柔不断さは。
「いやなものはいやなんです」
パパがホッとしたような表情になった。分かりやすい人だ。
「じゃあ、日曜日に会うことにしようじゃないか」
ようやくパパに気合が入ってきた。
◆◆ ◆
彼が訪ねて来るという日曜日、パパは朝から落ち着きがない。「娘をお嫁さんに下さいと言いに来る彼氏を待っている父親の心境がよく分かる」とか分かったようなことを言っていた。
パパに最初にこの話をした時に、私にとって悪い話ではないと言っていた。確かに客観的に考えると悪い話では少しもない。でも、そうですねと言って、パパから離れて彼に近づくことなど到底できない。
パパもこんな降って湧いたような話に気乗りがしないのは話していてすぐに分かった。私に勧めるときでも気持ちが入っていなかった。口ではそういっているが顔は無表情だった。でもその優柔不断さが気に入らなかった。
約束の時間が近づくと、パパはソファーに座ってずっと考えていたみたいだ。マンション入り口のチャイムが訪問者を知らせて鳴っている。パパは急いでパネルの画面をのぞいている。
「どなた様ですか?」
「飯塚《いいづか》昇《のぼる》といいます」
「3階の306号室へどうぞ」
マンションの入口のロックを解除する。パパは玄関へ迎えに出た。私は玄関へは行かずにソファーに座っていた。
パパが彼を案内してリビングへ連れてきた。そしてソファーに座ってもらった。私は席を立ってコーヒーをいれた。コーヒーを配り終わるまで、沈黙が続いた。私が席に戻ると飯塚君が話し始めた。
「不躾だとは思ったのですが、川田さんと交際させていただきたいので、直接叔父様にお願いに上がりました。本人が固辞されていますが、諦めきれなくてここまで押しかけてきました。どうか交際させて下さい。お願いします」
「本人は理由を申し上げていないのですか?」
「直接、叔父様に聞いてほしいと言っています」
「そうですか、申し訳ありませんでした。歳も離れているので、本人の口から申し上げにくかったのでしょう」
そう言って、パパは私の顔を見た。パパは演技がうまい。思わず笑いそうになるのを懸命にこらえる。
「僕と交際できない理由ってなんですか?」
「歳が離れているので、お恥ずかしい話ですが、私と久恵は内縁関係にあるのです」
「叔父さんと姪御さんが内縁関係ですか? 確か叔父と姪は3親等内なので結婚できないはずですが、それで内縁関係なのですか?」
「いいえ、久恵とは血縁関係はありません。久恵は兄の結婚相手の連れ子なのです。兄夫婦が昨年の暮れに交通事故で他界いたしまして、それで久恵を引き取って面倒を見ていました」
「それで内縁関係になってしまったということですか」
「歳が離れていますが、お互いに気心が通じ合ったと言いますか、お恥ずかしい限りです。久恵もこのことを口外したくなかったのでしょう。いずれ学校を卒業したら籍を入れようと思っています」
「そういうことならしかたありません。分かりました。諦めがつきます」
「このことは学校では口外なさらないでいただけますか? そして、久恵とは友人のままいてやっていただけないでしょうか。お願いします」
「分かりました。そうさせていだだきます」
そういうと、彼は一礼して帰って行った。二人で玄関まで彼を見送った。好感の持てる人だった。パパは一仕事終えて安心したのか、ソファーに座ってため息をついた。でも私はパパが懸命に演技してくれて断ってくれたのが嬉しかった。
「パパ、迫真の演技だった。あれなら騙される」
「そうか? ここのところずっとどう言おうか考えていたから」
「でも、歳が離れてお恥ずかしいはないと思う。歳が離れていてもいいと思うし、恥ずかしがらなくもいいんじゃない。もっと自信を持って」
「そうは言っても、そういうから説得力があるんだ」
「そうなの」
「それに、つい我慢できなくて手を出してしまったとも言えないだろう」
「それはDVです。私の立場もあるから当たり前です。とても上品な言い方でした。ありがとうございました」
そう言って私は自分の部屋に機嫌よく引き上げてきた。パパは私のことを手放したくない。確信をもってそう思えた。
9月14日はパパの誕生日だ。今日は夕食の品数を増やして、手作りのケーキも用意した。
「今日の夕食はごちそうだね」
「お誕生日おめでとうございます」
「そうか、今日は僕の誕生日だった。知っていたの?」
「崇夫パパに聞いてずいぶん前から知っていました。私も同じ9月ですから覚えやすかったです」
「この歳になると、歳を取るのが怖くなるんだ。だから誕生日はおめでたくないし、忘れようとしている」
「どうして? まだまだパパは若いわ」
「若いままでいたいんだが、35歳をピークに体力が落ちてきた。体力が落ちると気力も落ちてくる。仕事でも直観力が落ちているのが分かる。なんとか今までの経験と要領でしのいでいるけどね」
「パパは運動不足じゃないの?」
「毎朝、自由が丘まで歩いているし、会社でもエレベーターを使わないで階段で上り下りして運動不足にならないようにしているけど」
「でも電車では席に座りたがるし、帰りは歩いていないんでしょう」
「帰りは疲れているから、電車にしているけど」
「この歳で体力が低下して、なんて言ってほしくありません。これからはもっと精の付く料理を心がけます」
「若ぶって無理をするのが一番いけないと思っているけどね。運動も歳相応でいいんだよ。最近、高齢者の登山事故や自動車事故のニュースが多いだろう。いつまでも若いと思っていたらろくなことがない」
「それが年寄り臭い言い方だと思います」
「ケーキありがとう。蝋燭まで用意してくれて」
「学校でパティシエを目指している友人に作り方を教えてもらいました。何とか食べられると思います」
太い蝋燭3本と細い蝋燭9本を立てて火を点けて部屋を暗くして、Happy Birthdayを歌ってあげて、火を吹き消してもらった。照れてはいたけれどパパはとても喜んでくれた。
「ごめんさない。プレゼントはなしです。良いものが思いつかなかったので」
「久恵ちゃんからのプレゼントだったら嬉しくてなんでも大切にするから」
「久恵ちゃんの誕生日は9月28日だったね。覚えていたけど、話題にすると僕の誕生日も聞かれると思って黙っていた。僕の誕生日が過ぎてから、誕生日プレゼントに何がほしいか聞こうと思っていたんだ」
「実はそれを期待していました」
「それは丁度よかった。何でもほしいものを言ってみて。値段は気にしなくていいから」
「へへ、それじゃあ、誕生石の指輪を買ってください」
「9月はサファイヤだね」
「そうです。別に高価なものでなくていいんです。小さな石がひとつ付いていればいいんです」
「分かった。今度の週末に買いに行こう」
へへ、作戦通り。パパは本気で私の誕生日プレゼントに誕生石の指輪を買うつもりになっている。
◆◆ ◆
土曜日に早速、指輪を買いに銀座へ出かけた。ここならジュエリーショップもデパートもあるから好みのものが選べるし、何軒か回ってから気に入ったものを買えばいいとパパが言っていた。
まず、有名ブランドのショップへ行った。パパは高価なものでも良いと思っていたみたいだけど、ここは桁が違う。私も値札を見て気が引けた。これは無理だし、こんな高価なものを買ってもらう訳にはいかないと思った。それですぐに次の店へ行ってみたいと言った。
でもブランド店はどこも同じような価格だった。それでデパートへ行くことにした。ここでは想定した範囲内のお手ごろな価格のものがそろっていた。二人共、口には出さないがほっとした。それで今度は本気で気に入ったものを探し始めた。
「この小さいサファイヤが3つ並んだのを見せてください」
価格は45,000円だった。これでも相当高価だと思ってパパの顔を見ると平気な顔をしていたので、これがいいと思った。でもパパは同じタイプで6つ並んだデザインが気に入ってじっと見ていた。でも価格は倍以上していた。
「その6つ並んだのも見せてください」
私は驚いてパパの顔を見た。本気みたい。
「両方着けてみて」
私は始めに3つのもの、次に6つのものを指にはめてみた。6つのものの方がよく似合うのは私にでも分かった。
「サイズはどう?」
「どちらもぴったりです」
「じゃあ、その6つの指輪にしてください」
店員さんは満面の笑みで「承知しました」といった。私は嬉しいやらパパに無理をさせて申し訳ないやらで複雑な気持ちだった。
「折角だからして帰る?」
「ええ・・・」
「じゃあ、このままして帰りますから、お願いします」
パパがカードを店員さん渡した。そのまま店員さんは支払いの手続きをするために指輪とカードを持ってそこを離れた。
私たちをどんな関係とみていたんだろう。でも婚約指輪ならお給料3つ分とか聞いたことがある。パパの年齢の給料を考えると100万円以上の婚約指輪になる。そう考えると高過ぎることはないのかもしれない。
「こんな高価なものを買ってもらおうとは思っていませんでした。買ってほしいとおねだりしてすみません。もっと安いもので良かったのにごめんなさい」
「いいんだ。僕の気に入ったものを僕が買っただけだ。気にすることは少しもない。僕は6つのデザインの方が好きだったから、せっかくしてもらうならこちらと思っただけだ」
「私も6つの方が素敵だと思いました」
「それならそれでいいじゃないか」
「いいんですが、申し訳なくて複雑な気持ちです」
そこへ店員さんが満面の笑みでケースを入れた紙のバッグと値札をとった指輪がおかれた黒い小さな台を持って戻ってきた。
私は指輪を左手の薬指に丁寧に嵌めた。パパはそれ左手じゃなくて右手じゃないのかと言おうとしたみたい。でも店員さんがじっとみているので、黙って見ていた。
私は指輪をはめた手をかざして満足そうにパパの顔を見てニコッと笑ってみせた。パパは嬉しそうな満足した顔をした。
私はパパの手を取って店を出た。
「もうお昼を過ぎているから何か食べようか?」
「銀座はどこでも高いからやめましょう。パンを買って家で食べましょう」
パパは誕生祝に食事でもと考えていたみたいだけど、これ以上お金を使わせるのは悪いと思った。すぐに近くのパン屋さんへ入って、おいしそうなパンを見繕って買った。
そして、また手を繋いで駅まで歩いた。有楽町駅から山手線、池上線経由で帰ってきた。
「今日は高価な誕生日プレゼントありがとうございました。無理させて申し訳ありませんでした」
「久恵ちゃんがとっても喜んでくれたからもう元が取れた。気に入ってもらってうれしい」
「大切にします。でもいつもつけていてもいいですか」
「もちろん、そのためにプレゼントしたんだから」
「なくさないようにします」
「なくしたらまた買ってあげる」
「いえ、絶対になくしません」
「それで気になっているんだけど、左手の薬指は婚約指輪か結婚指輪をするときで、独身者は右手の薬指にするものだと思うけどね」
「これでいいんです」
「どうして?」
「こうしておけば男除けになります」
「男除けって?」
「学校であれからもたびたび付き合ってくれと言われて、そのたびに気を悪くさせないように断るのが大変で」
「そんなに言い寄られているのか?」
「飯塚さんを含めてこれまで3人くらいですが」
「気に入った男なら付き合ってみればいいのに」
また、そういう。本当にそう思っているの? パパのそういうところが気に入らない。
「言い寄ってくるのは、年下でそれもちゃらちゃらした人ばかりでその気にもなりません」
「まあ、それが役立つのならいいかも」
思いがけずに高価な指輪を買ってもらった。私はパパ自身が気に入った指輪を買ってくれたことが嬉しかった。本当に私に似合うと思う指輪を一生懸命に探してくれた。それが一番嬉しかった。
私はこの指輪を左手の薬指に嵌めることにした。私は勝手にパパと婚約する決意をした。その証に左手にしたつもりだった。パパにはああ言ったけど、いつかパパを私のものにしたいと誓った誕生日プレゼントだった。だから少しは私の気持ちを分かってほしい。
12月9日(木)は両親の1周忌になる。その日は学校も仕事もあるので12月5日(土)に私とパパと一緒に日帰りでお墓参りに行くことになった。
新幹線を使えばこういうことが可能だ。パパは祖母にも一緒に行こうと電話をかけていた。駅からタクシーに乗って、高齢者住宅で祖母を乗せて、墓地へ向かう。
元気で現れた二人を見て、祖母はとても嬉しそうだった。パパは週末毎に電話を入れて健康状態などを聞いていた。見た目はすこぶる元気で安心した。
墓地は郊外の低い山の中腹にあり、とても眺めがよいところだ。納骨の時は周りをみるゆとりなんかなかった。祖父が生前に買っておいたところという。買ってから1年も経たずに心筋梗塞で亡くなったとパパが言っていた。
ふもとの入り口にあるお店でお花とお線香と蝋燭を買って、また、狭い道を上っていく。タクシーを待たせてお参りをする。
パパはお墓に供えられた枯れたお花を持ってきたレジ袋に片付けている。月命日には祖母がお参りをしているという。綺麗になったお墓にお花を供え、蝋燭を点して、線香に火をつける。
風が強くて蝋燭の火が消えそうだ。そういえば納骨の時は雪が降って風が強くて蝋燭に火がつかなかった。それで寂しさが募ったのを思い出した。
3人がそれぞれお数珠を取り出して手を合わせる。私のお数珠はママの形見だった。パパのものは生前に父親が買ってくれたものだと言っていた。
私は長い間手を合わせていた。3人で暮らしたことが思い出されてなかなかその場を離れられなかった。お参りに来られなくてごめんね。私は康輔叔父ちゃんと幸せに暮らしています。
「もう行こうか?」とパパが私を促した。私はあの時を思いだして泣いていた。パパは私の肩を抱いてタクシーのところまで歩いてくれた。
もう1時を過ぎていた。祖母はお腹が空いたので皆で回転寿司を食べに行こうと言って、運転手さんに行きつけの回転寿司に行くように頼んだ。
店はもう1時を過ぎていたので空いていた。ボックス席に座った3人は思い思いの皿を取って食べ始めた。私は懐かしいお店へきて嬉しかった。好きなお皿を選んで食べている。
「ここへは3人でも時々食べに来ていました。結構おいしいんです」
「思い出の店だったんだ。大丈夫?」
「過ぎたことを悔やんでもしかたないでしょ。それよりも好きなだけ食べていい? ここは久しぶりだから」
「久恵ちゃんの好きなだけ食べていいからね。ここはおばあちゃんがご馳走するから。今日はお墓参りありがとう。崇夫も潤子さんも喜んでいると思いますよ」
私はお腹が空いていたのと、久しぶりのお寿司だったので、夢中で食べている。お腹が膨れてくると悲しい思い出もどこかへ消えて行ってしまった。目の前ではパパも美味しそうに食べている。
お腹がいっぱいになったところでタクシーを呼んだ。途中で祖母を高齢者住宅の前で下ろした。別れ際、祖母がパパに私の面倒をよく見るように言っているのが聞こえた。
それから「久恵ちゃんが康輔のお嫁さんになってくれたらいいのだけどね」と独り言のようにポツリと言ったのが聞こえた。
パパは聞こえないふりをしたのか、何も答えなかった。私の方を見るので私も聞こえなかった振りをした。
そのまま駅に向かう。駅で夕食用のお弁当を2つ買って、帰りの新幹線に飛び乗った。これで7時前にはマンションに帰れる。
新幹線が動き出した。私は黙っては外を見ていた。3月に一緒に上京した時のことを思い出していた。もうあれから8か月以上も一緒に暮らして楽しい毎日が続いている。これでよかったのだ。
「さっき、おばあちゃんの言ったこと聞こえた? 気にしなくていいんだからね」
「何て言ってた?」
「それならいいんだ」
パパは私に聞こえたはずだと思っていた。確かに聞こえた。でも私は何と答えてよいのか分からなかった。私もそう思っていると言う勇気がなかった。もしそう言って「僕はそんなことは考えていないから」と言われたらどうしよう。パパなら言いかねない。取り返しがつかない。そう思ったからだ。
私の気持ちは態度で示すほかはないと思って、座席の間のひじつきを上げてパパの腕を抱えて肩にもたれかかった。
あの時は遠慮しながらおそるおそる肩に持たれてみたけど、今は気合をいれて当然といった勢いでもたれかかる。はたから見ると父親に寄り掛かっているというより恋人に寄り掛かっているように見えるだろう。これでいい。私の無言の答えだ。どうするパパ?
パパは目をつむっている。眠ってはいない。腕に寄り掛かっているのだから直感的に分かる。腕が緊張している。でも私の方が眠ってしまった。目が覚めたら大宮駅を出るところだった。もうここまで帰ってきた。もう一息だ。パパはすっかり眠っている。
「着いたよ」
パパを起こした。上京した時と同じだった。
もうクリスマスが近くなってきた。光陰矢の如し、時の経つのは早い。パパとの楽しい生活が続いているからそう感じるのかもしれない。もう少しゆっくり時間が過ぎていってほしい。この時間をもっと楽しんでおきたい。
クリスマスが終わると新年、また歳を取る。パパはそれがいやみたい。若い私と一緒に暮らして歳を取るのがいやみたい。だから、誕生日も嬉しくないと言っていた。
まあ、二人とも同じように歳を取るので歳の差が開いてゆくことはない。縮まるに越したことはないけどそれは無理だ。パパはどうも二人の歳の差を気にしているみたい。
クリスマスはどうしようかとパパから聞かれた。
「外食すると高くつくので私がクリスマスの料理を作ります。ケーキを買ってもらえればそれで十分です。それに家でした方が落ち着くし、ゆっくり二人でクリスマスを祝いたい」
そういうと少しがっかりしていた。パパは私と二人でどこかのホテルのメインダイニングでの夕食を考えていたようだった。でもここで二人っきりも悪くないと思ったみたい。気を取り直して聞いてきた。
「クリスマスプレゼントは何がいい?」
「お誕生日に高価な指輪を買ってもらったのでクリスマスプレゼントは必要ないです」
「クリスマスはクリスマス、誕生祝いとは関係ないから」
「じゃあ、冬のブーツを買ってください」
「ブーツ?」
「みぞれが降っても、雪が降っても歩けるブーツ、安いものでかまいません」
「分かった」
「一緒に買いに行く?」
「選んでいただければそれでいいです」
「サイズは確か23㎝だったね」
「そうです」
「そういえば、久恵ちゃんは赤のブーツを持っていなかった?」
去年の両親のお葬式の時、私は濃い赤のブーツを履いていた。
「あのブーツ、もう履きたくないんです」
「どうして?」
「あの赤いブーツは前の年の崇夫パパからのクリスマスプレゼントだったんです。短大生になったので、もう少しおしゃれしてほしいと言って。それまでは赤いゴムの長靴を履いていましたから」
「兄貴からのプレゼントだったのか。それで分かった。お葬式の時に履いていた訳が」
「あの事故の日、私はその赤いブーツを履いて友達と町へ出かけました。出がけにパパがそれを見て、嬉しそうに『似合っている』と言って送り出してくれました」
「そうなんだ」
「パパから今年のクリスマスプレゼントは何がいいと聞かれていましたが、あれが最後のクリスマスプレゼントになりました」
「だから、もう履く気になれないの?」
「あの時の嬉しそうな顔が忘れられません。だから大切に箱に入れてしまってあります」
崇夫パパの思い出の品だと言ったので、パパはまだ忘れられないのかと思ったみたい。黙ってしまった。
「分かった。今度は僕が久恵ちゃんに似合うブーツを選んでプレゼントしよう」
気を取りなおしたように言った。
◆◆ ◆
今年のクリスマスイブは木曜日、クリスマスは金曜日だから23日水曜日の祝日に早めのクリスマスをすることになった。
12月のはじめの1周忌のお参りから帰ってきてから、気分を変えようと、私は小さなクリスマスツリーをリビングの端の台の上に飾っていた。これだけでもクリスマスの雰囲気が出るから不思議なものだ。
朝のうちに二人でスーパーへ買い物に出かけて料理の材料を仕入れてきた。私のためにとノンアルコールのシャンパンも1本買ってきた。
それからケーキは駅の近くのケーキ屋さんで、いわゆるクリスマスケーキはやめて、ショートケーキを2個ずつ、それぞれの好みのものを選んで買った。
私はそれぞれを半分ずつ食べれば、4種類も食べられると言ってそうしてもらった。ついでにローソクを仕入れた。それぞれに1本ずつ立てることにした。
3時過ぎから私は料理に取り掛かった。献立だけど「雰囲気だけ出ればいいでしょう」とメインは鶏料理で若鳥の照り焼き、サーモンのカルパッチョ、生ハムとチーズの野菜サラダ、それにポタージュスープにした。
4時過ぎには準備がすっかり整った。お腹もすいてきているし、もう暗くなってきているので始めることになった。
食事を始めてから私がキッチンに立つ必要がないように、座卓の上に準備した料理、シャンパン、ケーキをすべて並べた。パパがジャンパンの栓を抜いてグラスに注いでくれる。そして乾杯!
「メリークリスマス」
すぐに料理の味を確かめる。
「これ食べてみて、どう?」
パパは黙って食べている。
「美味しい?」
「返事できないくらいに美味しい」
ようやく答えてくれたので、自分も食べてみる。まあまのできだ。
「ポタージュスープも美味しいね」
「色々混ぜたから味に深みがあると思うけど」
「これまた作ってくれる」
「気に入ってもらえたのならいつでも作ります」
料理を食べ終わったころ、外はすっかり暗くなっていた。ケーキに蝋燭を立てて火を点す。部屋の明かりを落とす。
私は蝋燭をじっと見つめている。パパと二人だけのクリスマス、あれから1年たったけどようやく落ち着いてきた。今は幸せな気持ちでいられる。パパのお陰だ。ありがとう。パパの顔を見た。
「吹き消して」
「しばらくこうして見ていたい」
私はそのまま蝋燭の火を見ていた。
「蝋燭もいつかは燃え尽きてしまうのね」
1/3ほど燃えたところで1本1本ゆっくり吹き消していった。
真っ暗になった。私は泣いてしまった。パパがすぐに部屋の明かりを点けた。私の泣いているのに気が付いた。
「どうしたの」
「こんな幸せ、いつまでも続かないのね」
「続くさ」
「明日のことなんて分からない。でも今は確かにあるから今を大切にしたい」
「そうだね」
私の気持ちが沈んでいると思ったのか、パパは話題をすぐに変えた。
「プレゼントを受け取ってほしい。気に入るか分からないけど、リクエストにはお答えしたつもりだけど」
そう言うと部屋に行ってプレゼントの箱を持ってきた。私も部屋に行ってプレゼントを持ってきた。パパが嬉しそうに私のプレゼントを見ている。プレゼントを交換する。
私はパパにシルクのスカーフをプレゼントした。
「そのスカーフ、リバーシブルで両方のデザインが好きだけど、私と歩くときはその青と水色の柄にしてほしいの、若く見えるから。会社へ行くときは反対側のシックなデザインにして」
「分かった。そうする。ありがとう。こんなスカーフが欲しかった。ウールのマフラーは外ではいいけど、暖房が効いている電車の中だと暑苦しいから」
「気に入ってもらえてよかった。お小遣いを貯めたかいがありました」
「僕の選んだブーツも見てくれる?」
「ええ、本当に買ってくれたの、ありがとう」
すぐに開けてみる。
「すごくいい色。派手過ぎず、地味過ぎず、センスいい。履いてみていい?」
ソファーに腰かけて、足を入れる。立って2、3歩歩いてみる。
「いつでも履いてくれるね」
「二人で出かける時しか履きません。一人で履いて出かけて、パパに何かあるといけないから。二人なら一緒に事故にあっても思い残すことはないから」
パパは何も言わずに黙ってしまった。でもせっかくのブーツだから大切にしたい。それと一緒にどこへでも出かけたい。
次の日、パパはプレゼントのマフラーを言われたとおりにシックなデザインを表にして会社へ出かけてくれた。喜んでもらえてよかった。