『佳奈ってさ、ヒグラシの鳴き声みたいな名前だよな』
ヒグラシの鳴き声を聞くと、そう言って笑った彼の顔を鮮明に思い出してしまう。
ーーだから、夏は嫌いだ。
「うわ、寒っ」
雨でも降った後なのだろうか。
全く想定していなかった寒さに、私は腕に掛けていた薄手のカーディガンを慌てて羽織った。
相変わらずいつ来ても人気のない駅舎だ、と心の中で悪態をついた私が降りたったのは、生まれてから高校を卒業するまでの多感な時期を過ごした地元の駅。
勤めている会社から少し遅めの夏期休暇を取得し、遠く離れた土地から数年振りに帰省したところだ。
キャリーバッグをゴロゴロ引きずりながら進む。未だICカードが対応されてない改札にまごつきながら、何とか駅の外に出た。
薄い日差しに照らされた、見慣れた風景。
ロータリーと言うよりはただアスファルトが広がっているだけの空間に、2台のタクシーが止まっている。後ろの車の運転手は缶コーヒー片手に前の車の運転席までやってきて、大きな声で談笑していた。
ーー商売する気、あるのかなあ。
思わず脱力した私を一瞥すると「お客さんが来たよ」と前の運転手にひと言残し、彼は後ろの持ち場へと戻っていった。着ている制服も車の塗装もバラバラでどう見ても同業他社だろうに、田舎の人たちはどこか大らかだ。
……大らかと言うよりは、毎日顔を合わせるうちに腐れ縁となってしまったのかもしれないが。
そして前の運転手は車から降り、私のキャリーバッグをトランクに入れてくれた。
「ありがとうございます」
「いやあ、今日はお客さん来ないかと思ってたから助かったよ。さあ、乗って乗って」
なんて、聞いてもいない懐事情を暴露してくれるあたり、やはり田舎だ。
そう思った瞬間、さっきまで荒んでいた心がそっと解れていったような気がして、思わず苦笑いが漏れてしまった。
ーー腐れ縁。私たちも、そうだったら良かったのに。
自動で開いたドアから後部座席に乗り込むと、ゆっくり車は発進した。
「どちらまで?」
「末広町まで、お願いします」
窓の外に見える懐かしい駅前商店街を眺めながら、私は実家のある町名を告げた。商店街は普段もっと寂れているはずなのに、忙しなく人が出入りしている様子が目に入る。
「お客さん、地元の人? 祭りのために帰ってきたの?」
「ーーえ、祭り?」
お喋り好きな運転手の言葉に、思わず前を向き直した。バックミラー越しにばっちり目が合う。目尻に笑い皺が刻まれた、優しそうな目元だった。
「あれ、違ったか。ーーだよなあ、末広町は参加してないもんなあ」
ぽつりと漏れた独り言を聞いて、しまった、と思った。私は、無意識に何という時期を夏期休暇に選んでしまったのか。
それからは運転手の世間話は上の空で、目に映る流れ行く景色すら記憶しないまま、視線をさまよわせる。
どこを走っても街中提灯がさがっていることが、ただひたすら私を動揺させた。
・・・・・
「ただいまー」
慣れた手付きで玄関のドアを開けて中に入る。忘れ去られたように隅に置かれている、時が止まったままのくたびれた、だけどとても気に入っていたスニーカーを見て、まだ捨てていなかったことを思い出した。
ーーこの休みのうちに、処分してしまおう。
そう決意し靴を脱いでいると、パタパタと軽やかなスリッパの音が近付いてくる。
「あら、お帰り。早かったのね。何時の電車か言ってくれれば駅まで迎えに行ったのに」
「いいよ、大丈夫だから」
「またあんたはそうやってーー」
「はいはい、まずは荷物の整理をしてくるね。あと、はいこれ、お土産。お母さん好きそうなやつ」
母親の小言もそこそこにお菓子の箱を押し付けると、私はキャリーバッグの車輪を拭いて自分の部屋へ運んだ。
・・・・・
「ーーで? どうなの、お仕事は」
夏だけど、温かいお茶の入った湯飲みが目の前にある。昔から母はこうだ。体を冷やさないようにと娘を気遣ってくれている。
「どうって、別に何も」
常備されている、母の大好きな煎餅に手を伸ばした。夏と言ってもそろそろ秋の足音が聞こえてくる8月の終わりのこの時期は、夏の暑さと毎年お約束の暴飲暴食で胃が疲れてしまっているようだ。こういった素朴な味わいが丁度良い。香ばしい醤油味の煎餅をぽりぽりかじってお茶を啜ると、ため息が出た。
「はあ、胃に染みるー」
「なに年寄りくさいこと言ってるの」
「だって、ひとりじゃ温かいお茶なんていれないもん」
「だめよ、体を冷やしたら。どうせ休みの日はエアコンを効かせた部屋でだらだらしてるんでしょう」
「ああもう、うるさいなあ」
止まらない母親の小言を遮るように、私は2枚目の煎餅に手を伸ばした。
「だって、佳奈ったら全然帰ってこないんだもの。お母さんあなたが心配で……」
パリ、と煎餅をかじったまま、顔を上げる。自分の記憶より少し白髪の増えた母が、不安そうにこちらを見ていた。その視線に、胸がきゅっと締め付けられる。
「……ごめん。今度からもう少し帰るようにするから」
「仕事、辛かったらいつでも戻ってきていいのよ。あなたの家はここなんだから」
「うん」
私はひとりっ子だから、親の干渉はよその家より強いのかもしれない。それでも私は、親を、この家を、嫌いではなかった。
そんな私が高校卒業と同時に実家を出たのは、ただこの環境を変えたかったからだ。田舎暮らしはどこか野暮ったくてつまらない。
多感な時期だったあの頃は、憧れの外の世界に出れば大人になれると本気で思っていた。
もし今あの頃に戻ることができたら、絶対に同じ選択はしない。
ーー私が失ったものは、あまりに大きいから。
夕飯まで時間があったので、気晴らしに近所を散歩することにした。定年間近の父親が帰宅したら、久々に一緒にお酒が飲めるかもしれないと浮き足立つ。
お気に入りのガウチョパンツに、風通しの良いTシャツ。化粧も日焼け止め程度の適当さだ。会社の人に見られたら全速力で逃げたくなるような格好も、生まれ育った地元なら全く気にならないのは、果たして良いことなのだろうか。
「うー、やっぱり寒い。もう秋みたい」
結局、雨は降っていなかった。
「最近はこんなものよ」と母は笑っていたが、そうだっただろうか。今朝、今住んでいる所のアパートを出たときは、あまりの暑さと日差しにくらくらしたというのに。地元とこんなにも気候が違うとは思わなかった。
月末とは言え、まだ8月だ。
子どもの頃は、寒いだなんて感じていただろうか。思い出そうと眉間に皺を寄せていると、追い討ちをかけるように風が吹いて、ぶるりと身震いがやってきた。
我慢できずに持ってきたカーディガンを羽織ると、私はそのまま車道を逸れて小道に入る。
(変わってないな、この道)
左側が小さな森で、右側が田んぼ。
狭い道のため滅多に車は入ってこない、小中学校へと続く通学路だ。私の卒業した小学校と中学校は場所が近かったため、9年も同じ道を通ったことになる。