「あ、お母さん? うん元気。・・・ちょっとね、仕事変わったの。でね引っ越したから、新しい住所で手紙出しておいたから。うん、大丈夫、お正月にはまた帰るし。ん、はーい、じゃあね!」
スマートホンの通話を終了させる。
もうあと二ヶ月もすれば一年の終わりと言う頃になって、あたしは実家に電話を入れた。
紙宝堂に越して来てちょうど一年。
良い頃合いかと思ったのだ。
「元気だった?」
叶の微笑みに、あたしも小さく笑み返し。
「うん。変わりないみたい」
「そう。じゃあ今度のお正月には、リツのご両親に一緒に挨拶に行こうか」
「?!」
思わず目を丸くする。
だって、あの、挨拶って、それって。
すると叶はクスクスと本当に可笑しそうに、あたしを見やった。
「世間的にはリツもお年頃だし、ご両親を安心させないとね」
「・・・っ、でも・・・!」
あたしの戸惑いがどこに在るかを叶は解っていただろうか。
亡くなった志穂さん。
人形堂の秘密。
樹。
腰を抱き寄せられ、一人掛けのソファに座っている彼の膝の上に摑まった。
「厭?」
悪戯っぽい笑顔がすぐそこにある。
イヤな筈がない。無い、けど。
「叶は・・・いいの?」
その一言に尽きた。
「そうしたいから言ってるんだよ」
柔らかい口調。でも目は笑っていない。
あたしの表情を的確に読んでる。・・・叶はそういうひとだ。
言われた瞬間は多分、天まで舞い上がりそうに。
だけれど。
今の自分の立ち位置は果たしてそういうものなのかと・・・急ブレーキがかかってしまった。
「リツ?」
黙り込んだあたしの顎の下に指がかかった。
上を向かされ、叶の眸がすぐそこにある。
逸らしたのはあたしのほう。
「何を気にしてるの?」
「・・・・・・」
そういう普通の結婚、みたいなものを望んでいいのかどうか。
樹との三人の関係を続けていけるのかどうか。
叶にとって、本当にそれは枷にはならないのかどうか。
「ちゃんと・・・言ってごらん」
真っ直ぐに見つめられ、逃げ場が無くなった。
思わず口にした言葉は。
「・・・ごめんなさい。もうちょっと待って・・・」
・・・だった。
・・・あれから一週間。
叶は『急ぐつもりは無いよ』と薄く微笑み、その後はいつも通りで何も変わらない。
毎日抱かれているし、彼を愛おしく想う気持ちに違いも無いのだから。
ただ。答えは未だに。
・・・自分でも良く解らない。
目の前の横断歩道は青信号で。
途中に危険な障害物がある訳でも無く、渡りきった向こう側に待っているのは、女の子なら誰でも夢見る幸せなのに。
紙宝堂の仕事をしながら、叶に見えない場所で溜息を繰り返す。
珍しく樹が陽も昇りかけの午前中に顔を出したのは、そんな折りだった。
「あぁ、なるほどな」
奥の方の書棚を整理していたら、現れた彼。
ひとの顔を見るなりその一言で、あたしは訝しげに目線を傾げる。
「・・・なあに?」
「いや? リツコに外の空気、吸わせてやれって叶が言うから、どんなかと思ったら。半分死にかけの金魚ってトコか」
「なにそれ」
余計なお世話ですけど?
「たまには違う水槽で泳いでみろって話だよ。・・・いいから、出掛ける支度しな。今日は俺に付き合え」
樹は面白そうに口許を緩めたのだった。
珍しいことは重なると言うけれど。バイクじゃなく彼が車だったこと自体も、超常現象ほど貴重なんじゃないかと思う。
ネイビーカラーのワーゲン。スポーツタイプの。
・・・どちらかと言うと叶の方が外車のイメージだ。アウディみたいな。
「どっちかって言うとランクルとか・・・、RVに乗ってそうなのに」
「お前・・・。見た目で言ってんだろ」
あたしの変な感心に少し呆れ顔が向く。
だってどう見てもアウトドア派で、冬はスキー夏はサーフィン・・・みたいな?
「言っとくけどな、これでもスーツ着る機会は多いんだ!」
「うそぉ?!」
「あーハイハイ」
ったく、と大仰に溜息を付いて見せるから。
あたしは可笑しくなって声を立てて笑った。
「少しは生き返ったか?」
樹がクスリとあたしの髪を撫でた信号待ち。
・・・そんなに死んでたのかな、あたし。
叶にはそう見えてた。だから樹を呼んでくれたのだ。
「・・・ごめんね」
「何が」
「だって樹は夜行性だし、いつもなら寝てる時間でしょ午前中なんて。・・・無理しなくて良かったのに」
「いいや。這ってでも来るね。叶がフラれたなんざ、棚ボタ以外のナニモノでもねーし」
「振ってなんか無いってば!」
渾身の抗議。
人聞きが悪いったら。
「叶も随分と太っ腹だな。オオカミと赤ずきんを一緒にドライブさせようってんだから」
そんな風に言ってシニカルに樹は笑う。
秋晴れの蒼穹が車窓越しに流れてく。
「今は俺のモンなんだから、ちゃんと俺だけ見てな」
視線だけ傾けた樹の、いつになく真面目な横顔。
小さく頷いた後、・・・少し心臓がざわついた。
ただ躰を重ねる時とは別の。
まるでレンアイをしているみたいに。
叶に愛されている時みたいに。
ゾクリとした。
・・・いつの間にこんなに欲張りになったんだろう。
樹も叶も両方欲しい。・・・なんて。
「リツコ」
車が停まった。
目線で問い返すあたしに近付いてくる樹の顔。
深いキス。
「・・・お前、今すぐ俺に抱かれたいってカオしてる」
「・・・・・・・・・」
樹に抱かれても〝答え〟が出る訳じゃない。
そんなことは解っているけれど。
少し逃げたかった。
「俺をはけ口にするのかよ。・・・大した女だな」
でも樹はうっすらと笑っていた。
「これも惚れた弱みってヤツかね」
やがて着いた場所は湾岸近くの高層マンションエリアだった。
地下の駐車場にワーゲンを滑り込ませ、乗り込んだエレベーターの行き先は27階。
離れた眼下に濃紺の海。
地面から生えたように見える、四角や丸のマンションの群れ。
ロケーションの凄さと、連れて来られた部屋が一面硝子張りだったことに感動してしまう。
前面を遮るものもなく、他者の視線を気にする必要も一切ない。一望出来る光景を独占できるのだ。
30帖近いワンフロアタイプ。
カウンターキッチン、リビングダイニング、ベッドルームがシェルフや観葉植物で上手に仕切られている。
リビングはスタイリッシュぽいけれど、ベッドの方はアジアンテイストな雰囲気だったり。
「・・・ねぇ。もしかしてあの別荘って樹の?」
人形堂の仕事で使う秘密の場所。調度品の揃い方がここと似ている。
「何でそう思う?」
理由を言えば、樹は感心したように目を細める。
「ふーん」
そのまま抱き上げられ、ソファに降ろされた。
「その話はいいだろ。ほら・・・俺が欲しかったら、ちゃあんとオネダリしな」
「・・・ん・・・っ」
そこからはもう。ただ熱と波に飲み込まれて。
樹の中で溺れ続けるだけのあたし・・・・・・。
余韻に躰をうねらせて身悶えるあたしの耳許に、笑いがくぐもる。
「好きって言ってみな。・・・そしたら俺を好きなだけ、やる」
「・・・・・・すき・・・」
「ちゃんと見て言えよ」
大きな片手に優しく頬を掴まえられ。
野性味のある端正な顔立ちが、あたしを間近で見下ろしている。
「・・・・・・好き」
樹の目を見ながら。
しっかりと自分の口で。
「叶とは違うけど・・・好き」
きっと。
叶と樹と、どちらが欠けても駄目なの。
あたしには二人が必要なの。
ずっと。
ふたりの人形でいたいの。
「・・・当たり前だ。ごっちゃにすんな」
いつものシニカルな笑み。
「〝結婚〟しようが何だろうが、俺とリツコはこういう関係だってコト、憶えとけ」
・・・いつか聴いた科白。
「死ぬまで一蓮托生だ。一生離さないから覚悟しろよ?」
そんな脅しみたいな科白ですら愉しそうに。
「今度首輪でも買って来るか。〝指輪〟の代わりに」
時間も忘れて、抱き合う。
裸のまま、テレビを見ながら。料理を手伝いながら。外の景色を眺めながら。キスをして。また繋がって。
一日中。
叶のいない世界は久しぶりだった。
樹とこんな風に過ごしたのは初めてだった。
今、叶の顔を見たら。
あたしは泣くかも知れない。
地上27階からの夜景を見下ろし、ふと感傷に囚われる。
背中から優しく抱き締め、樹は見透かしたように少し笑った。
「そろそろ叶が恋しくなったろ」
そのうち王子サマが迎えに来るんだろうけどな、と樹に抱き上げられベッドに運ばれた。
「叶には一応、ここに居るのは教えた」
「・・・うん」
「それまでは俺のモンだ、・・・全部」
樹の愛撫に蕩けながらも、頭の片隅に叶がちらつく。
迎えに来てくれる?
あたしを連れ戻しに来てくれるの・・・?
来訪者を告げるインターフォンが鳴るまで。
朦朧と、現実との境を彷徨っていた・・・・・・。
「いい具合に邪魔しに来るなよ・・・」
「悪いね。これ以上樹のそばに置いておくと、リツが心変わりしそうだから」
玄関でずっと、あたしの身支度を待っていた叶が樹とそんな会話を交わしているのが聴こえた。
・・・とてもバツが悪すぎる。気がする。
視線が少し泳ぎ気味に、二人の目の前に立った。
とりあえず、ごめんなさい、だ。
何ってもう、あたしが元凶なのは間違い無いんだし。
「叶、あの、ご・・・」
何も言わず。
叶はあたしを自分の胸に抱き寄せ。
髪を撫でながら、
「僕の方が禁断症状がひどいかな」
と、独り言のように囁いた。
樹のマンションを後にして、叶はハリアーを人けの無い路地に駐車させた。
まだ未開発区域で、街路灯も少ない闇の中。
後部シートで絡みあう。
まるで野獣のような、ふたり。