店から二十分程度の距離にある寺。
門をくぐり並ぶ墓石を通り抜け、木々が生い茂って隠れている階段を上る。小高い山になっている場所に、人目を避けるように数個の墓石があった。
「……ここ……」
下に見える、整然とした霊園とは雰囲気が違う。
ここにあるものは全て、大分古い時に建てられたのだろう。苔が生えた丸い墓石が、数個ぽつぽつと点在している。
その中で異彩を放っていたのが、真新しい花だった。誰かが供えたのだろう花は、まだ瑞々しく鮮やかだ。
それを見た子供は、歓声を上げる。
「兄ちゃん! 見て、この花! たぶん、あいつじゃ!」
「あ、あいつ? 友達か? 花を供えてるって事は……なんともなかったのか?」
安倍を見れば、考え込むように目を細めている。そして、顎に手を当て、自分の考えを披露するように、一言、一言、吐き出した。
「お客人は、相手が急に音通不信になったため、何か大変な事に巻き込まれ、連絡が取れない状況に陥ったと考えた。だから、慌てて店に来た。……だがしかし、真実はどうだろう。これを見る限り、答えは明白だ。お客人の友達とやらは、君の前から消えたかった。それだけの話だ」
空の高い所で、ひゅーんと鳥が鳴いている。
風で、草木のそよぐ音が聞こえる。
それくらい、俺達のまわりは静まりかえっていた。
「……え? なに……?」
意味が分からない。そんな様子で、子供が困ったような半笑いを浮かべている。
「おれの前から……なに……?」
「君の前からだけ、消えたかったと言っているんだ。会いたくないと言えば、通じるか?」
「うそじゃ!」
かっと歯を剥いて叫んだ子供は、今にも安倍に飛びかかりそうな勢いで、俺はたまらず押さえ込む。
「落ち着け!」
「はなせ! はなして、兄ちゃん! こいつ、こいつは……!」
今まではぎりぎりで泣かなかったのに、安倍の容赦ない物言いで我慢の限界に達したのか、子供はボロボロと泣いていた。
邪魔をするなというように、大きく腕を振られると、またもや俺の眼鏡に手が当たった。
よっぽど興奮していたのだろう、子供は今度こそ謝らなかった。
そのまま安倍に飛びかろうとして――数歩の距離で、足を滑らせべちゃりと地面に突っ伏す。
「おいっ……――!」
大丈夫か、と続けるはずだった声が詰まった。
駆け寄ろうとした足が、動かない。
俺の目は、〝ありえないもの〟を見ていた。
角の生えた、ありえない生き物――これは、まるで。
「お、鬼……?」
かすれた俺の呟きに、つまらなそうな顔で子供を見下ろしていた安倍が視線を上げる。
「やあ、狐。ようやく眼を開いたかい。……見てみないふりは、楽しかったかな?」
ありえない、と俺の口は動いたはずなのに、音にはならない。金魚のように口をぱくぱくさせたまま、俺は地面に落ちた眼鏡を探す。
どこかにあるはずだ。
あれをかければ、こんな……〝見えるはずが無いもの〟なんて、消えて無くなる。
「おや? もしかして、探しものは、これかい狐」
おかしな空気が漂うこの場で、唯一平然としている男は、ゆったりとした足取りで歩みを進め、何かを拾い上げた。
手で弄ぶようにして見せた物は、俺の眼鏡。
「……返して下さい」
「ふぅん……。特別な仕掛けもない、普通の眼鏡だな」
「眼鏡に、変な仕掛けなんてあるわけないでしょう」
「度も入っていない伊達眼鏡で、君は必死に何を偽っていたのかね?」
「――っ……返せって言ってるだろ!」
ふと笑った安倍は、眼鏡を俺に向かって放り投げ、いまだに地面に突っ伏して動けない子供に、ちらりと視線を向けた。
眼鏡をかけ直した俺は、その視線の動きにぞっとして、慌てて子供の方に駆け寄る。
「おい、大丈夫か!」
「に、兄ちゃん……! あの人間、やっぱり……おん――」
何か言いかけた子供だったが、遮るように安倍の声が重なった。
「意外だね、狐。固定観念に凝り固まった君ならば、常識を逸脱したこの場からは、さっさと逃げ出すものだと思っていたのに……今までは触れもしなかった、そっち側に行くんだな」
「は? 大人げないアンタと子供を、ふたりきりにしておけるかよ! ……ほら、立てるか?」
べそをかいた子供に手をかして、立たせてやる。けれど、子供の目にはさっきまで以上に、安倍への恐怖心があった。
「やれやれ。君は、本当に子供に弱いんだな。……たとえそれが人ならざるもの……鬼であっても」
「っっ……うぅっ、ひぐっ……ごめ、なさい……!」
身を縮こめた子供は、安倍の一言にまた泣き出した。
「お、おい!」
「僕は、現実を見ない君に、わざわざ教えてあげているんだよ」
「知るか! 子供泣かせておいて、ぺらぺら語ってんな! ……あっ、ほら、飴やる! 苺味! うまいぞ!」
あわてふためいて包装を剥ぎ取り、口の中へ入れてやれば、子供はようやく涙を止めた。
「鬼の目にも涙、とは言ったものだけど……」
呆れた安倍は、まったく反省の色が無い。
「……いい加減にしろ。この子に失礼だ」
「おや。自分の目で今見たことを、君は信じないのかい?」
「俺は、〝自分の肉眼で見たもの〟なんて、一切信じない」
だってそれは、〝普通ではない〟から。
「……へえ」
断言すると、安倍は目を細めて、くすりと笑った。
「君がそう言い張っても……当のお客人は、どうだろうか?」
「っ、う、あの……おれ……鬼、だ」
小さな声で呟いて、子供は項垂れた。そして、恐る恐る安倍を見上げる。
「……おれのこと、調伏(ちようぶく)するか……?」
「やめてくれ、今は、そういう時代じゃないのさ。……お客人、君が何か悪事を働かない限りは」
子供は、少しだけ安心したようだったけれど、俺にはさっぱりだった。
(ちょうぶくって……なんだ?)
かさりと木々の揺れる音がしたのは、頭の中でクエスチョンを乱舞させていた時だった。
「……誰か、そこにいるのか……?」
伸びっぱなしの草を手で押しやりながら、青い顔をしたスーツ姿の男が姿を見せた。長身を、窮屈そうにかがめて墓地へ入ってくる。
そして、俺達を不可解そうに眺め――安倍に視線を定めた時点で、わずかに眉を眉間に寄せた。
「……ここは、故人を偲ぶ場所だ。騒ぐなら、よそへ行け」
「心外だ。僕は、騒いでなどいないさ。ぎゃーぎゃーとうるさかったのは、むしろそっちのふたりだね」
安倍がすました顔で、俺と子供を指さす。青い顔をした男の眉間には、シワがますます深く刻まれる。
「……貴様……その子に、何をした?」
「おや? 僕が一方的に悪者かい? ……まっ、慣れているけどね」
皮肉めいた笑みを浮かべた安倍に、男はさらに機嫌を悪くしたようだった。
「ち、ちがうぞ! こいつ、おれが連れてきたんじゃ!」
空気が張り詰めている事に気付いた子供が、慌てた様子でスーツの男に飛びつく。すると男の眉間のシワがわずかに緩み、戸惑ったような目で、子供を見た。
それで合点がいって、言葉が口をついて出る。
「あっ……もしかして、大きいお友達?」
三人の視線が、一気に俺に集中した。
(やべ……言葉選び間違えた……!)
まずい。
さすがに、面と向かって、大きいお友達は無かった。
友達だけで充分だった。
やらかした。
唯一、子供だけは気にしなかったようで、笑顔で頷いている。
ただ、青い顔のスーツさんには微妙な言葉のニュアンスが伝わったようで、もの凄く困惑したような顔をされた。
安倍は、フォローする気もなく、ただ呆れている。
「そうだぞ、兄ちゃん! こいつが、おれの友だちの青! ……なぁ青、どこに行っとったんじゃ? おれ、たくさん、たくさん、さがしたんだぞ!」
「……ああ、悪かったな」
青と呼ばれたスーツの男は、優しい顔で子供を見下ろす。
まとわりつく子供を邪険にしたりせず、頭を撫でる手も謝る声もとても優しい。
だから、続けられた言葉があまりにも不釣り合いだった。
「だが、もうお前とは会わない」
「――え」
突然の決別宣言に、ようやく会えたと緩んでいた子供の顔が、強張る。
わかりやすい表情変化を目の当たりにした青さんは、辛そうに顔を歪めたが――子供の肩を掴むと、自分から引き離した。
「赤、私はもうすぐ寿命が尽きるんだ」
縁を切りたい。
そのためだけについた嘘だとしたら、これほど最悪なものはないだろう。
突然の事に、子供は顔を強張らせたまま、何も言えなくなっていた。
「…………」
ショックが大きすぎて、すぐに言葉が出てこないのだろう。じわじわと、大きな目に涙がたまっていく。
その様子に気付かない筈がないくせに、青さんはさらに追い打ちをかけた。
「とてもとても……長く生きたからな。唯一の心残りは赤、お前で果たせたことだし、悔いは無い」
悔いは無いなんて、ずいぶんと清々しい言葉だ。
きっと本人的には、満足なのだろう。
でも、目の前にいる子供の心は、置き去りのままだ。
「なんじゃそれ? 分からん、おれ、ばかじゃから、むずかしいこと、分からん……」
震えた声が、なんとかそれだけ口にする。きっと考えて考えて、ようやく出てきた言葉のはずだ。
けれど、大事な友達であるはずの青さんは、もう口を開かない。開く気は無いと、態度が語っていた。
――ふざけるなよ。
「……なんですか、それ。小さい子を泣くほど心配させておいて、はいさよならってのは……大きいお友達として、どうなんですか?」
頑なさに苛立ちを覚えた俺は、よせば良いのに口を出してしまった。
とたん、鋭い眼光がこっちを向く。
(うわ、怖……!)
立ち入るなという圧を感じる。勘違いではない事は、突き刺さる視線で証明済み。
けれど散々巻き込まれ振り回された俺にだって、言いたいことがある。
「子供だから言っても分からないだろうって、侮るのはやめて下さい。その子は、貴方の事が心配だからって、たったひとりで、この人のところまで来たんですよ?」
この人――と、安倍を指せば、青さんは驚いたように目をみはり、子供を見た。
「お前……まさか、ひとりでこの男に……!?」
「だ、だって、おれ、青がしんぱいじゃったから……! お父とお母みたいに、きゅうに消えちまったんじゃないかって……だから……!」
そうか。必死だったのは、両親の前例があったからなのか。
急に消える。
それが、どういう事なのかは分からない。子供を置いての失踪なのか、また別の何かなのか……全ては想像の域を出ない。
ただ、この子が必死だったことだけは俺にもよく分かる。
それだけは、俺が肯定できる真実だ。
「褒めてあげて下さい、怖いお兄さんのところに、大事な友達を探してくれってひとりで来たんですから。さすが男だとか、勇気があるとか……言ってやって下さいよ、頑張ったんですから。それで、ちゃんと向き合ってあげて下さい。友達に、理由も告げられずそっぽを向かれるなんて……悲しすぎますから」
「…………」
眉間に皺を寄せたまま、青さんは目を閉じた。言うべきかどうか迷っているようだった。
けれど、やがて観念したようにため息を吐き、眉間のシワがとれる。
「……昔、遠い昔の話だ。……私は当時、調子に乗った荒くれ者で、あちこちを荒らし回っていた。だが、不注意で傷を負ってしまい、逃げ込んだ先で……人の夫婦に出会った」
青さんの目が、苔むした丸い墓石に向けられた。鮮やかな花が手向けられていた、あの墓石だ。
「底抜けに善良なふたりでな、怪我をした私を厭い追い払うどころか、手当をしてくれたんだ。……当時は、私達のような存在と人の間には大きな溝があったから、ひどく驚いたものだ」
懐かしむように語る彼は、そっと丸い墓石に触れる。
「……一方的に世話になるなんて、気持ちが悪い。なによりも、人間なんぞに借りを作りたくは無い。だから、恩返しを申し出た私に、ふたりは言った。――だったら、いつか貴方の前で困っている誰かがいたら、同じように手を差し伸べて助けてあげて欲しい……と」
「……だから青、おれをたすけてくれたんか?」
「親のいない、はぐれ鬼だったお前は、人に化ける術も知らなかった。寿命が尽きるその前に、自分に出来うる限りのことを教えてやろうと思った。……今ではこうして、お前はひとりで人里に降りられるようになるまで成長した。一人前だ。もう、大丈夫だ。私などがいなくても、平気だろう……?」
「――っ、だいじょうぶじゃねぇ!」
勢いよく抱きつかれた青さんは、目を丸くした。
「ぜんぜん、だいじょうぶじゃねぇよ……! そんなの、青はさみしいままじゃねぇか……! おれにも、おんがえしをさせてくれよ!」
「それなら、困っている誰かを助けてやれ」
「いちばんの友だちのために、なにもできねぇのに、他のだれかの役になんて、たてるわけねぇ!」
わんわんと声を上げて泣きじゃくる子供の頭を、青さんは困り顔で撫でる。けれど、その手は優しいから、きっと内心では嬉しいに違いないのに。
「やれやれ。観念すれば良い。どうせ、泣く子には誰も勝てないのだからね」
やりとりを黙って見守っていた安倍が、そんな事を言う。途端、青さんはくわっと目を剥いて「黙れ」と低く唸った。
すると、面倒だと言いたげに安倍がこっちを見た。その視線は、まるで「パス」と言っているような気がしてならない。
奴から無言の催促を受けた俺は、足踏みしたまま踏み出せない駄目な大人に向かって、生意気ながら言わせて貰った。
「他の誰かを助けなさいって言ったとしても、一緒にいられない理由にはなりません。そもそも、ふたりは友達じゃないですか。……恩返しだとか、小難しい理屈は置いて、考えて下さい」
「…………」
「一回親切にしたら、二度としちゃいけないなんつー決まりは無い。同じ相手に優しくする事は、おかしい事じゃない。友達ってそういうものでしょう? ……ふたりはお互いのことを思いやって、色々行動してるんだから――損得抜きのそんな関係、親友みたいじゃないですか」
親友、と青さんが呟いた。
泣いていた子供が顔を上げる。
「お、おれ、むかし青に、友だちがたくさんほしいって言ったぞ。みんなと、なかよくあそぶのが、夢じゃったから……! でも……でもな? おれの、いちばんの友達は、青じゃ……! 青が困ってたら、一番先にかけつけて、力になりたいんじゃ……!」
「……そうか」
「青は?」
真っ直ぐな目に見上げられた青さんは、笑った。
子供の成長を目にした親のように、とても誇らしげで、それでいて優しい笑顔。子供から目をそらす事なく答えた彼の両目は、怒りや悲しみ以外の感情で潤んでいる。
「……私も、赤が困っていたら、きっと一番に駆け付けたいと、願うだろうな……。なにせ……そこの御仁の言葉をかりれば……我らふたりは、親友だからな」
「――うん!」
これでもう、一安心。
仲直りだと、俺は息を吐く。
ちらりと安倍を見れば、奴はなんとも言えない表情でふたりを見ていたが、俺の視線に気づくと、顎をしゃくる。
「……親友というより、家族みたいだな」
こっそり呟かれた一言に、俺は「たしかに」と頷いた。
――消えた友達を探して欲しい。
そんな、奇妙な頼み事から端を発した人捜しは、こうして幕を閉じたのだった。