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文化祭が終わったその翌週、学校中に漂っていた浮かれた空気は、あっけないほどにあっさりと消えていた。
部活に入っていない三年生にとってはこれが最後の一大イベントであり、いよいよ受験に向けて本格的に動き出す流れを感じていた。七月に入ってから、毎日の気温もぐんぐんと上昇していき、初夏から盛夏の気候へと変わり始めている。夏休みまでは、あと一ヶ月を切っていた。
その流れの中で僕は、次の部活に気持ちの照準を合わせていた。僕にとって初めての経験となる二対二での企画対決は、文化祭のちょうど一週間後の土曜日だ。加瀬くんと晃嗣くんのペアに対抗するためには、悠長なことを言っていられる余裕はない。
週が明けてすぐに赤川さんと相談してさっそく内容を確定させると、その週は準備に明け暮れる毎日になった。放課後の時間になるとこっそりと旧校舎に忍び込み、コツコツと仕掛けの準備を進めていく。今までに三度企画には挑戦してきたけど、ここまでしっかりと事前の準備に打ち込むのは初めてだった。
忙しい毎日はあっという間に過ぎていき、そして、企画の発表日の前日となる金曜の放課後になった。
普段なら一週間が終わってほっと一息をつきたくなる時間だけど、今日はそういうわけにはいかない。自由に時間を使うことができるようになる、これからが本番だ。
しばらくの間図書室にこもって時間を潰し、校舎に人が少なくなったのを確認してから、こっそりと旧校舎に侵入した。念のために足音をひそめながら企画の発表場所に決めた理科室に行くと、赤川さんが先だった。
いつもの学校でのスタイルの赤川さんが、笑顔で出迎えた。
「あ、きたきた」
「お待たせ」
「先、始めちゃってたよ。と言っても、仕掛けの方は古河くんがいないと分からないから、装飾の方だけだけど」
「ありがとう。じゃあ、仕掛けの方も早く仕上げをしないとね」
僕は理科室を見渡した。週の頭からコツコツと準備を続けてきて、もうほとんどの形が出来上がっていた。
真っ先に目につくのは、天井から吊り降ろされたいくつかの人体模型だ。筋肉のついたものやガイコツタイプのものまでいろいろだ。そして、そのどれもがドレスを着ていたりスーツを着ていたりと、しっかりとめかし込んでいた。
僕と赤川さんで用意した企画は、人体模型の舞踏会だ。人体模型を動かすアイディアを出したのは僕で、それを着飾って踊らせようと提案したのは赤川さんだった。夜の旧校舎に浮かぶ人体模型というホラー色の強い見た目の中に、赤川さんの用意したファンシーな衣装が加わって、見た目にギャップのある魅力的な光景になっていた。
もちろん、糸で吊るしたいくつもの人体模型を同時に踊らせるなんて、簡単なことじゃない。手や足の先にそれぞれ糸をつないで、踊って見えるようにそれを動かさないといけない。糸を動かすための仕掛けだって、ホームセンターで買ってきたモーターや日曜大工の道具を使って一から作った。
実際に糸を動かすところまで行っても、そこからも苦労の連続だった。糸が絡まったり模型がおかしな動きをしたり失敗ばかりだったけど、そのたびに試行錯誤をするのは楽しかった。
今日の作業は、人体模型たちの動きの最終調整だった。赤川さんに全体の動きを見てもらいながら、細かい動作の調整をしていく。少しの調整で上手く動いていた模型が動かなくなったり、三歩進んでは二歩さがるような作業が続いた。ああでもないと言い合いながら時間も気にせずに準備を続けていると、まるで僕たちだけでもう一度文化祭をやっているみたいな気分だった。
だんだんと日が傾いてきたころ、何度目になるか分からない動作のテストで、ようやく思い描いたとおりの動きを見せた。
「……どうだった? 今の動き」
恐る恐る訊くと、赤川さんは興奮したように、
「うん、すごくよかった! ガイコツくんも筋肉くんもちゃんと踊ってた」
赤川さんの反応に、ほうっと息を吐き出した。無事に完成した喜びよりも、日が暮れる前に作業が終わった安堵の方が強かった。
「良かった……明日までに終わらなかったらどうしようかと思ったけど、とりあえず一安心かな」
「軽い気持ちで、躍らせたら? なんて言っちゃったけど、ここまでのものを作るなんてすごすぎるよ」
「赤川さんのアレンジのおかげだよ。絶対いいものになるって信じられたから、ここまで頑張れたし」
心の中で、確かな手ごたえを感じていた。企画自体の出来じゃない。ずっと、こういうものに本気になれるみんなに憧れて、それがいま手の届くところまで近づいている。
「正直、古河くんと組むって決まった時、どうなっちゃうんだろうって思ってたけど……でも、まさかここまでのものができちゃうなんてね」
赤川さんはそう言って微笑む。いつもの学校と同じ、二つ結びで裸眼の赤川さんが見せる、まぶしいくらいの笑顔だった。
ふと、加瀬くんがペアを発表した瞬間の、赤川さんの不安そうな表情がよみがえった。分厚い眼鏡をかけて髪を下した、暗い印象の赤川さんだ。
その二つの表情があまりにもかけ離れていて、思わず訊いていた。
「やっぱり旧校舎にいても、その格好の時は学校での赤川さんになるんだね」
赤川さんは突然の話題に少し驚きつつ、二つに結ばれた髪の片方を右手で触った。
「どうしてもスイッチ入っちゃうんだよね。別に気取らなくていいのは分かってるんだけどさ……ホントは疲れるからヤなんだけど、コンタクト外すのも面倒だし」
「そういうものなんだ?」
「そういうもんだよ。伊織だって制服や袴の時はカチッとしてるし、晃嗣も髪を上げてない時は普通でしょ?」
「まあ、確かに……」
頭の中に二人の姿を思い浮かべていると、じっと赤川さんが僕を見つめていることに気づいた。そこからは笑顔が消えていて、とても真剣な表情に見えた。それは少しだけ怖いくらいだ。
と、突然結んでいた二つの髪をほどいた。髪をかき上げて少し整えると、それはストレートになる。眼鏡はないけど、表情を消して髪をほどくと、部活の時の彼女と変わらなかった。
「ねえ、古河くんは私のことどう思ってる?」
「え、ええ!? どう思うって……」
不意打ちな質問に慌てていると、赤川さんは苦笑して、
「違う違う。私のこと、どんな人だと思ってる?」
「え? それは……」
なんだか、試されているような気がした。どこまで自分のことを理解しているのか、それを知ろうとしているのだと思った。
僕は、二人の赤川さんを知っている。明るい笑顔を振りまく学校での彼女と、表情の乏しい部活での彼女。部活での姿が本物だということは、小清水先生からは聞かされていたし、頭では分かっているつもりだった。だけど――
「……よく分からない。みんなから頼られて、すごく明るい人だと思ってたから」
それは本当の赤川さんを知る前の印象だ。それが嘘だと突きつけられても、今でもまだ心の奥では信じることができていなかった。
赤川さんは目を伏せて、静かに語った。
「人見知りで、内気で、つまらないネクラ。私は、その程度でしかないんだよ」
ふさわしい言葉を見つけられずにいると、さらに続ける。
「私ね、中学の頃までは部活の時みたいないかにもなネクラで、そのせいでクラスでハブられてたんだ。でも、ちょうど高校からこっちに出てきて、今までの私を知ってる人はいなかったから、自分を変えることにしたの。誰からも好かれるような、明るくて優しい人を必死に演じてさ。おかげで、なりたい自分になれたはずなのに……そこにあったのは、自分を偽る苦しさだけだった」
赤川さんの口から語られるその内容は、まるで彼女ではない別の誰かを語っているみたいだった。クラスメイトからハブられる赤川さんなんて想像もつかない。
「じゃあ、今でも演技を?」
「上手でしょ?」と、赤川さんは微笑んでからまた顔を伏せて、「でもね、伊織には見抜かれたんだ。演技には自信があったから、私も最初はムキになって否定してたんだけど、青春部なら演技なんてしなくていいって誘われて……伊織はね、本当の私を見抜いて居場所を与えてくれた恩人なの」
「そうだったんだね……」
つまらない相づちしか打てない自分が嫌になった。
赤川さんは一体のガイコツの前に立ち、それが身に着けているパーティドレスの裾をつまむ。どこか弱気な瞳で、骨だけのその顔を見つめていた。
ガイコツの顔を見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「私ね、伊織が好きなの」
「え……?」
突然こぼれ落ちた赤川さんの気持ちに、ただ困惑した。
赤川さんが、加瀬くんを……?
思えば、そんな態度がなかったわけじゃない。それでも驚きで何も言えずにいると、続けて赤川さんの口からこぼれたのは、重たくて寂しい声だった。
「それでね、私は本当の私が嫌い」
今度こそ本当に言葉を失った。その声はどこまでも真剣で、無責任な励ましなんてできるはずがなかった。
僕は必死に赤川さんまで届きそうな言葉を考えて、どうにかそれを絞り出す。
「でも、赤川さんと話してる部活の時の加瀬くんは、楽しそうに見えるよ」
「どうだろう。部活中の伊織なんてずっと浮かれてるし……それに結局、みんなこっちの私が好きなんだよ」
そう言いながら赤川さんはこっちを向くと、両手をヘアゴム代わりにして、いつもの学校でのスタイルのように髪の毛を二つに束ねて微笑んで見せた。
思わずその笑顔に見惚れていると、突然両手を開いて髪を戻し、表情もまたもとの影のあるものに戻った。
「こっちの私は、教室の隅っこに溜まってる埃みたいなものだから。伊織が本当の私をどう思っているのか、それを知るのが怖いの」
「埃だなんて……そんなこと、加瀬くんが思うはずないよ」
「最初、私のこととっつきにくいと思ってたでしょ?」
赤川さんは冷静な声でそう返した。図星だった。初めて旧校舎での赤川さんを見かけた時、確かにそんな印象を抱いたし、今回のペアというきっかけがなければ、今もその印象を抱き続けていたかもしれない。
赤川さんはさらに続ける。
「私、人からどう思われているのか考えると怖くなるの。だから、みんなに好かれるキャラまで作って。そんな演技、伊織の前ではしなくていいから嬉しいけど……嬉しいはずなのに、素顔の私を本当はどう思ってるんだろうって、それがずっと不安なの」
僕はまた何も言えない。言えるはずもなかった。この期に及んで、僕はまだ赤川さんのことを理解できないでいた。
今までに一度も嘘の自分なんて作ったことはないし、そして、それに苦しめられてきたこともなかった。
「古河くんが羨ましいよ」
と、赤川さんは不意にそんなことを言った。
「え? 僕?」
突然の僕の名前に困惑する。この流れで、自分の名前が出るなんて思ってもみなかった。
「古河くんと青葉って、はっきり言って不釣り合いだと思う。他の人からも言われたことあるでしょ?」
容赦のない辛辣な言葉が胸に刺さる。だけど、それを否定することはできなかった。
「……うん。それはもう何度も」
「ううん、言葉だけじゃないよね。いつも晃嗣が怖い顔して睨んでるのは知ってるし、そういう目を向けられるのも珍しくないと思う。なのに、どうして古河くんはそこまで青葉のために頑張れるの?」
赤川さんの目が、じっと僕の顔を見つめた。
ふと、前に加瀬くんからも同じような質問をされたことがあるのを思い出した。初めて加瀬くんと話をして、青春部に誘われたあの時だ。『どうして古河はそこまで頑張れるんだ?』と、そんなことを訊かれた覚えがある。きっと、加瀬くんや赤川さんのような人たちには、僕のような凡人のことは理解できないのかもしれない。
あの時と、僕の答えは変わらない。
「僕が、青葉についていくって決めたから」
そう言い切ると、赤川さんはふっと頬を緩めて、
「古河くんのそういうところ、すごくカッコいいと思うよ。初めて会った時は、こんなのが青葉の幼馴染なんてって思ったけど、こういう古河くんなら釣り合いとれてるよ」
赤川さんに褒められると、やっぱりドキドキしてしまう。恥ずかしくなって、またつい目をそらす。
「僕なんて、青葉と釣り合うわけないよ。……でも、少しは自信になったかな」
赤川さんはもう一度微笑むと、そこで表情を引き締めた。それは、決意を固めたような表情にも見えた。
「私、知りたい。伊織が本当の私をどう思っているのか。……このまま、終わりになんてしたくない」
「自分がしたいようにすればいいんだよ。偉そうなことなんて言えないけど、赤川さんならきっと大丈夫だから」
「ありがとう。このもやもやも、明日で終わりにしようかな。まずは伊織と晃嗣を倒して、それで伊織に伝えてみる」
赤川さんは理科室を見渡し、宙に浮いたままの人体模型の一つ一つを見つめていた。明日、この仕掛けを使って、加瀬くんと晃嗣くんと戦う。
ただ勝ちたいという気持ちだけじゃない。初めての感情が生まれているのを自覚していた。
文化祭が終わったその翌週、学校中に漂っていた浮かれた空気は、あっけないほどにあっさりと消えていた。
部活に入っていない三年生にとってはこれが最後の一大イベントであり、いよいよ受験に向けて本格的に動き出す流れを感じていた。七月に入ってから、毎日の気温もぐんぐんと上昇していき、初夏から盛夏の気候へと変わり始めている。夏休みまでは、あと一ヶ月を切っていた。
その流れの中で僕は、次の部活に気持ちの照準を合わせていた。僕にとって初めての経験となる二対二での企画対決は、文化祭のちょうど一週間後の土曜日だ。加瀬くんと晃嗣くんのペアに対抗するためには、悠長なことを言っていられる余裕はない。
週が明けてすぐに赤川さんと相談してさっそく内容を確定させると、その週は準備に明け暮れる毎日になった。放課後の時間になるとこっそりと旧校舎に忍び込み、コツコツと仕掛けの準備を進めていく。今までに三度企画には挑戦してきたけど、ここまでしっかりと事前の準備に打ち込むのは初めてだった。
忙しい毎日はあっという間に過ぎていき、そして、企画の発表日の前日となる金曜の放課後になった。
普段なら一週間が終わってほっと一息をつきたくなる時間だけど、今日はそういうわけにはいかない。自由に時間を使うことができるようになる、これからが本番だ。
しばらくの間図書室にこもって時間を潰し、校舎に人が少なくなったのを確認してから、こっそりと旧校舎に侵入した。念のために足音をひそめながら企画の発表場所に決めた理科室に行くと、赤川さんが先だった。
いつもの学校でのスタイルの赤川さんが、笑顔で出迎えた。
「あ、きたきた」
「お待たせ」
「先、始めちゃってたよ。と言っても、仕掛けの方は古河くんがいないと分からないから、装飾の方だけだけど」
「ありがとう。じゃあ、仕掛けの方も早く仕上げをしないとね」
僕は理科室を見渡した。週の頭からコツコツと準備を続けてきて、もうほとんどの形が出来上がっていた。
真っ先に目につくのは、天井から吊り降ろされたいくつかの人体模型だ。筋肉のついたものやガイコツタイプのものまでいろいろだ。そして、そのどれもがドレスを着ていたりスーツを着ていたりと、しっかりとめかし込んでいた。
僕と赤川さんで用意した企画は、人体模型の舞踏会だ。人体模型を動かすアイディアを出したのは僕で、それを着飾って踊らせようと提案したのは赤川さんだった。夜の旧校舎に浮かぶ人体模型というホラー色の強い見た目の中に、赤川さんの用意したファンシーな衣装が加わって、見た目にギャップのある魅力的な光景になっていた。
もちろん、糸で吊るしたいくつもの人体模型を同時に踊らせるなんて、簡単なことじゃない。手や足の先にそれぞれ糸をつないで、踊って見えるようにそれを動かさないといけない。糸を動かすための仕掛けだって、ホームセンターで買ってきたモーターや日曜大工の道具を使って一から作った。
実際に糸を動かすところまで行っても、そこからも苦労の連続だった。糸が絡まったり模型がおかしな動きをしたり失敗ばかりだったけど、そのたびに試行錯誤をするのは楽しかった。
今日の作業は、人体模型たちの動きの最終調整だった。赤川さんに全体の動きを見てもらいながら、細かい動作の調整をしていく。少しの調整で上手く動いていた模型が動かなくなったり、三歩進んでは二歩さがるような作業が続いた。ああでもないと言い合いながら時間も気にせずに準備を続けていると、まるで僕たちだけでもう一度文化祭をやっているみたいな気分だった。
だんだんと日が傾いてきたころ、何度目になるか分からない動作のテストで、ようやく思い描いたとおりの動きを見せた。
「……どうだった? 今の動き」
恐る恐る訊くと、赤川さんは興奮したように、
「うん、すごくよかった! ガイコツくんも筋肉くんもちゃんと踊ってた」
赤川さんの反応に、ほうっと息を吐き出した。無事に完成した喜びよりも、日が暮れる前に作業が終わった安堵の方が強かった。
「良かった……明日までに終わらなかったらどうしようかと思ったけど、とりあえず一安心かな」
「軽い気持ちで、躍らせたら? なんて言っちゃったけど、ここまでのものを作るなんてすごすぎるよ」
「赤川さんのアレンジのおかげだよ。絶対いいものになるって信じられたから、ここまで頑張れたし」
心の中で、確かな手ごたえを感じていた。企画自体の出来じゃない。ずっと、こういうものに本気になれるみんなに憧れて、それがいま手の届くところまで近づいている。
「正直、古河くんと組むって決まった時、どうなっちゃうんだろうって思ってたけど……でも、まさかここまでのものができちゃうなんてね」
赤川さんはそう言って微笑む。いつもの学校と同じ、二つ結びで裸眼の赤川さんが見せる、まぶしいくらいの笑顔だった。
ふと、加瀬くんがペアを発表した瞬間の、赤川さんの不安そうな表情がよみがえった。分厚い眼鏡をかけて髪を下した、暗い印象の赤川さんだ。
その二つの表情があまりにもかけ離れていて、思わず訊いていた。
「やっぱり旧校舎にいても、その格好の時は学校での赤川さんになるんだね」
赤川さんは突然の話題に少し驚きつつ、二つに結ばれた髪の片方を右手で触った。
「どうしてもスイッチ入っちゃうんだよね。別に気取らなくていいのは分かってるんだけどさ……ホントは疲れるからヤなんだけど、コンタクト外すのも面倒だし」
「そういうものなんだ?」
「そういうもんだよ。伊織だって制服や袴の時はカチッとしてるし、晃嗣も髪を上げてない時は普通でしょ?」
「まあ、確かに……」
頭の中に二人の姿を思い浮かべていると、じっと赤川さんが僕を見つめていることに気づいた。そこからは笑顔が消えていて、とても真剣な表情に見えた。それは少しだけ怖いくらいだ。
と、突然結んでいた二つの髪をほどいた。髪をかき上げて少し整えると、それはストレートになる。眼鏡はないけど、表情を消して髪をほどくと、部活の時の彼女と変わらなかった。
「ねえ、古河くんは私のことどう思ってる?」
「え、ええ!? どう思うって……」
不意打ちな質問に慌てていると、赤川さんは苦笑して、
「違う違う。私のこと、どんな人だと思ってる?」
「え? それは……」
なんだか、試されているような気がした。どこまで自分のことを理解しているのか、それを知ろうとしているのだと思った。
僕は、二人の赤川さんを知っている。明るい笑顔を振りまく学校での彼女と、表情の乏しい部活での彼女。部活での姿が本物だということは、小清水先生からは聞かされていたし、頭では分かっているつもりだった。だけど――
「……よく分からない。みんなから頼られて、すごく明るい人だと思ってたから」
それは本当の赤川さんを知る前の印象だ。それが嘘だと突きつけられても、今でもまだ心の奥では信じることができていなかった。
赤川さんは目を伏せて、静かに語った。
「人見知りで、内気で、つまらないネクラ。私は、その程度でしかないんだよ」
ふさわしい言葉を見つけられずにいると、さらに続ける。
「私ね、中学の頃までは部活の時みたいないかにもなネクラで、そのせいでクラスでハブられてたんだ。でも、ちょうど高校からこっちに出てきて、今までの私を知ってる人はいなかったから、自分を変えることにしたの。誰からも好かれるような、明るくて優しい人を必死に演じてさ。おかげで、なりたい自分になれたはずなのに……そこにあったのは、自分を偽る苦しさだけだった」
赤川さんの口から語られるその内容は、まるで彼女ではない別の誰かを語っているみたいだった。クラスメイトからハブられる赤川さんなんて想像もつかない。
「じゃあ、今でも演技を?」
「上手でしょ?」と、赤川さんは微笑んでからまた顔を伏せて、「でもね、伊織には見抜かれたんだ。演技には自信があったから、私も最初はムキになって否定してたんだけど、青春部なら演技なんてしなくていいって誘われて……伊織はね、本当の私を見抜いて居場所を与えてくれた恩人なの」
「そうだったんだね……」
つまらない相づちしか打てない自分が嫌になった。
赤川さんは一体のガイコツの前に立ち、それが身に着けているパーティドレスの裾をつまむ。どこか弱気な瞳で、骨だけのその顔を見つめていた。
ガイコツの顔を見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「私ね、伊織が好きなの」
「え……?」
突然こぼれ落ちた赤川さんの気持ちに、ただ困惑した。
赤川さんが、加瀬くんを……?
思えば、そんな態度がなかったわけじゃない。それでも驚きで何も言えずにいると、続けて赤川さんの口からこぼれたのは、重たくて寂しい声だった。
「それでね、私は本当の私が嫌い」
今度こそ本当に言葉を失った。その声はどこまでも真剣で、無責任な励ましなんてできるはずがなかった。
僕は必死に赤川さんまで届きそうな言葉を考えて、どうにかそれを絞り出す。
「でも、赤川さんと話してる部活の時の加瀬くんは、楽しそうに見えるよ」
「どうだろう。部活中の伊織なんてずっと浮かれてるし……それに結局、みんなこっちの私が好きなんだよ」
そう言いながら赤川さんはこっちを向くと、両手をヘアゴム代わりにして、いつもの学校でのスタイルのように髪の毛を二つに束ねて微笑んで見せた。
思わずその笑顔に見惚れていると、突然両手を開いて髪を戻し、表情もまたもとの影のあるものに戻った。
「こっちの私は、教室の隅っこに溜まってる埃みたいなものだから。伊織が本当の私をどう思っているのか、それを知るのが怖いの」
「埃だなんて……そんなこと、加瀬くんが思うはずないよ」
「最初、私のこととっつきにくいと思ってたでしょ?」
赤川さんは冷静な声でそう返した。図星だった。初めて旧校舎での赤川さんを見かけた時、確かにそんな印象を抱いたし、今回のペアというきっかけがなければ、今もその印象を抱き続けていたかもしれない。
赤川さんはさらに続ける。
「私、人からどう思われているのか考えると怖くなるの。だから、みんなに好かれるキャラまで作って。そんな演技、伊織の前ではしなくていいから嬉しいけど……嬉しいはずなのに、素顔の私を本当はどう思ってるんだろうって、それがずっと不安なの」
僕はまた何も言えない。言えるはずもなかった。この期に及んで、僕はまだ赤川さんのことを理解できないでいた。
今までに一度も嘘の自分なんて作ったことはないし、そして、それに苦しめられてきたこともなかった。
「古河くんが羨ましいよ」
と、赤川さんは不意にそんなことを言った。
「え? 僕?」
突然の僕の名前に困惑する。この流れで、自分の名前が出るなんて思ってもみなかった。
「古河くんと青葉って、はっきり言って不釣り合いだと思う。他の人からも言われたことあるでしょ?」
容赦のない辛辣な言葉が胸に刺さる。だけど、それを否定することはできなかった。
「……うん。それはもう何度も」
「ううん、言葉だけじゃないよね。いつも晃嗣が怖い顔して睨んでるのは知ってるし、そういう目を向けられるのも珍しくないと思う。なのに、どうして古河くんはそこまで青葉のために頑張れるの?」
赤川さんの目が、じっと僕の顔を見つめた。
ふと、前に加瀬くんからも同じような質問をされたことがあるのを思い出した。初めて加瀬くんと話をして、青春部に誘われたあの時だ。『どうして古河はそこまで頑張れるんだ?』と、そんなことを訊かれた覚えがある。きっと、加瀬くんや赤川さんのような人たちには、僕のような凡人のことは理解できないのかもしれない。
あの時と、僕の答えは変わらない。
「僕が、青葉についていくって決めたから」
そう言い切ると、赤川さんはふっと頬を緩めて、
「古河くんのそういうところ、すごくカッコいいと思うよ。初めて会った時は、こんなのが青葉の幼馴染なんてって思ったけど、こういう古河くんなら釣り合いとれてるよ」
赤川さんに褒められると、やっぱりドキドキしてしまう。恥ずかしくなって、またつい目をそらす。
「僕なんて、青葉と釣り合うわけないよ。……でも、少しは自信になったかな」
赤川さんはもう一度微笑むと、そこで表情を引き締めた。それは、決意を固めたような表情にも見えた。
「私、知りたい。伊織が本当の私をどう思っているのか。……このまま、終わりになんてしたくない」
「自分がしたいようにすればいいんだよ。偉そうなことなんて言えないけど、赤川さんならきっと大丈夫だから」
「ありがとう。このもやもやも、明日で終わりにしようかな。まずは伊織と晃嗣を倒して、それで伊織に伝えてみる」
赤川さんは理科室を見渡し、宙に浮いたままの人体模型の一つ一つを見つめていた。明日、この仕掛けを使って、加瀬くんと晃嗣くんと戦う。
ただ勝ちたいという気持ちだけじゃない。初めての感情が生まれているのを自覚していた。