住宅街の角を曲がると、まだ角度の浅い陽射しが飛び込んできた。季節外れのまぶしさに、僕は思わず顔をしかめた。

 始業式から一週間が経ち、通学路の途中にある桜の木が完全に葉桜になった頃、まだまだ春も真っただ中のはずなのに、まるで初夏のような陽射しだった。

 目を細めながら空を睨み、わずかな恨みを込めてつぶやく。

「今日は朝から暑いね」

 隣を歩く青葉は、首元のリボンをずらして第一ボタンを開けていた。

 青葉はいつもすぐに第一ボタンを開けるけど、学校で閉め忘れるのが怖い僕は、どんなに暑くても帰りの時間まではそのままだ。

「ね。もうブレザーが鬱陶しくてしょうがないくらい」

 言葉の通りに、鬱陶しさのこもった声だった。

「生徒会の権限でどうにかなったりしないの? あんまり暑い日は冬服期間でもブレザーなしでオッケーとか」
「できなくはないと思うけど……やっと校則を変えた頃には、どうせ私たちもいないんだから」
「はは、それもそうだね」

 校則を変えるためにどれだけの期間が必要になるのかは分からないけど、そんなに簡単な話じゃないだろう。三年生の僕たちにとって、この季節外れの暑さとの戦いも、衣替えまでのたった数ヶ月の間だけの問題だ。六月からは夏服になってブレザーを脱ぎ、十月には再び冬服に戻り、そして、一年後の春にはこの制服自体を脱ぎ捨てる。

 校則を変えることは後輩たちにとっては意味のあるものかもしれないけど、そこまでの仕事は強要できない。もともと、青葉が生徒会長になったのも、学校中の人たちから推薦されたからだ。それでも、青葉が生徒会長として一番上にいてくれているおかげでこの学校がまとまっていることは、一人の生徒として肌で感じている。

 その時、身体のすぐ横を自転車が通り過ぎた。自転車はそこでスピードを緩め、サドルにまたがっていた男子が青葉の方を振り向いた。

 四角いフレームのメガネが似合う聡明そうな顔立で、そこには穏やかな微笑みが浮んでいる。彼の顔には見覚えがあった。

「会長、おはようございます」と、彼が青葉に告げると、青葉の方も「ああ、おはよう」と軽い調子でそれに応えた。

 彼が再び前を向く直前、その視線が僕の方を向いた。その瞬間、穏やかだったその表情に影が差し、その目が鋭く尖ったような気がした。

 けどそれも一瞬のことで、再び自転車をこぎ出した彼の背中はみるみる小さくなる。

「あの人って確か……」
「うん、うちの副会長で二年生」
「そうだ。朝会の時とか、ときどき壇上に立ってるよね」

 彼のことを見かけるのは、朝会の時だけじゃない。青葉と一緒に歩いているのも、何度か目にしたことがあった。

「見た目通り、優秀な後輩だよ」

 あの副会長の男子から去り際に向けられた視線を思い出す。あれは間違いなく、敵意に満ちた目だった。

 自分の知らない相手から敵意を向けられるのは、別に珍しいことじゃない。青葉と二人で歩いていること、それ自体が妬みの対象になっていることは分かっている。

 モデルのようなスタイルに、整った顔と白い肌。目を引くような外見だけじゃなく、県内屈指の進学校であるこの森宮第一高校に特待生で入学した学力も持っている。スポーツだって、何をやらせても人並み以上だった。

 非の打ち所のない完璧超人。それが西峰青葉という人物だ。

 それは、誰よりも彼女と付き合いの長い僕が一番よく知っている。

 そして、僕みたいなつまらない凡人が彼女とつり合わないことも、僕が一番よく知っている。

 近くにいるのに、手を伸ばせば触れられるはずなのに、ただ彼女が遠かった。

 そんな想いを抱き続けたまま、もう十年以上もこんな調子だ。

 あんな敵意のこもった視線を僕によこすのはお門違いだ。副会長という立場を持っている彼の方が、よっぽど僕よりも彼女に近い。

 そんなことを考えていると、足早に歩く青葉との間に、気づけば距離ができていた。

 脚の長い彼女は歩くスピードも速くて、油断をするといつもすぐに置いていかれてしまう。きっと青葉は自分が先に行ってしまっていることにも無自覚で、だから僕は短い足をせこせこと動かして、必死になってついていく。

 男子である僕よりも先に成長期を迎えた青葉は小学校高学年の頃にうんと背が伸びて、当時の僕とは頭一つ分も背丈の差があった。中学に上がりさえすれば、僕だって背が伸びて、きっとすぐに青葉を追い抜ける。そんな希望を持ったまま中学に上がり、やがて高校に進学し、気がつけば彼女の身長に並ぶこともないままに、僕の成長は止まっていた。最大で頭一つ分あった身長差は、少しはマシになったけど、僕が見上げなくちゃいけない関係は変わっていない。

「そういえば、昨日の模試はどうだった?」

 慌てて彼女に追いついた僕は、ふと思い出して訊いてみた。青葉の成績は聞かなくても分かるけど、なんとなくその口から聞いてみたかった。

「今回もちゃんとAだったよ。判定欄しか見なかったから、細かい点数は分からないけど」
「さすがというかなんというか……そのA判定って、また東大の法学部でしょ?」
「うん。だってお父さんが卒業したところだから。後を追うためには、まずそこに入らないと」

 お父さんはそこの卒業生で今は弁護士の仕事をしているのだ、と昔青葉が誇らしげに語っていた。まだ幼かった頃に何度か会ったことがあるけど、いかにも真面目で厳格な印象の人だったのを思い出す。

 お父さんを追って司法の世界へ行く。それが小さな頃からの青葉の口癖だった。普通の人にとっては困難なその道さえ、青葉ならきっと容易くやり遂げてしまいそうに思う。

 間違いなく青葉は、遥か遠くの世界に羽ばたいて行く。そんなのは分かりきった未来だ。そして、そこに僕が張り込む余地はない。

 だったら、高校を卒業した後の僕と青葉の関係はどうなるんだろう。

 今までは、憧れである青葉に振り落とされないために、必死に努力を重ねてきた。でも、ここからは努力だけでどうにかできる世界じゃない。彼女は間違いなく、一部の人間しか足の踏み入れられない世界へ行く。

 その時が来たら僕は――

 そんなことが頭に浮かんで、すぐに考えるのをやめた。それを考えるのはまだ早い。

「やっぱり青葉はすごいよ」

 素直に思ったままを伝えると、青葉は少し照れたように微笑んだ。

「そう言う春樹はどうだったの?」
「今回はちょっと……特に数学が足を引っ張っちゃって」
「数学くらい私でよければ教えようか? 今日の夜なら空いてるけど」
「ありがとう。でも今日の放課後に、先生に教えてもらうことになってるから」
「そう? わざわざ先生に頼ることないのに」

 なんでもできる青葉についていくため、要領の悪い僕は、遊びの一切を捨ててただがむしゃらに勉強だけを続けてきた。青葉に勉強を教わらないのは、ちっぽけな凡人である僕の、唯一のくだらないプライドだった。