5.1
翌日のことだ。放課後、私は急いで例の公園に行った。
待ち合わせていた時間には余裕をもって来たというのに、おねえさんはすでにあのベンチに座ってぼんやりと虚空を見上げていた。
「早いですね。」
私が声をかけると、おねえさんはいつものように微笑みを浮かべてこちらを振り返った。
「どうにも落ち着かなくてね。」
私の方を見た彼女は、背後の晴れ渡る青空に少し眩しそうな顔をしていた。
私は彼女の隣に腰を下ろし、早速本題に入ろうとする。
「それで、おねえさん。昨日のはなし、聞いてもいいですか。」
「ああ、もちろん。そのために来たのだから。」
彼女は何から話そうかと考えあぐねた様子を見せたが、すぐにそれも決まったらしかった。
「彼から、私のことは何か聞いているのかい?」
「いいえ、なにも。」
「そう、じゃあ彼との出会いから話した方がいいかな。」
彼女はそう言うと、アルバムを捲るように佐原先生との思い出を話してくれた。
佐原君はどちらかといえば不真面目な方の生徒という印象でね、なにせ髪は染めるわピアスは開けるわ喧嘩はするわ、職員室でもよく名前のあがる問題児だった。私はクラス担任や教科担当をもっているわけではなかったから他人事のようにその話を聞いていたのだけれど、ある時煙草を吸っている現場を彼に見られてね。一目見た時に、ああこの子かってわかったよ。でも実際会ってみたら噂に聞いていたような粗暴な感じはまるでしなかった。それどころか、彼のまっすぐな目に、私は胸を射抜かれたような気持ちがした。その目は引き込むようでもあり、すべてを見透かすかのようで、私は少し苦手だったんだ。だけど同時にそこから目を逸らすこともできなかった。」
彼女は広い空にその瞳を思い描くようにしていた。
その横顔はなぜか苦しそうに見えた。
「私はただ、穏やかに暮らしたかったんだ。大きな欲もなく、それゆえに失うものもない、淡々とした日々を過ごして定年を迎えられたらいいと思っていた。それなのに、私は彼と出会ってしまった。しかもどういうわけか、彼は私が距離を取ろうとすればするほど近づいてくるようになった。今まで一度も図書室になんか来なかったくせに、たった一度、話をしただけで彼は毎日のように図書室へ足を運ぶようになった。問題児だろうが、優等生だろうが大切な生徒であることに変わりはない。だから私も彼に対して特別距離を置くこともしなければ、特別近しい関係にもならないように注意していた。
そんな日々が何日か続いて、ある時彼が私に言ったんだ。
「静香、俺とデートしてよ。」
はじめはからかっているんだろうと思っていた。
でも、その日の彼はどこか様子が違っていた。少し不安そうな、心細そうな顔をしていた。
そんな顔を見たのは初めてで、私は柄にもなく狼狽えてしまった。
「大人をからかうものじゃないよ。」
「別にからかってるわけじゃ…」
「ただまあ、今日は帰りに駅前の桜並木でも見に行こうかなと思っている。」
「え?」
「ただの独り言だよ。忘れてくれて構わない。」
私がぷいと顔を横に背けると、彼は安心したようだった。
「ありがとう、静香。」
彼は先に学校を出たけれど、私が帰る時間を見計らって、駅前に現れた。
「おかえり。」
私を出迎えた彼はいつもの制服姿ではなく私服だった。どうやら先に帰って着替えてきたらしい。それは彼なりの配慮だったのだろう。
「一瞬誰か分からなかったよ。」
「この方がお互いに都合がいいでしょ。目立たないだろうし。」
「まあ、たしかに。」
私と彼は隣に並んで桜並木の下をただ歩いた。もうあたりはすっかり暗くて、ライトアップなんかもしていなかったから、桜の花を照らすのは月明りと街灯くらいのものだった。
彼は歩きながら、ようやくその日何を考えていたのかを口にした。
「静香はさ、なんで先生になったの?」
「また唐突だね。いきなりどうしたの。」
「知りたいんだ。教えてほしい。」
隣を歩いていたはずの彼の歩幅は徐々に小さくなってゆき、とうとうその足は止まってしまった。私のことをじっと見据えるようにしながら彼は真剣な表情でそう聞いた。
「なぜ、と言われると困るけど。単純に本が好きだったから、司書という道を選んだ。本屋でもなんでもよかったんだけど、司書の先生という立場を選んだのは、まあ、他人の影響かな。憧れていた先生がいたから。それだけ。」
「静香にもそういう人がいたの?」
「私にも?君にもそういう人がいるのかい?」
彼は至極呆れたような顔で私のことを見たよ。
「俺のことを見た目だとか噂だとか、そういうことで判断せずに他の生徒と同じように接してくれたのは静香だけだった。初めて見た時に、俺、すごく綺麗だって思ったんだ、静香のこと。それは外見のことだったわけだけど、話しているうちに静香の内面を少しずつ知ることができた。俺はそれを知った上でやっぱりすごく綺麗な人だって思ったんだよ。だから、もっと知りたいと思った。静香の言う憧れとは違うのかもしれないけど、尊敬してる奴っていうことを言っているんだったら、それは俺にとって間違いなく静香、あんただ。」
私は彼にとって尊敬だとかそういうものとは最もかけ離れた場所にいるんだと思っていた。
だからなんていうか、単純に驚いた。私が何も言えずにいたら、彼はそのまま話を続けた。
「今日さ、担任から呼び出されたんだ。進路のこと、お前はどう考えているんだって。先生になりたいって言ったよ。司書の先生になりたいって。そしたらさ、あいつなんて言ったと思う?」
「先生はなんて?」
「冗談だろうって笑ったんだ。馬鹿にするみたいに。本だってろくに読まないし、我慢もできなければ校則のひとつも守れない。お前みたいにチャラついた奴に務まるほど甘い仕事じゃないって。」
彼が司書という道を選んだことに私はまず驚いていた。
それから彼の担任教師の言葉に怒りを覚えた。
彼は今にも泣き出してしまいそうな、悔しそうな顔をしていた。
「前から聞きたかったことがあったんだけど、聞いてもいいかな。」
「なに?静香。」
「佐原君は決して不真面目な生徒というわけではないと、私は思っている。そりゃたまに授業をさぼったりしているのはよくないと思うけれど、それでも規律を破るのは、なにかそれ相応の理由があるんじゃないか、そう思えてならないんだ。だって君は元来、そういうタイプではないだろう?」
彼は私の言葉に俯きがちだった顔を上げた。
「俺には、なんにもないから。他の奴みたいに特技があるわけでもないし、やりたいことがあるわけでもない。でも真面目ないち生徒なんて誰も気に留めたりしない。生徒も先生もみんな。そんなの、いないのと同じじゃないか。それを俺はよく知っているから、こんなことで自己主張をしようとしたんだ。馬鹿げてると思うかもしれないけど、俺はこんなことしか思いつかなかった。必死だったんだよ。」
彼は困ったように笑った。舞い散る桜に隠れた顔はやはり泣いているように見えた。
「佐原君、君は誰かにずっと認めてもらいたかったんだね。」
目の前の彼は自分よりも背が高いのに、まるで小さな子供のようだった。
「ごめん静香、今ちょっとこっち見ないで。」
彼は袖口で自分の顔を隠そうとしていた。
私は自分でも驚くほど自然に、そんな彼に腕を伸ばしていた。
「静香?」
我ながらどうかしていたと思う。でも、今でもその時の行為が間違っていたとは思えなかった。ただ、寂しそうにしている彼に、そんなことをしなくてもちゃんと君を見ている人間もいるのだと、教えてあげたかった。それは言葉でいくら上手く伝えたところできっと伝わるものではなくて、そうやって抱きしめてあげることでしか本当の意味では伝わらないのだろうと思った。
彼は最初私の腕の中で困惑していたけれど、しばらくすると私のことを抱きしめ返してくれた。
「静香って、思っていたよりあったかいのな。」
力なく笑うと彼はより強く私のことを抱きしめた。
「少しだけ、このままでいてもいい?」
私の右肩を温かい滴が濡らしていた。
詳しくは聞かなかったが、もしかしたら他にもなにかあったのかもしれない。
私は彼の温もりを一身に受けながらしばらく黙って彼を抱きしめていた。
視線の先ではハラハラと桜の花弁が散っていく。
私はただそれを眺めていた。ぼんやり見上げた空には白い朧月が浮かんでいて、散りゆく桜の花びらはほのかに発光しているようにも見えた。
「静香」
どれくらいそのままでいただろう。
彼は私の名前をぽつりと呼んだ。
「なに?」
「ありがとう。」
私はただ彼を抱きしめることしかできなかった。
そしてゆっくり私から体を離すと、そこにはいつも通りの彼がいた。
「もう大丈夫。」
彼は私を見ていたのか、その背後にある桜並木を見ていたのか、それは今でもわからない。けれど、なんだか少し満足げな顔をして笑っていた。
「綺麗だね。」
そう言って、私の手を握った。私は夜風で冷えるからと自分に言い訳をして、その手を握り返していた。
佐原先生とこの美しい女性との間にはきっと何かがあったのだろうと予想はしていた。
「ショック、だよね。ごめん、やはり伝えるべきではなかったのかもしれない。」
「いえ、ショックはショックでしたけど、教えてもらえてよかったです。」
「よかった?」
「はい。」
「どうして?」と問いかける彼女の瞳には明らかな戸惑いの色が滲んでいた。
私はそうですね…と少しためらいながらも笑う。
「好きな人のことだから、ですかね。」
「君は強い人だね。私や彼よりもずっと。」
彼女の言葉をうけ、私は自分自身に苦笑した。
それが単なる強がりだということを誰よりも理解していたから。
「私のこと、あの子に伝えるも伝えないも、それは君次第だよ。」
彼女は私にそう言った。
「もう随分前のことだしね、彼だって私のことを今どう思っているのかはわからない。もうとっくに過去の人になり果てているかもしれない。でももしかしたら私は君の恋敵になってしまうかもしれない。私の存在を知らせなければその心配をすることだってないんだ。だからあとは今の彼と共にいる君に託すよ。選んでほしい。どうしたいのか。まあ彼の今の気持ちはわからないけれど、とりあえず今確実なことは、私があと数日でこの街を去るということくらいだ。」
「やっぱり、行ってしまうんですか?」
「そうだね、これはもう決めたことだから。」
「そうですか…。」
私がショックを隠し切れずにいると、彼女はそんな私の頭にぽんぽんと手をおいた。
「君と会えなくなってしまうのは寂しいけど、行かなくちゃいけないんだ。」
私は目の奥が熱くなるのを感じながらなんとかおねえさんに尋ねた。
「あの、最後にもう一度会う時間は、ありますか?」
「まあ、会おうと思えば会えるのだけど、でも会ったら名残惜しくなってしまいそうだな。」
彼女は寂しそうにそう言った。
そんな彼女に私はもう一つだけ質問をした。
「おねえさん」
「ん?」
「おねえさんは…今の佐原先生に会いたいと思いますか?」
沈黙が流れる。本心はもう決まっているのだと思う。それを言葉にすることをためらっているように見えた。
「そうだね、会いたいな。」
言葉にして初めて、彼女は目に見える形で感情をあらわにした。
ぽろぽろとその瞳から、隠してきた感情が零れ落ちていく。それは光を反射してきらきらと光り、とても綺麗だった。
おねえさんがいつも私にしてくれたように、今度は私がその震える肩を抱きしめる。
「ありがとう。」
おねえさんは何度も何度も、私にそう言った。
翌日のことだ。放課後、私は急いで例の公園に行った。
待ち合わせていた時間には余裕をもって来たというのに、おねえさんはすでにあのベンチに座ってぼんやりと虚空を見上げていた。
「早いですね。」
私が声をかけると、おねえさんはいつものように微笑みを浮かべてこちらを振り返った。
「どうにも落ち着かなくてね。」
私の方を見た彼女は、背後の晴れ渡る青空に少し眩しそうな顔をしていた。
私は彼女の隣に腰を下ろし、早速本題に入ろうとする。
「それで、おねえさん。昨日のはなし、聞いてもいいですか。」
「ああ、もちろん。そのために来たのだから。」
彼女は何から話そうかと考えあぐねた様子を見せたが、すぐにそれも決まったらしかった。
「彼から、私のことは何か聞いているのかい?」
「いいえ、なにも。」
「そう、じゃあ彼との出会いから話した方がいいかな。」
彼女はそう言うと、アルバムを捲るように佐原先生との思い出を話してくれた。
佐原君はどちらかといえば不真面目な方の生徒という印象でね、なにせ髪は染めるわピアスは開けるわ喧嘩はするわ、職員室でもよく名前のあがる問題児だった。私はクラス担任や教科担当をもっているわけではなかったから他人事のようにその話を聞いていたのだけれど、ある時煙草を吸っている現場を彼に見られてね。一目見た時に、ああこの子かってわかったよ。でも実際会ってみたら噂に聞いていたような粗暴な感じはまるでしなかった。それどころか、彼のまっすぐな目に、私は胸を射抜かれたような気持ちがした。その目は引き込むようでもあり、すべてを見透かすかのようで、私は少し苦手だったんだ。だけど同時にそこから目を逸らすこともできなかった。」
彼女は広い空にその瞳を思い描くようにしていた。
その横顔はなぜか苦しそうに見えた。
「私はただ、穏やかに暮らしたかったんだ。大きな欲もなく、それゆえに失うものもない、淡々とした日々を過ごして定年を迎えられたらいいと思っていた。それなのに、私は彼と出会ってしまった。しかもどういうわけか、彼は私が距離を取ろうとすればするほど近づいてくるようになった。今まで一度も図書室になんか来なかったくせに、たった一度、話をしただけで彼は毎日のように図書室へ足を運ぶようになった。問題児だろうが、優等生だろうが大切な生徒であることに変わりはない。だから私も彼に対して特別距離を置くこともしなければ、特別近しい関係にもならないように注意していた。
そんな日々が何日か続いて、ある時彼が私に言ったんだ。
「静香、俺とデートしてよ。」
はじめはからかっているんだろうと思っていた。
でも、その日の彼はどこか様子が違っていた。少し不安そうな、心細そうな顔をしていた。
そんな顔を見たのは初めてで、私は柄にもなく狼狽えてしまった。
「大人をからかうものじゃないよ。」
「別にからかってるわけじゃ…」
「ただまあ、今日は帰りに駅前の桜並木でも見に行こうかなと思っている。」
「え?」
「ただの独り言だよ。忘れてくれて構わない。」
私がぷいと顔を横に背けると、彼は安心したようだった。
「ありがとう、静香。」
彼は先に学校を出たけれど、私が帰る時間を見計らって、駅前に現れた。
「おかえり。」
私を出迎えた彼はいつもの制服姿ではなく私服だった。どうやら先に帰って着替えてきたらしい。それは彼なりの配慮だったのだろう。
「一瞬誰か分からなかったよ。」
「この方がお互いに都合がいいでしょ。目立たないだろうし。」
「まあ、たしかに。」
私と彼は隣に並んで桜並木の下をただ歩いた。もうあたりはすっかり暗くて、ライトアップなんかもしていなかったから、桜の花を照らすのは月明りと街灯くらいのものだった。
彼は歩きながら、ようやくその日何を考えていたのかを口にした。
「静香はさ、なんで先生になったの?」
「また唐突だね。いきなりどうしたの。」
「知りたいんだ。教えてほしい。」
隣を歩いていたはずの彼の歩幅は徐々に小さくなってゆき、とうとうその足は止まってしまった。私のことをじっと見据えるようにしながら彼は真剣な表情でそう聞いた。
「なぜ、と言われると困るけど。単純に本が好きだったから、司書という道を選んだ。本屋でもなんでもよかったんだけど、司書の先生という立場を選んだのは、まあ、他人の影響かな。憧れていた先生がいたから。それだけ。」
「静香にもそういう人がいたの?」
「私にも?君にもそういう人がいるのかい?」
彼は至極呆れたような顔で私のことを見たよ。
「俺のことを見た目だとか噂だとか、そういうことで判断せずに他の生徒と同じように接してくれたのは静香だけだった。初めて見た時に、俺、すごく綺麗だって思ったんだ、静香のこと。それは外見のことだったわけだけど、話しているうちに静香の内面を少しずつ知ることができた。俺はそれを知った上でやっぱりすごく綺麗な人だって思ったんだよ。だから、もっと知りたいと思った。静香の言う憧れとは違うのかもしれないけど、尊敬してる奴っていうことを言っているんだったら、それは俺にとって間違いなく静香、あんただ。」
私は彼にとって尊敬だとかそういうものとは最もかけ離れた場所にいるんだと思っていた。
だからなんていうか、単純に驚いた。私が何も言えずにいたら、彼はそのまま話を続けた。
「今日さ、担任から呼び出されたんだ。進路のこと、お前はどう考えているんだって。先生になりたいって言ったよ。司書の先生になりたいって。そしたらさ、あいつなんて言ったと思う?」
「先生はなんて?」
「冗談だろうって笑ったんだ。馬鹿にするみたいに。本だってろくに読まないし、我慢もできなければ校則のひとつも守れない。お前みたいにチャラついた奴に務まるほど甘い仕事じゃないって。」
彼が司書という道を選んだことに私はまず驚いていた。
それから彼の担任教師の言葉に怒りを覚えた。
彼は今にも泣き出してしまいそうな、悔しそうな顔をしていた。
「前から聞きたかったことがあったんだけど、聞いてもいいかな。」
「なに?静香。」
「佐原君は決して不真面目な生徒というわけではないと、私は思っている。そりゃたまに授業をさぼったりしているのはよくないと思うけれど、それでも規律を破るのは、なにかそれ相応の理由があるんじゃないか、そう思えてならないんだ。だって君は元来、そういうタイプではないだろう?」
彼は私の言葉に俯きがちだった顔を上げた。
「俺には、なんにもないから。他の奴みたいに特技があるわけでもないし、やりたいことがあるわけでもない。でも真面目ないち生徒なんて誰も気に留めたりしない。生徒も先生もみんな。そんなの、いないのと同じじゃないか。それを俺はよく知っているから、こんなことで自己主張をしようとしたんだ。馬鹿げてると思うかもしれないけど、俺はこんなことしか思いつかなかった。必死だったんだよ。」
彼は困ったように笑った。舞い散る桜に隠れた顔はやはり泣いているように見えた。
「佐原君、君は誰かにずっと認めてもらいたかったんだね。」
目の前の彼は自分よりも背が高いのに、まるで小さな子供のようだった。
「ごめん静香、今ちょっとこっち見ないで。」
彼は袖口で自分の顔を隠そうとしていた。
私は自分でも驚くほど自然に、そんな彼に腕を伸ばしていた。
「静香?」
我ながらどうかしていたと思う。でも、今でもその時の行為が間違っていたとは思えなかった。ただ、寂しそうにしている彼に、そんなことをしなくてもちゃんと君を見ている人間もいるのだと、教えてあげたかった。それは言葉でいくら上手く伝えたところできっと伝わるものではなくて、そうやって抱きしめてあげることでしか本当の意味では伝わらないのだろうと思った。
彼は最初私の腕の中で困惑していたけれど、しばらくすると私のことを抱きしめ返してくれた。
「静香って、思っていたよりあったかいのな。」
力なく笑うと彼はより強く私のことを抱きしめた。
「少しだけ、このままでいてもいい?」
私の右肩を温かい滴が濡らしていた。
詳しくは聞かなかったが、もしかしたら他にもなにかあったのかもしれない。
私は彼の温もりを一身に受けながらしばらく黙って彼を抱きしめていた。
視線の先ではハラハラと桜の花弁が散っていく。
私はただそれを眺めていた。ぼんやり見上げた空には白い朧月が浮かんでいて、散りゆく桜の花びらはほのかに発光しているようにも見えた。
「静香」
どれくらいそのままでいただろう。
彼は私の名前をぽつりと呼んだ。
「なに?」
「ありがとう。」
私はただ彼を抱きしめることしかできなかった。
そしてゆっくり私から体を離すと、そこにはいつも通りの彼がいた。
「もう大丈夫。」
彼は私を見ていたのか、その背後にある桜並木を見ていたのか、それは今でもわからない。けれど、なんだか少し満足げな顔をして笑っていた。
「綺麗だね。」
そう言って、私の手を握った。私は夜風で冷えるからと自分に言い訳をして、その手を握り返していた。
佐原先生とこの美しい女性との間にはきっと何かがあったのだろうと予想はしていた。
「ショック、だよね。ごめん、やはり伝えるべきではなかったのかもしれない。」
「いえ、ショックはショックでしたけど、教えてもらえてよかったです。」
「よかった?」
「はい。」
「どうして?」と問いかける彼女の瞳には明らかな戸惑いの色が滲んでいた。
私はそうですね…と少しためらいながらも笑う。
「好きな人のことだから、ですかね。」
「君は強い人だね。私や彼よりもずっと。」
彼女の言葉をうけ、私は自分自身に苦笑した。
それが単なる強がりだということを誰よりも理解していたから。
「私のこと、あの子に伝えるも伝えないも、それは君次第だよ。」
彼女は私にそう言った。
「もう随分前のことだしね、彼だって私のことを今どう思っているのかはわからない。もうとっくに過去の人になり果てているかもしれない。でももしかしたら私は君の恋敵になってしまうかもしれない。私の存在を知らせなければその心配をすることだってないんだ。だからあとは今の彼と共にいる君に託すよ。選んでほしい。どうしたいのか。まあ彼の今の気持ちはわからないけれど、とりあえず今確実なことは、私があと数日でこの街を去るということくらいだ。」
「やっぱり、行ってしまうんですか?」
「そうだね、これはもう決めたことだから。」
「そうですか…。」
私がショックを隠し切れずにいると、彼女はそんな私の頭にぽんぽんと手をおいた。
「君と会えなくなってしまうのは寂しいけど、行かなくちゃいけないんだ。」
私は目の奥が熱くなるのを感じながらなんとかおねえさんに尋ねた。
「あの、最後にもう一度会う時間は、ありますか?」
「まあ、会おうと思えば会えるのだけど、でも会ったら名残惜しくなってしまいそうだな。」
彼女は寂しそうにそう言った。
そんな彼女に私はもう一つだけ質問をした。
「おねえさん」
「ん?」
「おねえさんは…今の佐原先生に会いたいと思いますか?」
沈黙が流れる。本心はもう決まっているのだと思う。それを言葉にすることをためらっているように見えた。
「そうだね、会いたいな。」
言葉にして初めて、彼女は目に見える形で感情をあらわにした。
ぽろぽろとその瞳から、隠してきた感情が零れ落ちていく。それは光を反射してきらきらと光り、とても綺麗だった。
おねえさんがいつも私にしてくれたように、今度は私がその震える肩を抱きしめる。
「ありがとう。」
おねえさんは何度も何度も、私にそう言った。