7.2
俺は煙草を吸いに行こうと、あの喫煙所へと向かった。
重い扉の向こうはほんの少し春の香りが薄らいでいた。
「もう、春も終わっちまうのか。」
煙草に火をつけながら、その先に、もう見ることは叶わないのかもしれない、あの華奢な背中を思い浮かべる。何度か一緒にここで桜を眺めたことがあったが、彼女はそのたびに愛おしいものをみるような表情をしていた。
「佐原君は好きな季節というものはあるかい?」
「これといって特にないかな。春とか秋は過ごしやすい気候だから好きだけど、それくらいのものでしかないから、思い入れとかは特にない。静香は、そういうのあるの?」
「私は春が一番好きなんだ。」
「それはいったい何故?」
「桜の花が好きなんだ。いや、違うかな。好きでもあるんだけど、嫌いでもある。ほんの一時だけど、あの花は毎年綺麗に花をつけては人々の記憶に残っていくだろう。毎年毎年、季節を巡って、たった一瞬花を咲かせる。それは一年という時間の中であまりにもわずかな時間だけど、どんなに一瞬だったとしても、その姿は人々の心の中にずっと根付いていく。それがとても美しいと思うんだ。あの桜という花は刹那と永久をどちらも内包しているんだよ。私はそんな存在が少し羨ましいとも思ってる。そんな風に生きられたらいいのにって、散り際まで含めて誰かの心にずっと息づいていくようなそんな人になれたらいいのにって、そんなことをつい考えてしまうんだ。」
それだけ聞くと好きなんだか嫌いなんだか分からなくなってしまいそうだが、彼女はきっとその思想も含めて桜というあの木が好きなのだろう。
「そんなの、もう十分なってるよ。」
「え?ごめん、今何か言った?」
春特有の少し強い風は俺の言葉をどこかに攫って行ってしまったらしく、静香には届いていなかった。あの時、もう一度言い直していたら、彼女に俺の気持ちは届いていたのだろうか。
「そんなたられば話をしたところで、今更どうなるんだっつーの。」
俺は苦しい気持ちを煙草の煙と一緒に吐き出した。
白煙が青空に吸い込まれていく。
ぼんやりと空を見上げていると、がちゃりと扉が開いた。
俺はてっきり岡本さんが何かの用事でここに立ち寄ったのだと思って油断していた。しかし現れたのは意外な人物だった。
「え、あれ、お疲れさまです。一体どうして校長が、こんなところに?」
そこにいたのは校長だった。
「図書室に行ってみたのですがご不在だったので、もしかしてこちらかなと。」
「そんなわざわざご足労いただかなくても社用携帯でも鳴らしてくださればよかったのに。」
「いやなに、私もたまには息抜きがしたいのですよ。」
そうは言うが校長は昔から非喫煙者だ。煙草なんて吸わない。
仕事の合間の休憩というのは嘘ではないにしろ、図書室で待たずここまで来たという行為には何かしらの意味があるのだろう。
「仕事ばかりでは息が詰まりますからね。ところで、僕には何の用だったのですか?」
「ああ、そう。伝えておきたいことがありまして。」
「伝えておきたいこと?」
「君がまだ学生としてこの学校に通っていた頃の司書の先生、覚えていますか?蝶野静香先生という女性の方なんですが。」
校長から静香の名前が口をついて出てきた瞬間、俺は妙な汗をかいた。
「存じていますが、その蝶野先生がどうかされたんですか?」
「いえね、彼女辞めてすぐに地元へ帰られたんですが、今ちょうどこの街に滞在されているそうなんですよ。先ほど、校長室にご挨拶に見えました。すぐに帰ってしまいましたが。」
その時の俺は、きっと目に見えて顔色が変わっていたのではないだろうか。
いなくなった静香が、この街に帰ってきていて、先ほどまでここにいた。
まだ近くにいるかもしれない。
「佐原先生は、彼女と当時随分仲がよさそうに見えた。きっとあなたに会えたなら彼女も嬉しいでしょうね。もしかしたら図書室にはいらっしゃるかもしれません。」
俺はその言葉に冷静ではいられなくなった。
校長はそんな俺の様子を見るなり、表情を変えずに俺の名を呼んだ。
「佐原先生。」
「なんでしょう。」
俺は一刻も早く図書室へ戻りたかった。用件があるなら早く言ってくれと気持ちばかりが急いていく。
「佐原先生、今日は随分と顔色が優れないように見えますね。」
「え?そんなことは…」
突拍子もない校長の言葉に俺は困惑した。
「ご自身では気付かないうちに疲れがたまっておられるのではないでしょうか。今日は早退してはどうですか?」
皆まで言われてようやくこの人の言わんとしていることが分かった。
図書室にはいるかもしれないが、いないかもしれない。
これはおそらく、もしいなかった時はそのまま探しに行けというあの人なりの配慮だった。
「そうかもしれません。急ですが、構いませんか?」
「もちろん。」
「ありがとうございます。」
俺は校長に一度頭を下げて、すぐに扉を開けて駆けだした。
急いで図書室に戻り扉を開けたが、そこに静香の姿はなかった。
しんとした空気と紙の匂いが立ち込めるばかりで、利用者はいない。
静まり返った図書室は彼女と最後に話をした日を想起させた。
ふと、カウンターに置かれたメモ帳が目に入る。
それはいつも仕事の合間のメモとして使っていたものだったけれど、白紙だったはずの一番上のメモ用紙には文字が記されていた。
その筆跡は何度も見てきたもので、誰が書いたのかが俺には一目でわかった。
静香はたしかにここに来ていたのだ。
メモ帳には細い字でたった一言だけが記されていた。
『君と過ごしたあの日々は本当に幸せだった。ありがとう。』
俺は泣きそうになるのを必死にこらえてすぐに彼女の行き先を考えた。
遠方にいた静香がこの街に来て、行きそうな場所とはどこだろうか。
そこまで考えて、ふと俺は気付く。
俺と静香を結ぶ関係など教師と生徒という間柄しかなく、それ以外のプライベートな彼女のことなど何一つ知らなかったのだ。俺は確かに彼女に恋をしていたし、愛していたけれど、それは先生としての彼女であって、蝶野静香という一人の女性としての彼女ではなかった。俺は彼女自身のことについては何一つ見えていなかったのだ。恋は盲目だと言うけれど、あの頃の俺は見えていなかったというよりも、見ようとすらしなかった。
こんな時、彼女が行きそうな場所すら何一つ見当もつかないなんて、情けないにもほどがある。彼女との記憶はほとんどが図書室かあの非常口の外の喫煙所で他にヒントになりそうなものなど見当たらなかった。
ほとんど絶望に近いような感情が俺を飲み込んでいく。
俺はまた、彼女を引き留めることができないのか。
あの細い体を抱きしめてやることもできないのか。
それでは無力だった高校生の時と、まるきり変わらないではないか。
俺は結局、その辺に転がる蛹のままだったのだろうか。
「くそっ…!!」
吐き捨てるようにそうつぶやく。神様でも悪魔でもなんだっていい。
静香にもう一度だけ、もう一度だけでいいから会わせてくれ。
柄にもなくそんなことを願った。
「佐原先生!」
その時、そんな俺の願いが届いたのか、岡本さんが俺の名を呼んだ。
息を切らしていて、髪も乱れている。どうやらここまで走って来たらしい。
「どうしたの、そんなに慌てて。」
「それどころじゃないの。お願い。早く行ってあげて!」
彼女は相当焦っているらしく、その言葉だけでは話が見えなかった。
「ちょっと待って、落ち着いて。一体どこに行けっていうの。何があるの。」
困惑する俺に彼女は思いがけない名前を口にした。
「静香さんが先生のこと待ってるの。早くしないと間に合わなくなっちゃう。」
「今…なんて?」
静香が俺のことを待っている、たしかに彼女は今そう言った。
なぜ彼女が静香のことを知っているのだ。彼女がこの学校に入学したとき、静香はとっくにこの学校からいなくなっていたはずだ。俺も彼女の名前は一度だって口に出していなかった。それなのになぜ。
「説明している時間もないんです。早くしないと静香さん遠くに行っちゃうから。早く。」
居てもたってもいられなかった。
岡本さんは「私は一緒に行けない」と言って、その代わりに駅前の桜並木に向かうよう伝えた。情けないことに彼女からのヒントでようやくその場所が思い浮かんだ。
かつて、たった一度だけ、彼女の方から俺を抱きしめてくれた場所。
あまり自分のことを語らない彼女が唯一好きだと教えてくれたもの。
「駅前の、桜並木か。」
俺は一目散に駆けだした。
煙草の吸いすぎなのか、はたまた年を重ねたせいなのか、全力で走ると息が苦しかった。
しかしそれでも足を止めることもスピードを緩めることもどちらもできなかった。
今足を止めたらもう二度と俺は静香に会えないような気がしていた。
ようやく駅前の桜並木が見えてきたというところで、その下にたたずむ人影を発見する。
その横顔に、思わず泣きそうになった。
「静香…っ!!」
汗でぐちゃぐちゃだし、声は掠れきっていて、久しぶりの再会にしては俺はどこからどうみてもひどい有様だったと思う。しかしそれでも彼女は驚きこそすれ、そんな俺を見て大層嬉しそうな顔をした。
「佐原君…?どうしてここに。」
「…ここに来れば静香に会えるって。」
「あの子か。…まったく、本当にお人好しなんだから。」
俺は状況を掴めないまま、ひとまず呼吸を整えようと努めた。
静香は少し待っていてと言ってどこかに行くと、すぐに片手にペットボトルを持って戻って来た。
「ほら、ちゃんと水分とって。脱水で倒れたら大変だ。」
静香は笑いながら買ったばかりの冷たいペットボトルを差し出し、俺はそれを声も出せないままに受け取った。
買ったばかりのスポーツドリンクは冷たく喉を潤していく。
俺はようやくまともに話せる程度に回復した。
「ねえ、せっかくだから、少しだけ話をしない?」
近くに公園があるそうで、彼女に誘われるがまま俺はついて行くことにした。
ベンチを勧められ座ると、静香もその隣にちょこんと腰を下ろした。
長い月日の中で話したいことは沢山あったはずなのに、いざ本人を目の前にしたら何の言葉も出てきやしなかった。
「実は少し前にこの街に戻ってきてね。一か月程度の滞在予定だったから自分の思い出に浸ったら、すぐに行こうと思っていたんだ。」
「行くって、どこに?」
「また実家のある方に。南の方なんだけど。」
以前本の整理を手伝った時に出身地の話をしていた。彼女は本を「しまう」と言わず「なおす」と言っていて、あとで聞いたらそれは九州あたりの方言だったらしいのだが、当時の俺はそんなこと知らなかったから、その本はあとで修繕するものなのだと思い、そのへんに除けて静香に怒られていた。そんなこともあったなと静香に話すと彼女もまた「そうだったね」と言って笑ってくれた。
静香はおもむろに煙草のケースを取り出すとそこから一本中身を取り出した。
「相変わらずなんだ。銘柄。」
「今は君も同じ銘柄を吸っていると聞いたのだけど、本当?」
彼女はライターよりもマッチ派で、ボックスよりもソフト派だった。
記憶の中の彼女の嗜好はどうやら今も変わっていないようだ。
なにもかも変わらずあの時のままでいてくれたことが、自分をひどく安心させた。彼女は自分の分の煙草を取ると、もう一本箱から出して俺に勧めてくれた。
「吸うかい?」
「うん。ありがとう。」
俺は彼女から煙草をもらいライターで火をつけようとする。静香はそれを黙って制すと、代わりに持っていたマッチを擦って火をつけた。
「こっちのほうが美味いんだ。」
彼女はそう言って自分の煙草に火をつけると、そのまま俺の煙草にその火を分けてくれた。マッチは二本の煙草に火をつけるとその役目を終えた。静香は火のついたマッチを軽く振って先端の火を消す。俺はその一連の流れをただ黙って眺めていた。
「君があの桜並木にあれだけ急いで来たということは、きっとこれは彼女の取り計らいなんだね。」
「静香、知り合いだったの?岡本さんと。」
「ああ、岡本さんというのか。彼女も私もお互いに名前で呼び合ったりはしなかったから正直苗字は把握していなかったよ。」
「元からの知り合いじゃないのなら、どうやって知り合いに?」
「ひょんなことで出会ってね、なんだか昔の君にどこか似ていて、つい気になってしまったんだ。それで話を聞いてみたらまあ面白い子でね。しかも聞けば自分がいた高校の生徒だというじゃないか。もう運命すら感じたね。彼女もまた私と話をすることを面白いと思ってくれていたようだったし、だったら放課後、私がこの街にいる間は少しお話をしようと、ここでいつも待ち合わせをしていたんだ。」
なるほど、最近の彼女がやけに早く帰りたがっていたのはこのためだったのか。
「この公園は私と彼女の大切な場所なんだ。ここでいろいろな話をしたよ。学校のこと、友達のこと、好きな教科や苦手な教科、それから、好きな人のこと。君の煙草の件もそうして話していたなかの一つだったってわけさ。」
「あの子そんなことまで話していたの。」
「そりゃ、彼女と私はもうすっかり友人だからね。出会ったのはつい最近のことだけど、不思議とずっと前から知っていたような気持にさせられる。不思議な子だよあの子は。」
静香の言っていることは俺も常々感じていたのでよくわかった。
彼女と出会ってからも、話をするようになってからも、不思議とその距離感は心地よくて旧知の仲のような安心感があった。だからこそ、今日あれだけ余裕のない彼女の姿をみて、自分はあれだけ驚いたのだろう。
「それはたしかに、わからなくもないかな。ただ今日はとても切羽詰まった様子で俺のところにきたから何事かと思ったよ。」
俺がそういうと静香は苦笑を浮かべた。
「佐原君は鈍感なんだね。」
「え、鈍感?」
「それとも、見て見ぬふりをしていたのかな。彼女がなぜそんなに切羽詰まっていたのか。」
彼女が言わんとしていることがようやく分かった。
「ああ、俺に向けた彼女の気持ちなら、さすがにわかってはいたよ。」
「そう、君も大人になったんだね。昔はあんなに尻尾を振って追いかけてきていたというのに。あれはあれで忠犬を飼っているみたいでかわいかったけれど。」
「冗談はよしてくれ。まあ、随分と時間が経ったからね、あれから。」
俺達はまた黙りこんでしまった。
静香はちらりと俺を横目に見て、その胸ポケットに入った自分と同じ銘柄の煙草に目を細めていた。
「あ、本当におそろいなんだね、煙草。」
おそろいという言葉になんとも言えない気恥ずかしさを感じた。
しかし何故か言い出した本人まで言葉にしたことで意識してしまったのか、急に恥ずかしそうに頬を紅潮させた。不意にそんな無防備な表情を見せるのは計算なのか天然なのか、自然のものならばとんでもない人だ。俺がそんな風に思っていることなど、この人は微塵も感じてはいないのだろうと思うと少し悔しいような気持ちがした。視線を外しながらも彼女は俺に話を続けた。
「こうして君と煙草を吸う日が来るなんて、あの頃は想像もしなかったな。」
静香が感慨深そうにそんなことを言った。それには俺も同感だった。
「そうだね。ずっと夢ではあったけど、静香は俺の喫煙を許してくれなかったし。」
「当たり前だ。当時の君は未成年だったんだから。止めるのは大人としての責務だろう。」
「まじめだな静香は。」
俺が言うと、彼女は楽しそうに笑った。
「でもさ、本当にこんな日が来るとは思わなかった。だって静香、いきなりいなくなるんだもん。俺、さすがにあれには驚いたよ。」
さっきまでの笑顔は俺のその言葉によってすうと引いていった。
それから至極真剣な顔をして彼女は俺に謝罪した。
「本当に、すまなかったね。」
切れ長の目が憂いに濡れた。
ああ、あの図書室で見た目と同じだと思った。
「なあ静香、今なら聞いてもいいか。あの日、なんでいきなり俺の前から姿を消したのか。」
彼女はうつむいていた。長い髪が彼女の顔を隠してしまい、その表情はわからない。
「色んな事情が重なったんだ。環境的な話で言えば、親が倒れたという連絡をもらった。家族は私しかいなかったから帰らざるをえなかった。でもきっと、それだけじゃない。私は君が好きだったけど、それと同時に怖くもあったんだ。」
「怖い…?静香が、俺のことを?」
「ああ、そうだよ。」
静香が俺を怖いと思う、その理由に見当がつかなかった。
「君はいつでもまっすぐで、それは君自身の長所でもあり、短所でもあった。私はその君のまっすぐさにどうしようもなく惹かれたし、そんな君が好きだった。ただ同時に、君のそういうところが怖くもあった。」
「わかんないよ。つまりどういうこと?」
静香は手にした煙草から煙を吸い込み、そしていつもよりも細く長く吐き出していった。それは彼女が緊張しているときの癖だった。
「当時の君は私を絶対的なものみたいに見てしまっていた。私にはその目がどうしようもなく怖かったんだ。自分自身のこともままならないくせに君に好きだなんて伝えたら、私は君の将来すらも変えてしまうかもしれない。なれたはずの選択肢すらも気付かせないまま、私にとって都合のいいように誘導してしまうかもしれない。それも自分自身ではそう自覚せず、ほぼ無自覚の状態でそうしてしまうかもしれない。君自身のこれからを考えると、私は君に気持ちを伝えるほどの勇気も覚悟も持てなかった。それでもあの頃、私は君がどうしようもなく欲しかったんだ。いつだったかカウンターで仕事をしていた時、なんで手伝ってはいけないのかと聞いたね。」
それは、あの入荷本へのシール貼の日のことだろう。
「あれは考えたいことがあるからって。」
「それもある。あの時は、君のことを考えていた。」
「俺のこと?」
誰かの顔を思い浮かべているのだろうという気はしていた。しかし、それがまさか自分だとは思っていなかった。
「でもあの時、静香は俺のこと考えていたなんていうわりに俺のこと見てくれなかったじゃないか。」
「気になっている相手を直視できるほど、私は君みたいにまっすぐな人間ではないんだ。生憎とね。」
そういう彼女は肩をすくめて困ったように笑った。
「あの時は、君とどう接していくのが適切なのかをずっと考えていた。今までの君と、これからの君と。あんまりにも君が嬉しそうに私のもとに通ってくれるものだから、私には本当にそれが幸せだったんだ。でも君に会うたびに自分の気持ちを眼前に示されているような気持ちがした。高校生だった君が大人である先生という立場の女性に魅かれるのは思春期としてよくあることだろう。私にはそういうよくあることの一種なのか、君が本当に私自身を好いてくれているのかが、わからなかった。手放しで君を欲する欲と、それはいけないという理性が、君が私に笑いかけるたびにせめぎ合っていた。それでも、なんとか気持ちを保っていたのだけれど、ついにはそれすらも崩壊してね、迷った末に私は結局君から逃げるようにいなくなった。」
心なしか彼女の手は微かに震えていた。
俺はその手に今触れていいものかわからず、ただ自分の膝の上でこぶしを握り締めていた。
「きっかけはふたつあった。」
「ふたつ?」
「そう」と頷き彼女はそういうと、何もない地面をただじっと眺めるようにしていた。
「ひとつは君と桜並木の下を歩いたとき。君は進路のことで私に相談をしたね。司書になりたいと聞いた時、私は嬉しいという気持ちの反面、恐れていたことが現実のものになってしまったような気がしていた。」
「なんでそんな風に思うのさ。静香がそんなこと考えるのはおかしいだろう。」
「さっきも言っただろう。君は染まりやすいし影響されやすい。君は別に本が好きなわけでもあの図書室という空間が好きなわけでもない。それは見ていればわかる。しかし、そんな君が司書なんて仕事を選んだ。私が中途半端に君を求めてしまったから。距離を置くこともできたのに、私の個人的な感情でそうすることを躊躇ってしまったから。手遅れだったんだろうかなんて、人の人生なのに勝手にそんなことまで考えて。でもその時、君がなぜ派手な格好をしたり校則を破ったりするのかの理由も私は聞いたね。」
そうだ。彼女はあの日、そんなことを聞いてきた。
周りの人間はみんな、ただ目立ちたいだけの馬鹿な奴くらいにしか俺のことを見てはくれなかったのに、君は本当はそういう人ではないだろうと、なぜそうするのかと、理由を尋ねてくれたのは彼女だけだった。見ていないようで誰よりも人のことを見ているそのどこか無機質なやさしさが、俺はずっと好きだった。
「あの時の君を見て、私の理性は完全に崩壊した。気が付いたら私は君のことをこの腕で抱きしめていた。考えるよりも先に、体が動いていた。これ以上この子を一人で泣かせてはいけないと、そう思ったらたまらなく愛おしくなって。でもやっぱり私と君は先生と生徒という関係で、それ以上に踏み込んではいけないということも理解していた。それでも考えれば考えるほど君への気持ちは消えなくなって、逆に募っていくばかりだった。」
そこで一度、静香は言葉を切った。
「それじゃ、もうひとつのきっかけは?」
静香は手にした煙草を携帯灰皿に仕舞うと、ふうと一息ついて俺を見た。
「いつだったか、蛹の話をしたのを覚えているかい?」
「ああ、覚えているよ。静香と最後に図書室で話をした日のことだろう。」
「そう、私はずっとあの桜並木の一件から、君との関係をもとに戻そうと必死だった。君は私の気持ちを知ってか知らずか、何もなかったかのように今まで通りに接してくれていた。それには本当に助けられたんだ。本当はあの日以降、どんな顔をして君に会えばいいのかわからなかったから。君があまりにも自然に接してくれたから、私もまた普通を演じられた。でもあの日、君は私にその気持ちを伝えてくれたね。私はその時に思ったんだ。ああ、この子と今一緒にいてはいけないと。」
あの日の静香もそんなことを言っていた。自分にはその理由がずっとわからなかった。
「納得できないという顔をしているね。」
「そりゃそうさ。」
「でも今の君なら少しは気持ち、わかるんじゃない?」
「え?」
「岡本さん、といったか。彼女はあの頃の君によく似ている。その彼女が君に対してみせている感情やあの目は、君だってもう気付いているんだろう?」
俺は彼女と初めて会った時のあの目を思い出した。
あの時微かにその目の奥に見えた火種は結局熱を増してしまった。
それは日を追うごとにはっきりと目に見えるようになってしまった。
「君はその目に気が付いたとき、どう思った?」
俺は静香にまっすぐ見つめられて、正直に白状せずにはいられなかった。
「嬉しいとは思った。あんな風に手放しに誰かに好意の目を向けられることなんてそうそうないから。だけど、俺はその熱量に対して応えてあげられないこともわかっていた。俺はやっぱり静香のことが忘れられなかったから。」
静香は長いまつ毛をそっと伏せた。
「私の場合は、その忘れられない対象も君だったわけだけど。似た気持ちではあったんだと思う。嬉しかった。本当に。それは嘘偽りなく断言できるよ。先生と生徒という関係性じゃなかったら私はあの時二つ返事で君の申し出に頷いていたかもしれない。だけどね、あの頃の君はまだ幼すぎた。恋だの愛だのを知らな過ぎたんだ。一過性の熱はすぐに冷めてしまう。将来の夢も、私への想いも、白昼夢みたいに一瞬で覚めてしまうことがある。私が恐れたのは、その時向けられるであろう君からの終わりを告げる視線だった。だからそんな未来が訪れないように、君の気持ちを知りたかった。このまま一緒にいたらいつまた君を求めてしまうかわからない。もう気が狂いそうだったんだ。だから私は逃げた。来るかもわからない未来から、何一つ行動を起こさないという方法で、逃げたんだよ。」
彼女の言葉は最後に近付くにつれ段々と揺れ動ているように見えた。
目にうっすらと滴をたたえながら、彼女はさらに話を続ける。
「だけどね、私は結局、君から離れたところで何一つ変わることはなかった。君が真剣に伝えてくれた気持ちから逃げてしまったという記憶だけが残って、苦しくなるばかりだった。環境を変えたところで自分というものは変わらない。君は私がいなくなっても、きっと高校を卒業して、新しい友達や本当にやりたいことを見つけていくのだろう。そうやってゆっくりと君の中から私はいなくなり、青春の中の綺麗な思い出として変化していく。それが君にとって本来あるべき姿だろうとも思っていた。だけど、私の心はそれをすんなり許容してはくれなかった。さっき向こうに戻ったのは親が倒れたからだと言ったが、母は病床からそんな娘をずっと見守っていてくれた。母はちょうどここに来る前に亡くなったのだけど、最期に私に言ったんだ。『本当に大切なものならば、死んでも離すんじゃないよ。誰のためでもなく、あんたはあんた自身のために生きなさい。』母のその言葉に私は背中を押されるようにして、ようやくこの地にもう一度足を踏み入れることができたんだ。それでもやっぱり最後の最後で君のもとに行くのだけは躊躇われた。その時に出会ったのがあの子なんだよ。昔の君によく似た彼女に言われた。その人は絶対に怒ってなんかいないし、今だってきっとあなたを待ってくれていると。それでようやく、君と向き合う決心がついたんだ。」
普段から感情もなにも表に出さない人だったから、彼女がそんな風に考えていたなんて欠片も理解していなかった。
ここに来るまでに感じたことを、彼女はあの日々の中ですでに気が付いていたのだろう。
俺が先生としての彼女の側面しか見えていなくて、彼女自身の内面を見ようともしていなかったこと。そしてそれが彼女を追い詰め、かえって孤独にさせてしまっていたこと。
こうして言葉にしてもらうまで、俺は何一つ彼女の考えなど想像すらできなかった。
ここに来ることは彼女にとってどれだけ勇気のいることだっただろう。
「かたい殻に閉じこもったまま春を迎え、外に出ることもなく季節が過ぎていく。それを何度もただ繰り返すだけ。私はただ春を待ち焦がれる蛹でしかなかったんだ。昔君とあのだれもいない図書室の窓辺で見かけたような、小さな蛹と同じだった。でもどうやら君の方は、ちゃんとあれから美しい蝶になれたようだね。」
俺は果たして彼女の言うような美しい蝶に本当になれているのだろうか。
「その答えは、わからない。でも、司書になろうと決めたのも、この学校に就職を決めたのも、確かに静香の影響ではあるけど、これは紛れもなく俺自身の意志だ。俺がそう在りたいと望んで選んだんだよ。俺は静香みたいな先生になりたかった。だからこの道を選んだんだ。俺は静香に会えたから、やりたいことも楽しいことも何もなかった日々から抜け出せた。静香のおかげと思うことはあっても静香のせいだなんて思うようなことは何一つなかったよ。」
「佐原君…。」
「あの日静香は言ったよね。俺はまだまっさらな蛹だって。なんにでもなれる可能性を秘めた蛹なんだって。俺はちゃんと、自分の考えや意志でもって行動したんだ。その結果が、結局静香と同じ図書館司書という仕事だったというだけで、静香にこうして会いに来たのだってまぎれもない俺自身の意志だ。」
彼女はじっと俺の目を見つめ、その言葉を聞いていた。
一言も聞き逃さないように、俺の言葉に耳を傾けているのがわかった。
「ねえ静香、君の目には今、俺は綺麗な蝶に見えているの?」
静香は俺をその瞳に映すなり、「うん」と小さく頷いた。
「それならさ、もう俺は静香の手を取ってもいいかな。約束しただろう。綺麗な蝶になって、いつか静香を迎えに行くって。静香は俺の名前、ちゃんと覚えてる?」
「春の人と書いて、春人君。忘れるわけがない。」
「そう。静香はここにくるっていう選択をしてちゃんと行動を起こしている。俺としてはそれってもう十分変わっていると思うんだけど。それでももし、静香がまだ変われないままで冷たい蛹の中にいるというのなら、俺があたたかい外の世界に連れ出してやる。何度だってその手を引っ張って、春の陽だまりみたいな暖かい場所に引っ張り出してやる。」
静香は言葉が出てこない様子で、ただ泣いていた。
「どうして君は…。」
ようやく出てきた言葉も、そこで途切れて先は続かなかった。
「もう、俺も待ちくたびれたからね。ずっと待っていたんだよ。静香とこうして会えること。何度もあきらめようとしたけど、無理だった。君の存在はそんなに簡単に思い出に昇華できるような代物ではなかったよ。それでも、まだ信じられない?」
俺は隣に座る静香の手に、そっと自分の手を重ねた。
彼女は一瞬びくりと体を強張らせたが、すぐにその緊張もほどけたようだった。
ずっと触れたかった手にようやく手が届いた気がした。
彼女の細い指が自分の指と絡まり合う。
彼女は何も言わずに、俺の唇へとその柔らかな熱を重ねた。
近付けた顔をそっと離すと彼女は今まで見たどんな表情よりも美しく微笑んでいて、そして恥じらいながら、こう言った。
「私も、ずっと待っていたんだ。あたたかい春が来るのを。」
俺は煙草を吸いに行こうと、あの喫煙所へと向かった。
重い扉の向こうはほんの少し春の香りが薄らいでいた。
「もう、春も終わっちまうのか。」
煙草に火をつけながら、その先に、もう見ることは叶わないのかもしれない、あの華奢な背中を思い浮かべる。何度か一緒にここで桜を眺めたことがあったが、彼女はそのたびに愛おしいものをみるような表情をしていた。
「佐原君は好きな季節というものはあるかい?」
「これといって特にないかな。春とか秋は過ごしやすい気候だから好きだけど、それくらいのものでしかないから、思い入れとかは特にない。静香は、そういうのあるの?」
「私は春が一番好きなんだ。」
「それはいったい何故?」
「桜の花が好きなんだ。いや、違うかな。好きでもあるんだけど、嫌いでもある。ほんの一時だけど、あの花は毎年綺麗に花をつけては人々の記憶に残っていくだろう。毎年毎年、季節を巡って、たった一瞬花を咲かせる。それは一年という時間の中であまりにもわずかな時間だけど、どんなに一瞬だったとしても、その姿は人々の心の中にずっと根付いていく。それがとても美しいと思うんだ。あの桜という花は刹那と永久をどちらも内包しているんだよ。私はそんな存在が少し羨ましいとも思ってる。そんな風に生きられたらいいのにって、散り際まで含めて誰かの心にずっと息づいていくようなそんな人になれたらいいのにって、そんなことをつい考えてしまうんだ。」
それだけ聞くと好きなんだか嫌いなんだか分からなくなってしまいそうだが、彼女はきっとその思想も含めて桜というあの木が好きなのだろう。
「そんなの、もう十分なってるよ。」
「え?ごめん、今何か言った?」
春特有の少し強い風は俺の言葉をどこかに攫って行ってしまったらしく、静香には届いていなかった。あの時、もう一度言い直していたら、彼女に俺の気持ちは届いていたのだろうか。
「そんなたられば話をしたところで、今更どうなるんだっつーの。」
俺は苦しい気持ちを煙草の煙と一緒に吐き出した。
白煙が青空に吸い込まれていく。
ぼんやりと空を見上げていると、がちゃりと扉が開いた。
俺はてっきり岡本さんが何かの用事でここに立ち寄ったのだと思って油断していた。しかし現れたのは意外な人物だった。
「え、あれ、お疲れさまです。一体どうして校長が、こんなところに?」
そこにいたのは校長だった。
「図書室に行ってみたのですがご不在だったので、もしかしてこちらかなと。」
「そんなわざわざご足労いただかなくても社用携帯でも鳴らしてくださればよかったのに。」
「いやなに、私もたまには息抜きがしたいのですよ。」
そうは言うが校長は昔から非喫煙者だ。煙草なんて吸わない。
仕事の合間の休憩というのは嘘ではないにしろ、図書室で待たずここまで来たという行為には何かしらの意味があるのだろう。
「仕事ばかりでは息が詰まりますからね。ところで、僕には何の用だったのですか?」
「ああ、そう。伝えておきたいことがありまして。」
「伝えておきたいこと?」
「君がまだ学生としてこの学校に通っていた頃の司書の先生、覚えていますか?蝶野静香先生という女性の方なんですが。」
校長から静香の名前が口をついて出てきた瞬間、俺は妙な汗をかいた。
「存じていますが、その蝶野先生がどうかされたんですか?」
「いえね、彼女辞めてすぐに地元へ帰られたんですが、今ちょうどこの街に滞在されているそうなんですよ。先ほど、校長室にご挨拶に見えました。すぐに帰ってしまいましたが。」
その時の俺は、きっと目に見えて顔色が変わっていたのではないだろうか。
いなくなった静香が、この街に帰ってきていて、先ほどまでここにいた。
まだ近くにいるかもしれない。
「佐原先生は、彼女と当時随分仲がよさそうに見えた。きっとあなたに会えたなら彼女も嬉しいでしょうね。もしかしたら図書室にはいらっしゃるかもしれません。」
俺はその言葉に冷静ではいられなくなった。
校長はそんな俺の様子を見るなり、表情を変えずに俺の名を呼んだ。
「佐原先生。」
「なんでしょう。」
俺は一刻も早く図書室へ戻りたかった。用件があるなら早く言ってくれと気持ちばかりが急いていく。
「佐原先生、今日は随分と顔色が優れないように見えますね。」
「え?そんなことは…」
突拍子もない校長の言葉に俺は困惑した。
「ご自身では気付かないうちに疲れがたまっておられるのではないでしょうか。今日は早退してはどうですか?」
皆まで言われてようやくこの人の言わんとしていることが分かった。
図書室にはいるかもしれないが、いないかもしれない。
これはおそらく、もしいなかった時はそのまま探しに行けというあの人なりの配慮だった。
「そうかもしれません。急ですが、構いませんか?」
「もちろん。」
「ありがとうございます。」
俺は校長に一度頭を下げて、すぐに扉を開けて駆けだした。
急いで図書室に戻り扉を開けたが、そこに静香の姿はなかった。
しんとした空気と紙の匂いが立ち込めるばかりで、利用者はいない。
静まり返った図書室は彼女と最後に話をした日を想起させた。
ふと、カウンターに置かれたメモ帳が目に入る。
それはいつも仕事の合間のメモとして使っていたものだったけれど、白紙だったはずの一番上のメモ用紙には文字が記されていた。
その筆跡は何度も見てきたもので、誰が書いたのかが俺には一目でわかった。
静香はたしかにここに来ていたのだ。
メモ帳には細い字でたった一言だけが記されていた。
『君と過ごしたあの日々は本当に幸せだった。ありがとう。』
俺は泣きそうになるのを必死にこらえてすぐに彼女の行き先を考えた。
遠方にいた静香がこの街に来て、行きそうな場所とはどこだろうか。
そこまで考えて、ふと俺は気付く。
俺と静香を結ぶ関係など教師と生徒という間柄しかなく、それ以外のプライベートな彼女のことなど何一つ知らなかったのだ。俺は確かに彼女に恋をしていたし、愛していたけれど、それは先生としての彼女であって、蝶野静香という一人の女性としての彼女ではなかった。俺は彼女自身のことについては何一つ見えていなかったのだ。恋は盲目だと言うけれど、あの頃の俺は見えていなかったというよりも、見ようとすらしなかった。
こんな時、彼女が行きそうな場所すら何一つ見当もつかないなんて、情けないにもほどがある。彼女との記憶はほとんどが図書室かあの非常口の外の喫煙所で他にヒントになりそうなものなど見当たらなかった。
ほとんど絶望に近いような感情が俺を飲み込んでいく。
俺はまた、彼女を引き留めることができないのか。
あの細い体を抱きしめてやることもできないのか。
それでは無力だった高校生の時と、まるきり変わらないではないか。
俺は結局、その辺に転がる蛹のままだったのだろうか。
「くそっ…!!」
吐き捨てるようにそうつぶやく。神様でも悪魔でもなんだっていい。
静香にもう一度だけ、もう一度だけでいいから会わせてくれ。
柄にもなくそんなことを願った。
「佐原先生!」
その時、そんな俺の願いが届いたのか、岡本さんが俺の名を呼んだ。
息を切らしていて、髪も乱れている。どうやらここまで走って来たらしい。
「どうしたの、そんなに慌てて。」
「それどころじゃないの。お願い。早く行ってあげて!」
彼女は相当焦っているらしく、その言葉だけでは話が見えなかった。
「ちょっと待って、落ち着いて。一体どこに行けっていうの。何があるの。」
困惑する俺に彼女は思いがけない名前を口にした。
「静香さんが先生のこと待ってるの。早くしないと間に合わなくなっちゃう。」
「今…なんて?」
静香が俺のことを待っている、たしかに彼女は今そう言った。
なぜ彼女が静香のことを知っているのだ。彼女がこの学校に入学したとき、静香はとっくにこの学校からいなくなっていたはずだ。俺も彼女の名前は一度だって口に出していなかった。それなのになぜ。
「説明している時間もないんです。早くしないと静香さん遠くに行っちゃうから。早く。」
居てもたってもいられなかった。
岡本さんは「私は一緒に行けない」と言って、その代わりに駅前の桜並木に向かうよう伝えた。情けないことに彼女からのヒントでようやくその場所が思い浮かんだ。
かつて、たった一度だけ、彼女の方から俺を抱きしめてくれた場所。
あまり自分のことを語らない彼女が唯一好きだと教えてくれたもの。
「駅前の、桜並木か。」
俺は一目散に駆けだした。
煙草の吸いすぎなのか、はたまた年を重ねたせいなのか、全力で走ると息が苦しかった。
しかしそれでも足を止めることもスピードを緩めることもどちらもできなかった。
今足を止めたらもう二度と俺は静香に会えないような気がしていた。
ようやく駅前の桜並木が見えてきたというところで、その下にたたずむ人影を発見する。
その横顔に、思わず泣きそうになった。
「静香…っ!!」
汗でぐちゃぐちゃだし、声は掠れきっていて、久しぶりの再会にしては俺はどこからどうみてもひどい有様だったと思う。しかしそれでも彼女は驚きこそすれ、そんな俺を見て大層嬉しそうな顔をした。
「佐原君…?どうしてここに。」
「…ここに来れば静香に会えるって。」
「あの子か。…まったく、本当にお人好しなんだから。」
俺は状況を掴めないまま、ひとまず呼吸を整えようと努めた。
静香は少し待っていてと言ってどこかに行くと、すぐに片手にペットボトルを持って戻って来た。
「ほら、ちゃんと水分とって。脱水で倒れたら大変だ。」
静香は笑いながら買ったばかりの冷たいペットボトルを差し出し、俺はそれを声も出せないままに受け取った。
買ったばかりのスポーツドリンクは冷たく喉を潤していく。
俺はようやくまともに話せる程度に回復した。
「ねえ、せっかくだから、少しだけ話をしない?」
近くに公園があるそうで、彼女に誘われるがまま俺はついて行くことにした。
ベンチを勧められ座ると、静香もその隣にちょこんと腰を下ろした。
長い月日の中で話したいことは沢山あったはずなのに、いざ本人を目の前にしたら何の言葉も出てきやしなかった。
「実は少し前にこの街に戻ってきてね。一か月程度の滞在予定だったから自分の思い出に浸ったら、すぐに行こうと思っていたんだ。」
「行くって、どこに?」
「また実家のある方に。南の方なんだけど。」
以前本の整理を手伝った時に出身地の話をしていた。彼女は本を「しまう」と言わず「なおす」と言っていて、あとで聞いたらそれは九州あたりの方言だったらしいのだが、当時の俺はそんなこと知らなかったから、その本はあとで修繕するものなのだと思い、そのへんに除けて静香に怒られていた。そんなこともあったなと静香に話すと彼女もまた「そうだったね」と言って笑ってくれた。
静香はおもむろに煙草のケースを取り出すとそこから一本中身を取り出した。
「相変わらずなんだ。銘柄。」
「今は君も同じ銘柄を吸っていると聞いたのだけど、本当?」
彼女はライターよりもマッチ派で、ボックスよりもソフト派だった。
記憶の中の彼女の嗜好はどうやら今も変わっていないようだ。
なにもかも変わらずあの時のままでいてくれたことが、自分をひどく安心させた。彼女は自分の分の煙草を取ると、もう一本箱から出して俺に勧めてくれた。
「吸うかい?」
「うん。ありがとう。」
俺は彼女から煙草をもらいライターで火をつけようとする。静香はそれを黙って制すと、代わりに持っていたマッチを擦って火をつけた。
「こっちのほうが美味いんだ。」
彼女はそう言って自分の煙草に火をつけると、そのまま俺の煙草にその火を分けてくれた。マッチは二本の煙草に火をつけるとその役目を終えた。静香は火のついたマッチを軽く振って先端の火を消す。俺はその一連の流れをただ黙って眺めていた。
「君があの桜並木にあれだけ急いで来たということは、きっとこれは彼女の取り計らいなんだね。」
「静香、知り合いだったの?岡本さんと。」
「ああ、岡本さんというのか。彼女も私もお互いに名前で呼び合ったりはしなかったから正直苗字は把握していなかったよ。」
「元からの知り合いじゃないのなら、どうやって知り合いに?」
「ひょんなことで出会ってね、なんだか昔の君にどこか似ていて、つい気になってしまったんだ。それで話を聞いてみたらまあ面白い子でね。しかも聞けば自分がいた高校の生徒だというじゃないか。もう運命すら感じたね。彼女もまた私と話をすることを面白いと思ってくれていたようだったし、だったら放課後、私がこの街にいる間は少しお話をしようと、ここでいつも待ち合わせをしていたんだ。」
なるほど、最近の彼女がやけに早く帰りたがっていたのはこのためだったのか。
「この公園は私と彼女の大切な場所なんだ。ここでいろいろな話をしたよ。学校のこと、友達のこと、好きな教科や苦手な教科、それから、好きな人のこと。君の煙草の件もそうして話していたなかの一つだったってわけさ。」
「あの子そんなことまで話していたの。」
「そりゃ、彼女と私はもうすっかり友人だからね。出会ったのはつい最近のことだけど、不思議とずっと前から知っていたような気持にさせられる。不思議な子だよあの子は。」
静香の言っていることは俺も常々感じていたのでよくわかった。
彼女と出会ってからも、話をするようになってからも、不思議とその距離感は心地よくて旧知の仲のような安心感があった。だからこそ、今日あれだけ余裕のない彼女の姿をみて、自分はあれだけ驚いたのだろう。
「それはたしかに、わからなくもないかな。ただ今日はとても切羽詰まった様子で俺のところにきたから何事かと思ったよ。」
俺がそういうと静香は苦笑を浮かべた。
「佐原君は鈍感なんだね。」
「え、鈍感?」
「それとも、見て見ぬふりをしていたのかな。彼女がなぜそんなに切羽詰まっていたのか。」
彼女が言わんとしていることがようやく分かった。
「ああ、俺に向けた彼女の気持ちなら、さすがにわかってはいたよ。」
「そう、君も大人になったんだね。昔はあんなに尻尾を振って追いかけてきていたというのに。あれはあれで忠犬を飼っているみたいでかわいかったけれど。」
「冗談はよしてくれ。まあ、随分と時間が経ったからね、あれから。」
俺達はまた黙りこんでしまった。
静香はちらりと俺を横目に見て、その胸ポケットに入った自分と同じ銘柄の煙草に目を細めていた。
「あ、本当におそろいなんだね、煙草。」
おそろいという言葉になんとも言えない気恥ずかしさを感じた。
しかし何故か言い出した本人まで言葉にしたことで意識してしまったのか、急に恥ずかしそうに頬を紅潮させた。不意にそんな無防備な表情を見せるのは計算なのか天然なのか、自然のものならばとんでもない人だ。俺がそんな風に思っていることなど、この人は微塵も感じてはいないのだろうと思うと少し悔しいような気持ちがした。視線を外しながらも彼女は俺に話を続けた。
「こうして君と煙草を吸う日が来るなんて、あの頃は想像もしなかったな。」
静香が感慨深そうにそんなことを言った。それには俺も同感だった。
「そうだね。ずっと夢ではあったけど、静香は俺の喫煙を許してくれなかったし。」
「当たり前だ。当時の君は未成年だったんだから。止めるのは大人としての責務だろう。」
「まじめだな静香は。」
俺が言うと、彼女は楽しそうに笑った。
「でもさ、本当にこんな日が来るとは思わなかった。だって静香、いきなりいなくなるんだもん。俺、さすがにあれには驚いたよ。」
さっきまでの笑顔は俺のその言葉によってすうと引いていった。
それから至極真剣な顔をして彼女は俺に謝罪した。
「本当に、すまなかったね。」
切れ長の目が憂いに濡れた。
ああ、あの図書室で見た目と同じだと思った。
「なあ静香、今なら聞いてもいいか。あの日、なんでいきなり俺の前から姿を消したのか。」
彼女はうつむいていた。長い髪が彼女の顔を隠してしまい、その表情はわからない。
「色んな事情が重なったんだ。環境的な話で言えば、親が倒れたという連絡をもらった。家族は私しかいなかったから帰らざるをえなかった。でもきっと、それだけじゃない。私は君が好きだったけど、それと同時に怖くもあったんだ。」
「怖い…?静香が、俺のことを?」
「ああ、そうだよ。」
静香が俺を怖いと思う、その理由に見当がつかなかった。
「君はいつでもまっすぐで、それは君自身の長所でもあり、短所でもあった。私はその君のまっすぐさにどうしようもなく惹かれたし、そんな君が好きだった。ただ同時に、君のそういうところが怖くもあった。」
「わかんないよ。つまりどういうこと?」
静香は手にした煙草から煙を吸い込み、そしていつもよりも細く長く吐き出していった。それは彼女が緊張しているときの癖だった。
「当時の君は私を絶対的なものみたいに見てしまっていた。私にはその目がどうしようもなく怖かったんだ。自分自身のこともままならないくせに君に好きだなんて伝えたら、私は君の将来すらも変えてしまうかもしれない。なれたはずの選択肢すらも気付かせないまま、私にとって都合のいいように誘導してしまうかもしれない。それも自分自身ではそう自覚せず、ほぼ無自覚の状態でそうしてしまうかもしれない。君自身のこれからを考えると、私は君に気持ちを伝えるほどの勇気も覚悟も持てなかった。それでもあの頃、私は君がどうしようもなく欲しかったんだ。いつだったかカウンターで仕事をしていた時、なんで手伝ってはいけないのかと聞いたね。」
それは、あの入荷本へのシール貼の日のことだろう。
「あれは考えたいことがあるからって。」
「それもある。あの時は、君のことを考えていた。」
「俺のこと?」
誰かの顔を思い浮かべているのだろうという気はしていた。しかし、それがまさか自分だとは思っていなかった。
「でもあの時、静香は俺のこと考えていたなんていうわりに俺のこと見てくれなかったじゃないか。」
「気になっている相手を直視できるほど、私は君みたいにまっすぐな人間ではないんだ。生憎とね。」
そういう彼女は肩をすくめて困ったように笑った。
「あの時は、君とどう接していくのが適切なのかをずっと考えていた。今までの君と、これからの君と。あんまりにも君が嬉しそうに私のもとに通ってくれるものだから、私には本当にそれが幸せだったんだ。でも君に会うたびに自分の気持ちを眼前に示されているような気持ちがした。高校生だった君が大人である先生という立場の女性に魅かれるのは思春期としてよくあることだろう。私にはそういうよくあることの一種なのか、君が本当に私自身を好いてくれているのかが、わからなかった。手放しで君を欲する欲と、それはいけないという理性が、君が私に笑いかけるたびにせめぎ合っていた。それでも、なんとか気持ちを保っていたのだけれど、ついにはそれすらも崩壊してね、迷った末に私は結局君から逃げるようにいなくなった。」
心なしか彼女の手は微かに震えていた。
俺はその手に今触れていいものかわからず、ただ自分の膝の上でこぶしを握り締めていた。
「きっかけはふたつあった。」
「ふたつ?」
「そう」と頷き彼女はそういうと、何もない地面をただじっと眺めるようにしていた。
「ひとつは君と桜並木の下を歩いたとき。君は進路のことで私に相談をしたね。司書になりたいと聞いた時、私は嬉しいという気持ちの反面、恐れていたことが現実のものになってしまったような気がしていた。」
「なんでそんな風に思うのさ。静香がそんなこと考えるのはおかしいだろう。」
「さっきも言っただろう。君は染まりやすいし影響されやすい。君は別に本が好きなわけでもあの図書室という空間が好きなわけでもない。それは見ていればわかる。しかし、そんな君が司書なんて仕事を選んだ。私が中途半端に君を求めてしまったから。距離を置くこともできたのに、私の個人的な感情でそうすることを躊躇ってしまったから。手遅れだったんだろうかなんて、人の人生なのに勝手にそんなことまで考えて。でもその時、君がなぜ派手な格好をしたり校則を破ったりするのかの理由も私は聞いたね。」
そうだ。彼女はあの日、そんなことを聞いてきた。
周りの人間はみんな、ただ目立ちたいだけの馬鹿な奴くらいにしか俺のことを見てはくれなかったのに、君は本当はそういう人ではないだろうと、なぜそうするのかと、理由を尋ねてくれたのは彼女だけだった。見ていないようで誰よりも人のことを見ているそのどこか無機質なやさしさが、俺はずっと好きだった。
「あの時の君を見て、私の理性は完全に崩壊した。気が付いたら私は君のことをこの腕で抱きしめていた。考えるよりも先に、体が動いていた。これ以上この子を一人で泣かせてはいけないと、そう思ったらたまらなく愛おしくなって。でもやっぱり私と君は先生と生徒という関係で、それ以上に踏み込んではいけないということも理解していた。それでも考えれば考えるほど君への気持ちは消えなくなって、逆に募っていくばかりだった。」
そこで一度、静香は言葉を切った。
「それじゃ、もうひとつのきっかけは?」
静香は手にした煙草を携帯灰皿に仕舞うと、ふうと一息ついて俺を見た。
「いつだったか、蛹の話をしたのを覚えているかい?」
「ああ、覚えているよ。静香と最後に図書室で話をした日のことだろう。」
「そう、私はずっとあの桜並木の一件から、君との関係をもとに戻そうと必死だった。君は私の気持ちを知ってか知らずか、何もなかったかのように今まで通りに接してくれていた。それには本当に助けられたんだ。本当はあの日以降、どんな顔をして君に会えばいいのかわからなかったから。君があまりにも自然に接してくれたから、私もまた普通を演じられた。でもあの日、君は私にその気持ちを伝えてくれたね。私はその時に思ったんだ。ああ、この子と今一緒にいてはいけないと。」
あの日の静香もそんなことを言っていた。自分にはその理由がずっとわからなかった。
「納得できないという顔をしているね。」
「そりゃそうさ。」
「でも今の君なら少しは気持ち、わかるんじゃない?」
「え?」
「岡本さん、といったか。彼女はあの頃の君によく似ている。その彼女が君に対してみせている感情やあの目は、君だってもう気付いているんだろう?」
俺は彼女と初めて会った時のあの目を思い出した。
あの時微かにその目の奥に見えた火種は結局熱を増してしまった。
それは日を追うごとにはっきりと目に見えるようになってしまった。
「君はその目に気が付いたとき、どう思った?」
俺は静香にまっすぐ見つめられて、正直に白状せずにはいられなかった。
「嬉しいとは思った。あんな風に手放しに誰かに好意の目を向けられることなんてそうそうないから。だけど、俺はその熱量に対して応えてあげられないこともわかっていた。俺はやっぱり静香のことが忘れられなかったから。」
静香は長いまつ毛をそっと伏せた。
「私の場合は、その忘れられない対象も君だったわけだけど。似た気持ちではあったんだと思う。嬉しかった。本当に。それは嘘偽りなく断言できるよ。先生と生徒という関係性じゃなかったら私はあの時二つ返事で君の申し出に頷いていたかもしれない。だけどね、あの頃の君はまだ幼すぎた。恋だの愛だのを知らな過ぎたんだ。一過性の熱はすぐに冷めてしまう。将来の夢も、私への想いも、白昼夢みたいに一瞬で覚めてしまうことがある。私が恐れたのは、その時向けられるであろう君からの終わりを告げる視線だった。だからそんな未来が訪れないように、君の気持ちを知りたかった。このまま一緒にいたらいつまた君を求めてしまうかわからない。もう気が狂いそうだったんだ。だから私は逃げた。来るかもわからない未来から、何一つ行動を起こさないという方法で、逃げたんだよ。」
彼女の言葉は最後に近付くにつれ段々と揺れ動ているように見えた。
目にうっすらと滴をたたえながら、彼女はさらに話を続ける。
「だけどね、私は結局、君から離れたところで何一つ変わることはなかった。君が真剣に伝えてくれた気持ちから逃げてしまったという記憶だけが残って、苦しくなるばかりだった。環境を変えたところで自分というものは変わらない。君は私がいなくなっても、きっと高校を卒業して、新しい友達や本当にやりたいことを見つけていくのだろう。そうやってゆっくりと君の中から私はいなくなり、青春の中の綺麗な思い出として変化していく。それが君にとって本来あるべき姿だろうとも思っていた。だけど、私の心はそれをすんなり許容してはくれなかった。さっき向こうに戻ったのは親が倒れたからだと言ったが、母は病床からそんな娘をずっと見守っていてくれた。母はちょうどここに来る前に亡くなったのだけど、最期に私に言ったんだ。『本当に大切なものならば、死んでも離すんじゃないよ。誰のためでもなく、あんたはあんた自身のために生きなさい。』母のその言葉に私は背中を押されるようにして、ようやくこの地にもう一度足を踏み入れることができたんだ。それでもやっぱり最後の最後で君のもとに行くのだけは躊躇われた。その時に出会ったのがあの子なんだよ。昔の君によく似た彼女に言われた。その人は絶対に怒ってなんかいないし、今だってきっとあなたを待ってくれていると。それでようやく、君と向き合う決心がついたんだ。」
普段から感情もなにも表に出さない人だったから、彼女がそんな風に考えていたなんて欠片も理解していなかった。
ここに来るまでに感じたことを、彼女はあの日々の中ですでに気が付いていたのだろう。
俺が先生としての彼女の側面しか見えていなくて、彼女自身の内面を見ようともしていなかったこと。そしてそれが彼女を追い詰め、かえって孤独にさせてしまっていたこと。
こうして言葉にしてもらうまで、俺は何一つ彼女の考えなど想像すらできなかった。
ここに来ることは彼女にとってどれだけ勇気のいることだっただろう。
「かたい殻に閉じこもったまま春を迎え、外に出ることもなく季節が過ぎていく。それを何度もただ繰り返すだけ。私はただ春を待ち焦がれる蛹でしかなかったんだ。昔君とあのだれもいない図書室の窓辺で見かけたような、小さな蛹と同じだった。でもどうやら君の方は、ちゃんとあれから美しい蝶になれたようだね。」
俺は果たして彼女の言うような美しい蝶に本当になれているのだろうか。
「その答えは、わからない。でも、司書になろうと決めたのも、この学校に就職を決めたのも、確かに静香の影響ではあるけど、これは紛れもなく俺自身の意志だ。俺がそう在りたいと望んで選んだんだよ。俺は静香みたいな先生になりたかった。だからこの道を選んだんだ。俺は静香に会えたから、やりたいことも楽しいことも何もなかった日々から抜け出せた。静香のおかげと思うことはあっても静香のせいだなんて思うようなことは何一つなかったよ。」
「佐原君…。」
「あの日静香は言ったよね。俺はまだまっさらな蛹だって。なんにでもなれる可能性を秘めた蛹なんだって。俺はちゃんと、自分の考えや意志でもって行動したんだ。その結果が、結局静香と同じ図書館司書という仕事だったというだけで、静香にこうして会いに来たのだってまぎれもない俺自身の意志だ。」
彼女はじっと俺の目を見つめ、その言葉を聞いていた。
一言も聞き逃さないように、俺の言葉に耳を傾けているのがわかった。
「ねえ静香、君の目には今、俺は綺麗な蝶に見えているの?」
静香は俺をその瞳に映すなり、「うん」と小さく頷いた。
「それならさ、もう俺は静香の手を取ってもいいかな。約束しただろう。綺麗な蝶になって、いつか静香を迎えに行くって。静香は俺の名前、ちゃんと覚えてる?」
「春の人と書いて、春人君。忘れるわけがない。」
「そう。静香はここにくるっていう選択をしてちゃんと行動を起こしている。俺としてはそれってもう十分変わっていると思うんだけど。それでももし、静香がまだ変われないままで冷たい蛹の中にいるというのなら、俺があたたかい外の世界に連れ出してやる。何度だってその手を引っ張って、春の陽だまりみたいな暖かい場所に引っ張り出してやる。」
静香は言葉が出てこない様子で、ただ泣いていた。
「どうして君は…。」
ようやく出てきた言葉も、そこで途切れて先は続かなかった。
「もう、俺も待ちくたびれたからね。ずっと待っていたんだよ。静香とこうして会えること。何度もあきらめようとしたけど、無理だった。君の存在はそんなに簡単に思い出に昇華できるような代物ではなかったよ。それでも、まだ信じられない?」
俺は隣に座る静香の手に、そっと自分の手を重ねた。
彼女は一瞬びくりと体を強張らせたが、すぐにその緊張もほどけたようだった。
ずっと触れたかった手にようやく手が届いた気がした。
彼女の細い指が自分の指と絡まり合う。
彼女は何も言わずに、俺の唇へとその柔らかな熱を重ねた。
近付けた顔をそっと離すと彼女は今まで見たどんな表情よりも美しく微笑んでいて、そして恥じらいながら、こう言った。
「私も、ずっと待っていたんだ。あたたかい春が来るのを。」