《え……》
俺の両手を見て、律が目を見開く。
まだ自信ないから、ゆっくりと、ゆっくりと、正確さを意識して手と指を動かす。
「……伝わった?」
手の動きは合ってると思うのだけれど、あまりスマートに出来なかったから、ちゃんと伝わったのか自信がない。
思っていたよりずっと難しいな……手話って。
だけど、律は。
《……〝これから先は、こうやって会話することが出来るよ〟》
今、俺が手話で律に伝えたことをテレパシーで復唱してくれた。
良かった、ちゃんと通じたようだ。
だけど律はまだ、驚いた表情で俺を見つめ続けている。
「……手話、覚えてるんだよ。まあ、俺が実際に手を動かして手話を使うことは少ないかもしれないけど、手話を覚えてれば、律が言いたいことはすぐに理解出来るだろ?」
律は、嬉しそうな顔も泣きそうな顔もせず、無表情に近い顔で俺を見つめる。
「……中学生の頃にさ。『超能力は世界を変えられる』とか話したことあったよな。律も、『超能力が使えたら達樹君のことを世界一の幸せ者にする』なんて言ってさ」
《……うん、覚えてる》
「……俺、テレパシーで律と話せるようになって、マジで世界一の幸せ者だよ。
……でも本当は、所詮ただの高校生の俺達に、そんな凄い超能力なんか、いらないんだよ」
《え……?》
「テレパシー能力がきっかけで律とまた仲良くなったのは否定しないけど、テレパシーが使えなくなったからって律と離れる選択肢は俺にはない。
テレパシーがなくなっても、いつだって手話とか使えば普通に会話出来るよ。
だから、自分が普通じゃないとかもう言うなよ。普通だよ。いや、普通以上だよ。
律はいつも明るくて、優しくて、人気者で、憧れの存在でもあった。
声なんか出なくたって、律は律じゃん」
そう。律は律だ。昔も今もこの先も。
だから、俺は。
「俺は、テレパシーが使えなくなったっていい。……使えなくなっていいから、律の言葉で聞きたい。……〝二文字の言葉〟を」
俺がそう伝えると……律はまたボロボロと涙を零し始める。
だけどもう、さっきみたいに顔を隠そうとはしない。
《うん、うん》
何度もそう頷いて、ひたすらに泣き続ける。
そして。
《……き》
律が、言ってくれた。
《達樹君のことが、好き。大好き》
今まで聞いたどんな言葉よりも、それは胸の奥に響き渡った。
この瞬間のことを、俺は一生忘れないだろう。
嬉しすぎて、何て言ったらいいか分からない。
律が顔を背けずにいてくれるから、俺も律の顔を……優しい笑顔を、見つめ返す。
「……律は、テレパシーがなくなったら普通に会話が出来なくなるって心配してたけど、これから俺、もっと手話覚える。それに……」
途中で言葉を途切れさせてしまった俺の顔を見ながら律が小首を傾げる。
「……手話以外にも、あるじゃん。気持ちを、伝える方法」
律は、まだ〝分からない〟と言いたげな顔をしている。
俺は、そんな律に、自分の顔を近付けた。
静かな夜の空気の中、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。
だけど、俺の行動の意味を理解した律がそっと目を瞑ってくれて、少し安心した。
俺は、律の唇にそっとキスをした。
言葉なんか必要ない。
こうするだけで〝好き〟という気持ちは一瞬で全部伝えられるのだから。
「あ……」
唇を離した瞬間、気付いた。
頭の中を響いていた例の音が全く聞こえなくなっている。
きっとそういうことなのだろう、と思いながら、俺達は手と手を触れ合わせてみる。
テレパシーは、使えなくなっていた。
その後、何とか電車が到着し、俺達はそれに乗り込んだ。遅延後だから、満員電車だ。
「今日一日遊んだから、明日は宿題しないといけないな」
電車に揺られながら、俺はそんな、どうでもいいようなことを律に伝えた。
どうでもいいことを話しているのに、俺は勝手に幸せを感じてしまう。
律も、今日は夕方からずっと泣いていたのに、今は穏やかな笑顔で俺を見つめてくれている。
律が、両手をさっさっと素早く動かしていく。
「ごめん、何? 分かんなかった」
手話を勉強しているとはいえ、まだまだマスターには程遠い。
でも今の指の動きを何とか自力で理解したかったので、携帯の画面に文字を入力しようとした律を片手で制し「もう一回やって」とお願いした。
律は笑って、もう一回さっきと同じ様にに手を動かしてくれた。
さっきより随分ゆっくりと動かしてくれたので、その意味を理解することが出来た。
〝そう言いつつ、昼寝してそう〟。
律は手話でそう言っていた。うるせーよ、と笑いながら返す。
〝明日、昼寝から起こす為にメッセージ送ってあげる〟。
くすっと笑う律にそう言われ、俺は「昼寝しないっつーの」とやっぱり笑いながら答えた。
どうでもいいようなことを伝える。
どうでもいいようなことで笑い合う。
こんな時間が、ずっと続いてほしい。そう感じた。
電車を降り、俺は律の家の前まで送っていった。
一応、玄関先で律のお母さんに挨拶だけしていこうかと思ったら、お父さんが出てきたから少し気まずかった。
そんな俺を見て、律がおかしそうにまた笑った。
律の家を後にし、自分の家に向かって歩き出す。
ちら、と肩越しに振り返れば、律は笑顔で手を振ってくれていた。
可愛いな、なんて思いながら、俺も律に手を振り返した。
律と、この時間をいつまでも――。
そう思っていたのに、この数ヶ月後、律は俺の前から姿を消した。
今年の冬は、雪があまり降らなかった。
いつもは冬になるとうんざりするくらいに雪が積もるのに、今年は景色が薄らと白くなるくらいだった。
雪なんて、冷たいし滑るし嫌いだけど、今年は雪景色の中、律と手を繋いで歩けたらなー……なんて女々しいことをこっそり考えていたので、ちょっと残念でもあった。
……いや、雪が降ろうと降らなかろうと、今年の冬は律と手は繋げなかった。
律は突然、いなくなったから。
「シュート練、あと十セットー」
体育館に尚也の声が響く。
雪の降らなかった冬と、相変わらず桜が満開となった春はあっという間に過ぎた。
そして、当たり前だけれど俺達は二年生になっていた。
……いや。〝当たり前〟ではないか。
うちのバスケ部はそこそこ強いと地区内では評判なのだが、今年のインターハイ予選では、何と残念ながら初戦で敗退。
三年生の先輩は引退し、早くも俺達の代が部を引っ張っていくことになった。
新しいキャプテンは尚也。
そんな尚也の推薦で、俺が副キャプテンとなった。
真面目だし、周りをよく見てるから。尚也はそう言って、俺を副キャプテンに推薦してくれたのだった。
俺は人を引っ張っていく性格でもないから、あまり副キャプテンらしいことも出来ていないけれど、何とか頑張っている。ちなみに最近は身長が急にグンと伸び、何とあともう少しで百八十センチの大台だ。
「達樹。俺、コーチと外でちょっと話してくるから、キリのいいところで休憩の指示出しておいてくれるか?」
尚也にそう言われ「おう」と短く答える。
それと同時に、今度は別の人物が俺に話し掛ける。
「休憩の指示、ちゃんと出せる? フクキャプテン」
にやにやしながら、俺にそう言ってきたのは千花。フクキャプテン、の言い方が、某っぽくて明らかに馬鹿にしていた。
「そのくらい出来るわ。多分」
千花とは、体育祭の時に告白されてからも、特に気まずくなることはなく、今まで通りの関係を保てていた……と言っても、気まずくならないように千花が頑張ってくれたのだと思う……。
そんな千花は、今年の四月からバスケ部のマネージャーとなった。元々マネージャーをやっている他クラスの女子に誘われたらしく『あんたに未練があって近付きたいとかじゃないから勘違いしないでね』と言われたことがある。そんな千花は、最近他のクラスの男子と付き合い始めてラブラブだ。
シュート練をしていた部員達に休憩の声掛けをすると、俺は一人、何となく体育館の外へ出ようとする。
「どこ行くの?」
後ろから千花がそう尋ねてきたけど、俺は背を向けたまま「さあ……」とぼんやりと答えた。
本当に分からなかったから。
……今の俺の側には、あの頃みたいに律がすぐ側にいない。触れ合うことも、笑い合うことも出来ない。
と言っても、音信不通って訳ではない。
毎日、とは言わないけれど、さほど寂しくならない頻度でメッセージをくれる。
律は、去年の冬、東京の大きな病院で喉の手術を受ける為、学校を休学した。
退学ではないのは安心したが、単位の関係で、一緒に二年生には進級出来なかった。
喉の手術というのは、人口声帯ってやつを喉に埋めこむ手術らしい。
その手術をすることで、律は再び、多少は言葉を話せるようになる、とのことだった。
といっても、声を出すことは律の喉にとっては負担が大きく、大きな声を出すことも、長時間話すことも出来ず、あくまで会話の基本は今後も手話らしいのだが。
だけど、いざという時に多少でも声を発することが出来るのは、律が自分自身を守る為にも必要であるということで、律の両親がその手術を勧めたらしい。
律自身も、不満も不安も特になさそうだった。
だけど。
手術や入院やリハビリでしばらく会えなくなって、しかも一緒に進級することも出来ないって話だったのにーー
東京へ行く前日、一時の別れを惜しみながら律の家へ行った俺に、律が手話で伝えてきたのは。
〝期末テストは捨てないでね。来年、過去問として貸してもらうから〟
というものだった。
それ、わざわざ別れの前日に言うことじゃないだろ? と思ったけれど、思わず「うん……」と答えてしまった。
もうすぐ夏休み。
律は夏休み明けから学校に復帰するらしい。俺達のクラスにではなく、一年生のクラスに、だけれど。
それでも、律の顔が学校で毎日見れるようになるのは嬉しい。
手術が終わっても、律は東京の親戚の家と東京の病院とを行き来し、こっちにはまだ戻ってきていないから。
……声が出るようになったのなら、一言だけでもいいから電話で話そう、とLINEで伝えても。
【え。なんか恥ずかしいから嫌だ。】
と返信されてしまったし。恥ずかしいって、何だよ。
律はリハビリを頑張っている。
弱音を吐かないだけで、本当は大変なことや辛いこともあるだろうし、痛みだってあるだろう。
だから俺も、そんな律を応援しながら自分自身のやるべきことをしっかりこなさなくては、と思っている。
バスケ部の副キャプテンになったって報告した時、律も喜んでくれたし。
だけど。
それでも、やっぱり時々寂しくなってしまう。
律の笑顔に慣れてしまった。
その笑顔がすぐ側にないことが、寂しい。
「あー……律に、会いたいなあ……」
空を仰ぎながら、ずっと心に秘めていた本音を口にした。
思わず口から出た、というのが正しい。
誰も聞いていないから大丈夫だ。
しかし、その時。
「うわっ⁉︎」
突然、後ろから誰かに抱きつかれた。
驚いて振り向くと、そこにいたのは……。
「り、律……⁉︎」
にっこりと笑いながら俺を見つめる律が、そこにいた。
ずっと会いたいと願っていた律の姿が……たった今、思わず本音が口から零れる程に会いたいと願っていた律の姿が、そこにあった。