欠伸をしていた。それでもつつましく、手でしっかりと口元を覆いながら欠伸をする。どうも大学の講義は退屈だ。九十分と長いこともあるけど、加えて講師の話を聞くだけとなると、どうしようもないほど眠気が襲ってきて欠伸が止まらないのだ。
欠伸は脳を冷やすために行われる、そんなことをテレビを見て知った。人間は脳の温度が下がっていると眠くなるが、眠ってはいけないと考えると脳の温度を無理やり上昇させる。しかし脳の温度は三十九度以上になると脳細胞が死んでしまうため、それを抑えるべく欠伸をする。欠伸をすると吸い込んだ空気で血管が冷やされ、脳に冷えた血液が送られるという。だから欠伸をすることは悪いことではなく、少なくとも起きようという意思は働いているということだ。
「ふあぁ~」
となりから間抜けな音が聞こえて見遣ると、琴音は体を伸ばしながら豪快に口を開けていた。欠伸は悪いことではない。といっても豪快に欠伸をしようとは思わない。周囲の目が気になるということもあるし、なにより講師に悪い印象を与えたくないからだ。ずるがしこく生きるなら、先生にも良い顔をしなければならない。講師があからさまな咳払いをすると、琴音は少し肩を縮めながらこっちに笑みを向けてきた。苦笑を返して周囲を見渡せば、おおかたの男性は琴音をこっそり見ようとしていたが、完全にバレバレだった。女性はというと、睨むわけでもなく、ただただ後ろからじいっと琴音を見ていた。その視線は液体窒素よりも冷たく、頬を掻いて講義に意識を向けた。日本トップの大学にも、こういうくだらない輩がいることを入学して知り、どこにでもいるんだなと、私は浅く息を吐いてしまう。
「ちょっと待ってて」
講義が終わったとたんに琴音はそう言い残し、講師の下へと駆け寄っていった。琴音はほとんど毎回講師に聞きに行く。少し時間かかるだろうからゆっくり帰り支度をしていると、背後から足音が近づいてきた。
「凛ちゃん、これから学食行くんだけど、いっしょに行かない?」
同じ学科の本田たちが声をかけてきて、とりあえず笑みを繕った。本田たちとは比較的関わるほうで、琴音を除いて学科内では一番話す。とはいっても仲が良いというわけでもなく、一人にならないための予防線のようなものだった。このメンバーと昼食となると、琴音といっしょにいられなくなってしまう。さっきの態度だけでもありありと分かるように、本田さんたちは琴音を毛嫌いしていた。なぜなら可愛いくてモテる上に、講師にまで媚びを売っていると思われているからだ。でも琴音にそんなつもりは毛頭なく、単純に理解できなかったところを知りたいだけ。私には分かるけど、周囲は違う。琴音のことを容姿だけで決めつけている。でも現実そんなもので、純粋で周りの空気に合わせない天然で、くわえて学校一の美女ともなれば、よく思われないのは当然の結果と言える。琴音に以前、「毎回聞きにいかなくても良いんじゃない?」とうっかり否定的なことを言ってしまったことがある。でも「せっかく学べる機会があるんだから、もったいないよ」と答えた。この日からたぶん、私は琴音にずるがしこく接しなくなったんだと、振り返ってみて思った。
だから琴音か本田たちのどちらを選ぶかなんて、答えは明白だった。私は顎に指を添え、悩んでいる素振りを見せながら本田たちに視線を遣った。
「琴音もいっしょだけど、どうする?」
誘いを断りたいが、決して否定はしない。ずるがしこく、本田さんたちとの関係も壊さないように、あえて判断を委ねてみる。すると本田さんたちは互いの顔を見合いながら、「今日はやめとこっか」ということに決まったらしく去っていった。すれ違いざまに琴音に冷めた視線を向けていたけど、琴音は全く気にせずこっちまで来た。
「今日、マティスに行かない?」
「おっけー」
イチョウ並木を超えて、かの有名な朱門を抜け、交差点を渡ってすぐにある、喫茶マティスに私たちは足を運んだ。おじさんの顔をかたどった木の看板と、レンガをモチーフにした白黒に光る看板を橙色の街灯が照らし、落ち着いた外観にカジュアルが少し入り混じっていた。喫茶マティスの歴史は古いらしく、初代店長はそんなこと考えていないだろうけど、店の造りは今の流行りに沿っているように思えた。
敷居を跨げば柔らかなこげ茶色の内装と、皺をいくつも作った優しい笑顔の女性に出迎えられ、私たちは二階に案内された。コーヒーカップ型にくりぬかれた椅子の背もたれを引き、腰掛ける。少し年季の入った雰囲気はおばあちゃんの家にいるみたいで、私たちはセイロン風カレーを二つ頼んだ。といっても、喫茶マティスの食事メニューはセイロン風カレー一つしかない。知らないうちに深く空気を吸い、ゆっくり息を吐いていた。少し年季の入った雰囲気が昭和にタイムスリップしたみたいで、まだ生まれてはいなかったけど、懐かしさに浸ってしまった。
壁一面に絵が飾られていて、趣味程度でしか絵は描いていなくても、プロの画家の仲間入りした、そんな贅沢な気分になれる。ネットで『マティス』と検索して偶然を見つけたのだが、千八百年代にアンリ・マティスというフランスの画家がいたらしい。この店には絵が飾ってあるし、マティスという名前も創業時の店長がアンリ・マティスのファンだったから使ったのかとも思ったけど、それは定かではない。でもきっと、絵が好きだったのは間違いないはず。だから琴音も、喫茶マティスによく誘ってくるのだろう。そう思うのは、やはり私にとって、琴音といえば絵だったからだ。
五分ぐらいすると福神漬けとらっきょうがまず来て、その後にごろりと大きなジャガイモが印象的なセイロン風カレーがテーブルに並べられる。琴音は傍から分かるくらいに目を輝かせていて、私は琴音の着ている白いビックシャツに指をさす。琴音は下を向いて首を傾げ、私は唇の片端を上げた。
「服、汚さないようにね」
「大丈夫だよ、子どもじゃあるまいし」
唇を尖らせて言うものの、案の定、一口目から琴音は服に茶色い染みをつけた。それに気づいた琴音は目じりを下げて、こっちに目を据えてきた。私は肩をすくめて琴音の側まで寄り、裏時からぽんぽんとおしぼりを当ててから、表のほうも軽く拭き取る。少しだけマシになって、琴音は太陽の笑みを浮かべて「ありがと!」と言った。釣られて笑みになってしまい、照れ隠しに琴音の頭を撫でた。互いに食べ終えると、食後についてくるコーヒーが出てきた。口に残った仄かな香辛料をすっきりとした苦みで包み込まれ、口臭ケアにもちょうど良かった。琴音もコーヒーを飲んでいたけど、口に含むたびに渋い表情になっていた。少し面白くもあったけど私は口を開いた。
「砂糖とか入れたら?」
「良いの。せっかく凛ちゃんと来たんだから、同じの飲みたいからね」
琴音はコップを両手で握りながらかぶりを振り、おそるおそるコップに口をつけ、顔を歪ませる。でも、飲み切ると春の陽だまりみたいな笑みに生まれ変わる。
琴音は平然と、胸を鷲掴みにする言葉やしぐさを零す。それが私みたいに天然だと理解している人間だったら良いのだけれど、そうではない人には可愛い子ぶっていると勘違いされてしまう。男にやったらなおさらだ。とたんに恋に落ち、それが原因でさらに女の敵が増えていく。そんな悪循環が、琴音の周りでは起きている。だから私以外の友達は少なくとも東大内にはいない。
魅力があるゆえ無意識に、周囲へ影響を与えてしまう。私も少しは被っている。たとえば、琴音に一目ぼれした男性に仲を取り持つようせがまれることが多々ある。『直接話しかけたほうが良いと思いますよ?』と受け流してはいるけど、正直何度もあると面倒だと感じるときもある。けどそれを覆すほど、琴音との時間は有意義で、心を癒してくる。唯一、ずるがしこくしなくて良い、気楽に過ごせる存在。
だから私は思う。この時間を大切にしたい。
これから先、琴音の無意識に侵されようとも。
欠伸は脳を冷やすために行われる、そんなことをテレビを見て知った。人間は脳の温度が下がっていると眠くなるが、眠ってはいけないと考えると脳の温度を無理やり上昇させる。しかし脳の温度は三十九度以上になると脳細胞が死んでしまうため、それを抑えるべく欠伸をする。欠伸をすると吸い込んだ空気で血管が冷やされ、脳に冷えた血液が送られるという。だから欠伸をすることは悪いことではなく、少なくとも起きようという意思は働いているということだ。
「ふあぁ~」
となりから間抜けな音が聞こえて見遣ると、琴音は体を伸ばしながら豪快に口を開けていた。欠伸は悪いことではない。といっても豪快に欠伸をしようとは思わない。周囲の目が気になるということもあるし、なにより講師に悪い印象を与えたくないからだ。ずるがしこく生きるなら、先生にも良い顔をしなければならない。講師があからさまな咳払いをすると、琴音は少し肩を縮めながらこっちに笑みを向けてきた。苦笑を返して周囲を見渡せば、おおかたの男性は琴音をこっそり見ようとしていたが、完全にバレバレだった。女性はというと、睨むわけでもなく、ただただ後ろからじいっと琴音を見ていた。その視線は液体窒素よりも冷たく、頬を掻いて講義に意識を向けた。日本トップの大学にも、こういうくだらない輩がいることを入学して知り、どこにでもいるんだなと、私は浅く息を吐いてしまう。
「ちょっと待ってて」
講義が終わったとたんに琴音はそう言い残し、講師の下へと駆け寄っていった。琴音はほとんど毎回講師に聞きに行く。少し時間かかるだろうからゆっくり帰り支度をしていると、背後から足音が近づいてきた。
「凛ちゃん、これから学食行くんだけど、いっしょに行かない?」
同じ学科の本田たちが声をかけてきて、とりあえず笑みを繕った。本田たちとは比較的関わるほうで、琴音を除いて学科内では一番話す。とはいっても仲が良いというわけでもなく、一人にならないための予防線のようなものだった。このメンバーと昼食となると、琴音といっしょにいられなくなってしまう。さっきの態度だけでもありありと分かるように、本田さんたちは琴音を毛嫌いしていた。なぜなら可愛いくてモテる上に、講師にまで媚びを売っていると思われているからだ。でも琴音にそんなつもりは毛頭なく、単純に理解できなかったところを知りたいだけ。私には分かるけど、周囲は違う。琴音のことを容姿だけで決めつけている。でも現実そんなもので、純粋で周りの空気に合わせない天然で、くわえて学校一の美女ともなれば、よく思われないのは当然の結果と言える。琴音に以前、「毎回聞きにいかなくても良いんじゃない?」とうっかり否定的なことを言ってしまったことがある。でも「せっかく学べる機会があるんだから、もったいないよ」と答えた。この日からたぶん、私は琴音にずるがしこく接しなくなったんだと、振り返ってみて思った。
だから琴音か本田たちのどちらを選ぶかなんて、答えは明白だった。私は顎に指を添え、悩んでいる素振りを見せながら本田たちに視線を遣った。
「琴音もいっしょだけど、どうする?」
誘いを断りたいが、決して否定はしない。ずるがしこく、本田さんたちとの関係も壊さないように、あえて判断を委ねてみる。すると本田さんたちは互いの顔を見合いながら、「今日はやめとこっか」ということに決まったらしく去っていった。すれ違いざまに琴音に冷めた視線を向けていたけど、琴音は全く気にせずこっちまで来た。
「今日、マティスに行かない?」
「おっけー」
イチョウ並木を超えて、かの有名な朱門を抜け、交差点を渡ってすぐにある、喫茶マティスに私たちは足を運んだ。おじさんの顔をかたどった木の看板と、レンガをモチーフにした白黒に光る看板を橙色の街灯が照らし、落ち着いた外観にカジュアルが少し入り混じっていた。喫茶マティスの歴史は古いらしく、初代店長はそんなこと考えていないだろうけど、店の造りは今の流行りに沿っているように思えた。
敷居を跨げば柔らかなこげ茶色の内装と、皺をいくつも作った優しい笑顔の女性に出迎えられ、私たちは二階に案内された。コーヒーカップ型にくりぬかれた椅子の背もたれを引き、腰掛ける。少し年季の入った雰囲気はおばあちゃんの家にいるみたいで、私たちはセイロン風カレーを二つ頼んだ。といっても、喫茶マティスの食事メニューはセイロン風カレー一つしかない。知らないうちに深く空気を吸い、ゆっくり息を吐いていた。少し年季の入った雰囲気が昭和にタイムスリップしたみたいで、まだ生まれてはいなかったけど、懐かしさに浸ってしまった。
壁一面に絵が飾られていて、趣味程度でしか絵は描いていなくても、プロの画家の仲間入りした、そんな贅沢な気分になれる。ネットで『マティス』と検索して偶然を見つけたのだが、千八百年代にアンリ・マティスというフランスの画家がいたらしい。この店には絵が飾ってあるし、マティスという名前も創業時の店長がアンリ・マティスのファンだったから使ったのかとも思ったけど、それは定かではない。でもきっと、絵が好きだったのは間違いないはず。だから琴音も、喫茶マティスによく誘ってくるのだろう。そう思うのは、やはり私にとって、琴音といえば絵だったからだ。
五分ぐらいすると福神漬けとらっきょうがまず来て、その後にごろりと大きなジャガイモが印象的なセイロン風カレーがテーブルに並べられる。琴音は傍から分かるくらいに目を輝かせていて、私は琴音の着ている白いビックシャツに指をさす。琴音は下を向いて首を傾げ、私は唇の片端を上げた。
「服、汚さないようにね」
「大丈夫だよ、子どもじゃあるまいし」
唇を尖らせて言うものの、案の定、一口目から琴音は服に茶色い染みをつけた。それに気づいた琴音は目じりを下げて、こっちに目を据えてきた。私は肩をすくめて琴音の側まで寄り、裏時からぽんぽんとおしぼりを当ててから、表のほうも軽く拭き取る。少しだけマシになって、琴音は太陽の笑みを浮かべて「ありがと!」と言った。釣られて笑みになってしまい、照れ隠しに琴音の頭を撫でた。互いに食べ終えると、食後についてくるコーヒーが出てきた。口に残った仄かな香辛料をすっきりとした苦みで包み込まれ、口臭ケアにもちょうど良かった。琴音もコーヒーを飲んでいたけど、口に含むたびに渋い表情になっていた。少し面白くもあったけど私は口を開いた。
「砂糖とか入れたら?」
「良いの。せっかく凛ちゃんと来たんだから、同じの飲みたいからね」
琴音はコップを両手で握りながらかぶりを振り、おそるおそるコップに口をつけ、顔を歪ませる。でも、飲み切ると春の陽だまりみたいな笑みに生まれ変わる。
琴音は平然と、胸を鷲掴みにする言葉やしぐさを零す。それが私みたいに天然だと理解している人間だったら良いのだけれど、そうではない人には可愛い子ぶっていると勘違いされてしまう。男にやったらなおさらだ。とたんに恋に落ち、それが原因でさらに女の敵が増えていく。そんな悪循環が、琴音の周りでは起きている。だから私以外の友達は少なくとも東大内にはいない。
魅力があるゆえ無意識に、周囲へ影響を与えてしまう。私も少しは被っている。たとえば、琴音に一目ぼれした男性に仲を取り持つようせがまれることが多々ある。『直接話しかけたほうが良いと思いますよ?』と受け流してはいるけど、正直何度もあると面倒だと感じるときもある。けどそれを覆すほど、琴音との時間は有意義で、心を癒してくる。唯一、ずるがしこくしなくて良い、気楽に過ごせる存在。
だから私は思う。この時間を大切にしたい。
これから先、琴音の無意識に侵されようとも。