愛理沙が家に来る前に、家のゴミを集めて45ℓの半透明のゴミ袋へ詰めて、アパートのゴミ置き場へ捨てる。ダイニングテーブルのゴミや、キッチンのゴミ、部屋に散らかっているゴミを集めるだけで一苦労だった。
それでもなんとか部屋から全てのゴミを追い出すことができた。
100均で雑巾を買ってきて、水道の水で雑巾を濡らして、白く埃が被っている部分を丁寧に拭いていく。
白く埃の被った所の全てを濡れ雑巾で拭いていく。これだけでもかなりの重労働だ。テーブルの上、洗面所、キッチン、トイレ、埃のある所はとにかく全て拭いていった。
そして段ボールの中から掃除機を取り出して、コンセントに電源を差して、コードを長く伸ばしてスイッチを入れて掃除機をかける。部屋の中が段ボールまみれなので、ゆっくりと丁寧に掃除機をかける。
ダイニングの床がきれいに光り出した。これで愛理沙を部屋の中へ入れることができる。
休日になる前の日は、夜遅くまで、ゴミ捨て、雑巾がけ、掃除機と格闘し、自分では一応は部屋全体をきれいにできたと自負している。明日の休日は愛理沙が部屋へ来るので緊張が走る。
今から段ボールの荷物をほどいている時間はない。段ボールはそのまま積み上げておけばよいだろう。
段ボールを部屋の隅へ積み上げて、ベッドの置いてある部屋にも少しスペースができた。
これで明日は乗り切ろう。おかげで毎日、日課にしている夕暮れの公園には間に合わなかった。
その日の夜に心配した愛理沙からLINEで連絡が入った。
学校から帰ってきてから掃除をしていたことを明かす。
《そんなに気合を入れて掃除をしなくてもいいのに。片付いていなかったら一緒に片付けするよ》
《ありがとう。まだ部屋の中は段ボールの荷物でいっぱいなんだ。一応は片付けたんだけどね》
《それは明日、私が部屋へ行ってから考えましょう。今度から公園に来れない時は連絡をちょうだいね》
《ああ、わかった。今日は公園に行けなくてゴメンな。明日の14時に公園で待ち合わせしよう》
今日は公園に行けなかったことで、愛理沙に心配をかけてしまった。明日の待ち合わせ時間はきちんと守ろう。目覚まし時計を12時に合わせて、ジャージの上下に着替えてベッドの中へ入る。
◇
昼の12時にアラームの通りに起きて、シャワールームで体と髪を洗って、髪を乾かす。もちろん歯もキッチリと磨いている。私服に着替えて公園まで歩いて行くと、待ち合わせ時間の30分前だというのに、愛理沙はブランコに座って待ってくれていた。
今日の愛理沙は上からMA-1を羽織って、薄緑色のニットのカットソーにダメージデニムを履いている。とても似合っている。
「あれ? 待ち合わせ時間は14時だったよね?」
「いいの。私が公園で風景を眺めていたかっただけだから。涼こそ早かったね。」
実は愛理沙との待ち合わせ時間まで、涼も公園から風景を眺めてまっているつもりだった。
「涼のアパートまで行こう」
愛理沙がワクワクした顔で微笑んでくる。そんなに良いアパートではないので恥ずかしい。
「それじゃあ、行こうか」
涼の家は公園から、もう少し坂を上った所にある小さなアパートだ。涼の部屋は2階の端にある。
愛理沙は少し重そうに大きな紙袋を持っている。
「その紙袋、俺が持つよ」
紙袋を愛理沙から受け取って、2人でゆっくりと坂を上がってアパートへ到着した。2階へ登って、部屋の前に到着すると、部屋の鍵を開けて涼が先に玄関の中へ入る。愛理沙は涼の後ろに続いて玄関へ入る。
ダイニングは段ボール積み上げられているだけで、小さなダイニングテーブルが置かれてきちんと整えられている。涼にはそう見える。
ベッドの置いてある部屋も段ボールが積まれているが、愛理沙が座るスペースは作られている。涼はそのつもりでいる。
部屋へ入るとダイニングテーブルの上に置いた紙袋の中からエプロンを取り出して、愛理沙がMA-1を脱いで、エプロンを付けて、ストレートロングの黒髪をゴムで結い留めてポニーテールにする。
ポニーテールにするときれいなうなじが見えて、涼をドキッとさせる。
「昨日、頑張って掃除したのは認めるけど、まだまだ掃除が甘いわね。後、段ボールの荷物を出さないと、いつまで経っても片付かないわ」
「それは、また今度するよ。愛理沙はゆっくりしてくれればいいから」
「私、お掃除と片付けが得意なの。昨日から楽しみにしていたの。やりがいがある部屋で期待どおり」
紙袋の中からは、あらゆる洗剤がテーブルの上に置かれる。最初から愛理沙は掃除をし直すつもりだったようだ。愛理沙が嬉しそうに準備を進めているので、邪魔をしてはいけない。
「涼、段ボールのフタを開けて、中身を確かめて。服などは自分でクローゼットへ片付けてね」
涼は段ボールの中を確かめて、愛理沙に段ボールの中身を報告する。愛理沙はその都度、置き場所を決めて、段ボールの中身を外へ置いていくように涼に指示する。涼は指示された通りに置いていく。
中身がなくなった段ボールは畳んで玄関に立てかけられていく。
愛理沙はポニーテールを揺らしながら、段ボールから出てきた食器をスポンジできれいに洗う。
涼は段ボールの中に入っていた、自分の洋服をクローゼットとタンスへ片付ける。
愛理沙の指示もそうだが、手さばきも器用で、手早い。食器は洗った後に手早く布巾で拭かれて、ダイニングの食器棚に並べられていく。
愛理沙の機嫌は絶好調のようだ。鼻歌まで歌っている。こんな嬉しそうな愛理沙を見たのは初めてだ。
「今日はどんどん片付けようね」
「ああ、今日は頑張ろう」
嬉しそうに愛理沙は涼を見て微笑みとこぼす。つられて涼も笑顔になる。
愛理沙が上機嫌であるなら、それで良い。今日は愛理沙に付き合うことに決めた。
食器棚の中は愛理沙が綺麗に拭いた食器でいっぱいになった。
自分の部屋にこれだけの食器があることに涼は驚いた。
段ボールは見る間に空になって、玄関に畳んで置かれていく。
段ボールは1つだけ残して、全てが玄関に置かれている。
愛理沙と涼は濡れ雑巾で、ダイニングは愛理沙が担当し、私室は涼が濡れ雑巾で壁や床を拭いていく。
愛理沙の手が届かない照明器具については涼が担当して濡れ雑巾できれいに拭いていく。
その後に愛理沙は掃除機の電源を差し込んで、コードを長くして掃除機のスタートボタンを押して、ダイニングと部屋の掃除にとりかかる。
さすがに愛理沙にトイレの掃除をさせることはできない。愛理沙が気付かないうちに涼はこっそりとトイレ掃除をしたが、愛理沙にバレた。
「トイレ掃除にはコツがいるの。後で私もトイレ掃除をするわ」
「それはちょっと……してもらい過ぎというか……申し訳ないというか……」
「私がやりたいって言ってるんだから、任せてね」
初めて家に来た女子にトイレ掃除まで手伝ってもらうなんて、考えただけでも涼は顔を赤らめる……とても恥ずかしい。
愛理沙がトイレ掃除を終えた頃には、涼も愛理沙も体中、埃と汗にまみれていた。
「涼、これからお風呂掃除をするから。ついでに私もシャワーを借りてもいいかしら」
「はい? ……どうぞ、シャワーを使ってください……」
「ありがとう。お先にシャワーを浴びるわね」
涼の家には脱衣所がない。急いでふすまを閉めて、ダイニングを見えないようにする。ダイニングから愛理沙が服を脱ぐ音が聞こえる。
涼も普通の一般の男子だ。ふすま1枚向こうで美少女が着替えをしていると思うと、どうしてもイメージしそうになる。そのイメージを頭から急いで追い出す……体が妙に緊張して、背筋がピンとなる。
「ガチャ……バン」
愛理沙が風呂場に入っていった音が聞こえた。ダイニングに愛理沙が脱いだ服が置いてあると思うだけで、涼の体に緊張が走る。
「俺は何をやってんだ」
涼は体の力を抜いてベッドに寝そべって呟いた。目の隅に1つだけ残された段ボールが見える。
涼はベッドから体を起こして、段ボールの前に立つと、段ボールのフタを開ける。
中には現在風のおシャレな仏壇が入っている。この仏壇を見るのも1カ月ぶりぐらいだ。涼はこの仏壇が嫌いだ。あの事故のことを思い出してしまうから。
できれば、三崎さんの家に置いていきたかったが、三崎さんに断られてしまった。できれば涼の見える所に置きたくない。
涼は思わず、段ボールのフタを閉めて、自分のベッドに身体を横たえる。
「ガチャ……バン」
愛理沙が風呂場からあがってきた。バスタオルを使って、体を拭いている音がする。その音を聞いて、涼は顔を真っ赤にして、枕に顔を押し当てる。
「お風呂場、きれいに掃除しておいたから。いいシャワーだったわ。体がスッキリ。ありがとう。涼も入ったら?」
愛理沙はきれいに着替えて髪の毛をバスタオルで結っている。頬が上気してピンク色に染まっていて、とても色っぽい。そして愛理沙の体から石鹸とシャンプーの良い香りが漂ってくる。
涼は自分の顔を赤くなるのを自覚する。このままでは愛理沙に見つかってしまう。
「俺もシャワーに入ってくるわ」
愛理沙が涼のベッドの端に座る。涼はタンスからバスタオルを出して、慌ててふすまを閉めて、服を脱いで風呂場へと入っていく。
体を洗って、髪の毛を洗う。埃と汗で気持ち悪かったが、シャワーを浴びただけで体がスッキリとした。
風呂場を見回すと、きちんと掃除されていて、ピカピカに光っている。
愛理沙は本当に掃除と片付けが上手だ。
バスタオルで体を拭いて、服を着てふすまを開けると、段ボールの中に仕舞ってあった仏壇が外に出されて、愛理沙がロウソクを灯して、線香をあげ、手を合わせていた。
そして涼がふすまを開けたのを知ると、伏せていたまぶたを開けて、振り向いて涼を見る。
「どうして仏壇だけ段ボールに入れっぱなしにしてるの? どうして涼が仏壇なんて持ってるの?」
「仏壇は見たくなかったから、段ボールに入れていた。それは俺の死んだ家族の仏壇なんだ」
それを聞いた愛理沙は顔を青くして口元を両手で押える。
「愛理沙には言ってなかったけど……俺の家族は他界してるんだ。そして親戚もいない。だから高校に入るまで楓乃の家でお世話になっていた」
「――――そうだったの。訳を聞いてもいい?」
「ゴメンだけど、言いたくない。思い出したくないんだ」
もう一度、仏壇の真正面に座り、愛理沙は黙ったまま、しばらくの間、目を伏せて手を合わせていた。
愛理沙は人の心の傷に敏感だ。仏壇をみせてはいけなかったと涼は後悔した。
涼がベッドの端へ座っていると、愛理沙は仏壇の前から立ち上がって、涼と少し距離を開けてベッドに座った。
「実は、私の両親も他界してるの……だから親戚の家に引き取られて、そこで暮らしているの」
愛理沙は俯いたまま小さな声で呟いた。声が震えている。目にも涙が溜まっているようだ。
両親の他界がトラウマで愛理沙は人が苦手になったのか……
愛理沙が自分と似たような境遇にあるとは涼は思いもしなかった。
「親戚の家に私の両親の仏壇はないの……親の形見は、このピンクダイヤのネックレスだけなの」
愛理沙がネックレスを大事にしていたのは知っていたが、そういう訳があるとは思わなかった。
「これから、涼の家に来て、仏壇に手を合わせてもいい? 私、仏壇に手を合わせたいの……」
「うん。いいよ……愛理沙の好きにしていい」
「……ありがとう」
愛理沙は本当は自分の両親の仏壇に手を合わせたいのだろう。しかし仏壇がないから手を合わせられない。
家の仏壇で良ければ手を合わせてくれてもいいと涼は思った。
「前にも話した通り、私は人が苦手なの……でもすごく寂しいの。夜になると寂しくてたまらなくなるの」
「そうだったのか……俺で良ければ連絡しておいでよ。朝まででも愛理沙に付き合うから」
連絡を取り合うだけで、愛理沙の寂しさを埋められるとは思わない。
でも少しでも寂しさを紛らわせることができるなら力になりたいと思う。
「毎晩……連絡するね」
愛理沙は涼に聞こえるギリギリの小さな声で呟いた。
思わず、涼は愛理沙の体をギュッと抱きしめた。
愛理沙は慌てて、涼の手から逃れて、少し距離を取ってベッドに座る。
「涼……大丈夫だから……ビックリした」
「ゴメン、気が付いたら、愛理沙のことを抱きしめていた」
「涼は私の気持ちを気にしてくれたのね……もう大丈夫だから……涼は優しいね」
「そんなことないよ」
愛理沙は立ち上がってダイニングに置いてある冷蔵庫の中を見る。
冷蔵庫の中には食べ物も飲み物も何も入っていない空の状態だった。
「今までどうやって食事をしてきたの? まったく冷蔵庫に食品が入ってないよ」
「――――コンビニ弁当―――」
「それだと栄養が偏るわよ。今日は私が料理を作ってあげるから、一緒に夕食を食べましょう」
そう言って、愛理沙はダイニングテーブルにかけていたMA-1を着る。涼も慌てて上着を着て、家に鍵をかけて愛理沙の後を追う。
隣へ到着すると、愛理沙が顔を赤くして、照れて俯いている。
「涼……さっきの私の過去の話は忘れてね。私、同情されるの嫌だから」
「うん……愛理沙がそういうなら忘れる。俺が覚えていると愛理沙も辛くなるから……」
「さっき、愛理沙を抱いたのはゴメン」
「そのことも忘れよう。もう気にしてないし」
2人で高台にあるスーパーに向かったゆっくりと歩く。既に空は夕焼けになっていて、陽光が辺りを真っ赤に染めている。2人は隣に並んでゆっくりと歩調を合わせてスーパーへ向かう。
その間、2人は恥ずかしさと照れもあって、お互いに顔を合わせることもできなかった。
スーパーに入って涼がカゴをカーゴの上に置いて押す。愛理沙はカーゴの前を持って進路を決める。
手慣れた手つきで、愛理沙が食材をカーゴの中へ入れていく。
「今日はハンバーグとカレーライスでいい? 今の時期なら、カレーだったら日持ちするから」
「ありがとう。そこまで考えてくれたんだ……愛理沙も優しいね」
「別に私は、いつも家でしていることを、涼の部屋でするだけよ。優しくなんてない」
「そう……ありがとう」
涼は愛理沙に見つからないようにコーヒーの缶とミルクティのペットボトルをカゴの中へ入れる。
愛理沙も今まで何も飲んでいないから、喉が渇いているだろう。
涼の家までの帰り道に一緒に愛理沙と飲もうと思う。
愛理沙は涼の部屋に足りない、食器洗剤や、各種洗浄洗剤もカゴの中へ入れる。一緒に愛理沙がスーパーに来てくれて助かった。涼だけではそこまで気が回らなかった。
「涼、家で足りないものはスーパーに来れば、だいたいの物が揃うから、スーパーを活用するのよ。夕飯もスーパーのお弁当のほうが安いし、サラダは毎日食べてね」
「そうするよ。ありがとう」
レジで精算をして、荷物を大きなビニール袋2つに入れる。
そしてスーパーから出て、涼の家へと向かう。既に太陽は半分以上沈み、時間は夕暮れになっていた。
今日は公園で愛理沙と一緒にいる時間はなさそうだ……そのことが残念だ。
「1つ袋を持つ」
「いいよ。重いし……これぐらいは俺にさせてくれよ」
「うん」
涼はレジ袋からコーヒーの缶とミルクティのペットボトルを取り出して、愛理沙へミルクティのペットボトルを渡す。
そして、自分はコーヒの缶のプルトップを開けて、一口、コーヒーを飲む。愛理沙は嬉しそうに涼を見て、ミルクティのペットボトルのフタを開けて、コクコクと美味しそうに飲んでいる。
「ありがとう、喉が渇いていたの」
「愛理沙には掃除をしてもらったからね。少しだけど感謝の気持ち」
「――――ありがとう」
2人で夕暮れの道を涼の家まで歩く。気温が下がってきて、風が体に気持ち良い。愛理沙はMA-1を着ているので寒くなさそうだ。
涼の部屋へ戻ってきてから、愛理沙はMA-1を脱いで椅子にかけて、エプロンを付けて料理の支度を始める。涼は料理をしたことが一度もない。だから何を手伝って良いのかもわからない。
手際よく料理をこなしていく愛理沙をずっと見ていると、振り返った愛理沙が困った顔をする。
「そんなに料理をしている姿をじっと見られていたら恥ずかしいわ。ベッドで座って待ってて」
「ゴメン……つい、料理を作る速さに見惚れていた。愛理沙って料理が上手いんだな」
「私なんて普通よ。毎日しているから手慣れているだけよ」
そうか……愛理沙は毎日、料理をしているのか。
でも……親戚の家に引き取られているのに、毎日、料理を作っているのはおかしくないか?
愛理沙に質問してみたいが、部外者の涼が質問しても、心の距離が近すぎる。たぶん愛理沙は答えないだろう。
「わかった。ベッドでおとなしく待ってるよ。料理、期待してるね」
「任せて。毎日、料理をしているから、料理には少し自信があるの」
「うん」
涼は素直に従って、ベッドに身体を横たえる。考えるのは愛理沙のこと。
掃除も片付けも得意。毎日、料理もしている。普通に聞けば、すごい家庭的な女子と考えることもできる。
しかし、愛理沙は親戚の家に引き取られている……毎日の料理も、片付けや掃除も必要だろうか。
何か涼の心の中で、愛理沙の言葉に違和感を感じる。
しかし、愛理沙に聞いても正直には答えてくれないだろう。
愛理沙が自分から答えを言ってくれるまで待つしかない。
愛理沙の言葉に疑問があるからと言って、心に不用意に近付くのは、愛理沙の嫌うことだ。それは止めておいたほうがいい。
涼はこれからも愛理沙を注意深く見守っていこうと思った。
「涼、できたわよ」
「おお―――できた! 楽しみだな……ありがとう」
椅子に座ると、ダイニングテーブルの上にはハンバーグ、野菜サラダ、カレーライス、ミネラルウォーターが置かれていた。いろどりもきれいで美味しそうだ。
向かいの席にはエプロンを取った愛理沙が座って、涼を見て嬉しそうに微笑んでいる。
「食べてみて。感想をききたいの」
「うん」
ハンバーグに箸を入れて割ると肉汁が皿に広がる。一口食べると、肉汁がジュワっと口の中で広がる。
そして野菜サラダを食べる。ドレッシングが美味しく、口の中で野菜がシャキシャキいう。
カレーを一口食べると、涼の好きな中辛な味付けになっている。とても美味しい。
「ハンバーグも野菜サラダも美味しい。カレーは最高だね。俺好みの味付けだよ」
「よかった。たくさん食べてね。おかわりはあるから」
「うん」
愛理沙が嬉しそうに微笑んで、自分も料理を食べていく。
静かな食事……でもとても暖かくて、穏やかな食事の時間が流れていく。
料理を食べて、目の前の愛理沙の顔を見ると、常に愛理沙は涼を見て嬉しそうに笑顔を浮かべている。
「楽しい食事だ……少しの間、こんな食事を食べていなかったよ」
「私も今日の食事はすごく楽しい。また夕食を作ってあげるね」
「――――ありがとう」
2人は笑顔で時々見つめあって、微笑んでは、食事を楽しむ。
穏やかで楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。
「あ……私、もう帰らないと……ちょっと時間を過ぎちゃった」
「そうなんだ……わかった。帰り道は俺が送って帰るよ」
「家の近くまで送って。途中で少しだけ公園で休んでもいい?」
「愛理沙の好きにすればいいよ。後片付けへ俺がきちんとしておくから安心して」
「本当?」
「本当。任せて」
2人で食事を食べ終えて、愛理沙はMA-1を着て、エプロンを紙袋の中へ片付けて、紙袋を持つ。
部屋に鍵をかけて、愛理沙を歩いて送っていく。
途中で愛理沙の持っていた紙袋を涼が持つ……洗剤などが入っているから、少し重い。
「本当はね。もう少しだけ涼の部屋に居たかった」
「うん。愛理沙だったらいつでも遊びに来てもいいよ」
愛理沙は顔を赤くして、俯きながら小さな声で呟く。
「夜……連絡してもいい?」
「いいよ……待ってる」
もう日が暮れて、空一面が星に覆われている。そして月が美しく輝き、地上を照らしている。
涼と愛理沙の2人は、いつもよりも体を近くに寄り添って、いつもの公園へ向かって歩いていく。
涼が愛理沙の彼氏になったことは、瞬く間に学校中へ噂として広まった。
クラスでも涼に嫉妬の視線を向けて来る男子生徒も少なくない。
しかし、学校にいる間は愛理沙と涼の態度に変化はない。
愛理沙から涼へ頻繁に声をかけることもなければ、涼から愛理沙へ頻繁に声をかけることもない。
昼休憩も別々で、愛理沙は弁当だし、涼は学食へ陽太と一緒に食べに行く。
昼休憩の学食はとにかく混んでいる。今日の日替わり定食は唐揚げ定食だ。
食券機で日替わり定食の券を買って、トレイを持って列に並ぶ。
陽太はスタミナ定食の大盛りを選んだようだ。
食堂の調理場から唐揚げ定食の品々がトレイの上に置かれる。食堂におばさんに会釈をして、カウンターから離れる。
空いている席がないか見回して、丁度2つの空席を見つけたので、そこへ向かって歩きはじめると、他の3年生男子と体がぶつかった。もう少しで唐揚げ定食をこぼすところだった。
「どこ見て歩いてるんだ。きちんと前を見て歩けよ。間抜け」
「ああ、ゴメンな。近づいてくるのを見てなかったよ」
「どうして、こんな間抜けが雪野の彼氏なんだ。納得できねーな」
最近、こういう感じで3年生男子達から嫌がらせを受けることがよくある。しかし涼は相手にしないようにしている。
「俺が間抜けだから、愛理沙が世話をしてくれてるんだと思ってる。俺も間抜けで良かったよ」
「お前――俺のことを舐めてんのか」
今日、ぶつかってきた男子のことを思い出した10日ほど前に愛理沙にフラれたばかりの男子生徒だ。
まだ、愛理沙に未練たっぷりなのだろう。涼に対する嫉妬が激しいのも頷ける。
「別に舐めてないし、俺はお前の名前も知らないんだぞ。少しは頭を冷やせよ」
「冷静に話してんじゃねーよ。この間抜け!」
涼が男子生徒に突っかかれている間に、空席だった席が、他の生徒に座られてしまった。席が埋まってしまったことに落胆するが、そんな表情は見せない。
妙な誤解をされたくない。
「止めなさい。2人共。ここは食堂よ。静かにしなさいよ」
きれいな良く通る声が涼の後ろから聞えてくる。
振り返ると濃い茶髪のロングストレートの美少女が立っていた。
倉橋芽衣(クラハシメイ)だ。元生徒会長で美少女でも有名である。
芽衣はスーッと涼に近付くと、涼と男子生徒の間に身体を割り込ませた。
「これ以上、騒いだら、職員室へ行って、問題として取り上げてもらいます」
「チッ」
男子生徒は舌打ちをして、強引に食堂から出ていく。
「助かったよ。会長ありがとう」
「私はもう、元生徒会長よ」
少し吊り上がった目尻、ハッキリした二重、勝気な瞳が印象的だ。キリッとした眉、鼻筋、唇が、生徒会長にとてもよく似合う。
頭脳明晰、成績優秀、嘘が大嫌いな元生徒会長の芽衣は、実は陽太の幼馴染だったりする。その関係で涼も少しだけ芽衣とは面識があった。
「よう芽衣。涼と何を話してんだ?」
陽太がトレイにスタミナ定食大盛を乗せて、涼達の傍まで歩み寄ってくる。
「陽太、あなたがきちんと涼の近くにいないから、涼が3年生男子に絡まれていたじゃないの。陽太は体だけは大きくて、無駄に筋肉を鍛えてるんだから、こんな時ぐらい役立ちなさいよ」
「おう…そうだったのか。芽衣が涼のピンチを助けてくれたのか。芽衣は口は悪いが優しいもんな」
「誰が口が悪いのよ。私の口が悪くなるのは陽太と話している時だけよ。他の人とはきちんと話してるわよ」
「おう…俺だけは幼馴染ということで特別扱いというわけだな。芽衣は小さい時から俺の後を追いかけてきてたもんな。『陽太、遊んでよー』っていつも俺の後ろを追いかけていたもな」
「恥ずかしい昔のことは忘れてよ。そんなだから私は陽太のことが嫌いなのよ」
「俺は芽衣に好かれてると思ってるぞ」
「――――な……何を言ってるよ……バカじゃないの……私が陽太のこと好きなんて……」
いきなり芽衣は顔を真っ赤にして照れて俯いてしまった。陽太はそんな芽衣を見て微笑んでいる。
本当に仲の良い幼馴染だ。
「会長は俺を助けてくれたんだから、陽太もその辺でやめておけよ」
「ああそうだな。芽衣、またな」
芽衣は真っ赤なまま顔をあげて涼をじっと見つめる。
「涼……私から言うことではないかもしれないけど……・愛理沙を守ってあげて。愛理沙は可愛そうな子なの」
「会長は愛理沙のことを少しは知っているのか?」
「高校2年生の時に一緒のクラスだったし、私は生徒会長もしていたから、学生達の家庭の事情も少しは知ってるの。愛理沙の家は複雑なのよ……あまり愛理沙は家では歓迎されていないわ。だから守ってあげて」
愛理沙の家……確か親戚の家に引き取られているって、愛理沙から直接、聞いたけど、親戚との仲は良好ではないのか? 芽衣の言い方を聞いていると何か問題がありそうな気がする。
「会長、愛理沙が引き取られた親戚と愛理沙の仲は上手くいってないのか?」
「私の口からは、これ以上のことは言えないわ。愛理沙も私が勝手に色々なことを言うのは嫌だろうし。でも彼氏が涼になって良かったと思ってる。涼……愛理沙のことを守ってあげてね」
そう言って足早に芽衣は涼達から離れて、食堂から出ていった。
芽衣が言っているのだから、親戚と愛理沙の仲は良好ではないのだろう。
直接、愛理沙に聞いても、愛理沙は教えてくれないに決まっている。
それに愛理沙の心に踏み込み過ぎている。
愛理沙に拒否される可能性も大きい。
親戚と愛理沙の件なので、涼が直接的に触れることもできない。
これからは注意深く愛理沙を見守っていこう。
しかし、愛理沙がツラそうなら、いつかは親戚の家に直接、赴くしかない。
その時、愛理沙の事情の一端を見てしまうことになるかもしれない。
そのことで、心の中へ踏み込んでしまうかもしれない。
その時は素直に愛理沙に謝ろう。
許してくれるかどうかわからないけれど……
涼も人と距離を縮めるのは苦手だが、愛理沙を助けるためなら動くしかない。
涼は心の中で決心を固める。
「何?シリアスな顔をしてんだ。早く定食を食べないと、昼休憩が終わるぞ」
「ああ…そうだな」
涼は陽太の後を追って、食堂の空席に座った。
数日後、愛理沙が顔に大きなバンソウコウを張って登校してきた。
「どうしたんだ? 怪我でもしたの?」
「ちょっと、転んじゃって顔からコケちゃって、そんなに気にするほどの傷ではないの……少しだけ腫れているだけだから」
「傷を見てもいい?」
「バンソウコウ持ってないから。このままにしておいて……本当に大したことないのよ」
美少女の愛理沙の顔に大きなバンソウコウが痛々しい。
クラスの皆も心配そうに愛理沙のほうを見ている。
涼は言葉が見つからずに席に戻って椅子に座る。
すると隣の席の聖香が椅子を寄せてきた。
「また……顔にバンソウコウを張ってきたのね……最近はなかったのに……」
「最近は? 今までにも結構、こんなことがあったのかい?」
聖香は暗い顔をして大きく頷く。
「私、高校2年生の時、愛理沙ちゃんとクラスが一緒だったでしょう。だから愛理沙ちゃんが顔にバンソウコウを張ってくる姿を何回も見かけたの……どうしたの?って聞くと、いつも転んだって、愛理沙ちゃんが言うの」
年に何回も顔からコケたりするだろうか?
普通に暮している者なら1年に1回も顔に怪我をしたりしない。
芽衣の言葉が頭に蘇る。
しかし、愛理沙を引き取った親戚が愛理沙に暴力を振るったと決まったわけではない。一方的に決め付けるのは早計だ。
愛理沙に話してもらうのが一番だが、聖香の話を聞く限り、話してはくれないだろう。
「聖香、2年生の時に愛理沙と同じクラスだったということは芽衣とも同じクラスだったのか?」
「うん。芽衣ちゃんとは私も仲良かったよ」
高校2年生の時に芽衣と愛理沙は同じクラスだ。
芽衣も愛理沙がバンソウコウを張って登校しているのを知っているはず。
生徒会長をしていた芽衣なら、何か知っているかもしれない。
「ちょっと芽衣のクラスまで行ってくる。芽衣のクラスはC組だよな」
「そうだよC組。芽衣ちゃんなら朝早いから、もう登校しているはずだよ」
涼は急いで教室を出てC組に向かう。C組のドアから中を覗くと既に芽衣は登校して席に座っていた。
芽衣の席まで歩いていって声をかける。
「おはよう芽衣。朝からゴメンだけど、少し話を聞いてもらえないか?」
「あら? 涼から私に話しかけるなんて珍しいわね。今ならいいわよ」
「今日…愛理沙が顔に大きなバンソウコウを張って、登校してきた。聖香から2年生と時も愛理沙は顔にバンソウコウを張って登校していたと聞いた。芽衣は何か事情を知ってるか?」
「私も愛理沙に直接、聞いたけど転倒したとだけ毎回聞かされたわ」
「1年に何回も顔から転倒する人っていないよな……当然、芽衣は不思議に思ったよな。疑ったはずだよね」
それまで真直ぐに涼の瞳を見ていた芽衣が顔をそらす。
この仕草は、芽衣が何かを知っている証拠だ。
あまり他人の心の中へ入っていきたくはないが、今はそんなことを言っている場合ではない。涼は心の中で芽衣に謝る。
「芽衣のことだから、何か対策をしたよね……誰にも言わないから教えてほしい。俺も一応は愛理沙の彼氏なんだ。どうしても気になる」
「仕方ないわね。2年生の時に担任の先生に家庭訪問してもらったわ……でも、結果は門前払いされただけ。愛理沙の親戚は、まともに話そうとしなかったって……担任の先生が愚痴をこぼしてたわ」
「そうか…愛理沙の家庭環境はあまり良くなさそうだな」
「愛理沙には私が涼に話したことは内緒にしてよ。愛理沙とは仲良くしたいんだから」
「ああ、わかった。できるだけ内緒にする。今はそれしか言えない……その代り陽太とのことは応援する」
急に芽衣の顔が真っ赤に染まる。耳まで真っ赤になっている。
「それはどういう意味かわからないわ。意味はわからないけど、私の味方をしてくれるのは嬉しいわ。陽太には何も言わないでよ……すぐにからかわれるんだから」
「ああ…わかった。ありがとう」
芽衣と別れて、3年C組を出て、自分のクラスである3年A組へと戻って、自分の席に座る。すると聖香が涼の席へと体を寄せる。
「芽衣ちゃんから話は聞けた? 何か詳しいことを知ってた?」
「いや…聖香と同じ情報しか、芽衣も持っていなかったよ」
聖香には申し訳ないが芽衣との約束がある。皆に言うわけにはいかない。
「そっか……残念だったね」
聖香は優しく微笑んで、体を離して自分の席に座り直す。
1限目が終わるチャイムが鳴った。
◇
放課後、いつもの公園で愛理沙と2人で夕陽を眺めている。
2人共、無言だ。
今日の愛理沙は何か、涼に対して心の距離を取ろうとしているように感じる。
顔のバンソウコウのことを聞かれたくないのだろう。
愛理沙を苦しめたくないので、もちろん涼はそのことについて朝から触れていない。
夕暮れの太陽が沈んでいき、段々と赤く染まっていた空が夜へと変化し始める。
明るく輝く星がいくつも空に浮かび上がってきた。
愛理沙は一旦、家に帰って私服でブランコに座っている。
涼はアパートには帰らず、公園で考え事をしていたので、制服そのままだ。
ベンチから立ち上がって、自販機でコーヒーとミルクティを買って、ブランコに座っている愛理沙へ無言でミルクティを渡す。
愛理沙も無言でミルクティの缶を両手で握って手を温める。
ベンチに座ってプルトップを開けてコーヒーを一口飲む。体が少し温まる。
愛理沙はミルクティを一口飲んで、息を大きく吐く。
「ああ……今日は少し遅くまで外にいたいな」
「俺だったら、いつまででも付き合うよ」
「うん…ありがとう」
また2人の間に沈黙が流れる。
すると愛理沙が立ち上がって、涼の目の前に立つ。
「何も聞かないでくれて、ありがとう……涼と2人でいるとホッとする」
「そう言ってもらうと嬉しいな」
「今日は涼の家へ料理を作りに行ってもいい?」
家の冷蔵庫の中には何も食材がない。それに部屋は散らかりほうだいだ。愛理沙に見せるには非常に悪い状態だ。
しかし、愛理沙は家に帰りたくなさそうだ。ここは覚悟を決めるしかない。
「部屋も散らかってるし、冷蔵庫の中には何も入ってないよ」
「うん…そうだと思った。涼のアパートへ行く前にスーパーに寄って料理の具材を買いましょう」
愛理沙は嬉しそうに笑顔を深める。
「わかった…行こう」
愛理沙と2人で並んでスーパーへ向かって歩き始める。
涼にはどうしても愛理沙に言っておきたいことがあった。
「愛理沙…今度、愛理沙の部屋を案内してくれないか? 俺、女子の部屋って行ったことがないんだ」
愛理沙がハッとした顔で涼を見る。
心の中で愛理沙に断られるかもしれないという思いが大きくなる。
「――――涼ならいいよ」
小さな声で愛理沙が呟くように答えた。
涼と愛理沙の間にあった心の壁が取り壊され、少しだけ距離が縮んだような気がした。
愛理沙から部屋へ来ても良いという返事はもらったが、未だに家に行く予定を決められずに中間考査テストへ突入し、涼は1週間をほとんど徹夜してテストを乗り越えた。
朝、起きると天井が歪んで見える。
トイレへ歩いて行こうとすると部屋がグルグルと回る。
体の平衡感覚を保つことができない。
「あれ……おかしいな。体が妙に重いし……目が回っているような感じがする」
体に妙な寒気がする。
体温を測りたいが、家に体温計はない。
涼の家には救急箱はなかった。
外に出て近くのコンビニへ体温計を買いに出かけようと玄関まで行くが、鍵を開けて外に出ると太陽の光が眩しく、全てが歪んで見える。
「―――これはダメだな」
部屋へ一旦戻って、ベッドの枕元からスマホを取って、学校へ連絡する。
電話に出た事務員さんが、すぐに担任の先生を呼び出してくれて、本日の休みを取る。
担任の先生から『安静にして、元気が出たら、病院に行くように』と心温まるお言葉をいただいた。
体中に本格的な寒気が走る。急いでベッドの中へ潜り込むが、体の寒気が取れない。歯の根が合わずにガチガチと歯が鳴る音を自分の耳で聞く。
「これはダメだ……完全に熱がある。中間テストで徹夜を続けたのが悪かった」
昨日の夜から食欲がなく、何も食べたくなくて夕食を抜いていた。あの時から風邪を引いていたらしい。
昨日のうちに気が付いていれば、コンビニまで体温計を買いに行けたのにと思うが後の祭りだ。
「これは寝て治すしか方法はないな……家に薬もないし……元気が出たら病院へ行こう」
ベッドに頭まで潜り込んで、涼は意識を失った。
◇
「トン トン トン トン トン」
台所からリズミカルな包丁の音が聞こえる。
うっすらと目を覚ますが、窓からの陽光はまだ昼間の時間帯を示している。
しかし、フスマの向こうで誰かがキッチンを使っている音がする。
「――――とうとう幻聴と幻影を見るようになったか―――」
力尽きて、涼は再び目を閉じて眠りの中へと落ちていった。
◇
誰かが頬を手で触れている感触が伝わってくる。
薄目を開けると、間近で心配そうに見つめている愛理沙の顔があった。
涼は驚いて大きく瞳を開ける。
「キャッ」
「ウワァ」
2人同時に大きな声をあげる。
「愛理沙か。来てくれたのはありがとうだけど……学校はどうしたの?」
「担任の先生から、涼が風邪で休みって聞いたから……私も体調がおかしいって言って早退して、涼の家に来たの。家の鍵は開けっ放しだし、不用心よ」
そういえば、朝に体温計を買いに行こうとして、外に出ようとしたんだった。結局、太陽の光に負けたけど。
愛理沙が心配して家まで来てくれたことが嬉しい。
「ありがとう…愛理沙」
「涼が眠っている間に卵のおかゆを作ったの。元気があるなら少しは食べたほうがいいね。私、おかゆを持ってくる」
愛理沙は照れて顔を赤く染めて、立ち上がってキッチンへと歩いていった。しばらくすると温め直したおかゆを持って愛理沙がベッドの近くまで歩いてくる。
ベッドの脇に小さなテーブルがある。その上におかゆを乗せる。
お粥からは湯気がたっていて、とても美味しそうだ。
ベッドから起き上がってレンゲを手に取って、おかゆを口へと運ぶ。
「あちちち―――」
あまりのおかゆの熱さに耐えられず、おかゆの中へレンゲを落としてしまう。
「今、温めなおしたんだから、熱くて当たり前よ。こういう時は、こうするの」
愛理沙はレンゲを手に取って、一口分だけおかゆをすくって、自分の口元へ持っていって、フーフーと息を吹きかける。
そして、レンゲを涼の口元へ持って行く時に、愛理沙と涼は間近で見つめ合った。その瞬間に愛理沙は顔を赤くして、レンゲをおかゆの中へ落してしまう。
「もう……涼ったら……恥ずかしい」
「―――ごめん」
なぜ自分が謝っているのかわからないが、愛理沙に恥ずかしい思いをさせてしまったと思った。もし、あのまま愛理沙におかゆを食べさせてもらっていたら、涼も恥ずかしくなっていただろう。
自分でレンゲを取りあげて、おかゆをすくって、フーフーと息を吹きかけて冷まして食べる。愛理沙が作っただけあって、おかゆが美味しい。
「美味しい」
「よかった」
おかゆを残さず食べて、少しは元気が出てきた。朝よりもめまいが治まっているような気がする。
「市販の薬を買ってこようかなって思ったんだけど……涼の症状もわからなかったし、買わなかった……ごめんね」
「構わないよ。今は何時ごろかな? 夕方の4時から近くの病院が開くはずだから、病院で診察してもらうよ。帰りに体温計ぐらい買っておかないといけないな」
「この家…体温計もないの? 救急箱は?」
「ない」
愛理沙は涼のキッパリとした答えを聞いて肩から力が抜けたように俯いている。
「今度、一緒に薬局で、少しは置き薬を買っておこうね。私も一緒に行くから」
「それは助かるよ。俺一人だと何を買っていいのかもわからないからね」
「たぶん、それは薬局の店員さんが専門家だし……相談するのが一番だと思う」
「愛理沙が一緒に来てくれるだけで嬉しいよ」
「―――もう」
愛理沙は可愛く眉をあげて、頬を少し膨らませる。
「今は15時30分を超えたところよ。今から用意をすれば16時に病院に着けるわね。私も一緒に付き添いしてあげる」
「ありがとう……早速、準備するよ」
涼はベッドから立ち上がると、ジャージの上着を脱いで、ジャージの下着も脱ごうとする。
「キャ―――ちょっと待って」
「おう…愛理沙がいたことを忘れてた」
「―――もう、忘れないで……今日の涼は変よ……着替え終わったら呼んでね」
そう言って、愛理沙は顔を真っ赤にして、ダイニングへ逃げるように歩いていくと、フスマをきっちりと閉めた。
もう少しでパンツ姿を愛理沙に見られるところだった。
今日の涼は確かに熱に浮かされているようで、不注意だ。
着替え終わって、愛理沙に付き添われて、玄関を出て鍵を閉める。
そして、そのまま病院へ2人で直行した。
◇
「ただの風邪ですな。しかし熱が38度5分もある。薬を処方しておきます。後、注射も打っておきましょう」
病院の先生は涼の診察を終えて、にこやかに注射という言葉を放った。実は涼は注射は苦手だ。17歳にもなってと思われるかもしれないが苦手なものは仕方がない。
愛理沙を見ると、目がウルウルと潤んで、まるで自分が注射を打たれるような顔をしている。
看護婦さんに誘導され、別室で注射を打つ。注射の針を見た瞬間に緊張が走る。注射の針を見ないようにして、愛理沙の顔を見る。
すると愛理沙が急に両手で顔をおおった。その瞬間にチクッとする痛みが走る。
後は注射の針の抜く瞬間の気持ち悪さに耐えるだけだ。
愛理沙は両手で顔をおおったままだ。
愛理沙に集中している間に看護婦さんが上手く注射の針を抜いてくれた。
「はい。注射は終わりましたよ」
「ありがとうございます」
にこやかに注射が終わったことを看護婦さんが教えてくれる。涼は立ち上がって看護婦さんへ会釈する。
愛理沙も深々と看護婦さんへ頭を下げていた。
後は会計をして、隣の薬局で処方された薬をもらうだけだ。
ついでに体温計だけでも買って帰ろう。
◇
涼の家に帰り着くと、愛理沙は涼が着ていたジャージの上下を洗濯機に入れて洗い始めた。
その間に、涼はタンスから新しいジャージの上下を出して、私服と着替える。
注射を打ってもらってせいか、体が軽いような気がする。
涼がベッドに座っているとダイニングから愛理沙が顔を出す。
「調子が少し良くなったからといって、寝てないとダメよ」
「はーい」
今日は愛理沙に世話になりっぱなしだ。
本当に愛理沙が居てくれて心がホッする自分を発見する。
愛理沙がダイニングから私室へ入ってきて、涼の近くに座って手を涼の額に当てる。
「ずいぶんと熱は下がったようね。これなら大丈夫かも」
「今日はありがとうな」
「うん」
愛理沙が優しい眼差しで涼を見つめる。涼は照れてベッドへ潜り込む。
「愛理沙…もし熱が下がったらさ……今度の休みに愛理沙の部屋へ遊びに行ってもいいか?」
「―――いいよ……私だけ部屋を見せないのも、おかしいもんね」
涼がベッドから顔だけ出すと愛理沙が恥ずかしそうに微笑んでいる。
「きちんと熱と風邪が治ったらね。今日は遅くまで付き添ってるから、安心して寝てるの」
顔を赤くして愛理沙は、ベッドの布団を涼の顔の上まで引きあげた。
次の休みの日に愛理沙が公園で待っていてくれた。
愛理沙の手には紙袋が持たれている。
「これ……私の親戚へ手土産として持って行って……クッキーの詰め合わせ」
「え!愛理沙が用意してくれたの……お金を払うよ」
「ううん…いいの。あの人達……手土産だけで機嫌が良くなるとは思えなから」
一体、愛理沙が引き取られている親戚の家はどういう家庭なんだろう。
少しは注意して、身構えて会いに行ったほうがいいだろう。
何か嫌な予感がする。
愛理沙の親戚の家は、いつもの公園から少し下がった路地を中に入ったところにあった。3階建ての一軒家だ。
愛理沙は玄関を開けて小さな声で「ただいまー」と声をかける。
すると中から茶髪で、乱れた髪を放置したままの50歳台の女性が出て来て、愛理沙と涼を見る。
「最近、帰りが遅かったり、夕飯の用意に遅れたりしていると思ったら、男を咥えこんでいたのかい。この性悪娘が!」
玄関から中へ入ったばかりの愛理沙の顔をいきなり女性が平手を打ちをする。
女性からは酒の匂いがプンプンしており、昼間から酒を飲んでいたようだ。
完全に酔って、目が充血している。
愛理沙は振り向いて、涼を見て『耐えて』という顔をする。
いきなりの出来事で、目の前の状況が呑み込めない。
「男を咥えこむ暇があったら、早く家の家事をしろ! 私に昼食も作らないで、何を出歩いているんだい!」
「すみません……由佳(ユカ)叔母さん。昼食の用意はするから、少しは私の話しを聞いてください。一緒に来てくれているのは、私と同じクラスの同級生で青野涼(アオノリョウ)くんです。いつも学校でお世話になっていて、今日はお礼で私の部屋へ遊びにきてもらいました。どうか涼くんと挨拶してください」
涼は愛理沙の横をすり抜けて、愛理沙の庇うように立って、由香叔母さんに持ってきた手土産のクッキーの紙袋を渡す。
「青野涼(アオノリョウ)と言います。学校では愛理沙さんにお世話になっています。ご挨拶をと思いましてクッキーを買ってきました。後で皆様で食べてください。よろしくお願いいたします」
由香叔母さんは涼が持っていた紙袋を強引にひったくると中身を見て笑っている。気に入ったようだ。
「アンタ、愛理沙に騙されてるよ。この女ほど性悪な女はいないからね。小さい頃から私達夫婦が育ててやったんだ。学校をやめて水商売で働いて恩返ししろって言ってるのに、高校だけは卒業させてほしいなんてワガママをいう。ワガママを聞いている私達夫婦は天使のように優しい親戚というわけさ」
あんまりな言いようだ。愛理沙はまだ高校生だぞ。水商売で働けなんて、この叔母さんは狂ってる。
しかし、涼はグッと心から出てくる言葉を我慢する。
「高校は義務教育ではありませんが、今は誰でも高校を卒業している時代ですし、高校を卒業しているほうが就職には有利です。愛理沙さんの進路希望は間違っていないと思います」
「何を言ってるんだい。こいつができることなんて、きれいな顔で男を騙すことだけさ。せっかくきれいな顔に生まれてるんだ。その顔を活かして水商売で働けば、男達が金を貢いでくれるだろうさ。そのお金を私達が恩返しでもらえばいいのさ。簡単な話だろう。今まで育ててやっただ、恩ぐらいは返しても罰は当たらないだろう」
この由香って叔母さん、心の根っこから腐ってる。愛理沙のことを全く守ろうとも思っていない。愛理沙が大人になったら、愛理沙からどれだけ金を取れるか……それだけしか考えていない守銭奴だ……あまりにも酷い。
「愛理沙さんは成績も優秀ですし、大学へ行けるほどの成績を誇っています。愛理沙さんが大学へ行けばもっと良い就職先に巡り合うこともできます。できるなら愛理沙さんが大学を卒業するまで、 待ってもらえないですか」
「私の家には金が必要なんだよ。毎日、飲む酒のお金もかかるし、タバコ代もかさむ。今、旦那が使うパチンコ屋や麻雀屋に行く金も必要だ。とにかく私の家は年中、金がなくて火の車なのさ。愛理沙に大学だって!高校を卒業させてやるだけでもありがたいと思ってもらいたいね!」
叔母さんは酒とタバコに狂っていて。旦那さんはパチンコ屋に麻雀屋。そんなことをしていれば、お金が貯まるはずがない。どういう感覚をしてるんだ。
「では愛理沙さんの高校の費用はどうやって出しているんですか?」
「奨学金に決まっているだろう。自分で高校へ行ったんだ。大人になってから自分で奨学金の借金を払っていくのは当たり前のことだろう」
涼の常識が、ガラガラと音を立てて崩れていくのがわかる。この人達に何を言っても無駄だ。
「そもそも、私の家で引き取っている理由が何か知ってるかい? 愛理沙から聞いてるかい?」
「いいえ、何も聞いていません。ご両親が他界されていることは知っています」
「この娘は罪人の娘なのさ。だからこの娘も罪人さ。そんな罪人を育ててるんだから、私達は羽がついた天使のように慈悲深い人間さ」
もう限界だ……愛理沙のことだけでも限界なのに……愛理沙が大事にしている両親のことまで貶めるなんてもう我慢できない。
涼の目付きが変わり、まなじりが吊り上がる。鬼のように怒った形相になっているだろう。後ろにいる愛理沙に自分の顔をみられたくない……しかし、もう限界だ。
「おい……叔母さん、さっきから聞いてたら、偉そうなことばっかり言ってるけど、叔母さんなんて昼間から酒を飲んで、タバコを吸って、家事もしないロクデナシだろう! 愛理沙に家事全般の全てを押し付けて、何が自分は天使だ……ふざけんな!」
まだ心の中から湧き上がってくる怒りが収まらない。
「お前の旦那もそうだ。昼日中から、パチンコ屋へ行って、麻雀屋に行って何してんだ? それで愛理沙に水商売で働えけって言うのはおかしいだろう。アンタ達は心の底から腐ってる鬼だ!」
由香叔母さんの顔が真っ赤になって般若のような顔になる。
「アンタに何がわかるんだい。こいつのせいで私達も肩身の狭い思いをしてきたんだ。そのことも知らないで偉そうなことをいうな! クソガキ! ふざけるな!」
「うるせえよ! 叔母さん! 愛理沙のことだけでもムカムカするのに、愛理沙の両親のことまでバカにするな。愛理沙がどれだけ両親のことで苦しんでいるのか……お前達にはわからないだろう」
「それは当然だね。あんな両親なんだから。コイツが苦しむのは当り前さ。生まれたことを恨むんだね」
「うるさい! これ以上、愛理沙の両親の悪口をいうな。黙れよ! 叔母さん……そんな話は聞きたくないんだよ」
由香叔母さんが玄関に置いてあった。スリッパを思いっきり涼の顔面へ投げつけた。そして鉄の軽い灰皿を涼へ放ってくる。
スリッパも灰皿も涼の顔に当たる。灰皿が頬に当たって、頬が痛むのがわかる。
「俺は他人だ。これは立派な傷害罪になるぞ。警察を呼ばれてたら、不利になるのは、叔母さんのほうだ!」
警察という言葉を聞いて由香叔母さんの勢いが失せて怯んだ。今がチャンスだ。
「愛理沙! これから、この家を出る。 俺のいう通りにほしい……まずは愛理沙の部屋へ行って荷造りだ」
「アンタがコイツの面倒を見るって言うのかい。それなら持っていくがいい。コイツの本性を知って、後から後悔するのもアンタだからね」
「俺は愛理沙のことで後悔したり、絶対にしない。 愛理沙を守るのは俺だ……叔母さん達には関係ない。愛理沙……自分の部屋へ案内してくれ。今から荷造りをする」
後ろを見ると愛理沙は目から涙を流して、立ち尽くしていた。涼は愛理沙の手を握って大きく頷いて、安心させるように優しく見つめる。
「大丈夫。愛理沙は俺が守るから……今は俺の言う通りにしてほしい……部屋へ行って荷造りしよう」
愛理沙は大きく頷くと、涼の前を通り過ぎて、玄関で靴を脱いで、涼と手を握りながら自分の部屋へと向かった。
そして、2人で急いで必要な分だけ荷造りをする。
大きなキャリーバック2つ分の荷物を用意すると、1階へ降りていく。由香叔母さんが部屋から廊下へ顔だけ出している。
「出ていくのはいいさ……疫病神がいなくなるんだから。後から泣き言を言ってきても私の家ではコイツを引き取らないからね」
「誰がそんなこと言うか! また後から、必要な手続きが出てきたら、俺がこの家に訪問する。その時は邪魔するなよ」
「その時は、勝手にしな……クソガキ!」
愛理沙は玄関を出ると、振り返って由香叔母さんへ深々と頭を下げる。
「私を引き取ってくださって、小さい頃から私の面倒を見てくださって、ありがとうございました。今日までありがとうございます」
「アンタみたいな者、さっさと出ていっちまいな。2度と顔を見せるんじゃないよ!」
大きなキャリーバックを2人で1つずつ持って、愛理沙の親戚の家を出た。
いつもの公園へ着くと愛理沙はブランコに座って泣き崩れる。
「だから、家へ誰も呼びたくなかったの……誰にも私の本当の姿を見られたくなかったし……叔母さん達のことを知られたくなかったから……」
「俺も熱くなってゴメン……でも、愛理沙を守りたいという気持ちは本当だよ……信じてほしい」
「でも……私も……私の両親も……」
「そのことは聞きたくない。愛理沙は無理に言う必要はない……俺は愛理沙の過去なんて知らないし、聞かない。過去は過去だ。今の愛理沙じゃない」
「――――涼!」
ブランコから立ち上がった愛理沙は涼の胸に飛びこんで、涙がとまるまで泣き続ける。
涼は何も言わずに、胸の中へ飛び込んできた愛理沙を受け止めて、ギュッと抱きしめた。
2人でキャリーバッグを持って涼のアパートまで戻ってきた。鍵を開けて涼がキャリーバックをダイニングへと運びいれる。そしてダイニングの隅にキャリーバックを2つ置く。
その間、愛理沙は玄関に立ったまま、靴も脱ごうとしない。
「何してるんだ? 入ってきなよ……今日からここが愛理沙の家じゃないか」
「本当にいいの?」
「今更、何を言ってるの? 他に行く所でもあるの?」
「ううん……行く所ない……住むところないの」
愛理沙がまた涙をこぼして、頬を濡らす。
公園から涼のアパートへ来るまでの間も、愛理沙は情緒不安定になって、時々…涙をこぼして涼を困らせた。
愛理沙に泣かれるのは正直ツライ。
「何も気にしなくていいから……自分の家だと思って気軽に暮らしていい」
「―――お金も持っていないし」
「大丈夫……俺、少しは蓄えがあるんだ。だから愛理沙と暮すお金ぐらいは十分に持ってる。贅沢はできないけどね」
お金の話しは本当だ。
両親…家族が事故で他界したことで、涼には多額の保険金が入っている。未成年後見人の三崎さんが、保険金の半分を管理してくれているが、残り半分は涼が管理している。だから愛理沙が暮らしを心配する必要はない。
「お邪魔します」
「違うよ……ただいまだよ」
「――――ただいま……」
愛理沙はダイニングへ入ってくると、いきなり床に正座をして、三つ指をついて頭を下げる。
「これからお世話になります。末永くよろしくお願いします」
そ……それは結婚の時に言う言葉だよね……完全に間違って覚えてるよ。
涼はその言葉を聞いて、自分の耳が真っ赤に火照るのを感じる。
「愛理沙……そんなに緊張する必要ないんだから……気軽に友達の家で同居するつもりでいてよ。そのほうが俺も気軽でいいからな。そんなに緊張されると……俺のほうも緊張しちゃうからさ」
「はい…わかりました」
全然、分かってないよ……初めての同居だから、愛理沙が緊張するのもわかる。
「涼…聞きたかったんだけど……私達って仮の彼氏と彼女よね? 付き合ってもいないわよね?」
あ…そのことについて忘れてた。愛理沙の家に行って、あまりの叔母さんのいいようにムカッと感情的になって勢いで愛理沙を連れてきてしまった。
「そうだね……愛理沙と俺は、仮の彼女と彼氏のままでいいよ。俺も愛理沙の過去に踏み入ろうとは思わないし、俺も自分からあまり過去のことを言いたくないから」
涼と愛理沙の心の距離は、いつもの公園で一緒にいる距離が丁度いい。あまり心の距離を近くしないほうが良いだろう。互いに人に言えない過去を持っているのだから。お互いに秘密にしておいたほうが良いこともある。
「ァゥ……そんなことを言ってるんじゃないのに……本当は涼の彼女になっても……」
愛理沙がすごく小さな声で何かを呟いているが、涼の耳には聞こえない。
愛理沙は顔を真っ赤に染めて恥ずかしそうに照れて俯いてしまっている。
「愛理沙と一緒にベッドで寝るわけにはいかないから……街まで行って、布団を買いに行こう。後、家に必要な家財道具も買いに行こう」
「――――そんな……そこまで涼にしてもらうなんて悪いわ」
「何を言ってるんだ。これから同居人じゃないか……これぐらいはさせてくれよ」
「それじゃあ、家事全般は私がするね……涼だと部屋は散らかるし、片付けや掃除も下手だし、料理もできないし」
「そういうばそうだな……これからは毎日、愛理沙の料理が食べられるのか……冷えた弁当を食わなくてもいいんだな……すごく嬉しい。ありがとうな」
それを聞いて、愛理沙は嬉しそうな顔をで笑んだ。
「涼……気づいてないと思うけど、私達の場合、同居って言わないよ……同棲っていうのよ」
「え!同棲!」
涼はずっと同居と思っていた……いきなりの愛理沙からの同棲宣言に目の前がグラグラと揺れる。
高校生で……同棲。
まだ彼女もいないのに、こんな美少女と同棲していいのか。
「私……涼とだったら同棲してもいい……涼だったら安心だから」
1人の男性として美少女と同棲して、安心されて喜ぶべきなんだろうか。悲しむべきなんだろうか。涼は心の中で、愛理沙の言葉を聞いて動揺を隠せない。
「とにかく、街に行って、必要な家財道具や布団を買って、今日中に配達してもらうようにしないといけない……時間的に早く行って、頼み込まないと間に合わない……愛理沙、必要なモノを書きだして」
涼はノートとペンを私室から持ってきて、急いで愛理沙に必要なモノを書きだしてもらう。愛理沙は色々なモノを書きだしているが……なぜ、涼のパジャマまで買い物リストに載っている。
「今日、街から戻ってきたら、料理をするね……涼の大好物の唐揚げにするから」
「おお――! 愛理沙の唐揚げ、すごく美味いんだよな。是非、お願いするよ」
「うん…楽しみにしててね」
愛理沙と涼は互いに顔を見合わせて微笑み合う。
愛理沙のメモが終わると、2人で玄関を出て家の鍵をかける。
「そういえば、部屋の鍵も愛理沙専用の鍵がいるね」
「私に合い鍵をくれるの……本当の同棲みたい」
その言葉を聞いて涼の顔は真っ赤に染まる。同棲という言葉を言われると恥ずかしい。言葉を発した愛理沙のほうも、恥ずかしさで顔を真っ赤にして俯いている。
「とにかく、時間がない。急いで街まで行こう」
「うん…ありがとう! 涼!」
2人で並んで仲良く街まで歩いていく。
2人の顔には陰りはない。
2人は満面の笑みを浮かべて談笑しながら街へと向かった。
空は2人の心のように、青く遠くまで澄みわたっていた。
愛理沙が涼の家で同棲し始めた日に街へ行って、家財道具や布団など色々なモノを買った、頼み込んで即日で、アパートまで運んでもらった。
愛理沙はその日から、涼のベッドの隣に布団を敷いて眠るようになる。
涼は愛理沙が近くできれいで可愛い寝顔で寝ているので、中々眠れずに……現在は寝不足気味だ。
そして、愛理沙が白色、涼が黒色のお揃いのパジャマを着て寝ている……とても恥ずかしい。
そして愛理沙は新しい7段式の自転車を購入した。
これからはバス代のかからない自転車通学をするという。
学校では涼と愛理沙は彼氏と彼女という関係で見られているので一緒に通学しても別に疑われない。
しかし、涼の昼休憩の過ごし方が激変した。
それは愛理沙が毎朝、自分のお弁当を作るので、涼のお弁当も作ってくれることになったことだ。
今まで陽太と一緒に学食へ食べに行っていたが、お弁当があるので学食にいかなくなった。今は弁当を持参している湊と一緒に涼の席でお弁当を食べている。
「最近は弁当持参になったのか? 弁当は愛理沙が作ってくれているのか?」
湊が冷静に涼に質問してくる。
そんな恥ずかしいことを真面目な顔で聞かないでもらいたい。
「あ……涼ちゃんのお弁当のおかずと、愛理沙ちゃんのお弁当のおかずが同じだよ……絶対に愛理沙ちゃんに作ってもらってるんだ」
わざわざ涼の弁当の中身を確かめにきた聖香が大きな声で宣言する。
そんな大きな声を出さないでもらいたい。クラス中に聞こえるじゃないか。
「一応、俺は学校では彼氏だからな。愛理沙に弁当を作ってもらっても変じゃないだろう」
「でも…最近の愛理沙と涼って怪しいのよね」
目を細めて、楓乃が疑っている。
「最近、愛理沙、バス通学を止めたじゃん。涼と一緒に自転車で通ってるんだよね。それってもう彼氏じゃない?」
「だから、学校では俺は彼氏なんだから、一緒に自転車通学をしてもおかしくないだろう」
「でも…本当は仮彼氏なんでしょう。その割にすごく仲良くない? まるで本当の彼氏みたい」
「そんなことはない。俺を疑うなら、愛理沙に聞いてみろ」
楓乃は疑いの眼差しのまま、聖香はお弁当を持って愛理沙の元へ行く。
昼休憩の時間には、いつも愛理沙、楓乃、聖香の3人は毎日、仲良くお弁当を食べている。
涼が心配そうに愛理沙へ視線を向けると、楓乃と聖香の質問攻めに会って、顔を赤らめて恥ずかしがっている。
一体、どういう話の展開になっているのか、涼は非常に不安に思うが……3人は楽しそうにお弁当を食べている。
「もう、仮彼氏、仮彼女など関係なく、2人共、付き合ったほうが早いんじゃないか?」
湊が冷静に卵焼きを食べながら涼に聞いてくる。
「俺はそれでもいいよ。でも愛理沙の気持ちがわからないし……愛理沙も心に距離感を取りたいタイプだし、俺もそうだから、今の状態が丁度いいんだ。それに愛理沙は俺にもったいないと思わないか?」
「学校中の男子がそう思ってるよ。俺もそう思う。お前に愛理沙のような美少女の彼女ができて、俺が独り身だったら、俺は涼に殺意を抱くかもしれん」
湊は笑いながらウインナーを口の中へ入れる。
殺意……湊は冗談としても、学校中の男子は本気で殺意を向けてくる可能性がある。毎日、多数の男子学生達から殺意を向けられるのはたまらない。
今でも学校では愛理沙の彼氏の役目を果たしているおかげで男子学生達の多数から嫉妬の視線を向けられているというのに。
これで同棲がバレたら……このことだけは隠し通す必要がある。絶対にバレてはいけない。仲の良い特別な、湊、陽太、楓乃、聖香の4人にも絶対に秘密だ。
「どうした? 涼、急に黙って、冗談だぞ」
「わかってる。既に俺は学校では愛理沙の彼氏だからな。多少の嫉妬の視線には慣れてきてるよ」
「あれだけの美少女だからな。男子生徒達が涼に嫉妬するのは仕方がない。俺も早く彼女が欲しいもんだ」
「湊はいつ聖香に告白するんだ?」
いつも冷静な湊が噴き出して、咳こんでいる。湊は顔を赤く染めて、それでも冷静な顔を保って弁当を食べようとする。
「なぜ……涼がそのことを知ってるんだ?」
「だってさ……湊は女子全員に優しいけど、聖香を見る時だけは、優しく見守るお兄さんのような眼差しになってるじゃないか。俺は人の心に敏感なんだ。それぐらいの機微はわかるよ」
涼は人が苦手で、人と心の距離を取る癖がある。そのため、誰が心の距離を近づけているか、勘ではあるがすこしはわかるのだ。しかし、自分のことはあまりわかっていない自覚はある。だから、涼には湊が聖香に好意を持っていることがわかった。
「このことは誰にも言ってないか?」
「ああ、愛理沙にも言ってない」
「絶対に陽太にも楓乃にも言わないでくれ。もちろん聖香には言うなよ」
当たり前だろう。いくら涼でも聖香に湊が好きだとは言えない。
いつかは聖香と湊が上手くいってくれればいいなとは思う。
もうすぐゴールデンウィークだ。湊がゴールデンウィークの予定を涼へ質問してくる。
「ゴールデンウィークは毎年、行く場所があってね。少し忙しい」
「そうか……ゴールデンウィークが暇なら、皆で旅行でも計画したいと思っていたんだが残念だ」
毎年、事故が起こったゴールデンウィークには家族の墓へ参っている。
まだ、このことは愛理沙には話していない。
できれば、愛理沙を墓参りなどに付き合わせたくない。
女子3人で、旅行でも計画してくれるといいんだけど。
教室のドアは開いて濃い茶髪のロングストレートの女子が歩いてきた。元生徒会長の倉橋芽衣だ。
顔を真っ赤に染めて、少し恥ずかしそうにして、涼の元まで歩いてくる。
「涼……気を使ってくれてありがとう」
涼には何のことかわからない。
「涼が学食に来なくなってから、陽太が1人で食べてもつまらないと言って、私と一緒に食事をしてくれるの……本当にありがとうね」
涼が学食に行かなくなったおかげで、そんなことになっていたのか……芽衣は幸せそうに満面の笑みを浮かべている。
「お役に立てて良かったよ」
誤解なんだけど……幸せそうだから言わないでおこう。
◇
放課後になり、愛理沙と涼は自転車を押して2人で高台まで歩く。
昼間あった芽衣のことを話すと、愛理沙はクスクスと笑顔になって嬉しそう。そして、すぐに表情を変えて、少し拗ねたような顔になる。
「涼……楓乃と聖香の質問を、私に聞くように言うなんて……何て答えていいか、恥ずかしかったわ」
「その件はゴメンな……」
「今日も公園に付き合ってね」
「ああ…いつでも付き合うよ」
この不思議な関係も、全てあの公園が始まりだったんだよな。
ふと、愛理沙へ振り替えると、愛理沙は涼を見つめて、優しく幸せな笑顔を浮かべていた。