♪樋口翔太

「さよならのかわりに」

退院した今日、雨が降った。この大嫌いだった土砂降りの雨に、君への気持ちも流されて消えてしまうんだろうか。いや、きっとそんなことは無い。この気持ちはどんな雨にも消させはしない。雨粒がぱしゃぱしゃと地面を叩く音、雨樋を流れて側溝に流れ込む音。そのどれもがとても美しく聞こえる。雨を眺めながら伊勢物語百七段に載っている短歌を思い出す。

「数々に 思ひ思はず 問ひがたみ
身を知る雨は 降りぞまされる」

僕はこれ以上に切ない歌を知らない。少し前の僕に重ねてしまうと、未だにちょっとだけ泣きそうになってしまう。まだ気持ちが通じ合う前、僕のことが好きなのか好きじゃないのか、全然彼女の気持ちが読めないままだった。でもそんなことについて聞くわけにもいかない。自分の身の程を知る雨がしとしとと降っていた。
まったく、いつまで感傷的になっているんだと自分で自分に言い聞かせる。
飛び降りた時の怪我の後遺症が残り、少しだけ歩きにくくなった足で翼さんの家へと向かう。傘の表面を叩く雨が滴って、ズボンの裾を濡らす。歩く度に靴の中に水が染み込んできて少し不快だった。けど、今は雨が好きだ。リズミカルで不規則な雨音を聞きながら翼さんの家の近くの角を曲がる。
彼女の家のインターホンを押した。女性の声がどちら様ですかと僕に聞く。
「生前、翼さんの友……彼氏だった樋口翔太といいます」
「……よかった。ちょっと待ってて」
インターホンが切れた後、少し経って翼さんのお母さんが僕を出迎えてくれた。
「どうぞ上がって。あなたとずっと話したいと思ってた」
「ありがとうございます。お邪魔します」
リビングのような部屋に案内され、促されるままにテーブルについた。翼さんのお母さんは僕にコーヒーは飲めるかどうか聞いて、飲めることを伝えると、キッチンの方へ行った。一人残され、部屋を見回してみる。襖が空いていた隣の和室に、小さな仏壇があった。その手前に翼さんの遺影が置かれていた。彼女は笑っていた。それを見つめていると、コーヒーの香りと一つの箱と共に翼さんのお母さんが僕の正面に座った。僕の前にコーヒーカップを置いて微笑んだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます。すみません、突然なんですが、お先に線香をあげさせてもらえませんか。病院から出られず、お葬式に出られなかったので……」
「あぁ……もちろんよ。翼も喜ぶわ」
「ありがとうございます」
僕が仏壇の前に移動してロウソクに火をつけた時、背後から「翼、樋口君が来てくれたわ」と彼女のお母さんが言った。
線香に火をつけ、灰の受け皿に刺す。手を合わせ、数秒間目を瞑る。その後に鞄から『源氏物語』を取り出して遺影の横に置いた。
「なぁ翼。君には難しいかも知れないけど、いつか読んでみて欲しいな」
そう言ってテーブルに戻った。
「翔太君、よく来てくれたわ。ありがとう。耳が聞こえるようになったって聞いたわ。本当によかったわね……」
「いえ、本当はもっと早く来るべきだったんですけど……ちょっと色々あって」
「そんなこと気にしないわ。ねぇ、翼がどれだけ君のことを想っていたか知ってる?」
「いえ、実は、そこまでよく分からないんです」
「そう……でも君の耳がもう少し早く聞こえるようになっていたら、知ることも出来たのかもしれないわね。これを見てくれる?」
彼女のお母さんは、さっきコーヒーと一緒に持ってきた箱を開けて僕に渡した。中に入っていたのは、僕との筆談の跡が残ったルーズリーフやノートだった。既に捨てられているものだと思っていた。でもそんなことはなくて、一番最初に筆談をした時のものから全ての軌跡が、そこに入っていた。そのどれもが、僕の記憶を鮮明に浮かび上がらせた。箱の蓋には、「樋口君へ」と書かれていた。
「翼はね、家に帰って来るとすぐに君のことを話し始めるの。今日はこんな会話をしたんだよ。とか早く耳が聞こえるようになったらいいのに。とか毎日ね」
「そう……だったんですね……」
「そうよ。君の話をしている時の翼は、ずっと笑っていた。本当に嬉しそうな顔をして君のことを話していたの」
「翼……君はそこまで僕のことを……」
「樋口君、翼と仲良くしてくれて、あの子を愛してくれて本当にありがとう。翼を愛してくれたのが君で本当に良かった。これをずっと、言いたかったの」
その言葉を聞いた僕の胸になにか熱いものがこみ上げてきて、不意に視界が歪んだ。涙が零れていた。
「すみません……泣くつもりなんて、無かったんですけど。ごめんなさい」
「いいの。気にしないで」
堪え切れない涙に感情を任せて、そのまま小さな子供みたいに泣いた。枯れそうになった涙がようやく収まって顔を上げた時、翼さんのお母さんも泣いていた。
僕のことをそこまで思っていてくれたという事実と、彼女のお母さんの言葉が僕の心を優しく包んだ。もう真っ暗な気持ちなんて欠片ほどもなかった。
「樋口君、あの子の分まで幸せになって。これは今君に伝えられる私と翼の願い」
「今は……翼さんのことしか考えられませんが、いつか。彼女も僕にそういってましたから」
「そうよ。ずっと幸せに生きて。そして、たまにでいいから翼にも会いに来てあげて。あの子には君しかいないみたいだから」
僕は、無言で頷き、すみませんがそろそろ帰りますと言って席を立った。正直もう少しここにいたかったけど、そういう訳にもいかなかった。また来てくれるかと聞かれ、もちろんですと答えながら玄関を出た。閉まる扉に背を向け、家に向かって歩き出した。
全ての物語がハッピーエンドで終わるわけが無かったんだ。でも、それでも僕は、今まで生きていて良かった。もう君はこの世界にはいないけど、きっとあのシリウスが君だと信じて強く強く、生きていこう。いつか、あの世というものがあるのなら、そこで会う時まで。さよならのかわりに。
君が生きて、僕の近くにいたという事実が消えてしまわないように。