Beyond The Distance And Tragedy

♪高橋翼:最後の手紙

「手紙の中の私は、笑えていますか」
遺書。
樋口君へ。同梱してあるICレコーダーには、今の私の気持ちが吹き込んであります。と言っても、どうせ樋口君がこれを見る頃には私は死んじゃってるんだからあんまり関係ないよね。
せっかく想いが通じあったのに、すぐに私が逝ってしまう事を君は許さないでしょう。それでも、許してほしい。どうか泣かないで。あとを追おうとかいう風なバカなことも、絶対に考えないで。そして、できたら忘れないでほしいな。まぁこれは単なる私のワガママ。
最期の時、君の目に映っていた私は、まだ君が愛することの出来る存在でしたか。答えが聞けなくて残念だけど、私は君のことをずっとずっと、いつまでも愛してる。大好きだよ。
こうやって君を愛したのも自分の為。
手術をしないことを選んだのも、自分の為。
死を受け入れたのは自分の決断。
死ぬことを君に伝えたのも、私の決断。
だから、絶対に自分を責めないで。きっと君は、何かにつけて私が死んだことに対して自分を責めてしまっている気がしたから。そうだよ、君は何も、悪くない。
織姫と彦星みたいにとても遠い距離を隔てて一年に一度も会えなくなっちゃったわけだけど、君は私の、私は君の心の中できっと強く生きているって信じてる。だから私は、運命なんてものは恨まないよ。それがたとえ、どんなにか残酷なものだったとしても。
人としての「当たり前」があることがどんなに幸せかを教えてくれた君は、とても大切な人。この世を離れた、今でも。ねぇ、樋口君。私を好きになってくれて本当に、本当にありがとう。
幻想でも妄想でも構わない。そんなもの「どうでもいい」と思うほどに愛した君を、天国に行っても忘れないよ。ありがとう。サヨナラ。
高橋翼
追伸。もし君に奇跡が起きて、世界中の音が聞こえるようになったらICレコーダーの存在を思い出してほしいな。手紙の中の私は、笑えてましたか。
♪樋口翔太

「笑えてないし、笑えない」

さっき突然病室に来た長峰先生に渡された一通の手紙を読んだ。遺書と書かれたそれは、遺書とは似ても似つかないようなかわいい便箋に入れられていて、字体はいつもの彼女の丸文字だ。これだけ見れば遺書だなんて到底思えない。だからこそ、余計に彼女がもうこの世にはいないという事実が突き刺さる。
わけの分からない、どす黒い何かが心の中に巣食った。とてつもなく濃い自己嫌悪が襲ってくる。今この手紙を読み終わった満身創痍のクソガキを殴り飛ばしてしまいたくなる。歯の一、二本でも折れてしまえばよかった。今の自分は、それくらいクソ野郎に思えた。僕は彼女の事を全く分かっていなかったんだ。結局は、短い付き合いっていうどうしようもない事実が招いた悲劇だ。
こんなことなら、明日が来なければいいのにと思った。でも、そんな僕を置き去りにして日が沈んで星が空に昇る。オリオン座が南中高度に達して、僕らちっぽけな人間を見下ろす。「死んだ人は星になったんだよ」なんていう様な馬鹿みたいな迷信を、今になって初めて信じたくなる。もしそれが本当なら、翼さんはシリウスか、ベテルギウスか、それともカストルかポルックス、どの一等星だろう。
月の周りに光る星たちは、強い月光にも負けずに煌々と輝いている。僕もそんな星たちの仲間になれるだろうか。
そんな迷信を思い出して、そんな星たちの仲間になれるかどうかと思った時。僕は何を血迷ったのか、試してみればいい、苦しむくらいなら迷信を確かめるとともに、この世界からいなくなってしまえばいいと思った。
思いたったらすぐだった。治りかけの脚を松葉杖で少し引きずりながら、エレベーターホールに行き上向きの矢印が書かれたボタンを押した。
少し待って、開いた扉をくぐった。屋上までは行けないエレベーターの最上階のボタンを押した。無機質な銀色の扉が、ガコン、と閉まる。エレベーター独特の上昇感覚に違和感を感じながら、最上階へ向かった。
最上階の薄暗い廊下に消火栓の赤いランプと、非常口の白地に緑のランプが煌々と光っている。そんな日常の明かりさえ、今の僕には憂鬱に見える。そこからまた、ワンフロア分の階段をなんとか上がって屋上への扉を開けた。正直、鍵がかかっていて屋上へは入れないと思っていた。もしそうだったとしたら、僕のこの馬鹿な考えも変わっていたのかもしれないのに。
少しだけ冷たい風が僕の横をすり抜けていった。僕の、この真っ黒い気持ちとは裏腹に、空の星たちはムカつくほどにキラキラ輝いていて余計に気持ちが滅入る。もういいだろう。大好きな人もいなくなった今、こんなクソみたいな世界に生きている意味なんてないんだ。そうだろう。もう僕を繋ぎ留めるものは何もない。
痛みのひどい足で屋上の淵に設置されている低いフェンスを登る。この銀色の網の向こう側は死と背中合わせの崖っぷちだ。足のすぐ下に病院の看板のネオン管が光っている。そこに腰掛けてぼやっとする。フェンスの間を風が吹き抜けてひゅうっと音がする。まだ、生きてる。
もう覚悟は決まった。いい加減グズグズしていてもせっかく決めた覚悟が揺らいでは元も子もない。もういいんだ。もう。
横に置いていた松葉杖が一瞬吹いた突風に煽られて下に落ちた。アルミかなんかで出来た松葉杖が、落下の瞬間に軽い音を立てた。僕の身体は落ちた瞬間にそんないい音なんてしないだろうな。
もう一度その場に立ち上がった。終わりにしよう。そう思った時には、もう身体は傾いて、重力に任せるままになっていた。その数秒後には、衝撃と痛みが襲い、気が遠くなっていた。薄れていく意識の中で、誰かが僕の名前を叫ぶ微かな声だけが頭の中に響いていた。
♪樋口翔太
 
「それだけでよかったのに」

瞼の裏側が眩しくて目が覚めた。視界がぼんやりして、白い天井しか認識出来ない。あんな高いところから飛び降りて死んでない僕は、どんな運命のもとに生かされているんだろうか。死に場所はここじゃなかったみたいだ。
動くのはほとんど腕と手だけで、体を起こすことすらできなかった。相当重症らしかった。頭に触れてみた。髪の毛に触れた感触がなく、布のようなものが指先触れた。きっと包帯だ。まったく、どうしていつもいつも思った通りにならないんだろう。
聞こえない耳なんてただの飾りでしかないし、目の前で大好きな人が死んじゃうし。挙句の果てには死のうとして死ねないんだから、笑えない。誰も、僕の願いなんて叶えてくれない。聞いてすらもらえないのかもしれない。
でも僕はまだ、弱い人間だった。いざ目が覚めてみると、誰かに会いたくて仕方なかった。会いたいというか、顔を見たいというか。それでも一度は死を選んでしまったから、長峰先生や江崎さんとは顔を合わせづらい。
部屋の壁に掛かっているデジタル時計を見た。屋上にいたあの日から、四日も経っていた。そんなに長いこと眠っていたのかと思った。そんな事どうでもいい。
いい加減に生きてるのが面倒くさくなってきた。高校卒業直後の時期にして、既にそんな考えになっていた。どうせ大学にも行けず、ろくな仕事に就けないまま大人になって、その日暮らしみたいな生活を送って生きていくなら、消え去ってしまいたい。誰かの記憶にすら残っていたくない。
そんな陰鬱な気持ちが渦巻いてる中、突然病室の外からギターのような弦楽器の旋律が聞こえてきた。英語で歌っているから何かの洋楽だと思う。優しげなメロディに、曇り空みたいな灰色の心が少しだけ明るくなった気がした。
ずっと聞こえているそれをメロディに乗せて少し口ずさんでみた。歌詞を日本語に訳してみる。
『昔、故郷へと続く道があった。
故郷へと、続く道が。
おやすみ、愛しい君。泣かないで。
子守唄を歌ってあげよう。
黄金の微睡が、君の瞳を満たす。
君は微笑み、目を覚ます…』
その時、とんでもない事に気づいた。僕の耳が音を、メロディを聞きとっている。英語の歌詞も、自分の声も。今まで驚いてきたことのどんなものよりも衝撃が走って、口から心臓が出そうになった。今この奇跡と呼べるかわからない出来事をどうしてくれよう。誰かに伝えようと思った時には既にナースコールに手が伸びていた。
看護師の江崎さんがいつもの筆談用のノートとペンを持ってきてくれた。僕が目を覚ましたことを早く確認したかったのか、走ってきたみたいで少し息が切れ気味だ。
「目が覚めたのね、なんで死のうとなんてしたの?しかも飛び降りなんて」
いつものように筆談が始まる。でも僕にはもう必要の無いことだった。
「翼さんの遺書を読みました。そして僕は生きている意味が無いと、そう思ったんです」
と、声に出して言った。目の前に座っている江崎さんと、さっきの二分前の僕はきっと同じ驚きの顔をしていたと思う。
「樋口……君。聞こえるのね……?」
「ええ、間違いなく。江崎さんって想像していたよりも、綺麗な声だったんですね。」
「よかった……ちょっと待ってて」
「長峰先生を呼びに行くんですね」
「そうよ、話してもらわなきゃ」
「分かりました」
江崎さんが長峰先生を呼びに行って、一人になった時にふと思った。人生初のちゃんとした会話がなんのことはない普通の一人の看護師さんだってことに気づいてちょっと可笑しくなってしまう。家族でもなく、翼さんでもなく。少し口角が上がって、自分が微笑んでいた。また少し驚く。まだ僕は笑えるんだ。
五分くらい経って、今度は長峰先生が僕の前に座った。
「樋口君。声が聞こえて、しかも喋れるようになったって本当か」
「はい、こう答えることが証明になるでしょう」
「そうか……よかった。本当に良かった。多分落ちた時の衝撃で脳に何か奇跡的な変化が起きたとしか思えないが……。それでも、本当によかった。死のうとしたことはこの際咎めることも無いか」
「怒られると思ってましたよ『死ぬなって言っただろうが』って」
「正面玄関の横に君が血まみれで倒れていたのを見つけた時は焦ったさ。多分あそこから飛び降りたんだろうって。それでもし起きたら叱ってやらないといけないって思った」
「そうなんですか……『もし起きたら』ってどういう意味ですか。僕は目を覚まさない可能性があったって事ですか?」
「あぁ。君が血を流していたのは頭からだったし、脚が変な方向に曲がってた。それに四日も起きないもんだから植物状態か、最悪そのまま死んじまうかもってことも覚悟したさ」
「……すみません」
「いいさ。血色も良くなったし、もうあんな死のうなんてバカなことは考えないだろうしな」
「はい。大丈夫ですよ」
「これから君はどうしたい?」
「どう、とは?」
「怪我の程度は後で話すが、重症だ。病院から出てもらう訳にはいかない。でも受験生だろう。それが大事な試験だということは俺も分かる。だからと言って入試に行かせることは出来ない」
「分かってます。今は治療に専念して、治ってしっかり動ける様になったら、どこかで働きますよ」
「それでいいのか、本当に」
「やだな、なんでそんな深刻な顔してるんですか。死ぬなって言ってくれた時の方が頼もしかったですよ」
「そうか。じゃ俺は君が早く退院して仕事に就けるようにしてやらなきゃな」
「お願いしますよ。先生」
「あぁ。ちょっとほかの患者さんのところにも行かなきゃいけなくて、また後で来る」
「待ってます」
そうして、長峰先生は別の患者さんのところへ行った。後ろでずっと少し泣きそうになっていた江崎さんもついて行った。また僕は一人になった。静かな病室に僕と長峰先生の声が染み込んでいった。
会話の余韻に浸っていた。ふと思い出した。翼さんの遺したICレコーダーの事を。一も二もなくそれをテレビの下の引き出しの中から取り出して電源を入れ、再生ボタンを押した。
「樋口君。
これを聞いているってことは君に何かの奇跡が起きて、声が、音が聞こえるようになったんだね。私が死んじゃってからどれぐらい経ったのかな。まぁそれはいいや。
とりあえずまずは読んだと思うけど、私の声で届けたいから一緒に入れておいた手紙を読むね。」
僕の想像したとおりの綺麗というか、かわいいというか、そんな声がメッセージを僕に届けている。
「遺書。
樋口君へ。同梱してあるICレコーダーには、今の私の気持ちが吹き込んであります。と言っても、どうせ樋口君がこれを見る頃には私は死んじゃってるんだからあんまり関係ないよね。
せっかく想いが通じあったのに、すぐに私が逝ってしまう事を君は許さないでしょう。それでも、許してほしい。どうか泣かないで。あとを追おうとかいう風なバカなことも、絶対に考えないで。そして、できたら忘れないでほしいな。まぁこれは単なる私のワガママ。
最期の時、君の目に映っていた私は、まだ君が愛することの出来る存在でしたか。答えが聞けなくて残念だけど、私は君のことをずっとずっと、いつまでも愛してる。大好きだよ。
こうやって君を愛したのも自分の為。
手術をしないことを選んだのも、自分の為。
死を受け入れたのは自分の決断。
死ぬことを君に伝えたのも、私の決断。
だから、絶対に自分を責めないで。きっと君は、何かにつけて私が死んだことに対して自分を責めてしまっている気がしたから。そうだよ、君は何も、悪くない。
織姫と彦星みたいにとても遠い距離を隔てて一年に一度も会えなくなっちゃったわけだけど、君は私の、私は君の心の中できっと強く生きているって信じてる。だから私は、運命なんてものは恨まないよ。それがたとえ、どんなにか残酷なものだったとしても。
人としての「当たり前」があることがどんなに幸せかを教えてくれた君は、とても大切な人。この世を離れた、今でも。ねぇ、樋口君。私を好きになってくれて本当に、本当にありがとう。
幻想でも妄想でも構わない。そんなもの「どうでもいい」と思うほどに愛した君を、天国に行っても忘れないよ。ありがとう。サヨナラ。高橋翼。」
翼さんの遺書がそのまま読まれて、静かになった。少し間が空いて、また言葉が紡がれ始めた。
「とまぁ、ここまでは手紙に書いた通りだから重要じゃないんだけど。私が自分の声で伝えたいのはここから。樋口君がこれを一生聞けないなら、それはそれで仕方ないけど。
私が樋口君を愛したように、君もまた他の誰かを愛せる時がきっと来るはず。そんな時、私が心の隅にいるなら、どうか気にしないでその人を心から愛してほしい。もし私の存在じゃ邪魔なら、忘れてしまっても構わないよ。ちょっと悲しいけどね。
こっそり短冊に書いた、樋口君と本当の意味で結ばれるってお願いは叶わなかったけど、幸せだったよ。
じゃ、長くなっちゃったしそろそろお別れだね。じゃあね」
声の記録はそこで途切れた。その後はノイズのようなものが数秒入った後に音は完全に途切れた。
案の定僕は泣いた。決壊した涙を止めようともしないで感情に任せた。初めてハッキリと聞く自分の声。泣いているからか、弱々しく聞こえた。生きててほしかった。それだけでよかったのに。

少し時間が経って空が暗くなった頃、ある程度落ち着いた。これで僕が死のうとしたなんて翼さんに知れたら、怒られちゃうだろうな。
今日はあるはずの月が見えないから、新月だね。確かにそこにあるのに、見えもしない、手も届かない月がいつもよりも遠くに感じられた。星になった君とはそれよりもずっと遠い距離を隔ててしまったのだけれど。
地球と月は三十八万キロメートルしか離れていないのに。恒星たちとは何光年と離れている。単位すら違う遠い距離が僕達の間にはある。音は秒速三百四十メートルで進むから、一言届けようとしたら何年かかってしまうのだろう。やっぱり三百四十メートルが憎らしいことに変わりはなかった。
新月で月の光が無く、いつもより何割増しか綺麗に輝く星を見ながら、翼さんの星はどれだろうと探した。ある一つの見つけて僕は少しだけ笑った。やっぱり君はシリウスがぴったりだった。
♪樋口翔太

「さよならのかわりに」

退院した今日、雨が降った。この大嫌いだった土砂降りの雨に、君への気持ちも流されて消えてしまうんだろうか。いや、きっとそんなことは無い。この気持ちはどんな雨にも消させはしない。雨粒がぱしゃぱしゃと地面を叩く音、雨樋を流れて側溝に流れ込む音。そのどれもがとても美しく聞こえる。雨を眺めながら伊勢物語百七段に載っている短歌を思い出す。

「数々に 思ひ思はず 問ひがたみ
身を知る雨は 降りぞまされる」

僕はこれ以上に切ない歌を知らない。少し前の僕に重ねてしまうと、未だにちょっとだけ泣きそうになってしまう。まだ気持ちが通じ合う前、僕のことが好きなのか好きじゃないのか、全然彼女の気持ちが読めないままだった。でもそんなことについて聞くわけにもいかない。自分の身の程を知る雨がしとしとと降っていた。
まったく、いつまで感傷的になっているんだと自分で自分に言い聞かせる。
飛び降りた時の怪我の後遺症が残り、少しだけ歩きにくくなった足で翼さんの家へと向かう。傘の表面を叩く雨が滴って、ズボンの裾を濡らす。歩く度に靴の中に水が染み込んできて少し不快だった。けど、今は雨が好きだ。リズミカルで不規則な雨音を聞きながら翼さんの家の近くの角を曲がる。
彼女の家のインターホンを押した。女性の声がどちら様ですかと僕に聞く。
「生前、翼さんの友……彼氏だった樋口翔太といいます」
「……よかった。ちょっと待ってて」
インターホンが切れた後、少し経って翼さんのお母さんが僕を出迎えてくれた。
「どうぞ上がって。あなたとずっと話したいと思ってた」
「ありがとうございます。お邪魔します」
リビングのような部屋に案内され、促されるままにテーブルについた。翼さんのお母さんは僕にコーヒーは飲めるかどうか聞いて、飲めることを伝えると、キッチンの方へ行った。一人残され、部屋を見回してみる。襖が空いていた隣の和室に、小さな仏壇があった。その手前に翼さんの遺影が置かれていた。彼女は笑っていた。それを見つめていると、コーヒーの香りと一つの箱と共に翼さんのお母さんが僕の正面に座った。僕の前にコーヒーカップを置いて微笑んだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます。すみません、突然なんですが、お先に線香をあげさせてもらえませんか。病院から出られず、お葬式に出られなかったので……」
「あぁ……もちろんよ。翼も喜ぶわ」
「ありがとうございます」
僕が仏壇の前に移動してロウソクに火をつけた時、背後から「翼、樋口君が来てくれたわ」と彼女のお母さんが言った。
線香に火をつけ、灰の受け皿に刺す。手を合わせ、数秒間目を瞑る。その後に鞄から『源氏物語』を取り出して遺影の横に置いた。
「なぁ翼。君には難しいかも知れないけど、いつか読んでみて欲しいな」
そう言ってテーブルに戻った。
「翔太君、よく来てくれたわ。ありがとう。耳が聞こえるようになったって聞いたわ。本当によかったわね……」
「いえ、本当はもっと早く来るべきだったんですけど……ちょっと色々あって」
「そんなこと気にしないわ。ねぇ、翼がどれだけ君のことを想っていたか知ってる?」
「いえ、実は、そこまでよく分からないんです」
「そう……でも君の耳がもう少し早く聞こえるようになっていたら、知ることも出来たのかもしれないわね。これを見てくれる?」
彼女のお母さんは、さっきコーヒーと一緒に持ってきた箱を開けて僕に渡した。中に入っていたのは、僕との筆談の跡が残ったルーズリーフやノートだった。既に捨てられているものだと思っていた。でもそんなことはなくて、一番最初に筆談をした時のものから全ての軌跡が、そこに入っていた。そのどれもが、僕の記憶を鮮明に浮かび上がらせた。箱の蓋には、「樋口君へ」と書かれていた。
「翼はね、家に帰って来るとすぐに君のことを話し始めるの。今日はこんな会話をしたんだよ。とか早く耳が聞こえるようになったらいいのに。とか毎日ね」
「そう……だったんですね……」
「そうよ。君の話をしている時の翼は、ずっと笑っていた。本当に嬉しそうな顔をして君のことを話していたの」
「翼……君はそこまで僕のことを……」
「樋口君、翼と仲良くしてくれて、あの子を愛してくれて本当にありがとう。翼を愛してくれたのが君で本当に良かった。これをずっと、言いたかったの」
その言葉を聞いた僕の胸になにか熱いものがこみ上げてきて、不意に視界が歪んだ。涙が零れていた。
「すみません……泣くつもりなんて、無かったんですけど。ごめんなさい」
「いいの。気にしないで」
堪え切れない涙に感情を任せて、そのまま小さな子供みたいに泣いた。枯れそうになった涙がようやく収まって顔を上げた時、翼さんのお母さんも泣いていた。
僕のことをそこまで思っていてくれたという事実と、彼女のお母さんの言葉が僕の心を優しく包んだ。もう真っ暗な気持ちなんて欠片ほどもなかった。
「樋口君、あの子の分まで幸せになって。これは今君に伝えられる私と翼の願い」
「今は……翼さんのことしか考えられませんが、いつか。彼女も僕にそういってましたから」
「そうよ。ずっと幸せに生きて。そして、たまにでいいから翼にも会いに来てあげて。あの子には君しかいないみたいだから」
僕は、無言で頷き、すみませんがそろそろ帰りますと言って席を立った。正直もう少しここにいたかったけど、そういう訳にもいかなかった。また来てくれるかと聞かれ、もちろんですと答えながら玄関を出た。閉まる扉に背を向け、家に向かって歩き出した。
全ての物語がハッピーエンドで終わるわけが無かったんだ。でも、それでも僕は、今まで生きていて良かった。もう君はこの世界にはいないけど、きっとあのシリウスが君だと信じて強く強く、生きていこう。いつか、あの世というものがあるのなら、そこで会う時まで。さよならのかわりに。
君が生きて、僕の近くにいたという事実が消えてしまわないように。
♪樋口翔太:大人になって

「大人っていうのは、大人の真似をするのが上手い人達のことを総じてそういうんだと思う」

あれから何年か経っても、シリウスはずっと僕の上に輝き続けていた。歳をとって、成人式も終わった。この何年かの間にもたくさんの思い出ができた。その思い出の中に、翼の存在があったらどれだけよかっただろう。僕の声が届く、翼の声が聞ける世界があったらどれだけよかっただろう。望んでも手に入らないものが多すぎる。
きっと大人っていうのはさ、大人の真似をするのが上手い人達のことを総じて大人って言うんだと思う。僕はずっと、あの日に縛りつけられたまま大人になれていない。体と年齢だけが大人と言われるまでに育っただけだ。大人の真似なんか出来なくて、真似の仕方も知らない。世界に馴染めないまま生きてきた二十歳までの僕は、退院したあの日の僕のままだった。
それでも二十歳の誕生日の日、雪乃原未咲にもう一度思いを告げられてから、僕の人生はまた少しだけ変わった気がする。
呼び出された喫茶店で突然思いを告げられた。彼女はやっぱり高校の頃から変わらない。
「ねぇ、樋口君の中に翼ちゃんがいて、ずっと忘れられるわけが無いのはわかってる。それでも、私の中にも高校生の頃からずっと今まで樋口くんがいて、忘れられなかったんだ。あのさ。私、樋口君のこと好きだよ。ずっと。やっと、声で伝えられる」
「久しぶり。突然どうしたのさ」
「今日さ、誕生日でしょ?これ言うなら今日しかないって思って」
「そのために隣の市まで来る?」
「そのためじゃなきゃ来ないよ。好きな人に好きって伝えるってさ、それくらい大事なことなんだよ。わかってると思うけど」
「あ、うん、そうだね、確かに」
「ほんとに分かってた?」
「分かってたよ。ただ、ちょっといきなりそんなこと言われるとドキッとするというか」
「なんだ、翼ちゃんの事以外でドキッとするなんてことあるんだね」
「まぁ、音とか声がしっかり聞こえるようになってからは人並みにはドキッとする事はあるよ」
「例えば?」
「今みたいな」
「告白みたいな?」
「そう」
「あの高校生の時のクールな感じの樋口君はどこにいったの?」
「筆談だと手短に伝えようとするからクールに見えてただけだと思うけど」
「そんなもんなの?」
「そんなもんだと思うよ」
「なるほどね」
「まぁ、大学入って少しは明るくなったと思えるけどさ」
「そうなんだね……あのさ、さっきの返事は?」
「上手く話逸らせたと思ったんだけどな。ダメだったか」
「ダメに決まってるでしょ。どう?私じゃ、やっぱりダメかな?」
「恋愛ってさ、難しいね」
「ねぇ、もう話逸らさないで」
「逸らさないよ。あのさ、僕って惚れやすいタイプなのかな」
「え?突然なに?惚れやすいかどうかなんてわかんないよ」
「まぁそりゃわかんないよね。でも、なんか翼の事は忘れられそうにないのに未咲ちゃんの事もなんとなく好きになっちゃったみたいだ」
「遅いよまったく。二年も待ってた」
「でも、僕はまだ翼のことを忘れられそうにないのに、未咲ちゃんとしっかり向き合えるのかな」
「あのさ、忘れられそうにないってのは分かるから、樋口君の中にいるのはまだ翼ちゃんでもいいから少しずつでも私のことも見て。過去に囚われないで、私と一緒に前を見て。ね?」
「そっか、なるほどね。僕はやっぱり過去に囚われてたんだね」
「囚われてるって言うとちょっと言葉があれだけど。まぁ、あの頃のことはあの頃のことでセピア色に褪せるまで大事にして、今は今で一緒に歩いて行けたらいいなって思って」
「大丈夫、言いたいことはわかるよ。ありがとう」
「うん。だからそろそろ返事教えて?どっちでも覚悟できてるから」
「わかったよ。まだ翼の事を忘れられてない僕でよければだけど、一緒に歩いてくれる?」
「ほんとに?」
「うん。二年も待たせてごめんね」
「ありがとう。あのさ、さっきの一言なんだけど、翼ちゃんの事は忘れないであげて。ちゃんと思い出にして樋口君の中で大切にして」
「それでもいいの?」
「うん。むしろ、その気持ちを大切にしてる樋口君と一緒に歩いていきたいと思う」
「ん、そっか」
「だから、よろしくね」
「うん、僕の方こそありがとう」
「じゃ、私ちょっとこれから用事もう一件あるからそろそろ行くね。ここのお会計よろしく、彼氏さん」
「え?いきなり?」
「冗談だよ冗談。多分これくらいで足りるよね」
彼女は千円札をテーブルに置いて席を立った。卒業した時よりずっと大人っぽくなった背中がそこにあった。
彼女が店を出たのを確認して、すぐさま携帯でメッセージを送った。
「今日は本当にありがとう。楽しかったし、嬉しかった」
直ぐに既読はつかなかった。アプリをタスクキルして、テーブルに残ったアイスコーヒーを飲む。氷が全部溶けて薄くなったアイスコーヒーは、ちょっとだけ苦かった。
そのコーヒーとともに、今までの過去の全部を飲み込めた気がした。翼のことも、自分のことも、未咲のことも。これからのことだって、きっと大丈夫。
♪樋口翔太

「過去には帰れない、なんて当たり前を言わないでくれよ」

未咲の置いていった千円札を折りたたんだまま財布に入れ、伝票を持ってお会計をお願いした。彼女が注文したものは普通に千円を超えていた。たったそれだけの事が少し面白く思えて、心の中で少しだけ笑った。財布から五千円札と、小銭を出した。お釣りを受け取って、店員さんの笑顔を背中に店を出た。
なんというか、今日はいい日だった。翼のこともある程度は自分の中で飲み込めた気がするし、新しい恋愛というものにも気兼ねなく進めそうだった。もちろん翼っていう大切な人がいて、その人を超えるような素敵な人は一生現れないんだろうけど。未咲は「それでもいい」って言ってくれた。過去に未練タラタラの僕を受け入れてくれた上に、高校時代のダサかった僕の事まで水に流してくれたみたいだった。
夕焼けの中、街を歩く人達の風景はいつになっても変わらない。駅前の交差点を電話しながら歩くサラリーマンとか、髪を派手な色に染めて騒ぐ大学生っぽい人達とか。変わっていく街並みの中で変わらないのは僕だけだ。なんて言ったら、どうせ二人に怒られちゃうから言わないでおくけど。
話は変わるけど、高校を卒業してから馬鹿みたいに早く過ぎ去った二年間は楽しかった。大学に行くことをやめてそのまま地元のローカルテレビ制作会社に就職した。最初は全く仕事に身が入らず怒られまくっていたけど、少し経ってから仕事のやり甲斐ってものに気づいた。自分が制作に携わった番組が駅前の大きなディスプレイで流れていて、それを見ていた子供と母親が笑っていた。傍から見れば、いつも夕方にやっている短い帯番組くらいの認識かもしれない。それでも、これを見て笑顔になってくれる人が少しでもいるなら頑張ろうと思えた。そんな小さな理由だ。
今日もあのディスプレイでいつもの番組が流れている。それを横目に家の最寄りのバス停を通るバスに乗る。
生きる意味、仕事をする意味、それらを見つけられる人生って素晴らしいと思う。まだ二十歳の若者がこんな事を言うのもなんだけど、僕は恵まれているし、運がいいと思う。そりゃあ不自由な生活を送ってきたし、漫画の世界かよってくらいの悲劇にも見舞われた。それだけ見れば確かに運は悪いかも知れないけど、その経験をした上で、今、僕は恵まれているし運がいいと言える人生に感謝してる。
救いようのない人生だってあるかも知れない。一生をかけても報われない事だって、この広い世界の中では日常茶飯事なのかも知れない。もしそんなことがあっても、「過去には帰れない」だなんて当たり前の事を言わないで、「こんな時だけど、未来の話をしよう」って言って欲しいと思う。崇高な理想ではあると思うけど、僕はそれが一番じゃないかと思うんだ。泣いても笑っても時間は進んでいく。辛くなったら立ち止まってもいいし振り返ってもいい。好きなだけ振り返って、後悔もして、それから未来を見よう。未来の話をしよう。そうすればきっと、少なからずいい方向に舵は切れると思うんだ。
♪side:雪乃原未咲

「完成しなかったはずのジグソーパズルが」


喫茶店を出て、今までの人生で一番本気のガッツポーズをした。周りが変な目で私の方を見たけど、そんなのはどうでもいい。翔太君の頭の中には翼ちゃんがずっといるんだろうけど、私は構わない。それを乗り越えて私を好きになってくれるって、信じてるから。
ほかの女のことが心に残ってる状態で誰かと付き合うなんて、普通だったら最低だとか言われるんだろうけど、翔太君はその辺ちゃんとわかってると思うから安心してる。正直ちょっと不安ではあるけど。
大人になってから、あの時に失くしたジグソーパズルのピースを見つけた気がした。心の中で黒く穴が空いていたパズルを一度は投げつけてバラバラにしたけど、捨てないでいてよかったと本気で思う。やっと、やっとはまったんだ。あの時恋をしてから、ずっと完成しなかったジグソーパズルがやっと完成した。そう思ったら、自然と涙が溢れてきた。
薄汚れたアスファルトを歩きながら、目頭をハンカチで拭う。メイクが落ちたり涙袋の近くが晴れてしまったりしてブサイクになってるとは思うけど、今はそんなことどうでもよかった。ブサイクなままで歩き続けた。
翔太君からメッセージが来ていた。帰ってからちゃんと返信しようと思い、既読だけ付けて携帯をカバンに戻した。なんて返そうかなぁ。なんて、高校生の彼女みたいなことを考えながら夕焼けに包まれる道を歩く。駅に着いて、隣の市までの切符を買う。電車を待っている間、反対のホームに来る電車のアナウンスが時折構内に響いていた。
帰りの電車に乗り、翔太君へのメッセージを返す。家に帰ってから返信しようとか決めといて、結局もう返信してしまった。しかもとても丁寧な文体で。面と向かってなら、適当になんでも言えるのに、メッセージになると言葉をしっかり選ぶようになる。普通に話せるようになるまで筆談だった翔太君は、ずっとメッセージを送る感覚で自分が発する文章を考えていたんだなぁ……なんて思うと、やっぱり彼はすごいと思う。言葉を綺麗に扱う彼の事がやっぱりどうしようもなく好きだった。そんな彼をこれからもずっと大切にしようと改めて心に決めた。距離も悲劇も全部乗り越えて、また新しい大きなジグソーパズルを、今度は二人で完成できるように。精一杯生きていこう。
♪side:樋口翔太 エピローグ

「物語の終わりっていうのは、もっとずっと劇的だと思ってた」

どうだったかな。
これが、みんなに伝えたかった僕の物語だ。音を失っていた僕とあの子との小さな、でも美しかったはずの恋の物語と、未咲と僕のこれからの話だ。
これからの話はまた今度、いつか話そうと思う。
結局僕は、今もあの時と変わらず「後悔」っていう言葉は土砂降りの雨と同じくらい大嫌いなはずなのに、たまに後悔してしまうことがある。たらればを言っても仕方がないってことは自分が一番よく分かっているのに。分かっているから、余計に後悔をしている自分にうんざりしてしまう。
だから、せめて少しだけでも、ポジティブに考えることにしようと思った。
彼女がいなくなった。じゃなくて。いなくなってしまったけど、そのうえで、距離と悲劇を乗り越えて、今がある。
そうだよ。
星が笑うこと。君が瞬くこと。流れていくあの星に未咲との将来を誓うこと。この広い星のどこか遠くで戦争が起こること。ずっと毎日好きな人に好きと伝えること。怪我をして血が流れること。病気になること。誰かに心から「ありがとう」と言うこと。昨日の喫茶店の出来事を思い出して笑うこと。全部をまとめて生きるということ。僕の隣にいない翼の分まで、未咲の事を好きになって、いずれは愛して、生きていく。それもやっぱり、生きるということ。
僕の話を聞いてくれた君には、ずっと今を大切に生きてほしい。この物語と出会って、少しでも今を大切に生きようと思ってくれたら嬉しいよ。
さぁ、長くなってしまっても仕方ないし、そろそろこの物語も終わりにしないとね。聞いてくれて、ありがとう。またいつか、僕の話を聞いてくれると嬉しいな。
不思議だね。物語の終わりっていうのは、もっとずっと劇的なものだと思ってたよ。

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