♪樋口翔太
 
「それだけでよかったのに」

瞼の裏側が眩しくて目が覚めた。視界がぼんやりして、白い天井しか認識出来ない。あんな高いところから飛び降りて死んでない僕は、どんな運命のもとに生かされているんだろうか。死に場所はここじゃなかったみたいだ。
動くのはほとんど腕と手だけで、体を起こすことすらできなかった。相当重症らしかった。頭に触れてみた。髪の毛に触れた感触がなく、布のようなものが指先触れた。きっと包帯だ。まったく、どうしていつもいつも思った通りにならないんだろう。
聞こえない耳なんてただの飾りでしかないし、目の前で大好きな人が死んじゃうし。挙句の果てには死のうとして死ねないんだから、笑えない。誰も、僕の願いなんて叶えてくれない。聞いてすらもらえないのかもしれない。
でも僕はまだ、弱い人間だった。いざ目が覚めてみると、誰かに会いたくて仕方なかった。会いたいというか、顔を見たいというか。それでも一度は死を選んでしまったから、長峰先生や江崎さんとは顔を合わせづらい。
部屋の壁に掛かっているデジタル時計を見た。屋上にいたあの日から、四日も経っていた。そんなに長いこと眠っていたのかと思った。そんな事どうでもいい。
いい加減に生きてるのが面倒くさくなってきた。高校卒業直後の時期にして、既にそんな考えになっていた。どうせ大学にも行けず、ろくな仕事に就けないまま大人になって、その日暮らしみたいな生活を送って生きていくなら、消え去ってしまいたい。誰かの記憶にすら残っていたくない。
そんな陰鬱な気持ちが渦巻いてる中、突然病室の外からギターのような弦楽器の旋律が聞こえてきた。英語で歌っているから何かの洋楽だと思う。優しげなメロディに、曇り空みたいな灰色の心が少しだけ明るくなった気がした。
ずっと聞こえているそれをメロディに乗せて少し口ずさんでみた。歌詞を日本語に訳してみる。
『昔、故郷へと続く道があった。
故郷へと、続く道が。
おやすみ、愛しい君。泣かないで。
子守唄を歌ってあげよう。
黄金の微睡が、君の瞳を満たす。
君は微笑み、目を覚ます…』
その時、とんでもない事に気づいた。僕の耳が音を、メロディを聞きとっている。英語の歌詞も、自分の声も。今まで驚いてきたことのどんなものよりも衝撃が走って、口から心臓が出そうになった。今この奇跡と呼べるかわからない出来事をどうしてくれよう。誰かに伝えようと思った時には既にナースコールに手が伸びていた。
看護師の江崎さんがいつもの筆談用のノートとペンを持ってきてくれた。僕が目を覚ましたことを早く確認したかったのか、走ってきたみたいで少し息が切れ気味だ。
「目が覚めたのね、なんで死のうとなんてしたの?しかも飛び降りなんて」
いつものように筆談が始まる。でも僕にはもう必要の無いことだった。
「翼さんの遺書を読みました。そして僕は生きている意味が無いと、そう思ったんです」
と、声に出して言った。目の前に座っている江崎さんと、さっきの二分前の僕はきっと同じ驚きの顔をしていたと思う。
「樋口……君。聞こえるのね……?」
「ええ、間違いなく。江崎さんって想像していたよりも、綺麗な声だったんですね。」
「よかった……ちょっと待ってて」
「長峰先生を呼びに行くんですね」
「そうよ、話してもらわなきゃ」
「分かりました」
江崎さんが長峰先生を呼びに行って、一人になった時にふと思った。人生初のちゃんとした会話がなんのことはない普通の一人の看護師さんだってことに気づいてちょっと可笑しくなってしまう。家族でもなく、翼さんでもなく。少し口角が上がって、自分が微笑んでいた。また少し驚く。まだ僕は笑えるんだ。
五分くらい経って、今度は長峰先生が僕の前に座った。
「樋口君。声が聞こえて、しかも喋れるようになったって本当か」
「はい、こう答えることが証明になるでしょう」
「そうか……よかった。本当に良かった。多分落ちた時の衝撃で脳に何か奇跡的な変化が起きたとしか思えないが……。それでも、本当によかった。死のうとしたことはこの際咎めることも無いか」
「怒られると思ってましたよ『死ぬなって言っただろうが』って」
「正面玄関の横に君が血まみれで倒れていたのを見つけた時は焦ったさ。多分あそこから飛び降りたんだろうって。それでもし起きたら叱ってやらないといけないって思った」
「そうなんですか……『もし起きたら』ってどういう意味ですか。僕は目を覚まさない可能性があったって事ですか?」
「あぁ。君が血を流していたのは頭からだったし、脚が変な方向に曲がってた。それに四日も起きないもんだから植物状態か、最悪そのまま死んじまうかもってことも覚悟したさ」
「……すみません」
「いいさ。血色も良くなったし、もうあんな死のうなんてバカなことは考えないだろうしな」
「はい。大丈夫ですよ」
「これから君はどうしたい?」
「どう、とは?」
「怪我の程度は後で話すが、重症だ。病院から出てもらう訳にはいかない。でも受験生だろう。それが大事な試験だということは俺も分かる。だからと言って入試に行かせることは出来ない」
「分かってます。今は治療に専念して、治ってしっかり動ける様になったら、どこかで働きますよ」
「それでいいのか、本当に」
「やだな、なんでそんな深刻な顔してるんですか。死ぬなって言ってくれた時の方が頼もしかったですよ」
「そうか。じゃ俺は君が早く退院して仕事に就けるようにしてやらなきゃな」
「お願いしますよ。先生」
「あぁ。ちょっとほかの患者さんのところにも行かなきゃいけなくて、また後で来る」
「待ってます」
そうして、長峰先生は別の患者さんのところへ行った。後ろでずっと少し泣きそうになっていた江崎さんもついて行った。また僕は一人になった。静かな病室に僕と長峰先生の声が染み込んでいった。
会話の余韻に浸っていた。ふと思い出した。翼さんの遺したICレコーダーの事を。一も二もなくそれをテレビの下の引き出しの中から取り出して電源を入れ、再生ボタンを押した。
「樋口君。
これを聞いているってことは君に何かの奇跡が起きて、声が、音が聞こえるようになったんだね。私が死んじゃってからどれぐらい経ったのかな。まぁそれはいいや。
とりあえずまずは読んだと思うけど、私の声で届けたいから一緒に入れておいた手紙を読むね。」
僕の想像したとおりの綺麗というか、かわいいというか、そんな声がメッセージを僕に届けている。
「遺書。
樋口君へ。同梱してあるICレコーダーには、今の私の気持ちが吹き込んであります。と言っても、どうせ樋口君がこれを見る頃には私は死んじゃってるんだからあんまり関係ないよね。
せっかく想いが通じあったのに、すぐに私が逝ってしまう事を君は許さないでしょう。それでも、許してほしい。どうか泣かないで。あとを追おうとかいう風なバカなことも、絶対に考えないで。そして、できたら忘れないでほしいな。まぁこれは単なる私のワガママ。
最期の時、君の目に映っていた私は、まだ君が愛することの出来る存在でしたか。答えが聞けなくて残念だけど、私は君のことをずっとずっと、いつまでも愛してる。大好きだよ。
こうやって君を愛したのも自分の為。
手術をしないことを選んだのも、自分の為。
死を受け入れたのは自分の決断。
死ぬことを君に伝えたのも、私の決断。
だから、絶対に自分を責めないで。きっと君は、何かにつけて私が死んだことに対して自分を責めてしまっている気がしたから。そうだよ、君は何も、悪くない。
織姫と彦星みたいにとても遠い距離を隔てて一年に一度も会えなくなっちゃったわけだけど、君は私の、私は君の心の中できっと強く生きているって信じてる。だから私は、運命なんてものは恨まないよ。それがたとえ、どんなにか残酷なものだったとしても。
人としての「当たり前」があることがどんなに幸せかを教えてくれた君は、とても大切な人。この世を離れた、今でも。ねぇ、樋口君。私を好きになってくれて本当に、本当にありがとう。
幻想でも妄想でも構わない。そんなもの「どうでもいい」と思うほどに愛した君を、天国に行っても忘れないよ。ありがとう。サヨナラ。高橋翼。」
翼さんの遺書がそのまま読まれて、静かになった。少し間が空いて、また言葉が紡がれ始めた。
「とまぁ、ここまでは手紙に書いた通りだから重要じゃないんだけど。私が自分の声で伝えたいのはここから。樋口君がこれを一生聞けないなら、それはそれで仕方ないけど。
私が樋口君を愛したように、君もまた他の誰かを愛せる時がきっと来るはず。そんな時、私が心の隅にいるなら、どうか気にしないでその人を心から愛してほしい。もし私の存在じゃ邪魔なら、忘れてしまっても構わないよ。ちょっと悲しいけどね。
こっそり短冊に書いた、樋口君と本当の意味で結ばれるってお願いは叶わなかったけど、幸せだったよ。
じゃ、長くなっちゃったしそろそろお別れだね。じゃあね」
声の記録はそこで途切れた。その後はノイズのようなものが数秒入った後に音は完全に途切れた。
案の定僕は泣いた。決壊した涙を止めようともしないで感情に任せた。初めてハッキリと聞く自分の声。泣いているからか、弱々しく聞こえた。生きててほしかった。それだけでよかったのに。

少し時間が経って空が暗くなった頃、ある程度落ち着いた。これで僕が死のうとしたなんて翼さんに知れたら、怒られちゃうだろうな。
今日はあるはずの月が見えないから、新月だね。確かにそこにあるのに、見えもしない、手も届かない月がいつもよりも遠くに感じられた。星になった君とはそれよりもずっと遠い距離を隔ててしまったのだけれど。
地球と月は三十八万キロメートルしか離れていないのに。恒星たちとは何光年と離れている。単位すら違う遠い距離が僕達の間にはある。音は秒速三百四十メートルで進むから、一言届けようとしたら何年かかってしまうのだろう。やっぱり三百四十メートルが憎らしいことに変わりはなかった。
新月で月の光が無く、いつもより何割増しか綺麗に輝く星を見ながら、翼さんの星はどれだろうと探した。ある一つの見つけて僕は少しだけ笑った。やっぱり君はシリウスがぴったりだった。