♪side:高橋翼 回想
「xとかyに当てはまるのが恋なら私も数学が好きだったのに」
樋口君は数学が得意らしかった。一度、合同授業の時に問題を解いているのを見たことがあったけど、私の頭では追いつけない解き方をしていた。私はxとかyとか、挙句の果てにzまで出てきた時には問題用紙に軽く殺意さえ覚えるのに。それほどに数学は苦手というか嫌いだった。公式なんてものを覚える気にすらならないし、覚えなければ一ミリも解けない。本当にやる気がゼロどころかマイナス五十くらいにはなってると思う。だから、数学の授業はほとんど居眠りをしてるし、提出物なんて出していない。今回も通知表は一が確定だと思う。
自分に出来ないことを出来る人は男だろうと女だろうとかっこいいけど、これを好きな人にあてはめると二倍も三倍もかっこよく見えてしまうのが不思議だ。
その手元をじっと見つめてしまっていた。すごいスピードで動くペンと、私には意味が分からない数式が伸びていくノートを興味の無さそうな視線で見つめる樋口君の顔を。αもβもγも、xだってyだってどうでもよくなるくらいに見つめてしまってた。でもzだけはどうでもよくない。行き止まりだから。行き止まりに来ちゃったらもう終わり。引き返せない。だからいつも私は本音を過去形でしか言えなかったんだ。よく分からなくなってきた。
『好きでした』『愛してた』なんて、ちょっと勇気を振り絞れば『好き』の二文字はきっと言えてた。出来なかったのはやっぱり弱いから。傷つかないように、言葉を間違わないように、目の前の人に「好き」を伝える為に慎重になって、どうにかしたくて最後には何も言えなくなって。こんな私は弱いと思いますか。なんてアンケートでもしてみたとしたら、答えは決まりきってる。
xとかyに当てはまるのが恋なら私も数学が好きだったのに。と思う。でも残念だけどそんなことはなくて、やっぱり答えは数字なんだ。恋愛方程式なんて、そんなどっかの大人数のアイドルの曲みたいな事にはならないんだ。
そんなことを考えてぼやっとしていただけで、気づけばチャイムが聞こえている。ほとんど何も書いてないノートと教科書とペンケースを持って多目的ホールを出た。次の授業は地学。宇宙とか天文分野に入ったところだった。
教室に戻る前、階段の踊り場でクラスメイトの桜田さんに話しかけられた。背中に思い切り体当りされたのは、まぁ友達だからなのだろう。
「翼ちゃん、あんたもしかしてあの人のこと好き?」
「え、誰のこと言ってるの?」
さすがにちょっと動揺した。まさか気づかれたかな。
「はいそこでとぼけない、樋口君でしょ?」
気づかれてた。なんなんだこの子は。魔女の魔法でも使えるのかな。
「え、なんで」
「なんでわかったの。とか言いたいんでしょうけど、さすがに分かるよ。だってずっと見てるんだもん」
「あれ、そんな見てたかな」
「ガン見だったよ、樋口君に火でもつきそうなくらいの視線を送ってたよ」
なんて言いながら彼女は笑う。桜田さんはこんな時、とてもいい笑顔で笑っている時、実は何か悩んでるんだ。いつもそうだったから分かる。多分今回も同じかも知れない。
「なんか嫌なことでもあった?」
「え、何もないよ大丈夫」
「ほんとに?ならいいんだけど」
なんて返しておきながら、はなからその言葉を信じてはいなかった。だって、桜田さんの口から「大丈夫」って帰ってきた時、大抵は大丈夫じゃなくてどこか傷ついてるんだ。だから私は親しい人の「大丈夫」って言葉はあまり信じない。
桜田さんといつの間にかはぐれて一人誰もいない教室に着いた。静かな空間に机が並んでいるだけだけど、窓から差し込んでくる薄紅の夕焼けの光がとても綺麗だった。そんな光に見とれていたい気分でもあったけど、理科室に行かなければならなかったから持つべきものを持ってまた階段に向かった。
地学の授業は数学よりは嫌いじゃない。でも好きじゃない。物理とか化学よりは幾分かましだけど結局計算とか必要だし、めんどくさい。でも今回はそんな心配はいらないみたいだった。
「今日は星座と星について話そうと思う。テストとかには出さないからちょっとした雑学程度に考えてくれればいいよ」
先生がそう言った時、割と嬉しかった。いつものハッブル定数がどうとかどっからどこが何光年だとか難しいこと考えなくてよさそうだった。
「これから紙配るから、好きな星と星座の名前を一つずつ書いて後ろから回して。んでくじ引きみたいに引いて当たった星の話をすることにしよう」
よし、今回は楽だと心の中でガッツポーズをした。
配られた紙に書こうにも星座と星の名前なんてほとんど知らないんだな……なんて思ったけど、一つだけ知ってる星座と星があった。私はそれを書いて前の人に渡した。
「よーし、集まったな。じゃあ一つ目だ」
と言って先生は折りたたまれた紙から一つを選んで開いた。
「お、さそり座とミラか。さそり座はともかく、ミラなんてなかなかマニアックなの書いたね。えっと、さそり座ってのは……」
ぼやっとずっと聞いていたけど寸分も頭に入ってこない。ギリシャ神話なんて世界史だか哲学だかの授業でやればいいのに。
そうこうしてるうちに、またしても気づかない間にチャイムが鳴り始めていた。居眠りをしていたようで、相当疲れてるみたいだ。そういえば、私の書いたやつは紹介されたのだろうか。
重い頭を上げて教室に帰ろうと廊下に出た時、地学の先生に話しかけられた。
「翼さん、これからちょっといい?暇?」
「はい?なんですか?」
「教室帰るまででいいんだけど、ちょっと話聞いていかない?」
「すみません、寝てました」
「あぁ、その件じゃなくてね。てか、今日は別に寝てようが何してようが気にしないよ」
「あ、違うんですか」
「翼さん、さっきの授業でオリオン座とベテルギウスって書いてたよね?」
「あぁ、はい。確かにそうですね」
「理由はあるの?」
「いえ、特に無いですけど。強いていえば一番最初に頭に浮かんだからとかですかね」
「せっかく書いてくれたんだし、よかったら少し話させてよ。オリオン座とベテルギウスのこと」
「いいですよ、私も少し聞きたいです」
「よかった。 じゃあ話すね。そうだな……オリオン座のあの右肩の大きい星、分かる?」
「見たことはありますけど……名前とかは全く知らないですね」
「ベテルギウスっていうんだけど、もう爆発しちゃったんだって。それなのにこれから先五百年くらいは光ってるんだよ」
「え、なんでですか?」
「ベテルギウスからの光が私たちの目に届くまで五百年かかるからだよ。あ、もう職員室だから、じゃあまた次の授業でね」
「はい、わざわざありがとうございました」
なんだか壮大な、とても心に響く話を聞いた様な気がした。そっか、そうなのか。私の知らない、美しい軌跡の話。星の命、なんて考えたこともなかったし、星っていうものは生まれてからずっと宇宙が滅びるまでそこで輝いているものだと思っていた。それが当たり前だと思っていた。
さっきの話を聞いて、当たり前が当たり前なんかじゃないってことに気づいた。あのベテルギウスって星は輝いてるのに、本体はもう無い。だから、樋口君の耳が聞こえないことも、普通の人は耳が聞こえるのも当たり前なんかじゃない。もしかしたら、この世に樋口君がいることも当たり前じゃなかったのかもしれない。
どこぞの小説とか漫画とかに出てくるようなパラレルワールド。とまでは言わないけれど、樋口君のいない世界線があるのかもしれないし、樋口君はいるけど私のいない世界線がもしかしたらあるのかも。そう考えるとなんとなく複雑な気持ちになる。だけど、やっぱり私も樋口君も同じ世界で生きていて、樋口君の耳がしっかりと聞こえて、普通に声で気持ちを伝え合える。そんな世界が理想で、つまるところ、私が思う一番の幸せなんだ。
「xとかyに当てはまるのが恋なら私も数学が好きだったのに」
樋口君は数学が得意らしかった。一度、合同授業の時に問題を解いているのを見たことがあったけど、私の頭では追いつけない解き方をしていた。私はxとかyとか、挙句の果てにzまで出てきた時には問題用紙に軽く殺意さえ覚えるのに。それほどに数学は苦手というか嫌いだった。公式なんてものを覚える気にすらならないし、覚えなければ一ミリも解けない。本当にやる気がゼロどころかマイナス五十くらいにはなってると思う。だから、数学の授業はほとんど居眠りをしてるし、提出物なんて出していない。今回も通知表は一が確定だと思う。
自分に出来ないことを出来る人は男だろうと女だろうとかっこいいけど、これを好きな人にあてはめると二倍も三倍もかっこよく見えてしまうのが不思議だ。
その手元をじっと見つめてしまっていた。すごいスピードで動くペンと、私には意味が分からない数式が伸びていくノートを興味の無さそうな視線で見つめる樋口君の顔を。αもβもγも、xだってyだってどうでもよくなるくらいに見つめてしまってた。でもzだけはどうでもよくない。行き止まりだから。行き止まりに来ちゃったらもう終わり。引き返せない。だからいつも私は本音を過去形でしか言えなかったんだ。よく分からなくなってきた。
『好きでした』『愛してた』なんて、ちょっと勇気を振り絞れば『好き』の二文字はきっと言えてた。出来なかったのはやっぱり弱いから。傷つかないように、言葉を間違わないように、目の前の人に「好き」を伝える為に慎重になって、どうにかしたくて最後には何も言えなくなって。こんな私は弱いと思いますか。なんてアンケートでもしてみたとしたら、答えは決まりきってる。
xとかyに当てはまるのが恋なら私も数学が好きだったのに。と思う。でも残念だけどそんなことはなくて、やっぱり答えは数字なんだ。恋愛方程式なんて、そんなどっかの大人数のアイドルの曲みたいな事にはならないんだ。
そんなことを考えてぼやっとしていただけで、気づけばチャイムが聞こえている。ほとんど何も書いてないノートと教科書とペンケースを持って多目的ホールを出た。次の授業は地学。宇宙とか天文分野に入ったところだった。
教室に戻る前、階段の踊り場でクラスメイトの桜田さんに話しかけられた。背中に思い切り体当りされたのは、まぁ友達だからなのだろう。
「翼ちゃん、あんたもしかしてあの人のこと好き?」
「え、誰のこと言ってるの?」
さすがにちょっと動揺した。まさか気づかれたかな。
「はいそこでとぼけない、樋口君でしょ?」
気づかれてた。なんなんだこの子は。魔女の魔法でも使えるのかな。
「え、なんで」
「なんでわかったの。とか言いたいんでしょうけど、さすがに分かるよ。だってずっと見てるんだもん」
「あれ、そんな見てたかな」
「ガン見だったよ、樋口君に火でもつきそうなくらいの視線を送ってたよ」
なんて言いながら彼女は笑う。桜田さんはこんな時、とてもいい笑顔で笑っている時、実は何か悩んでるんだ。いつもそうだったから分かる。多分今回も同じかも知れない。
「なんか嫌なことでもあった?」
「え、何もないよ大丈夫」
「ほんとに?ならいいんだけど」
なんて返しておきながら、はなからその言葉を信じてはいなかった。だって、桜田さんの口から「大丈夫」って帰ってきた時、大抵は大丈夫じゃなくてどこか傷ついてるんだ。だから私は親しい人の「大丈夫」って言葉はあまり信じない。
桜田さんといつの間にかはぐれて一人誰もいない教室に着いた。静かな空間に机が並んでいるだけだけど、窓から差し込んでくる薄紅の夕焼けの光がとても綺麗だった。そんな光に見とれていたい気分でもあったけど、理科室に行かなければならなかったから持つべきものを持ってまた階段に向かった。
地学の授業は数学よりは嫌いじゃない。でも好きじゃない。物理とか化学よりは幾分かましだけど結局計算とか必要だし、めんどくさい。でも今回はそんな心配はいらないみたいだった。
「今日は星座と星について話そうと思う。テストとかには出さないからちょっとした雑学程度に考えてくれればいいよ」
先生がそう言った時、割と嬉しかった。いつものハッブル定数がどうとかどっからどこが何光年だとか難しいこと考えなくてよさそうだった。
「これから紙配るから、好きな星と星座の名前を一つずつ書いて後ろから回して。んでくじ引きみたいに引いて当たった星の話をすることにしよう」
よし、今回は楽だと心の中でガッツポーズをした。
配られた紙に書こうにも星座と星の名前なんてほとんど知らないんだな……なんて思ったけど、一つだけ知ってる星座と星があった。私はそれを書いて前の人に渡した。
「よーし、集まったな。じゃあ一つ目だ」
と言って先生は折りたたまれた紙から一つを選んで開いた。
「お、さそり座とミラか。さそり座はともかく、ミラなんてなかなかマニアックなの書いたね。えっと、さそり座ってのは……」
ぼやっとずっと聞いていたけど寸分も頭に入ってこない。ギリシャ神話なんて世界史だか哲学だかの授業でやればいいのに。
そうこうしてるうちに、またしても気づかない間にチャイムが鳴り始めていた。居眠りをしていたようで、相当疲れてるみたいだ。そういえば、私の書いたやつは紹介されたのだろうか。
重い頭を上げて教室に帰ろうと廊下に出た時、地学の先生に話しかけられた。
「翼さん、これからちょっといい?暇?」
「はい?なんですか?」
「教室帰るまででいいんだけど、ちょっと話聞いていかない?」
「すみません、寝てました」
「あぁ、その件じゃなくてね。てか、今日は別に寝てようが何してようが気にしないよ」
「あ、違うんですか」
「翼さん、さっきの授業でオリオン座とベテルギウスって書いてたよね?」
「あぁ、はい。確かにそうですね」
「理由はあるの?」
「いえ、特に無いですけど。強いていえば一番最初に頭に浮かんだからとかですかね」
「せっかく書いてくれたんだし、よかったら少し話させてよ。オリオン座とベテルギウスのこと」
「いいですよ、私も少し聞きたいです」
「よかった。 じゃあ話すね。そうだな……オリオン座のあの右肩の大きい星、分かる?」
「見たことはありますけど……名前とかは全く知らないですね」
「ベテルギウスっていうんだけど、もう爆発しちゃったんだって。それなのにこれから先五百年くらいは光ってるんだよ」
「え、なんでですか?」
「ベテルギウスからの光が私たちの目に届くまで五百年かかるからだよ。あ、もう職員室だから、じゃあまた次の授業でね」
「はい、わざわざありがとうございました」
なんだか壮大な、とても心に響く話を聞いた様な気がした。そっか、そうなのか。私の知らない、美しい軌跡の話。星の命、なんて考えたこともなかったし、星っていうものは生まれてからずっと宇宙が滅びるまでそこで輝いているものだと思っていた。それが当たり前だと思っていた。
さっきの話を聞いて、当たり前が当たり前なんかじゃないってことに気づいた。あのベテルギウスって星は輝いてるのに、本体はもう無い。だから、樋口君の耳が聞こえないことも、普通の人は耳が聞こえるのも当たり前なんかじゃない。もしかしたら、この世に樋口君がいることも当たり前じゃなかったのかもしれない。
どこぞの小説とか漫画とかに出てくるようなパラレルワールド。とまでは言わないけれど、樋口君のいない世界線があるのかもしれないし、樋口君はいるけど私のいない世界線がもしかしたらあるのかも。そう考えるとなんとなく複雑な気持ちになる。だけど、やっぱり私も樋口君も同じ世界で生きていて、樋口君の耳がしっかりと聞こえて、普通に声で気持ちを伝え合える。そんな世界が理想で、つまるところ、私が思う一番の幸せなんだ。