「見つけた――」
低く、くぐもった声がした。私は慌ててスマートフォンを取り出し、ライトをつける。ライトは夜の闇をただ素通りするだけ。何も映さない。
しかし、私の目には大きな男の姿が見えていた。いや、正確には男と呼ぶべきではないだろう。二メートルは越えるだろう見上げるほどの体格に黒い羽。修験道の行者のような衣服。その顔は人間ではない。漆黒の羽毛とくちばしと目を持っていた。たとえるなら、烏――。
“あやかし”だ。
それも、これまで見たもののなかで考えると、危険なあやかし。
たぶん、烏天狗。友好的なものもいるが、いま私の前にいる烏天狗は違う。くちばしを大きく開けて私を威嚇していた。
まずい。逃げなくては――。
私はスマートフォンのライトで足下を照らしながら全力で駆け出した。
しかし、烏天狗も私を追ってくる。
知らない土地。知らない道。星明かり以外の光のない夜のなかを、ただ走るしかない。山のなかの温泉地だからとかかとの高くない靴を履いてきて良かった。
「はあ、はあ、はあ――」
逃げても逃げても、烏天狗は一定の距離で追ってくる。
まるで悪夢のなかを逃げているようだった。
バス停からチラシに書いてあった「いざなぎ旅館」はすぐ近くのはずなのに。
どこに行けばいいの――?
すると、目の前にぼんやりオレンジ色に光るものが現れた。私は無意識にその明かりに頼った。
息を切らせて走って行くと、そこには端正な作りなのにずいぶん物憂げな顔をした若い男の人が立っていた。たまたま居合わせたと言わんばかりのふらりとした立ち姿。なのに、不思議と様になっている。どういう仕組みかは分からないけど、全身がぼんやり光っている。あやかしのような、この世のものではない光とは違う。肩の辺りから、光がほのかに身体を包んでいるのだ。
その男は明らかに私を見て、言った。
「助けようか」
私は一瞬だけ迷った。本当に人間なのか。人間にあやかしの凶暴なあやかしができるのか。だけど、私はその〝光〟を信じて、告げた。
「助けてください」
そのままその男の横に足をもつれさせて滑り込み、倒れ込む。走るのも限界だった。膝に冷たい草の感触がする。男が立っているところが草の上で良かった。心臓が激しく鼓動を打ち、息もままならない。大学二年生で体育の授業を終えてから運動していなかったツケだ。
思い切り転んだ私には目もくれず、その男は懐から金色の細い棒を取り出した。目の前に烏天狗が迫る。男よりも烏天狗のほうが頭ひとつ大きかった。
しかし、動じる様子はない。
「本来は悪鬼(あっき)祓いの呪文だが、まあ効くだろう……天も感応、地も納受、御籤はさらさら」
男は呪文を唱えると飛び上がった。金色の棒を逆手に構える。烏天狗の脳天をそのまま殴りつける。ゴンっと鈍い音がして「ぎぐえぇぇぇ」と、烏天狗が絶叫した。夜の闇が震える。脳天を押さえる。よろめいて膝をついた。
強い――。
私が唖然としていると、男性は慇懃無礼(いんぎんぶれい)に烏天狗に言い放った。
「困りますね、お客さま。うちの宿で元気になったからって、帰りしなにさっそく人間に手を出されては。――去(い)ね」
男が柏手(かしわで)を打つ。烏天狗が柏手の音にのけぞる。悔しそうにもう一度叫び、烏天狗は黒いつむじ風となって去って行った。
烏天狗の気配がいなくなるのを待って、男が私を見た。
天の川を背景に、山間を流れる雪解け水のような怜悧(れいり)で白皙(はくせき)の顔をしていた。月明かりのように白く冴え冴えとした肌、星を宿したように美しい瞳だけど、どこか心を閉ざした寂しそうな印象だ。作務衣というのだろうか、黒っぽい服を着ている。
「日没になっても来やしねえから、見てこいって大旦那が言うんで来てみれば、とんだぼんくらが来やがったな」
澄んだきれいな声なのに、恐ろしく人を馬鹿にしたしゃべり方をしていた。もとが美形なぶん、よく切れるカミソリのように鋭利に耳を打つ。初対面の相手ながら、私はちょっとかちんときた。いいよね。あっちだって初対面の私に悪態をついたのだから。
しかし、この無礼な美形は敵意を持った烏天狗をただの一撃で撃退してしまったのだ。当たり前だけど、私と同じであやかしが見えるのだ。私以外にそういう力を持った人に実際に会ったのも初めてだけど、それを打ち負かすことができる人なんて見たことがなかった。私はあやかしも霊も見えて話ができても、他には何もできたりしないのだから。
いまこうしているときも、この男の身体はうっすらと光っている。
まさかと思うけれど、やはり本当は彼もあやかしなのだろうか……。
「あ、あの……」
スマートフォンのライトで足下を照らす。私がこの人との距離を測りかねていると、男性の方から舌打ちをしてきた。
「ちっ。助けてやったのに礼もなしか。まあいいけどな。『いざなぎ旅館』はこっちだ」
「いざなぎ旅館」という名前を聞いて、私は我に返った。この人、これから以降としている旅館の関係者なのか。嘆息しながら歩き出そうとする男性に、慌てて頭を下げた。
「た、助けていただいてありがとうございました。えっと、私、従業員募集のチラシを見て参りました藤原静姫と申します」
この人が人間だったら当然の礼儀だし、あやかしだったら怒らせてはいけない。
すると男性はちらりとこちらに顔をねじ曲げた。
「聞いてる。ま、俺は大旦那に言われて迎えに来ただけだしな。俺は葉室法水。『いざなぎ旅館』の従業員だ」
温泉旅館の従業員を名乗るには横柄すぎないだろうか。私はあまり人にレッテルを貼ったりするのは好きではないのだけど、あまりにもつっけんどんすぎる。
ふたりで黙ってしばらく歩く。思ったよりも走り回ってしまったようだ。葉室さんがいなければ、また迷子になっていただろう。
隣で歩きながら葉室さんの顔を見上げる。きれいな顔だなと思った。肌のきめが細かいし、男性なのに石けんの香りがほのかにしている。降るような星空の下の美青年。どこかおとぎ話めいていて、本当にこの人が人間なのか、また分からなくなってきた。
「あの、『いざなぎ旅館』は、ここから近いんですか」
美青年との沈黙に耐えきれず、話しかけてみる。就活で培った笑顔を添えて。
「ああ」
……ん? それでおしまい?
「あの、葉室さんは、『いざなぎ旅館』は長いんですか」
「………………」
今度は答えがなかった。
「さっき、あなたの肩の辺りが光って見えたのですけど――」
「………………」
やっぱり答えがない。悪い人ではないかもしれないけど、とっつきにくい人であることはたしかだと思った。
向こうから別の光がアスファルトを動いている。あれは懐中電灯の光だ。それを見たときに、葉室さんの全身をうっすらと覆っていた光が消えた。
「善治郎さん!」と、葉室さんが海中電灯に声をかけた。光が私たちを探すように少し揺らめき、こちらに向けて近づいてきた。
「ああ、葉室くん。よかったよかった。どこ行っちゃったかと思って心配したよ」
いかにも人の好さそうなおじいさんの声だった。「従業員志望者、連れてきましたよ」
「ああ、そりゃあ、よかった」
と、おじいさんの声が海中電灯で下から自分の顔を照らした。
「ひっ!?」
べただったけど、びっくりしてしまった。
「はっはっは。驚かせちまったかな。どうも、初めまして。石守善治郎と申します。一応、番頭ってことになってるけど、そんな偉かねえからさ。みんな、〝善治郎さん、善治郎さん〟って呼ぶから、あなたもそれでいいよ。緊張しなくていいから」
細身の、しわだらけの顔をした善治郎さんは、おどけたように言った。死んだおじいちゃんのやさしい笑顔をちょっと思い出す。だけど、私を笑わせようとして、顔をライトで照らすのはやめていただきたかった。
「石守さん……」
どこかで聞いたことがあるような気がして、私は慌ててチラシを取り出し、スマートフォンのライトで照らす。「採用担当・石守」とあった。
「ははっ。それ、俺が作ったチラシだ。結構うまいもんだろ」
と、のぞき込んだ善治郎さんが笑っている。
「え、ええ……」
デザイン的にいろいろ言いたかったけど、見たところ七十歳過ぎのおじいさんが作ったのだとしたら大したものだ。私は考えを改めた。
「烏天狗に追っかけられててさ」と、葉室さんが面倒くさそうに言う。「おまけに、こいつとろくて」
こいつというのは私のことだ。息するように嫌味をいう方ですね……。
とはいえ、烏天狗に追いかけられるとかって、大変な出来事だと思うんですけど。
そして、なんでおふたりはそれを普通に話しているの?
「あれ。ほんとかい。怖かったろう。ときどき悪さする奴が出るんだよなぁ」
と、田舎のおじいさんのしゃべり方そのままで善治郎さんが目を丸くした。
「え、ええ……」
やさしそうなおじいさんだと思ったけど、違った。善治郎さん、葉室さんの言葉を、まるで世間話のように受け流している。つまり、この人もあやかしが見えたりする人。それも、烏天狗に追っかけられる状況にもまるで動じないくらいの人だということだ。
「で、烏天狗はどっち行った」
「あっち」と葉室さんが顎で指すと、善治郎さんはこれまで顔を照らしていた海中電灯を下ろした。
「葉室くん、このお嬢さんのこと頼むな」
「俺が独鈷杵で殴りつけたから、しばらくはおとなしくしていると思うけど」
「これからこのお嬢さんもいるんだし、仲間がいたりしたらいまのうちにぜんぶまとめて面倒見てきてやるよ」
「ま、それが合理的でしょうね」
「じゃあ、ちょっと行ってくっから。そのお嬢さんのこと、頼むね」
そう言うと善治郎さんはひょこひょこと歩いて行ってしまった。
「あの、さっきのおじいさん」
「善治郎さん」葉室さんに訂正された。
「その、善治郎さんは、大丈夫なんですか」
普通に考えて、細身のおじいさんが筋骨隆々とした烏天狗をどうこうできるとは思えない。それどころか、夜道で転んだりしたら、それだけで骨を折ったりすることもあるだろう。それくらい善治郎さんはか弱そうにみえた。
すると、葉室さんは、そんなばかばかしいことを聞くなと言わんばかりの態度で教えてくれた。
「大丈夫だよ。あの人は〝鬼〟だから」
「オニ……」
どういうことだろう。善治郎さん、ああ見えて怒ると怖いのだろうか。一見穏やかな人ほど、切れると怖いって言うし……。
私の表情を見てなぜか葉室さんはため息をついた。
「お前、本当になにも分かってないんだな。あのチラシを見てきたっていうからどんな奴かとちょっとは期待したのだけど、とんだ期待外れだ」
残念な子を見る表情で葉室さんが私を見ている。一体なんで私はここまでディスられねばならないのだろう。私はむっとして反論する。
「どういう意味ですか」
葉室さんは私を無視して歩き出した。ちょっとそれはないんじゃないの?
さらに私が文句を言おうとしたが、葉室さんに遮られた。
「ほら、早くしろ。大旦那が待ってるから」
葉室さんの背中が闇に消えては困る。私は慌ててあとを追った。スマートフォンのライトはもうすぐ充電切れになりそうだった。
車道から細い道に入り、緩やかな弧を描きながら歩いて行くと、突然目の前が開けた。人工の眩い光が漏れだして、天の川が急に地上に流れ込んだのかと思った。
その光は大きな建物のものだった。周りが木々に囲まれているにしても、これだけの建物が車道からまったく光を見せないのはすごいことだ。よほど計算して建てられているのだろう。
星降り温泉の名の通り、この素晴らしい星空を楽しみに来ているお客さんも多いだろうから、旅館の外観もあまりライトアップしていない。そのため細かいことは分からないが、瓦葺きの屋根のシルエットが夜空に反り返るようになっている。木造三階建ての立派そうな建物だった。
しかし、中に入ると普通の旅館ではないことに気づく。
最初は夜だから雰囲気が違うのかと思ったけど、昼か夜かの問題ではない。
いるのだ。
あやかしが。
そこかしこに。
ロビーは普通に観光客で賑わっていた。浴衣を着た家族連れや女性客たちがお土産物を見たり、中庭へ出て星空を楽しんだりしている。はたから見ればごく普通の温泉旅館だ。
しかし、扉をくぐって人気のない廊下へ出ると一変した。
ひとつ目や仮面をかぶったのや、大きいのや小さいのや、動物のようなのやきれいな女性のようなのやが、廊下をうろうろしている。温泉が気持ちよかったとか、星空がきれいだとか談笑していた。そのうえ、ご丁寧なことにみんな浴衣を着ている。あやかし用の浴衣とかってあるの?
ふと先ほどの烏天狗を思い出して身がすくんだ。
「こ、ここって……?」
何かにすがりたくて、私は思わず葉室さんの作務衣の端をつかんでしまった。そのとき、葉室さんの身体に指先が触れた。とても引き締まって固かった。
「詳しいことは、大旦那が教えてくれる」
葉室さんは相変わらずむすっとした様子で頭をかきながら言った。明るいロビーで改めて見ると、びっくりするほどきれいな顔をしている。年齢は私より少し上くらいだろう。黒髪はさらさらで、抜けるような色白の肌。眉は凜々しく整い、切れ長の目は二重でまつげも長かった。まっすぐな鼻梁がなぜか少しやんちゃそうな印象を与えた。頬はうっすら桃色づいていて、同じように桃色の薄い唇を軽く引き結んでいる。
これだけ美形の材料がそろっているのに、現に秀麗な顔立ちなのに、全体からはどこかけだるそうな雰囲気が漂っていた。最初、それは私の鈍臭さへの当てつけだと思っていた。しかし、明るいところで見ると、私の考えが間違いだったように思えてきた。葉室さんは、私に当てつけているのではない。この人が当てつけているのは周りの環境であり、あやかしであり、葉室さん自身へのように直感した。それがなぜかは分からなかったけれど……。
「こっち」と言って葉室さんは私を旅館の奥のほうへ案内する。
何度か階段を上り下りして、きれいな装飾のされた襖(ふすま)の前についた。
「大旦那」
と、両膝をついた葉室さんが声をかける。私もならう。
すると、襖の向こうからつやのある男の声がした。
「何だい」
どこか楽しげで、余裕に満ちた大人の男の声だった。
「チラシを持ってやって来た女性をお連れしました」
「ああ、入ってもらってくれ」
「はい」
葉室さんが正座の姿勢のままふすまを開ける。深く一礼。さっきまでの気に障る態度とまるで違う。
襖の向こうは広い和室だった。畳の匂いが清々しい。二十畳くらいの広さの和室のいちばん奥、床の間を背にして和服姿の男が座っていた。男の前には文机があり、いろいろな書類が散らばっていた。
「どうぞ。もっと近くへいらっしゃい」
手招きされるままに私は奥へ進んでいく。知的で落ち着いた顔立ちの大人の男性だった。はっきり言って思わずじっくり見てしまうほどのイケメン。それなのに目だけは好奇心一杯の子供のようにきらきらしているのが印象的だった。黒い髪はつややかで若々しい。着物に詳しくはないのだが、一目で高級そうだと分かる。しかし、それが嫌味ではない。透明でありながら存在感がある、不思議な人だった。あ、履歴書とか出さないといけないのかな。バッグから書類を出して、その音この人の前に正座した。
「初めまして。大変遅くなりまして申し訳ございません」
「東京から遠いところ、お疲れさまでした。私はこの『いざなぎ旅館』の大旦那ということになっている、土御門泰明。よろしくお願いします」
土御門。何かお公家さんみたな名前だな――。
「そうだね。私の家は、遡れば京都の公家だし、いまでも京都住まいの親戚は多いよ。さらに遡れば安倍という名字になって、安倍晴明なんて人に行き着く。安倍晴明っていうのは知ってるかな、藤原静姫さん?」
私は固まった。何も話していないのに。お公家さんみたいな名前だと、心で思っただけなのに――。
「心で思ったことは言ったことと同じことなんだよ。あやかしだって普通の人の目には見えないだろ? 同じように普通の人には心の中で思ったことが聞こえないだけ。私たち陰陽師のようなものにはぜんぶ筒抜けなんだよ。ああ、私のことは泰明で構わないよ。〝つちみかど〟というのは舌をかんでしまいそうだからね」
と、にこやかな表情で説明する。私を安心させようとしているようにも、驚いている私の反応を楽しんでいるようにも見えた。
「お、陰陽師――?」
安倍晴明とか陰陽師とか聞いて、思わず昔見た映画を思い出す。白い装束を着て、烏帽子をかぶって、何か呪文を唱えていた。あの映画を見たときになぜかほっとした記憶がある。目に見えないものがそこここに普通にいるという環境に生きている人が自分以外にいるんだという気持ちになったからだった。もっとも、邪霊祓いみたいなことは私にはできないけど。
土御門泰明さんは、その陰陽師だと名乗ったのだ。
ふと隣を見れば葉室さんが少し斜め後ろに座っている。陰陽師といわれて、黙って聞いている。ということは、本当のことなのだろうか……。
泰明さんは文机の上の文箱から、紙を一枚取り出していた。従業員募集のあのチラシだった。私の前に差し出す。
「このチラシは善治郎さんが作ってくれて、最後に私が呪をかけた。ふさわしい人の手に渡り、ふさわしい人がこの宿で働いてくれますように、とね」
「はあ……」
呪をかけるとはどういうことだろう。
「きみも、あやかしが見えるんでしょ? 私たちと同じように」
「は、はい……」泰明さんにじっと見つめられて答えてしまって慌てる。
「さっそく烏天狗に襲われてましたけどね」
と、葉室さんが聞かれてもいないのに付け加える。泰明さんが苦笑した。
「見ていた。法水の天狗返し、見事だったぞ」
「どうも」
と、葉室さんがまったくうれしくなさそうに頭を下げている。
「あ、あのっ」と、私は会話に割り込んだ。「この旅館は一体どういう所なんですか。さっきからおふたりとも普通にあやかしのことを話題にしているし」
それこそ何かの呪文にかかったようにここまで来てしまったけど、これは違う。あやかしが見えることで就職活動が散々な目に遭った私への、これ以上ない皮肉だ。
教授には悪いけれども、最初からこの場所がこんな怪しげな場所だと知っていたら、私はわざわざ南信州までやってこなかった。
泰明さんが安心させるように微笑んだ。
「法水が〝そっち〟から入ったのでびっくりさせてしまったみたいだね。もちろん、この宿は普通の人間の宿でもある。けれども、人間の宿と背中合わせで、あやかしや神さまのための空間も作っている。私は陰陽師だし、番頭の善治郎さんの正体は本物の鬼。そこにいる法水も――」
「大旦那――!」
と、葉室さんが口を挟んだ。あきらかに不機嫌な声だ。従業員なのにそんな態度、いいのだろうか。しかし、泰明さんの方は一笑に付しただけだった。
「ふふ。まあ、それはいいとして。ここで働いている者は何らかの形であやかしと接点がある。なぜなら、この宿があやかし、神さま、人間が仲良く湯治する場所だからなんだ」
「それについて別にどうこう言うつもりはありません。ただ、私は――」
「あやかしを見る力なんて、できればなくなってほしい?」
泰明さんがずばり言った。私は息が止まりそうになる。誰にも相談しようもなく、だからこそ誰にも言ったことがない心の底の願い。それをいきなり指摘されたのだ。
しかし、それをそのまま認めるには、何もかもお見通しみたいで気恥ずかしい気持ちの方が先立った。
「とにかく私、ここでは働くのは考え直させていただきたいんです」
履歴書をさりげなくしまう。泰明さんが苦笑している。
「チラシに呼ばれてきたのだから、きみはこの場所に縁があると思うのだけどね」
「縁があってもなくても、あやかしのお宿なんて、私、できません」
斜め後ろで舌打ちが聞こえた。葉室さんだ。
「そんなにあやかしが嫌いなのかよ。人間はえらいもんなんだな」
憎まれ口なのに、どこかさみしげに聞こえたのは気のせいだろうか。
しかし、私は可能な限り早くここから出て行くことだけを考えていた。
「もうバスもない時間だよ」
と、田舎特有の事情で泰明さんが止めようとする。
「ロビーでタクシーを呼びます。失礼しました」
荷物を抱え、頭を下げ、そそくさと泰明さんの部屋をあとにした。仕事は欲しい。教授がせっかく私に紹介してくれたという気持ちの問題もある。けれども、あやかしたちのいる職場は嫌だ。こんなところへ就職してしまったら、きっと私は普通の人間の世界に帰れない。教授の奥さんみたいなハッピーエンドはなくなる――。
やっぱり、チラシを見たときに感じた通り、とんでもないブラックな職場だった。並のブラックさではない。超常現象的にブラックだ。
このまま来た道を引き返すとあやかしの中を突っ切ることになるのでそれは避けたい。ロビーはとにかく一階にあるのだから、さっきと違う順路で下に降りればロビーへ出られるはず。出られなくても〝人間〟に会えば、道を教えてもらえるはず。
早足に廊下を急ぎ、角を曲がったところで悲劇が起こった。
出会い頭に女の人とぶつかったのだ。
「きゃっ」
廊下に私と相手の女性の悲鳴が響いた。お互い、尻餅をついて倒れる。そのとき、がちゃんという、食器か何かが割れる大きな音がした。
「痛てて……」
鼻を打った私はさすりながら目の前の女性を見る。
女性は白い服に腰から下のエプロンと白い帽子を着て、板前のような格好をしていた。けれども、顔を見て衝撃を受ける。丸く秀でた額にやさしげな眉。少し猫目で黒目がちな目は長いまつげで覆われ、小さめの鼻と花のつぼみのような唇がなおさら仔猫のようなかわいさを添えていた。あふれ出る美少女オーラ――。
何なの!? この旅館には、男も女も美形しかおらんのかい!
「あいたた……。ごめんなさい、大丈夫ですか。――あ、お皿!」
その女性が慌てる。目尻が上がっていて猫みたいなかわいらしい瞳が、みるみる青ざめ、泣きそうな顔になっていった。
目の前には大皿が粉々になっている。
一枚や二枚ではない。その数、実に十枚。
やばい……やってしまった……。
それからすぐあと、私は再び大旦那である泰明さんの前に正座していた。
「おかえりなさい、静姫さん」
先ほどと変わらない、どこか楽しげな声だ。
「はい――」
私は、泰明さんの顔を見る気力もなく、ただうなだれていた。
「それにしても見事にやってくれたね」
がちゃりと音がする。泰明さんの文机の上には、ものの見事に割れた大皿十枚が風呂敷の上に置かれていた。細かな絵が描かれていて、ぱっと見たところかなり高級なお皿に見える……。
私の隣にはさっきの板前姿の女性、三浦絵里子さんが白い板前帽を握りしめて、こちらもうなだれて正座している。彼女は「いざなぎ旅館」の板前なのだそうだ。
「大旦那さま、これは私の不注意もあって」
「いやぁ、絵里子さんは何も悪くないよ。大旦那に言われて皿を運んでただけなんだからさ」
そう弁護したのは外から戻ってきた善治郎さんだ。正体が鬼、と聞いたせいか、しわ深い目の光り方がとても厳しく見える。葉室さんが善治郎さんの後ろで無言で暗い顔をして控えていた。
泰明さんが苦笑しながらため息をつく。
「静姫さん、顔を上げて」
「はい――」
お白洲(しらす)に引き出された心境です。
「このお皿はずいぶん高価なものでね。普段は使わないのだけど、今度来る神さまたちのおもてなしに使おうと思ってて、状態を私の目で確かめたかったんだ」
「はい……」
でも、これじゃ使えないよねと、皿の破片を持ち上げて泰明さんが口をへの字にした。私もそう思います……。
「絵里子さん、仕方がないから違うお皿を準備してほしい」
「わかりました」
と絵里子さんが洟を啜っていた。
「さて、静姫さん」
と泰明さんが改まる。いよいよ判決だろうか。
「はい」
「このお皿、何でも室町時代の品で、しかも十枚ぜんぶそろっていて状態もいいということで結構な値がついているんだよ」
「ち、ちなみにおいくらくらいでしょうか」
「一千万円」
めまいがした。
「い、一千万円ですか……」
少し吐き気もした。
「うん。一千万円。陰陽師の私としては、諸行は無常で、この世に壊れないモノはないと思ってるんだけどね」
「そ、そうなんですか」
ひょっとして温情判決いただけそう?
しかし、泰明さんは実に実に残念そうにため息をついた。
「けれども、私はこの旅館の経営者なんだよね」
目の前が暗くなった。
「はい……」
「このお皿も、店の財産として確か計上していたんじゃなかったかな、善治郎さん」
「うん。資産計上しているよ。何しろ国宝級のお宝だから」
と、善治郎さんが何度も頷いている。国宝級……。
「となると……」と、泰明さんが厳しい表情になった。「弁償、してもらわないといけないね」
しかし、私にそんなお金はない。両親だってそんなお金はない。
ならば、方法はただひとつ。
働いて返すしかない――。
私は腹をくくった。
「ここで働かせてくださいっ」
「まあ、そうだよね」と泰明さんが苦笑している。
「そうなるよな」と葉室さんが大きく深くため息をついた。
「それしかねえな」と善治郎さんが頷いている。「まあ、みんないい連中ばっかりだから頑張りなよ」
そう言った善治郎さんの目が、一瞬、金色の独特の目になった。ほんとに鬼なんだ――。
逃げられない……。
超絶イケメン陰陽師の大旦那、クールな美形の葉室さん、好々爺だけど鬼の善治郎さん。私の人生でもっとも魅力的でアブナイ男性たちに囲まれて働くことになりました。
藤原静姫、無事、就職。
一千万円の借金を背負い、返済するまで働きます……。