「心で思ったことは言ったことと同じことなんだよ。あやかしだって普通の人の目には見えないだろ? 同じように普通の人には心の中で思ったことが聞こえないだけ。私たち陰陽師のようなものにはぜんぶ筒抜けなんだよ。ああ、私のことは泰明で構わないよ。〝つちみかど〟というのは舌をかんでしまいそうだからね」
と、にこやかな表情で説明する。私を安心させようとしているようにも、驚いている私の反応を楽しんでいるようにも見えた。
「お、陰陽師――?」
安倍晴明とか陰陽師とか聞いて、思わず昔見た映画を思い出す。白い装束を着て、烏帽子をかぶって、何か呪文を唱えていた。あの映画を見たときになぜかほっとした記憶がある。目に見えないものがそこここに普通にいるという環境に生きている人が自分以外にいるんだという気持ちになったからだった。もっとも、邪霊祓いみたいなことは私にはできないけど。
土御門泰明さんは、その陰陽師だと名乗ったのだ。
ふと隣を見れば葉室さんが少し斜め後ろに座っている。陰陽師といわれて、黙って聞いている。ということは、本当のことなのだろうか……。
泰明さんは文机の上の文箱から、紙を一枚取り出していた。従業員募集のあのチラシだった。私の前に差し出す。
「このチラシは善治郎さんが作ってくれて、最後に私が呪をかけた。ふさわしい人の手に渡り、ふさわしい人がこの宿で働いてくれますように、とね」
「はあ……」
呪をかけるとはどういうことだろう。
「きみも、あやかしが見えるんでしょ? 私たちと同じように」
「は、はい……」泰明さんにじっと見つめられて答えてしまって慌てる。
「さっそく烏天狗に襲われてましたけどね」
と、葉室さんが聞かれてもいないのに付け加える。泰明さんが苦笑した。
「見ていた。法水の天狗返し、見事だったぞ」
「どうも」
と、葉室さんがまったくうれしくなさそうに頭を下げている。
「あ、あのっ」と、私は会話に割り込んだ。「この旅館は一体どういう所なんですか。さっきからおふたりとも普通にあやかしのことを話題にしているし」
それこそ何かの呪文にかかったようにここまで来てしまったけど、これは違う。あやかしが見えることで就職活動が散々な目に遭った私への、これ以上ない皮肉だ。
教授には悪いけれども、最初からこの場所がこんな怪しげな場所だと知っていたら、私はわざわざ南信州までやってこなかった。
泰明さんが安心させるように微笑んだ。
「法水が〝そっち〟から入ったのでびっくりさせてしまったみたいだね。もちろん、この宿は普通の人間の宿でもある。けれども、人間の宿と背中合わせで、あやかしや神さまのための空間も作っている。私は陰陽師だし、番頭の善治郎さんの正体は本物の鬼。そこにいる法水も――」
「大旦那――!」
と、葉室さんが口を挟んだ。あきらかに不機嫌な声だ。従業員なのにそんな態度、いいのだろうか。しかし、泰明さんの方は一笑に付しただけだった。
「ふふ。まあ、それはいいとして。ここで働いている者は何らかの形であやかしと接点がある。なぜなら、この宿があやかし、神さま、人間が仲良く湯治する場所だからなんだ」
「それについて別にどうこう言うつもりはありません。ただ、私は――」
「あやかしを見る力なんて、できればなくなってほしい?」
泰明さんがずばり言った。私は息が止まりそうになる。誰にも相談しようもなく、だからこそ誰にも言ったことがない心の底の願い。それをいきなり指摘されたのだ。
しかし、それをそのまま認めるには、何もかもお見通しみたいで気恥ずかしい気持ちの方が先立った。
「とにかく私、ここでは働くのは考え直させていただきたいんです」
履歴書をさりげなくしまう。泰明さんが苦笑している。
「チラシに呼ばれてきたのだから、きみはこの場所に縁があると思うのだけどね」
「縁があってもなくても、あやかしのお宿なんて、私、できません」
斜め後ろで舌打ちが聞こえた。葉室さんだ。
「そんなにあやかしが嫌いなのかよ。人間はえらいもんなんだな」
憎まれ口なのに、どこかさみしげに聞こえたのは気のせいだろうか。
しかし、私は可能な限り早くここから出て行くことだけを考えていた。
「もうバスもない時間だよ」
と、田舎特有の事情で泰明さんが止めようとする。
「ロビーでタクシーを呼びます。失礼しました」
荷物を抱え、頭を下げ、そそくさと泰明さんの部屋をあとにした。仕事は欲しい。教授がせっかく私に紹介してくれたという気持ちの問題もある。けれども、あやかしたちのいる職場は嫌だ。こんなところへ就職してしまったら、きっと私は普通の人間の世界に帰れない。教授の奥さんみたいなハッピーエンドはなくなる――。
やっぱり、チラシを見たときに感じた通り、とんでもないブラックな職場だった。並のブラックさではない。超常現象的にブラックだ。
このまま来た道を引き返すとあやかしの中を突っ切ることになるのでそれは避けたい。ロビーはとにかく一階にあるのだから、さっきと違う順路で下に降りればロビーへ出られるはず。出られなくても〝人間〟に会えば、道を教えてもらえるはず。
早足に廊下を急ぎ、角を曲がったところで悲劇が起こった。
出会い頭に女の人とぶつかったのだ。
「きゃっ」
廊下に私と相手の女性の悲鳴が響いた。お互い、尻餅をついて倒れる。そのとき、がちゃんという、食器か何かが割れる大きな音がした。
「痛てて……」
鼻を打った私はさすりながら目の前の女性を見る。
女性は白い服に腰から下のエプロンと白い帽子を着て、板前のような格好をしていた。けれども、顔を見て衝撃を受ける。丸く秀でた額にやさしげな眉。少し猫目で黒目がちな目は長いまつげで覆われ、小さめの鼻と花のつぼみのような唇がなおさら仔猫のようなかわいさを添えていた。あふれ出る美少女オーラ――。
何なの!? この旅館には、男も女も美形しかおらんのかい!
「あいたた……。ごめんなさい、大丈夫ですか。――あ、お皿!」
その女性が慌てる。目尻が上がっていて猫みたいなかわいらしい瞳が、みるみる青ざめ、泣きそうな顔になっていった。
目の前には大皿が粉々になっている。
一枚や二枚ではない。その数、実に十枚。
やばい……やってしまった……。
と、にこやかな表情で説明する。私を安心させようとしているようにも、驚いている私の反応を楽しんでいるようにも見えた。
「お、陰陽師――?」
安倍晴明とか陰陽師とか聞いて、思わず昔見た映画を思い出す。白い装束を着て、烏帽子をかぶって、何か呪文を唱えていた。あの映画を見たときになぜかほっとした記憶がある。目に見えないものがそこここに普通にいるという環境に生きている人が自分以外にいるんだという気持ちになったからだった。もっとも、邪霊祓いみたいなことは私にはできないけど。
土御門泰明さんは、その陰陽師だと名乗ったのだ。
ふと隣を見れば葉室さんが少し斜め後ろに座っている。陰陽師といわれて、黙って聞いている。ということは、本当のことなのだろうか……。
泰明さんは文机の上の文箱から、紙を一枚取り出していた。従業員募集のあのチラシだった。私の前に差し出す。
「このチラシは善治郎さんが作ってくれて、最後に私が呪をかけた。ふさわしい人の手に渡り、ふさわしい人がこの宿で働いてくれますように、とね」
「はあ……」
呪をかけるとはどういうことだろう。
「きみも、あやかしが見えるんでしょ? 私たちと同じように」
「は、はい……」泰明さんにじっと見つめられて答えてしまって慌てる。
「さっそく烏天狗に襲われてましたけどね」
と、葉室さんが聞かれてもいないのに付け加える。泰明さんが苦笑した。
「見ていた。法水の天狗返し、見事だったぞ」
「どうも」
と、葉室さんがまったくうれしくなさそうに頭を下げている。
「あ、あのっ」と、私は会話に割り込んだ。「この旅館は一体どういう所なんですか。さっきからおふたりとも普通にあやかしのことを話題にしているし」
それこそ何かの呪文にかかったようにここまで来てしまったけど、これは違う。あやかしが見えることで就職活動が散々な目に遭った私への、これ以上ない皮肉だ。
教授には悪いけれども、最初からこの場所がこんな怪しげな場所だと知っていたら、私はわざわざ南信州までやってこなかった。
泰明さんが安心させるように微笑んだ。
「法水が〝そっち〟から入ったのでびっくりさせてしまったみたいだね。もちろん、この宿は普通の人間の宿でもある。けれども、人間の宿と背中合わせで、あやかしや神さまのための空間も作っている。私は陰陽師だし、番頭の善治郎さんの正体は本物の鬼。そこにいる法水も――」
「大旦那――!」
と、葉室さんが口を挟んだ。あきらかに不機嫌な声だ。従業員なのにそんな態度、いいのだろうか。しかし、泰明さんの方は一笑に付しただけだった。
「ふふ。まあ、それはいいとして。ここで働いている者は何らかの形であやかしと接点がある。なぜなら、この宿があやかし、神さま、人間が仲良く湯治する場所だからなんだ」
「それについて別にどうこう言うつもりはありません。ただ、私は――」
「あやかしを見る力なんて、できればなくなってほしい?」
泰明さんがずばり言った。私は息が止まりそうになる。誰にも相談しようもなく、だからこそ誰にも言ったことがない心の底の願い。それをいきなり指摘されたのだ。
しかし、それをそのまま認めるには、何もかもお見通しみたいで気恥ずかしい気持ちの方が先立った。
「とにかく私、ここでは働くのは考え直させていただきたいんです」
履歴書をさりげなくしまう。泰明さんが苦笑している。
「チラシに呼ばれてきたのだから、きみはこの場所に縁があると思うのだけどね」
「縁があってもなくても、あやかしのお宿なんて、私、できません」
斜め後ろで舌打ちが聞こえた。葉室さんだ。
「そんなにあやかしが嫌いなのかよ。人間はえらいもんなんだな」
憎まれ口なのに、どこかさみしげに聞こえたのは気のせいだろうか。
しかし、私は可能な限り早くここから出て行くことだけを考えていた。
「もうバスもない時間だよ」
と、田舎特有の事情で泰明さんが止めようとする。
「ロビーでタクシーを呼びます。失礼しました」
荷物を抱え、頭を下げ、そそくさと泰明さんの部屋をあとにした。仕事は欲しい。教授がせっかく私に紹介してくれたという気持ちの問題もある。けれども、あやかしたちのいる職場は嫌だ。こんなところへ就職してしまったら、きっと私は普通の人間の世界に帰れない。教授の奥さんみたいなハッピーエンドはなくなる――。
やっぱり、チラシを見たときに感じた通り、とんでもないブラックな職場だった。並のブラックさではない。超常現象的にブラックだ。
このまま来た道を引き返すとあやかしの中を突っ切ることになるのでそれは避けたい。ロビーはとにかく一階にあるのだから、さっきと違う順路で下に降りればロビーへ出られるはず。出られなくても〝人間〟に会えば、道を教えてもらえるはず。
早足に廊下を急ぎ、角を曲がったところで悲劇が起こった。
出会い頭に女の人とぶつかったのだ。
「きゃっ」
廊下に私と相手の女性の悲鳴が響いた。お互い、尻餅をついて倒れる。そのとき、がちゃんという、食器か何かが割れる大きな音がした。
「痛てて……」
鼻を打った私はさすりながら目の前の女性を見る。
女性は白い服に腰から下のエプロンと白い帽子を着て、板前のような格好をしていた。けれども、顔を見て衝撃を受ける。丸く秀でた額にやさしげな眉。少し猫目で黒目がちな目は長いまつげで覆われ、小さめの鼻と花のつぼみのような唇がなおさら仔猫のようなかわいさを添えていた。あふれ出る美少女オーラ――。
何なの!? この旅館には、男も女も美形しかおらんのかい!
「あいたた……。ごめんなさい、大丈夫ですか。――あ、お皿!」
その女性が慌てる。目尻が上がっていて猫みたいなかわいらしい瞳が、みるみる青ざめ、泣きそうな顔になっていった。
目の前には大皿が粉々になっている。
一枚や二枚ではない。その数、実に十枚。
やばい……やってしまった……。