卒業式から三日後、私はあのチラシを手に星降り温泉へ向かった。三日後になったのは卒業式のあと、週末を挟んで先方の受け入れが厳しいとのことだったからだ。
おかげでゆっくり眠ることができたし、支度も落ち着いてできた。
星降り温泉は南信州、長野県の南の山村にある。
東京都から長野県へ行くのは初めてだった。地図上では近い印象を持っていたのだけど、実際に移動するとなると、車を持たない私にとっては結構大変だった。
まず、JR東京駅から山陽新幹線で名古屋へ行かなければいけない。名古屋なんて、長野を通り過ぎているのではないかと、スマートフォンのルート検索で何度も確認してしまった。しかし、見間違いではなかった。
名古屋駅で中央本線に乗り換えて金山駅へ行き、名鉄に乗り換えて名鉄名古屋へ。同じ名古屋駅なのにどうして一旦金山駅へ行かなければいけないのだろうか。あと、中央本線ってこんなところまで続いていたんだ……。
そのあと、さらにバスで一時間半。しかも一時間に一本しかない。このバス、絶対逃してはいけないやつだ。
ところが、ここで私はやってしまった。
慣れない駅名のせいで、時間感覚がずれてしまったのもある。ルート検索に勧められるままに特急に乗ってしまったせいで、席に座れてほっとしてしまったせいもある。電車のドアが閉まる音は聞いた記憶があったのに……。新幹線のなかでもずっと眠っていたはずなのに、私は居眠りをしてしまった。
どうやら二百連敗の披露は身体の深いところに食い込んでいたらしい。気がつけば見知らぬ駅を出るところだった。
「あれ? まだ着かないのかな」
スマートフォンによれば四分くらいの乗車時間のはずなのに。
時計を見れば十分以上乗っている。
「私……寝過ごした?」
血の気が引いた。
この電車、次はどこで止まるの?
それよりも、いつ止まるの?
冷静な振りをして窓ガラスに顔を近づけて進行方向を見るが、なかなか次の駅が見えてこない。
一瞬、本気で緊急停止ボタンを押そうかと考えてしまった。就活のときに逆方向の電車に乗ってしまって、説明会に間に合わなかったトラウマが頭をよぎる。
しばらくして停車した駅に急いで降り、逆方向の電車を探す。重いキャリーケースを抱えて反対ホームへ移動し、名鉄名古屋駅に戻る電車を待っていたら、なぜか別のホームに名鉄名古屋駅行きの急行が入ってきた。嘘でしょ。電光掲示板を確かめると、次の急行だけ臨時で別ホームに入ってくる。それがあれなの? 大急ぎで急行のホームへ走ることも考えたけど、多分間に合わない……。わたしは首を垂れた。
やっときた鈍行で名鉄名古屋駅に戻ったときには、日差しはすっかり西日になっていた。徒歩一分と書いてあるバス停を五分以上かかって探し出したときにはちょうど目的のバスが出発したばかりだった。
ここまで来たら大丈夫だろう。きっと、他にもいまくらいの時間に来る温泉客の方もいるだろうし。なんて、淡い期待を抱いていたが、バスが来てみたら乗客は私だけだった。
今度こそ寝てはいけないと自分を戒めるため、立ったり座ったりを私は繰り返した。ひとりぼっちのさみしさを紛らわせるためでもある。
バスが進むにつれて家がまばらになり、ついに何も見えなくなった。街灯もほとんどない。というより、まったくない。だからこそ、降るような星空が見られるのだろうけど、本能的にさみしくなるのはどうしようもなかった。
バスから降りたら辺りはもう真っ暗。
遠ざかるバスのテールランプが見えなくなると、本当に周りが見えなくなった。
夜って、こんなに暗かったんだ。どっちへ歩いたらいいのか考えていると、せっかく教授の素敵な話で上向いていた心が、だんだんとまた塞いでくる。
何やってんだろう、私。
東京を離れて、ひとりぼっちで。
ああ、でも、東京にいても就活に失敗した私に居場所はないか。
卒業式から今日まで、家でゆっくり休めたけど、それは両親が私のことを腫れ物が触るようにしていたからで。
何で私はこうなんだろ。あやかしが見えなかったら、人生変わってたのかな。
お父さんもお母さんも普通の人なのに、何で私だけがこんな不思議な力を持っているのかな。
さみしさと不安で瞳に涙がにじみ始めた、そのときだった。
――天を、見上げてご覧なさい。
「……へ?」
右を向いても左を向いても、真っ暗な夜の闇の中で、温かな女性の声が聞こえた気がした。何だか懐かしい気持ち。お母さんとは全然違う声なのに、とても落ちつく――。
私はその声を信じて、天を見上げた。
「うわぁぁ……」
本当に美しいものを見たとき、人間は自然と感嘆の声が出てしまうのだと、そのとき知った。
見上げた天には無数の星々がきらめいていた。
どこまで見上げても、のけぞるように後ろまで首を逸らしても、星が途切れることなく空一面を埋め尽くしている。天を斜めに横切るうっすらと白い光の流れが、天の川。生まれて初めて見た。
東京出身の私には、星空は月と木星と火星がほとんど。星座はカシオペア座と北斗七星、あとは冬のオリオン座くらいしか見たことがなかった。
いま私は本当の星空を見ている。
いや、〝宇宙〟を見ていた。
私はちっぽけだ、と思った。
人間がどれほどの文明を築こうとも、科学がどれほど発展しようとも、いま私が見ている大宇宙の神秘をすべて解き明かすことはできないだろう――そんな気持ちにさせる星空だった。
それにしても、星が多い。夜空にはこんなにもたくさんの星があったんだと呆れるほどだ。
視界の限りを埋め尽くす星々を見ていると、かえって星座の星の組み合わせが分からなくなってくる。昔の人はよく星座をつくることができたなと変な感心をしてしまった。
星降り温泉、というよりも、〝星に魂が吸われる温泉〟と言いたいほどの迫力だった。じっと夜空を見上げていると、星々と自分がひとつになっていく感覚がした。
ちっぽけだ、と感じた気持ちが、むしろたくさんの星々とつながっていくみたいな感覚に変わっていく。何かエネルギーのようなものをもらっているみたいだった。
流れ星が視界の隅を走った。
えっ、と思ったときにはもうない。流れ星ってあんなにすぐ消えるの? 願い事三回なんて無理だ。それすらも楽しい。
星空の美しさに気持ちが上向いてきたところに、異物のような声が割り込んできた。
おかげでゆっくり眠ることができたし、支度も落ち着いてできた。
星降り温泉は南信州、長野県の南の山村にある。
東京都から長野県へ行くのは初めてだった。地図上では近い印象を持っていたのだけど、実際に移動するとなると、車を持たない私にとっては結構大変だった。
まず、JR東京駅から山陽新幹線で名古屋へ行かなければいけない。名古屋なんて、長野を通り過ぎているのではないかと、スマートフォンのルート検索で何度も確認してしまった。しかし、見間違いではなかった。
名古屋駅で中央本線に乗り換えて金山駅へ行き、名鉄に乗り換えて名鉄名古屋へ。同じ名古屋駅なのにどうして一旦金山駅へ行かなければいけないのだろうか。あと、中央本線ってこんなところまで続いていたんだ……。
そのあと、さらにバスで一時間半。しかも一時間に一本しかない。このバス、絶対逃してはいけないやつだ。
ところが、ここで私はやってしまった。
慣れない駅名のせいで、時間感覚がずれてしまったのもある。ルート検索に勧められるままに特急に乗ってしまったせいで、席に座れてほっとしてしまったせいもある。電車のドアが閉まる音は聞いた記憶があったのに……。新幹線のなかでもずっと眠っていたはずなのに、私は居眠りをしてしまった。
どうやら二百連敗の披露は身体の深いところに食い込んでいたらしい。気がつけば見知らぬ駅を出るところだった。
「あれ? まだ着かないのかな」
スマートフォンによれば四分くらいの乗車時間のはずなのに。
時計を見れば十分以上乗っている。
「私……寝過ごした?」
血の気が引いた。
この電車、次はどこで止まるの?
それよりも、いつ止まるの?
冷静な振りをして窓ガラスに顔を近づけて進行方向を見るが、なかなか次の駅が見えてこない。
一瞬、本気で緊急停止ボタンを押そうかと考えてしまった。就活のときに逆方向の電車に乗ってしまって、説明会に間に合わなかったトラウマが頭をよぎる。
しばらくして停車した駅に急いで降り、逆方向の電車を探す。重いキャリーケースを抱えて反対ホームへ移動し、名鉄名古屋駅に戻る電車を待っていたら、なぜか別のホームに名鉄名古屋駅行きの急行が入ってきた。嘘でしょ。電光掲示板を確かめると、次の急行だけ臨時で別ホームに入ってくる。それがあれなの? 大急ぎで急行のホームへ走ることも考えたけど、多分間に合わない……。わたしは首を垂れた。
やっときた鈍行で名鉄名古屋駅に戻ったときには、日差しはすっかり西日になっていた。徒歩一分と書いてあるバス停を五分以上かかって探し出したときにはちょうど目的のバスが出発したばかりだった。
ここまで来たら大丈夫だろう。きっと、他にもいまくらいの時間に来る温泉客の方もいるだろうし。なんて、淡い期待を抱いていたが、バスが来てみたら乗客は私だけだった。
今度こそ寝てはいけないと自分を戒めるため、立ったり座ったりを私は繰り返した。ひとりぼっちのさみしさを紛らわせるためでもある。
バスが進むにつれて家がまばらになり、ついに何も見えなくなった。街灯もほとんどない。というより、まったくない。だからこそ、降るような星空が見られるのだろうけど、本能的にさみしくなるのはどうしようもなかった。
バスから降りたら辺りはもう真っ暗。
遠ざかるバスのテールランプが見えなくなると、本当に周りが見えなくなった。
夜って、こんなに暗かったんだ。どっちへ歩いたらいいのか考えていると、せっかく教授の素敵な話で上向いていた心が、だんだんとまた塞いでくる。
何やってんだろう、私。
東京を離れて、ひとりぼっちで。
ああ、でも、東京にいても就活に失敗した私に居場所はないか。
卒業式から今日まで、家でゆっくり休めたけど、それは両親が私のことを腫れ物が触るようにしていたからで。
何で私はこうなんだろ。あやかしが見えなかったら、人生変わってたのかな。
お父さんもお母さんも普通の人なのに、何で私だけがこんな不思議な力を持っているのかな。
さみしさと不安で瞳に涙がにじみ始めた、そのときだった。
――天を、見上げてご覧なさい。
「……へ?」
右を向いても左を向いても、真っ暗な夜の闇の中で、温かな女性の声が聞こえた気がした。何だか懐かしい気持ち。お母さんとは全然違う声なのに、とても落ちつく――。
私はその声を信じて、天を見上げた。
「うわぁぁ……」
本当に美しいものを見たとき、人間は自然と感嘆の声が出てしまうのだと、そのとき知った。
見上げた天には無数の星々がきらめいていた。
どこまで見上げても、のけぞるように後ろまで首を逸らしても、星が途切れることなく空一面を埋め尽くしている。天を斜めに横切るうっすらと白い光の流れが、天の川。生まれて初めて見た。
東京出身の私には、星空は月と木星と火星がほとんど。星座はカシオペア座と北斗七星、あとは冬のオリオン座くらいしか見たことがなかった。
いま私は本当の星空を見ている。
いや、〝宇宙〟を見ていた。
私はちっぽけだ、と思った。
人間がどれほどの文明を築こうとも、科学がどれほど発展しようとも、いま私が見ている大宇宙の神秘をすべて解き明かすことはできないだろう――そんな気持ちにさせる星空だった。
それにしても、星が多い。夜空にはこんなにもたくさんの星があったんだと呆れるほどだ。
視界の限りを埋め尽くす星々を見ていると、かえって星座の星の組み合わせが分からなくなってくる。昔の人はよく星座をつくることができたなと変な感心をしてしまった。
星降り温泉、というよりも、〝星に魂が吸われる温泉〟と言いたいほどの迫力だった。じっと夜空を見上げていると、星々と自分がひとつになっていく感覚がした。
ちっぽけだ、と感じた気持ちが、むしろたくさんの星々とつながっていくみたいな感覚に変わっていく。何かエネルギーのようなものをもらっているみたいだった。
流れ星が視界の隅を走った。
えっ、と思ったときにはもうない。流れ星ってあんなにすぐ消えるの? 願い事三回なんて無理だ。それすらも楽しい。
星空の美しさに気持ちが上向いてきたところに、異物のような声が割り込んできた。