その森は春を迎えていた。針葉の木々は青々とした葉を纏い、その足元では獣たちが草を食み、軽やかに走り回っている。
 ある時、獣たちの動きがピタリと止まり、その頭を上げて耳を動かし、物陰に隠れるように走り出した。

「はぁ…はぁ…」

 森の奥から現れたのは、一人の少年だった。三日月のマークが描かれた深い青色のパーカーとジーンズを着ている。髪の毛は男にしては長めの黒髪で、背の低さも相まって一見すると女に見えるかもしれない。また、大きく膨らんだボストンバッグを肩に下げている。

「ここは……どこなんだよ……」

 スニーカーを泥で汚しながらも、少年は歩くしかない。見知らぬこの地で立ち止れば、きっと動く気力を失ってしまうだろうから。だが、歩き続けていたとしてもいずれ体力は尽きてしまうだろう。
 現に彼の服の下は汗でぐっしょりだ。

「クソ……あのジジイ……一体なんなんだよ……」

 ここにいない者に対して悪態をついた次の瞬間、何かが彼の目の前に飛び出してきた。

『GYAAAAAAAAAA!!!』

 それは怪物だった。一見すると犬か狼のように見えるが、その口は異様に巨大でワニのようだった。一噛みで人間などかみ砕いてしまいそうだ。
 そんな怪物が大声を上げて前に出てきたが、周囲を見回すとそれと同じ怪物が三体もいる。少年は囲まれてしまった。

「なんだ……お前等……」

 額から汗を流しながら、少年は拳を握りしめた。

『GYAWAAAAAAAAA!!!』

 怪物たちが一斉に彼に跳びかかってくる。狙いは首、腕、足だ。一気に彼を仕留め、ランチタイムとしゃれこむつもりだという事は疑いようもないだろう。
 だが、次の瞬間怪物たちが空中で一斉に力を抜いた。少年が咄嗟に身をかがめると、怪物たちはそれぞれが慣性に従って宙を飛び、そのまま地面に落ちた。
 見ると、その凶暴な頭と目に矢が深々と突き刺さっていた。

「動くな!」

 少年が怪物の死体を見つめながら立ち上がろうとすると、突如怒鳴り声を投げつけられた。
 すると木の上から数人の人影が降りてきた。何れも森の色に溶け込むような緑色の装いで身を包んでおり、その手には矢をつがえた弓が握られていた。矢尻の先端は真っ直ぐに少年に向けられている。

「人間がこの森に何の用だ」

 一人が前に出てきていった。フードで頭を覆っているため、顔はわからないが声と背丈からして恐らく女性だ。彼女だけが矢をつがえておらず、短剣を少年の顔に向けていた。
 非常に威圧的で、友好の意思など微塵も感じない。

「何の用って……遭難しているんだよ。別に来たくて来たわけじゃなし……」

 少年は武器を向けられていることに気を悪くし、露骨に不機嫌な表情となった。目を細め、目の前の女性を非難がましく見つめる。

「フン、そんなウソが通じるとでも思ったか。貴様、ムジェルに雇われた密偵だな? 我々の里を偵察しに来たんだろう!」

 女性は声を荒げ、少年の襟元をひっつかみ、彼の首に短剣を押し当てた。

「その……ムジェルっていう人は知らないし、本当に迷っただけだよ……。っていうか、一張羅なんだから引っ張んなよ……、伸びるじゃん」

 抗議をするも少年は手を出さなかった。下手に抵抗して回りの者達に襲われたら袋叩きにされてしまうと誰でも思うだろう。
 ふと、周りの者達の一人が何かに気付き、女性に耳打ちする。

「アレーナ。血の臭いが広がり始めた。ぐずぐずしていると、ゲーターマウスどもが集まってくるぞ」

 女性、アレーナと呼ばれた彼女はその言葉に考える素振りを見せた。
 確かに彼の言う通り、彼女たちが仕留めた獣に刺さっている矢から血が染み出し始めてきており、ほのかに血の臭気が漂い始めている。

「なんだよ……帰るんなら僕もどっか行っていいよな……歓迎されていないみたいだし」

 少年がこの場から離れようとアレーナの手を放そうとした時、彼女が少年の腕を捻り上げた。

「痛い! 痛いよ!」

「逃げようとしても無駄だ。他に仲間がいないか、徹底的に調べてやるからな」

 アレーナは仲間の二人に指示を出し、少年の腕を植物の蔦で縛り上げて彼を連行し始めた。バッグも奪われてしまい、振りほどいて脱出するのは不可能に見える。

(面倒なことになった……)

 少年は内心ため息を吐くのだった。


 少年を連行している集団の歩く道は複雑極まりなかった。バカみたいに巨大な樹の気根のトンネルをくぐったかと思えば、その上を何十メートルも歩かされ、また下に降りたりする。木洩れ日はだんだんと少なくなっていき、辺りが暗く鬱蒼となり始めていた。
 少年は歩かされている内に、ふと自分の後ろから誰かの息切れした声が聞こえてくる。後ろをチラ見すると、ボストンバッグを持っている男が肩を上下させていた。

(そういや、水と食べ物補充したばっかりだったっけ……)

 少年はバッグの中身を思い出していた。苦労して稼いだ金で買った、一週間分の缶詰や飲み物をたらふく詰め込んでいる。他には着替えや歯ブラシなんかもある。
 自分の荷物を気にかけていると、少年の腕を掴んでいる男が彼を強く押した。

「前を見て歩け!」

「そのバッグさぁ、大事な物たくさん入ってるんだから気を付けてよな」

「黙れ!」

 男に怒鳴りつけられて以降、少年は黙りこくった。これ以上何か言ったりやったりしも無駄だと思ったからだ。殴られるかもしれないし。
 そうこう歩いていると、少年は突然全身の毛が一瞬逆立ったのを感じた。咄嗟にまわりを見回そうとした彼の視線はピタリと止まった。
 先ほどまで歩いていた薄暗い森の風景は一瞬で消し飛び、明るく、温かい風景が広がっていた。透き通った綺麗な小川は日の光を反射してキラキラと輝き、そのほとりには白く小さい花が多く咲いていてそよ風に揺れていた。
 そして所々に並ぶ草の塊のようなものは恐らく家だろうか。人工物であるはずなのだが自然の景観を崩しておらず、見る者はここの住民が自然との調和を望んでいるのではないかと予想できるだろう。

(きれいなところだな……)

 囚人のように連行されていることも忘れ、少年は村の光景に感銘を受けた。
 だが、やはり彼は観光客ではなくスパイとして扱われているのは変わりなく、そのまま物置のような小屋の中に放り込まれた。

「ここで待っていろ。すぐに化けの皮を剥がしてやる」

 乱暴に閉められる扉。少年は一応近寄ってみて取ってに手をかけるが、かんぬきか鍵かはわからないがビクともしない。
 どこか出れそうなところはないかと小屋の中を見回してみるも、あるのは木箱と大きい壺のみ。壁の高いところには光や空気を取り入れるための小窓があるくらいだ。

「やってらんねー……」

 少年は疲れたと言わんばかりに木箱の上に腰掛けた。
無理やり出るとしたらそれは暴力沙汰になるであろうし、そうなれば追いかけられて逃亡生活になるかもしれない。それは避けたいところだった。

「!」

 途方に暮れていて三十分ほどした頃、扉が勢いよく開かれ、外から数人が入ってきて少年の両脇を掴んで無理やり立たせた。
 そして、しわの深い厳格そうな面持ちの老人が現れる。恐らく族長と呼ばれている人だろう。
 だが何より少年の目を引いたのはその耳だ。長く、尖っている。このような人種は今まで見たことがない。

「……ワシはこの部族を統率している、エンドモールという者じゃ。オヌシ、名前は?」
「……マサヨシ」

 今は抵抗しないでおこうと少年は決めた。話し合いが通じるようにと祈る他はない。

「マサヨシ……珍しい名じゃ。では、マサヨシ。オヌシはどこから来た? そしてどこへ向かっている?」
「……前にいたところは京都、そこから来た。行き先は、特に決まってない」

 するとエンドモールは顎髭を指でなぞり始めた。

「キョウト…? 聞いたこともない。この辺りの出身ではないのだな?」
「……そうだよ」
「族長!」

 突然、男の一人がマサヨシのバッグを持って現れた。

「何事だ、アワデル」
「この者が持っていたカバン、奇妙な仕組みで開けるのに苦労しましたが、どうにか開きました。見てください!」

 アワデルと呼ばれた男がマサヨシとエンドモールの間にバッグの中身をぶちまけた。すると、小屋の中で困惑したようなささやき声が次々に上がった。

「何だこれ? 見たこともないぞ」
「こんな長細い瓶は初めてみた……」
「透明な袋の中に、パンが入っているのか?」

 ざわつきの中、アワデルがコーラの入ったペットボトルを拾い上げ、マサヨシに突きつけた。

「貴様! これはいったいなんだ!? よもや、新型の魔導武器ではないだろうな! 我々を滅ぼすために運んでいたのか!?」

 美丈夫が怒りに顔をゆがませるのは恐ろしいものだが、マサヨシは理不尽な問い詰めに戸惑うしかなかった。

「ただのコーラだろ! 持っていちゃ悪いのかよ!?」
「コーラとはなんだ!?」
「飲み物だよ!」

 アワデルはマサヨシを立たせている二人に目配せをし、彼を話すように命じた。

「ではこの場で飲んで見せろ! 少しでもおかしな動きをするようならすかさず貴様を切り刻んでやる!」

 周りの者達は一斉に腰の剣を手にかけ、いつでもマサヨシを攻撃できる体勢を整えた。
 マサヨシは掴まれて痛む箇所を撫でながらアワデルからコーラを受け取り、蓋を回した。すると、黒い液体の中から茶色の泡が湧き上がり、ペットボトルの口からあふれ出た。

「うわっ!」
「な、何だ!?」

 アワデルが地面にぶちまけたり乱暴に扱ったりしたため炭酸が刺激されたようだ。周りの者達は毒ガスか何かと勘違いしたのかマサヨシから距離を取り、エンドモールの近くにいた三人ほどは彼を護るように前に立った。

「あーあー。勿体ない……」

 だが当のマサヨシはコーラが無駄になったと落胆するばかりで、自分の周囲には目も向けない。そして、ボトルに口をつけて三分の一ほど減ったコーラを喉に流し込んだ。

「お、おい。あれ本当に飲んでいるのか……!? あんな不気味な黒い液体を……!?」
「ど、毒じゃあ、なさそうだな」

 長く歩いていて、さらに拘束されて小屋に閉じ込められたせいで疲れが溜まっていたのだろう。マサヨシはコーラをあっという間に飲み干した。

「プハァー!」

 美味そうにコーラを飲み干したマサヨシの姿を見ていた者達はゴクリと喉を鳴らした。

「……何だよ、言われた通り飲んだぞ」
「そ、そのようだな。コーラというのは、武器ではなさそうだな」

 警戒しながらも数人がマサヨシの荷物を手に持ち始めた。武器になるようなものはカミソリくらいしかないが、彼等の興味は食べ物や飲み物にありそうだ。
 エンドモールはただの飲み物に大騒ぎしたのが馬鹿らしくなったのか、頭を抱えていた。

「……ふむ、まあいいじゃろう。では最後の質問じゃ。オヌシは、ムジェルの仲間か?」

 その質問をした時、エンドモールの視線が鋭くなった。マサヨシの心の底まで見通さんと言わんばかりの眼光だ。

「違う。ムジェルなんて人は知らない」

 他に答えようもないのでマサヨシは正直に言った。だが先ほどの連中は有無を言わさず彼を連行してきた。如何に族長と言えど、怪しいといって連れてきた者の言うことを信用するとはマサヨシには思えなかった。

「ふむ、どうやらオヌシはムジェルの手先ではないようじゃ。守り衆が早とちりをしたようじゃな」

 だが、そんな思いに反してエンドモールは表情を軟らかくし、マサヨシの言葉を簡単に信じた。
 余程人を見る目があるのか、それともただの馬鹿なのかはマサヨシの知るところではない。先ほどまでマサヨシをスパイ扱いしていた周りの者達も納得しているようなので、彼の言葉は部族の中では絶対なのかもしれない。
 嫌疑が晴れたというのならばエンドモールが何を考えているのかはどうでもよかった。マサヨシはアワデルからバッグを乱暴に奪い取り、床にぶちまけられた荷物をその中に詰め込んでいく。

「疑いが晴れたなら、もういいよな。じゃあな」

 マサヨシはエンドモールの脇を通り抜けようとしたが、それは彼の肩を掴んだエンドモールの手によって止められた。

「だが、現在オヌシをこの里の外に出すわけにはいかぬ」
「……何で?」

 振り返ったマサヨシの顔はとんでもなく嫌そうだった。

「それは後で話す。とりあえず、非礼を詫びる意味も込めて、ワシの家で食事でもしながら話そう」
「……わかった」


 どうやらエンドモールはマサヨシに食事をふるまってくれるそうだ。ただ飯が何よりも好きな彼は渋々ながらもそれを了承し、エンドモールについていくことにした。

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