正徳五年。というから、今から三百年ほど前。江戸時代、七代将軍家継の時代。
仁連佐七《にれのさしち》という商人があった。
旅の途中で猫守神社に差し掛かったとき、暴れ馬に撥ねられそうな猫を助けた。
その晩、佐七の夢枕に件の猫が現れ、助けて貰った恩返しに願いを叶えると言う。
佐七は知恵者だったらしく、猫と旅を続けるうち、猫の叶える願いのお蔭で大いに
財をなした。
その後、佐七と猫が再び猫守神社を訪れると、猫は何処へともなく消え去った。
佐七は猫への感謝を忘れず、この地に新しく猫守神社を建てて、篤く奉った。
*****
「その話、私のとそっくり…」
「だろ。だから、ここに何かの手掛かりがあるんじゃないかと思う」
私の心が軽くなった。
ほんの少しだけ、光明が差した気がする。
ニャァ。
抱きかかえていた翠が体をモゾモゾと動かした。
翠も何かを感じているのだろうか。
「どうしたの」と声をかけると、翠は私の胸から飛び降りて、祠の前に座る。
背筋を伸ばしているその姿は、猫盛神社に対して何かを訴えているように見える。
「翠も…何か感じてるんだね…」
「さて、次はどうしようかな。濱野さんの見た髭猫がこの辺に居れば良いんだけど」
「うん」
「素子さんに、訊いてみようか。知ってるかもしれない」
「そうだね」
私たちは、店の戻るため祠に背をむけて歩き出す。
ニャァ。
翠の声。
振り返ると、翠は祠の前に座ったまま、首だけを私の方に向けている。
「どうしたの。一緒に行こう」
と声をかけてみたけど、動こうとはしない。
私は翠の隣にしゃがむ。
「行こう」
やっぱり、翠は動かない。
そうか、猫盛神社に来たのに何にもしないのは失礼だよね。
そう思って、しゃがんだまま胸の前で手を合わせ、目をつぶる。
「猫守さま、猫守さま。で良いのかな? 私です、濱野美寿穂です。今朝は、夢だと
思って、翠を猫にする御願いしましたけど、あれは間違いです。どうか、翠を人間に
戻してください。お願いです」
心の中で、そう願をかけた。
サーッと一陣の風が吹き抜ける。
周りが急に静かになったような気がする。
ゆっくりと目を開けると、私は真っ白な風景の中にいた。
私の目の前に広がっていたのは、白一色の風景だった。
どこまでの続く白い空。その空に白い雲が浮かんでいる。
白い空に白い雲。良く考えれば、区別出来そうにないけれど、そこに雲がある事が
私には分る。
下に目を移すと、一面の白い草原。
踝より少し高いくらいの白い草が、見渡す限り続いている。
白い草原と白い空が、遥か彼方で白い地平線をかたちづくる。
風が吹き抜け、白いさざ波が草原の中を駆け抜けていく。
四方を見回してみると、ところどころに木が生えている。これも白い。
まばらに岩が見えるのだが、白い草原に白い岩なので距離感がわからず、大きさの
見当がつかない。
知らない場所に、私ただ一人。
すごい心細い。
「だれか居ないのー」
返事はない。
近くの見える木に向かって歩き出す。
そこに人気があるわけではないが、とにかく何かの傍にいたい。
数歩進んだところで、草の中に小川が見えてきた。
小川といっても、幅が10センチほど。単なる水の流れと言ってもいいくらい。
私は、その水の流れに色が付いていることに気が付いた。
その色に引き寄せらせ、跪いて水の流れを覗き込む。
あっ!
思わず驚きの声がでる。
水の流れの中には、猫守神社の様子が映っていた。
そこには、正気を失ったように横たわった私が見える。
三笠くんが駆け寄り、懸命に私に呼びかけている。
何? これって、どういうこと? 私、ここにいるのに。
まさか…。まさか…。
「もしかして、ここは天国なの?」
「そんな、たいそうなもんじゃないワイ」
いきなり、後ろから声をかけられた。
振り返ると、例の髭猫がデッキチェアに腹を上にして寝そべっていた。
いつの間にデッキチェア?
なんて、突っ込みは置いといて…。
「あの時の猫さん? あなた一体誰? ここはどこ? 私、どうなっちゃったの?」
「これこれ。そう、一辺に言わんと…」
髭猫はデッキチェアの上に起き上がり、私の方を向いて座りなおす。
私も髭猫の前に正座する。
「娘。んーんと、名前は美寿穂じゃったかのぉ。まぁ、そう焦らんと、落ち着け」
「名前、覚えてくれてたんですか?」
「そりゃ恩人じゃもの、忘れんよ」
髭猫の方は私の名前を覚えてるらしいけど、私は髭猫さんの名前を知らない。
「あのぉ、猫さん。お名前を、教えていただけますか?」
「猫の姿は擬態と言ったじゃろうが。それに、名前は教えても忘れるから無駄じゃ」
「でも、名前が分からないと、話がしずらいんですけど…」
「あっそう。でも、本との名前は覚えておらんのじゃ。人間からは「ネコモリサマ」
などと呼ばれるとるから、その名で呼んでくれて構わんよ」
「ネコモリサマ? じゃぁ、ネコモリサマは猫守神社の神様なんですか?」
その問いに、ネコモリサマは後ろ足で首筋を掻きながら、気だるそうに答える。
「人間は、分からん事があると何でも神様のせいにしたがるのう。儂は神様などでは
ない。人間と同じ生き物じゃ。只、生きておる場所が違うだけじゃよ」
…? 何を言ってるのか分からない。
「儂は、人間の言う『超次元』に棲んでおる生き物なんじゃ」
超次元? 超次元って何なんだろう?
「…でも、ネコモリサマって、普通の猫なんじゃ?」
「だから、それは擬態じゃといっておる」
「…あの。…ギタイ…って何ですか?」
ネコモリサマがデッキチェアの上でズッコける。
「擬態とは、生き物が体の色や形を、周囲の物や他の生き物に似せることじゃ」
「?」
「枯葉そっくりの蝶とか、カメレオンが体の色を変えたりするとか、そんなんじゃ」
「あー、わかりました。なんとなく…。でも、ネコモリサマは、なんで猫に?」
「儂も生きてるかぎりは、食べにゃならんのでのぉ。猫に化けておると、黙っていて
食べ物を貰えるんじゃ」
「なるほど」
ネコモリサマがデッキチェアから飛び降りて、私の周りを回り始める。
「それで、ここがさっき言った超次元じゃ」
「ここが?」
ともう一度辺りを見回してみる。
「只の真っ白な草原に見えるけど」
「まぁ、人間にはそう見えるかもしれんのう」
「私が見た川みたいなのは何なんですか? その中に、私が映ってたんですけど」
「それは、超次元から見たお前達の世界じゃよ」
「じゃぁ、向こうの世界の私はどうなってるんですか。まさか…」
「ただ気絶しとるだけじゃ。美寿穂に用があるので、意識だけ来てもらったのじゃ、
こっちへな」
「用事? わたしに?」
「忘れてもうたかのぅ。恩返しの三つの願い。美寿穂は、あと二つ願いを叶える事が
出来るんじゃよ」
恩返しの三つの願い。
そうだ、大事な事を忘れていた。
翠を人間に戻して貰うために、ネコモリサマを探してたんだっけ。
私はネコモリサマの方を向いて、正座のまま姿勢を正す。
「ネコモリサマ。ネコモリサマ。私の願いは、たった一つです。猫になった妹の翠を
人間に戻してやって下さい」
へっ。
ネコモリサマが、間の抜けた返事をする。
「すまんのう。願いの意味が、わからんかった。もう、一度言ってくれるか」
「何度だって言います。翠を元に戻して下さい。翠を人間に戻して下さい」
「えー!!! …と、それは…。最初の願いを無しにするって意味かの?」
「そうです。最初の願いを無しにして欲しいってことです!!」
「あらまあ、それは…」
「あらまあ、それは?」
「それは、ちと…」
「それは、ちと? まさか、出来ないんですか? ネコモリサマなのに?」
「いや、そんな事はないんじゃが…。なんか、他のお願いにならんかの?」
「他のお願いなんてありません。翠を戻してください。出来ないんですか?」
私をはぐらかそうとしてるのか、ネコモリサマの答弁が段々と怪しくなる。
「ひょっとして、本当に翠を人間に戻せないですか」
「いや…、そんな事は…ない。…ぞよ」
断言の言葉を吐きながら、視線はあらぬ方向を向いている。
「それなら、今すぐ…」
「それがの、それは…、ちと条件が要るんじゃ」
「条件?」
「そう。叶えてしまった願いの取り消しには、条件が要る」
「どんな?」
えーと、それは。
と言いながら、ネコモリサマが私の周りをソワソワと歩き始める。
絶対、いまその条件てのを考えてるよね…。
「うほん。条件は決まった」
とネコモリサマが改まった顔で私を見る。
「なんですか、条件って?」
私の質問に対して、ネコモリサマがネヘヘと嫌な笑い顔を作る。
「それはの…、儂の隠れ家を見つける事じゃよ」
「隠れ家? 隠れ家って何ですか?」
「それを言ったら、探す意味が無くなるじゃろ。これから、美寿穂の時間で24時間
以内に、儂の隠れ家を探し出すこと。それが、最初の願いを取り消す条件じゃ」
「24時間以内。そんな…、大体、どこなんですが隠れ家って?」
「それを探すのが条件じゃよぉ」
「そんな…。全然、見当もつかない…。なにかヒントとかは?」
「ヒント…。そうじゃのう…。儂が、むかし住んでおった所に入り口がある」
「えぇっ!? それじゃ、ヒントにも何もなってないじゃないですか」
「フフフ。ちゃんとヒントになっておるんじゃよ。じゃーねー」
そう言うと、ネコモリサマは前足を片方挙げて、バイバイの仕草をした。
自信たっぷりにニヤついているその顔が憎たらしい。
と、見る間にネコモリサマの姿がぼやけていく。
私の周りの真っ白い世界の景色も霞んでいく。
あっ、ちょっと待って!
そう思って、右手をネコモリサマの方に差し出した。
そこで、意識が無くなった。
あっ、待って! 行かないで。
ぼやけていくネコモリサマを追いかけるために、一歩踏み出した。
と、何かが顔にぶつかって、目の前に火花が飛び出し、視界が真っ暗になる。
鼻の頭が痛い。唇にも何か柔らかい物がぶつかった感触があった。
「痛~い」
鼻の頭を手で押さえながら目を開ける。
すると目の前に、私と同じように顔の中心を手で押さえた三笠君が居た。
「「だ、大丈夫」」
とお互いに声をかける。
ここで私は、畳の上に寝かされ、上半身を起こした状態である事に気が付いた。
「あれっ、私、どうして…?」
「神社の前で、急に気を失ったんだよ。それで、素子さんと、ここまで運んだんだ」
と三笠君が説明してくれた。でも、何か三笠くんの顔が赤い? 熱でもあるのか。
スッと、部屋の障子が開いた。
「なになにっ? 今、アッとかキャッとか聞こえたけど」
素子さんだった。
「いやっ、そのっ…」と三笠君が口ごもる。
「何があったん?」と畳みかける素子さん。
「あの、濱野さんが譫言を言い出したんで、様子を見ようとして顔を覗き込んだら、
急に起き上がったんで……」
「急に起き上がったんで…?」
「……顔と顔がぶつかったんです」
顔と顔がぶつかった? 私と三笠くんが?
そういえば、唇に柔らかい何かが当たった気がする。あれはなんだったんだ?
「なになに? イヤだよ、いくら二人きりになったからって、人の家でキスするのは
無しだよ」と素子さんが揶揄うように笑う。
「いや、そんなことしてませんから」と大慌てて否定する三笠くん。
「本当?」
「ほ、本当です…」と照れながら否定する三笠くん。
「ならいいけど。私、店番があるから居なくなるけど、キスとかするなら表に聞こえ
ないようにお願いしますね」と可笑しなことを言いながら部屋を出て行った。
私と三笠くんが座敷の部屋に取り残される。
「あのぉ。さっきのは事故だから…、その…。気にしないで…」
三笠くんがあらぬ方向を見やりながら弁明する。
事故? やっぱり私、三笠くんとキスしちゃったの? 気が付かないうちに。
猛烈に顔が熱い。頭から湯気が立ちそうだ。
私と三笠くんが、お互いに背を向けたままで座っている。
言葉を発する雰囲気では無い…。困ったな、何を話せばいいだろう。
テコテコテコ、と、翠が小走りでやってきて、私の膝の上に乗っかった。
そうだ。悠長にしては居られない。
「あの、三笠くん。私、気絶してる間に、ネコモリサマに会ったの。それで…」
私は、超次元でのネコモリサマとの会話の内容を三笠くんに語って聞かせた。
翠を元に戻すために、24時間以内にネコモリサマの隠れ家を探し出さねばならぬ
事も伝えた。
「ネコモリサマの隠れ家…かぁ…。それだけじゃ、全くわからないな」
三笠君が腕組みして考える。
「そうだ…。ネコモリサマが以前に住んでた場所に入り口があるって言ってた」
「ネコモリサマが以前に住んで場所…ねぇ。結局、その場所も分からないからなぁ」
「でも、ネコモリサマは、それがちゃんとしたヒントなんだって…」