私は、ミドリや謎写真の事をお母さんに尋ねるために、スマホを手に部屋を出る。
と、そこで私は何かに曳かれるような気持ちで、立ち止まる。
丁度、私の隣の部屋の前だ。
ここは、元々は子供部屋になる筈の区画だった。
けれど、子供は私しか生まれなかったので、納戸代わりに使われている。
何故か、この部屋の様子が気にかかる。
いや、それよりも謎写真のことを…。
急いで、階下に向かおうとする…。
…でも、どうしても納戸代わりの部屋の様子が気になって仕方がない。
ミドリの姿形や、謎写真の事より、もっと切実な何かが、そこにある気がする。
私は思い切って、その部屋のドアを開ける。
中には…、予想通り何もなかった。
今の季節に使わない暖房器具、衣類の収納ケース、非常食に防災用品グッズ。
様々なものが、薄らと埃をかぶったままで収められている。
あれ?
何だろう。急に涙が出てきた。
私は、以前には、もっと違う心持ちで、この部屋を訪れていた気がする。
涙が、止まらない。
あるべきものが、ここに無い。
そんな、喪失感が私の心を揺り動かす。
ここに居るのが、だんだん辛くなってきた。
私は後ろ手にドアを開け、部屋を出ようとする。
ガサリ。
何かがドアに擦れる音がした。
ドアのしたを検めると、紙が挟まっている。
どうやら、ノートの一ページのようだ。
拾い上げてみると、何やら書かれている。
『ごめん 翠 お姉ちゃんが悪かった どこにも行かないで』
翠?
お姉ちゃん?
ミドリ…。ミドリ…。
翠、翠。
翠の顔が脳内に大写しになる。
私の全身に衝撃が走る。
翠、翠。
私、なんで翠のこと忘れちゃってたんだろ。
なんで、今までミドリが猫だなんて、思ってたんだろ。
ミドリが猫。翠が猫。
そうか、翠は家出したんじゃない。
翠は猫になったんだ。
翠が猫に。
そのことに気がつくと同時に、私はある衝撃の事実を思い出す。
翠を猫にしたのは、私だ。
私が翠を猫に変えたんだ。
私が、そう願ったんだ。翠を猫にして下さいって…。
*****
「儂を助けてくれた御礼に、お前の願いを三つ叶えてやろう」
「私の願い?」
「そう、猫に関する三つの願い」
「…それなら…、妹の翠を猫にして下さい」
今日は夏休み補修授業の最終日。
今日一日乗り切れば、明日から本当の夏休み!
そんな感じで、体の半分が休みの色に染まって登校した。
教室に入る。
私が受けるのは、学力向上の補習授業。
ほんとは任意参加なんだけど、部活とかの特別な理由が無い限りは、全員参加。
一日中、過去問や応用問題の演習ばかりで、嫌になる。
まぁ、赤点補習にならなかっただけ、マシなんだろうけど。
今日は、まだアーちゃんは来てないのかな。
隣の席の様子を見ながら席につく。
私が、一時限目の教科書を、机の上に準備していると…。
「ねぇねぇ。濱野~。知ってる? 大ニュース、大ニュース」
猫なで声の藁川百合華がやってきて、アーちゃんの机に座った。
続いて、いつも百合華に引っ付いてる牟田口朱美が一つ前の席に座る。
折角、いい気分でいたのに。朝から、嫌な人たちに絡まれた。
そもそも、「濱野~」なんて、呼び捨てにされる程の仲ではない。
それに、この人たちの大ニュースとは、どうでも良いような噂ばかりで、聞くだけ
無駄というものだ。
一体全体、何だって、私のところに話を持ってきたのだろう。
私は無視を決め込む。
「無視しないでよ、ほんとに大ニュースなんだからぁ」
と私を顔を覗きながら二人でニヤニヤ笑いをする。
ほんと、嫌いだ。この子たち。
「聖真《しょうま》くんの話なんだけど、聞きたくない?」
「えっ!」
三笠君の名前が出て、私の唇が思わず反応する。
この人たちから、三笠君の名前が出るとは予想外だった。
てか、三笠君のことを、気安く「聖真くん」なんて呼ばないでほしい。
「ホラ、ホラ、ホラ。やっぱり興味あるんでしょ」
と百合華が畳み掛ける。
「べ、べつに」
と言ってはみたが、声が上ずっているのが自分でもわかる。
百合華と朱美が目配せし合っている。
私の反応を楽しんでるんだ。
まったく、嫌な人たちに捕まった。
「昨日、朱美が見たんだって。聖真くんの彼女」
私の体が、またピクンと反応してしまう。
「聖真くんと女の子が手を繋いでるとこ見たんだ。すっごく可愛い彼女だったよ」
朱美が、真面目な顔で報告する。
この子も、内心ではほくそ笑んでいるのが、私にはわかる。
「……そ、そうなの……。そういうの、あんまり関心ないけど」
内心の動揺を抑えて、無関心を装う。
「またまた~、興味ないフリして~。先を越されて悔しいとか思ってるんでしょ」
「……別に……」
と強がって見せる。
朝から嫌な人たちに、聞きたくもない話を聞かされた。
居なくなってしまいたい。ここから。
同じクラスの三笠《みかさ》聖真《しょうま》君。
いたって平凡な男子だ。
背も見た目も普通。整った顔立ちだけども、飛びぬけて美形なわけでもない。
運動も普通にできるけど、部活はやってないらしい。
勉強もごく普通。歴史は好きらしいけど。
でもって、私の片思いの相手。
片思いといっても、ほんとに私の一方的な憧れ。
三笠君は、私の気持ちには気づいていないと思う。多分。
一年生のとき、無理やり文化祭の実行委員をやらされた。
三笠君は別なクラスの実行委員だった。
そんなわけで、三笠君とは文化祭の実行委員会で知り合った。
三笠君、そんなリーダーシップがあるわけじゃない。
だけど、一緒に委員の仕事をしてると、誠実さや懸命さが伝わってきて、だんだん
好感を持つようになっていった。
文化祭の前日。文化祭直前なので、どのクラスも殺気立っていた。
そんな中、時間を過ぎても下校しないクラスに、実行委員が帰宅を促して回った。
ところが、二年生のクラスを訪れたときに、そのクラスの男子生徒に凄まれた。
私が泣きそうなって、竦みあがっていると、三笠くんがやってきて助けてくれた。
私が凄まれたショックで、泣きそうになっていると。
「気にしないで。きっと、みんな疲れて殺気だってるんだ、濱野さんは、悪くない。
濱野さんが、一生懸命なのはみんな分かってるよ」
と慰めてくれた。
その時からかな。好感が好意に変わっていったのは…。
でも、文化祭が終わったら、委員会も解散。三笠君との関係も、それっきり。
二年生になって、同じクラスになったけど、もう四か月も経つのに、まともに話を
したことは一度もない。
私は、誰にも三笠君への想いを話したことはない。
だけど、私は生まれつき、感情が顔に出やすい性質《たち》なのだ。
偶々、三笠君と目があったりすると、顔が真っ赤に染め上る。
三笠君が近くを通るだけで、会話がシドロモドロになってしまう。
そんなだから、私の親しい友人は、私の片思いの事は知っていると思う。
でも、噂話をもってきた二人とは、特段親しい訳ではない。むしろ疎遠だ。
それなのに、この二人は私の片思いの事を知っているらしい。
ひょっとして、クラス全員が知ってるって事なの?
だとしたら、三笠君も…。
頭が真っ白になる、顔が熱を帯び始める。
「ねえ、ねえ。もっと詳しく聞きたいでしょ」
ひね曲がった笑い顔の百合華と朱美が、話を続けようとする。
「聞きたくないってば」
と撥ね付ける。
「えー。いいのかなぁ、聞かなくて…」
「そうだよ、濱野のために来たんだよ、私たち」
あー、もう、しつこい。放っておいて欲しい。
「ん、んん」
咳払いが聞こえた。
「そこ、私の席なんだけど。どいて貰える」
アーちゃんが来た。助かった。
「あっ、奥寺さん。私たち、濱野さんに大事な話があったの」
「ふーん。でも、もうすぐ授業だから、どいてくれる」
「でも、濱野さんにとって、とっても大事な話なのよ。彩愛ちゃん」
「あー。私、あなた達と親しくなった覚えないから、下の名前で呼ばないでくれる。
それと、ど・い・て」
アーちゃんのお蔭で、虎口を脱することができた。
アーちゃん。奥寺彩愛《あやめ》。
私の中学時代からの仲良し。
この町に古くからある名家の出だ。
そのせいなのか、気が強くて、男子とも平気で渡り合える。
だから、あの嫌な二人組なんか、簡単に追っ払ってくれた。
ほんと、頼りになる。
「何か言われたの、あの二人に」
私の異様な雰囲気を感じ取ったのか、アーちゃんが心配顔で尋ねる。
「えーと、その。何でもない…。大丈夫」
と答える。
アーちゃんが、私の顔をマジマジとみて
「美寿穂がそういうときは、大抵、何かがあって、大丈夫じゃない…」
図星だ。
「う。うん」とお茶を濁す。
「まっ。大体見当はついてるけどね」
とアーちゃん。
見当がついている?
どういうこと。アーちゃんも、三笠君の彼女のことについて知ってるの?
私が、疑問符のついた顔を作ると
「ちょっと、ここじゃ話せないから、後でね」
とアーちゃんが答えた。