猫になったイモウト

 餌入れはダイニングに。猫のトイレは廊下のはずれに。
 お母さんについて、一つ一つ見て回る。
 さっきは気が付かなかったが、玄関には猫のキャリーバッグもおいてある。

 全部、見覚えがある気がしてきた。

 ダイニングの椅子に座り、心を落ち着かせて考える。
 私、何をあんなに焦っていたんだっけ?

 ミドリがいなくなったから?
 それだけじゃ、ないような気もするんだけど。
 …思い出せない。

 お母さんが私の肩に手をおいて
「落ち着いた?」
 と尋ねる。

「う、うん…」
 と曖昧に答える。
 自分でも、何に対して、あんなに駆り立てられていたのか、思い出せない。

 リビングを振り返ってみると、お父さんは相変わらず新聞を読んでいる。
 その向こうには、見慣れたミドリの寝床がある。
 いつもと変わらない風景だ。
 私は、一体、何を不安に思っていたのだろう。
「落ち着いたのなら、ちょっと手伝ってくれる」
 お母さんに言われて、朝食の準備を始める。
 座ってモヤモヤしているより、正直、体を動かしている方が気が楽だ。

 お母さんは、冷めてしまった焼き魚をラップで包み、電子レンジで暖めなおす。
 レンジの中で、魚の一部が破裂して、ビックリする。

「焼き魚をチンすると、これで形が崩れちゃうから嫌なのよね」
 お母さんが愚痴をこぼす。
 ゴメンナサイ。私のせいです。
 と、心の中で謝る。なんか、肩身が狭い。

 家族三人がテーブルに着く。
 私とお母さんが対面するように座り、その間、私の右手側にお父さんが座る。
 いただきます。をして、短い家族三人団欒の時間。
 けれど、お父さんは大急ぎで朝ごはんを胃袋に流し込むと、
「ごちそうさま。遅れそうだから、先に…」
 といって二階に駆け上がっていった。
 これも、私が騒ぎを起こしたせいだ。益々、小さくなる。

 一体どうしたんだろ。私。
 猫がいない事くらいで、泣いたりして…。
 お父さんが、出て行ったので、私とお母さんだけが、取り残される。
 気を遣っているのか、お母さんは当たり障りのない世間話をする。
 私も、それに倣う。
 だんだん、普段の生活のリズムに戻ってきた気がする。

 お母さんの世間話は続く。
 向かいの渡辺さんから、旅行のお土産を貰った話。
 家庭菜園でトマトやピーマンが採れた話。
 行きつけの和菓子屋の新商品の話。

 そんな何でもない、話に付き合った。
 今日は、一日休みだ。とにかく、今日はノンビリと過ごそう。

「そうそう、そういえば。咲穂里ちゃん、ファッションショーの出るんだってよ」
「咲穂里姉ちゃんが?」
 急に話題が変わった。
 咲穂里姉ちゃんは私の従姉。大学生で、この四月から一人暮らしを始めた。

「大学のオープンキャンパスとかいうので、ファッションショーやるんだって」
 そうだ、咲穂里姉ちゃん、服飾関係の学部に行ってるんだっけ。
 大学って、そんな事もやるんだ。にわかに興味が湧いてきた。

「それ、見てみたいな」
「でも、恥ずかしいから来ないでって言ってるみたいよ」
「えーっ! 見たい! 見たい!」
「でもねえ」
「みんなして見に行こうよ。サプライズでさ。翠だって、行きたいでしょ」
 そう言いながら、私の顔が自然と左を向く。

 でも、そには誰もいない。
 あれ!? 一体どうしたんだろ、私。
 気が付くと、目の前のお母さんが、また心配そうな顔で私を見ている。

「ごめん…。なんか、まだ…。夢のことが…」
 と小さくなって言い訳。
 気まずい雰囲気の中で食事を終え、後片付けをすますと
「すこし休む」
 と言い残して、逃げるように二階に上がった。
 朝のルーチンを済ませて、自分の部屋に戻る。
 ベッドに体を投げ出して、大きくノビをする。
 見慣れた天井。見慣れた壁。勉強机に、本棚。
 やっぱり自分の部屋が一番落ち着く。

 私の部屋は友達を連れてくると、必ず
「珍しいね」とか、
「変わった趣味ね」とか、
 言われる。

 それは、部屋の彼方此方にカワセミが飾られているからだ。
 カワセミのポスター。自分で描いたカワセミのイラスト。
 壁の収納ポケットに入れたカワセミの缶バッチの数々。
 ヒヨコやペンギンにしか見えないカワセミの縫いぐるみ。
 机の上にはカワセミのデコイが番いで置いてある。

 そうなのだ。カワセミは私のマスコットなのだ。

 幼いころ、両親に連れられて自然観察の森を訪れた。
 森の中の池に、野鳥を観察するポイントがあった。
 その観察窓を覗いた瞬間に、目の前の枝にカワセミが停まって、私と目があった。

 胸と目の周りの鮮やかな赤、喉と耳の清廉な白、自ら光を発しているとしか思えぬ
背中の青。
 まるで、宝石のように思えた。
 そして、それが生きて、空を舞う鳥であるという驚き。
 私は、その瞬間にカワセミの虜になった。

 私は、カワセミの背中の青が好き。
 カワセミは漢字で翡翠と書く。
 この「翠」の文字が、羽の色を表していて、ミドリと読む。
 そうだ、私はこの翠が大好きなのだ。
 猫にミドリという名を付けたのも、他ならぬ私だ。

 と、ここで私は、不思議なことに気が付いた。
 おかしい。変だ。自分でも理解できない。
 こんなこと、普通はありえない。

 私は、ミドリの姿を思い出せないのだ。
 どんな種類の猫なのか。
 白猫なのか黒猫なのか、あるいはトラ、三毛。どんな毛色なのか思い出せない。
 全くイメージが湧かない。
 子猫なのか、成獣なのか。
 そもそも、いつから一緒に暮らし始めたのか。

 全く思い出すことができない。
 猫にミドリという名前をつけた、その事だけはハッキリと覚えているのに。
 また夢の続きなのだろうか、それとも私の頭が変になったのだろうか?
 自分が自分でないようで、体中の血液が冷えていく気がする。

 そうだ、写真。
 私はベッドを起きだして、充電中のスマホを手に取る。
 私はスマホで撮った写真を、フォルダ分けして分類している。
 その中に「翠と一緒」というフォルダーがあった。

 開いてみる。
 けれど、そこには猫の写真は一つもなく、代わりに変な絵面の写真ばかりがある。
 私だけが写った自撮り写真。でも、奇妙に私の左隣りが空いている。
 小学校の校門の前に二人並んだ正装の両親の写真。卒業式らしいけど、誰のなの?
 中学校の運動会らしき場所で、また二人並んだ両親の写真。二人の間には、なぜか
一人分スペースが空いている。これも意味が分からない。

 でも、私にはそこに何がしかの重大な意味があるように思えて仕方がない。
 私は、ミドリや謎写真の事をお母さんに尋ねるために、スマホを手に部屋を出る。

 と、そこで私は何かに曳かれるような気持ちで、立ち止まる。
 丁度、私の隣の部屋の前だ。
 ここは、元々は子供部屋になる筈の区画だった。
 けれど、子供は私しか生まれなかったので、納戸代わりに使われている。
 何故か、この部屋の様子が気にかかる。

 いや、それよりも謎写真のことを…。
 急いで、階下に向かおうとする…。
 …でも、どうしても納戸代わりの部屋の様子が気になって仕方がない。
 ミドリの姿形や、謎写真の事より、もっと切実な何かが、そこにある気がする。

 私は思い切って、その部屋のドアを開ける。
 中には…、予想通り何もなかった。
 今の季節に使わない暖房器具、衣類の収納ケース、非常食に防災用品グッズ。
 様々なものが、薄らと埃をかぶったままで収められている。

 あれ?
 何だろう。急に涙が出てきた。
 私は、以前には、もっと違う心持ちで、この部屋を訪れていた気がする。
 涙が、止まらない。
 あるべきものが、ここに無い。
 そんな、喪失感が私の心を揺り動かす。
 ここに居るのが、だんだん辛くなってきた。
 私は後ろ手にドアを開け、部屋を出ようとする。

 ガサリ。

 何かがドアに擦れる音がした。
 ドアのしたを検めると、紙が挟まっている。
 どうやら、ノートの一ページのようだ。
 拾い上げてみると、何やら書かれている。

『ごめん 翠 お姉ちゃんが悪かった どこにも行かないで』

 翠?
 お姉ちゃん?
 ミドリ…。ミドリ…。
 翠、翠。

 翠の顔が脳内に大写しになる。
 私の全身に衝撃が走る。
 翠、翠。
 私、なんで翠のこと忘れちゃってたんだろ。
 なんで、今までミドリが猫だなんて、思ってたんだろ。

 ミドリが猫。翠が猫。
 そうか、翠は家出したんじゃない。
 翠は猫になったんだ。
 翠が猫に。
 そのことに気がつくと同時に、私はある衝撃の事実を思い出す。
 
 翠を猫にしたのは、私だ。
 私が翠を猫に変えたんだ。
 私が、そう願ったんだ。翠を猫にして下さいって…。

  *****

「儂を助けてくれた御礼に、お前の願いを三つ叶えてやろう」
「私の願い?」
「そう、猫に関する三つの願い」
「…それなら…、妹の翠を猫にして下さい」 
 今日は夏休み補修授業の最終日。
 今日一日乗り切れば、明日から本当の夏休み!
 そんな感じで、体の半分が休みの色に染まって登校した。

 教室に入る。
 私が受けるのは、学力向上の補習授業。
 ほんとは任意参加なんだけど、部活とかの特別な理由が無い限りは、全員参加。
 一日中、過去問や応用問題の演習ばかりで、嫌になる。
 まぁ、赤点補習にならなかっただけ、マシなんだろうけど。

 今日は、まだアーちゃんは来てないのかな。
 隣の席の様子を見ながら席につく。
 私が、一時限目の教科書を、机の上に準備していると…。

「ねぇねぇ。濱野~。知ってる? 大ニュース、大ニュース」
 猫なで声の藁川百合華がやってきて、アーちゃんの机に座った。
 続いて、いつも百合華に引っ付いてる牟田口朱美が一つ前の席に座る。

 折角、いい気分でいたのに。朝から、嫌な人たちに絡まれた。
 そもそも、「濱野~」なんて、呼び捨てにされる程の仲ではない。
 それに、この人たちの大ニュースとは、どうでも良いような噂ばかりで、聞くだけ
無駄というものだ。
 一体全体、何だって、私のところに話を持ってきたのだろう。
 私は無視を決め込む。