「分かった。一国の首相として、君達の出した条件は必ず守る」
 矢田部首相が威厳を正して応じた。
「ありがとうござます」陸くんが頭を下げる。
 それを見て、矢田部首相が陸くんに手を差し伸べた。
 ところが、陸くんはその手を握ることをせず
「……それと……」と言葉を続けた。
「まだ何か?」
「いえ。これは、条件ではありません。お願いです……」
「なんだね?」
「このミッションが終りを迎えた時、世界に向けて発信して欲しいんです。僕達が、
何をしたのか。僕達の身に何が起こったのかを」

 えっ? それって、やっぱり私達はセルベルクと運命をともにするってこと?
 不安が胸の中で急激に膨らむ。
 私の怯えた様子に気がついたのか、陸くんが私の手を握る。
―心配しないで。今のは、方便だ。美幸さんは安全だよ―
 サイコメトリーで陸くんの、心の声が届く。
―方便? 方便って、何のための?―
 陸くんに心の中で問うたが、答えは無かった。私の声は届かないのだろうか?
「分かりました。ミッションが成功した暁には、お二人の勇気と功績を世界の人々に
伝えます。必ず」
 私の思考は、矢田部首相の言葉で遮られた。
「宜しくお願いします」
 そう答えながら、陸くんが矢田部首相に右手を差し出す。
 矢田部首相がその手を握り締める。
「美幸さんも」陸くんに促されて、私も手を重ねる。
 
 こうして、セルベルク軌道変更のミッションは開始された。
 けれど、私には陸くんの言った方便の意味が、最後まで分からないままだった。
 ミッションが開始されてから、私達二人は目まぐるしい時間を過ごした。
 セルベルクへ向かうトリフネの打ち上げは、明朝の10時。今から22時間後だ。
 それまでに、宇宙船に搭乗する準備を全て済ませなくてはならない。

 まず、船内で着る宇宙服の準備。正確には船内服と与圧服の二つ。
 打ち上げと帰還時、それと月着陸船内に滞在時に、気密漏れが生じた場合に備えて
着用するのが与圧服。
 月軌道に乗って以降、船内で過ごすための軽装な船内服。
 普通は、飛行士の体形に合わせて特注するのだが、今回は既成の物を改修するのだ
そうだ。

 続いて、宇宙船の構造、船内の機器と操作方法の学習。膨大な情報量なので、一遍
にはとても覚えられない。
 ロケットの運航自体は自動制御なので、私達自身が操縦をする事はないが、船内の
移動や船内での生活のためには、必要な知識ということらしい。
 折角だから、習ったばかりのトリフネの知識を、記しておくことにしよう。
 トリフネは三段式のロケットになっている。
 一段目は、三基の液体燃料ロケットと四基の個体燃料ブースターを束ねた構造。
 二段目は、一基の液体燃料ロケット。
 三段目は、二段目を小ぶりにした液体燃料ロケット。
 三段目までのロケットを使って、トリフネは月へ向かう軌道に乗る。
 三段目ロケットの上にあるのが、トリフネ宇宙船の本体。
 地上に近い方から、円筒形の機械船、釣り鐘形の司令船があり、その上部に倒立の
恰好で拡張モジュールが接続されている。
 機械船には、地球からセルベルクへと向かうためのロケットエンジンと、乗組員の
生命維持に必要な空気・水が搭載されている。太陽電池パネルを展開させて、電気の
補給も出来る。
 司令船は、打ち上げと地球帰還時に乗組員が搭乗する船だ。最大で5人の乗組員が
搭乗できる。今回のミッションでは、搭乗するのは私達二人だけだ。
 拡張モジュールは、月軌道上での実験/居住区画と月着陸船で構成されている。
 これは、元々、トリフネが月の資源探索用のロケットだった事に由来する。
 今回のミッションでは実験施設が取り払われ、二人には広すぎる居住区が残った。
背を伸ばして寝られるベッドや個室トイレが用意してある。と言っても、ミッション
中に 私達がこの区画に居る時間は、半日しかないのだけれど。

 打ち上げ後のトリフネは、東に向かって飛ぶ。これは、地球の自転方向に飛ぶ事で
少しでも速度を稼ぐのが目的だ。
 宇宙センターは南九州にあるので、トリフネは打ち上げ後に関東の南海上を飛ぶ。
この時に、船内から故郷の姿を見られるのではないか。そう考えた。
 でも、上昇中のトリフネの窓は塞がれているので、地上の姿は見えないそうだ。
 残念。
 実地訓練も、幾つか受けることになった。
 まず最初に受けたのは、ロケット打ち上げ時のGに耐える訓練。
 遠心式Gシミュレータという機械を使って、訓練を行う。
 広い部屋の中に、金属製の巨大な腕のような構造物があり、その一端にカプセルが
取り付けられている。カプセルの中に人が座り、巨大な腕を高速で回転させる事で、
人体にGを加える仕掛けだ。
 これで、打ち上げ時の4G、帰還時の6Gを体験できる。

 まず最初に陸くんがGを体験。
 訓練が終わって、シミュレータを出た陸くんは、不快そうな顔はしていたが、割と
平気に歩いていた。
 それならば、と私も勇んでシミュレータに乗り込んだ。
 シミュレータが動き出して、徐々にGが加わり始める。体が椅子に押し付けられ、
身動き出来なくなる。眼前のモニター表示が、1G、2G、3Gと増えていく。
 それと同時に、視界が暗くなり、色が失われていく。
 そして、モニター表示が4Gに変わる辺りで完全に意識が無くなった。

 私が目を覚ましたのは、医務室のベッドの上だった。
「気がついたね。良かった」
 私の手を握りしめながら、陸くんが優しく声をかける。
「あれ? 私……どうして?」
「Gシミュレータ訓練中に気を失ったんだよ。ブラックアウトってやつさ」
 ※ブラックアウト:下向きのGのために脳内の血流が減少して気絶すること

「それじゃ、訓練は?」
「中止になったよ。美幸さんは、少し休んだ方が良い」
 陸くんの勧めで、私は休む事になった。
 本来なら、耐G訓練を何度か受けて、体を慣らしていくところだが、時間に余裕が
ないので、訓練はこの一度きりとなった。
 こんなんで大丈夫なのかと不安になったが、
「本番では、念動力で血流が下がらないようにすれば良い」
 と陸くんが教えてくれた。

 次に私達が受けたのは、無重力作業訓練だった。
 巨大プールに沈められたトリフネ宇宙船の実物大模型を使う訓練だ。
 浮力を調節して、擬似的に無重力を体験できるようになっている。
 トリフネが宇宙空間に到達した後、私達は司令船から居住区画に移動して、暫くの
間、そこで過ごす。更に、セルベルクに近づいたら居住区画から着陸船へ移動する。
 全て無重力の中での作業なので、それを事前に体験しておく訓練だ。
 もっとも、水の浮力で無重力に似せた状態を作っているので、本番とは違う。
 無重力の中では、水を掻いて泳ぐようなわけにはいかないのだ。

 無重力作業訓練も、時間の関係で一回だけで終わった。
 その他に、宇宙空間での過ごし方の訓練も行った。
 食事の仕方、歯の磨き方、顔の洗い方、髪の洗い方、トイレの方法。
 とはいえ、実際に無重力状態で実地訓練できる分けではないので、全てがブッツケ
本番ということになる。
 短い時間に必要な訓練を押し込んだので、目の回るような忙しさだった。
 だけど、その方が私にとって、幸だったのかも知れない。
 時間に追われ、目の前の訓練をこなす事に意識を集中させたために、感傷に浸って
いる時間が無かったからだ。
 もし、時間に余裕があって、自分に降りかかる運命に思いを馳せていたとしたら、
私の心は重圧に耐えかねて、折れていただろう。忙しさが、不安な心に蓋をした。

 それでも、訓練中に一度だけ感情が弾けそうになった事がある。
 それは、私達の船内与圧服が、手元に届いた時だ。
 真空パックされた与圧服と一緒に、納品書を手渡され、その納品書の承認者欄に、
お父さんの名を発見した。父はトリフネ計画における宇宙服開発のリーダーなのだ。

―お父さん……―
 声なき聲を発する。
 お父さんが直ぐ近くに居る。
 会いたい。お父さんに……。一目見るだけでも良い。
 ……でも……、それは出来ない。
 私とお父さんの関係が他の人に知れたら、私の正体が分かってしまう。
 私がセルベルクと共に宇宙の彼方に去る運命だと、お父さんに知られてしまう。
 そうなったら、お父さんは、嘆き悲しむだろう。
 その運命を変えられぬ自分を責めて苦しむ事になるだろう。
 言えない。言いたくても、口に出せない。
 係員から受け取った与圧服を胸に抱きしめる。
 どうしました?
 異変に気が付いたのか、係員が訝し気に私の顔を覗き込む。
「な、何でも……」と応えたところで、涙がこぼれて来た。
 与圧服を抱いたまま、嗚咽を漏らす私。
 陸くんが駆け寄って来る。
「どうしたの?」
 父の名が書かれた納品書を陸くんの前に差し出す。
 陸くんは、そこに書かれた署名を見て、事態を直ぐに飲み込んだようだ。

「すみません。少しの間、二人だけにして下さい」
 係員の人達に部屋から出てもらい、二人きりになる。
「美幸さんのお父さんなんだね? この服を作ったのは」
「うん。父は、宇宙服開発のリーダーなの」
「この基地に居るの?」
「うん」
「会いたい?」
「会いたいよ。でも、会えない。私が、ソラシドレスキューだって分かってしまう。
それに、お父さんを苦しめる事になる」

「美幸……さん」
 陸くんが私を抱きしめる。
「すまない、辛い思いをさせて。でも、君はこのミッションが終わったら、いつもの
生活に戻れる。お父さんとも、また会える」
 陸くんの体温を感じる。陸くんの言葉が心に沁みる。
 嗚呼。もしも、陸くんがそばに居てくれなかったなら、私はこのミッションに参加
する決心などつかなかっただろう。
―大丈夫。僕に考えがある。君の身の安全は保障する。セルベルクも堕ちはしない―
 このミッションを請ける前に、陸くんはそう言った。
 トリフネでセルベルクへ行くことは可能でも、そこから地球に戻る術は無い。
 陸くんは、矢田部首相に対して、そういう意味の事を言っていた。
 セルベルクの軌道変更ミッションを成功させつつ、どういう手立てで私達は地球に
帰還するのだろう。
 私を落ち着かせるための単なる気休めの言葉なのだろうか。
 いや、そんな事はない。今まで、陸くんは数々のアイデアでソラシドレスキューの
問題を解決してきた。
 今度だって、何か考えがあるに違いない。
―周りには秘密で、事を進めたい―
 陸くんは、そうも言っていた。
 きっと、何かがあるんだ。取って置きの解決策が……。

 けれど、その解決策が何を意味しているのか、この時の私は知る由も無かったので
ある。