その奇妙な店を見つけたのは、ばあちゃんが入院している病院を訪れたときだった。
『辞世の句、承ります』
 あまりの暑さに、僕は幻を見たのだろうか。
 初夏の日差しは容赦なく僕とアスファルトを焼きつける。病院の木陰で熱々になったアスファルトは恨めそうに陽炎を揺らめかせていた。
 ベンチに腰かける僕の視界の向こう側、陽炎の奥にその看板はあった。それが、彼女と僕の不思議な出会いだった。

「ばあちゃん、来たよ」
 個室のドアをノックして、ばあちゃんが入院している二〇六号室の戸を開ける。部屋はばあちゃんの好きな青りんごの香りに包まれていた。二日前、お見舞いに僕が買ってきたりんごだ。
「あら、ゆうたちゃん。今日も来てくれたのかい」
 ばあちゃんが嬉しそうに微笑んだ。
 もともとおばあちゃん子だった僕は、高校生になった今でもばあちゃん離れ出来ていなかったのかもしれない。高校が夏休みに入った事もあり、簡単な検査で入院中のばあちゃんの病室に、もう何度も足を運んでいる。
「今ヒマなんだ、夏休みだし」
「ちょっとした検査の入院なんだから、そんなに気にしないでいいのに」
「個室で良かったね。静かで落ち着くよ」
「そうでもないわよ。ずっと静かな部屋にいるとねぇ、気持ちが塞ぐものだし。でも、ゆうたちゃんがいっぱい来てくれるんだもの、私は幸せね」
 ほんの一瞬、ばあちゃんの横顔に浮かんだ弱々しく微笑み。
 ばあちゃんの表情はどこか寂し気に見えた。だから僕は、たいしたこともない学校のことを三十分も話して、日が暮れかけたころにばあちゃんに促され病室を後にした。
 喋り疲れた僕はジュースを買って、蝉がそこかしこで鳴く病院の広い中庭で一息つくことにした。入院病棟の静かで重々しい籠った空気より、暑くても外の空気が吸いたい。
 木蔭でジュースを飲みながら、病院の周囲を見回してみる。
 小さな中華店、薬局、コンビニに喫茶店。お見舞いに行く人や病院のスタッフさんが使いそうなお店と、病院に関わるものが立ち並ぶ。バスを待つ人が、日差しを遮るように手を頭の上にかざしていた。
 なんてことない風景をぼんやりと眺める。日差しを浴びたアスファルトが、靴を伝って僕の足にまで熱を伝えてきた。靴下はびしょびしょだ。
 もう行こう、そう思って立ち上がった僕の視界に、奇妙な言葉が飛び込んできた。

『死後術後、辞世の句 承ります』

 バス停の向こう側、病院と向かい合う位置にそんな言葉を書き記した小さなお店があった。
「辞世の句って、人が亡くなる時に遺すものだよな? おいおい……」
 不謹慎というか、縁起でもないというか。
 僕はけしからんと思いつつも、その店に興味を引かれて足を向けた。ボロボロの看板に、くたびれた緑色の日よけ。曇りガラスの引き戸にはご丁寧に『死句発句』という張り紙までくっついていた。
 のぞき込んでみても、店の奥はさっぱり見えない。曇りガラスが夕日を反射するばっかりである。中を覗くのは諦めようかと横を向いたとき、目の前の引き戸が勢いよく開かれた。
「わーい! 久々のお客様、いらっしゃい!」
 弾むような声が鼓膜を揺らす。
 引き戸の奥から、僕と同い年くらいの少女が満面の笑みで手を伸ばしてきた。
「さあさあお客さん、入って入って!」
「いや、僕はお客さんじゃなくって」
「いいからいいから!」
 店から出てきた少女は僕の後ろに回ると、背中を押して店の中に招き入れる。戸惑う僕の顔を、少女の黒く大きな瞳がじっと見つめていた。肩に触れるくらいの黒髪が、僕の身体を押すたびに光沢を放って揺れている。
 背の低い少女に押し切られる形で、僕は店の中に入った。
 古びた木製の本棚や机が立ち並び、そこらじゅうに短冊形に切られた紙が貼られている。少女は僕を店内に押し込むと引き戸を閉めて、素早く目の前の机に腰かけた。
「いらっしゃい! 今日はどんな辞世の句をお求めで?」
 少女は僕を見つめてにっこりと微笑んだ。見つめ合っているのがなんだか気恥ずかしくなって、僕は視線を下に向けて頭をかいた。
「僕はこのお店に用があるわけじゃないよ」
「でもキミさ。お店の中をじぃっと見ていたじゃない」
「それは、その……。病院の近くにこんな店、いいのかなぁって」
 なんと言ったらいいかわからず、僕は曖昧な返事をした。彼女は「んー?」と不思議そうに首をかしげて、細い人差し指で自分の唇を撫でる。
「聞き捨てならないわね、こんな店ってどういう意味?」
 小さな眉間にしわを寄せて、少女が僕を見つめる。言い逃れできそうな雰囲気ではなかった。僕は恐る恐る少女の顔色を伺いながら口を開いた。
「だって辞世の句を承りますって。辞世の句って、アレだよね?」
「うん、よくわかんないけど、そうね。多分アレ」
「死んじゃうときの、その、最後に残すみたいな、そういうやつだよね」
「そうそう、いわゆるそういうやつよね」
 顔色ひとつ変えずに頷き返す少女に、僕はもう一歩踏み込んで質問をしてみることにした。
「病院の前でそんな商売をするのって、どうかなぁと思って」
 僕の言葉を聞いた少女が、小さな手のひらをヒラヒラと動かして笑った。
「やだなぁ、お客さん。病院の前だからこういう商売をやるんじゃない」
「僕はお客さんじゃないってば」
「だってあたし、キミの名前知らないし」
 そう言った彼女が「お名前は?」とでも聞くように首をかしげて見せた。猫のような奔放な目にじいっと顔をのぞき込まれて、僕は逆らうのもバカらしくなってしまう。
「雄太だよ、木下雄太」
「へえ、雄太かぁ。雄太、雄太……ユタって呼んでいい?」
「別にいいけど、こっちにあだ名をつける前に君も名前くらい名乗ったらどうだ」
「あたし? あたしは夏希。ナツって呼んでね」
 ナツが笑って細い右腕を差し出した、僕はためらいがちにその華奢な手のひらを握った。
「よろしくね、ユタ!」
「えっと、よろしく……ナツ」
 細く柔らかい手に触れた僕の心臓が、跳ねるように飛びあがった。緊張していたのかもしれない。いや、そんなのは言い訳だろう、この胸の高鳴りは緊張だけではない。そんな気がして――。
 あの日から、僕が病院に通う目的がひとつ増えていたのかもしれない。

『実はわし この闘病が 終わったら 幼なじみに 好きと言うんじゃ』
「ナツ、なにこれ……」
 翌日。ばあちゃんのお見舞いを終えてナツの店に寄ると、ナツが机の上で短冊に向かい、一生懸命に何かを書いていた。ナツの後ろから長細い紙をのぞき込むと、そこには死亡フラグのようなものが綴られている。
「なにって辞世の句よ。注文があったから」
 ナツは机から顔をあげると、さも当たり前というように言った。
「これが辞世の句……? ただの死亡フラグだろ?」
「うーん、なんかね。映画のお約束みたいな展開が好きなんだってさ」
「それにしたって、なんのメッセージ性もないじゃないか」
 僕が呆れたように言うと、ナツは得意げな顔をして指を左右に振った。
「ノンノンノン。ふっふーん、わかってないなぁユタは。この依頼人さんはね、手術が無事に終わったらおばあちゃんにもう一回告白するつもりだったのよ。ロマンティック! でも、そううまくはいかなかった」
「うまくいかなかったってことは、手術は……」
「残念だけどね、失敗。だからせめてその気持ちを書き残したかったんじゃないかな。あいにく手術の前に句を書ける状態じゃなかったらしいの」
 はぁ、とあいまいに頷いた僕に対して、ナツが身を乗り出した。ナツのまとう甘い空気まで一緒にやってきて、僕はドキドキしてしまった。
「そこで、死後術後も承っちゃう私の出番! ってわけ」
「ああ、それであの看板の『死後術後』……」
 ふと、依頼人とは誰だろうかと気になった。手術を受けた方のご家族か、または友人か……。
「ご家族とか周りの人は納得するのかな、この句で」
「するに決まってるでしょ。辞世の句専門のゴーストライターは伊達じゃないわよ!」
 ナツはえらく自信満々である。僕はため息をついて店の中にある短冊を見回した。

『クソ嫁に ぎゃふんと言わせる 夢半ば 旅立つ我が身 届け呪いよ』

「……これは?」
「おばあちゃん、息子さんのお嫁さんと上手くいってなかったらしいから」
「だからってこんな句遺すわけ? ていうか、句っていうよりもはや呪詛だよね」
「あら、ユタ難しい言葉知ってるのね。届け我が呪詛にしよっかな?」
 そう呟いてナツが新しい短冊に句を書き綴る。
 軽い。いいのだろうかこんなノリで。
 首を捻ればその先にも、おかしな句が並んでいた。

『what's your name? マイネームイズ 鈴木です』

「……ねぇ、これ」
「鈴木さん、英語に憧れていたらしいの」
「マイネームイズのところは、my name isって英語にしないでいいの?」
 僕が紙の切れ端にスペルを書き記すと、ナツが眉を八の字の形にしてうなった。
「私もねー。そうしてあげたいんだけどさ、鈴木さんのマイネームの発音があまりにもカタカナだったんだよねー」
「よくわからないけど、仕事ならそこは見逃してあげようよ」
「うーん……」
 マイネームを英字で書いた短冊を手に持ってしばし見つめていたナツが、手にした紙をくしゃりと丸めて放り投げた。
「やっぱり駄目。ルールはルールだし、あたしって自分に嘘はつけないし」
「ひどいなぁ」

 こんなふうに、僕とナツはおかしな夏の夕暮れの日々を一緒に過ごした。日が完全に暮れるとナツは店を閉めるし、僕は家に帰る時間になる。
 家では母にますますおばあちゃん子になっちゃって、なんてからかわれたが、僕はちっとも気にならなかった。
 明日もまた病院に行って、そのあとはナツに会いに行こう。こんな夏休みが訪れるなんて、思いもしなかった。僕はきっと、浮かれていたのだと思う。

 ナツの辞世の句はいつだってデタラメだ。それでも毎日のようにナツは机に向かって、ああでもないこうでもないと他人の辞世の句を練っていた。

『人生も 局も大詰め 詰め将棋 金は去るのみ 裏はなきなり』

「ナツ、将棋するんだ?」
「あたしが将棋を? しないわよ」
「だってこの句」
 僕が指さす短冊を見て、ナツが肩をすくめた。
「しょうがないでしょ、そういうオーダーだったんだから」
「へえ、それでわざわざ調べたわけ?」
 意外と真面目に仕事をしているのかもしれないと見直した矢先、ナツは肩をすくめて笑って見せた。
「調べてなんかないって。それはそう書いてって頼まれたものだから。漢字まで指定されてる完全オーダーメイドってやつね」
 まぁ、辞世の句なんて全部そんなもんだけど、と一言付け足してナツが笑った。ということは、これは遺言を書き写したものなのだろうか。確かにいつものナツが書く句とは雰囲気がまったく違う気がした。
「ナツはさ、なんでこんな特殊な仕事をしているわけ?」
 ふと疑問に思った事をそのまま聞いてみる。ナツは珍しく神妙な面持ちで静かに言った。
「あたしにしか、出来ない仕事だから」
「ナツにしか出来ない?」
「そう! これはあたしにしか出来ない、オンリーワンな仕事なの!」
「うーん、本当にそうかなぁ?」
「じゃあユタ、あんたやってみる?」
「えっ? 僕が!?」
 言うが早いか、ナツが短冊と筆ペンを僕に押し付ける。僕はペンを受け取ると、机のはじっこで真っ白な短冊と向かい合った。
「ホラホラ早く。なんならあたしに向けての一句でも書いてみてよ」
「ナツの辞世の句を書くなんて、縁起でもないだろ?」
「とにかく、なにかひとつ句を書いてみなさいって」
 十分。二十分。ナツの視線と秒針の音が僕を急き立てるけれど、結局句に出来そうな言葉はなにひとつ出てこなかった。
「ふふん、少なくともユタには無理な仕事みたいねー」
 自慢げなナツの満面の笑みを見て、僕は反論しようとした口を閉じた。今の僕には、誰かの辞世の句なんて書けないだろう。強引に句を捻りだしてみたとしても、それはきっと――。
 こっぱずかしい三十一文字のラブレターになってしまいそうだったから。

 ナツとの不思議な時間はあっという間に過ぎていき、ばあちゃんが退院する予定の日がやってきた。だけど、その日もばあちゃんは二〇六号室の病室でいつものように横になっていた。
「なんだか入院が長引いちゃうらしくてねぇ、困っちゃうわ」
「検査の結果が良くなかったの?」
 僕の問いかけにばあちゃんがかすかに首を左右に振った。でも、ばあちゃんは前よりもいくらかやせたような気がする。ばあちゃんは「病院食がいいダイエットになったのかしら」なんて笑ってごまかすだけであった。
 長引く入院に、良い予感がする人なんていないだろう。ばあちゃんはすぐに元気に帰ってくると思っていた僕は、どうしていいかわからなくなった。
「そういえば、ゆうたちゃんって将棋は出来たかしら?」
 暗い顔をしている僕に、ばあちゃんが思い出したように尋ねた。
「将棋? やらないよ。どうして?」
「隣の部屋の溝口さん、一緒に将棋をしていたひとが急に容態が悪化して、亡くなられちゃったんだって」
「将棋をしていたひとが、亡くなった……?」
「昨日、寂しそうにひとりで将棋の駒を並べていてね。私もそれを見たらなんだか悲しくなっちゃって」
 将棋をやっていたひとが、死んでしまった。
 ナツの書いていた辞世の句を思い出す。あのナツの雰囲気に似合わない句は、そのひとの依頼を受けたものだったのだろうか。けれど、容態が急変して亡くなったのであれば、いったいどうやって辞世の句を用意したのだろう。
 あらかじめ用意していた? それにしたって……。「ねぇ、ばあちゃん!」僕は顔をあげると、ばあちゃんに声をかけた。
「うん? どうしたの、ゆうたちゃん」
 力なく目を伏せてうつむいているばあちゃんの顔。その表情を見ていると胸が苦しくなって、将棋の句ことを聞き出すのはためらわれてしまった。今、ばあちゃんに死にまつわる話なんて絶対にしたくない。
 痩せてしまった横顔。ばあちゃんは、本当に大丈夫なのだろうか。
 病院を出た後、僕はいつもより重い足取りでナツの店へ行った。
「今日はなんだか顔色がすぐれないね、ユタ。どうかした?」
「ばあちゃんがなかなか退院出来ないんだ。それに、ちょっと痩せてきてて……」
「そう。……ねぇ、おばあちゃんの名前は?」
「えっ? 咲枝だよ。苗字は僕と同じ。木下咲枝」
「どんな字?」
 僕がスマートフォンでばあちゃんの名前を入力して、ナツに画面を向ける。
「木の下で咲く枝かぁ、素敵な名前だね! こんなきれいな名前の人ならきっと大丈夫だよ」
 そう言って、ナツは微笑んだ。明るい声と笑顔に少しだけ気持ちが晴れて、僕はナツに頷き返した。
 それからはいつものようにナツの作りだすおかしな辞世の句を、二人でああでもないこうでもないと話しているうちに時間が過ぎていった。
 僕は手を振って店を出て、通いなれた道を家まで歩いた。
「ナツは、太陽みたいだな」
 僕の悲しい心を暖かく照らしてくれる、不思議な少女。
「きっと大丈夫、か」
 ナツがどこか浮世離れした子だからであろうか。
 彼女にそう言われると、ばあちゃんは本当に大丈夫なんじゃないかと思えてくる。そうさ、きっと大丈夫。僕がクヨクヨしていたら、ばあちゃんも家族も余計に暗くなってしまうに違いない。
 ナツを見習って、僕もできるだけ笑顔でいよう。
「ばあちゃんは、大丈夫」
 もう一度呟いてから、僕は玄関のドアを開けた。

 ばあちゃんが手術を受けることになったと知らされたのは、それから三日後だった。手術のことを告げた父は唇を噛みしめ、険しい表情をしていた。難しい手術なのかと聞こうとした僕は、父の顔を見て言葉を飲み込んだ。
 ああ、ナツに会いたいな、と思った。
 この暗くのしかかるような不安な気持ちを、ナツに思い切り笑い飛ばしてもらいたい。
 だけどばあちゃんが手術を控えたこの時期に、辞世の句を扱うゴーストライターの店にいくのは気が引ける。どうしたって縁起が悪いような気がしてしまうし、今誰かの辞世の句を目にするのはあまりにつらい。

 手術当日、僕はいつものようにばあちゃんの病室を訪れた。
「この歳になって手術を受けるなんて、いやねぇ」
「ばあちゃん、きっと大丈夫だから。手術が終わったら前よりもっと元気になるよ」
 前に大丈夫と言ってくれたナツの微笑みを思いだしながら、僕は精いっぱいの笑顔で言った。ばあちゃんはそんな僕の頭をそっと撫でて、手術室に運ばれていった。
 どれくらいの時間が経っただろう。仕事を休んだ父と母は入れ替わりで手術室の前に付きっ切りだった。僕もほとんどそこにいたけれど、一回だけ病院の中庭に出た。
 夏だっていうのに、少し肌寒い曇り空。
 バス停の向こうのナツのお店は曇りガラスの向こう側、相変わらずやっているのかいないのかわからない佇まいでそこにあった。いつもはうるさい蝉の鳴き声は、今日はやけに遠くに聞こえた。

 ばあちゃんの手術が終わった時、病院の外はすっかり夜の闇に包まれていた。疲れた顔のお医者さんが出てきて、手術室前で待つ僕たちに笑顔を見せる。
「ご安心ください、手術は成功です」
 その一言で、母は廊下に座りこみ父はお医者さんに何回もお礼を繰り返した。麻酔で眠ったばあちゃんが、看護師さんたちの手で運ばれていく。その顔は穏やかで、まるで微笑んでいるようにも見えた。
 集中治療室の中で眠るばあちゃんを、硝子越しにどれくらい見つめていただろう。あんなに輝いていた月はすっかりビルの奥に消え、ゆっくりと太陽が昇り始めていた。
「雄太、おばあちゃんは私が見ているからあなたは少し休みなさい」
 母に促されて、僕を病院を後にした。
 朝日がいつもよりまぶしく感じるのは、眠っていないせいだろうか。僕はナツにばあちゃんの無事を伝えたくなって、バス停の向こうのお店に向かった。そういえば、この店は何時から営業しているのだろう。
 曇りガラスの奥をのぞき込んでみても、相変わらず奥の様子はわからない。不意に、引き戸が目の前で開いた。
「あれ、ユタ? 何日も来ないと思ったら、こんな時間にどうしたの?」
「昨日の夜から今まで、ばあちゃんの手術だったんだ」
「そっか。まあ、入りたまえよ」
 ニッと笑ったナツが出会ったときのように僕の背中を押した。店に入ると、床の上に沢山の短冊がくしゃくしゃに丸められて転がっている。
「これ、どうしたの?」
「ちょっとね、スランプってやつ? まぁあたしほどの天才でも、たまにはね」
 そういって丸めた短冊のひとつを蹴っ飛ばすと、ナツが僕の顔を覗き込むようにして見上げた。
「それで、ユタのおばあちゃんの手術は、どうだった?」
「手術は成功したよ。もう心配ないってさ」
「そっか。良かった! だから言ったでしょー、大丈夫だって」
「うん。あの時大丈夫って言ってくれて、ありがとう」
 僕は素直にナツにお礼を告げる。右手でVサインを作ってにっこり笑うナツはまぶしくて、やっぱりナツは太陽みたいだと思った。
「ねぇ、ユタ。手術は成功したんだよね? それでもユタは、これからも毎日お見舞いにいくの?」
 視線を斜め上に向けて、ナツが妙なことを聞いてきた。僕はナツの視線を追うようにして目線の先を追ってみる。くたびれた天井が、窓から差し込む朝日でぼんやりと木目を浮かび上がらせている。
「うん。ばあちゃんのことも心配だし、学校は夏休みで暇だしね」
 なによりも、ナツに会えるから。
 本音を飲み込んだ僕に、ナツは寂しそうに微笑んだ。
「そっか。君はおばあちゃん思いだもんなぁ。でもねユタ、うちは今日から休業なんだ。もうここに来ちゃダメだよ」
「えっ……!?」
「まあ、来てもいいけど……。あたしはいないし、お店も閉まっている。無駄足だよ」
「なんでだよ、突然どうして!?」
 ナツに向けて一歩踏み出した僕の足が、くしゃくしゃになった短冊のひとつに触れた。
「ナツ? こんな、スランプなんて誰にでもあるものだろ。少しくらい書けなくなったからって店を閉めなくても」
「違うの、そんなんじゃない」
「じゃあ、どうして……」
 ナツが床に散らばった短冊をひとつひとつ拾い上げ、机の上にのっけていった。静かな部屋のなかに、ナツがまるめた紙を広い積み上げる音だけが響いた。
「ねぇ、ナツ!」
「ルール違反、しちゃったんだ」
 僕が沈黙に耐え兼ねて声をあげると、小さな声でナツがそう言った。
「ルール違反?」
「そう。どんな辞世の句でも承っちゃう、天才ゴーストライターであるこのあたしがさ。ついついルール違反なんてしちゃったんだよ」
「全然わかんないよ! なんだよルールって! どういう意味さ!?」
「ひみつ」
 ふう、と息を吐いて机の端に腰かけるナツ。その拍子に、机の上につまれた丸めた紙のひとつが僕の足元に転がり落ちた。
 手を伸ばす。ナツはなにも言わずに僕を見つめていた。
 ゆっくりとまるまった紙を広げてみても、ナツは微動だにしない。ただ、寂しそうな目で僕を見つめているだけだ。
 短冊を開く。そこにはいつもと同じように、辞世の句の候補と思わしきものがつづられていた。ただ、文字には何度も何度も横線が引かれている。

『倒木の 枝に実った 青りんご 抱いて眠るは 孫の面影』

「あお、りんご……」
「名前の通り素敵な人だね、ユタのおばあちゃん。青りんご、好きなんだってね」
 突然の出来事に、返す言葉が見つからない。呆然としている僕に向けて、ナツは歌うような声で言葉を続けた。
「ユタが青りんごを買ってきてくれて、とっても嬉しかったんだって。青りんごの香りをかぐと、キミを思い出すんだってさ」
「どうしてナツがばあちゃんの好物を知っているの? それに、なんで僕が買っていたことまでわかるんだ!?」
「ユタのおばあちゃんに会ったから。正確には、おばあちゃんの魂に」
「魂……?」
「ええ、そうよ。だってあたし……」
 ナツが机を蹴ってふわりと浮かび上がる。
 そのまま、ナツは重力なんか忘れてしまったように部屋のなかを漂った。
「辞世の句の、ゴーストライターだもの」
「それは、遺族の方に頼まれてとか、そういう意味じゃ」
「ぶっぶー、ハズレ。あたしはね、死にゆく人の思いをつづるの。死んでしまった人がどうしても残したかった言葉や気持ちや、ほんの些細なことをそっと書き遺す。それが、あたしの役目」
 空に浮かんだままのナツが、部屋の中をぐるりとまわり僕の前に降り立った。
「死にゆく人の無念を句にして、悪い霊になっちゃわないように天国に導いてあげる。それが、辞世の句をつづるゴーストライターの仕事。でも……」
 ナツの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「でもね、あたし自分に課せられたルールを破っちゃったの。ユタのおばあちゃんの思いを、どうしても辞世の句にしたくなかった」
「ナツ……」
「辞世の句を作り上げてしまったら、その人はもう死んだことを認めてしまう。ユタのおばあちゃんが、死んでしまう。だからルールを破っちゃった。辞世の句を消しておばあちゃんの魂を病院の、おばあちゃんの体の中に戻したの。……手術が成功して、本当に良かった」
 しゃべり続けるナツの姿が、少しずつ景色に溶け込んでいく。
 ナツの身体の奥に、見慣れた店の机が見えた。
「身体が……」
「あたし、もう消えちゃうから」
「そんな! どうしてさ! ルールを破っちゃったっていうんなら、僕も一緒に罰を受けるから! ばあちゃんを助けてくれたナツだけが死んじゃうなんて、そんな……」
「違うの、ユタ」
 目から、熱い滴が幾筋も零れ落ちる。涙に濡れた僕の頬を、ナツの両手が優しく撫でた。
「あたしはもう、ずっと前に死んでいる。言ったでしょ? 『ゴーストライター』って」
 ゴーストライター。死後術後。
 冗談めかしたような言葉が、僕の胸に刺さる。すっとぼけたようなナツはいっつも本当のことを言っていて、僕だけがそれを信じていなくって――。
 このままナツが消えちゃうなんて……。
「ナツ、お願いだよ。幽霊でもゴーストライターでもなんでもいい、もっと一緒に居て欲しいんだ。消えないで、どうか消えないで」
「ユタ。楽しかったよ、ありがとう」
 ナツの両手が、涙を流す僕の顔を優しく引き寄せた。
「ユタ、大好き」
 頬に触れた唇の感触は、ほんの一瞬で空間に溶けて消えていく。
 不意に視界が、ぐにゃりと歪む。僕は思わずひざまずいた。頭の端っこで、ナツの声が響く。
「とっても楽しかった。とってもとっても幸せな時間だった。ユタ、さようなら」
「ナツ!」
 立ち上がった僕の世界に、もうナツはいなかった。辞世の句を書いた短冊も、奇妙な張り紙も看板も消え失せている。ただ、ナツの香りだけががらんとした空間をつかの間泳ぎ、夏の空気の中に消えた。

 ばあちゃんが入院していた病院の向かいには、かつて古びた薬局があったらしい。ある日その薬局では大きな火事が起きて、二階に住んでいた薬剤師の一家は全員亡くなってしまったのだという。
 被害者の中に夏希という女の子がいたことを、僕は何年も後に図書館で知った。夏希という子と、ナツが同一人物なのか。今になってはもうわからない。ただ、あの夏の出来事は僕の人生に大きな影響を与えた。
 ナツ。僕も楽しかった。幸せだった。ありがとう。

 くたびれた机に腰かけて新聞を読んでいた僕は、曇りガラスの向こう側で揺れる影を見つけて立ち上がった。
 引き戸に手を当てて、驚いた表情を浮かべる女性を店に向かい入れる。
 緊張した面持ちで入ってきたお客さんに向かい、僕は笑顔で語り掛けた。
「いらっしゃい。今日はどんな辞世の句をお求めで?」

 ナツ。
 ここで待っていれば、いつかきっと、再びキミに会えるだろう。
 だって僕はまだ、キミのための句を書けてはいないのだから。