賢介が結婚を強く意識したのは、まもなく五十歳を迎えようという春の朝だった。
JR中央線と井之頭線が乗り入れる吉祥寺駅から徒歩で二十分近くかかる築三十年の賃貸マンションのベッドで目覚めた時、無性に寂しさを覚えた。なにもかもが空っぽの気がしたのだ。
妻はいない。子どももいない。二十代のころ、まさか五十代で一人暮らしをしているとは思わなかった。自分は人として劣っているのではないか――。その思いが払拭できない。
これからの二十年、あるいは三十年、自分は一人ぼっちで生きていく。天井の木目を数えながら思った。生まれてから半世紀になる日を前に、それまで考えなかった、いや、考えることを避けてきた現実が胸をしめつけた。
賢介は三十代で一度、社内恋愛で結婚した。当時は原宿にあるビジネス系の小さな出版社で単行本の編集部に配属されていた。相手は五歳年下。旧姓は後藤小百合といい、総務部で働いていた。
交際のきっかけは会社が主催する自己啓発セミナーだ。新宿のビジネスホテルの会議室前で二日間、並んで受付をやった。
賢介のひと目惚れだった。社員名簿で小百合の電話番号を調べて口説いた。個人情報の保護など社内で誰も口にしないおおらかな時代だったのだ。賢介の努力は実り、こっそり交際を始め、一年半で式を挙げた。
交際中、二人の関係には誰も気づかなかったはずだ。身長は一七〇センチ、すらりと長身で無駄な贅肉のない小百合は、胸まである長い黒髪に、透き通るように白い肌で、フランス人形のようだった。一方賢介は、身長は小百合と同じ一七〇センチで、重心が低く手足の短い、お鉢の張った稲作農耕民的容姿だ。
フランス人形と伝統的日本人はあまりに不釣り合いだった。会社の口の悪いやつらに、「あの二人は国際結婚だ」とからかわれた。
そんな結婚生活はわずか半年で終わりを迎えた。浮気や暴力やギャンブルが理由ではない。ただ、生活がかみ合わなかったのだ。
フランス人形のような小百合はフランス人形体型を保つために、一日一食しか食べなかった。フランス人形のような肌でいるために、一日八時間以上の睡眠をとった。週末は、昼を過ぎても、夕方が近づいても、十時間以上眠り続けた。
一方、賢介は食欲旺盛で、夜更かしの早起きだった。食べる、眠るという、人間の本能のところで、まったく相性が合わず、ストレスをためた。
さらにかみ合わなかったのが、洋式トイレの使い方だ。夫が立ったまま小用をすることを妻は許さなかった。
「立ってすると、目に見えないしぶきが飛んで天井まで汚すのよ」
小百合がテレビの情報番組で仕入れた知識である。
彼女は極度の潔癖症で、電車のつり革を握るときは手袋をはめた。トイレでは便座に尻をつけようとはしなかった。洋式なのに和式のように便座に足を乗せて器用にまたがるのだ。しかたなく、賢介は長年の習慣をあらため、座って小用をする努力をした。便座に乗るのは許してもらった。プラスティック製の便座は、四〇キロ台の小百合の体は耐えても、七〇キロ台の賢介は支えきれない。
便座に座ってしてみると、新たな問題も生じた。小のはずなのに、つられて大も顔を出す。尻周辺の筋肉は連動しているのだろう。なんとも具合が悪い。
妻にそれを訴えると、ただあきれた顔をされただけで、立ちスタイルは許されなかった。
度々意見のすれ違う二人の関係に追い打ちをかけたのは、静岡に住む妻の両親の言動だった。彼らは賢介のことを嫌っていた。一人娘をろくでなしに奪われたと感じていたのだろう。
特に義父は毎晩電話をかけてきて、帰宅が遅い理由を問い詰める。賢介は天地神明に誓って仕事で遅いのだが、パチンコでも打っているのか、ほかに女がいるのではないかと疑っていたらしい。妻の実家のリビングには結婚式に新郎新婦で撮影した写真が額に入れて飾られていたが、夫はトリミングされ、妻一人が微笑んでいた。
「勤め人というのは、七時には帰って、一杯やりながらナイターを見るのではないのかい」
義父に電話口で言われ、「それは義父さんの会社に限ったことでしょう」という反論を飲み込んだ。
仕事の事情を説明するように妻に頼んだが、仲裁は断られた。
「私を育ててくれた親なんだから、話を聞いてあげて」
そう言うばかりだ。やがて、賢介は毎日駅前のファミレスでコーヒーを飲んで気持ちを落ち着かせてから帰宅するようになる。
そして、ついに心が壊れた。
ある日、電話で帰宅が遅いことを義父にいつもより厳しくなじられ、その場に立ったまま号泣したのだ。
「オレが、いったいどんな悪いことをしたんだよー!」
泣き叫ぶのは幼児期以来だ。号泣すると猛烈に頭が痛くなることを思い出した。
それ以上小百合と暮らすのは無理だった。賢介は家を出て、会社を辞め、フリーランスのライターになった。ほかにできそうな仕事が思いつかなかったからだ。
その後、何人かの女性と交際したものの、結婚にはいたらず、二十年の歳月が流れた。
JR中央線と井之頭線が乗り入れる吉祥寺駅から徒歩で二十分近くかかる築三十年の賃貸マンションのベッドで目覚めた時、無性に寂しさを覚えた。なにもかもが空っぽの気がしたのだ。
妻はいない。子どももいない。二十代のころ、まさか五十代で一人暮らしをしているとは思わなかった。自分は人として劣っているのではないか――。その思いが払拭できない。
これからの二十年、あるいは三十年、自分は一人ぼっちで生きていく。天井の木目を数えながら思った。生まれてから半世紀になる日を前に、それまで考えなかった、いや、考えることを避けてきた現実が胸をしめつけた。
賢介は三十代で一度、社内恋愛で結婚した。当時は原宿にあるビジネス系の小さな出版社で単行本の編集部に配属されていた。相手は五歳年下。旧姓は後藤小百合といい、総務部で働いていた。
交際のきっかけは会社が主催する自己啓発セミナーだ。新宿のビジネスホテルの会議室前で二日間、並んで受付をやった。
賢介のひと目惚れだった。社員名簿で小百合の電話番号を調べて口説いた。個人情報の保護など社内で誰も口にしないおおらかな時代だったのだ。賢介の努力は実り、こっそり交際を始め、一年半で式を挙げた。
交際中、二人の関係には誰も気づかなかったはずだ。身長は一七〇センチ、すらりと長身で無駄な贅肉のない小百合は、胸まである長い黒髪に、透き通るように白い肌で、フランス人形のようだった。一方賢介は、身長は小百合と同じ一七〇センチで、重心が低く手足の短い、お鉢の張った稲作農耕民的容姿だ。
フランス人形と伝統的日本人はあまりに不釣り合いだった。会社の口の悪いやつらに、「あの二人は国際結婚だ」とからかわれた。
そんな結婚生活はわずか半年で終わりを迎えた。浮気や暴力やギャンブルが理由ではない。ただ、生活がかみ合わなかったのだ。
フランス人形のような小百合はフランス人形体型を保つために、一日一食しか食べなかった。フランス人形のような肌でいるために、一日八時間以上の睡眠をとった。週末は、昼を過ぎても、夕方が近づいても、十時間以上眠り続けた。
一方、賢介は食欲旺盛で、夜更かしの早起きだった。食べる、眠るという、人間の本能のところで、まったく相性が合わず、ストレスをためた。
さらにかみ合わなかったのが、洋式トイレの使い方だ。夫が立ったまま小用をすることを妻は許さなかった。
「立ってすると、目に見えないしぶきが飛んで天井まで汚すのよ」
小百合がテレビの情報番組で仕入れた知識である。
彼女は極度の潔癖症で、電車のつり革を握るときは手袋をはめた。トイレでは便座に尻をつけようとはしなかった。洋式なのに和式のように便座に足を乗せて器用にまたがるのだ。しかたなく、賢介は長年の習慣をあらため、座って小用をする努力をした。便座に乗るのは許してもらった。プラスティック製の便座は、四〇キロ台の小百合の体は耐えても、七〇キロ台の賢介は支えきれない。
便座に座ってしてみると、新たな問題も生じた。小のはずなのに、つられて大も顔を出す。尻周辺の筋肉は連動しているのだろう。なんとも具合が悪い。
妻にそれを訴えると、ただあきれた顔をされただけで、立ちスタイルは許されなかった。
度々意見のすれ違う二人の関係に追い打ちをかけたのは、静岡に住む妻の両親の言動だった。彼らは賢介のことを嫌っていた。一人娘をろくでなしに奪われたと感じていたのだろう。
特に義父は毎晩電話をかけてきて、帰宅が遅い理由を問い詰める。賢介は天地神明に誓って仕事で遅いのだが、パチンコでも打っているのか、ほかに女がいるのではないかと疑っていたらしい。妻の実家のリビングには結婚式に新郎新婦で撮影した写真が額に入れて飾られていたが、夫はトリミングされ、妻一人が微笑んでいた。
「勤め人というのは、七時には帰って、一杯やりながらナイターを見るのではないのかい」
義父に電話口で言われ、「それは義父さんの会社に限ったことでしょう」という反論を飲み込んだ。
仕事の事情を説明するように妻に頼んだが、仲裁は断られた。
「私を育ててくれた親なんだから、話を聞いてあげて」
そう言うばかりだ。やがて、賢介は毎日駅前のファミレスでコーヒーを飲んで気持ちを落ち着かせてから帰宅するようになる。
そして、ついに心が壊れた。
ある日、電話で帰宅が遅いことを義父にいつもより厳しくなじられ、その場に立ったまま号泣したのだ。
「オレが、いったいどんな悪いことをしたんだよー!」
泣き叫ぶのは幼児期以来だ。号泣すると猛烈に頭が痛くなることを思い出した。
それ以上小百合と暮らすのは無理だった。賢介は家を出て、会社を辞め、フリーランスのライターになった。ほかにできそうな仕事が思いつかなかったからだ。
その後、何人かの女性と交際したものの、結婚にはいたらず、二十年の歳月が流れた。