三日後、沙紀の休みの日、阿佐谷の彼女の家の近くのカフェでランチをした。緊急事態を救った報酬として、カーディガンを要求されたのだ。
「あっちへ行くはずだったカーディガンがこっちへ行くだけで、僕のダメージは変わっていない気がするんですけど」
 賢介はなんとなく納得できない。九月になり、杉並区と中野区を結ぶ中杉通りの欅並木では、ヒグラシが切なげに鳴いている。
「何言ってんのよ。あっちはカーディガンだけじゃすまなかったよ。必ずもっといろいろ要求してくるし、ひょっとしたらおっかない男と共謀していて、手をつないだくらいでお金を要求される危険もあったと思う。授業料としては、カーディガンなんて安いもんだよ。それに、石神君、着ないでしょ」
「レディースだからね」
 アイスカフェオレをストローで吸いながら、沙紀が語気を強める。彼女の言うことが正しい気もしてきた。
「カーディガン女から、その後連絡きた?」
「電話もメールも来ています。日に日に減ってはいるけどね」
「まさか出てないしょうね」
「出ていません」
「絶対に出ちゃだめだからね」
「そういえば、沙紀さん、少額詐称男に一万五千円払ったの?」
「払ったよ」
 沙紀はにわかにふてくされた顔になった。
「払ったんだ?」
「石神君が、払ったほうがいい、って言ったんじゃない」
「考える、って言ってたから、どうしたのかなと」
「払ったよ。で、着信拒否にもした。でも、納得してないけどね。女の子がさあ、年齢をちょっとサバ読んだっていいじゃない。そのくらいかわいいと思える男じゃないとだめだよね」
 それは沙紀の主観だ、と喉まで出かかり、賢介は言葉を飲み込んだ。自分も一人で参加したお見合いパーティーで年収を偽っている。
「その後、沙紀さんの婚活、進展あった?」
「何人かは会ってるけれど、なかなかねえー。石神君もないでしょ?」
「そんな決めつけなくても」
「カーディガン女にカモにされているくらいだからね」
 それを言われると、返す言葉がない。
「いい男って、いないよねえー」
 窓の外、中杉通りの欅並木を眺めながら、沙紀がつぶやいた。
「今会っている中には結婚候補はいないの?」
「いないかな……。私たちの親の時代はさ、そんなに好きじゃなくても、結婚したんだと思う。女に仕事、少なかったし、結婚しないと生きていかれないから。というか、生きていけないと思い込んでいたからさ。でも、今は違うでしょ。女一人でも生きてはいかれる。私だって、ジャスッ子のせいで国内線に配置換えさせられたけれど、生活には困っていないもん。だからさ、つまらない男と結婚するくらいなら一人のほうがまし、って心のどこかで考えているんだ。それで、なかなかうまくいかないんだと思う。私の場合は夜のほうでマイノリティというハンディもあるけどね」
「歳とって自我が育ち切っちゃうと、許容できないものがどんどん増えて、結婚から遠ざかっていく気はするけど」
「そう考えると、石神君はまあまあいいと思うよ」
「いつも、まあまあ、って言うけれど、ほめられているのか、けなされているのかわからない」
 賢介は苦笑する。
「まあまあはまあまあだよ。ちょっとましかな、っていう感じ。石神君、いばらないし、家事とか手伝ってくれそうだし。そこはポイント高いと思う。不安定な職種を避ける女の子は多いと思うけどね」
 経済的な不安定がハンディなのは賢介が常々感じていることでもある。
「沙紀ちゃん、このままだとどんどん年取っちゃうから、今会ってる何人かに刺されてみて、その中から選んじゃおうかな」
 沙紀がまた窓の外を見た。自分に言い聞かせるとき、沙紀いつも遠くを見つめる。
 ふと、この阿佐谷での沙紀との狂ったような夜がよみがえった。わずか数か月前なのに、妙に懐かしい。
「石神君、なににやにやしてるのよ?」
 沙紀が賢介のほうに視線を戻す。
「にやにやしてないよ」
「沙紀ちゃんとのロマンティックな夜、思い出してるんでしょ?」
 そう言って、沙紀は賢介の持参したカーディガンの入った袋に手を伸ばした。
「これ、沙紀ちゃんがもらっていくね。これからは金品目当ての女には気をつけなくちゃだめだよ。石神君、身に染みたほうがいいと思う」
 沙紀は食事の伝票をつかんで立ち上がる。
「今日のランチは私が払うね。カーディガンのお礼じゃなくて、わざわざ阿佐谷まで来てくれたから。じゃ、またね」
 賢介が席を立つのを待たずに、沙紀はカフェを出て行った。