さやかの瞳が潤んでいる。
三軒茶屋の交差点近く、玉川通りに停めたクルマの助手席から賢介を見つめている。
時計の針は午前一時をまわっていた。
このまま彼女を降ろすか。さらに深い夜へ連れ去るか。賢介の頭の中で、思考が揺れる。
天気に恵まれた月曜日、初めて二人で遠出をした。行先は湘南。さやかも賢介もフリーランスの仕事なので、平日にスケジュールを合わせた。
賢介の運転で、第三京浜、横浜新道、横浜横須賀道路を走り、朝比奈インターチェンジで下りて鎌倉へ。金沢街道沿いの浄明寺と報国寺に寄り、逗子の小坪方面へ南下した。
小坪漁港には、賢介のお気に入りのイタリアンレストランがある。二十席ほどの小さな店だが、目の前の海に揚がる生シラスのパスタや鯵や鯖など地の魚のカルパッチョが抜群だ。その店で食事をして都内へ戻った。
賢介のクルマは十年落ちのブルーバード シルフィだ。三万キロちょっとしか走っていないのでエンジンは元気だが、運転が下手なので、あちこちに小さな傷がある。シャンパンゴールドだったボディは日焼けで色あせて、いつのまにかグレイになった。それでもさやかは嫌がる素振りを見せず、窓の外を流れる景色を楽しんでいた。
彼女は三軒茶屋の賃貸マンションに一人暮らしで、一DKの部屋に二台のキーボードを詰め込んで、曲作りをしているという。
「わたしのうち、居住空間がほとんどないの」
初めて食事をしたとき、恥ずかしそうに打ち明けた。
「まだ帰したくないんだけど……」
賢介は勇気をふり絞って意思を伝えた。断られたらそれはそれで仕方がない。脈がなかったということだ。
「わたし、も……」
その言葉を聞くなり、賢介はサイドブレーキを解除し、アクセルを踏んだ。
三宿、池尻と、国道二四六号線を無言のまま飛ばしていく。ラブホテル街を目指す。気の利いたシティーホテルを選んで空室状況を確認する余裕などない。
神泉の交差点を過ぎ、左へ車線変更する。道玄坂上の交差点で、さらにハンドルを左に切ると、円山町のホテル街だ。そのことにさやかが気づいていないはずはない。
彼女の無言を同意と解釈した賢介は、減速しながら路地へ入っていく。やがてけばけばしいネオンに包まれる。円山町は何十年ぶりだろうか。
月曜日の深夜だというのに、赤い「満室」の表示が続く。あせりが増す。路地に入って五軒目か六軒目か、ようやく青い「空室」表示を見つけた。
紫色の「ホテル サンレモ」という看板の下の駐車場にクルマをすべらせる。駐車枠はすでに一つしか残っていなかった。両隣のクルマにぶつけないように駐車する。賢介のあとをさやかは黙ったままついてきた。
フロント横にある部屋のパネル写真を確認する。空室表示は三部屋。その中からもっともシンプルな三〇二号室を賢介は選んだ。
「この時間はご休憩はお受けしていなので、ご宿泊料金をいただきます」
フロントの窓から年配の女性の事務的な声が響いた。窓口の上部にガードがあり、顔はあごから下しか見えない。こういうホテルは事務的なことが肝要だ。
「右手のエレベーターで三階にお上がりください」
やはり事務的に部屋のキーを手渡された。
エレベーターの中で、賢介はがまんしきれずにさやかを抱き寄せる。彼女は抗わない。ジャケットにファウンデーションがつくことも気にせず、賢介はさらに強く抱きしめた。
ベッドまで待てない賢介は、部屋に入るなりさやかの唇を強く吸った。
「シャワー、浴びたい……」
アニメシンガーのさやかが高音域の声でうったえるが、賢介は気づかぬふりで、右手で首を抱き、左手で小ぶりの胸を包むようにして触れる。
「汗かいてて、恥ずかしい……」
その声も無視して、左手をゆっくりと動かす。胸の先端がブラジャーの上からもわかるほどコリッと硬くなっている。
「あっ……」
さやかが一段と高い声を発した。賢介は彼女の胸に直にふれようと、ブラジャーの内側に手をすべり込ませ、指を這わせる。息づかいが荒くなっていく。
賢介は細身のさやかを抱き上げ、そのままベッドまで運び、今度は覆いかぶさるように抱きしめる。
ブラウスのボタンをはずす。荒々しく胸を吸う。左手を下に伸ばす。さやかが十分に潤っていることが、小さな下着の上からわかった。
その時、下目づかいの賢介の視界に見慣れない模様があることに気づいた。さやかの白地のショーツには、小さなかわいらしいイチゴがプリントされていた。
大人用のショーツにもイチゴのプリントなんてあるのか? どこで買うんだ? フルーツデザインの下着をつける三十七歳の気持ちが賢介には理解できなかった。
早くさやかの中に入りたい。しかし、硬くなりきっていないことに賢介はあせりを覚えた。通常のサイズよりは膨張している。でも、自分の最大値には遠い。
この状態で挿入できるだろうか? 不安はぬぐえない。それでもやめるわけにはいかない。
賢介はさやかのイチゴのショーツを脚からとりさった。
「私だけ裸なの、恥ずかしい」
請うようなまなざしを向けるさやかに応じて、謙介もすばやく服を脱ぎ取る。下着もとると、そこに現れた賢介のものは思っていたとおり七、八分の仕上がりである。
理由はわかっていた。声だ。さやかの高音域が賢介の欲望にブレーキをかけていた。彼女は、三十代の十分に成熟した女だ。なのに、声がアニメ系なので、賢介は少女にいたずらをしている気分になる。それが、賢介に待ったをかけている。イチゴのプリントを見てしまったことが、さらに気持ちを萎えさせた。
しかし、このまま後に引くわけにはいかない。賢介は下半身をよじり、さやかの視界に入らないように自分のものをしごいた。
〈硬くなれ!〉
心の中で念じた。
「ほしい……」
さやかが切ない声をもらす。
「うん……」
言葉では応じるものの、賢介の体は準備が整っていない。
さらに強くしごく。
「じらさないで……」
「うん……」
〈硬くなれ!〉
賢介は念じる。
少しはましな状態になった気がする。
「お願い……」
さやかの脚の内側が体内からあふれた液体で光っている。
これ以上先延ばしにはできない。賢介は決断した。中途半端なままのものをさやかの中に挿入する。
〈入ったか? 入ったのか?〉
心の中で自分に問いかける。
よく潤った温かい粘膜を感じる。大丈夫だ。挿入できている。賢介は一度腰を引き、十分なテイクバックを意識して再度ゆっくりとさやかを突いた。
「あっ……」
声をもらすさやかを上目づかいに確認して、もう一度腰をふる。
「あっ……」
さらに切なげな声。やはり高音域だ。アニメ声がどうしようもなく賢介の士気を低下させる。
そして、そこまでだった。
賢介は衰え、さやかの中で力を維持できず、するりと抜けた。
「あっ!」
さやかがそれまでとは別のニュアンスの声を発した。賢介の額にいやな汗がにじむ。
「ありゃ?」
自分の狼狽を悟られないように、賢介はおどけ、さやかの視界に入らないところで、また自分のものをしごく。
さやかは目を閉じたまま、無言だ。
動作を悟られないように賢介はしごき続ける。
「ちょっと待っててね」
沈黙に耐え切れず言葉をかけると、さやかが目を閉じたままうなずいた。
賢介はさらに気合いを入れてしごく。しかし、その気合いが逆効果なのか、さっきよりもサイズダウンした気がする。あせればあせるほど、力を失う。悪循環だ。
「私がしてあげようか?」
気づくと、さやかが上半身を起こして賢介の手の動作を眺めていた。
「えっ? いや、大丈夫」
「ほんとに?」
「自分でなんとかするから」
やんわりと断ったが、さやかは身を乗り出し、賢介のものに右手をそえ、上下運動をはじめた。
「私がしたほうがいいと思う」
力を失ったものをいたわるようにしごく。賢介はバツが悪い。
さやかの努力もむなしく、賢介に力は戻らない。戻りかけるのだが、すぐに衰える。
羞恥から申し訳なさへ。申し訳なさから情けなさへ。賢介は体だけではなく、気持ちも衰えていく。
「今日は、もう、無理なんじゃないかな」
弱気になる。
「もう少し頑張ってみようよ」
さやかの声はなおアニメ系だ。
「初めての人にはしないんだけど……」
言い訳をするように、さやかはやがて賢介のものを口にふくみ、ゆっくりと首をふり始めた。唾液があふれて、口がちゅぽちゅぽと小さく音をたてる。
さやかの豊かな髪から、甘い汗の匂いがした。髪の揺れは激しさを増し、ちゅぽちゅぽの音も大きくなっていく。しかし、賢介が力を取り戻すことはなかった。
賢介はお台場から新橋方面へ向かうモノレール、ゆりかもめのドアにもたれていた。
「このモノレール、暑いな」
向き合うようにしてドアに持たれている近藤はさっきからずっと文句を言っている。車内はエアコンが効いているが、平熱三十七度五分の体には不十分らしい。
「石神、この車両、弱冷車じゃないかな?」
「違うよ。弱冷車表示のステッカーは貼られていない」
「ああいうステッカーって、外側に貼られているんじゃなかったっけ?」
「内側にも貼ってある」
「そっか、じゃあ、エアコンが故障しているのかな」
しかし、車内は十分に涼しい。二人の会話が聞こえるのか、営業職らしい若い女性が下を見て笑いをこらえている。
この日は近藤が編集長を務める男性誌に掲載される広告の会議があった。その帰り道である。
「石神、アニメのシンガーソングライターとは、その後どうなった?」
婚活の状況はその都度近藤に報告していた。
「どうにもなってない」
「その後もためしたのか?」
「ああ……」
円山町のラブホテルでだめだった数日後、さやかに再びトライした。彼女が賢介の部屋にやってきたのだ。
「まただめだったのか?」
「同じパターンだ。最初は何とかなるんだけど、すぐにしょぼんとしてしまう。彼女のアニメ声、なんだか子どもにいたずらしている気になってしまって、萎えるんだよ」
ほかの乗客の耳を警戒して小声になる。
「だけど、その女、しっかり大人なんだろ?」
「三十七歳だ」
「お前、三十七の女に子どもを感じるのか!?」
「あの声を聞いたら、近藤だって、罪悪感を覚えると思うよ。しかも、ショーツにイチゴがプリントされていたんだ」
「そうはいってもねえー」
「とにかくだめなんだ」
「石神、お前、高校生の頃、オナニーばかりしてたよな?」
「それがどうした?」
「そのせいじゃないのか?」
近藤は編集者らしく持論を展開する。
「オナニーのやりすぎがたたってるとでもいうのか?」
「ああ、昔から男の生涯射精量は一升瓶三本分とか樽一本分とか言うだろ。あれは事実じゃないのかな」
「そんな迷信、信じてるのか? だったら、お前だってオナニーしてたし、大人になってからは数えきれないほどの女の中に放出しているだろ?」
「まあ、そうだな。でも、今はオレのことはいい。お前の問題を話し合っている」
「オレだけが枯れ果てたというのか?」
「違うか?」
「ううん……、わからん」
ばかばかしい会話を真剣に交わしていることが、さらにばかばかしい。
「石神、オレはお前の人生が心配なんだよ」
「そんな大げさな」
「いや、勃たないことはベッドの上の問題だけではない」
「どういうことだ?」
「石神、よく聞け。男というのはだな、勃たないとすべての自信を失うって言うだろ」
近藤は真剣な表情で石神の目をのぞき込む。
「ああ……」
「実際どうだ?」
「確かにベッドの上で男として役に立たないと、不思議と仕事でも成果が上がらない気はしてくる」
「やっぱりな。だったら、お前の今の問題は仕事に悪影響を及ぼさないうちに解決するべきだと思う」
「どうすればいい?」
「いい女としろよ。お前の体に問題があるんじゃなくて、女の声や相性に原因があるとオレは思うよ」
近藤はなお真剣な表情だ。
「でも、ほかに付き合っている女はいない」
「ソープへ行け」
「ソープ?」
「新宿に、カエサルという店があるの、知ってるか?」
「噂だけはな。芸能人やスポーツ選手が通う秘密厳守の高級店だろ」
「タレント予備軍が働いている店で、女性全員がアイドル級の容姿だ」
「そこでだめだったら?」
「その時また考えよう」
「EDじゃなければいいんだけど……」
「石神、その病名は絶対に口にするな。こういう症状は心とデリケートにつながっている。口にすると、ほんとうにそうなってしまうぞ」
翌朝トイレで放尿していると、股間の毛の中に光るものを見つけた。
上半身を折り曲げて近くで見ると、白毛だ。一本だけがその他多くの黒毛と逆方向に向かって伸びている、妙に太い。白い毛は老化のあかしだ。にもかかわらず、黒毛よりもはるかに主張している。
抜いちゃうか――。
しかし、排除するのはためらわれた。老いながらもけなげに生きようとしている白毛が、五十面で婚活している賢介自身と重なった。
「お前もがんばれよ」
股間の白毛を励ました。
三十代の中ごろまで、賢介はデートの朝にはいつも自慰行為をしていた。放っておかないと、交際相手と会って食事をしていてもはち切れそうな性欲で苦しくなったのだ。自分の挙動がおかしいとわかっていながら、どうすることもできなかった。会話にならないことすらあった。ところが四十代後半からは、デート前一週間は自分のものに触れないようにしている。一度放ってしまうと、何日も最大値まで硬くならない。いまやひと滴ですら無駄にしたくない。
表参道ヒルズにあるレディースの店で、琴美がグレイのカーディガンを試着している。賢介が聞いたこともないブランドの秋の新作だ。マネキンに着せたディスプレイでは地味に思えたが、琴美が着ると別の服のように華やかだ。
「サイズ、ぴったりですねえー」
女性の店員が満面の笑みで勧める。
この日、まさかブランドショップを訪れることになるとは、賢介は考えていなかった。
「欲しいなあー」
琴美が賢介の目を見つめる。琴美のワンピースの胸元は今日も大きく開いている。小柄なので、賢介からはちょうど胸の谷間をのぞく角度だ。
この日は二人で食事をする予定だった。
〈こんばんは。先日、青山のパーティーでお目にかかった琴美です。石神さんのお話、とっても楽しかったです。よかったら、お食事ご一緒できませんか? お返事いただけたらうれしいです〉
この琴美からのメールに賢介は有頂天になった。
翌日の夜、パーティーが開催された結婚式場に併設されたカフェで待ち合わせた。
「ご飯の前にちょっとだけ付き合っていただいていいですか?」
「もちろん」
「気になっているお洋服があるんです。似合うかどうか、お食事の前に石神さんに見てほしいなあ」
賢介は何も疑問を持たずについていった。
琴美の服選びに付き合えばいいのだと思っていたが、どうやら買ってほしいらしい。
「僕が払うの?」
「うん」
琴美ははっきりとうなずく。
賢介は自分の甘さに気づいた。二十八歳の女性が、初対面の五十歳の自分に好意を持つはずがない。疑わなかった自分が情けない。
それでも欲望は消えない。十分に勃たないことに悩んでいるのに、したい。
カーディガンを買ったからといって琴美と付き合えるわけではないだろう。しかし、買わなかったら絶対に関係は進まない。
なにげなく値札を見ると「¥50000」と書かれていた。賢介自身は三万円以上のカーディガンなど着たことがない。しかし、払えない金額ではない。
まっ、いっか……。
下心には勝てなかった。
賢介が冷静さを取り戻したのは、その後の食事中だ。はずまない会話を続けながら、カーディガンを買わされただけなのではないか、とようやく理解した。
やがて、琴美が化粧室へ行くために席を立った。
どこかに電話でもしているのか、なかなか戻らない。この時間が賢介に平常心を取り戻させた。
明らかにカモにされている。
〈このまま食事をして琴美のご機嫌をとっていていいのか?〉
いいはずがない。
しかし、健介には客観的な判断ができない。
そもそも自分を見失っているから、今の状況に置かれているのだ。
〈どうする?〉
パスタを食べる手をとめた。誰かの冷静な判断を仰ぎたい。
〈近藤に電話するか?〉
いや、だめだ。あの男は女にねだられるままなんでもプレゼントしている。適切なアドバイスは期待できない。「同じ立場だったらオレも買うよ」と賢介に同調するだろう。
その時、沙紀の顔が浮かんだ。彼女ならば客観的な立場で意見を言ってくれそうだ。
賢介は周囲の客の迷惑にならないように小声で沙紀に電話をした。CAの沙紀は地上にいるだろうか。しかし、一回のコールではきはきした声が響いた。
「石神君、電話くれるなんてめっずらしいじゃない。沙紀ちゃんに会いたくなっちゃった?」
「そういうわけではないんだけど……」
「相変わらず素直じゃないなあー」
「ちょっと緊急で相談があるんですけれど……」
「今ねえ、福岡のホテルにチェックインしたところなの。お腹ペコペコなの。ご飯行きたいから手短にね」
自分が置かれた状況を賢介は早口で説明した。
「はあああ……」
沙紀がわざとらしいため息をつく。
「これ、やっぱり、カモにされてるんですよね」
「石神君、今から沙紀ちゃんが言うようにして」
「はい……」
「まず、すぐに店を出る」
「はい」
「表参道ヒルズの裏の道まで行って、小学校のあたりで沙紀ちゃんにもう一度電話をする」
「はい」
「では、よーい、スタート!」
沙紀が二階堂美景の口調を真似て号令をかける。
急いで会計をすませて、賢介は沙紀に言われるまま表参道を出て、裏道でもう一度電話をした。
「石神君、バッカじゃないの!」
沙紀の声が耳の奥まで響く。
「そうですよね……」
「おねだりされたものを買えばブスッと刺せると思ったんでしょ?」
「そこまでは……」
「二十代の女が五十歳のオジサンを好きになるわけないじゃない」
「そう、ですよね……」
「まあ、石神君はふつーのオジサンだもんね」
「おっしゃる通り、ふつーのオジサンです」
「ところで、買わされちゃったカーディガンは?」
「持ってる」
「カーディガンをわたさなかっただけよかったとしよう。許すよ」
許す許さないの問題ではないと思ったが、今はとにかく沙紀の意見に従ったほうがよさそうだ。
「サイズは?」
「サイズって?」
「カーディガンのサイズ」
「確認してないけれど、彼女は細くて小柄だから、スモールだと思うけど」
「よし」
その時、沙紀と話している携帯電話にほかからの着信音が鳴った。
「あっ」
賢介の声に沙紀も察した。
「カーディガン女から着信?」
「未登録のナンバーだから、たぶん」
「出ちゃだめだよ」
「はい」
賢介の携帯電話は十二回のコールで留守番電話サービスに切り替わる設定になっている。
「たぶんまたかかってくると思うけど、絶対に出ちゃだめだよ」
「はい。あっ」
そう話している間にもまた同じ番号からかかってきた。
「またかかってきた?」
「うん」
「出ちゃだめだよ」
「はい」
沙紀との電話を切ると、携帯電話の画面に「伝言メッセージ」のアイコンが表示された。賢介はすぐに再生する。
「メッセージを二件お預かりしています。一番目のメッセージを再生します」
受信日時のアナウンスの後に琴美の声が録音されていた。
〈琴美です。石神さん、どちらにいらっしゃいますか? 琴美はまだお店にいるので、戻ってきていただけますか〉
次のメッセージも再生する。
〈琴美です。折り返し電話をいただけますか〉
再生を終えると、もう一件伝言メッセージが追加されていた。
〈琴美です。お店を出たので、お電話ください〉
徐々に声に苛立ちがまじっていく。
再生を終えると、またコール音が鳴った。琴美の番号なので無視する。十二回のコール音で切れて、数分して今度はメールを受信した。
〈琴美です。石神さん、今どこですか? 待ち合わせしましょう〉
賢介はレスポンスのメールを打った。
〈先に店を出てしまいすみません。仕事で緊急事態が起こりました。今日はお目にかかれないと思います。電話にもでられません〉
するとすぐにまたメールが来た。
〈お返事もらえてよかったです。深夜でもいいので、お電話ください〉
それにはレスポンスせず、賢介は自宅に戻った。
「なかなかうまくいかないなあー」
帰宅した賢介は放尿しながら、独り言を吐いた。
下腹部を見ると、朝発見した白毛がけなげに主張していた。やはり一本だけ、黒毛と別の方向に向かっている。
「なかなかうまくいかないなあー」
同じ言葉を今度は白毛に向かって言った。
翌朝目覚めると、琴美からの電話の着信が十二回、メールの受信が三回もあった。
〈カーディガン、次の住所に送っていただけますか〉
最後のメールには琴美が働く店と思われる住所が記されていた。店名は「ジェントル」。ネイルサロンではなくキャバクラかもしれない。
三日後、沙紀の休みの日、阿佐谷の彼女の家の近くのカフェでランチをした。緊急事態を救った報酬として、カーディガンを要求されたのだ。
「あっちへ行くはずだったカーディガンがこっちへ行くだけで、僕のダメージは変わっていない気がするんですけど」
賢介はなんとなく納得できない。九月になり、杉並区と中野区を結ぶ中杉通りの欅並木では、ヒグラシが切なげに鳴いている。
「何言ってんのよ。あっちはカーディガンだけじゃすまなかったよ。必ずもっといろいろ要求してくるし、ひょっとしたらおっかない男と共謀していて、手をつないだくらいでお金を要求される危険もあったと思う。授業料としては、カーディガンなんて安いもんだよ。それに、石神君、着ないでしょ」
「レディースだからね」
アイスカフェオレをストローで吸いながら、沙紀が語気を強める。彼女の言うことが正しい気もしてきた。
「カーディガン女から、その後連絡きた?」
「電話もメールも来ています。日に日に減ってはいるけどね」
「まさか出てないしょうね」
「出ていません」
「絶対に出ちゃだめだからね」
「そういえば、沙紀さん、少額詐称男に一万五千円払ったの?」
「払ったよ」
沙紀はにわかにふてくされた顔になった。
「払ったんだ?」
「石神君が、払ったほうがいい、って言ったんじゃない」
「考える、って言ってたから、どうしたのかなと」
「払ったよ。で、着信拒否にもした。でも、納得してないけどね。女の子がさあ、年齢をちょっとサバ読んだっていいじゃない。そのくらいかわいいと思える男じゃないとだめだよね」
それは沙紀の主観だ、と喉まで出かかり、賢介は言葉を飲み込んだ。自分も一人で参加したお見合いパーティーで年収を偽っている。
「その後、沙紀さんの婚活、進展あった?」
「何人かは会ってるけれど、なかなかねえー。石神君もないでしょ?」
「そんな決めつけなくても」
「カーディガン女にカモにされているくらいだからね」
それを言われると、返す言葉がない。
「いい男って、いないよねえー」
窓の外、中杉通りの欅並木を眺めながら、沙紀がつぶやいた。
「今会っている中には結婚候補はいないの?」
「いないかな……。私たちの親の時代はさ、そんなに好きじゃなくても、結婚したんだと思う。女に仕事、少なかったし、結婚しないと生きていかれないから。というか、生きていけないと思い込んでいたからさ。でも、今は違うでしょ。女一人でも生きてはいかれる。私だって、ジャスッ子のせいで国内線に配置換えさせられたけれど、生活には困っていないもん。だからさ、つまらない男と結婚するくらいなら一人のほうがまし、って心のどこかで考えているんだ。それで、なかなかうまくいかないんだと思う。私の場合は夜のほうでマイノリティというハンディもあるけどね」
「歳とって自我が育ち切っちゃうと、許容できないものがどんどん増えて、結婚から遠ざかっていく気はするけど」
「そう考えると、石神君はまあまあいいと思うよ」
「いつも、まあまあ、って言うけれど、ほめられているのか、けなされているのかわからない」
賢介は苦笑する。
「まあまあはまあまあだよ。ちょっとましかな、っていう感じ。石神君、いばらないし、家事とか手伝ってくれそうだし。そこはポイント高いと思う。不安定な職種を避ける女の子は多いと思うけどね」
経済的な不安定がハンディなのは賢介が常々感じていることでもある。
「沙紀ちゃん、このままだとどんどん年取っちゃうから、今会ってる何人かに刺されてみて、その中から選んじゃおうかな」
沙紀がまた窓の外を見た。自分に言い聞かせるとき、沙紀いつも遠くを見つめる。
ふと、この阿佐谷での沙紀との狂ったような夜がよみがえった。わずか数か月前なのに、妙に懐かしい。
「石神君、なににやにやしてるのよ?」
沙紀が賢介のほうに視線を戻す。
「にやにやしてないよ」
「沙紀ちゃんとのロマンティックな夜、思い出してるんでしょ?」
そう言って、沙紀は賢介の持参したカーディガンの入った袋に手を伸ばした。
「これ、沙紀ちゃんがもらっていくね。これからは金品目当ての女には気をつけなくちゃだめだよ。石神君、身に染みたほうがいいと思う」
沙紀は食事の伝票をつかんで立ち上がる。
「今日のランチは私が払うね。カーディガンのお礼じゃなくて、わざわざ阿佐谷まで来てくれたから。じゃ、またね」
賢介が席を立つのを待たずに、沙紀はカフェを出て行った。
西武新宿駅近くに、えび通りという路地がある。かつて店先で海老を焼く居酒屋が何軒も並んでいたことから名づけられた。その通りに面した雑居ビルの四階にカエサルはあった。地味な看板しかなく、知らなければそこがソープとは気づかないだろう。
エレベーターが開くと目の前が受付で、黒服の男が座っていた。近藤によると、写真指名はできないらしい。自分の好みを伝え、女性のセレクトは店に任せるしかない。
賢介は思いつくすべての希望を伝えた。
「ウエストが細くて、バストが大きくて前を向いていて、お尻も張っている女性をお願いします。目は大きくて、髪はできれば長いほうがうれしいですけれど、ショートでもかまいません。年齢は……できるだけ若い人でお願いします」
受付の男がかすかに笑った気がした。
「かしこまりました。私どもの店は九十分六万四千八百円のコースのみですが、よろしいですか?」
「はい」
賢介は二つ折りの財布から七万円を渡し、釣りを受け取った。
「ありがとうございます。では、十分ほどでご案内できますので、右手奥の部屋でお待ちください」
平日の昼間ということもあり、待合室には賢介しかいなかった。そこにあった週刊誌を読み始めると、五分もしないうちに、先ほどの黒服が迎えに来た。
「お待たせしました。奥のカーテンからお入りください」
言われるままに進むと、スリットの大きく開いたチャイナ服を着たソープ嬢が現れた。
「いらっしゃいませ。綾香です」
目が合っただけで鼓動が速くなった。賢介がリクエストした条件をほぼ充たしている。まるでグラビアタレントだ。一瞬、テレビで見たことのある気がしたが、勘違いだろう。
賢介は綾香に浴室のある個室へと手を引かれていった。手の握り具合が強くなく、弱くなく、なんとも気持ちがいい。それだけで、賢介の下半身が反応してきた。
部屋に入ると、すぐにすべての服を脱がされ、賢介はうろたえる。しかし、綾香はためらいもせず、シャワーも浴びていない賢介のものを口に含んだ。すでに血行がよくなっていたものはあっという間に最大値に達し、最後まで力を失うことはなかった。
店を出てすぐに賢介が携帯電話で近藤に電話をすると、ワンコールもしないうちに声がした。
「どうだった?」
「問題なかった」
「そうか!」
こういう時、近藤は自分のことであるかのように喜ぶ。
「ほっとしたよ」
「ということは、だめだったのは石神に問題があるわけではなくて、アニメ嬢との相性がよくないということになる」
「そう思うか?」
「そりゃそうだろう。彼女とはもう会うな。まただめだったら、さらに自信をなくす。カエサルの六万四千八百円も無駄金になる」
「ああ」
やはり、さやかとは縁がなかったということか。
「ところで、石神、カエサルはやっぱり噂通りアイドル級の女がいるのか?」
「近藤、行ったことあるんだろ?」
「実は、ない」
「えー、ないのか!?」
「ない」
「行ったことないのに、オレに勧めたのか?」
「すまん」
無責任だと思ったが、憎めない男だ。
「すごかったよ。雑誌のカラーグラビアに登場するレベルの女の子で、オレは三秒で自分の最大値になった」
「石神、今度一緒に行こう!」
「なんで連れ立ってソープに行かなくちゃいけないんだ?」
「理由なんていい。一緒に行こう!」
「近藤、お前は五人も彼女がいるのに、ソープにも行くのか?」
「彼女とソープは別腹だ」
この男はいつも楽しそうだ。
「ところで、石神、この機会に言うけれど、結婚相談所も、婚活パーティーも、もうやめたらどうだ」
「なんだよ急に」
「一番好きな女だけと会って、うまくいこうがふられようが、その一人と関係を深める努力をしたほうがいいとオレは思う」
真剣な声で説く。
「複数の女に目移りしているから、手も出していない女にブランドものの服なんか買わされるんだよ」
「一人にしぼるとしたら、誰がいいのかな。オレ、自分にはどんな女が合うのか、どんな女ならばオレを受け入れてくれるのか、わからないんだ」
「誰でもいいじゃないか」
「誰でもいい?」
「理想の相手なんて、きっといない。だって、石神、お前もオレも五十だぜ。好きなものも嫌いなものもはっきりわかっているだろ。それはもう変わらない。価値観がぴったりはまる相手なんていないよ。同級生や社内恋愛だと、付き合う時点ですでにおたがいに共感があるだろ。でも、婚活は違う。お前の話を聞いてわかったけれど、スタートの時点で相手の気持ちと向き合っていないよな」
「交際や結婚を意識しているのに、その相手のことはネット画面に書かれたプロフィールしかわからないからな」
「そもそもプロフィールだって嘘が混じっているかもしれないだろ。自分自身で手に入れた情報が何もないのに付き合おうとするから発展しない。うまくいくわけがないよ。だから、次から次へと新しい相手を探さなくちゃいけなくなる。一人にしぼって時間をかけてみろよ。それでだめだったら、また見合いでもパーティーでも行けばいい」
数日後、賢介は結婚相談所の担当カウンセラー、児島にメールを打った。
〈児島さま
お世話になっております。
まことに心苦しいのですが、
今月で相談所を退会したくメールをさしあげました。
お手数ですが、手続きをよろしくお願いします。
石神〉
退会の連絡に、児島から即レスポンスがあった。
〈石神さま
こちらこそお世話になっております。
メール拝見しました。
退会ご希望とのことですが、
石神様からはすでに1年分会費を頂戴しております。
ご入会1年まではまだ半年以上ある上、
ご返金できない契約になっております。
このまま会員資格を継続されてはいかがでしょう。
再度ご検討いただければ幸いです。
児島〉
賢介もすぐにメールを返した。
〈児島さま
お気遣いいただき、
ありがとうございます。
会費のことは承知しております。
ご返金の必要はありませんので、
退会の手続きをお願いいたします。
石神〉
送信のアイコンをクリックすると、ほどなく児島からの電話がかかってきた。
「石神さん、そんなにあわてて辞めなくてもいいじゃないですか。うち以外の場所で彼女ができたんですか?」
児島は早口で説得する。
「会っている女性はいます」
「交際しているんですか?」
「いえ。交際にはいたっていません」
「ならば、相談所は退会しないほうがいいのでは。失礼ながら、その女性と結婚できるかどうかわからないじゃないですか」
児島の言うとおりだ。
「ええ。でも、相談所に籍を置いたままにしていると、僕はダメな気がして」
「どういうことでしょう?」
「女性と知り合っても、初対面同士ですから、ちょっとした心の行き違い、いくらでもありますよね。その時に相談所に入っていると、また別の人とお見合いすればいいか、って思ってしまいます」
「そういう気持ちにならないように、石神さんは退会したいと」
「はい」
「辞めなくても、休会という選択肢もありますけれど」
「それも考えました。正直な気持ちを打ち明けると、児島さんのおっしゃるとおり、辞めないほうが有利だとは思います。でも、きっと僕、うまくいかないですよ」
「そうですか……。では、今月いっぱいで退会の手続きをします。もし月内にお気持ちが変わったら、その時はご連絡ください。継続にしますから」
「はい。ありがとうございます」
賢介は電話をきった。
前日深夜まで原稿を書いて昼近くに目覚めた週末、ベッドの上で朝刊を眺めていた賢介は社会面に覚えのある顔を見つけた。
主張するような瞳。欧米と日本のハーフ系のような顔立ち。沙紀だった。賢介の知る彼女は胸あたりまでの長い髪だったが、写真の顔は肩に届く長さでカットされていた。
〈阿佐ヶ谷駅近くのラブホテルで変死体〉
小さな見出しの下の写真には「死亡した緑川沙紀さん」とあった。賢介はしばらく動けずにいた。
「クビ、シメテ……」
沙紀の少しかすれた声がよみがえる。
あの夜、阿佐ヶ谷駅の近くにあるラブホテルの黴臭いベッドで激しく腰を動かした。
〈28日正午過ぎ、東京都杉並区阿佐谷北2丁目のラブホテルの一室で40代くらいの女性がベッドで死亡している姿を従業員が見つけ、110番通報をした。警視庁杉並警察署は死亡解剖の結果、女性の死因は首を強く絞められたことによる窒息死と発表。女性は杉並区阿佐谷南2丁目に住む航空会社の客室乗務員、緑川沙紀さんと判明。杉並署によると、女性は同日午前1時過ぎ、やはり40代くらいと見られる男性とともに4階の部屋にチェックイン。予定時間を過ぎても部屋の電話にでないため、従業員が合鍵で立ち入った。男性はすでに立ち去っていた。警察は重要参考人として男性の行方を追っている〉
記事の中の「首を強く絞められたことによる窒息死」という記述が、良輔の胸をざわつかせた。沙紀が死んだのはきっとあのホテルだろう。
半年前の夜、賢介も沙紀の頸を絞めた。彼女に命じられるまま、汚れたカーペットの上を引きずり回し、頸を絞めてほしいと懇願されたのだ。
おそるおそる手に力をこめたときの頸の脈動、沙紀の苦悶の表情、その後の気が狂ったかのように見開かれた歓喜の目がよみがえる。
「さっきのホテル、阿佐ヶ谷駅のホームから見えるんだよ。石神君、電車で通るたびに、沙紀ちゃんのこと、思い出しちゃうよ」
別れ際の、沙紀の少女のような表情も思い出された。
「思い出しちゃうかな?」
あのとき賢介は訊いた。
「絶対に思い出すよ。その時、石神君、きっと思うよ。沙紀ちゃん、いい女だったなあ、って。惜しいことしたなあ、って」
沙紀の声が聞こえた気がして、涙があふれた。
「今会ってる人に刺されてみて決めるかなあ」
最後に会った日、沙紀は言っていた。
賢介にも沙紀を殺す可能性はあった。さまざまな感情が沸き起こり、賢介は涙もぬぐわず、しばらく天井の木目を見つめていた。
この日、賢介は愛子と遅めのランチを一緒にとる約束をしていた。彼女とは、十回くらい会っているのに、手もつないでいない。この人と真剣に付き合おう。そう決めたとたん意識しすぎて、中学生の時のように腰が引けて何もできない。それでもデートを重ねている。
出かける前に、賢介はいつもどおり、鏡の前で念入りに自分チェックをした。
「鼻毛は出ていないか?」
「歯の間に食べかすがつまっていないか?」
「爪は伸びていないか?」
鏡に映る自分に声を出して問う。
大丈夫。問題はない。
服装は、襟付きの白いシャツに、黒のジャケット、パンツはほどよく洗われたデニムにした。この服装が一番落ち着く。
ジャケットがよれよれではないか。鏡の前でもう一度チェックする。靴も念入りに磨き、自分の体の臭いをかいでみる。加齢臭はやはり自分では判断できない。ブレスケアを二つ口に含んで、賢介は樹々が色づき始めた街へと出かけた。