スプリングがさびているのだろう。そのベッドは相手を腰で突くたびに、キッと、子ねずみが鳴くような音をたてた。
中央線阿佐ヶ谷駅近くにあるラブホテルのすえたにおいのする部屋で、石神賢介は規則正しく腰を動かしていた。
賢介の下では女の胸が波打っている。両乳房は上下に揺れた後、体の外側にこぼれる。その動きを謙介は冷静に数えていた。上、下、横で、一サイクル。それをもう三十五回もくり返している。五十歳でもまだこんなに体力があったのか。自分に感心した。
胸の揺れから一拍おくタイミングで、女は苦しそうに吐息をもらす。その「ひっ」という声とスプリングの「キッ」がじゃれ合うように重なる。賢介は笑いそうになり、下半身が力を失いかける。そのたびに目をかたく閉じ、女の内部の粘膜の感触に気持ちを集中させた。
 女は結婚相談所に登録して初めて見合いをした相手だった。名前は緑川沙紀。四十歳で。JALのキャビンアテンダントだ。
ベッドの上での主導権は沙紀が握っていた。賢介も賢介の下半身もずっと彼女に指示されるまま働いている。
〈これはビギナーズラックなのだろうか? ビギナーズアンラックなのだろうか?〉
 自分に問いかけてみるが、いずれにしても今は現状を受け入れるしかない。

 沙紀との見合いは、週末の午後、渋谷の国道二四六号沿いにあるシティーホテルだった。高層階の、昼間はカフェとして利用されているバーラウンジだ。
相談所のホームページを介して賢介は何人もの女性に見合いを申し込み、断られ続けた。一か月で十九人も。システムが故障しているのかと思うほどの負けっぷりである。
十歳以上若い相手ばかり選んだのが敗因らしい。賢介は五十歳。三十代の女性にとって、五十代は初老に見えるのだ。確かに、自分が三十代のころ、五十代は違う時代を生きている人たちだと思っていた。
そんな女性会員の中でただ一人「OK」の返事をくれたのが沙紀だった。見合いを承諾する返事のメールが彼女から届いたとき、賢介はパソコンの前でガッツポーズをした。なにしろ、十歳も年下のCAと会えるのだ。向き合ってお茶を飲めるだけでもうれしい。
彼女のプロフィールには婚歴が二回とあった。つまり離婚も二回だ。しかし、まったく気にならなかった。賢介自身も離婚歴が一つある。
 出かける前には、鏡の前で念入りに自分チェックをした。
「鼻毛は飛び出していないか?」
「歯の間に食べかすがつまっていないか?」
「爪は伸びていないか?」
 鏡に映る自分に声を出して問う。
 大丈夫。問題はない。
服装は、襟付きの白いシャツに黒のジャケット、パンツはほどよく洗われたデニムにした。
見合いにはスーツで臨むように、相談所では会員に指導している。しかし、週末にスーツはためらわれた。雑誌ライターという仕事柄スーツは着なれていない。七五三に見える気がした。五十面で七五三スタイルは不気味だ。
 ジャケットがよれよれではないかも鏡の前で再チェックする。靴も念入りに磨いた。さらに、自分の体のにおいをかいでみる。加齢臭が心配だったのだ。
いまのところ誰かににおいを指摘されたことはない。しかし、臭くても、直接本人には言わないだろう。

 ラウンジのある四十階でエレベーターの扉が開くと、天井まである窓から午後の光に包まれ、賢介は目を細めた。エレベーターの箱から出ると、大勢の男女の視線を浴びた。ざっと二十人はいる。休日なのにビジネススーツを着た男、ワンピース姿の女。最初はこの場でクラス会でもあるのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。みんな賢介と同じで、見合いの待ち合わせなのだ。自分が待ち合わせをしている初対面の相手を緊張の面持ちで待っている。
どの女が緑川沙紀なのか。視界を右から左へぐるりと見渡していると、後ろから声をかけられた。
「石神さん、ですよね?」
 ふり向くと、目の前に相談所のホームページで見た顔があった。沙紀である。身長は一六〇センチほど。瞳が大きく欧米人と日本人のハーフのようなはっきりした顔立ちだ。髪は長く、肩の下でつややかに波打っている。
「緑川沙紀さんですか?」
「はい。今日はよろしくお願いします」
 襟もとがレース状のオフホワイトのノースリーブのワンピースを豊かな胸が突き上げていた。右手にサイズの小さなヴィトンのバッグを下げている。
「こちらこそよろしくお願いします」
 ラウンジのスタッフに案内されて、二人は窓に面した明るいソファで向き合った。テーブルの間隔が開いているので、周囲を気にせず会話ができる。賢介はホットコーヒー、沙紀はアイスティーを頼んだ。
沙紀は国内線CAだった。もともとは国際線に勤務していたが、JALとJASが統合した一九九〇年代にCAが増え、国内線に配置換えになったらしい。その経緯を恨みが混じった口調で語った。
自分のことを「沙紀ちゃん」と呼ぶことと、「ほんっとジャスッ子ってわかってないのよね」というJAS出身CAへの非難には閉口したが、会話は概ね盛り上がった。好みの映画が同じだったのだ。
彼女はロベール・アンリコ監督のフランス映画、『冒険者たち』が好きだと言った。賢介もくり返し観た作品だ。
真っ青なコンゴの海にジョアンナ・シムカスが沈んでいく水葬のシーンで賢介の目に涙があふれた。陽の光で輝くジョアンナがあまりにも美しかったのだ。十五歳で初めてこの映画を池袋の名画座で観た。あのとき、人は悲しい時だけではなく、美しいものを見た時も泣くのだと知った。
しかし、沙紀の好きなシーンはまったく違っていた。セルジュ・レジアニがクルマの中でニードルガンで打たれる拷問シーンに興奮するそうだ。
 結婚相談所では、一時間をめどにお見合いを切り上げるように指導されていた。長時間会話をしていると、おたがい気に入らない面がいろいろと発覚するからだ。最初はいいところだけを見てスタートしたほうが、交際につながりやすいという。
しかし、気づくと二時間半が過ぎ、夕食も一緒にとろうと青山へ移動した。初回の見合いで食事をすることは相談所の規約で禁じられていたが、黙っていればいい、と沙紀が言った。店は青山一丁目のツインタワー裏の路地あるイタリアンレストランにした。高級ではないが、スタッフが気持ちよく対応してくれる。特にテラス席は居心地がいい。天井までガラスで、夜は光の箱の中で食事をしているようだった。
 食事中も会話ははずんだ。
「石神君さあ、相談所に入って何回お見合いした?」
 前菜の真鯛のカルパッチョをフォークですくいながら沙紀が訊く。すでに沙紀は敬語を使わなくなっていた。彼女のほうがずっと年下だが、賢介のことは君付けで、会話は終始上から目線だ。
「今回が最初のお見合いです」
 丁寧な言葉で対応してしまう自分が、賢介は悔しい。
「ふうーん。沙紀ちゃんは、石神君で十人目」
「十人も!? 気になる人はいなかったの?」
 今度は丁寧語を使わずに話すことができて、少しだけ溜飲が下がる。
「沙紀ちゃんと合う男性、なかなかいないんだよねえ。でも、十人のうち五人はお見合いの後も会ったよ。ご飯食べにいったり、ドライブしたり。五人のうち沙紀ちゃんにブスッと刺した人は三人」
「ブスッと刺した?」
 沙紀が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
「だからさあ、沙紀ちゃんのアソコにブスッと刺したってこと」
「ああ……」
 どうやら十人の男とお見合いをして、そのうち三人とホテルへ行ったらしい。会ったばかりの相手にそこまで打ち明けるのは潔いのか。心を許しているのか。あるいは、賢介を誘っているのか。
ひょっとしたら、自分ともそういう流れになるかもしれない。そう思うと股間に血液が集中していく。
いや、これは見合いだ、初対面でそんなことになるはずはない。あわてて自分に言い聞かせる。

「石神君としてもいいよ」
 沙紀に言われたのは、帰路、タクシーの中だ。
 賢介は自分の耳を疑った。クルマは彼女が住む杉並区の阿佐谷に近づいていた。ドライバーが二人の会話に聞き耳を立てているのがわかる。
「だからあ、沙紀ちゃん、石神君にブスッと刺されてもいいかな、と思っているわけ。結婚相談所で知り合うとさ、デートを重ねて、気持ちを確認して、カウンセラーに報告して、手続きが大変でしょ? やっとキスしてエッチをして、その時初めて体の相性が合わないことがわかったら、ほんっと時間の無駄。その期間も会費を払い続けて、お金も無駄。無駄無駄無駄」
 合理的な考え方ではある。賢介も沙紀としたい。しかし、こんなにスムーズにことが運んでいいのだろうか。
今日はどんな下着を身に着けて家を出ただろう――。
賢介は出がけの記憶を手繰り寄せた。色は黒だった。ブランドこそラルフローレンだが、二年くらい着古したボクサーパンツだ。油断していた。
沙紀は上目づかいでまなざしを送ってくる。酔ってはいない。彼女も賢介もアルコールに弱く、食事の席ではガス入りのミネラルウォーターをボトルで頼んで分け合った。
「ほんとにいいの?」
 つい確認してしまう自分がふがいない。沙紀は無言でうなずき、手を握ってきた。緊張で賢介のてのひらが汗ばむ。再び下半身の血流が盛んになる。
結婚相談所を通してお見合いした女性だ。まさか美人局ではあるまい。刺青を掘った男の前で土下座をする自分の姿が頭の中に浮かぶ。あるいは、後で何か高価なブランド品を要求されることはないだろうか。よからぬ展開を想像しては消去する作業を頭の中でくり返した。
腕時計を見ると、すでに深夜〇時に近い。今から都心に戻ってチェックインできるホテルはあるだろうか――。
候補のホテルをいくつか思い浮かべる。高額ではなく、でもせこいと思われないレベルがいい。そこに向かうまでに沙紀の気が変わらないように、できるだけ近くだ。阿佐谷からだと西新宿だろうか。
賢介が行先を口にしようとしたその時、沙紀がドライバーに指示をした。
「阿佐ヶ谷駅あたりの停めやすいところで降ろしてください」
 しまった。気が変わったのか――。
タクシーが停まり、沙紀が降りた。賢介もあわてて後を追う。
「この近くのラブホにしようよ」
ふり向いた沙紀が思いもよらぬ提案をしてきた。
「ラブホテル?」
「沙紀ちゃん、ラブホが好きなの。エッチなことをするために入るあのうしろめさたで、体が熱くなってきちゃうの」
昔ながらのつくり豆腐の店と最近はやっているつけ麺チェーンが仲よく軒を連ねる線路沿いの路地を沙紀が先導していく。
深夜の阿佐谷に人通りはない。シャッターの降りたつけ麺屋の前、無造作に積まれた生ごみの袋を茶トラの猫があさっている。
 五分ほど歩き、沙紀が立ち止まった。そこは、築何十年だろうか、杉並とは思えない茶色いブロックを重ねた外壁のうらびれたホテルだった。ピンクに光るハートマークが毒々しい。
「ここ、沙紀ちゃんの定宿」
 賢介をレンガ造りの中にぼんやりと開いた入り口へうながした。
定宿? 「美人局」という言葉が再び頭をよぎる。
しかし、進まなければ親密な関係は生まれない。沙紀の後をついて、ロビーに足を踏み入れた。埃のにおいが鼻腔を刺激してむせそうになる。
「石神君、今日、沙紀ちゃんとできると思ってなかったでしょう?」
「うん」
「驚いた?」
「うん」
 部屋に入ると、沙紀が体を寄せてきた。バラの花弁を煮詰めたような香水のにおいが鼻腔を刺す。賢介は立ったままそっと口づける。舌を入れてもいいだろうか。いちいち躊躇する。まるで童貞の中学生だ。
思い切って沙紀の舌をさぐる。沙紀の舌も応じてきた。背中のファスナーをさがし、ワンピースを脱がせる。キャミソールの肩ひもをおろすと、黒いブラジャーに包まれた豊かな胸があらわれた。沙紀の左胸に右手をあてる。鼓動が伝わってきた。沙紀の心臓の動きも速い。自分だけが高揚しているわけではないことに賢介は安堵した。
左手で背中のホックを不器用にまさぐると、ブラジャーがバストにはじかれた。
「沙紀ちゃんのおっぱい、すごいでしょ?」
「う……、うん」
 自分もベルトを緩め、ラルフローレン一丁になる。
「垂れてると思った?」
 沙紀が賢介のシャツのボタンを上からていねいにはずしてくれた。
「垂れてるとは思っていなかったけど……」
 さらに進もうとすると、沙紀が手首をつかんだ。
「待って」
動きを止められて、賢介はお預けさせられている気分になる。沙紀の表情をのぞくと、意味ありげに微笑んでいる。
「あのね、沙紀ちゃん、ふつうのエッチはつまんないの」
 賢介の手首を握ったまま言った。
「えっ?」
「沙紀ちゃん、乱暴にされると感じるの」
 上目づかいにうったえる。
「乱暴って?」
 賢介は間の抜けた対応をしてしまう。
「部屋を引きずりまわしてくれるとかさ」
 甘い行為をイメージしていた賢介の期待は裏切られた。
「沙紀さん、一つ訊いてもいいですか?」
「何?」
「離婚歴、二回、ありますよね?」
「うん」
「やっぱりベッドでの相性が合わなかったの?」
「いろいろ。でも、体が合ったらほかの問題は乗り越えられたかも」
その言葉を聞き、賢介は後に引くわけにはいかなかった。
賢介は沙紀を全裸にして、自分もラルフローレンを脱ぐ。五分前までやる気満々だったものは力を失い、だらりと項垂れている。
沙紀に指示された通り、両手をつかんで湿ったカーペットの上を引きずり回す。白い素肌が汗ばんで赤くなり、ほこりや細かい糸くずがはりつく。
息を切らせて彼女を抱え上げ、ベッドに放り投げた。
「次は言葉がいいなあ」
 あらたな課題が与えられた。
「言葉、って?」
「言葉攻め、やったことないの?」
 沙紀は不機嫌な表情になるが、言葉攻めなど経験者のほうが少数派ではないだろうか。
「薄汚いメスブタめ! とか言えばいいのかな?」
「はあ……? 麗しい沙紀ちゃんをメスブタとか、勘弁してよね」
「ごめん……」
「ほんとに経験ないんだ?」
「うん」
 沙紀はしばし思案する表情を見せる。
「しかたないか……。お手本をやってあげる。いい? 一度だけだからね」
「はい」
 ベッドで仰向けになったまま沙紀は声色を変えた。
「お前はオレの大きいのがほしいんだろ! してください、とお願いしろ」
 沙紀が眉間にしわを寄せる。表情も厳しい。賢介は吹き出しそうになった。
「僕の、そんなに大きくないんだけど」
「そんなの、さっきからわかってるよ。はい、やって!」
 賢介は必死に沙紀の真似をする。やはり、笑わずにはいられない。その度に沙紀にダメ出しをくらう。もはやセックスとは思えない。
それでも、沙紀の大腿部の間は潤ってきた。準備ができたらしい。極太の陰毛が海の底で揺れる海藻のように光っている。
「オレの大きいのがほしいんだろ! してください、とお願いしろ」
 満を持して沙紀に教えられた台詞を浴びせる。
「し、て、く、だ、さ、い」
 沙紀がほんの少し前の強気な態度からは想像できない泣きそうな顔になった。
しかし、賢介のものは相変わらず力を失ったままだ。それを視界にとらえた沙紀は失望の表情になる。
「石神君、どうしてそんななの?」
「ごめん」
 賢介は謝ってばかりだ。
「ほんとうならばお口でしてあげたいところだけど」
「あっ、それ、してくれたら元気になるかも」
「でも、悪いけど、沙紀ちゃん、お口でするのは好きじゃないの。お口はお盆とお正月だけって、二十歳前から決めてるの」
 今度は賢介が失望した。
「手でしてあげるから、自分で想像して」
 沙紀に言われて、賢介はまずしい性体験の中から甘い夜の記憶を必死にたぐり寄せる。思い出すのはどれも、それぞれの女性との最初の夜だった。
かろうじて力を感じてきたところで、沙紀に、ブスッとまではいかないが、ぬるりと差し込む。気合を入れて腰を使うと、さびたベッドの「キッ」と沙紀がもらす「ひっ」の二重奏が始まった。賢介は笑いそうになるのを必死でこらえて、行為に集中することに努めた。気持ちが緩むと、下半身が力を失う。
 乳房が上下に揺れ左右にこぼれると一サイクル。それが四十サイクルになろうという時だった。沙紀が下から哀願した。
「クビ……、シメテ……」
「えっ?」
「クビ……、シメテ……」
 頸、絞めて、と言っているらしい。
「……できないよ。加減がわからない」
「大丈夫だから……」
「勘弁してよ。危ないよ」
「お願い……」
 おそるおそる、賢介は沙紀の頸に両手をかけた。
「もっと強く……」
 少しだけ力を加える。
「これ以上は無理だよ」
「お願い。もう少し強く……」
 さらに力を加える。頸が赤みを増し、沙紀の顔が白くなったように感じる。怖くなってきた。
「ここまでで、許してください」
 そのときだった。沙紀が獣のように腰を使い始めた。尻を思い切り引き、突き上げる。レスリングのブリッジのような姿勢だ。賢介のものが深くまで達すると、沙紀は時計回りに腰をくねらした。
賢介は沙紀の中で放出しそうになり、必死で耐える。すると、沙紀が腰を引き、反動をつけてまた突き上げる。賢介は反射的に彼女の頸を強く絞めそうになり、あわてて手を放す。沙紀はあらがい、賢介の髪を両手でかきむしるようにして引き寄せた。
二つの体が密着する。汗ばむ体が上下にすべる。沙紀はさらに激しく腰を振り、賢介を逃がさないように両脚で腰をはさんだ。そのまま賢介のものを絞るように出し入れさせる。賢介も彼女の動きに合わせて必死で腰を動かす。あとはあっという間だった。

 力を使い切った二人が短い睡眠をとり、それぞれがシャワーを使って外へ出た時には、空は白々と明けていた。駅前のロータリーにある大木で雀がさえずっている。マクドナルドでは十代の男性アルバイトが開店の準備をしていた。
「オレ、不合格だね」
 賢介は申し訳ない気持ちになった。
力を合わせてひと仕事をやり遂げたからだろうか。沙紀とは昨夜会ったばかりの関係とは思えない。渋谷のホテルのラウンジで見合いをしたのが、何か月も前のようだ。
「まあねえ……。合格とは言えないかな。石神君のエッチってさあ、空から天使がひらひらと降りてきて翼で包み込んでくれるみたいなんだよね」
「天使がひらひらひら……か」
「優しくしてくれるのはうれしいんだよ。でも、沙紀ちゃんにはもの足りないかな」
「ごめん……」
 賢介はまた謝ってしまう。
「もう一度試したら上手にやれそう?」
「……難しいかな……」
「……だよね。おたがいまた違う相手を探すしかないかもね」
 沙紀がさりげなく賢介の手を握ってきた。
「さっきのホテル、阿佐ヶ谷駅のホームから見えるんだよ。石神君、電車で通るたびに、沙紀ちゃんのこと、思い出しちゃうよ」
 にっこりと微笑みかけてくる。
「思い出しちゃうかな?」
「絶対に思い出すよ。その時、石神君、きっと思うよ。沙紀ちゃん、いい女だったなあ、って。惜しいことしたなあ、って」
 数時間前に言葉攻めを強要してきた女とは別人のようにかわいい笑顔だ。
「そうかな……」
「じゃっ、元気でね!」
 沙紀が手をほどいた。
早い時間に出勤するサラリーマンが一人、二人と改札へ向かっていく。駅の構内を抜けて反対側の商店街のほうへ去る沙紀の後姿を見送り、賢介も改札に向かった。
「おー!」
 結婚相談所に入会して自宅のパソコンで初めてホームページを開いた時、賢介は思わず声をあげた。画面にずらりと現れた女性会員の写真が圧巻だったのだ。モデルのカタログをながめているようだ。
女性はワンピースかスーツ、大きく二派に分かれる。色は白とピンクが主流で、ときどきネイビーがいる。ほぼ全員がカメラ目線で微笑んでいる。プロのカメラマンがスタジオで撮影したのだろう。
さっそく結婚相談所の担当カウンセラー、児島に電話をかけた。
「もしもし。女性のプロフィールのサイト、開けました」
「いかがでしょう?」
「質量ともに満足です」
「それは何より。では、石神さん、画面を見ながら一緒にシステムを確認していきましょう」
児島の年齢は四十一歳と聞いていた。自分も独身男のくせに、「プロの婚活カウンセラーの見解としては、結婚願望の強い女性はですねえ」と自信満々にアドバイスする。
入会面談の際、彼が真っ白のスーツで現れたのには驚かされた。顧客をサポートする立場の自分が目立ってどうするのだ。
〈人生を左右する婚活をこの自意識過剰男に任せていいのだろうか〉
不安を覚えたが、始める前から担当を替えてほしいと頼むのも大人気ない。
 賢介と児島は、おたがいパソコンの画面を見ながら、電話でホームページの使い方を確認していく。女性のプロフィールの見方、希望する女性の検索法、見合いの申し込み方……などだ。
「今日から画面の女性たちにお見合いを申し込んでもいいんですか?」
 児島に訊く。
「もちろんです。じゃんじゃんアプローチしちゃってください!」
 そう言われて、まだ申し込んでもいないのに、全員とお見合いできる気になった。
 女性の写真はみんな上品だ。しかし、よく見ると作りこまれている。
目鼻立ちがくっきり写るように陰影のあるメイクをしたり、しわが目立たないようにソフトフォーカスで撮影されていたり。おそらく画像上でも、頬をシャープにするなど加工が施されているだろう。ほうれい線を消したのか、妙にのっぺりした顔の女性が目立つ。背景も服装同様白や淡いピンクが主流だ。観葉植物が置かれている写真が多かった。
「女性会員の皆さんですが、実物もこんなにきれいなんでしょうか?」
 感じたことをがまんできずに口にしてしまう性格は小学生の頃から変わっていない。
「さあ、それは私にはなんとも……」
 児島は歯切れが悪い。
「実際に会ったら、顔が違っていることもありますか?」
「七掛けくらいまではご容赦いただきたいと……」
 やはり写真は加工されているのだ。
「別人のような女性が表れたら、チェンジはありですか?」
「いけません! 私どもはそういう種類のお店とは違いますので」
 電話の向こうは急に強い口調になった。
「そうですか……。ならば、どこまで写真を作りこんでいるか、見破る方法はありますか?」
「それはスキルを磨いていただくしかないかと」
「スキルを磨く……」
「はい。ご自分の目を鍛えてください」
 児島はきっぱりと言った。
電話を切り、賢介の期待と不安相半ばの婚活はスタートした。
 賢介が結婚を強く意識したのは、まもなく五十歳を迎えようという春の朝だった。
JR中央線と井之頭線が乗り入れる吉祥寺駅から徒歩で二十分近くかかる築三十年の賃貸マンションのベッドで目覚めた時、無性に寂しさを覚えた。なにもかもが空っぽの気がしたのだ。
妻はいない。子どももいない。二十代のころ、まさか五十代で一人暮らしをしているとは思わなかった。自分は人として劣っているのではないか――。その思いが払拭できない。
これからの二十年、あるいは三十年、自分は一人ぼっちで生きていく。天井の木目を数えながら思った。生まれてから半世紀になる日を前に、それまで考えなかった、いや、考えることを避けてきた現実が胸をしめつけた。
 賢介は三十代で一度、社内恋愛で結婚した。当時は原宿にあるビジネス系の小さな出版社で単行本の編集部に配属されていた。相手は五歳年下。旧姓は後藤小百合といい、総務部で働いていた。
交際のきっかけは会社が主催する自己啓発セミナーだ。新宿のビジネスホテルの会議室前で二日間、並んで受付をやった。
賢介のひと目惚れだった。社員名簿で小百合の電話番号を調べて口説いた。個人情報の保護など社内で誰も口にしないおおらかな時代だったのだ。賢介の努力は実り、こっそり交際を始め、一年半で式を挙げた。
交際中、二人の関係には誰も気づかなかったはずだ。身長は一七〇センチ、すらりと長身で無駄な贅肉のない小百合は、胸まである長い黒髪に、透き通るように白い肌で、フランス人形のようだった。一方賢介は、身長は小百合と同じ一七〇センチで、重心が低く手足の短い、お鉢の張った稲作農耕民的容姿だ。
フランス人形と伝統的日本人はあまりに不釣り合いだった。会社の口の悪いやつらに、「あの二人は国際結婚だ」とからかわれた。
そんな結婚生活はわずか半年で終わりを迎えた。浮気や暴力やギャンブルが理由ではない。ただ、生活がかみ合わなかったのだ。
フランス人形のような小百合はフランス人形体型を保つために、一日一食しか食べなかった。フランス人形のような肌でいるために、一日八時間以上の睡眠をとった。週末は、昼を過ぎても、夕方が近づいても、十時間以上眠り続けた。
一方、賢介は食欲旺盛で、夜更かしの早起きだった。食べる、眠るという、人間の本能のところで、まったく相性が合わず、ストレスをためた。
さらにかみ合わなかったのが、洋式トイレの使い方だ。夫が立ったまま小用をすることを妻は許さなかった。
「立ってすると、目に見えないしぶきが飛んで天井まで汚すのよ」
 小百合がテレビの情報番組で仕入れた知識である。
彼女は極度の潔癖症で、電車のつり革を握るときは手袋をはめた。トイレでは便座に尻をつけようとはしなかった。洋式なのに和式のように便座に足を乗せて器用にまたがるのだ。しかたなく、賢介は長年の習慣をあらため、座って小用をする努力をした。便座に乗るのは許してもらった。プラスティック製の便座は、四〇キロ台の小百合の体は耐えても、七〇キロ台の賢介は支えきれない。
便座に座ってしてみると、新たな問題も生じた。小のはずなのに、つられて大も顔を出す。尻周辺の筋肉は連動しているのだろう。なんとも具合が悪い。
妻にそれを訴えると、ただあきれた顔をされただけで、立ちスタイルは許されなかった。
 度々意見のすれ違う二人の関係に追い打ちをかけたのは、静岡に住む妻の両親の言動だった。彼らは賢介のことを嫌っていた。一人娘をろくでなしに奪われたと感じていたのだろう。
特に義父は毎晩電話をかけてきて、帰宅が遅い理由を問い詰める。賢介は天地神明に誓って仕事で遅いのだが、パチンコでも打っているのか、ほかに女がいるのではないかと疑っていたらしい。妻の実家のリビングには結婚式に新郎新婦で撮影した写真が額に入れて飾られていたが、夫はトリミングされ、妻一人が微笑んでいた。
「勤め人というのは、七時には帰って、一杯やりながらナイターを見るのではないのかい」
 義父に電話口で言われ、「それは義父さんの会社に限ったことでしょう」という反論を飲み込んだ。
仕事の事情を説明するように妻に頼んだが、仲裁は断られた。
「私を育ててくれた親なんだから、話を聞いてあげて」
 そう言うばかりだ。やがて、賢介は毎日駅前のファミレスでコーヒーを飲んで気持ちを落ち着かせてから帰宅するようになる。
そして、ついに心が壊れた。
ある日、電話で帰宅が遅いことを義父にいつもより厳しくなじられ、その場に立ったまま号泣したのだ。
「オレが、いったいどんな悪いことをしたんだよー!」
 泣き叫ぶのは幼児期以来だ。号泣すると猛烈に頭が痛くなることを思い出した。
それ以上小百合と暮らすのは無理だった。賢介は家を出て、会社を辞め、フリーランスのライターになった。ほかにできそうな仕事が思いつかなかったからだ。
 その後、何人かの女性と交際したものの、結婚にはいたらず、二十年の歳月が流れた。
 結婚したい――。そう願っても相手がいなければどうにもならない。
新聞や雑誌では、現代は結婚難の時代だと報じている。それでも、現実には三十代も半ばを過ぎると、既婚者のほうが未婚者よりもはるかに多い。
みんな、どうやって相手を見つけているのか――。
あらためて周囲を見回すと、学生時代の友人同士か、職場恋愛か、友達の紹介だ。見合いを除いたら、日本ではこの三つくらいしか出会いはないのだ。かつては合コンと呼んでいた、男女の飲み会で出会っての結婚も意外と少ない。ましてや道端のナンパで結ばれた夫婦など出会ったことがない。賢介自身、職場恋愛で結婚したし、その前の恋愛も、さらにその前の恋愛も高校や大学で知り合った相手だった。
実際、賢介はジャーナリスティックな雑誌の仕事で、出会いの特集記事を書いたことがある。そのときの調査取材でも、想像通りの結果だった。
三十五歳~五十四歳の既婚者の結婚相手との出会いのきっかけは、男女とも一位は「職場で知り合った」。二位は「友人からの紹介」。三位は「学生時代の知人関係」。男性の約六五%、女性の約七〇%がこの三つの出会いで結婚している。
一方、職場、友人の紹介、学生時代の交友関係で成果が上がらなかった未婚の男女はどんな婚活をしているのかというと――。
男性は順に「婚活パーティー」「友人に紹介を依頼」「結婚相談所」「合コン」「恋愛・婚活サイト」。
女性は「婚活パーティー」「友人に紹介を依頼」「合コン」「結婚相談所」「お見合い」。
調査結果を見る限り、独身男女がもっとも多く集まっている婚活パーティーに参加するのが結婚への近道らしい。特に女性は積極的にパーティーに参加している。メディアで話題になりやすい恋愛・婚活サイト、いわゆる婚活アプリは未婚男性には人気があるものの、女性からは敬遠されている。出会い系の事件がよく報道され、リスクを感じているのかもしれない。
賢介のような五十歳に近づきフリーランスで仕事をしている身に、学生時代の友人との恋愛は非現実的だし、職場はそもそもないに等しい。
では、どうすればいいのか? そんな時、新聞で結婚相談所の広告を発見した。「発見した」といっても、こうした広告はよく目にしていた気がする。興味をもたなかっただけだ。
しかし、今回は違った。賢介は切実だった。広告をきっかけにインターネットで検索すると、同じような会社をいくつも見つけた。
結婚相談所は、今は「結婚情報サービス」と呼ぶのが主流らしい。そのほうがイメージはいいからだろう。結婚相談所にはもてない男女の駆け込み所のような響きがある。「結婚相談所に入った」ではなく「結婚情報サービスに登録した」と言うと、確かにやりきれなさは薄れる。
 いくつもある結婚情報サービスからその会社を選んだのはキャッチコピーに魅力を感じたからだ。
「総登録会員数は五万人!」
 そこだけ大きく太く赤い文字で書かれていた。五万人といえば、東京ドームや甲子園球場のスタンド席より多いではないか。一塁側スタンドが独身男性、三塁側スタンドが独身女性で埋まっているスタジアムを想像して、賢介は希望を感じた。
電話で話を聞くと、入会金が五万円、年会費が三万円という良心的な初期費用だった。意外に感じた。入会には、数十万円は必要だと思っていたのだ。実際、一九九〇年代までは高額だったと思う。アルトマンという会社が最大手で、たくさんの雑誌で広告を見た。コンピュータをいち早く導入し、男女をマッチングするシステムで、初期費用に確か五十万以上かかった。婚活業界も価格破壊が進んでいるらしい。別途お見合い料に五千円、成婚料に十万円が必要になるが、それは相談所の成功報酬なので納得できた。
会員が五万人いることにも嘘はなさそうだ。大手、中堅から自営まで、さまざまな結婚相談所が連合して、会員数五万人の組織になっていた。つまり、自分が入会した相談所だけではなく、ほかの数十の相談所に在籍する女性と見合いができる。
賢介はその日のうちに、ネットで見つけた会社を訪ねた。JR新宿駅の西口を地上に出て、家電量販店のにぎわいを抜け、一階にチェーン展開する居酒屋が入った雑居ビルにオフィスはあった。入り口で要件を伝え、通された会議室で対応してくれたのが真っ白スーツの児島だ。
「まず基本的なご確認ですが、石神さんは間違いなく独身でいらっしゃいますね?」
 こいつはなんて当たり前な質問をするのだろう、と思った。
しかし、彼の説明によると、たんなる遊び相手を見つける目的でこの手のサービスを利用しようとする妻帯者が少なくないそうだ。
なるほど、不届き者だが、頭のいい手口だ。資本は必要だが、路上で女性に声をかけるよりもはるかに効率がいい。海釣りと釣り堀の違いと同じだ。
だだっ広い海に釣り糸を垂れていても、そこに魚が泳いでいるかはよくわからない。一方、釣り堀なら、入場料を払いさえすれば餌を待つ魚が集められてうようよ泳いでいる生け簀で楽しめる。魚の活きはよくないかもしれないが、労少なく釣果は上がる。
「ご希望の条件を満たす女性と縁があれば、結婚する意志もお持ちですね?」
「はい」
「では、その前提で、この用紙にご記入をお願いします」
 三枚つづりの書類を渡された。生年月日、出身地、身長、体重、学歴、年収、家族構成、趣味、好きなスポーツ……など、事細かくプロフィールを記入するようになっていた。希望する女性の条件を書く欄もあった。
希望は自分より年下、住まいは東京、神奈川と書いた。それ以上遠くまでは会いに出かける気にはならない。一回ならともかく、もし縁があったとしても、その後たびたび会うのは難しいだろう。
 好みのタイプには「何でも話し合える女性」と記入した。夫婦であれ、親子であれ、兄弟であれ、言葉できちんと伝え合わないことにはおたがいが何を考えているかわからない。言葉にしなくても察してもらうなど、かつての高倉健や藤竜也限定の特権だ。
「あとは、これから申し上げる書類の提出と入会金と年会費をご入金いただければ入会完了となります」
 提出を求められた書類は、運転免許証やパスポートなど顔写真のある公的身分証明書のコピー、住民票、最終学歴の卒業証明書、源泉徴収票など収入証明書、そして独身証明書だ。世の中に「独身証明書」なるものが存在することを生まれて初めて知った。この公的書類は、自分の本籍がある自治体で発行してくれる。
〈当市区町保管の公簿によれば、上記の者が婚姻するに当たり、民法第七三二条(重婚の禁止)の規定に抵触しないことを証明する〉
 取り寄せた書類の名前の下にはそう記されていた。

 沙紀との後、しばらくは見合いのチャンスはなかった。
結婚相談所のシステムでは、ホームページ上のプロフィールを参考に男女どちらかが申し込み、相手が応じると、お見合いが成立する。しかし、賢介は断られ続けたのだ。
相談所とは一か月に二十人まで見合いを申し込める契約を結んだ。しかし、入会一か月目で会ってくれたのは沙紀一人。つまり、十九人に断られた。やがて五十歳の誕生日を迎え、その年齢が婚活のハンディキャップにもなっていた。
婚活市場において、フリーランスで仕事をしていることも不利だった。多くの女性は安定した職業の男を求めている。結婚相手として人気があるのは、公務員やだれもが社名を知る大きな企業の会社員だ。賢介が働く出版業界でも、出版社の社員ならば、結婚相手を探すのに苦労はしないだろう。毎月きちんと給与をもらえるからだ。
病気をして、一か月休職しても、すぐに解雇にはならない。しかし、フリーランスの身にはなんの保証もない。病気で寝込んだら、その間の収入はゼロだ。だから、いつも将来不安におびえている。女性は現実的だ。よほど愛情が深くなければ、リスクのある男を選びはしない。
「石神、婚活は順調か?」
 取材の帰りに寄ったカフェで近藤に訊かれた。
近藤は高校時代の同級生で、三十年以上の付き合いになる。月二回発行する四十代男性をターゲットにした雑誌の編集長であり、一緒に取材に出かけることも多かった。結婚して二十年目を迎え、大学生の息子がいる。
仕事もエネルギッシュだが、プライベートも盛んで、賢介の知る限り、常に三人以上の女と付き合っている。今は、もう十年以上関係が続いている四十五歳のラグジュアリーブランドのプレスを筆頭に、三十七歳、三十五歳、二十九歳と続き、二十二歳の女子大生まで五人の恋人がいるらしい。
「オレの恋愛は浮気ではない。全員本気だ」
近藤はいつも主張した。
「全員本気だ」と言うだけあって、経済力にものを言わせ、五人の恋人すべてと同じように交際している。性欲が異常に強く、五十代を迎えてなお、ひと晩に五戦は交えるらしい。元気な夜は七戦までいくと豪語していた。
「七回目も射精するのか?」
 驚いて訊いた。
「もちろん」
 近藤は胸を張った。
特別な体質なのだろうか。平熱は三十七度五分。活動が活発な小学生よりも高く、近くにいると実際に熱を発しているのを感じる。
 彼が交際する二十三歳の女子大生に、近藤の一体どこが好きなのか、訊ねたことがある。三人で食事中、近藤が仕事のトイレで席をはずしたときだった。
「とっても優しいんです」
 里香という名のその女子大生は恥ずかしそうに打ち明けた。
「どう優しいの?」
 訊くと、彼女はさらに頬を赤らめた。
「彼、私のアソコ、一時間もなめてくれるんです」
 賢介は椅子から落ちそうになった。
まるで犬ではないか。
しかし、驚きはすぐに尊敬に変わった。五十にもなって二十三歳の恋人の大切なところを一時間もなめ続けるなど誰にでもできることではない。ほとんどの男は自尊心がブレーキをかける。なによりも舌が抜けるほど疲れるはずだ。しかし、近藤はためらいなくなめるのだ。
 その近藤に賢介は婚活の成果を訊ねられた。
「大苦戦だ」
 即答した。
「一か月に二十人に見合いを申し込んで十九人に断られた」
 付け加える。
「それはひどいな。打率〇割五分じゃないか。会ったのは阿佐谷のM女だけか」
 近藤には沙紀のことは報告済だ。
「われながら情けない状況だ」
「心が病みそうだな」
「近藤、思うままを答えてほしい。お前から見て、オレはどうだ? 結婚相談所のホームページのプロフィールはうそはつけないが、写真はさしかえられる。髪型とか、眉の形とか、どんなことでもいい。遠慮せずにアドバイスしてくれないか」
 懇願した。
「言っていいのか?」
「えっ、あるのか?」
「ある。言っていいか?」
 近藤が念押しする。
「もちろんだ」
「そうか……、なら、正直に指摘させてもらおう。怒るなよ。お前について、実はずっと気になっていたことがある」
「もったいぶらずに、早く言え」
 賢介は身構えた。
「石神、化粧はやめたほうがいんじゃないか」
 思いもよらぬ指摘をされた。
「化粧? オレが?」
「そうだ」
「化粧なんて、生まれてから一度もしたことはない」
「えっ」
 近藤は賢介の顔を見返した。
「していない」
 賢介はもう一度言う。
「うそつくな。じゃあ、なんでそんなにてかてかした顔をしてるんだ?」
「悪かったな。これは自前の脂だ」
「ほんとか!」
「驚くほどじゃないだろ」
 近藤は賢介の顔をじっと見つめる。
「お前、自前の脂でそんなにてかるのか?」
「よけいなお世話だ」
「顔、毎日洗ってるのか?」
「当たり前だ。これでもきれい好きなんだ。それに、自前の脂が多いと、顔が汚れる。街を歩くと、浮遊しているほこりを吸着して、真っ黒になる」
「ハエ取り紙みたいだな。だったら、もし再撮影できるならば、その前に顔はよく洗っておけ」
「わかった……」
 それでもまだ、近藤は何か言いたそうな表情をしている。
「ほんとうに化粧はしていないんだな?」
「何度言わせる。していない。したこともない。オレが家でこそこそ化粧をしていたら、気持ち悪いだろ?」
「ああ。お前が化粧をする姿も、化粧をするその気持ちも気味が悪い」
「だから、してないって言ってるだろ」
 帰宅すると、すぐに相談所のホームページにある自分の写真を再確認してみた。確かにごま油を塗ったようだ。写真を撮り直そう。ちょっと腹は立ったが、長年の友人のアドバイスには素直に従ったほうがいい。

 プロフィール写真を替えたのがよかったのか、その後、賢介は少しずつ見合いの申し込みを受けるようになった。婚活市場でまだ自分に商品価値があるとわかり、ほっとした。
見合いをするには一回につき五千円を相談所に支払う。お金を払ってまで自分と会いたいと思ってくれる女性がいる事実は救いだった。
 週末の午前十一時、新宿西口にあるホテルのフロント前のカフェラウンジでは、見合いの男女が何組も向き合ってお茶を飲んでいた。賢介が仕事の打ち合わせで平日によく利用しているラウンジが、週末に見合いでにぎわっているとは知らなかった。
入口横には老舗の生花のチェーン店がある。その周辺にもスーツ姿の男やワンピース姿の女が数多くいて、誰もかれもがせわしなく視線を泳がせている。全員が初対面なので、見合い相手を見誤らないように必死だ。
実際に相手を間違えて話しかけている男女も目につく。人違いされたほうは、余裕のある笑顔で対応している。慣れているのだろう。
 賢介は花園恵という四十六歳の女性を待っていた。二週間ほど前に見合いを申し込んできた女性で、プロフィールの職業欄にはケーブルテレビのレポーターと書かれていた。
最初は断ろうと思った。身のほどをわきまえず、自分よりも十歳くらい年下の相手を希望していたからだ。
賢介は自分の年齢の前後五、六歳くらいの女が苦手だった。一九八〇年代後半から一九八〇年代後半のバブル景気を二十代で体験している女は扱いづらい。食事からクルマまで、要求するレベルが高い。
「私、まだ国産のクルマに乗ったことないんだけどおー」
 初デートで自宅まで迎えに行ってまさかの乗車拒否をされたこともある。
「四十代になって持ち家じゃない男とは付き合ってはいけない、ってパパに言われているの」
 と交際を断られたこともある。
 しかし、恵はそういうタイプには見えず、断る決断ができなかった。彼女のプロフィールの「担当カウンセラーからのPR」欄も気になっていたのだ。
〈初めてお会いしたとき、女優さんかと思ってしばらく見とれてしまいました。実際に会うと、写真よりもはるかに美しく、実年齢よりも十歳から二十歳は若く見えます。ぜひお会いしてみてください〉
 そう書かれていた。
十歳から二十歳というのは範囲が広すぎる。実年齢が四十六歳だから、三十六歳か二十六歳に見えるということだ。乱暴な担当者だと思った。
それでも断れなかった。カウンセラーが男性か女性かは不明だが、しばらく見とれてしまったというコメントが気になってしかたがなかったのだ。
恵のプロフィールにアップされている写真はスタジオでプロが撮影したものではなく、海外旅行でのスナップだ。南の島だろうか。小麦色の顔をした子どもたちに囲まれて笑っている。印象はいいが、離れた場所から撮った破顔なので、ふだんはどんな顔なのか、よくわからない。
会うべきか。やめておくべきか――。
パソコン画面に目を近づけたり、斜めから見たりした。もちろん無駄な努力だ。結局見合いをすることに決めた。会って自分の目で確かめたかったのだ。

「石神さんですか?」
 声に振り向くと、見覚えのない女性が微笑んでいた。
賢介は仕事の知り合いに声をかけられたと思った。どこで名刺交換をした人だろう。友人や仕事の関係者に見合いをしていることは知られたくない。日常生活でパートナーを見つけられないことはコンプレックスだ。
「はい……」
 顔を見られたくない意識が働き、視線を下に落とす。
「花園恵です」
 賢介はあわてて顔を上げ、息をつまらせた。目の前には、写真とは別人のような白髪混じりの女がいた。
カウンセラーのPRコメントは、明らかに嘘八百だ。目の前の彼女に、女優かと思って見とれることなどありえない。相談所のプロフィール画面で実年齢を知らなければ年上だと思っただろう。三十代には見えないし、二十代なんてもってのほかだ。
こうなる可能性があることは、ある程度想定していた。しかし、覚悟していたレベルを超える実物に賢介の気持ちは萎えた。
 ラウンジに入って見合いが始まると、恵は明るく、よくしゃべった。メディアの仕事をしているので、スポーツから最新の映画まで話題も豊富だ。
しかし、賢介は騙された思いが払拭できない。どう見ても女優ではない。一つ嘘があると、年齢も、職業も、すべてに疑いをもってしまう。
だから、何を話しかけられても、適当に対応してしまう。そんな自分の態度に自己嫌悪も覚える。悪循環だ。この女とは二度と会うまいと思った。
「石神さん、あまりしゃべらないんですね?」
「あっ、はい、まあ、そういうわけでも……」
「私、おもしろくないですか?」
「えっ、いえ、楽しいですよ。でも、そろそろ相談所の規定にある一時間になるので、出ましょうか。貴重な週末をこれ以上僕との時間に使わせては申し訳ないし」
「私、何か、石神さんのお気にさわること、言いましたか?」
「いえ、そんなことは。実は、担当カウンセラーに、一時間で切り上げるように厳しく言われていまして」
 ほどほどのところで見合いを切り上げた。

夜、児島から電話があった。
「今日お見合いをされた女優のように美しい女性、いかがでしたか?」
 開口一番、癇に障る言い方だ。
「誇大PRでした」
「やっぱり。では先方には断りの連絡を入れておきます」
「一つ偽りがあると、ほかの全部が嘘に思えて、積極的に会話ができません。考えてみれば、そんなにきれいな人、いるはずないですよね」
「お気持ちはわかります。よーくわかりますが、きれいな女性、意外といるみたいですから。引き続き頑張ってください」
 児島は他人事のように言って電話を切った。
 結婚相談所では、交際を断る場合、相手に直接連絡しなくていい。おたがいの心が痛まないように、担当カウンセラー経由で伝えるのがルールだ。また、男女どちらかが交際しないと決めたら、それ以降の相手への連絡も禁じられている。もしどちらかがルールを破ったら、相談所レベルで解決する。
 恵との見合いで、賢介はそれまで自覚していなかったコンプレックスに気がついた。
 賢介は女性を容姿だけで判断してしまう。それは自信のなさと背中合わせだ。自信がないから、見た目のいい女を求めてしまう。「石神、いい女と結婚したなあ」という周囲の評価が欲しいのだ。そして容姿に引かれて女性と付き合うから、相手の心ときちんと向き合わない。