スプリングがさびているのだろう。そのベッドは相手を腰で突くたびに、キッと、子ねずみが鳴くような音をたてた。
中央線阿佐ヶ谷駅近くにあるラブホテルのすえたにおいのする部屋で、石神賢介は規則正しく腰を動かしていた。
賢介の下では女の胸が波打っている。両乳房は上下に揺れた後、体の外側にこぼれる。その動きを謙介は冷静に数えていた。上、下、横で、一サイクル。それをもう三十五回もくり返している。五十歳でもまだこんなに体力があったのか。自分に感心した。
胸の揺れから一拍おくタイミングで、女は苦しそうに吐息をもらす。その「ひっ」という声とスプリングの「キッ」がじゃれ合うように重なる。賢介は笑いそうになり、下半身が力を失いかける。そのたびに目をかたく閉じ、女の内部の粘膜の感触に気持ちを集中させた。
 女は結婚相談所に登録して初めて見合いをした相手だった。名前は緑川沙紀。四十歳で。JALのキャビンアテンダントだ。
ベッドの上での主導権は沙紀が握っていた。賢介も賢介の下半身もずっと彼女に指示されるまま働いている。
〈これはビギナーズラックなのだろうか? ビギナーズアンラックなのだろうか?〉
 自分に問いかけてみるが、いずれにしても今は現状を受け入れるしかない。

 沙紀との見合いは、週末の午後、渋谷の国道二四六号沿いにあるシティーホテルだった。高層階の、昼間はカフェとして利用されているバーラウンジだ。
相談所のホームページを介して賢介は何人もの女性に見合いを申し込み、断られ続けた。一か月で十九人も。システムが故障しているのかと思うほどの負けっぷりである。
十歳以上若い相手ばかり選んだのが敗因らしい。賢介は五十歳。三十代の女性にとって、五十代は初老に見えるのだ。確かに、自分が三十代のころ、五十代は違う時代を生きている人たちだと思っていた。
そんな女性会員の中でただ一人「OK」の返事をくれたのが沙紀だった。見合いを承諾する返事のメールが彼女から届いたとき、賢介はパソコンの前でガッツポーズをした。なにしろ、十歳も年下のCAと会えるのだ。向き合ってお茶を飲めるだけでもうれしい。
彼女のプロフィールには婚歴が二回とあった。つまり離婚も二回だ。しかし、まったく気にならなかった。賢介自身も離婚歴が一つある。
 出かける前には、鏡の前で念入りに自分チェックをした。
「鼻毛は飛び出していないか?」
「歯の間に食べかすがつまっていないか?」
「爪は伸びていないか?」
 鏡に映る自分に声を出して問う。
 大丈夫。問題はない。
服装は、襟付きの白いシャツに黒のジャケット、パンツはほどよく洗われたデニムにした。
見合いにはスーツで臨むように、相談所では会員に指導している。しかし、週末にスーツはためらわれた。雑誌ライターという仕事柄スーツは着なれていない。七五三に見える気がした。五十面で七五三スタイルは不気味だ。
 ジャケットがよれよれではないかも鏡の前で再チェックする。靴も念入りに磨いた。さらに、自分の体のにおいをかいでみる。加齢臭が心配だったのだ。
いまのところ誰かににおいを指摘されたことはない。しかし、臭くても、直接本人には言わないだろう。

 ラウンジのある四十階でエレベーターの扉が開くと、天井まである窓から午後の光に包まれ、賢介は目を細めた。エレベーターの箱から出ると、大勢の男女の視線を浴びた。ざっと二十人はいる。休日なのにビジネススーツを着た男、ワンピース姿の女。最初はこの場でクラス会でもあるのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。みんな賢介と同じで、見合いの待ち合わせなのだ。自分が待ち合わせをしている初対面の相手を緊張の面持ちで待っている。
どの女が緑川沙紀なのか。視界を右から左へぐるりと見渡していると、後ろから声をかけられた。
「石神さん、ですよね?」
 ふり向くと、目の前に相談所のホームページで見た顔があった。沙紀である。身長は一六〇センチほど。瞳が大きく欧米人と日本人のハーフのようなはっきりした顔立ちだ。髪は長く、肩の下でつややかに波打っている。
「緑川沙紀さんですか?」
「はい。今日はよろしくお願いします」
 襟もとがレース状のオフホワイトのノースリーブのワンピースを豊かな胸が突き上げていた。右手にサイズの小さなヴィトンのバッグを下げている。
「こちらこそよろしくお願いします」
 ラウンジのスタッフに案内されて、二人は窓に面した明るいソファで向き合った。テーブルの間隔が開いているので、周囲を気にせず会話ができる。賢介はホットコーヒー、沙紀はアイスティーを頼んだ。
沙紀は国内線CAだった。もともとは国際線に勤務していたが、JALとJASが統合した一九九〇年代にCAが増え、国内線に配置換えになったらしい。その経緯を恨みが混じった口調で語った。
自分のことを「沙紀ちゃん」と呼ぶことと、「ほんっとジャスッ子ってわかってないのよね」というJAS出身CAへの非難には閉口したが、会話は概ね盛り上がった。好みの映画が同じだったのだ。
彼女はロベール・アンリコ監督のフランス映画、『冒険者たち』が好きだと言った。賢介もくり返し観た作品だ。
真っ青なコンゴの海にジョアンナ・シムカスが沈んでいく水葬のシーンで賢介の目に涙があふれた。陽の光で輝くジョアンナがあまりにも美しかったのだ。十五歳で初めてこの映画を池袋の名画座で観た。あのとき、人は悲しい時だけではなく、美しいものを見た時も泣くのだと知った。
しかし、沙紀の好きなシーンはまったく違っていた。セルジュ・レジアニがクルマの中でニードルガンで打たれる拷問シーンに興奮するそうだ。
 結婚相談所では、一時間をめどにお見合いを切り上げるように指導されていた。長時間会話をしていると、おたがい気に入らない面がいろいろと発覚するからだ。最初はいいところだけを見てスタートしたほうが、交際につながりやすいという。
しかし、気づくと二時間半が過ぎ、夕食も一緒にとろうと青山へ移動した。初回の見合いで食事をすることは相談所の規約で禁じられていたが、黙っていればいい、と沙紀が言った。店は青山一丁目のツインタワー裏の路地あるイタリアンレストランにした。高級ではないが、スタッフが気持ちよく対応してくれる。特にテラス席は居心地がいい。天井までガラスで、夜は光の箱の中で食事をしているようだった。
 食事中も会話ははずんだ。
「石神君さあ、相談所に入って何回お見合いした?」
 前菜の真鯛のカルパッチョをフォークですくいながら沙紀が訊く。すでに沙紀は敬語を使わなくなっていた。彼女のほうがずっと年下だが、賢介のことは君付けで、会話は終始上から目線だ。
「今回が最初のお見合いです」
 丁寧な言葉で対応してしまう自分が、賢介は悔しい。
「ふうーん。沙紀ちゃんは、石神君で十人目」
「十人も!? 気になる人はいなかったの?」
 今度は丁寧語を使わずに話すことができて、少しだけ溜飲が下がる。
「沙紀ちゃんと合う男性、なかなかいないんだよねえ。でも、十人のうち五人はお見合いの後も会ったよ。ご飯食べにいったり、ドライブしたり。五人のうち沙紀ちゃんにブスッと刺した人は三人」
「ブスッと刺した?」
 沙紀が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
「だからさあ、沙紀ちゃんのアソコにブスッと刺したってこと」
「ああ……」
 どうやら十人の男とお見合いをして、そのうち三人とホテルへ行ったらしい。会ったばかりの相手にそこまで打ち明けるのは潔いのか。心を許しているのか。あるいは、賢介を誘っているのか。
ひょっとしたら、自分ともそういう流れになるかもしれない。そう思うと股間に血液が集中していく。
いや、これは見合いだ、初対面でそんなことになるはずはない。あわてて自分に言い聞かせる。

「石神君としてもいいよ」
 沙紀に言われたのは、帰路、タクシーの中だ。
 賢介は自分の耳を疑った。クルマは彼女が住む杉並区の阿佐谷に近づいていた。ドライバーが二人の会話に聞き耳を立てているのがわかる。
「だからあ、沙紀ちゃん、石神君にブスッと刺されてもいいかな、と思っているわけ。結婚相談所で知り合うとさ、デートを重ねて、気持ちを確認して、カウンセラーに報告して、手続きが大変でしょ? やっとキスしてエッチをして、その時初めて体の相性が合わないことがわかったら、ほんっと時間の無駄。その期間も会費を払い続けて、お金も無駄。無駄無駄無駄」
 合理的な考え方ではある。賢介も沙紀としたい。しかし、こんなにスムーズにことが運んでいいのだろうか。
今日はどんな下着を身に着けて家を出ただろう――。
賢介は出がけの記憶を手繰り寄せた。色は黒だった。ブランドこそラルフローレンだが、二年くらい着古したボクサーパンツだ。油断していた。
沙紀は上目づかいでまなざしを送ってくる。酔ってはいない。彼女も賢介もアルコールに弱く、食事の席ではガス入りのミネラルウォーターをボトルで頼んで分け合った。
「ほんとにいいの?」
 つい確認してしまう自分がふがいない。沙紀は無言でうなずき、手を握ってきた。緊張で賢介のてのひらが汗ばむ。再び下半身の血流が盛んになる。
結婚相談所を通してお見合いした女性だ。まさか美人局ではあるまい。刺青を掘った男の前で土下座をする自分の姿が頭の中に浮かぶ。あるいは、後で何か高価なブランド品を要求されることはないだろうか。よからぬ展開を想像しては消去する作業を頭の中でくり返した。
腕時計を見ると、すでに深夜〇時に近い。今から都心に戻ってチェックインできるホテルはあるだろうか――。
候補のホテルをいくつか思い浮かべる。高額ではなく、でもせこいと思われないレベルがいい。そこに向かうまでに沙紀の気が変わらないように、できるだけ近くだ。阿佐谷からだと西新宿だろうか。
賢介が行先を口にしようとしたその時、沙紀がドライバーに指示をした。
「阿佐ヶ谷駅あたりの停めやすいところで降ろしてください」
 しまった。気が変わったのか――。
タクシーが停まり、沙紀が降りた。賢介もあわてて後を追う。
「この近くのラブホにしようよ」
ふり向いた沙紀が思いもよらぬ提案をしてきた。
「ラブホテル?」
「沙紀ちゃん、ラブホが好きなの。エッチなことをするために入るあのうしろめさたで、体が熱くなってきちゃうの」
昔ながらのつくり豆腐の店と最近はやっているつけ麺チェーンが仲よく軒を連ねる線路沿いの路地を沙紀が先導していく。
深夜の阿佐谷に人通りはない。シャッターの降りたつけ麺屋の前、無造作に積まれた生ごみの袋を茶トラの猫があさっている。
 五分ほど歩き、沙紀が立ち止まった。そこは、築何十年だろうか、杉並とは思えない茶色いブロックを重ねた外壁のうらびれたホテルだった。ピンクに光るハートマークが毒々しい。
「ここ、沙紀ちゃんの定宿」
 賢介をレンガ造りの中にぼんやりと開いた入り口へうながした。
定宿? 「美人局」という言葉が再び頭をよぎる。
しかし、進まなければ親密な関係は生まれない。沙紀の後をついて、ロビーに足を踏み入れた。埃のにおいが鼻腔を刺激してむせそうになる。
「石神君、今日、沙紀ちゃんとできると思ってなかったでしょう?」
「うん」
「驚いた?」
「うん」
 部屋に入ると、沙紀が体を寄せてきた。バラの花弁を煮詰めたような香水のにおいが鼻腔を刺す。賢介は立ったままそっと口づける。舌を入れてもいいだろうか。いちいち躊躇する。まるで童貞の中学生だ。
思い切って沙紀の舌をさぐる。沙紀の舌も応じてきた。背中のファスナーをさがし、ワンピースを脱がせる。キャミソールの肩ひもをおろすと、黒いブラジャーに包まれた豊かな胸があらわれた。沙紀の左胸に右手をあてる。鼓動が伝わってきた。沙紀の心臓の動きも速い。自分だけが高揚しているわけではないことに賢介は安堵した。
左手で背中のホックを不器用にまさぐると、ブラジャーがバストにはじかれた。
「沙紀ちゃんのおっぱい、すごいでしょ?」
「う……、うん」
 自分もベルトを緩め、ラルフローレン一丁になる。
「垂れてると思った?」
 沙紀が賢介のシャツのボタンを上からていねいにはずしてくれた。
「垂れてるとは思っていなかったけど……」
 さらに進もうとすると、沙紀が手首をつかんだ。
「待って」
動きを止められて、賢介はお預けさせられている気分になる。沙紀の表情をのぞくと、意味ありげに微笑んでいる。
「あのね、沙紀ちゃん、ふつうのエッチはつまんないの」
 賢介の手首を握ったまま言った。
「えっ?」
「沙紀ちゃん、乱暴にされると感じるの」
 上目づかいにうったえる。
「乱暴って?」
 賢介は間の抜けた対応をしてしまう。
「部屋を引きずりまわしてくれるとかさ」
 甘い行為をイメージしていた賢介の期待は裏切られた。
「沙紀さん、一つ訊いてもいいですか?」
「何?」
「離婚歴、二回、ありますよね?」
「うん」
「やっぱりベッドでの相性が合わなかったの?」
「いろいろ。でも、体が合ったらほかの問題は乗り越えられたかも」
その言葉を聞き、賢介は後に引くわけにはいかなかった。
賢介は沙紀を全裸にして、自分もラルフローレンを脱ぐ。五分前までやる気満々だったものは力を失い、だらりと項垂れている。
沙紀に指示された通り、両手をつかんで湿ったカーペットの上を引きずり回す。白い素肌が汗ばんで赤くなり、ほこりや細かい糸くずがはりつく。
息を切らせて彼女を抱え上げ、ベッドに放り投げた。
「次は言葉がいいなあ」
 あらたな課題が与えられた。
「言葉、って?」
「言葉攻め、やったことないの?」
 沙紀は不機嫌な表情になるが、言葉攻めなど経験者のほうが少数派ではないだろうか。
「薄汚いメスブタめ! とか言えばいいのかな?」
「はあ……? 麗しい沙紀ちゃんをメスブタとか、勘弁してよね」
「ごめん……」
「ほんとに経験ないんだ?」
「うん」
 沙紀はしばし思案する表情を見せる。
「しかたないか……。お手本をやってあげる。いい? 一度だけだからね」
「はい」
 ベッドで仰向けになったまま沙紀は声色を変えた。
「お前はオレの大きいのがほしいんだろ! してください、とお願いしろ」
 沙紀が眉間にしわを寄せる。表情も厳しい。賢介は吹き出しそうになった。
「僕の、そんなに大きくないんだけど」
「そんなの、さっきからわかってるよ。はい、やって!」
 賢介は必死に沙紀の真似をする。やはり、笑わずにはいられない。その度に沙紀にダメ出しをくらう。もはやセックスとは思えない。
それでも、沙紀の大腿部の間は潤ってきた。準備ができたらしい。極太の陰毛が海の底で揺れる海藻のように光っている。
「オレの大きいのがほしいんだろ! してください、とお願いしろ」
 満を持して沙紀に教えられた台詞を浴びせる。
「し、て、く、だ、さ、い」
 沙紀がほんの少し前の強気な態度からは想像できない泣きそうな顔になった。
しかし、賢介のものは相変わらず力を失ったままだ。それを視界にとらえた沙紀は失望の表情になる。
「石神君、どうしてそんななの?」
「ごめん」
 賢介は謝ってばかりだ。
「ほんとうならばお口でしてあげたいところだけど」
「あっ、それ、してくれたら元気になるかも」
「でも、悪いけど、沙紀ちゃん、お口でするのは好きじゃないの。お口はお盆とお正月だけって、二十歳前から決めてるの」
 今度は賢介が失望した。
「手でしてあげるから、自分で想像して」
 沙紀に言われて、賢介はまずしい性体験の中から甘い夜の記憶を必死にたぐり寄せる。思い出すのはどれも、それぞれの女性との最初の夜だった。
かろうじて力を感じてきたところで、沙紀に、ブスッとまではいかないが、ぬるりと差し込む。気合を入れて腰を使うと、さびたベッドの「キッ」と沙紀がもらす「ひっ」の二重奏が始まった。賢介は笑いそうになるのを必死でこらえて、行為に集中することに努めた。気持ちが緩むと、下半身が力を失う。
 乳房が上下に揺れ左右にこぼれると一サイクル。それが四十サイクルになろうという時だった。沙紀が下から哀願した。
「クビ……、シメテ……」
「えっ?」
「クビ……、シメテ……」
 頸、絞めて、と言っているらしい。
「……できないよ。加減がわからない」
「大丈夫だから……」
「勘弁してよ。危ないよ」
「お願い……」
 おそるおそる、賢介は沙紀の頸に両手をかけた。
「もっと強く……」
 少しだけ力を加える。
「これ以上は無理だよ」
「お願い。もう少し強く……」
 さらに力を加える。頸が赤みを増し、沙紀の顔が白くなったように感じる。怖くなってきた。
「ここまでで、許してください」
 そのときだった。沙紀が獣のように腰を使い始めた。尻を思い切り引き、突き上げる。レスリングのブリッジのような姿勢だ。賢介のものが深くまで達すると、沙紀は時計回りに腰をくねらした。
賢介は沙紀の中で放出しそうになり、必死で耐える。すると、沙紀が腰を引き、反動をつけてまた突き上げる。賢介は反射的に彼女の頸を強く絞めそうになり、あわてて手を放す。沙紀はあらがい、賢介の髪を両手でかきむしるようにして引き寄せた。
二つの体が密着する。汗ばむ体が上下にすべる。沙紀はさらに激しく腰を振り、賢介を逃がさないように両脚で腰をはさんだ。そのまま賢介のものを絞るように出し入れさせる。賢介も彼女の動きに合わせて必死で腰を動かす。あとはあっという間だった。

 力を使い切った二人が短い睡眠をとり、それぞれがシャワーを使って外へ出た時には、空は白々と明けていた。駅前のロータリーにある大木で雀がさえずっている。マクドナルドでは十代の男性アルバイトが開店の準備をしていた。
「オレ、不合格だね」
 賢介は申し訳ない気持ちになった。
力を合わせてひと仕事をやり遂げたからだろうか。沙紀とは昨夜会ったばかりの関係とは思えない。渋谷のホテルのラウンジで見合いをしたのが、何か月も前のようだ。
「まあねえ……。合格とは言えないかな。石神君のエッチってさあ、空から天使がひらひらと降りてきて翼で包み込んでくれるみたいなんだよね」
「天使がひらひらひら……か」
「優しくしてくれるのはうれしいんだよ。でも、沙紀ちゃんにはもの足りないかな」
「ごめん……」
 賢介はまた謝ってしまう。
「もう一度試したら上手にやれそう?」
「……難しいかな……」
「……だよね。おたがいまた違う相手を探すしかないかもね」
 沙紀がさりげなく賢介の手を握ってきた。
「さっきのホテル、阿佐ヶ谷駅のホームから見えるんだよ。石神君、電車で通るたびに、沙紀ちゃんのこと、思い出しちゃうよ」
 にっこりと微笑みかけてくる。
「思い出しちゃうかな?」
「絶対に思い出すよ。その時、石神君、きっと思うよ。沙紀ちゃん、いい女だったなあ、って。惜しいことしたなあ、って」
 数時間前に言葉攻めを強要してきた女とは別人のようにかわいい笑顔だ。
「そうかな……」
「じゃっ、元気でね!」
 沙紀が手をほどいた。
早い時間に出勤するサラリーマンが一人、二人と改札へ向かっていく。駅の構内を抜けて反対側の商店街のほうへ去る沙紀の後姿を見送り、賢介も改札に向かった。