水泳部の夏休みの練習は、朝九時の準備体操から始まる。
水に入ると、それぞれ自分のコンディションを確かめながらのウォーミングアップで、ゆっくり二〇〇メートルを泳ぐ。その後、四〇〇メートルを五本、五〇メートルのキックを二十本、五〇メートルのプルを二十本、二〇〇メートルを十本、一〇〇メートルを二十本、五〇メートル二十本を二セット泳ぎ。最後はクールダウンで、体をほぐしながら二〇〇メートル。これが一日の練習の骨格をなすメニューだ。キックはビート板を使って脚で進む練習、プルは両脚の間にビート板を挟んで腕で進む練習である。上半身と下半身を別々にフォームを矯正する。
 水泳の練習は単調になりがちなので、「スロウ&ファスト」や「ラング・バスター」といった負荷の大きい練習も加えられる。スロウ&ファストは往きの二五メートルはゆっくり、帰りの二五メートルを速く泳いでペースアップを体に覚えこませる。ラング・バスターは呼吸の回数を六ストロークに一回とか八ストロークに一回に減らすことで心肺機能を強化する。英語で「ラング」は肺、「バスター」は破壊の意味だ。
練習は途中に一時間の昼休みを挟み、毎日夕方五時くらいまで続いた。午前はみんな比較的元気だが、昼食後は疲労で口数も少なくなる。
 長距離や短距離、プルとキック、選手には得手不得手はあるが、誰もが顔をゆがめるのが一日の最後に待っているインターバルトレーニングだ。
五〇メートルを一分サークルで二十本二セット、計四十本泳ぐ。一本を一分以内に泳ぎそれをくり返すことを一分サークルといった。つまり、三十秒で泳いで来れば、次の一本まで三十秒間休め、四十秒で泳げば二十秒休める。
 このインターバルトレーニングは二セット目の二十本が特に苦しい。制限タイムが課せられるのだ。青木に「制限三十二秒」と命じられたら、二十本すべて三十二秒以内で泳がなくてはいけない。制限タイムをオーバーすると、その一本は泳いだ数に加えてもらえず、トータルの本数が増える。増えた分を僕たちは「利息」と呼んでいた。
 誰だってコンディションの悪い日はある。僕は二十本泳いだ時点で利息が二十本加算されたことがあった。一本も制限タイムを切れなかったのだ。がっくりして空を仰いだ。その日、一セット目からのトータルの本数は八十本を超えた。
 夏休みに入り練習量は増えたものの、僕のタイムはなかなか縮まらなかった。キックが弱いからだ。足首の関節が硬いために可動域が狭く、効果的に水を蹴ることができない。
蹴る水の量が少ないと、下半身が沈む。すると、姿勢を水平に維持できず、体が斜めになり、上半身で水の抵抗を大きく受けてしまう。それが、背の低さや手足の短さと相まって自由形の選手としてはマイナス要因になっていた。
 姿勢を安定させるために、青木は自由形専門の僕と堀内にはキックの練習を多めに与えた。これがつらい。クロールの主な推進力は腕なので、脚だけではなかなか前に進まない。
平泳ぎの選手と並んで泳ぐ時は最悪だった。平泳ぎはクロールとは逆で、脚で進む泳法だ。膝から下、ふくらはぎを尻に向かって目一杯引き、脚の内側の広い面積で水をとらえて蹴る。平泳ぎの選手たちは、自由形の選手がビート板にしがみついて水飛沫をあげながら必死に脚を動かしているのをあざ笑うかのように、効率よく水を蹴って前へ進んだ。
 堀内はビート板に体をあずけ、キックを打ちながら、いつも意味不明の声を上げていた。
「アワワワワ……、グブグブグブグブ……」
 口に水が入るらしく、吐く息で押し戻しながら進んでいるのだ。押し戻す水の量によって声は変わる。
さらに、よほど苦しいのか、あるいはキックの練習を恨んでいるのか、泳ぎながらビート板をかじった。
今にも泣きだしそうな表情でビート板をかじる様は断末魔の河童を想像させた。毎年夏休みを迎える頃には、水泳部のビート板は一枚残らず堀内の歯の形に欠けていた。

「石神!」
 夏休みに入って一週間が過ぎた七月の終わり、アップを終えてキックのためにビート板を取りに行こうとすると青木に呼ばれた。
「はい!」
 あわててビート板をつかみ、プールサイドのデスクで練習メニューをチェック中の青木のほうに小走りで向かう。
「ビート板はなしでいい」
 思いもよらぬことを青木に言われ、立ち止まる。
「えっ?」
「お前は今日から別練習だ」
 青木の横には圭美が立っていた。入部して一週間で、顔も、Tシャツから伸びた腕も、短パンの下の脚もきれいに陽焼けてしている。
「別練習って、何やるんですか?」
「腕と脚のコンビネーションだけにする」
「キックはいいんですか?」
 大嫌いなキックだが、やらないのは不安だ。
「東京都大会まで一か月を切った。今のフォームのまま腕に力をつけてスピードアップしよう」
「はあ……」
「今日からは上半身の力で体を引っ張っていく意識で泳げ。キックは下半身が沈まない程度に軽く打てばいい。いいか、お前は疲れてくると、水中で肘が落ちて、てのひらだけでかこうとする。それでは水をしっかりとキャッチできない。上腕全部を使って水をとらえることだけ考えろ」
 キックの練習を憎んでいる堀内がうらやましそうな表情をこちらに向けている。
「なんだか、不格好な泳ぎになりそうですね」
 僕はサーフィンのパドリングのようなフォームで泳ぐ自分の姿をイメージした。
「気にするな。お前のフォームは、今のままだってお世辞にもカッコいいとはいえない。ただし、キックが弱いままで二〇〇以上のレースは戦えない。中距離は捨てて一〇〇にしぼろう。練習試合では二〇〇と四〇〇もエントリーはする。でも、いつも一〇〇を意識して泳げ。お前が全国大会に行く可能性があるのは、一人一〇〇メートルずつを四人で泳ぐ四〇〇メートルリレーだけだ」
「はい」
「練習するコースも変える。一番端の第一コースに移動しろ。内容は、午前に五〇メートルのインターバルを一〇〇本、午後にも一〇〇本。続けてではなく、一分サークル二〇本を五セットずつだ。もう一度言うぞ。前腕ぜんぶを使って水をキャッチして、キックは腕のストロークに合わせて軽く蹴るようにしろ」
「はい」
「それから、五〇メートルを二〇〇本も泳ぐと飽きる。単調だからな。とにかく集中が途切れないように心掛けろ」
 そう言って、青木は傍らに立つ圭美に顔を向けた。
「星野、しばらく、一コースで石神について、二〇〇本全部タイムを測れ。集中力が切れて遅くなってきたら、オレに報告しろ。それが今日からの仕事だ」
「あっ……、はい」
 圭美は少し驚いた表情を見せた。