「マネージャーの星野さん、きれいだね」
練習の後、Tシャツを着てプールにカルキーを放っていると、秋吉が話しかけてきた。僕の持つビニール袋に横から手を突っ込み、自分もカルキーをつかんで投げる。
塩素を白いラムネ玉状に固めたカルキーは、水に沈むと少しずつ溶けてプールを浄化する。
僕は、練習後にカルキーを投げるのが好きだった。白い塊が水の中で形をくずしながら沈んでいくのを見ていると、厳しい練習で張りつめていた心がゆっくりとほどけていく。
「ああ」
 カルキーを手にしたまま秋吉を見る。
「石神君が誘ったの?」
「まさか。夏休み前に向こうから言ってきたんだ。それまでは一度もしゃべったことないよ」
「そうなんだ……」
たくましい上腕や広背筋を持つ秋吉は身長が一七〇センチ近くあり、横を見るとほとんど僕と同じ目線だ。阿佐高水泳部でただ一人の個人メドレーの選手だった。「個(こん)メ(め)」とも言われる個人メドレーは、一人で、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、クロールとスイッチしながら泳ぎ、タイムと順位を競う。

秋吉のことを野波は陰で「鋼鉄女」と呼んでいた。
一年生の時、練習後に野波と一緒に秋吉の家に行ったことがある。
その日、僕たちは阿佐ヶ谷駅前の「エル」というパーラーに入ったものの、ふところがさみしくて、コーヒーゼリーだけでがまんしていた。コーヒーゼリーは、ゼラチン状に固めたコーヒーの上に生クリームがのった洋菓子で、エルのそれは他店よりもかなり量が多い。
「野波、腹減ったなー」
「オレもぺこぺこだ」
 隣のテーブルで大学生らしいカップルが食べているスパゲッティナポリタンがうらやましくてしかたがなかった。
「だから、牛丼屋にしようって言ったじゃないか。コーヒーゼリーなんていくら食べても腹はふくれない」
「なんだよ、石神、お前の空腹はオレのせいか?」
「秋吉の家に行こう」と言い出したのは野波だ。秋吉の家は阿佐ヶ谷駅から徒歩で行かれる住宅街にあった。野波は堀内と訪れたことがあり、その時、秋吉の母親が出前のカツ丼を頼んでくれたという。
野波はなけなしの十円玉でエルから秋吉の家に電話をして「背泳ぎの入水のことでアドバイスがほしい」と頼んだ。もちろん口実に過ぎない。野波も僕も背泳ぎはやらない。それでも快く応じてくれた秋吉の家に一時間ほど居すわり、僕たちはねらいどおりカツ丼にありついた。
その時通された秋吉の部屋には、鋼鉄のダンベルや鉄アレイがごろごろ転がっていた。秋吉が一人でダンベルを持ち上げている姿を想像して、野波と僕は顔を見合わせた。
「秋吉、お前、家でこんなの振り回してるの?」
 僕は四キロの鉄アレイを握り上下してみる。傍らでは野波がやはり物珍しげにダンベルを試している。
「けっこう重いな」
 野波がつぶやく。
「水をかく力がつくよ。二人もやりなよ」
 「やりなよ」と言いながら、その口調は「やれ!」というトーンだ。
 それ以来、野波は秋吉を鋼鉄女と呼んでいた。
 秋吉のクロールのフォームは芸術的だった。体の軸が安定していて、ピッチを上げてもまったく姿勢が崩れない。
秋吉のフォームが美しいのは、足首が軟らかくて水をしっかり蹴ることができるからでもあった。下半身が浮くことで上半身も安定し、水面をすべるように進む。
練習後の遊びで、水を入れた小さなコップを秋吉の背中に置いてクロールを泳がせたことがある。水面にぽっかりと浮いた背中はまったく沈むことなく、コップの水がこぼれることもなく、片道二五メートルのプールを移動した。

「星野のことで何か気になるの?」
 僕は秋吉に訊いた。
「特にはないけど……」
彼女はそっと目をそらした。
秋吉は華やかなタイプではないが、整った顔をしている。クールな見た目のとおり、人に媚びるところがまったくない性格で、後輩からもリスペクトされていた。
どんなに練習が厳しくても表情一つ変えず、黙って泳ぎ続ける。
 僕たちは並んでカルキーを投げ続けた。
高校生とは思えないほどいつも毅然としている秋吉でも、恋をすることはあるのだろうか――。
ふとそんなことを思った。
誰かを好きになって苦しむ彼女の姿を思い浮かべようとしたが、まったくイメージできなかった。
「石神君、星野さんのこと、何も知らないのに水泳部に連れてきたの?」
 秋吉はあきれたような視線を向けてきた。
「うん。なあーんにも。オレ、教室ではずっと眠ってるから、クラスのことはほとんどわからないんだ。水泳部のマネージャーになりたいって言われた時も、すぐに気が変わると思ってた。そしたら、今日校門の横に星野がいたんだ。秋吉は星野と 同じクラスになったこと、あったっけ?」
「ううん」
「そっか。まあ、三年の女子同士、面倒見てやってよ」
「うん……」
 カルキーの袋がからになった。秋吉は僕にまだ何か言いたそうだったけれど、それでも笑顔をつくって女子の部室に着替えに行った。