東京都大会二日目の最終種目、四〇〇メートル自由形リレーの招集がかかり、僕たちは素肌の上にジャージを着て召集所として設営されている黄色いテントに集まった。
リレーのオーダーは、堀内、津村、野波、僕。いつも通り、持ちタイムの速い順だ。
召集所で、僕は、津村がいつもの津村ではないことに気づいた。
表情がさえない。あの、ちょっと傲慢にも感じられる自信が津村の表情からうかがえないのだ。個人種目のレースで泳いだ疲労から回復していないのだろう。
「津村……」
 近づいて、堀内と野波に聞こえないように小声で声をかけた。
 ふり向いた津村は、しかし、すっと視線をはずした。
「どうした?」
 やはり小声で訊く。
「心配するな」
津村は迷惑そうな表情を足もとへ向けた。明らかに疲労が回復していない。二日目の一〇〇メートル平泳ぎも全国大会行きを決めていたが、プログラム上、そのレースを終えて時間が経っていなかった。
自由形の個人種目とリレーは重複して出場する選手が多いので、疲れがとれるように時間を開けてプログラムが組まれる。バタフライや背泳ぎも自由形に次いでメンバーがリレーと重なるので、個人種目からある程度時間が開くように配慮される。その結果、どうしても平泳ぎはリレーとの間隔がせまくなってしまう。
だから、リレーメンバーに平泳ぎ専門の選手がいるチームは不利だ。一〇〇メートルの平泳ぎを全力で泳いですぐのリレーはベストコンディションで臨めない。
「石神、気にするな。水に飛び込めば問題ない。お前は自分のタイムを縮めることだけ考えろ」
 津村は強がるが、表情はさえない。
 僕たちのすぐ横では弥生高のメンバーが肩を回したり、腕のストレッチをしたり、レースの準備に余念がない。弥生高は佐久間をはじめ四人全員が自由形専門の選手で、十分に準備ができている。
「石神さん、一緒に全国大会へ行きましょう」
 佐久間が挨拶にきた。いつも気持ちのいい男だ。
 係員から呼び出しがかかり、僕たちはスタート台へ向かった。十コースあるプールの、阿佐高は第三コース、弥生高は第四コースだ。
 ジャージのままスタート台の前に移動し、第四コース担当の計時員二人に会釈をした。
この年、東京都大会で初めて電光掲示板が設けられ、タイムが百分の一秒まで表示されるようになった。電光掲示板はスタート合図のピストルと連動して作動する。しかし、ゴールは計時員が手動のストップウォッチを押す。デジタルとアナログが融合された中途半端な状況だった。
参加校とオーダーがコールされる。
「第三のコース、都立阿佐谷高校、堀内君、津村君、野波君、石神君」
 スタンドの自陣が応援でわく。そちらへ向かって、僕たち四人は大きく手を振る。この時は津村も表情をくずした。
自陣の一番前で腕を組む青木の横に圭美の姿が見えた。昨日寄った喫茶店で「賢介はもっと強い賢介になるんだよ」と言った。あのときに彼女が見せた顔がよみがえる。人を好きになるということはこれほどまでに力になるのか――。圭美と出会えた喜びをかみしめ、しかし同時に自分の単純さを滑稽にも感じ、口もとがほころんだ。
「石神、なににやにやしてんだ。大丈夫か? しっかり泳いでくれよな」
 野波がジャージの上から僕の腹に軽く少林寺拳法のスタイルで突きを入れる。
「お前こそ、トイレはすませてきたんだろうな」
 僕は野波の尻に膝蹴りを入れる。
「今日はたっぷりと出してきたぜ」
 野波が大胸筋を上下させた。リラックスしている様子だ。
 第一泳者の堀内だけがジャージを脱いで立ち、あとの三人はスタート台から少し離れたパイプ椅子に座った。
 レースのスタートを告げる笛が鳴った。堀内がスタート台に上る。自慢のベストパンツはつるつるで、肌が透けている。
「位置について」
「よーい」
 東京都の高校の全水泳選手が集まる広い会場に響きわたるピストル音とともに十人の選手がスタート台を蹴り、電光掲示板が動き始めた。
上から見る限り、堀内は好調だ。力強い腕のかきで先頭を泳いでいる。
隣の第四コースを泳ぐ弥生高は安定して全国大会の標準タイムを切っているので、これ以上ないペースメーカーだ。弥生高に勝つか競り合えば、全国行きを期待していいだろう。堀内は五〇メートルのターンをしたところで、弥生高の第一泳者よりも体一つ先行している。
第二泳者の津村がジャージを脱いでスタンバイする。スタート台に上がって、二回、三回……、軽く跳躍した。
堀内が近づいてくる。
津村がスタートの体勢に入る。
堀内が壁にタッチする。
同時に津村が跳び込んだ。
いつもの通り、水の抵抗を感じさせないバランスのいい泳ぎで津村が進んでいく。
堀内は肩で息をしながらも満足そうな表情だ。すべてを出し切ったのだろう。
「お疲れさん!」
僕が水から上がろうとする堀内に手をさし出すと、激しく拒否された。
「筋力は全部レースに使え!」
 睨むようにして自力で水からよじ登ってきた。
 五〇メートルを折り返したところで、津村のペースが明らかに落ちた。やはり疲れをためていたのだ。津村は個人種目の平泳ぎのレース前のアップで一度体をつくっている。しかし、その後、リレーまでに時間が少なく、十分な休息もとれず、アップもできていない。弥生高の第二泳者に抜かれ、反対隣の第二コースの選手にも追いつかれた。
「津村!」
堀内が叫ぶ。
第三泳者の野波がジャージを脱いで、スタート台に上がる。
「堀内、石神、オレのクロール、よく見てろよ」
 野波がふり返って言った。さっきまでのこの男とは別人のような目だ。
 津村が力をふりしぼって帰ってくる。最後の五メートルで、津村はさらに二人に抜かれた。
野波がスタートの動作に入る。そして、津村が壁にタッチした瞬間に跳んだ。
 堀内がすぐに津村に手をさしだし、水から引き上げる。
「すまん、抜かれた」
 津村が青みがかったくちびるをかみしめる。こいつがこんなに悔しがる姿を初めて見た。
水泳のセンスに恵まれた津村は、三年のこの日まで泳ぐたびにタイムを縮め、勝ち抜いてきたのだ。
「野波と石神が取り返してくれるさ」
 堀内が津村の肩に手を当てる。プールに目を戻すと、野波が競っていた。右隣とも、そのさらに隣とも、競っていた。そして、少しずつだけど、先行しつつある。
野波は一年生の時からずっと平泳ぎを泳いできた。一日一万メートルを超える練習をこつこつと続けてきた。しかし、三年の夏休みにクロール主体の練習に切り替えた。平泳ぎで伸び悩んだのだ。競ったら勝てない、という勝負弱さも指摘された。それでも心をくさらせることはなかった。気持ちを新たに、全国大会へ進む可能性のある四〇〇メートル自由形リレーにかけたのだ。
決心のきっかけが、今泳ぎ終えた第二泳者の津村だった。津村と毎日隣のコースで練習することで、野波は自分の限界を知った。
 しかし、転向したクロールでリベンジをしようとしている。平泳ぎに、そして自分自身にリベンジしようとしている。競って、競って、一人抜き、今二人目も抜いた。五〇メートルのターンをしたところで、三人目も捕まえた。
「野波! 来い! 来い!」
 興奮した堀内がプールに乗り出してこぶしをふるい、計時員から注意を受けた。
 ついに野波は三人目も抜いた。前を泳ぐのは弥生高の第三泳者だけだ。全国大会の制限タイムを安定して切っている弥生高に勝てば、阿佐高にも可能性がある。
 隣の四コースで、佐久間がジャージを脱いだ。
「石神さん、先に行きますよ」
 そう言って、落ち着いた動作でスタート台に上がった。
 続いて僕もジャージを脱ぐ。
スタート台に上がると、体中がひりひりするほど高揚した。思わず、右手のこぶしを握り、左のてのひらをパン! と叩く。
 弥生高の第三泳者を追って野波が帰ってくる。まるで獲物を狙うシャチのようだ。差は体一つ半。近づいてくる野波の力泳を見て、涙があふれそうになった。
水泳は個人競技だ。チーム戦のリレーも、泳ぐときは一人。誰の助けも得られない。しかし、前を泳ぐ選手の気迫や勇気は、絶対に次の選手に引き継がれる。
 隣のコースの弥生高の第三泳者が壁にタッチし、佐久間が飛び込んだ。続いて野波の手が壁に近づく。僕は野波の手のかきを目で追い、思い切り跳んだ。
一回、二回、水中でドルフィンキックを打つ。
 体が水面に浮かぶと、いつも通り、左右二回ずつ交互に大きくバタ足を打ち、姿勢を安定させる。
 ひとかき、ふたかきして、上目づかいに前を見ると、隣のコースの佐久間の陽焼けした脚が力強くビートを打っている、そこだけ真っ白い足の裏が、ひらひらと、まるで僕を誘うように水を蹴っている。
 逃げる佐久間。追う僕。練習試合の四〇〇メートル自由形とは逆の展開である。佐久間を捕まえることが、全国への切符を捕まえることだ。
 腹筋、背筋、キック……。自分のフォームを頭の中で点検していく。
イメージ通りだ。入水を確認する。少し甘い気がする。もっと肩を突っ込み、遠くの水をつかみたい。
 入水を遠くに持っていくと、ストロークの度に右半身、左半身それぞれに体重がかかり、体が大きくローリングする。その時、背骨から腰の軸がぶれると水の抵抗を大きく受ける。泳ぎがくずれないように、もう一度腹筋を強く意識する。手を伸ばした時に腹がねじれる感覚が心地いい。
 水色のプールの底に僕の影が波を打って映っている。僕の影も必死に水をかいて進んでいる。
〈腕が引きちぎれても、心臓が破裂しても、全力で行けよ〉
 自分の影を叱咤した。
 前方に意識を戻すと、佐久間の脚が近づいている気がした。
二週間ほど前は、佐久間のほうが速かった。四〇〇メートルで僕が勝ったのはスタートとターンの技術の差だ。その佐久間に近づいているということは、僕の状態がいいということだ。
 濃い青の向こうから壁が近づいてきた。間もなく五〇メートルのターンだ。
長水路、つまり五〇メートルのプールで一〇〇メートルを泳ぐので、僕が得意とするターンは一回だけ。この一回を最高の状態で折り返したい。
利き腕の右手で水をつかみ、思い切り体を返す。わずかに膝を曲げる。足の裏が壁に当たった。理想的な感触だ。顎を引き、両手を伸ばし、思い切り壁を蹴る。体を包む水が心地よく後ろに流れていく。
目線を右に向けると、佐久間の脇腹があった。ターンで一気に体半分差まで迫っていた。
 あとはただ水をつかみ、力の限りかくだけだ。
〈前へ、前へ〉
〈もっと遠くへ手を伸ばせ〉
〈もっと遠くの水をつかめ〉
 クロールの基本を頭の中で反芻して進んでいく。
〈オレは水だ〉
 水と自分の体が同化していくのを感じる。
ゴールまで一〇メートルを教えるコースロープの赤いブイを通過した。
〈壁にタッチした時にはすべての力を使い果たした状態でいたい〉
強烈に思った。
呼吸は四ストロークに一度。水面から顔を上げると、水飛沫の彼方に、一瞬、スタンドの自陣が見えた。
そこには青木がいた。青木の横でこぶしを握って声援を送る圭美の姿もあった。
〈ありがとう〉
 心から思った。青木がいなければ、圭美がいなければ、自分をここまで追い込むことはできなかっただろう。
 ラスト五メートルのラインを過ぎた。
限界まで手を伸ばす。力いっぱいかく。
そして、右手でゴールの壁を思い切りタッチした。視界に入った佐久間より一瞬早く壁に触れたことがわかった。
 顔を上げ、反射的に電光掲示板を見る。
まだ表示はない。
やがて、数字が表示されたが、陽の光がまぶしくて判読できない。
上を見ると、堀内がこちらに向かってガッツポーズを見せた。
野波が手で大きく「55」と示した。三分五十五秒ということだろう。
全国大会への切符を手に入れた。コースロープを挟んで、やはり標準タイムを切った佐久間とおたがいをたたえ合う。
 係員に早くプールから上がるように促されたが、力を使い果たした僕はなかなか壁をよじ登れなくて、津村が右手を、野波が左手をつかみ、引き上げてくれた。
その横で、堀内がくしゃくしゃの笑顔で自陣に手を振っていた。