津村がどんどん加速していく。
五〇メートルのターン、七五メートルのターン……、まったく衰えない。無駄のないフォームだ。呼吸をするために顔を上げる時、津村の腰はほぼ直角に曲がり、上半身が垂直に立つ。そして、スピードにのったまま一〇〇メートルのタッチをした。
ストップウォッチを持つ二年生の健康優良児系マネージャーをみんながいっせいに見る。
「一分十五秒三。津村先輩、自己ベストです!」
 健康優良児がプール全体に聞こえるように叫んだ。
「オー!」
 感嘆の声とともに全員が拍手する。
 この日の津村は驚くべきコンディションで、練習中に自己ベストを三度も更新した。一〇〇メートル平泳ぎの全国大会出場の条件、一分十四秒にかなり近づいてきた。スタート台から飛び込まずに、しかも、さんざん泳いで疲労した体で自己ベストを更新するのは、泳ぎが驚異的に進歩している証拠だ。
 東京都大会まで十日を切り、水泳部は試合へ向けての調整期に入った。午前中はしっかり泳ぎ、午後はスタート、ターン、リレーの引継ぎなどの精度を上げる練習が中心になった。
徐々に泳ぐ量を減らし、体から疲労を取り除くことで、本番でベストコンディションになるように仕上げていく。それに伴って練習内容もレース本番をイメージしたダッシュ系が主になっていく。そのダッシュで、津村は自己ベストを更新した。
 東京都大会では、各部員、全国大会をねらえる種目だけに出場することになった。津村は、一〇〇メートルと二〇〇メートルの平泳ぎと四〇〇メートルリレーにエントリーした。堀内と野波と僕は四〇〇メートルリレー一本にしぼる。全国大会の可能性がない個人種目は出場せずに、気持ちも体力もリレーに集中するためだ。

 小便をしにトイレへ行くと、先客がいた。津村だ。景気のいい音をたてている。自己ベストがでると、小便の音も違って聞こえる。
「津村、ベスト、よかったな。練習で更新なんてすげえよ」
 僕も自分のものを引っ張り出して、小用を始める。こっちの音がしょぼく聞こえるのは気のせいだろうか。
「ああ……」
 津村は自分の放尿の行方をじっと見つめ、ぼそっと反応した。
「この調子なら、個人種目で全国、行けるんじゃないか」
「ここ一週間の調整次第だな」
 小便の落下点を見たまま津村は答えた。
「午後は体を休ませろよ。パチンコは自粛しろな」
 念押しすると、津村は最後のしずくをふり落し、僕のほうを見てにやりとした。
「石神、お前はヒラを泳いだことあるか?」
 唐突に訊いた。
「そりゃ、クロールの選手だって、時には平泳ぎもやるさ」
「いや、そういうんじゃなくて、本気でヒラを泳いだことはあるか?」
「試合で泳いだことがないからなあ……」
「そうか……。石神、一度本気で泳いでくれ。ヒラはいいぞ。すごくいい。石神にもわかると思う」
「お前は、平泳ぎが好きだからな」
 津村は同期の中では最後、一年の秋に入部して以来、平泳ぎ専門で練習を重ねてきた。リレーではクロールを泳ぐが、クロールの練習は最小限しかしない。それでも速くなる一方なので、誰も文句は言わない。
「石神、ヒラの腕のかきが何拍子か、知ってるよな?」
「三拍子だろ。一で水をかいて、二で肘をしめて、三で伸びる」
「そうだ。二で肘をしめる時に水の上に顔を上げて、呼吸をするだろ。あのとき目の前の水面に、ぼこって水が盛り上がるんだ。わかるか? それが、ものすごくきれいなんだ。光を反射して、水のかたまりがいろいろな色になるんだよ。瞬間だけど、小さな虹が見えることもある。興奮する」
「津村、泳ぎながらいつもそんなこと思ってるのか」
「まあ、もちろんフォームは気にしているけれど、時々、自分が練習していることも忘れそうになるくらい、水の光はきれいなんだ。しかも毎日変化する。毎日新しいんだよ。スピードに乗ってくると水が柱のように高く盛り上がる。オレはその水柱に顎を乗せるイメージで泳ぐんだ。肘をしめて、ぼこっと盛り上がった光の水柱に顎をのせる。すると、水がオレの体をどんどん前に運んでいってくれる。あれを体験すると、ヒラをやめられなくなる。オレは全国大会のプールで、光る水柱を見たい」
 こいつはほとんど黙ったまま、こうやって毎日の厳しい練習を乗り越えてきたのだ。
「津村は平泳ぎで全国行かれるよ」
 僕はさっきと同じことをもう一度言った。
確信に近かった。