弥生高での練習試合のリレーは勝てなかった。第四泳者の野波が本来の力を発揮できなかったのだ。トイレから戻った直後とはいえ、泳ぎに問題はなかった。しかし、あわてていたので水着をきちんとはかないままプールに飛び込み、水の中を進みながらずり下がった。
脱げるのを恐れた野波は水中で素早く回転するクイックターンではなく、平泳ぎやバタフライと同じ水面から顔を上げ水の抵抗の大きいオープンターンを使い、壁を蹴る度に手で少しずつ水着の位置を直した。その結果、ターンの度にほかのチームに差をつけられたのだ。各校のAチームに引き離されたばかりか、Bチームにも抜かれそうになった。
それでも、堀内と津村と僕は自己ベストを更新して、いい状態で東京都の公式戦に臨めそうだ。
特に今季初めて自己ベストを記録した堀内のはしゃぎようといったら大変だった。試合後の更衣室では久しぶりにベストパンツにキスをした。
試合の翌週の日曜日、日比谷のみゆき座で、僕は圭美と映画を観た。公開したばかりの『ラスト・ワルツ』という作品だった。アメリカのロックバンド、ザ・バンドの解散コンサートを撮影したドキュメンタリーだ。監督は二年前に『タクシー・ドライバー』を世界じゅうでヒットさせたマーティン・スコセッシである。
日比谷の映画街の中でも、女性向けの上映が比較的多いみゆき座は初めてだった。そもそも僕にとってロードショー劇場は敷居が高かった。水泳部にいるとアルバイトをする時間もない。お金がないから、みゆき座のような大きな劇場ではなく、入場料の安い名画座で二本立てや三本立てばかり観ていたのだ。
映画に圭美を誘う電話をかけるのに、僕は汗でTシャツが体に張り付くほど緊張した。
圭美の家に電話をするのは初めてだった。水泳部のほかの女子にも、部の連絡事項以外では電話をかけたことはない。
「映画のチケット、二枚、もらったんだけど、日曜日に付き合ってくれないかな」
たったこれだけの用件を言うためにせりふを紙に書き、自宅近くの公園で何度も予行演習をした。チケットを二枚もらったというのは、もちろん嘘だ。圭美と一緒に観るためにプレイガイドで買った。
自宅から電話はできない。うちの電話機は玄関にあり、話し声が家じゅうに響く。
僕はてのひらからこぼれそうな数の十円玉を握りしめ、夜、近所の煙草屋の前にある電話ボックスへ出かけた。
しかし、いざ電話をかけようとすると、緊張でダイヤルが回せない。水泳の公式戦ですら経験がないほど、口の中がからからに乾いた。
東京二十三区間への電話番号は七桁だったが、ダイヤルを六桁まで回してはやめる。また六桁まで回してやめる。それを情けなくなるほどくり返した。
〈圭美の親父がでたらどうしよう……〉
それを思うと、ダイヤルの最後の一桁をまわせないのだ。時間が遅くなるほど、父親が在宅している確率は高まる。圭美には兄もいる。木下と親しいはずだ。それを思い出して、ダイヤルをまわす指が震えた。
結局、公衆電話の前に一時間以上いた。僕がぐずぐずしている間に五人が電話をかけにきて、その都度順番を譲った。
ようやくダイヤルを回し、受話器から響く声が圭美だとわかった時には、喜びと安堵で、それだけで目的が果たせた気がした。
「映画のチケット、二枚、もらったんだけど、日曜日に付き合ってくれないかな」
何十回もリハーサルを行ったせりふなのに、棒読みするようにして圭美を誘った。
僕が選んだ『ラスト・ワルツ』はたぶんデートにはふさわしくない。でも、ヒット中の『サタデー・ナイト・フィーバー』や『キタキツネ物語』のような映画を好んで観るタイプだと思われたくはなかった。それに、僕は『ラスト・ワルツ』で ザ・バンドが演奏する「ウェイト」や「イット・メイクス・ノー・ディフェレンス」のような埃っぽいアメリカンロックが好きだった。
圭美とは新宿駅で待ち合わせて、地下鉄丸ノ内線で銀座へ出て、日比谷まで歩くルートを選んだ。往きの電車でも、映画館でも、会話はほとんど圭美がリードした。
「賢介、映画はよく観るの?」
「たまにね」
「女の子を誘うの?」
「いや、堀内や野波と。でも、一人で観に行くことが多いかな」
緊張で、必要以上にぶっきらぼうに答えてしまう。なにしろ、生まれて初めて、女の子と二人で映画を観るのだ。
「津村君とは?」
「あいつはストリップとか、ポルノとか、裸の専門家」
「秋吉さんとは?」
「まさか。部活以外で秋吉と二人で会ったことは一度もないよ。それに、秋吉って、水泳以外に興味あるのかな」
「そんな、失礼だよ。うちの部の男の子たちはがさつだから気がつかないだけで、秋吉さんはおしゃれとか、恋愛とか、興味あると思うよ。きれいだし」
「そうかなあ……」
「そうだよ」
僕はこの日、圭美にどうしても言いたかったことを思い切って口にした。
「星野のこと、圭美、って、名前で呼んでいいかな? オレだけ賢介って、名前で呼ばれてるの、不公平な気がするんだよね……」
「不公平」という表現がおかしかったのか、圭美はくすくすと笑った。
「とにかく、圭美と呼ばせてもらうよ」
「うん」
スクリーンでは予告編が始まった。『帰郷』という、ベトナム戦争の後遺症を描いたアメリカ映画だった。ジェーン・フォンダと、傷痍兵なのだろうか、下半身が不自由なジョン・ヴォイドが裸で抱き合っている。
中学生の時に池袋の文芸坐で『真夜中のカーボーイ』を観てから、僕はジョン・ヴォイドという俳優が好きだった。スクリーンには『真夜中のカーボーイ』よりも歳をとって脂肪ののった姿が悲しげに映し出されている。場面が変わった。今度はローリング・ストーンズの「アウト・オブ・タイム」をバックにブルース・ダーンが走っている。泣きそうな顔だ。『帰郷』の登場人物はみんな悲しそうだった。
「ベトナム戦争って、ほんのちょっと前、私たちが小学生の頃のことだよね……」
スクリーンを見つめたまま圭美がつぶやいた。
『ラスト・ワルツ』の本編が始まった。一九七六年の感謝祭の夜にサンフランシスコのウインターランド・ボール・ルームで行われたザ・バンドの解散コンサートの映像だ。曲と曲の間に、監督のスコセッシによるメンバーのインタビューが挿入されていく。
映画の前半部、ベーシストのリック・ダンコが「イット・メイクス・ノー・ディフェレンス」を歌った。
土の匂いを感じるロック。それでいて、歌詞は切ないラヴソングだった。自分のもとを去った恋人への愛の深さ、大切な女性を失った苦しさが歌われる。ベースを弾きながらヴォーカルをとるリック・ダンコの声に哀愁がにじんだ。
映画では、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、マディ・ウォーターズ、エリック・クラプトン、ボブ・ディラン……が次々と登場して、ザ・バンドの演奏とともに歌う。
『ウッドストック』とか『ギミー・シェルター』とか『トミー』とか、僕はいくつものロック映画を観てきた。でも、『ラスト・ワルツ』はそれまで観たどの作品とも違っていた。全編を通して悲しみに満ちているのだ。
出演するミュージシャン全員が必死に何かに耐えて演奏している。ザ・バンドとの別れは “ザ・バンドがいた時代”との別れであり、自分の青春期との別れでもあったのだろう。それをありのまま、スコセッシがフィルムに収めている。
インストゥルメンタルの「ラスト・ワルツのテーマ」が流れるエンドロールでは、僕も圭美も瞳を潤ませていた。
「ロックでこんなに悲しくなったの、私、初めて」
劇場を出た時、圭美は目を赤くしたままつぶやいた。
焦点の合わない目でニール・ヤングが歌った「ヘルプレス」、やはりうつろな目でロビー・ロバートソンに口づけてジョニ・ミッチェルが歌った「コヨーテ」、そしてエンディングでザ・バンドが演奏した「ラスト・ワルツのテーマ」……。
ロビー・ロバートソンの切ないギターの調べがまだ僕たちの心の中で鳴っていた。
この世には永遠はない。すべてに終わりがある。十七歳の僕はそれに気づかずに過ごしていた。
脱げるのを恐れた野波は水中で素早く回転するクイックターンではなく、平泳ぎやバタフライと同じ水面から顔を上げ水の抵抗の大きいオープンターンを使い、壁を蹴る度に手で少しずつ水着の位置を直した。その結果、ターンの度にほかのチームに差をつけられたのだ。各校のAチームに引き離されたばかりか、Bチームにも抜かれそうになった。
それでも、堀内と津村と僕は自己ベストを更新して、いい状態で東京都の公式戦に臨めそうだ。
特に今季初めて自己ベストを記録した堀内のはしゃぎようといったら大変だった。試合後の更衣室では久しぶりにベストパンツにキスをした。
試合の翌週の日曜日、日比谷のみゆき座で、僕は圭美と映画を観た。公開したばかりの『ラスト・ワルツ』という作品だった。アメリカのロックバンド、ザ・バンドの解散コンサートを撮影したドキュメンタリーだ。監督は二年前に『タクシー・ドライバー』を世界じゅうでヒットさせたマーティン・スコセッシである。
日比谷の映画街の中でも、女性向けの上映が比較的多いみゆき座は初めてだった。そもそも僕にとってロードショー劇場は敷居が高かった。水泳部にいるとアルバイトをする時間もない。お金がないから、みゆき座のような大きな劇場ではなく、入場料の安い名画座で二本立てや三本立てばかり観ていたのだ。
映画に圭美を誘う電話をかけるのに、僕は汗でTシャツが体に張り付くほど緊張した。
圭美の家に電話をするのは初めてだった。水泳部のほかの女子にも、部の連絡事項以外では電話をかけたことはない。
「映画のチケット、二枚、もらったんだけど、日曜日に付き合ってくれないかな」
たったこれだけの用件を言うためにせりふを紙に書き、自宅近くの公園で何度も予行演習をした。チケットを二枚もらったというのは、もちろん嘘だ。圭美と一緒に観るためにプレイガイドで買った。
自宅から電話はできない。うちの電話機は玄関にあり、話し声が家じゅうに響く。
僕はてのひらからこぼれそうな数の十円玉を握りしめ、夜、近所の煙草屋の前にある電話ボックスへ出かけた。
しかし、いざ電話をかけようとすると、緊張でダイヤルが回せない。水泳の公式戦ですら経験がないほど、口の中がからからに乾いた。
東京二十三区間への電話番号は七桁だったが、ダイヤルを六桁まで回してはやめる。また六桁まで回してやめる。それを情けなくなるほどくり返した。
〈圭美の親父がでたらどうしよう……〉
それを思うと、ダイヤルの最後の一桁をまわせないのだ。時間が遅くなるほど、父親が在宅している確率は高まる。圭美には兄もいる。木下と親しいはずだ。それを思い出して、ダイヤルをまわす指が震えた。
結局、公衆電話の前に一時間以上いた。僕がぐずぐずしている間に五人が電話をかけにきて、その都度順番を譲った。
ようやくダイヤルを回し、受話器から響く声が圭美だとわかった時には、喜びと安堵で、それだけで目的が果たせた気がした。
「映画のチケット、二枚、もらったんだけど、日曜日に付き合ってくれないかな」
何十回もリハーサルを行ったせりふなのに、棒読みするようにして圭美を誘った。
僕が選んだ『ラスト・ワルツ』はたぶんデートにはふさわしくない。でも、ヒット中の『サタデー・ナイト・フィーバー』や『キタキツネ物語』のような映画を好んで観るタイプだと思われたくはなかった。それに、僕は『ラスト・ワルツ』で ザ・バンドが演奏する「ウェイト」や「イット・メイクス・ノー・ディフェレンス」のような埃っぽいアメリカンロックが好きだった。
圭美とは新宿駅で待ち合わせて、地下鉄丸ノ内線で銀座へ出て、日比谷まで歩くルートを選んだ。往きの電車でも、映画館でも、会話はほとんど圭美がリードした。
「賢介、映画はよく観るの?」
「たまにね」
「女の子を誘うの?」
「いや、堀内や野波と。でも、一人で観に行くことが多いかな」
緊張で、必要以上にぶっきらぼうに答えてしまう。なにしろ、生まれて初めて、女の子と二人で映画を観るのだ。
「津村君とは?」
「あいつはストリップとか、ポルノとか、裸の専門家」
「秋吉さんとは?」
「まさか。部活以外で秋吉と二人で会ったことは一度もないよ。それに、秋吉って、水泳以外に興味あるのかな」
「そんな、失礼だよ。うちの部の男の子たちはがさつだから気がつかないだけで、秋吉さんはおしゃれとか、恋愛とか、興味あると思うよ。きれいだし」
「そうかなあ……」
「そうだよ」
僕はこの日、圭美にどうしても言いたかったことを思い切って口にした。
「星野のこと、圭美、って、名前で呼んでいいかな? オレだけ賢介って、名前で呼ばれてるの、不公平な気がするんだよね……」
「不公平」という表現がおかしかったのか、圭美はくすくすと笑った。
「とにかく、圭美と呼ばせてもらうよ」
「うん」
スクリーンでは予告編が始まった。『帰郷』という、ベトナム戦争の後遺症を描いたアメリカ映画だった。ジェーン・フォンダと、傷痍兵なのだろうか、下半身が不自由なジョン・ヴォイドが裸で抱き合っている。
中学生の時に池袋の文芸坐で『真夜中のカーボーイ』を観てから、僕はジョン・ヴォイドという俳優が好きだった。スクリーンには『真夜中のカーボーイ』よりも歳をとって脂肪ののった姿が悲しげに映し出されている。場面が変わった。今度はローリング・ストーンズの「アウト・オブ・タイム」をバックにブルース・ダーンが走っている。泣きそうな顔だ。『帰郷』の登場人物はみんな悲しそうだった。
「ベトナム戦争って、ほんのちょっと前、私たちが小学生の頃のことだよね……」
スクリーンを見つめたまま圭美がつぶやいた。
『ラスト・ワルツ』の本編が始まった。一九七六年の感謝祭の夜にサンフランシスコのウインターランド・ボール・ルームで行われたザ・バンドの解散コンサートの映像だ。曲と曲の間に、監督のスコセッシによるメンバーのインタビューが挿入されていく。
映画の前半部、ベーシストのリック・ダンコが「イット・メイクス・ノー・ディフェレンス」を歌った。
土の匂いを感じるロック。それでいて、歌詞は切ないラヴソングだった。自分のもとを去った恋人への愛の深さ、大切な女性を失った苦しさが歌われる。ベースを弾きながらヴォーカルをとるリック・ダンコの声に哀愁がにじんだ。
映画では、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、マディ・ウォーターズ、エリック・クラプトン、ボブ・ディラン……が次々と登場して、ザ・バンドの演奏とともに歌う。
『ウッドストック』とか『ギミー・シェルター』とか『トミー』とか、僕はいくつものロック映画を観てきた。でも、『ラスト・ワルツ』はそれまで観たどの作品とも違っていた。全編を通して悲しみに満ちているのだ。
出演するミュージシャン全員が必死に何かに耐えて演奏している。ザ・バンドとの別れは “ザ・バンドがいた時代”との別れであり、自分の青春期との別れでもあったのだろう。それをありのまま、スコセッシがフィルムに収めている。
インストゥルメンタルの「ラスト・ワルツのテーマ」が流れるエンドロールでは、僕も圭美も瞳を潤ませていた。
「ロックでこんなに悲しくなったの、私、初めて」
劇場を出た時、圭美は目を赤くしたままつぶやいた。
焦点の合わない目でニール・ヤングが歌った「ヘルプレス」、やはりうつろな目でロビー・ロバートソンに口づけてジョニ・ミッチェルが歌った「コヨーテ」、そしてエンディングでザ・バンドが演奏した「ラスト・ワルツのテーマ」……。
ロビー・ロバートソンの切ないギターの調べがまだ僕たちの心の中で鳴っていた。
この世には永遠はない。すべてに終わりがある。十七歳の僕はそれに気づかずに過ごしていた。