自陣に戻ると、長身でオレンジ色のジャージ姿の男が青木と話していた。木下だった。久しぶりに見る木下はわずか二歳上とは思えないほど大人に見えた。
「石神君、いいレースだったよ」
僕に気づくと、握手を求めてきた。戸惑いながらも、握り返す。木下の長い指は、スポーツマンにしては細く、繊細さが感じられた。この手は圭美の腰や胸に触れたのだろうか。
僕はほんの数分前の激しいレースの滴をまとい、呼吸は戻っていない。
「今お前が競った弥生の二年は、今年転校してきた佐久間という短距離専門の選手だそうだ。今日はしばらく泳いでいない四〇〇でタイムを計って、力がついているか確認したらしい」
青木が言った。
「短距離選手ということは、佐久間君とは一〇〇や二〇〇でも一緒に泳ぐわけですか?」
「そういうことなる」
「一日に何レースも競るのはきついなあ」
つい本音がでる。
「四〇〇は石神君と競ったおかげで、うちの佐久間は自己ベストを大幅に更新した。感謝してるよ。来年のうちのエース候補だからね」
木下は本心から言っている様子だ。
「泳ぎそのものは、僕よりも佐久間君のほうが速いですよ。四〇〇で僕が勝てたのは、スタートとターンの差でした」
「明日から、佐久間にはスタートとターンをみっちり練習させる。本人が自分の弱点をはっきりと自覚できたことでも有意義なレースだった。四〇〇に出場させてよかったよ。ターンの少ない一〇〇では、あそこまで自分の弱点を思い知ることはなかったはず。今までも口を酸っぱくして指摘してきたけれど、あいつも今日ほど身にしみたことはなかっただろうからね」
そう言うと、木下はストップウォッチを手に青木の傍らに立つ圭美に視線を向けた。
「君のお兄さんには聞いていたけど、ほんとうに阿佐高のマネージャーになったんだね」
木下が穏やかなまなざしを向けた。
「はい。先月入部いたしました」
圭美はぎこちない敬語で対応する。
「そうか……。阿佐高はいいチームだよ。オレは青木と同学年だけど、練習法をずいぶんと参考にさせてもらっている」
「私、さっき木下さんの後輩に競り勝った賢介のタイムを毎日計っています。彼は次も負けません」
圭美が木下に挑発的な目を向ける。ずっと「石神君」だった呼び方が、四〇〇の応援から「賢介」に変わったことに心の近さを感じた。しかし、彼女の「次も負けません」という発言にはとまどった。
〈そんなに毎回勝てないよ〉
喉まで出かかった本音を抑えた。圭美に失望されたくなかった。
一〇〇メートルと二〇〇メートルも、僕は少しずつ自己ベストを更新した。四〇〇で激しく競った疲労を考慮するとかなり喜ばしい。
佐久間も同じ種目にエントリーしていたけれど、参加人数の多い一〇〇と二〇〇は三組ずつレースがあり、一緒の組で泳ぐことはなかった。タイムはほぼ同じで、一〇〇は佐久間が〇・五秒、二〇〇は僕が〇・九秒速かった。佐久間の一〇〇はターンが少ない分僕よりも速いのだろう。
この日、もっとも白熱したのは女子二〇〇メートル個人メドレーだった。
三校で計五人が参加したレースは、阿佐高の秋吉と弥生高の岡林が他の選手を圧倒し、一騎打ちの展開になった。
秋吉と岡林はおたがい強烈に意識し合っていた。小学生と中学生のころに同じスイミングクラブに所属して、競い合ってきたのだ。しかも、秋吉は中学時代に、岡林は高校で木下の後輩として指導も受けている。
いつもの通り、先行したのは秋吉だ。バタフライと背泳ぎで体一つ半、岡林の前を泳いだ。もともと自由形の選手だった秋吉は、クロールと同じ筋肉を使うバタフライと背泳ぎも速い。しかし、次の平泳ぎが弱点だった。
平泳ぎは、やはりいつも通りの展開で、岡林が追い上げてきた。平泳ぎ出身の岡林は、ここで秋吉に追いつくだけではなく、追い抜いてどれだけ差をつけられるかが重要だ。
背筋を使い上体を上げて呼吸する平泳ぎは選手の表情や目線がよくわかる。二人は呼吸の度にライバルの位置を横目で確認していた。秋吉の目はふだんのもの静かな彼女からは考えられないほど鋭い。
平泳ぎの後半、岡林が秋吉を捕らえた。逃げようとする秋吉、抜き去ろうとする岡林。
「秋吉、踏ん張れえー!」
「岡林、抜けー!」
両チームの応援も激しさを増す。
岡林が秋吉を抜き、体半分前に出て、一五〇メートルのターンをした。ラスト五〇メートル、クロールでの勝負だ。
先にターンした岡林は、四ストロークに一度、左サイドで呼吸をする。追う秋吉は、三ストロークに一度の呼吸。つまり、左右交互に水面から顔を上げる。秋吉は両サイドで呼吸することによって安定したフォームを維持していた。クロールの前半二五メートルは、二人はほぼ同じペース。体半分の差は縮まっていない。しかし、最後のターンで壁を蹴り水面に出たところから、秋吉は明らかにギアを切り替えた。スタミナに自信があるのだろう。ラスト一五メートルで呼吸の回数を減らし五ストロークに一度にした。
強い――。こういう時に、後半にギアを上げるためのスロウ&ファストや、呼吸数を減らすラング・バスターの成果が表れる。秋吉はラスト七メートルで岡林を捕らえ、そこから一気に抜いた。
三校だけの練習試合とは思えないほどレベルの高いレースだった。阿佐高、弥生高の選手はもちろん、宮前高の選手たちも立ち上がって観戦し、ゴールした秋吉と岡林は拍手に包まれた。激しい争いをしたことが嘘のように、二人はコースロープ越しに手を握り合いおたがいを讃えた。
「石神君、いいレースだったよ」
僕に気づくと、握手を求めてきた。戸惑いながらも、握り返す。木下の長い指は、スポーツマンにしては細く、繊細さが感じられた。この手は圭美の腰や胸に触れたのだろうか。
僕はほんの数分前の激しいレースの滴をまとい、呼吸は戻っていない。
「今お前が競った弥生の二年は、今年転校してきた佐久間という短距離専門の選手だそうだ。今日はしばらく泳いでいない四〇〇でタイムを計って、力がついているか確認したらしい」
青木が言った。
「短距離選手ということは、佐久間君とは一〇〇や二〇〇でも一緒に泳ぐわけですか?」
「そういうことなる」
「一日に何レースも競るのはきついなあ」
つい本音がでる。
「四〇〇は石神君と競ったおかげで、うちの佐久間は自己ベストを大幅に更新した。感謝してるよ。来年のうちのエース候補だからね」
木下は本心から言っている様子だ。
「泳ぎそのものは、僕よりも佐久間君のほうが速いですよ。四〇〇で僕が勝てたのは、スタートとターンの差でした」
「明日から、佐久間にはスタートとターンをみっちり練習させる。本人が自分の弱点をはっきりと自覚できたことでも有意義なレースだった。四〇〇に出場させてよかったよ。ターンの少ない一〇〇では、あそこまで自分の弱点を思い知ることはなかったはず。今までも口を酸っぱくして指摘してきたけれど、あいつも今日ほど身にしみたことはなかっただろうからね」
そう言うと、木下はストップウォッチを手に青木の傍らに立つ圭美に視線を向けた。
「君のお兄さんには聞いていたけど、ほんとうに阿佐高のマネージャーになったんだね」
木下が穏やかなまなざしを向けた。
「はい。先月入部いたしました」
圭美はぎこちない敬語で対応する。
「そうか……。阿佐高はいいチームだよ。オレは青木と同学年だけど、練習法をずいぶんと参考にさせてもらっている」
「私、さっき木下さんの後輩に競り勝った賢介のタイムを毎日計っています。彼は次も負けません」
圭美が木下に挑発的な目を向ける。ずっと「石神君」だった呼び方が、四〇〇の応援から「賢介」に変わったことに心の近さを感じた。しかし、彼女の「次も負けません」という発言にはとまどった。
〈そんなに毎回勝てないよ〉
喉まで出かかった本音を抑えた。圭美に失望されたくなかった。
一〇〇メートルと二〇〇メートルも、僕は少しずつ自己ベストを更新した。四〇〇で激しく競った疲労を考慮するとかなり喜ばしい。
佐久間も同じ種目にエントリーしていたけれど、参加人数の多い一〇〇と二〇〇は三組ずつレースがあり、一緒の組で泳ぐことはなかった。タイムはほぼ同じで、一〇〇は佐久間が〇・五秒、二〇〇は僕が〇・九秒速かった。佐久間の一〇〇はターンが少ない分僕よりも速いのだろう。
この日、もっとも白熱したのは女子二〇〇メートル個人メドレーだった。
三校で計五人が参加したレースは、阿佐高の秋吉と弥生高の岡林が他の選手を圧倒し、一騎打ちの展開になった。
秋吉と岡林はおたがい強烈に意識し合っていた。小学生と中学生のころに同じスイミングクラブに所属して、競い合ってきたのだ。しかも、秋吉は中学時代に、岡林は高校で木下の後輩として指導も受けている。
いつもの通り、先行したのは秋吉だ。バタフライと背泳ぎで体一つ半、岡林の前を泳いだ。もともと自由形の選手だった秋吉は、クロールと同じ筋肉を使うバタフライと背泳ぎも速い。しかし、次の平泳ぎが弱点だった。
平泳ぎは、やはりいつも通りの展開で、岡林が追い上げてきた。平泳ぎ出身の岡林は、ここで秋吉に追いつくだけではなく、追い抜いてどれだけ差をつけられるかが重要だ。
背筋を使い上体を上げて呼吸する平泳ぎは選手の表情や目線がよくわかる。二人は呼吸の度にライバルの位置を横目で確認していた。秋吉の目はふだんのもの静かな彼女からは考えられないほど鋭い。
平泳ぎの後半、岡林が秋吉を捕らえた。逃げようとする秋吉、抜き去ろうとする岡林。
「秋吉、踏ん張れえー!」
「岡林、抜けー!」
両チームの応援も激しさを増す。
岡林が秋吉を抜き、体半分前に出て、一五〇メートルのターンをした。ラスト五〇メートル、クロールでの勝負だ。
先にターンした岡林は、四ストロークに一度、左サイドで呼吸をする。追う秋吉は、三ストロークに一度の呼吸。つまり、左右交互に水面から顔を上げる。秋吉は両サイドで呼吸することによって安定したフォームを維持していた。クロールの前半二五メートルは、二人はほぼ同じペース。体半分の差は縮まっていない。しかし、最後のターンで壁を蹴り水面に出たところから、秋吉は明らかにギアを切り替えた。スタミナに自信があるのだろう。ラスト一五メートルで呼吸の回数を減らし五ストロークに一度にした。
強い――。こういう時に、後半にギアを上げるためのスロウ&ファストや、呼吸数を減らすラング・バスターの成果が表れる。秋吉はラスト七メートルで岡林を捕らえ、そこから一気に抜いた。
三校だけの練習試合とは思えないほどレベルの高いレースだった。阿佐高、弥生高の選手はもちろん、宮前高の選手たちも立ち上がって観戦し、ゴールした秋吉と岡林は拍手に包まれた。激しい争いをしたことが嘘のように、二人はコースロープ越しに手を握り合いおたがいを讃えた。