「三十二秒三。タイム、落ちたよ!」
 プールサイドで圭美が叫ぶ。
午前の練習メニュー、二十本五セットのインターバルの三セット目のラスト一本を泳ぎ、壁にタッチした時だった。
「もう少し小さい声で頼むよ。青木先輩に聞こえるだろ」
 水の中で、肩で息をしながら僕は小声で抗議した。
「聞こえたら困るタイムなの?」
 真っ白いTシャツからのぞく圭美の細い腕はさらに黒くなった。肌の色だけは選手と区別がつかない。ざっくりとしたU字型のネックから、下に着ている濃紺の水着の紐がのぞいている。
「あのさあ、言っておくけど、オレ、力を抜いているわけじゃないから」
「わかってるわよ」
「そう?」
 僕がチームと別練習になってから、圭美の言葉は日に日に厳しさを増している。
「力を抜いてはいないけど、セーヴはしているでしょ? 朝から全力で泳いだら、体力が午後までもつか、そんなに心配?」
 いらっとした。図星だったからだ。夕方まで練習が続くことを考えると、朝から全力でいくわけにはいかない。
「なんか、知ったようなこと言うじゃない」
「入部したてのマネージャーなんかに言われたくない?」
「そんなつもりはないけど……」
「私にはそう聞こえる。毎日夕方まで泳いでいる選手はえらい。泳いでいないやつにさしずされたくない」
 選手はマネージャーよりもえらいと思っている、という指摘も図星だった。ただし、意識してはいなかった。圭美に言われて自分の気持ちに気づいたのだ。
「わかったよ。オレがわるかった」
 素直に謝った。圭美の指摘が的を射ていたこともあるが、練習以外で自分を消耗したくもなかった。
「ごめん。私も言い過ぎたわ。実際、くたくたになるまで泳いでいるのは石神君たちだもんね」
 しかし、なぜ、圭美はこれほど真剣なのか――。そもそも、なぜ、圭美は水泳部のマネージャーになったのか――。
 僕の中に疑問はくすぶっていた。

「一コースは毎日白熱していますなあー」
 午前の練習が終わり、食事をすませてプールサイドに寝転がっていると、野波がちゃかしにきた。
「別にけんかしてるわけじゃないよ」
 僕は不機嫌な声で答えた。
第一コースでの圭美とのやり取りを離れた第六コースで泳いでいる野波がからかいにくるということは、ほとんどの部員は僕たちの小さないさかいに気づいているだろう。示しがつかないので、後輩たちにはあまり聞かれたくない。
「オレたちがどれほどきつい練習をしているか、マネージャーにもわかってほしいもんだね」
 野波も横に並んで寝そべった。
「でも、しかたないよ。逆の立場になって考えると、自分じゃないだれかのために、クソ暑い夏休みに毎日学校に通うなんてオレにはできない」
「確かにその通りだけどな」
 ひと呼吸おき、野波は続けて訊いてきた。
「それで、石神、調子はどうなんだ?」
「ほとんど変わらないさ。ただ、オレ達、練習量も疲労もピークだろ。それでもタイムが落ちていないから、もしかしたら泳ぎはよくなっているのかもしれない。希望的観測だけどね。野波はどう?」
「青木先輩から、明日からはクロール中心の練習にする、と言われたよ」
「そうか……」
「覚悟は決めたよ」
 野波の専門は平泳ぎだが、その個人種目では全国大会へは進めそうにない。しかし、自由形のリレーはまだ可能性がある。
「平泳ぎは?」
「一〇〇にしぼって試合には出たい。一年からずっとやってきた種目だからね。最後の都大会では、なんとしても自己ベストで泳ぎたい。でも、全国大会に行くには、オレにはもう伸び代はない気がする」
 野波は無念そうな表情を見せた。
「もう少し続けてみたらどうだ」
「津村と並んで練習してあきらめはついたよ。あいつ、体は細いけれど、筋肉の質は抜群だ。膝と足首の関節もものすごく軟らかい。かかとを尻にピタッと付くまで引きつけて、そこからポーンとしなやかに水を蹴る。あんなキック、オレには無理だ。フォームに無駄がなくて、水の抵抗が少ないからぐんぐん進む。オレは明日から、クロール中心でやるよ。自由形のリレーで全国大会へは行きたい」
「クロールはこれまで練習してこなかった分伸びるかもしれないけど」
「だから、一コースで泳いでいるお前の調子は気になるわけだ」
 野波がこちらをさぐるような視線を向けた。
「それで、オレと星野のやり取りも見ていたのか」
「オレだけじゃないよ。堀内もお前のこと、すごく気にしている。津村だって、黙っているけれど、気になっているさ」
 その時、女子の部室からプールサイドへ誰かが上がってきた。逆光で顔がよく見えない。細い肩。ベルトでキュッとしめたような腰。明らかに選手の体系ではない。濃紺の競泳用水着を着た圭美のシルエットだった。
「泳ぐの?」
 寝転がったまま声をかけると、圭美はちょっとバツの悪そうな表情でうなずいた。彼女がプールに入るのはおそらく初めてだ。
圭美のことを僕はやせた女の子だと思い込んでいた。プールサイドでの彼女はいつも水着の上にTシャツと短パンを身につけていたが、そこから伸びる手足がすらりと長かったからだ。しかし、胸も腰も豊かに水着を押し上げていた。
「選手が休んでいる時間に少しだけ水に入らせてもらおうかと思って」
プールに圭美がゆっくりと脚を入れる。
「泳げるの?」
 からかってみたくなった。
「石神君、私のこと、ばかにしてる?」
 圭美は温泉につかるようにプールに体を沈めていった。
「いつものお礼に、オレがタイムを計ってやろうか?」
「けっこうです」
 こちらをにらむと、プールの壁を蹴った。ゆっくりとしたストロークで、クロールを泳ぎ始める。どこかで習ったのか。スピードはないが、無駄のないきれいなフォームだ。
圭美の水着は濡れると色が変わる。体が美しい光沢をもち、陽の光をはじく。
「星野、気が強いよなあ」
 泳ぐ圭美を野波が目で追う。
「気の強い女、野波、好きだろ」
「まあ、そうだけど、あの女はちょっと……」
「ちょっとって?」
「石神、知らないのか? 星野は弥生高の木下さんと付き合ってたらしいぜ」
 同じ学区の弥生高は同じ地下鉄丸ノ内線沿線にある都立の名門進学校だ。木下はその水泳部の二学年上で、バタフライの選手だった。阿佐高の先輩、青木と同じ学年だ。
木下は一九〇センチ近い長身を生かしたダイナミックな泳ぎで、一〇〇メートルも二〇〇メートルも速く、特に一〇〇は東京都で優勝し、全国大会でも三位で表彰された。高校卒業後は現役で一橋大学経済学部に合格した。大学に入ると、選手としての競泳はきっぱりとやめて、弥生高水泳部でコーチをしている。
「野波、なんでそんなこと知ってるんだ?」
「弥生高水泳部のOBにオレの中学時代の先輩がいて、木下さんと同期だったんだ。その人から聞いた。秋吉も知っていると思う。木下さんは秋吉と同じ中学で水泳部の先輩だからね。星野、木下さんと付き合っていたなら、同じ歳のオレ達なんて、子どもにしか見えないだろうな」
 圭美が入部した日の秋吉のとまどった様子を思い出した。
 目の前のプールでは、圭美がクロールを泳いでいる。二五メートルまで行きつくと、大きく弧を描くターンで折り返した。圭美の体はすでに大人の恋愛を知っているのだろうか。僕は息苦しさを覚えた。
「なんで木下さんと別れたんだ?」
「詳しいことは知らないけど、木下さん、女関係のうわさがたくさんあるからな。今は弥生高の二〇〇個メの岡林と付き合っているらしい」
 岡林は三年生で秋吉のライバルだ。一七〇センチを超える長身の選手である。二〇〇メートル個人メドレーのほかに、平泳ぎも速い。ウェイヴのかかった長い髪と大人びた顔立ちで、私服姿は高校生とは思えない。
「木下さんって、相手が高校生でもやっちゃうのかな」
 野波が好色な表情をこちらに向けた。
僕の頭の中に裸の圭美が木下の大きな体に抱きすくめられる姿が浮かぶ。猛烈な嫉妬心がわき、自分でも驚いた。
「星野が水泳部に入ったのは、木下さんとのことと関係があるのかな?」
 頭に浮かんだ妄想を必死に打ち消し、野波に訊く。
「まあ、何の理由もなく、三年生で水泳部のマネージャーになるわけがないよな。星野のほうは、まだ好きなんじゃないかな。うちと弥生高は代々交流がある。練習試合も合同練習もやる。水泳部に入れば、間違いなく木下さんと会う」
「来週、弥生高で試合だよな?」
「ああ。あそこの四〇〇メートルリレーはオレ達より少し速い。全国大会へ行かれるかどうか、目安としてはいい相手だ」
 弥生高とは、翌週、練習試合を予定していた。八月の初め、宮前高、弥生高という二大名門校になぜか阿佐高が加わった三校の練習試合は毎年恒例になっていた。
試合といっても、戦うモードではない。近い学校同士、親しい同士の合同記録会の雰囲気だ。
「競るかな?」
「競るだろうな……」
「野波、頼むぜ」
 野波は競り勝ったことが一度もない。
「なあ、石神、オレはいつからか自分は競ったら負けると決めつけていた。でも、今シーズンは勝つよ。オレ達にとって最後だからな」
 壁にタッチして見上げると、水飛沫の向こうで圭美が笑みを向けてきた。
「三十秒八。このタイム、午後も維持しよう!」
笑顔の向こうの雲一つない空の青を背景に、彼女の輪郭がくっきりと縁どられている。
「ふうー」
 午前の五〇メートル一〇〇本が終わり、ほっとして、息を吐く。
「お疲れ様。じゃあ、ここで昼休みね」
 圭美がストップウォッチをリセットする。
疲労が日に日に体に蓄積されるのを感じる。練習は一週間に六日。休みは日曜日なので、金曜日、土曜日はくたくたになる。ただ、疲れている体でも練習タイムは落ちていない。泳ぎはよくなっているのかもしれない。次の弥生高での練習試合では自己ベストをマークできるだろうか。
 学食で定食をかき込んでプールへ戻ると、圭美が泳いでいた。昼休みに泳ぐのが日課になったようだ。
日中の気温は連日三十度を超え、水の中にいても、自分が汗をかいているのがわかる。水面やコンクリートの照り返しで四十度を超えるプールサイドでまる一日タイムを計ったり、記録をつけたりするマネージャーは厳しい仕事だ。昼休みの遊泳はつかの間のリフレッシュタイムなのだろう。
 昼休み、女子部員たちは部室でにぎやかに弁当を食べていたが、圭美は一人でいることが多い。入部して日が浅いだけでなく、チームの中で明らかに異質な存在だった。水泳部は女子選手たちもみな筋肉質だ。肩幅は広く、腕はたくましく、肩から下、広背筋が盛り上がっている。女でありながら少年のような力強さを感じさせた。そんな集団の中で、圭美は首から肩へのラインがやわらかなカーブを描き、胸や腰のふくらみは女の匂いを発していた。
 僕の姿に気づいた圭美がプールから上がり、近づいてくる。焼け焦げたコンクリートの上に濡れた足跡が残っていく。
「石神君、今週は調子いいね」
 バスタオルで髪を絞るしぐさが大人びていた。圭美は木下とどんな交際をしてきたのだろう。水着の下に隠された体は大人の恋愛を体験しているのだろうか。野波の話を聞いてから、考えずにいられなくなっていた。
「水はキャッチできている気がする」
 彼女に女の匂いを感じている自分をさとられたくなく、僕は肘を上げて水をかく動きを見せながら答えた。
「頑張ってるもんね」
 圭美が微笑む。瞳と口がくっきりと大きいせいか、笑うと表情が華やぐ。
「星野には感謝してるよ。こんな記録的猛暑の夏にずっとプールサイドで練習を手伝ってくれてさ」
「石神君のためだなんて思っていないから、気にしないで」
 はっきりと言われて、僕はかすかに傷ついた。そして、ずっと気になっていることを訊いた。
「星野はどうして水泳部に入ったの?」
 二人の間につかの間の沈黙が生まれた。
「気になる?」
 圭美の声のトーンが低くなる。
「毎日こうして、朝から夕方まで一緒にいるんだぜ。ほんとうのこと、教えてくれたっていいんじゃないのか。入部する時は、オレたちが楽しそうだから、とか言っていたけれど、そんな理由だけで三年生が入部しないだろ。しかも、マネージャーでさ………。やっぱり、弥生高の木下さん?」
 圭美が一瞬視線を逸らした。
「石神君、知ってたんだ?」
「野波から聞いた。あいつの中学時代の先輩が弥生高で木下さんの同期にいたんだって。それに、木下さんのことは東京の学校で水泳をやっていれば誰でも知っているからね。あの人のバタフライ、一年生の時に初めて見て、びっくりしたよ。ダイナミックで、それでいて肩がものすごくしなやかに動いて、水の上を飛んでいるようだった。ほとんどの大会でぶっちぎりで優勝していた」
「彼と私が付き合っていたのはほんとうよ。あの人、うちのお兄ちゃんの同級生なの。でも、別れた。石神君たちも知っているかもしれないけれど、彼、私から岡林さんという後輩に乗り換えたの」
 そこで、しばらく、圭美は口をつぐんだ。
「話したくないなら無理することないけど」
「ううん、平気。彼、最初は私に知られないように岡林さんとも会ってたんだけど、そういうの、女は気づくでしょ? 問い詰めたら、白状した。それでも彼は私のところに戻ってくると思っていた。ところが、彼、岡林さんと付き合うって言ったの。申し訳なさそうにね。自分がいないと、岡林さんは全国大会へ行かれないからだって。でも、それって、変でしょ? 恋愛と水泳は関係ないじゃない。私にはまったく理解できなかった。そんなの体のいい口実だと思ったわ」
 圭美の恋愛の話は、女性と交際したことがない身には刺激が強かった。一年生、二年生と僕が二五メートルのプールを往ったり来たり泳いでいる時、このクラスメイトは年上の男と恋愛をしていたのだ。
 そんな僕の心中などまったく気づかないふうで彼女は話を続けた。
「私、弥生高水泳部の練習をこっそり見に行ったの」
弥生高は中野区の雑居ビルが密集した地域にある。プールは校舎に囲まれた陽の当たらない谷間だ。圭美は勝手に学校に入って、校舎の四階の窓の隙間からそっとのぞいていたらしい。
「弥生高水泳部の練習を見たのは初めて?」
「一年生の時にも一度行ったわ。三年生だった彼と付き合い始めた頃。泳ぐ姿を見たかったから。水泳部体験のない私にも、彼がすごい選手だということはよくわかった」
 一年生の頃、大会の度に見た木下の泳ぎを思い出す。木下が出場するレースになると、会場中が立ち上がって注目した。
「木下さんの泳ぎ、すごかったからね」
「うん。バタフライだけじゃなくて、クロールや背泳ぎでも、弥生高の水泳部で彼が一番だった。でもね、岡林さんも素晴らしいの。彼ほど圧倒的ではないけれど、弥生高の女子選手は誰もかなわない。女子で一番速くて、三年生なのに偉そうにしていなくて、一番厳しい練習をしていた」
「岡林は、二〇〇個メでは、このあたりでは秋吉と一位、二位を争う選手だ」
「そうらしいわね……。彼から聞いたことがある。私はチームの中で、彼と岡林さんがでれでれしているのを想像していた。それでチームメイトたちに冷たい目で見られていると思っていた」
 気持ちはわかる。自分と別れた男がその後何かしらの罰を与えられている場面を期待したのだろう。
「でも、違ったんだ……」
「うん……。彼、岡林さんにものすごく厳しいのよ。五〇メートルのインターバルでも、たぶんちょっと気を抜いたら切れないような厳しい制限タイムを与えていた。岡林さん、速いのに、制限をなかなかクリアできないんだ。でも、彼はけっして甘やかさない」
阿佐高水泳部でも行われている制限タイム付きのインターバルが弥生高の水泳部にもあるのだ。
「制限タイムを切れないと、やっぱりその分泳ぐ本数が追加されるわけ?」
「そう。うちと同じ。制限を切るまでプールから上げてもらえないの。チーム全体が緊張していて、練習中、二人は目も合わせない。岡林さん、歯を食いしばっているのが遠くからでもわかった」
 圭美の表情がゆがんだ。
「岡林は速いだけじゃなくて、強い。タイムがいい上に、最後まであきらめない。秋吉とはいつもほんのタッチの差で勝ったり負けたりだ。リレーでも、岡林は一年生の時から第四泳者だった。あの年は弥生高の三年生に自由形専門のもっとタイムのいい先輩がいたんだけど、アンカーは岡林だった。最後に競り合ったら負けないからだよ」
「そうなんだね……」
あの強さは、すごく厳しい練習をしてきたからだと、青木が話していた。
「水泳のセンスがあって速くなる選手もいるけれど、岡林は練習に練習を重ねて心も鍛え上げている」
「私、岡林さんに、ものすごく嫉妬した。彼、私にはいつも優しかったの。だって、私たちはいつも向き合っていればよかったから。でも、彼と岡林さんは違った、向き合うだけじゃなくて、二人で同じ方向を見て戦ってもいた。あんなに厳しくされて、それでも岡林さんが頑張れるのは、心から信頼しているからだと思う。私、岡林さんに負けたの? 私も水泳選手だったらよかったの? 運動部じゃない私には理解できない何かがある気がした」
「それで、うちの水泳部に来たの?」
「選手にはなれないけれど、水泳部の夏を体験してみたくて」
「木下さんとも会いたかった?」
「うん……」
 圭美のまぶたがかすかに膨らんだ。
「まだ好きなんだ?」
「マネージャーになった時は、好きだったと思う。でも、今はよくわからない」
「わからない?」
 うつむいて話していた圭美が顔を上げた。
「阿佐高の水泳部に入ってみて、びっくりしたんだ。だって、ほかの運動部の三年生はとっくに引退してるでしょ? それなのに、ここだけは三年生がまだ真剣に泳いでいる。最初は理解できなかった。だって、石神君も、堀内君も、あんなに速い秋吉さんだって、大学で水泳はやらないんでしょ?」
「秋吉はともかく、オレのレベルでは、大学では通用しないよ。そもそもこんな夏になってまで勉強もせずに一日中泳いでいて、現役で大学には受からないだろ。浪人して一年も体を動かさなかったら、大学の体育会の練習についていかれないと思う」
「それなのに、一日中泳ぐなんて。選手もだけど、毎日指導している青木先輩の存在も、私には理解できなかった。堀内君とか野波君とか、青木先輩の言うことは聞くでしょ。あの二人、私はずっと別のクラスだけれど、目立つから知ってたよ。一年生の時から無法者だと思っていたんだ」
 無法者という言い方はどうかと思ったが、堀内と野波は自由だった。授業には出たり出なかったり。教師の言うことも何一つ聞かない。
「あいつらは、自分の意志でしか行動しないから……。青木先輩に泳がされる以外はね」
「私、二年の学園祭の時に、堀内君が気に入らない同級生の男の子をいきなり殴るのを見たの。相手は剣道部のキャプテンで、堀内君よりもずっと体の大きい人。いつも偉そうにしていて、感じが悪いやつだったからちょっと気持ちよかったけど」
 堀内と野波は一年に何度か事件を起こす。学校行事や体育の授業中に、気に入らないやつを立ち上がる気力がなくなるまで痛めつける。衝動なのか、ずっと我慢していた怒りが沸点に達するからなのか、僕にはわからない。あの二人はいつも何かにいらいらしている。そして周囲の制止を振り切って、相手が戦意を失うまで叩きのめす。
「偉そうにしているやつと、ツッパリのまねをしているやつが大嫌いで、ときどき過剰な行動にでるんだ」
「石神君や津村君もだけど、水泳部は部室に寝泊まりしているという噂もあるでしょ」
「ああ……」

 僕たちは夏休みにときどき部室に泊まった。練習の後、疲れ果てて、体が鉛のように重く、部室でごろごろしているうちに夜になり、帰るのが面倒になるのだ。
家に帰っても食べて眠るだけだ。朝が来たら、どうせまたプールに来て泳ぐ。ならば、このまま部室で眠ってしまえばいい。食事は学校の近くの定食屋か牛丼屋ですませて、ストレッチの時に敷く毛布にくるまって眠った。
 両親は僕の外泊についてはあきらめていた。それに、僕がどこかの繁華街で遊んでいるわけではないことは明らかだった。どう見てもそんな体力は残っていなかったからだ。家にいない時は、ほぼ間違いなくプールにいた。
 部室に泊まった夜は、月の光のもとで泳いだ。毎日昼間に泳いでいる同じプールなのに、夜の海で泳いでいるように感じた。
同期の男四人で泊まって泳ぐときは全裸だ。真っ黒に陽焼けした体が、深夜はさらに黒い。
コースロープが張られていない夜のプールでいろいろな泳法で縦横斜め自由に泳ぎまわる僕たちは野生のアザラシのようだった。上半身や脚の黒さのせいで、陽焼けしていない尻だけが月明かりで白く光った。

「部室に泊まってるって、ほんと?」
 圭美に訊かれてわれに返った。
「うん……、夏休みに何度かね」
「やっぱり」
「疲れて帰るのがめんどうになるからだけど、ときどきプールから離れたくない日があるんだ。オレたち、毎日学校に通っているより、プールに通っている気持ちのほうが強いんだと思う。家よりも、教室よりも、水の中にいる時間のほうが長いだろ。溶けたカルキ―の匂いをかいでいると気持ちが落ち着くんだ」
 水泳部は練習時間が長いので、クラスメイトとの関係は希薄になる。そんな僕たちのことが、圭美の目には珍種の生物に見えていたらしい。
「水泳部って、わけのわからない集団じゃない。行儀は悪いけど、不良というわけじゃない。理解できないから、クラスの女子はみんな近づかないようにしているよ。でも、そんな人たちが、青木先輩の言うことだけは素直に聞いて、統率がとれている。そして、一日に一万メートル以上泳いでる。石神君たちは当たり前だと思っているかもしれないけれど、一万メートルって、一〇キロでしょ。歩くのだっていやだよ。毎日そんなに泳いで、水泳と、水泳部と、仲間をとても大切にしてる。びっくりしたわ。この人たちとひと夏を過ごしてみたいと思ったの」
 圭美がちょっと憧れをふくんだまなざしを向ける。気の強さが薄れたその優しい笑顔をたまらなく愛おしく感じた。
 弥生高での練習試合で、僕は新しい水着で泳いだ。黒地でサイドにオレンジ色の鱗をモチーフにしたロゴが縦に並ぶデザインだ。前日、部活の帰りに寄ったスポーツショップでひと目見て気に入った。サイズはS。ふだん身につけている下着はMサイズだけど、水着はあえてワンサイズ下を選んで、小さい布の中に自分のものをていねいに収める。
試合の時は少しでも小さい水着をはいて、体にぴったりとフィットさせたほうが、抵抗が少なくて泳ぎやすい。だから、下着がLの選手は水着はM、下着がMなら水着はS、下着がSの場合は子ども用の水着をはいてレースに臨む。布の面積が小さいので、尻の割れ目の上部がやや露出した状態だ。
 弥生高のプールは六コースしかない。都心に近く、限られた敷地に無理矢理造ったからだろう。しかし、三メートルの飛び込み台があるため、底が深くて泳ぎやすい。
水深があると、泳ぐことによって生まれた波を水が吸収してくれる。逆に浅いプールは泳ぎづらい。泳いだ波がすぐに底に到達して戻ってくるからだ。
 ウォーミングアップは、宮前高、弥生高、阿佐高各二コースずつを使って行われた。二コースに二十人を超える選手が入り、五秒おきにスタートしていく。
 プールの水は阿佐高よりも冷たかった。校舎の谷間にあるので、日照時間が短いのだろう。アップは五〇メートルずつ、時計と逆回りで、コースの右側を往き、左側を戻る。泳ぐ順番は種目とは関係なくタイムの速い選手から。後ろを泳ぐ選手に追いつかれないためだ。
 そのアップの三本目だった。僕は明らかに昨日とは違う僕を感じた。体が軽く、水にのっているのがわかる。一回のストロークでいつもよりも進む。
 最初は気のせいかと思った。あるいは、一つのコースに大勢が泳いでいるので、川のような流れが生まれているのかと考えた。しかし、アップでこれほどの体の軽さを感じたことはなかったし、プールでは逆方向から泳いで来る選手もいるので、水の流れは一定していない。二五メートルで六コースしかないプールに七十人くらいの選手が泳いでいるから、お盆時の海水浴場のような人の密度になっている。水の流れは無秩序のはずだ。
〈この感覚を失いたくない〉
 そう感じて、すぐにプールから上がった。
「石神、どうした!」
 プールから離れた自陣で僕たちのアップをチェックしている青木が叫んだ。
「先に上がっていいですか!」
 叫び返す。青木の横で圭美もこちらを見ている。
「脚つったか?」
 心配顔の青木に向かって首を振る。
「いえ、そうではなくて、ちょっと今、泳ぎがいい感じになったので、このまま上がらせてください」
自陣へ向かって歩を早める。
「わかった。お前に任せる」
 青木の了承を得て僕はタオルで全身をふく。体を冷やさないようにすぐにジャージを着た。
 この日は、一〇〇、二〇〇、四〇〇メートル自由形と四〇〇メートルリレーの四種目に出場する予定だった。最初の種目は、アップの後すぐに行われる四〇〇メートル自由形だ。一〇〇メートルにしぼって練習している僕にとって、四〇〇はタイムを計ってコンディションを知っておく程度の出場になる。
青木に「気楽に泳いで来い」と送られて、召集所へ向かった。四〇〇には六人しか参加しない。風邪気味でコンディションのすぐれない堀内がリレー以外の種目を見合わせたので、阿佐高の選手は僕一人だ。
 第三コースのスタート台に立つ。
「イ、シ、ガ、ミー!」
「三コース! ファイトー!」
 スタート台の向かい側には、チームメイトが集まり、エールを送ってくれた。ローカルの練習試合なので、水際での応援が許されている。
その人垣の中に圭美もいた。プールをはさんで二五メートル向こうと目が合った気がした。
 スタートの準備をうながす笛が鳴る。
「位置について」
「よーい」
 僕は上体を落とし、静止する。ここで動くと、審判にフライングの反則をとられる。僕はいつもスタート台の左右の角を手でつかんだ。脚で蹴るのと同時に両手でスタート台をグイッと押す。二本の脚と二本の手、四点で跳ぶと、より鋭いスタートを切れる。
 ピストル音を合図に、参加選手六人がいっせいにスタート台を蹴った。
僕の反応はよかった。入水の時点で、明らかに一番前にいた。六人しか参加していないから、水の上を跳んでいる時に全選手が視界に入る。
 二五メートルプールで競技を行う短水路なので、四〇〇メートルは八往復になる。トータルの距離を数え間違えないように、三五〇メートルのターンの時に係員が水面近くで鐘を鳴らしてくれる。
 アップの時のいいコンディションを維持していることはすぐにわかった。水をしっかりキャッチしている。
 先頭を泳いでいることに気づいたのは、二〇〇メートルのターンが近づいた頃だった。自分よりも前に泳いでいる選手が見当たらないのだ。
僕は右サイドで呼吸をするが、往路で右を泳ぐ第一コースと第二コースの選手は僕よりも後ろにいた。二〇〇メートルのターンをして復路を泳ぐと、呼吸の時に第四コースから第六コースの選手の様子もわかる。三人とも、僕の後ろを泳いでいる。二〇〇のターンを一位でまわったのだ。
 ただし、隣の第四コースとは競っていた。その選手はしっかりとついてきている。わずかに体半分だけ僕が前を泳いでいた。
〈隣は誰だっただろう……〉
 スタート前の選手紹介の記憶をたぐり寄せる。名前は思い出せないが、確か弥生高の二年生だった。
 自分の不運を思った。青木に「気楽に泳いで来い」と送り出された四〇〇メートルである。よほどひどいタイムでなければ、とがめられないだろう。
 ただし、例外があった。「競ったら負けるな」とは常に言われていた。
 水泳というスポーツは、よほど力が拮抗していない限り、実力とコンディション通りの結果になる。
たとえばプロ野球では、最下位のチームが一位のチームに勝つことは珍しくない。サッカーも、リーグで下位のチームが上位に勝ことはある。そういう実力差のある対戦での番狂わせが、水泳ではほとんど起こらない。
だから、圧倒的に力が上の相手に負けても、先輩には「明日からまた頑張れ」と言われるくらいだ。
 しかし、同じレベルの選手との競り負けは許されなかった。実力ではなく、心で負けたことになるからだ。先輩たちには根性ナシのレッテルを貼られ、後輩たちは目を合わせず、翌日からさらにきつい練習が課せられる。
 自分が勝負をかけている種目なら競ってもいい。競うことでいいタイムで泳ぐ可能性が高まる。
ところが、試しで出場した四〇〇で競るとは――。しかも相手は二年生だ。「下の学年には負けるな!」とも常々言われていた。そしてもう一つ、宮前高、弥生高には勉強でかなわないから「水泳くらいは勝て!」とも代々言い継がれている。
 僕に選択肢は与えられていなかった。たとえ練習試合でも、後で出場する専門種目の一〇〇メートルやリレーのための力を使い果たしても、真剣勝負をするしかない。腹をくくり、後半の二〇〇メートルへ気を引き締めた。
 二五〇メートルを先頭でターンした時にわかったことがある。第四コースの弥生高の二年生のほうが僕よりも速い。では、なぜ僕が前を泳いでいるのかというと、弥生高の二年はターンが下手だった。回転のスピードが遅くて失速する。ターンの度に体一つ分僕が前に行き、二五メートルで追いつかれそうになり、またターンで引き離す。そのくり返しだった。
 ターンの技術が高いと、その都度休息にもなる。泳いできたスピードを生かして体を回転するターンは体力を使わない。その間は一秒にも満たない。しかし、このわずかな休息がばかにできない。壁を蹴った後は明らかに疲労が回復している。
「ラスト二五メートルの勝負になる」
 確信した。このまま泳ぐと、最後のターンで体一つ分僕が前に出る。そこからが本当の勝負だ。相手は全力で追い上げてくる。こっちは全力で逃げる。つかまるか。逃げ切れるか。
横目で弥生高二年の位置を確認した。大丈夫だ。差はつめられていない。
 ラストの勝負に勝つためには、今のスピードを落とさずに、できるだけ体力を温存したい。そのためにはどうすればいいか――。
 僕は基本に立ち返ることにした。泳ぎながら、ふだん青木から注意を受けていることを再点検する。
〈肘は落ちていないか?〉
肘を立て、上腕全体で水をキャッチする意識を強く持った。
〈キックは打てているか?〉
ストロークに合わせ無駄のないリズムでビートを打ち、下半身を安定させた。
そして、できるだけ遠くの水をつかんでくるように自分に念押しした。肩を前につっこみ、指先まで意識を届かせた。
〈もっと遠くの水をつかめ〉
 自分に命じる。
〈もっと遠くへ手を伸ばせ〉
呪文のようにとなえる。徐々に肩がリラックスしてきた。肩甲骨から大きく腕をまわすことができている。
プールの中は青の世界だ。ゴールの壁に向かってグラデーションを描いて濃くなっていく。その青と自分が同化しているように感じられる。
 三〇〇メートルも先頭でターンした。僕の前には誰もいない。ペースは落ちていないのに、不思議とまだ疲労を感じない。このまま水と一体化する意識で余力を残せば、最後の二五メートルは全力でいける。
 三五〇メートルもトップを維持した。
 ターンの時、頭の上でラスト五〇メートルを知らせる鐘が響いた。勝負の時が近づいてきた。緊張感が高まる。
 最後のターンへ向けて、弥生高の二年生を横目で確認する。体半分後ろをついてくる。僕の尻のあたりに相手の頭がある。ターンでもう半身引き離せるはずだ。
 呼吸のために顔を上げると、チームメイトたちの応援が耳に届いた。
「石神、行け!」
「逃げ切れ!」
 応援は思いのほかはっきりと聴き取れ、誰の叫び声なのかがわかった。野波と秋吉だ。
「しっかりとかけ!」
 強い指示が聞こえた。くぐもった声の主は津村だった。
 いよいよターンだ。目の前に壁が迫ってきた。泳ぎながら体を返すタイミングを意識する。利き腕の右手から入るのが理想だ。しかし、フォームが変わったり、コンディションがよかったり、悪かったり、自分の泳ぎに変化があると、ストローク数が増減し、左手からターンに入ることもある。
 右か? 左か? よし、右だ。スピードに乗ったいいタイミングで体を反転できた。壁を思い切り蹴る。体を目一杯伸ばし、一回、二回、ドルフィンキックを打つ。
右手で水をキャッチしてきて、呼吸のために顔を上げたその時、激しい叫びが聞こえた。
「賢介、勝って!」
 圭美だった。
 僕はピッチを上げていく。もっと上げたい。上げることはできる。しかし、あせると、水をしっかりつかめずに、腕が空回りになってしまう。
〈あせるな。ピッチを抑えろ!〉
 自分に言い聞かせる。
〈がまんだ!〉
 念押しする。
〈もっと遠くへ、もっと遠くへ手を伸ばすんだ!〉
弥生高の二年はぴったりついてきている。
 ぼんやりした青の視界に、ゴールの壁が見えてきた。
 あと七メートル、五メートル……。
壁がはっきりと見えた。
 ピッチを上げ過ぎず、遠くの水をできるだけたくさん運んできて、最後までかき切る。苦手なキックを目一杯打つ。下半身が水に浮き、フォームが安定する。
 三メートル、二メートル、一メートル……。
 コンクリートの壁に思い切りタッチした。水飛沫が飛び、同時に頭を水から上げ、隣のコースを見た。
僅差で勝った。練習試合とは思えないほど、自陣もプールの水際の応援隊もわく。タイムは自己ベストを更新した。下級生に競り負けなかったことに安堵し、圭美の目の前でレースを制した喜びがわいた。
水泳は勝者よりもはるかに多くの敗者を生むスポーツだ。十人で競ったとして、勝者は一人。残りの九人は涙を呑む。苦しい練習を耐えても負けることの方が多い。
それでも、努力を積み重ねると、ときどきこの日の四〇〇メートルのようなご褒美をもらえる。努力なしには、ときどきのご褒美もない。
 自陣に戻ると、長身でオレンジ色のジャージ姿の男が青木と話していた。木下だった。久しぶりに見る木下はわずか二歳上とは思えないほど大人に見えた。
「石神君、いいレースだったよ」
 僕に気づくと、握手を求めてきた。戸惑いながらも、握り返す。木下の長い指は、スポーツマンにしては細く、繊細さが感じられた。この手は圭美の腰や胸に触れたのだろうか。
僕はほんの数分前の激しいレースの滴をまとい、呼吸は戻っていない。
「今お前が競った弥生の二年は、今年転校してきた佐久間という短距離専門の選手だそうだ。今日はしばらく泳いでいない四〇〇でタイムを計って、力がついているか確認したらしい」
 青木が言った。
「短距離選手ということは、佐久間君とは一〇〇や二〇〇でも一緒に泳ぐわけですか?」
「そういうことなる」
「一日に何レースも競るのはきついなあ」
 つい本音がでる。
「四〇〇は石神君と競ったおかげで、うちの佐久間は自己ベストを大幅に更新した。感謝してるよ。来年のうちのエース候補だからね」
 木下は本心から言っている様子だ。
「泳ぎそのものは、僕よりも佐久間君のほうが速いですよ。四〇〇で僕が勝てたのは、スタートとターンの差でした」
「明日から、佐久間にはスタートとターンをみっちり練習させる。本人が自分の弱点をはっきりと自覚できたことでも有意義なレースだった。四〇〇に出場させてよかったよ。ターンの少ない一〇〇では、あそこまで自分の弱点を思い知ることはなかったはず。今までも口を酸っぱくして指摘してきたけれど、あいつも今日ほど身にしみたことはなかっただろうからね」
 そう言うと、木下はストップウォッチを手に青木の傍らに立つ圭美に視線を向けた。
「君のお兄さんには聞いていたけど、ほんとうに阿佐高のマネージャーになったんだね」
 木下が穏やかなまなざしを向けた。
「はい。先月入部いたしました」
 圭美はぎこちない敬語で対応する。
「そうか……。阿佐高はいいチームだよ。オレは青木と同学年だけど、練習法をずいぶんと参考にさせてもらっている」
「私、さっき木下さんの後輩に競り勝った賢介のタイムを毎日計っています。彼は次も負けません」
 圭美が木下に挑発的な目を向ける。ずっと「石神君」だった呼び方が、四〇〇の応援から「賢介」に変わったことに心の近さを感じた。しかし、彼女の「次も負けません」という発言にはとまどった。
〈そんなに毎回勝てないよ〉
喉まで出かかった本音を抑えた。圭美に失望されたくなかった。

 一〇〇メートルと二〇〇メートルも、僕は少しずつ自己ベストを更新した。四〇〇で激しく競った疲労を考慮するとかなり喜ばしい。
佐久間も同じ種目にエントリーしていたけれど、参加人数の多い一〇〇と二〇〇は三組ずつレースがあり、一緒の組で泳ぐことはなかった。タイムはほぼ同じで、一〇〇は佐久間が〇・五秒、二〇〇は僕が〇・九秒速かった。佐久間の一〇〇はターンが少ない分僕よりも速いのだろう。
 この日、もっとも白熱したのは女子二〇〇メートル個人メドレーだった。
三校で計五人が参加したレースは、阿佐高の秋吉と弥生高の岡林が他の選手を圧倒し、一騎打ちの展開になった。
秋吉と岡林はおたがい強烈に意識し合っていた。小学生と中学生のころに同じスイミングクラブに所属して、競い合ってきたのだ。しかも、秋吉は中学時代に、岡林は高校で木下の後輩として指導も受けている。
 いつもの通り、先行したのは秋吉だ。バタフライと背泳ぎで体一つ半、岡林の前を泳いだ。もともと自由形の選手だった秋吉は、クロールと同じ筋肉を使うバタフライと背泳ぎも速い。しかし、次の平泳ぎが弱点だった。
平泳ぎは、やはりいつも通りの展開で、岡林が追い上げてきた。平泳ぎ出身の岡林は、ここで秋吉に追いつくだけではなく、追い抜いてどれだけ差をつけられるかが重要だ。
背筋を使い上体を上げて呼吸する平泳ぎは選手の表情や目線がよくわかる。二人は呼吸の度にライバルの位置を横目で確認していた。秋吉の目はふだんのもの静かな彼女からは考えられないほど鋭い。
平泳ぎの後半、岡林が秋吉を捕らえた。逃げようとする秋吉、抜き去ろうとする岡林。
「秋吉、踏ん張れえー!」
「岡林、抜けー!」
両チームの応援も激しさを増す。
岡林が秋吉を抜き、体半分前に出て、一五〇メートルのターンをした。ラスト五〇メートル、クロールでの勝負だ。
先にターンした岡林は、四ストロークに一度、左サイドで呼吸をする。追う秋吉は、三ストロークに一度の呼吸。つまり、左右交互に水面から顔を上げる。秋吉は両サイドで呼吸することによって安定したフォームを維持していた。クロールの前半二五メートルは、二人はほぼ同じペース。体半分の差は縮まっていない。しかし、最後のターンで壁を蹴り水面に出たところから、秋吉は明らかにギアを切り替えた。スタミナに自信があるのだろう。ラスト一五メートルで呼吸の回数を減らし五ストロークに一度にした。
強い――。こういう時に、後半にギアを上げるためのスロウ&ファストや、呼吸数を減らすラング・バスターの成果が表れる。秋吉はラスト七メートルで岡林を捕らえ、そこから一気に抜いた。
三校だけの練習試合とは思えないほどレベルの高いレースだった。阿佐高、弥生高の選手はもちろん、宮前高の選手たちも立ち上がって観戦し、ゴールした秋吉と岡林は拍手に包まれた。激しい争いをしたことが嘘のように、二人はコースロープ越しに手を握り合いおたがいを讃えた。
 練習試合の最終種目、男子四〇〇メートルリレーの招集がかかる。この日は、各校AB二チームずつの六チームで泳ぐことになっていた。阿佐高は、堀内、津村、野波、僕の順番で泳ぐAチームと、二年生と一年生混合のBチームが編成された。
 肩を大きくまわしてほぐしていると、圭美が歩み寄ってきた。
「賢介、勝ってね」
 そう言って、僕の胸に触れ、指を這わせた。心がざわついた。圭美は木下のこともこうして励ましたのだろうか。
「うん……」
動揺を悟られたくなくてそっけない返事をした。レースに向けて集中したい思いと、圭美の期待に強く応じたいのに目も合わせられないもどかしさで落ち着かない。
 阿佐高は、第一泳者の堀内から第四泳者の僕まで、持ちタイムの速い順で泳ぐ。できるだけ長く先頭集団で競ることで、もつ力を最大限に発揮させるのが青木が考えた戦法だ。
 自陣からスタート台へ向かう時、リレーが始まる前のプールでクールダウンをしていた秋吉が前から歩いてきた。すれ違いざま視線が合う。
「頑張ってね」
気合を入れるように僕の上腕を平手でぴしゃりと叩いた。その一撃で胸に残る圭美の指の感覚は消え、心が戦闘モードに戻った。
「おう!」
 秋吉に応えてすれ違う。心を寄せる相手が秋吉だったら、苦しみは少なくてすんだのかもしれない。
 僕たちに与えられたのは第四コースだった。弥生高、宮前高それぞれのAチームにはさまれるコースだ。
「石神さん」
 呼ぶ声にふり向くと、四〇〇メートルで競った弥生高の二年生だった。
「佐久間君?」
「はい。四〇〇で隣でした」
「君のおかげで苦しいレースになったよ」
「リレーは勝ちます」
 あらためて近くで顔を合わせると、佐久間は頬がすっきりとして、きれいに刈り上げた後頭部が大きい。いかにも頭がよさそうだ。
「佐久間君は何番手?」
「石神さんと同じ第四泳者です」
「また一緒か。できれば今日はもう競りたくないけど」
 佐久間と会話をしているうちにレースをスタートさせる合図の笛が鳴った。各チームの第一泳者がスタート台に立つ。
「堀内、頼むぞ!」
 後ろから声をかける。
「位置について」
「よーい」
 参加選手全員がスターターの握る鉄砲の音に集中する。
 空を貫くようなピストル音とともに六人の選手が飛び込んだ。
 堀内の調子はよさそうだ、風邪気味ではあるが、ほかの種目の出場を見合わせたので、体力を温存できている。
 予想通り、弥生高、宮前高、阿佐高、三校の各Aチームがトップを争う展開になった。阿佐高の第二泳者は津村だ。肩をほぐしながら、スタート台に上がった。自信ありげな笑みを浮かべている。
 両隣と競りながら、堀内が戻ってきた、スタート台で津村が慎重にタイミングを合わせる。
前を泳ぐ選手のタッチと同時に次の選手の足がスタート台を離れるのが理想的な引き継ぎだ。それよりも速く跳べばフライングの反則をとられるし、遅ければレースで不利になる。だから、前の泳者のタッチの速さやクセを体で覚えておく必要がある。そのために、毎日、全体練習の後に引継ぎの練習も重ねてきた。
 堀内が壁にタッチすると同時に津村が跳んだ。抜群のタイミングだ。
「よし!」
 思わず僕は叫んだ。
 体調がよくないながらも責任を果たした思いが強いのだろう。堀内はほっとした表情で、水から上がる。
 プールでは、それぞれのチームの第二泳者が飛び込み、なお三校のAチームがトップを争っている。
 その時、第三泳者の野波が僕の水着を力なく引っ張った。
「石神……」
 ふり返ると、目の前に不安そうな表情があった。
「野波、どうした?」
「まずい……」
「なんだ?」
「がまんできそうにない」
 野波が何をうったえているのか。その苦しそうな表情から察した。尿意か。あるいは便意か。小用のほうであれば、プールの中で泳ぎながらしても、誰にも気づかれない。
「トイレか?」
「うん……」
「まさか大きいほうか?」
野波がうなずく。プールから上がったばかりで激しく肩で息をしている堀内も、驚いた顔で野波を見る。
「レース前にしておかなかったのか?」
「行った。でも、ほとんど出なかったんだ。それで、今、さしこみがきた。腹がきゅるきゅるする。このまま飛び込んだらもらす。悪いけど、オレはトイレへ行く。すぐに戻る。でも、もし間に合わなかったら、石神が第三泳者で泳いでくれ」
 早口で告げると、ギリギリなのだろう、野波は内股で、歩幅は狭く、でも、猛烈な勢いで脚を動かし、トイレに走って行った。
「レースが始まってから泳ぐ順番を変更したら失格だっけ?」
 まだ肩で呼吸をしている堀内に確認する。
「たぶんアウトだけど、練習試合だから、誰も文句は言わないんじゃないのか。石神、三番手で泳いでくれよ。野波は間に合わないと思うよ」
 自分が泳ぎ終わっていて緊張がほぐれているせいもあるが、堀内は動じない。さすがキャプテンだ――と、妙に感心した。
 プールでは三チームの競り合いが続いていた。体四分の一ほど、津村がリードしている。
津村のクロールは一〇〇メートル一分を切る。野波が一分以内にトイレから戻るのは難しいだろう。僕が第三泳者で泳ぐつもりでいたほうがよさそうだ。
 背中に視線を感じ、ふり返ると、弥生高の佐久間と目が合った。こちらの状況をうかがっていたのだろう。落胆するような、憐れむような目だ。
「佐久間君、すまんが、一緒に泳げなくなった。こっちは急きょ第三泳者に変更された」
「そうらしいですね……」
「またいつか一緒に泳ごう」
 佐久間の横で、弥生高のほかのメンバーが下を向いて笑いを抑えている。
「石神さんが卒業する前に、ぜひ」
 プールの中では、あと一〇メートルのところまで津村が近づいてきた。
 弥生高と宮前高の第三泳者はすでにスタート台に立っている。気持ちを切り替えて、第三泳者でいくしかない。
「というわけで、のんびりしているわけにはいかなくなった。では、お先に」
 そう言って、僕もスタート台に上がった。
 まだ野波の姿は見えない。
〈落ち着け〉
自分に言い聞かせる。
つかの間目を閉じて、津村のタッチを思い出そうとした。
ずっと野波のタッチに合わせて練習してきたので、津村のタイミングやクセはぼんやりとしかわからない。非常事態だからしかたがない。津村のタッチをギリギリまで目で追って飛び込もう。
 スタート台の上で、津村のストロークに合わせ、上体を落としていく。
リレーの引き継ぎの時、僕はスタート台に手を触れず、脚だけで跳ぶ。顔を上げ、前の泳者の泳ぎに目線を合わせるからだ。リレーでは第二泳者から第四泳者までは体を静止させなくてもフライングはとられない。
三メートル、二メートル、一メートル……。
津村の壁へのタッチと同時に、スタート台を蹴った。
 水に入ると、大きくドルフィンキックを打つ。一回、二回……体が水面に上がってきたら、左右各三回思い切りバタ足を打ち、水面で体を安定させる。状態はいい。
阿佐高は速い順番にオーダーを組むが、ほかのチームは、第一泳者と第四泳者が速く、第二泳者と第三泳者はやや力が落ちる。津村がつくったリードを守って、野波につなげたい。僕が一〇〇メートルを泳ぐまでには、野波は戻ってきているだろうか。気になるが、考えてもしかたがない。今は自分の泳ぎに集中するべきだ。
 二五メートルのターンをしたあたりから、体が水にのっているのがわかった。
ターンで壁を蹴り、二ストロークかいたところで体が水と同化している気がした。アップの時のあの感覚だ。ブルーの視界の中を前に進みながら、体と水との境界があいまいになる自分を感じる。腕に力がみなぎっていた。
〈もっと遠くの水をつかめ〉
 五〇メートルのターンを折り返す。大きな何かに包まれ、励まされているようだ。七五メートルのターンの後はただ無心で前へ進んでいった。
僕は持つ力をすべて出し切って、一〇〇メートルを泳ぎ、野波に引き継いだ。
 弥生高での練習試合のリレーは勝てなかった。第四泳者の野波が本来の力を発揮できなかったのだ。トイレから戻った直後とはいえ、泳ぎに問題はなかった。しかし、あわてていたので水着をきちんとはかないままプールに飛び込み、水の中を進みながらずり下がった。
脱げるのを恐れた野波は水中で素早く回転するクイックターンではなく、平泳ぎやバタフライと同じ水面から顔を上げ水の抵抗の大きいオープンターンを使い、壁を蹴る度に手で少しずつ水着の位置を直した。その結果、ターンの度にほかのチームに差をつけられたのだ。各校のAチームに引き離されたばかりか、Bチームにも抜かれそうになった。
それでも、堀内と津村と僕は自己ベストを更新して、いい状態で東京都の公式戦に臨めそうだ。
特に今季初めて自己ベストを記録した堀内のはしゃぎようといったら大変だった。試合後の更衣室では久しぶりにベストパンツにキスをした。

 試合の翌週の日曜日、日比谷のみゆき座で、僕は圭美と映画を観た。公開したばかりの『ラスト・ワルツ』という作品だった。アメリカのロックバンド、ザ・バンドの解散コンサートを撮影したドキュメンタリーだ。監督は二年前に『タクシー・ドライバー』を世界じゅうでヒットさせたマーティン・スコセッシである。
 日比谷の映画街の中でも、女性向けの上映が比較的多いみゆき座は初めてだった。そもそも僕にとってロードショー劇場は敷居が高かった。水泳部にいるとアルバイトをする時間もない。お金がないから、みゆき座のような大きな劇場ではなく、入場料の安い名画座で二本立てや三本立てばかり観ていたのだ。
 映画に圭美を誘う電話をかけるのに、僕は汗でTシャツが体に張り付くほど緊張した。
圭美の家に電話をするのは初めてだった。水泳部のほかの女子にも、部の連絡事項以外では電話をかけたことはない。
「映画のチケット、二枚、もらったんだけど、日曜日に付き合ってくれないかな」
 たったこれだけの用件を言うためにせりふを紙に書き、自宅近くの公園で何度も予行演習をした。チケットを二枚もらったというのは、もちろん嘘だ。圭美と一緒に観るためにプレイガイドで買った。
自宅から電話はできない。うちの電話機は玄関にあり、話し声が家じゅうに響く。
僕はてのひらからこぼれそうな数の十円玉を握りしめ、夜、近所の煙草屋の前にある電話ボックスへ出かけた。
しかし、いざ電話をかけようとすると、緊張でダイヤルが回せない。水泳の公式戦ですら経験がないほど、口の中がからからに乾いた。
東京二十三区間への電話番号は七桁だったが、ダイヤルを六桁まで回してはやめる。また六桁まで回してやめる。それを情けなくなるほどくり返した。
〈圭美の親父がでたらどうしよう……〉
 それを思うと、ダイヤルの最後の一桁をまわせないのだ。時間が遅くなるほど、父親が在宅している確率は高まる。圭美には兄もいる。木下と親しいはずだ。それを思い出して、ダイヤルをまわす指が震えた。
 結局、公衆電話の前に一時間以上いた。僕がぐずぐずしている間に五人が電話をかけにきて、その都度順番を譲った。
 ようやくダイヤルを回し、受話器から響く声が圭美だとわかった時には、喜びと安堵で、それだけで目的が果たせた気がした。
「映画のチケット、二枚、もらったんだけど、日曜日に付き合ってくれないかな」
 何十回もリハーサルを行ったせりふなのに、棒読みするようにして圭美を誘った。
僕が選んだ『ラスト・ワルツ』はたぶんデートにはふさわしくない。でも、ヒット中の『サタデー・ナイト・フィーバー』や『キタキツネ物語』のような映画を好んで観るタイプだと思われたくはなかった。それに、僕は『ラスト・ワルツ』で ザ・バンドが演奏する「ウェイト」や「イット・メイクス・ノー・ディフェレンス」のような埃っぽいアメリカンロックが好きだった。
圭美とは新宿駅で待ち合わせて、地下鉄丸ノ内線で銀座へ出て、日比谷まで歩くルートを選んだ。往きの電車でも、映画館でも、会話はほとんど圭美がリードした。
「賢介、映画はよく観るの?」
「たまにね」
「女の子を誘うの?」
「いや、堀内や野波と。でも、一人で観に行くことが多いかな」
 緊張で、必要以上にぶっきらぼうに答えてしまう。なにしろ、生まれて初めて、女の子と二人で映画を観るのだ。
「津村君とは?」
「あいつはストリップとか、ポルノとか、裸の専門家」
「秋吉さんとは?」
「まさか。部活以外で秋吉と二人で会ったことは一度もないよ。それに、秋吉って、水泳以外に興味あるのかな」
「そんな、失礼だよ。うちの部の男の子たちはがさつだから気がつかないだけで、秋吉さんはおしゃれとか、恋愛とか、興味あると思うよ。きれいだし」
「そうかなあ……」
「そうだよ」
 僕はこの日、圭美にどうしても言いたかったことを思い切って口にした。
「星野のこと、圭美、って、名前で呼んでいいかな? オレだけ賢介って、名前で呼ばれてるの、不公平な気がするんだよね……」
「不公平」という表現がおかしかったのか、圭美はくすくすと笑った。
「とにかく、圭美と呼ばせてもらうよ」
「うん」
 スクリーンでは予告編が始まった。『帰郷』という、ベトナム戦争の後遺症を描いたアメリカ映画だった。ジェーン・フォンダと、傷痍兵なのだろうか、下半身が不自由なジョン・ヴォイドが裸で抱き合っている。
中学生の時に池袋の文芸坐で『真夜中のカーボーイ』を観てから、僕はジョン・ヴォイドという俳優が好きだった。スクリーンには『真夜中のカーボーイ』よりも歳をとって脂肪ののった姿が悲しげに映し出されている。場面が変わった。今度はローリング・ストーンズの「アウト・オブ・タイム」をバックにブルース・ダーンが走っている。泣きそうな顔だ。『帰郷』の登場人物はみんな悲しそうだった。
「ベトナム戦争って、ほんのちょっと前、私たちが小学生の頃のことだよね……」
 スクリーンを見つめたまま圭美がつぶやいた。
『ラスト・ワルツ』の本編が始まった。一九七六年の感謝祭の夜にサンフランシスコのウインターランド・ボール・ルームで行われたザ・バンドの解散コンサートの映像だ。曲と曲の間に、監督のスコセッシによるメンバーのインタビューが挿入されていく。
映画の前半部、ベーシストのリック・ダンコが「イット・メイクス・ノー・ディフェレンス」を歌った。
土の匂いを感じるロック。それでいて、歌詞は切ないラヴソングだった。自分のもとを去った恋人への愛の深さ、大切な女性を失った苦しさが歌われる。ベースを弾きながらヴォーカルをとるリック・ダンコの声に哀愁がにじんだ。
映画では、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、マディ・ウォーターズ、エリック・クラプトン、ボブ・ディラン……が次々と登場して、ザ・バンドの演奏とともに歌う。
『ウッドストック』とか『ギミー・シェルター』とか『トミー』とか、僕はいくつものロック映画を観てきた。でも、『ラスト・ワルツ』はそれまで観たどの作品とも違っていた。全編を通して悲しみに満ちているのだ。
出演するミュージシャン全員が必死に何かに耐えて演奏している。ザ・バンドとの別れは “ザ・バンドがいた時代”との別れであり、自分の青春期との別れでもあったのだろう。それをありのまま、スコセッシがフィルムに収めている。
インストゥルメンタルの「ラスト・ワルツのテーマ」が流れるエンドロールでは、僕も圭美も瞳を潤ませていた。
「ロックでこんなに悲しくなったの、私、初めて」
 劇場を出た時、圭美は目を赤くしたままつぶやいた。
 焦点の合わない目でニール・ヤングが歌った「ヘルプレス」、やはりうつろな目でロビー・ロバートソンに口づけてジョニ・ミッチェルが歌った「コヨーテ」、そしてエンディングでザ・バンドが演奏した「ラスト・ワルツのテーマ」……。
ロビー・ロバートソンの切ないギターの調べがまだ僕たちの心の中で鳴っていた。
 この世には永遠はない。すべてに終わりがある。十七歳の僕はそれに気づかずに過ごしていた。
 映画の後、僕たちは日比谷公園の中にあるカフェで遅いランチをとった。圭美はフレンチトーストと紅茶、僕はピザトーストとコーヒーを選んだ。三十度を超える暑さにもかかわらず、窓の外のテラスでは外国人が楽しそうに食事をしている。阿佐谷では見ない風景だ。
「この前、私がなんで水泳部に入ったか話したでしょ」
「うん」
「賢介はなんで水泳部に入ったの?」
 圭美が思い出したかのように訊ねた。
「なんとなく、かな」
「えっ、そんなはずないでしょ?」
「でも、なんとなくなんだよ。同じ中学出身の岩岡というやつに誘われて、しかたがなく入部した。岩岡は入学してすぐに秋吉が好きになってさ。二五メートルしか泳げないのに水泳部に入った。理由が理由だからそいつは一人で入部するのが嫌で、一か月でいいから一緒にやってくれ、ってオレに頼んできたんだ」
 一年生の時、岩岡は秋吉と同じクラスだった。
「岩岡君って、私、知ってる。いつも騒いでいるにぎやかな人だよね」
「うん。で、岩岡、すぐにクラスの別の子が好きになって。それで辞めちゃった」
「なんで賢介は残ったの?」
「タイミングを逃したというか……。一年生が一人辞めると、退部が連鎖しないように、先輩のマークが厳しくなるからね。授業が終わると、教室に毎日二年生が迎えにきたんだ」
「そんな理由?」
「あと、青木先輩がまだ三年生で、練習の帰りに毎日メシ食わせてくれたんだ。OBから金を集めてきて。それで、辞めづらかったというのもあるかな。青木先輩、三年生の時にもう下級生に泳ぎを教えていてさ。高校生なのにおっかない顔で、厳しくて。でも練習が終わると優しくて、メシ行くぞ! って。オレも、堀内や野波もだけど、腹減ってるから、付いて行っちゃうだろ。で、辞めづらくなったわけ」
 競泳の経験がない上に体ができていない一年生の頃は、練習がきつくてよく嘔吐した。毎日「今日で辞めよう」と思っていた。でも、練習の後みんなで食事をしていると「もう一日だけ泳ぐか」とあきらめる。そのくり返しだった。
「鞭と飴だね。暴力団の懐柔策みたい」
 圭美があきれた表情で言う。
「二年になると後輩が入ってくるだろ。辞めづらい雰囲気になって、その頃になると体もできてくるから、練習にも前向きになるし、速くなりたくなるし。だけど……、水泳部を辞めちゃいけないというか、辞めたら自分がだめになる気はしていたかな」
 それは、この日圭美と話して気づいたことだった。
三年間、さんざんしぼられて、「もう泳げません」という言葉が何度も口からでかかった。しかし、練習中、自分では「もう無理」と思っていても、青木は「あと十本行け」と言う。すると、意外にも十本泳げてしまう。さらにもう十本も泳げてしまう。
人間は自分で限界を感じていても、実はまだかなり頑張れることを体で覚えこまされた。そうしているうちに、水泳部を辞めたらこの先の人生で待っているあらゆる困難に耐えられない自分になるんじゃないかと怖くなってきた。
「私、練習中青木先輩と一緒にいること、多いでしょ。すごく優しいよ。水泳が大好きだから。私が質問すると、わかりやすく教えてくれるんだ。賢介の泳ぎのことも、いろいろ。賢介、午後になって疲れてくると、泳ぎが変わるでしょ?」
「うん、肘が落ちてくる」
「それに、体の下じゃなくて、少しだけだけど、手が外側に流れて、体から離れた水をかくようになるの、気がついてた?」
「いや。でも、言われてみると、そんな気がする」
 クロールは、体の外側の遠い水をかいてもあまり進まない。体に近い真下の水をかいてこそスピードにのる。
「私、青木先輩に、賢介の水をかく軌道が変わったら報告するように言われているの」
「それで、オレ、夕方が近づくころになると、青木先輩に呼ばれてフォームを修正されるのか。なんでこのタイミングで呼ばれるんだろう、っていつも思ってた」
圭美が僕の泳ぎの変化を逐一報告していたのだ。
「青木先輩、水泳も好きだけど、賢介たちのことも好きだよ。堀内君のことも、野波君のことも、津村君のことも。厳しいけれど、本気で怒ったところは見たことないでしょ。この前の練習試合のリレーで、野波君、トイレに行っちゃったじゃない。それで負けて、私、どうなることかと心配してた。でも、あのときだって、青木先輩、怒らなかったもんね」
 あのとき確かに青木はあきれた顔をしただけだった。

 五時くらいにカフェを出たが、夕方なのに、一気に汗が噴き出した、日比谷公園の中はまだ爆音のように蝉が鳴いていた。
国鉄の有楽町駅に近い門へ僕たちは並んで歩いた。まもなく公園の出口に着いてしまうという時、僕は勇気をだして圭美の手を握った。拒まれなかったことにほっとし、この時間を少しでも長く味わいたくて、歩くペースをゆるめた。
圭美ともっと親密な行為をしたい願望と、手をつなぐだけでも幸せとだという思い、相反する気持ちの間で心が揺れた。
暑さのせいなのか。緊張のせいなのか。てのひらが汗ばむ。自分の心臓の音が聞こえた。圭美は嫌がっていないだろうか。そればかりが気になった。
「もしも全国大会に行かれることになったら圭美も福島まで来てくれる?」
 いよいよ公園を出るとき、立ち止まって僕は訊いた。
「もちろん」
 僕の手を握る力がかすかに強まった気がした。今が永遠に続いてほしい。それまで味わったことがない幸せを感じた。
「あー、福島、行きてえなあー!」
 日比谷公園の輝くばかりの緑と蝉の鳴き声に向かって、僕は堀内のお決まりのせりふを叫んでみた。
 津村がどんどん加速していく。
五〇メートルのターン、七五メートルのターン……、まったく衰えない。無駄のないフォームだ。呼吸をするために顔を上げる時、津村の腰はほぼ直角に曲がり、上半身が垂直に立つ。そして、スピードにのったまま一〇〇メートルのタッチをした。
ストップウォッチを持つ二年生の健康優良児系マネージャーをみんながいっせいに見る。
「一分十五秒三。津村先輩、自己ベストです!」
 健康優良児がプール全体に聞こえるように叫んだ。
「オー!」
 感嘆の声とともに全員が拍手する。
 この日の津村は驚くべきコンディションで、練習中に自己ベストを三度も更新した。一〇〇メートル平泳ぎの全国大会出場の条件、一分十四秒にかなり近づいてきた。スタート台から飛び込まずに、しかも、さんざん泳いで疲労した体で自己ベストを更新するのは、泳ぎが驚異的に進歩している証拠だ。
 東京都大会まで十日を切り、水泳部は試合へ向けての調整期に入った。午前中はしっかり泳ぎ、午後はスタート、ターン、リレーの引継ぎなどの精度を上げる練習が中心になった。
徐々に泳ぐ量を減らし、体から疲労を取り除くことで、本番でベストコンディションになるように仕上げていく。それに伴って練習内容もレース本番をイメージしたダッシュ系が主になっていく。そのダッシュで、津村は自己ベストを更新した。
 東京都大会では、各部員、全国大会をねらえる種目だけに出場することになった。津村は、一〇〇メートルと二〇〇メートルの平泳ぎと四〇〇メートルリレーにエントリーした。堀内と野波と僕は四〇〇メートルリレー一本にしぼる。全国大会の可能性がない個人種目は出場せずに、気持ちも体力もリレーに集中するためだ。

 小便をしにトイレへ行くと、先客がいた。津村だ。景気のいい音をたてている。自己ベストがでると、小便の音も違って聞こえる。
「津村、ベスト、よかったな。練習で更新なんてすげえよ」
 僕も自分のものを引っ張り出して、小用を始める。こっちの音がしょぼく聞こえるのは気のせいだろうか。
「ああ……」
 津村は自分の放尿の行方をじっと見つめ、ぼそっと反応した。
「この調子なら、個人種目で全国、行けるんじゃないか」
「ここ一週間の調整次第だな」
 小便の落下点を見たまま津村は答えた。
「午後は体を休ませろよ。パチンコは自粛しろな」
 念押しすると、津村は最後のしずくをふり落し、僕のほうを見てにやりとした。
「石神、お前はヒラを泳いだことあるか?」
 唐突に訊いた。
「そりゃ、クロールの選手だって、時には平泳ぎもやるさ」
「いや、そういうんじゃなくて、本気でヒラを泳いだことはあるか?」
「試合で泳いだことがないからなあ……」
「そうか……。石神、一度本気で泳いでくれ。ヒラはいいぞ。すごくいい。石神にもわかると思う」
「お前は、平泳ぎが好きだからな」
 津村は同期の中では最後、一年の秋に入部して以来、平泳ぎ専門で練習を重ねてきた。リレーではクロールを泳ぐが、クロールの練習は最小限しかしない。それでも速くなる一方なので、誰も文句は言わない。
「石神、ヒラの腕のかきが何拍子か、知ってるよな?」
「三拍子だろ。一で水をかいて、二で肘をしめて、三で伸びる」
「そうだ。二で肘をしめる時に水の上に顔を上げて、呼吸をするだろ。あのとき目の前の水面に、ぼこって水が盛り上がるんだ。わかるか? それが、ものすごくきれいなんだ。光を反射して、水のかたまりがいろいろな色になるんだよ。瞬間だけど、小さな虹が見えることもある。興奮する」
「津村、泳ぎながらいつもそんなこと思ってるのか」
「まあ、もちろんフォームは気にしているけれど、時々、自分が練習していることも忘れそうになるくらい、水の光はきれいなんだ。しかも毎日変化する。毎日新しいんだよ。スピードに乗ってくると水が柱のように高く盛り上がる。オレはその水柱に顎を乗せるイメージで泳ぐんだ。肘をしめて、ぼこっと盛り上がった光の水柱に顎をのせる。すると、水がオレの体をどんどん前に運んでいってくれる。あれを体験すると、ヒラをやめられなくなる。オレは全国大会のプールで、光る水柱を見たい」
 こいつはほとんど黙ったまま、こうやって毎日の厳しい練習を乗り越えてきたのだ。
「津村は平泳ぎで全国行かれるよ」
 僕はさっきと同じことをもう一度言った。
確信に近かった。
 練習の後、校門を出ると、近藤商店の脇の路地で圭美が待っていた。プールから僕と一緒にいた堀内は気をきかせて「では、僕はここで失礼いたします」と慇懃に言い、さびた自転車をこいで去った。
みゆき座で『ラスト・ワルツ』を観てから、圭美と僕は毎日一緒に帰っていた。高円寺に住む圭美は、阿佐ヶ谷駅から中央線に乗る。中杉通りの欅並木を僕は彼女と並んで自転車を押した。学校の近くの道では手はつなげない。僕は圭美に触れたい気持ちを抑えて歩いた。
「津村君、すごく調子がいいね」
 圭美の言うとおり、今日は津村のためのような日だった。
「あいつ、個人種目の平泳ぎで全国大会へ行けるんじゃないかな。計っていないけれど、たぶんクロールも速くなっていると思う」
「リレー、全国行こうね」
「この夏、堀内も、野波も、オレも、受験勉強もせずに泳ぎ込んだ。これで行かれなかったら……、まあ、それでもやるだけのことは全部やったから、あとは全力で泳げば悔いはないかな」
 すると、にわかに圭美が厳しい視線を向けた。
「全力で泳げばそれでいいというのは、私、違うと思う。頑張ればそれでいいの? 全国大会へ行けなくても納得するの? 泳ぐ前から心の中に逃げ道をつくっちゃだめだよ。絶対に全国へ行くことだけを考えよう」
 思いもよらぬ圭美の激しい顔に僕はうろたえた。
「圭美の言う通りだな……」
「全国大会、私を連れていってくれるんでしょ?」
「うん」
 圭美が入部してからは、ずっと彼女の強い意思に牽引されるように練習し、タイムも縮めてきた。そして、今もこうして叱咤されている。
 僕たちは少しの間黙り、中杉通りを歩いた。歩道で正面から来る人をよけた時、圭美の体が僕に触れ、あまい汗の匂いがした。圭美を感じたくて、僕は強く息を吸った。
この一週間で、欅並木の蝉の声が少し変わっていた。ジージーという油蝉の中に、ツクツクボウシが混ざっている。
陽が短くなりツクツクボウシやヒグラシが鳴き始めると、夏休みも終わりに近づく。新学期に入り最初の週末が東京都大会だった。
「賢介、この前見た『ラスト・ワルツ』、ああいう映画だって知ってたの?」
「ああいうって?」
「私、ザ・バンドってよく知らなかったから、退屈すると思ってたんだ。ロックの映画って、ふつうはそのミュージシャンのファンが観るでしょ?」
「そうかもしれない」
「ビートルズの映画はビートルズのファン、ストーンズの映画はストーンズのファンが観るものでしょ? でも『ラスト・ワルツ』は違った。もちろん、ザ・バンドのファンは観ると思うけれど、ファンじゃなくても、切なかったり、儚さを感じたりしたんじゃないかな」
僕たちはたぶん、あの映画に何か自分たちの時代の終わりも見せられた。だから、涙があふれてきた。
「先週まで毎日一万メートル以上泳いでいてさ。疲れがたまって、練習行きたくねえなあ、って毎朝思っていたんだ。でも、今週、調整期に入って、練習量が一気に少なくなっただろ。一万泳ぐことはたぶん一生ない。すると、あんなに嫌だったキックの練習ですら、またやりたくなるんだ」
「私たちって、今あるものは当たり前だと思っているでしょ。それがある日突然なくなると、どうしたらいいかわからなくなっておろおろしちゃう。失って初めて知るものかもしれないね、大切なものって」
「映画の中のニール・ヤングも、ジョニ・ミッチェルも、ザ・バンドの最後のステージに立って初めて、自分たちがそこで失おうとしているものに気づいたのかも。だから、みんな、あんなに苦しい表情だったんだよ」
「賢介、堀内君や野波君や津村君と一緒に泳ぐの、たぶんあと数えるほどだよ」
「うん」
「リレー、頑張ろう。そして、全国大会でまた四人で泳いでよ。どこまで行かれるかわからないけれど、一回でも多く四人で泳いでよ」
「うん」
 欅の緑の間に阿佐ヶ谷駅が見えてきた。駅に着いたら圭美と別れなくてはならない。彼女は改札を抜け、電車に乗る。僕は構内を通り過ぎ、自転車をこいでいく。今日、二人で中杉通りを歩いた時間も二度と戻ってこない。