弥生高での練習試合で、僕は新しい水着で泳いだ。黒地でサイドにオレンジ色の鱗をモチーフにしたロゴが縦に並ぶデザインだ。前日、部活の帰りに寄ったスポーツショップでひと目見て気に入った。サイズはS。ふだん身につけている下着はMサイズだけど、水着はあえてワンサイズ下を選んで、小さい布の中に自分のものをていねいに収める。
試合の時は少しでも小さい水着をはいて、体にぴったりとフィットさせたほうが、抵抗が少なくて泳ぎやすい。だから、下着がLの選手は水着はM、下着がMなら水着はS、下着がSの場合は子ども用の水着をはいてレースに臨む。布の面積が小さいので、尻の割れ目の上部がやや露出した状態だ。
 弥生高のプールは六コースしかない。都心に近く、限られた敷地に無理矢理造ったからだろう。しかし、三メートルの飛び込み台があるため、底が深くて泳ぎやすい。
水深があると、泳ぐことによって生まれた波を水が吸収してくれる。逆に浅いプールは泳ぎづらい。泳いだ波がすぐに底に到達して戻ってくるからだ。
 ウォーミングアップは、宮前高、弥生高、阿佐高各二コースずつを使って行われた。二コースに二十人を超える選手が入り、五秒おきにスタートしていく。
 プールの水は阿佐高よりも冷たかった。校舎の谷間にあるので、日照時間が短いのだろう。アップは五〇メートルずつ、時計と逆回りで、コースの右側を往き、左側を戻る。泳ぐ順番は種目とは関係なくタイムの速い選手から。後ろを泳ぐ選手に追いつかれないためだ。
 そのアップの三本目だった。僕は明らかに昨日とは違う僕を感じた。体が軽く、水にのっているのがわかる。一回のストロークでいつもよりも進む。
 最初は気のせいかと思った。あるいは、一つのコースに大勢が泳いでいるので、川のような流れが生まれているのかと考えた。しかし、アップでこれほどの体の軽さを感じたことはなかったし、プールでは逆方向から泳いで来る選手もいるので、水の流れは一定していない。二五メートルで六コースしかないプールに七十人くらいの選手が泳いでいるから、お盆時の海水浴場のような人の密度になっている。水の流れは無秩序のはずだ。
〈この感覚を失いたくない〉
 そう感じて、すぐにプールから上がった。
「石神、どうした!」
 プールから離れた自陣で僕たちのアップをチェックしている青木が叫んだ。
「先に上がっていいですか!」
 叫び返す。青木の横で圭美もこちらを見ている。
「脚つったか?」
 心配顔の青木に向かって首を振る。
「いえ、そうではなくて、ちょっと今、泳ぎがいい感じになったので、このまま上がらせてください」
自陣へ向かって歩を早める。
「わかった。お前に任せる」
 青木の了承を得て僕はタオルで全身をふく。体を冷やさないようにすぐにジャージを着た。
 この日は、一〇〇、二〇〇、四〇〇メートル自由形と四〇〇メートルリレーの四種目に出場する予定だった。最初の種目は、アップの後すぐに行われる四〇〇メートル自由形だ。一〇〇メートルにしぼって練習している僕にとって、四〇〇はタイムを計ってコンディションを知っておく程度の出場になる。
青木に「気楽に泳いで来い」と送られて、召集所へ向かった。四〇〇には六人しか参加しない。風邪気味でコンディションのすぐれない堀内がリレー以外の種目を見合わせたので、阿佐高の選手は僕一人だ。
 第三コースのスタート台に立つ。
「イ、シ、ガ、ミー!」
「三コース! ファイトー!」
 スタート台の向かい側には、チームメイトが集まり、エールを送ってくれた。ローカルの練習試合なので、水際での応援が許されている。
その人垣の中に圭美もいた。プールをはさんで二五メートル向こうと目が合った気がした。
 スタートの準備をうながす笛が鳴る。
「位置について」
「よーい」
 僕は上体を落とし、静止する。ここで動くと、審判にフライングの反則をとられる。僕はいつもスタート台の左右の角を手でつかんだ。脚で蹴るのと同時に両手でスタート台をグイッと押す。二本の脚と二本の手、四点で跳ぶと、より鋭いスタートを切れる。
 ピストル音を合図に、参加選手六人がいっせいにスタート台を蹴った。
僕の反応はよかった。入水の時点で、明らかに一番前にいた。六人しか参加していないから、水の上を跳んでいる時に全選手が視界に入る。
 二五メートルプールで競技を行う短水路なので、四〇〇メートルは八往復になる。トータルの距離を数え間違えないように、三五〇メートルのターンの時に係員が水面近くで鐘を鳴らしてくれる。
 アップの時のいいコンディションを維持していることはすぐにわかった。水をしっかりキャッチしている。
 先頭を泳いでいることに気づいたのは、二〇〇メートルのターンが近づいた頃だった。自分よりも前に泳いでいる選手が見当たらないのだ。
僕は右サイドで呼吸をするが、往路で右を泳ぐ第一コースと第二コースの選手は僕よりも後ろにいた。二〇〇メートルのターンをして復路を泳ぐと、呼吸の時に第四コースから第六コースの選手の様子もわかる。三人とも、僕の後ろを泳いでいる。二〇〇のターンを一位でまわったのだ。
 ただし、隣の第四コースとは競っていた。その選手はしっかりとついてきている。わずかに体半分だけ僕が前を泳いでいた。
〈隣は誰だっただろう……〉
 スタート前の選手紹介の記憶をたぐり寄せる。名前は思い出せないが、確か弥生高の二年生だった。
 自分の不運を思った。青木に「気楽に泳いで来い」と送り出された四〇〇メートルである。よほどひどいタイムでなければ、とがめられないだろう。
 ただし、例外があった。「競ったら負けるな」とは常に言われていた。
 水泳というスポーツは、よほど力が拮抗していない限り、実力とコンディション通りの結果になる。
たとえばプロ野球では、最下位のチームが一位のチームに勝つことは珍しくない。サッカーも、リーグで下位のチームが上位に勝ことはある。そういう実力差のある対戦での番狂わせが、水泳ではほとんど起こらない。
だから、圧倒的に力が上の相手に負けても、先輩には「明日からまた頑張れ」と言われるくらいだ。
 しかし、同じレベルの選手との競り負けは許されなかった。実力ではなく、心で負けたことになるからだ。先輩たちには根性ナシのレッテルを貼られ、後輩たちは目を合わせず、翌日からさらにきつい練習が課せられる。
 自分が勝負をかけている種目なら競ってもいい。競うことでいいタイムで泳ぐ可能性が高まる。
ところが、試しで出場した四〇〇で競るとは――。しかも相手は二年生だ。「下の学年には負けるな!」とも常々言われていた。そしてもう一つ、宮前高、弥生高には勉強でかなわないから「水泳くらいは勝て!」とも代々言い継がれている。
 僕に選択肢は与えられていなかった。たとえ練習試合でも、後で出場する専門種目の一〇〇メートルやリレーのための力を使い果たしても、真剣勝負をするしかない。腹をくくり、後半の二〇〇メートルへ気を引き締めた。
 二五〇メートルを先頭でターンした時にわかったことがある。第四コースの弥生高の二年生のほうが僕よりも速い。では、なぜ僕が前を泳いでいるのかというと、弥生高の二年はターンが下手だった。回転のスピードが遅くて失速する。ターンの度に体一つ分僕が前に行き、二五メートルで追いつかれそうになり、またターンで引き離す。そのくり返しだった。
 ターンの技術が高いと、その都度休息にもなる。泳いできたスピードを生かして体を回転するターンは体力を使わない。その間は一秒にも満たない。しかし、このわずかな休息がばかにできない。壁を蹴った後は明らかに疲労が回復している。
「ラスト二五メートルの勝負になる」
 確信した。このまま泳ぐと、最後のターンで体一つ分僕が前に出る。そこからが本当の勝負だ。相手は全力で追い上げてくる。こっちは全力で逃げる。つかまるか。逃げ切れるか。
横目で弥生高二年の位置を確認した。大丈夫だ。差はつめられていない。
 ラストの勝負に勝つためには、今のスピードを落とさずに、できるだけ体力を温存したい。そのためにはどうすればいいか――。
 僕は基本に立ち返ることにした。泳ぎながら、ふだん青木から注意を受けていることを再点検する。
〈肘は落ちていないか?〉
肘を立て、上腕全体で水をキャッチする意識を強く持った。
〈キックは打てているか?〉
ストロークに合わせ無駄のないリズムでビートを打ち、下半身を安定させた。
そして、できるだけ遠くの水をつかんでくるように自分に念押しした。肩を前につっこみ、指先まで意識を届かせた。
〈もっと遠くの水をつかめ〉
 自分に命じる。
〈もっと遠くへ手を伸ばせ〉
呪文のようにとなえる。徐々に肩がリラックスしてきた。肩甲骨から大きく腕をまわすことができている。
プールの中は青の世界だ。ゴールの壁に向かってグラデーションを描いて濃くなっていく。その青と自分が同化しているように感じられる。
 三〇〇メートルも先頭でターンした。僕の前には誰もいない。ペースは落ちていないのに、不思議とまだ疲労を感じない。このまま水と一体化する意識で余力を残せば、最後の二五メートルは全力でいける。
 三五〇メートルもトップを維持した。
 ターンの時、頭の上でラスト五〇メートルを知らせる鐘が響いた。勝負の時が近づいてきた。緊張感が高まる。
 最後のターンへ向けて、弥生高の二年生を横目で確認する。体半分後ろをついてくる。僕の尻のあたりに相手の頭がある。ターンでもう半身引き離せるはずだ。
 呼吸のために顔を上げると、チームメイトたちの応援が耳に届いた。
「石神、行け!」
「逃げ切れ!」
 応援は思いのほかはっきりと聴き取れ、誰の叫び声なのかがわかった。野波と秋吉だ。
「しっかりとかけ!」
 強い指示が聞こえた。くぐもった声の主は津村だった。
 いよいよターンだ。目の前に壁が迫ってきた。泳ぎながら体を返すタイミングを意識する。利き腕の右手から入るのが理想だ。しかし、フォームが変わったり、コンディションがよかったり、悪かったり、自分の泳ぎに変化があると、ストローク数が増減し、左手からターンに入ることもある。
 右か? 左か? よし、右だ。スピードに乗ったいいタイミングで体を反転できた。壁を思い切り蹴る。体を目一杯伸ばし、一回、二回、ドルフィンキックを打つ。
右手で水をキャッチしてきて、呼吸のために顔を上げたその時、激しい叫びが聞こえた。
「賢介、勝って!」
 圭美だった。
 僕はピッチを上げていく。もっと上げたい。上げることはできる。しかし、あせると、水をしっかりつかめずに、腕が空回りになってしまう。
〈あせるな。ピッチを抑えろ!〉
 自分に言い聞かせる。
〈がまんだ!〉
 念押しする。
〈もっと遠くへ、もっと遠くへ手を伸ばすんだ!〉
弥生高の二年はぴったりついてきている。
 ぼんやりした青の視界に、ゴールの壁が見えてきた。
 あと七メートル、五メートル……。
壁がはっきりと見えた。
 ピッチを上げ過ぎず、遠くの水をできるだけたくさん運んできて、最後までかき切る。苦手なキックを目一杯打つ。下半身が水に浮き、フォームが安定する。
 三メートル、二メートル、一メートル……。
 コンクリートの壁に思い切りタッチした。水飛沫が飛び、同時に頭を水から上げ、隣のコースを見た。
僅差で勝った。練習試合とは思えないほど、自陣もプールの水際の応援隊もわく。タイムは自己ベストを更新した。下級生に競り負けなかったことに安堵し、圭美の目の前でレースを制した喜びがわいた。
水泳は勝者よりもはるかに多くの敗者を生むスポーツだ。十人で競ったとして、勝者は一人。残りの九人は涙を呑む。苦しい練習を耐えても負けることの方が多い。
それでも、努力を積み重ねると、ときどきこの日の四〇〇メートルのようなご褒美をもらえる。努力なしには、ときどきのご褒美もない。