一心さんが、この食堂で料理を作っている人なのだろうか。こだわりのある職人さん、といった風貌だから、『こころ食堂』のようなほっこりした店名が意外に思えた。
「いいからあなたたちも座っちゃって」
迷惑じゃないのだろうか……と戸惑いながらミャオちゃんを振り返ると、無表情のまま先にはじっこの席に座られてしまった。仕方なく、響さんとミャオちゃんに挟まれた席に腰を下ろす。
一心さんはため息をつきながらも、おしぼりとあたたかいお茶を出してくれた。
「持田さん、一心ちゃんはここの店主なのよ。ちょっと無愛想だけど腕は確かだから安心して」
「無愛想は余計だ」
「あ……」
響さんが食堂に連れてきてくれた意味に、気付いてしまった。聞かれてしまったお腹の音。ダイエットを否定したミャオちゃんと豆大福。それを放っておけるような人ではなかったのだろう。
「ねえ一心ちゃん、この子に『おまかせで』何か作ってあげてよ。いいでしょ? ろくになにも食べていないみたいなの」
「頼みってそういうことだったのか。それなら店が始まってから来れば良かっただろ」
また、ため息。やっぱり迷惑なんだ、と萎縮してうつむいてしまう。
「何か食べたいものはあるのか?」
一心さんに尋ねられて、ぱっと顔を上げる。迷惑がっていると思っていたのに、その表情はとても真剣だった。
「あ……。ええと……」
私もその表情につられて、一生懸命考える。でも、何も浮かばない。ここで何も食べたくないって答えるのと、せっかく作ってもらった料理を食べられないのと、どっちが失礼なのだろうか。
悩んだ末、私は正直に答えることにした。
「ごめんなさい……。今は何も、喉を通らなくて……」
「いや、こちらこそ悪かった。無理に考えなくていい」
また、ため息をつかれると思ったのに、一心さんはいたわるような視線を私に向けてくれた。たったそれだけなのに、まぶたの奥がちょっと熱くなる。
大学で、友達が心配して食べものを差し入れてくれるのはとてもありがたかった。でも、いつまでもちゃんと食べられなくて、そのたびにがっかりした顔をされるのが、とてもつらかった。
みんな一生懸命私を治そうとしてくれた。でも、食べられないことをそのまま受け入れてもらえたのは、初めてだったんだ。
「でもなんで、そんなことになってるのよ。昨日今日って感じでもないし、ダイエットでもないんでしょう?」
「それは……」
「話してみなさいよ、このオネエさんに。ん?」
微笑みながら見つめてくる響さん。人生経験豊富そうなこの人に、話してみてもいいだろうか。ここ一か月で急転直下してしまった私の人生を。
「実は……」
私は、内定先の会社が潰れたこと、二年付き合った彼氏に『味オンチ』と言われて振られたこと、彼はすぐに後輩の料理上手な女の子と付き合い出したことをぽつぽつと説明した。
「それは、まあ、何というか……。食欲がなくなっても無理はないわね……」
私の話を聞き終わった響さんが、額を手で押さえながら気の毒そうな口調でつぶやく。
「嫌なこと、重なっちゃってつらかったわね。でもあなたまだ若いし、礼儀正しいし、新しい就職先も彼氏もすぐ見つかるわよ。だから人生を悲観して自分を大事にしないなんて、そんなのダメ」
「ありがとう……ございます」
お礼を言った私の肩を、響さんがぽんと叩いた。女友達をなぐさめるみたいに。
「安心して。この食堂はね、『おまかせで』って頼むと、その人が心から食べたいものを裏メニューで出してくれるのよ。常連しか知らないことなんだけどね」
「響、大げさなことを言うな。常連たちの頼みに付き合っていたら、いつの間にか尾ひれがついてそんなふうに言われるようになっただけだ」
「こんなこと言ってるけど、一心ちゃんの料理だったら私、どんなに食欲がないときでも食べられたもの。だから、あなたも安心して」
なんだか、魔法のような話を聞いているような気がする。
その人が、心から食べたいもの。
一心さんんは謙遜しているけれど、そんなことが本当にできるのだろうか。心から食べたいものが何もなかったら、一心さんはどうするのだろう……。
ぼうっと考えていると、一心さんが私に尋ねた。
「……今までの人生で食べたものの中で、一番うまかったものは何だ?」
「え?」
「何でもいい。今食べたいものがなくても、今まで食べてきたものの中でうまいと思ったものなら思い出せるだろう?」
「今までの人生で、一番おいしかったもの……」
私は小さい頃両親が離婚してしまったので、母子家庭で育った。働きながら私を育ててくれるお母さんは毎日夜遅くに帰ってきて、夕飯はレトルトやスーパーのお惣菜が多かった。お母さん自体、もともとあまり家事が得意じゃなかったみたいだし、手料理が食べたいなんてわがままは言えなかった。
大学に上がってからも、手料理の味を知らない私は自炊をしても失敗ばかりで、だんだん外食とコンビニに頼るようになってしまった。
でも、それでも小学校の頃までは、一緒に住んでいたおばあちゃんがごはんを食べさせてくれていたんだ。中学に上がってすぐ、亡くなってしまったけれど。
おばあちゃんは、自分で梅干しをつけたり、干し柿を干したり、ぬか漬けだって自分で作っていた。働き者で優しいおばあちゃんだったんだ。
作る料理も、すいとんや煮物、いなり寿司など、素朴な料理が多くて大好きだった。
その中でも私がよく『作って』とねだっていたのが、味噌をぬった焼きおにぎり。
具なしの塩おにぎりにフライパンで焼き目をつけて、そこに味噌を塗ってさらに焼く。香ばしくて、甘じょっぱくて、『結ちゃん、おやつは何がいい?』と聞かれるとこればっかり頼んでいておばあちゃんに笑われたっけ。『結ちゃんは本当に味噌おにぎりが大好きなんだねえ』って。
「――小さいころ、おばあちゃんが作ってくれた味噌おにぎりです」
「味噌おにぎり?」
「ええと、焼きおにぎりに味噌を塗ったようなおにぎりです」
一心さんに詳しく説明すると、じっと何かを考えている様子だった。
「私、その味噌おにぎりが大好きだったんです。おばあちゃんはもういないけれど……」
味噌おにぎりだったら私も大学生になってすぐ作ってみたけれど、おばあちゃんの味とは似ても似つかなかった。
でも、この人なら、もしかして――。
「わかった」
一心さんはそう言うと、奥の厨房に消えて行ってしまった。
「大丈夫よ、安心して待ってましょ」
と言う響さんと、無言のミャオちゃんの間で緊張しながらお茶をすする。やがて、いい匂いのするお皿を持って一心さんが戻ってきた。
「お待たせしました」
と言って、カウンターにコトリと置いたお皿を私の前に寄せる。
木のお皿の上には、味噌おにぎりとたくあん、きゅうりの漬物が載っている。ほかほかと湯気をたてるおにぎりは綺麗な三角で、味噌の香ばしい匂いが鼻先まで漂ってくる。
「さめないうちに、どうぞ」
「……いただきます」
あつあつのおにぎりを両手で持って、「あちち」と言いながらかぶりつく。
ちゃんと、食べられるだろうか。
躊躇して小さめになってしまったひとくちだったけれど、咀嚼した瞬間、懐かしい味が口いっぱいに広がった。
「お米が……甘い! 焦げ目のついた味噌もちょうどいいしょっぱさです……! おにぎりも、米がつぶれないようふわっと握ってあるのに、形が全然崩れない……!」
「そうか」
一心さんが、ほっとしたような顔で私の言葉に頷く。
お腹に食べものが入ったら、自分が空腹だったことを思い出した。お腹がすきすぎて夢中でごはんを食べてしまうなんて、いつぶりだろう。まわりの音も、景色も、何も目に入らなかった。頭がからっぽになったみたいに、お行儀なんて気にしないでおにぎりを頬張る。
気が付くと、おにぎりをまるまる一個、きれいに食べ終わっていた。指についた米粒まで、ぺろっと食べていた自分に驚く。
「……嘘みたい。食べられちゃった」
ミャオちゃんも、じっと私のことを見ている。表情は変わらないけれど、なんだか褒められているように感じて微笑み返した。
「ふふ、だから言ったでしょ」
響さんは自慢げに笑って、一心さんは「何で響が偉そうなんだ」と呆れていた。
「お米がすごく甘くて、おばあちゃんが炊いてくれたご飯に近い気がしました。この味、久しぶりに食べた気がする……」
「君のイントネーションが北関東特有のものだったから、茨城県産のコシヒカリを使ってみたんだ。たまたまうちの店でも、茨城の米農家と契約していたから」
「すごい……。私、出身が茨城なんです。おばあちゃんの実家は米農家でした」
「そうか。おばあさんは、いつも地元の米を使っていたのかもしれないな。値は張るけれど、それだけ君においしい米を食べさせたかったのかもしれない」
大学生になったばかりの頃、学食やファミレスでご飯を食べても、自分でお米を炊いても、何だか違和感があったことを思い出した。あれは、お米自体の味が違うからだったんだ。長年食べ慣れたものの味って、知らず知らずのうちに自分に沁みついていたんだなあ。
そして、小さい頃はわからなかったおばあちゃんの愛情にも、気付くことができた。
そういえばおばあちゃんは、野菜も地元の直売所で買っていた。素材を大事にして、毎日のご飯を作ってくれていたんだ。
「じゃあ、おばあさまのおにぎりそっくりの味だったってことね」
「はい。……あっでも、そういえば」
食べている間に、思い出したことがあった。
「何か足りないところはあったか?」
「いえ、大したことじゃないんですけど……。おばあちゃんの味噌おにぎりはもっと甘かったなあって思って」
「甘かった?」
「はい。最初はこんな感じだったんですけど、私が頻繁に味噌おにぎりをねだるようになったら、ふつうのおにぎりより塩分が多いから心配って言い出して……。その後、味がちょっと変わったんです。見た目は変わらないんですけど」
「減塩味噌でも使っていたのかしら。でも、お味噌を変えただけでそこまで甘くなる?」
「そうですよね……」
「いや……、もしかしたら」
一心さんはしばし考え込んだあと、真剣な顔で私に向き直った。
「もうひとつ、食べられそうか? 試してみたいことがある」
「あっはい、大丈夫そうです」
私が返事をすると、一心さんは再び厨房に姿を消し、やがてさっきと同じようにおにぎりの載ったお皿を持って出て来た。
「お待たせしました。どうぞ」
私の前に置かれたのは、見た目はさっきとまったく同じ味噌おにぎり……に見える。
「食べてみなさいよ」
「は、はい」
響さんにうながされ、おにぎりを両手で持つ。今度はがぶっと大きくひとくち。
――おばあちゃんの味と同じだ。そう思った瞬間、何か言うより先に目からこぼれるものがあった。
「あ……あれ?」
無表情なはずのミャオちゃんが、私を見て目を丸くしていた。
「おかしいな、涙が止まらない……。すみません」
涙をぬぐい、鼻をすすりながらも、おにぎりを食べるのをやめられない。
「この甘みも味も、おばあちゃんのものと同じで……。懐かしくて、私……」
「ああ。ゆっくり食べろ」
一心さんが、ふっと優しい顔で微笑んだ。不器用で、慣れてなさそうなその笑顔が、何だかこのおにぎりみたいに素朴であったかいなと思った。
「大丈夫、みんなわかってるから。涙なんてふかなくていいから、食べちゃいなさい」
ぐしょぐしょな顔でおにぎりを頬張る姿は、傍から見たらおかしな光景だったと思う。開店前で良かったと心底思った。
一心さんと、響さんと、ミャオちゃん。三人に見守られながら、私はふたつめのおにぎりも完食したのだった。
「ごちそうさまでした」
そう言って手を合わせたとき、私のお腹も心も、満ち足りた幸福感でいっぱいだった。おなかいっぱいおいしいものが食べられる幸せ。おいしいものをおいしいと感じられる幸せ。当たり前だと思っていたことが、とてもかけがえのない幸福なことだったとわかった。
こんなことがなかったら、実感できないまま生きていったかもしれない。それってとても寂しいことだと思う。だってこれからは、ごはんを食べるたびに感謝と幸せを感じることができると思うから。
「でも、どうやっておばあちゃんの味にしたんですか?」
「味噌にみりんを混ぜてみた。君のおばあさんは塩分を気にしているみたいだったから、甘い調味料を味噌に混ぜて塩分を減らしていたのではないかと思ったんだ」
「みりん……」
台所でおにぎりを作る、おばあちゃんの後ろ姿を思い出す。私が「おばあちゃん、まあだ?」と声をかけると、軽く振り返って「もう少しだからね」と返事をしてくれて。
そうだった。おばあちゃんが料理している手元は、私からは見えなかった。わからないようにこっそり、みりんを混ぜていたんだ。
「おばあちゃん、そんな工夫をしてくれていたんですね……」
感激している私の前で、一心さんは顔を引き締めた。
「俺のほうでも、ひとつ気になることがある」
「は、はい。なんでしょう」
「君はさっき、味オンチと言われて彼氏に振られた、と言ったな。でも、米の甘さを感じられる人間が味オンチなわけがない。君は彼氏に何を作ったんだ?」
「え……」
意外な言葉に、お茶の入った湯飲みを持ったまま固まってしまう。
「あたしも気になるわ。砂糖と塩を間違えたのに気付かなかった、なんてベタなオチじゃないわよね?」
響さんも身を乗り出してきて、私は説明せざるを得なくなってしまった。あまり思い出したくないあの日の記憶を、頭の中から引っ張り出す。