私の世界を変えてくれた君へ。

わたしが言葉を失ったあの日。

モヤがかかったように目の前が白くなり、水の中に潜ったときのように言葉が不鮮明に聞こえてくる。

苦しい。

苦しくて仕方がない。

呼吸が浅くなり慌てて肩で息をする。

大丈夫。大丈夫。大丈夫。

必死に自分を励まし続ける。

「――奏多くんは小松さんだけじゃなくてみんなに優しいの。だから、変な勘違いしないほうがいいよ?」

突然、鮮明になったその声で頭の中がクリアになった。

「ちょっと、寄ってたかってなにしてんの?小松さん責めたってしょうがないじゃん。もうやめなよ、みっともない」

右隣の席の女の子の声。

「は?川ちゃんは関係なくない?黙っててよ」

「あまりにも目に余ることしてるからじゃん。誰かに嫉妬して攻撃するのってみっともないから」

「ハァ~!?」

わたしのせいで一触即発の事態になろうとしている。

どうしよう。

どうしたらいいの。

心臓がバクバクと嫌な音を立てる。

そのとき、タイミングよく朝のHRの始まりを告げるチャイムが教室中に鳴り響いた。

「いこっ」

わたしの周りを取り囲んでいたクラスメイト達が慌てて席に戻っていく。

「――結衣、どうした?」

席に戻ってきた藤原くんが心配そうにわたしの顔を覗き込む。

藤原くんの目を見れない。

鏡を見なくてもわかるぐらい、わたしの顔には動揺した今の気持ちがはっきりと表れているだろう。

ごめん、藤原くん。

わたしは心の中で一度謝ると、席を立った。

遠くへ行きたい。

遠くへ逃げてしまいたい。

消えたい。もう消えてしまいたい。

その一心でわたしは教室を飛び出した。

遠くへ逃げたかったわたしの行きついた先は校舎の一階にある保健室だった。

無断で早退ができるほどわたしに勇気はない。
保険医の先生が不在の保健室の中に入り、ベッドに腰掛ける。

ハァと心の中で深いため息をつく。

自己嫌悪が全身を襲う。

学校で言葉を発せられなくなってからは遠くへ行きたい、と思うことが増えた。

わたしのことを誰も知らない場所へ行きたい。

過去をすべて捨てて、新しいわたしを始めたい。

学校では誰とでも自由に言葉を交わせて、今とは真逆の自分になれたら。

友達をたくさんつくって休日は一緒に出掛けて、毎日が笑顔と希望で満ちあふれる毎日。

幸せな学校生活を夢見ていた。

そんな毎日を送りたかった。

送るはずだった。それなのに。

それなのにどうしてわたしはそれができないんだろう。

どうしてこうやってひとりで保健室に逃げ込んでいるんだろう。

逃げてばかりの自分がいやになる。

自分でもどうにもならない気持ちを持て余してしまう。

こうやって嫌なことがあると逃げ出す弱い自分がどんどん嫌いになっていく。

今にも泣きだしそうになり唇を痛いぐらいに噛みしめた時、保健室の扉が開いた。

「――結衣、いる?」

静まり返った保健室の中に響くその声にわたしの心臓が飛び跳ねる。

「あっ、やっぱいた。具合悪い?」

カーテンを遠慮がちに引いて顔をのぞかせたのは藤原くんだった。

具合が悪いわけではない。

ただ、教室にいられなかっただけ。

首を横に振ると、藤原くんはニッと笑った。

「じゃあ、サボろう」

そして、二つの通学カバンを顔の横で掲げて見せた。

保健室の机の上に『具合が悪いので早退します。藤原奏多 小松結衣』と連名で書き記したルーズリーフを残してわたしと藤原くんは学校を後にした。

連名で書くなんて間違いなく仮病で早退したととらえられても仕方がない。

「明日一緒に怒られよう。二人なら怖くないだろ」

と藤原くんは悪びれる様子もなくあっけらかんと言い放った。

「さてと、どこ行くか~?学校サボってこうやって学校外にいるのって新鮮だな~!得した気分」

藤原くんは大きく背伸びをする。自由奔放。まるで猫みたいな人。

【わたし学校さぼったのはじめて】

「マジで?真面目で偉い!でも、今日サボったから不良だな」

藤原くんがサボろうって誘ったからサボったのに、不良呼ばわりなんてちょっぴり心外だ。

少しむすっとした表情を浮かべると、藤原くんは笑った。

「あっ、怒った?嘘嘘。冗談だって冗談」

とぼけたように言う藤原くんの姿がおかしくて思わず微笑む。

「あっ、笑った」

【笑ってないよ】

「いや、笑ったね。俺は見たから」

そう言って得意げな藤原くんにつられて笑ってしまう。

「つーか、そろそろ緑ヶ丘公園の桜、見頃だな」

【そうだね。わたしも思ってた】

「じゃあ、行くか」

阿吽の呼吸。

以心伝心。

そんな言葉を勝手に思い浮かべている自分に心の中で苦笑いすると、わたしは大きくうなずいた。

コンビニでお昼を買って緑ヶ丘公園へと向かう。

予想通り桜は満開だった。

綺麗という言葉では収まらない。

心が震えるような感動を覚える。

雲一つない真っ青な空と桜のピンク色のコントラストにため息が漏れた。

平日の昼ということもあり就園前の子供を連れたママや家族連れがレジャーシートをしいてお花見を楽しんでいた。

「綺麗だな」

ぼんやりと桜を見上げてそう言葉を漏らす藤原くんの横顔をじっと見つめる。

本当に整った顔をしている。

女の子でも通用しそうなぐらい大きく澄んだ茶色い瞳。

でも鼻筋や顎のラインは男らしい。

Yシャツをまくり上げている腕もやっぱりわたしの腕よりたくましい。

背だって私より20センチぐらい大きい。この容姿だ。

藤原くんがモテるのも無理はない。

「そんなマジマジ見られるとさすがに照れるから」

「……!?」

藤原くんの言葉に目を白黒させる。

急に恥ずかしくなって目を反らすと、藤原くんはわざとわたしの顔を覗き込んでからかう。

「結衣ちゃーん、今度は恥ずかしくなった~?」

ニヤニヤとした表情を浮かべながら楽しそうにわたしにちょっかいを出してくる藤原くん。

まるで子供のような彼に翻弄されているわたしはさらに子供なのかもしれない。

「顔、見せてって。照れてんの、可愛い」

藤原くんはヨシヨシとわたしの頭を数回撫でると飽きてしまったのか、それ以上言葉を続けることなくその場にごろりと寝転んだ。

彼の興味はもうわたしではなく桜に移ったのだと分かっていた。

それなのにわたしは藤原くんから体をそらした状態のまま固まっている。

正確には固まって動くことができない。

可愛いなんて突然言われたから。そんなことを言われ慣れていないわたしはその言葉をうまく消化する術を知らない。

藤原くんは突然わたしにとんでもないことを言ってくる。

弄ぼうとかたぶらかそうとか、そういうことではない。

全部彼の気まぐれ。だから、たちが悪い。

ガードしようにもまるで予期していない場所から飛んでくるその言葉をわたしはよけることもできずに真正面から受け止めてしまう。

藤原くんは誰にでもこういうことを言ってるんだろうか。

もしそうだとしたら、とんでもなく恐ろしい。

だって彼にかかれば女子は十中八九彼の手中に収まるだろう。

藤原くんは魅力的な男子。それは認める。その魅力を彼が自覚していて本気を出せば大抵の女の子はころりと彼に落ちるだろう。

ひとたまりもない。

大抵の女の子。

その中に自分が含まれている気がしてなんだか居心地が悪くなる。

隣で寝転ぶ藤原くんにゆっくりと視線を向ける。

目をつぶっている藤原くんの前髪が風に揺れる。

今、この瞬間がわたしにはたまらなく貴重な時間に思えた。

心穏やかに過ごせるこのひととき。

わたしは藤原くんとこうやって一緒にいられるだけでいい。

それ以上のことなんて望んでいない。

望むのは贅沢すぎる。

わたしの隣にたまにでもいい。

こうやって気まぐれな彼がいてくれるだけでわたしの心は救われる。

たったひとりだけでもいい。彼がいてくれれば。
高校生になってから声をかけてくれたのは藤原くんが初めてだった。

『――俺は結衣を裏切らないよ』

その言葉はわたしの心の中の大切な引き出しの中にしまってある。

それぐらい嬉しかったから。

そんなこと恥ずかしいし照れ臭いから藤原くんには言わないけれど。


「なんか腹減ったなー。昼にしよう」

さっきまで目をつぶっていた藤原くんは唐突に起き上がるとコンビニ袋の中を漁り始める。

まるで次の行動が読めない。

くすっと笑うわたしに藤原くんは不思議そうに首を傾げる。

藤原くんと過ごす時間は肩を張らずに自然体でいられる。

言葉を交わさなくても通じ合う気がする。

なんて、ちょっと大袈裟すぎるかな。

わたしもつられてコンビニの袋から取り出したおにぎりに手を伸ばす。

わたしが取り出したのはシーチキン。藤原くんが取り出したのもシーチキン。

互いの手元を見つめたあと、目が合った。

同じだ。

「同じだ」

心の中の声と藤原くんの声がシンクロする。

目が合うとわたしたちは同時に笑顔を浮かべていた。

昼食を食べ終えた頃、空に急に雲がかかりはじめた。

さっきまでの晴天が嘘みたいに空は灰色になり、冷たい風が吹き始めた。

周りにいた大勢のお花見客が立ち上がりあちらこちらでシートを畳み帰る準備を始める。

「ちょっとトイレ行ってくるわ」

藤原くんが公園の隅にあるトイレへ向かい一人になったタイミングで、ふと近くにいる2歳ぐらいの女の子に気が付いた。

泣くのを必死で堪え心細そうにあたりをキョロキョロと見渡している女の子に周りの大人たちは片付けに夢中なのか全く気付いていない。

どうしたんだろう。迷子かな……?

その場で大きく息を吸い込んで「あ、あ、あ」と声を出す練習をする。

大丈夫。今なら声が出せる。

これなら女の子に声をかけてあげることができる。

立ち上がり女の子の元へ歩み寄り声をかける。

「どうしたの?迷子になっちゃった……?」

そう尋ねると、女の子は潤んだ瞳をわたしに返した。

「ママがいないの」

「ママと一緒に来たの?」

「うん」

「お姉ちゃんと一緒にママを探そうね」

わたしはそっと小さな手のひらを握った。

その手のひらはほんの少しだけ不安そうに震えている。