教室は相変わらず活気で満ち溢れている。
固まってしゃべっているクラスメイトの間をすり抜けるように自分の席へ向かい、窓の外の桜に視線を向ける。
もうほとんど散りかけている桜に視線を向け、今日の放課後にもう一度あの公園へ行ってみようと決めた。
そのとき、「結衣、おはよう」頭上からそんな声が降ってきた。
顔を持ち上げると、そこにいたのは藤原くんだった。
小さく頭を下げてから教科書を机にしまっているとき、ふと川崎さんから受け取ったノートが目についた。
藤原くんと一緒に目を通しておいてと頼まれていたのを思い出す。
藤原くん、とすぐに声をかけられればいいのにわたしにはそうすることができない。
スカートの上の右手をそっと持ち上げる。手のひらの猫はまだうっすらと残り消えていない。
ゆっくりと手を伸ばす。藤原くんの背中と自分の手の距離が近付くほどに心臓がドクンドクンッと暴れ出す。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
何度も呪文のように唱えて自分自身に必死にそう言い聞かせる。
と、次の瞬間、「奏多、ちょっと来て~!」クラスメイトに名前を呼ばれた藤原くんがスッと立ち上がり歩き出す。
伸ばしかけた手をわたしは慌てて引っ込めた。
ダメだった、と心の中で落胆すると同時に少し前までの自分との違いに驚く。
中2以来、わたしは自分から誰かにコンタクトを取ろうとしてこなかった。
それなのに、今、わたしは確かに自分の意思で藤原くんの背中をポンポンッと叩こうとしていた。
手のひらの猫とはいえない猫に背中をおされるように右手を彼に伸ばしていた。
この日、藤原くんは昼休みも休み時間も何かにつけてわたしを気にかけて声をかけてくれた。
『今日の体育、女子は体育館だって』
『今日の5限抜き打ちの小テストだってさ』
頷くことしかできないのに、藤原くんはそんなことさもどうでもいいことのようにわたしに声をかけ続ける。
それなのに、わたしは結局放課後になってもなかなか藤原くんに図書館だよりの話をするタイミングが掴めなかった。
仕方ない。今日は諦めて明日頑張ろう。
帰りのHRが終わった瞬間、わたしはクラスの誰よりも早く扉に向かって歩き出していた。
もう一度、あの公園へ行ってあの桜の木を見に行こう。
あそこへ行けば、何か違うものが見えるような気がした。
藤原くんの言うように、同じものをみているのに違うものに見えてくることがあるかもしれない。
新しい発見があったらいいな。
『結衣』
藤原くんがわたしの名前を呼ぶときの声。
それが急に頭に浮かび、それを振り切るようにブンブンと首を横に振る。
なぜか藤原くんのことを考えると胸の真ん中がきゅっと締め付けられた気がした。
校門を抜けて大きく背伸びをする。
肺いっぱいに空気を吸い込むと、ほっとした。
ようやく、自分に戻れた気がする。
北側へと足を伸ばして緑ヶ丘公園へ向かう。
ほっかむりをして畑仕事をしていたあの老夫婦の姿はなかった。
おばあさんに会えたら『桜を見てきましたよ。でもまだ五分咲きでした』と教えてあげたかったのに。
ようやく公園が見えてきた。その途端、自然と足が早くなった。
気が急く。わたしの足はあの桜の木の下に向いていた。
「――ここにいたんだ?」
芝生の上に寝転んで桜を見上げていたとき、ふいに見覚えのある顔が視界の真ん前に現れた。
「――!!」
飛び跳ねるように体を起こす。驚きで心臓が飛び出してしまいそう。
「あっ、わりー。驚かせた?」
藤原くんはわたしの反応にクックと喉を鳴らして笑う。
「また桜見に来たの?」
自然とわたしの隣に腰を下ろした藤原くん。
そうだよ、桜を見に来たの。
「あ、もしかして俺に会えると思ってきてくれた?」
違う!!そんなわけない!!
首をブンブンっとこれ以上ないほど左右に振ると、藤原くんは「ははっ!」と声を出して笑った。
「そこまで否定されると傷付くんだけど」
藤原くんはちょっぴり唇を尖らせたあと、じっとわたしの足元を見つめた。
「てかさ、体操座りはマズくないか?反対側からじゃ丸見えかもよ」
いぶかしげな藤原くん。
ああ、それなら大丈夫だよ。この間と同じ失敗はしないから。
「大丈夫なのか、それ」
いまだに心配そうな藤原くん。
大丈夫、の意味を込めて大きくうなづく。
「あっ、ちょっと待って」
藤原くんはそう言うと、学校指定のバッグをごそごそと漁り、袋を取りだした。
その中には新品のメモ帳とキャラクターもののボールペンが入っている。
彼はボールペンの袋を破き、わたしにそっと差し出す。
「これでさ」
「……?」
「俺と会話しよう。俺と結衣、二人っきりで話そう」
トクンッと心臓が鳴る。
「このメモ帳に結衣の気持ちを吐き出してよ。普段、言えないことあるだろ?」
わたしの気持ち。言えない言葉。
「一人で抱え込むのって辛いじゃん?だから、言ってよ。俺にだけは。俺はちゃんと結衣のこと受け止めるから。だから――」
藤原くんはその言葉の後、
「それに、図書館だよりつくる時にも俺だけの意見じゃなくて、結衣の意見も聞きたいし。二人で作るんだからさ」
と慌てたように付け加えた。
胸が温かくなる。
人とのかかわりを極力避けてきたのに。人からも極力避けられていたのに。
彼から差し出されたペンを恐る恐る掴むと藤原くんはうんうんっと優しくうなづく。
本当にこれでいいんだろうか
震える手でメモ帳の1枚目をめくる。
これに文字を書けばきっと彼との繋がりができる。
わたしの恐れていた世界に間違いなく足を踏み入れることになる。
正直、恐かった。誰かと親しくなるのは。関係を持つのは。
いつかは裏切られてしまうかもしれない。
また傷付くかもしれない。そうなってしまったらわたしは――。
「いいよ、無理しないで」
藤原くんの言葉が優しく心の中に染み込んでいく。
ねぇ、結衣。あなたはどうしたいの?このまま誰とも関わらずに一生生きていくつもりなの?それで本当にいいの……?
自分に問いかける。
手のひらの中にある新品のメモ帳とボールペンは藤原くんの気持ち。
同じクラスになったばかりで関わり合いなどなかったわたしに藤原くんはコンタクトを取ろうとしてくれている。
図書委員に誘ってくれた。図書館だよりを一緒に作ろうと言ってくれた。
わたしが逆だったらそんなことできない。
相手に拒否されたら傷付くことになるから。
『一人で抱え込むのって辛いじゃん?だから、言ってよ。俺にだけは。俺はちゃんと結衣のこと受け止めるから。だから――』
信じたい。信じてみたいと思った。
藤原くんのその言葉を。
ペンを持つ手が震える。
一歩だけ。一歩だけ踏み出す勇気を出したい。
藤原くんだって勇気を出してわたしに提案をしてくれたに違いない。
『俺と会話しよう。俺と結衣、二人っきりで話そう』
その言葉に応えたい。
わたしはゆっくりとメモ帳にペンを走らせた。
【大丈夫】
「うん?」
メモ帳に書いた文字を見て彼が首を傾げる。
【スカートの下に体操着】
「ん?」
【ハーフパンツ】
「ハーフパンツ?」
【クルクルまくる】
「ん?スカートの下にハーフパンツクルクル巻いてはいてんの?」
うんうん、と二度うなづくと藤原くんはブハッと吹き出した。
えっ?どうして笑うの?わたし、変なこと言った?
急に不安になって首を傾げると、藤原くんは目に浮かんだ涙を指で拭った。
「ごめんごめん!まだその話続いてるとは思ってなかったから」
えっ?もう終わってたの?いったいいつ終わった?
急に恥ずかしくなって書いた文字をペンでぐちゃぐちゃに消そうとしたわたしの手を藤原くんが掴んだ。
「それ女子が絶対やっちゃいけないやつだから。男の楽しみを奪うなよ~」
藤原くんの切実な言い方がおかしい。
声を出さずにふっと笑うと、藤原くんもつられて笑った。
「結衣は笑ってる方がいいよ」
藤原くんが何の気なしに発した言葉に動揺して、ペンを持つ手に思わず力がこめてしまった自分が情けない。
【メモとペン】
「うん」
【ありがとう】
「どういたしまして」
二人の間にふわりとやわらかな風が吹く。
わたしと藤原くんはそろって桜の木を見上げた。
不思議だな。どうしてこんなに心が落ち着くんだろう。
藤原くんと一緒にいるとき、わたしは自然体でいられる。
人の顔色を伺うことも、斜め45度に視線を落とすことも、スカートを握り締めることもしなくていい。
無理に会話をしなくてもいい。それを求めてこない藤原くん。
わたしはありのままの自分でいられる。
それはきっと藤原くんのおかげ。
彼はきっといい意味で型にはまっていないすごく自由な人だから。
しばらくしてから藤原くんは大きく背伸びをすると「よし、行くか」と唐突に言い放った。
藤原くんに誘われるがまま緑ヶ丘公園から徒歩で片道約20分の場所にあるコンビニにやってきた。
「何買う?」
【藤原くんは?】
「飲み物とお菓子」
【私も】
店内で筆談で藤原くんと会話していると、近くにいる女子高生が藤原くんの姿に目を止めた。
「あの男の子かっこよくない?」
背も高く綺麗な顔立ちをしている藤原くんに熱い視線を送っていた女子高生たちはわたしの存在に気付いていぶかしげな視線を向けた。
「隣の女の子、耳聞こえないんじゃない?」
「でも補聴器つけてなくない~?」
「さっきからメモみたいなのに文字書いてそれで会話してるっぽいもん」
「筆談ってこと?じゃあ、あの男の子もしゃべれないの?でも二人だったら手話のはずじゃない?」
「ねっ。どうなんだろう」
思わず視線を足元に下げた。
ちくりと痛む胸。
ひとりでいるときなら平気な言葉なのにどうしようもなく心が乱される。
ごめんね、藤原くん。
藤原くんまでわたしのせいで悪く言われちゃってる。
【ごめんね】
急いでいたから汚い文字になってしまった。
藤原くんは文字を見るなり、わたしの持っていたペンを掴みサラサラとメモ帳に何かを書いた。
【ついてきて】
【どうして?】
【限定、あと1コ!】
藤原くんはそれだけ書くと、ペンとメモ帳を右手に掴み、左手でわたしの手首を掴んでズンズンと歩き出す。