不思議だ。どこかで見覚えがある気がする。でも、どこで?
家の外にあった農作業具が気にかかる。田んぼとか畑とか、そういうことをやっているのかな。
あれっ。そういえば。ふと脳の奥底にしまい込まれていた数週間前の記憶を呼び戻す。
もう一度、よく見てみるとやっぱりそうだった。
絶対にそうだ。間違いない。
緑が丘公園の桜の話をしてくれたほっかむりのおばあさん!
「もしかして前にお話ししたお嬢さんかい?」
おばあさんの言葉に大きくうなづくと、藤原くんが不思議そうにわたしとおばあさんの顔を交互に見つめた。
「え、なに、知り合い?」
「そうなの。この間、しゃべったんだよねぇ?そうかい、結衣ちゃんは奏多のお友達だったのかい」
おばあさんはにこやかにそう言うと、テーブルの横に置いてあったバッグを掴んで中から財布を取り出してお札を数枚抜いた。
「奏多、せっかく結衣ちゃんが来てくれたんだから何か好きそうなものでも買ってきておくれ」
「え、今?俺が?」
露骨に嫌そうな態度の藤原くんにもお構いなしにおばあさんは続ける。
「あぁ。飲み物とそれからお菓子もね。適当に見繕ってきてくれ。頼んだよ」
半ば無理矢理お金を渡すと、藤原くんは渋々立ち上がった。
「結衣、ばあちゃんおしゃべりだから適当に流していいから」
「これ、奏多!」
おばあさんの言葉に肩をすくめておどけて見せると、藤原くんは茶の間を出て玄関へ向かった。
ガラガラっと玄関扉を開き藤原くんが出ていったのが分かった。
わたしは喉の奥の調子を伺いながらそっと部屋の中をぐるりと見渡した。
部屋の片隅には立派な仏壇が置かれている。
その中に3つの位牌が並んでいる。
「3人が同時に天国に行ってしまうなんて……。残された奏多は……つらかっただろうにね」
その言葉に視線をおばあさんに向ける。
喉の奥の違和感を今は感じない。
藤原くんが家から出て行ったからかもしれない。
口を開くとその予想は確信に変わった。今ならきっと、話すことができる。
「あのっ、3人が同時に天国にって……どういうことですか?」
恐る恐るそう尋ねると、おばあさんは眉を下げながら言った。
「奏多が4年生で洸多が6年生の時……交通事故でね。奏多は死の淵をさまよいながらも一命を取りとめたのよ。でも、残念ながら両親と洸多は……」
「そんなことが……」
絶句した。
まさかあの藤原くんにそんな暗い過去があったなんて思いもしなかった。
順風満帆で絵に描いた幸せな人生を歩んでいるものだと思っていたのに。
「あの日……あの事故の起きた日、奏多がうちに電話をかけてきたの。ばあちゃん、今日家族4人でばあちゃんちの近くの桜を観に行くからって。緑が丘公園の桜は毎年遅咲きだから今からでも間に合うって家族を説得したんだってやけに張り切っててね」
おばあさんはお兄さんの場面緘黙症のことにも触れた。
お兄さんが学校でしゃべれなくなってから藤原くんの両親はお兄さんにかかりっきりになった。
何もかもお兄さん優先の生活。それが面白くなかった藤原くんはお兄さんにつらく当たった。
ほんの少しの淋しさの裏返しだったに違いない。
そんな時、藤原くんのお兄さんが何気なく『桜を見たい』と口にしたのを聞いた。
だから事故の日、藤原くんは両親とお兄さんを誘って隣県であるおばあさんの家の近くの緑ヶ丘公園で桜をみることにした。
「奏多はね、昔から洸多のことが大好きだったのよ。性格は違ったけど仲の良い兄弟だったの。奏多は昔から不器用なところがあってね。だから、あの日、桜を見上げながら兄の洸多に謝りたかったんだと思うの。でも、結局それも果たせなかった」
おばあさんの鼻をすすりながら目頭に浮かぶ涙を拭った。
「あの子、あの事故の後ずっと自分のことを責めていたの。俺が緑が丘公園へ行くって言わなければ3人は死ななかったのにって。それと同時に、不思議なことを言い出して」
「不思議なこと……ですか?」
「4月28日、事故にあう夢を何度も見たって言うの。本当は4人で死ぬはずだったってしきりに言うから病院の先生や親戚も精神的なダメージが影響してるんだろうって心配しててね。だけど、あの子私には1か月前に遊びに来た時に……言ってたの。4月28日に4人が交通事故にあって死ぬ夢を見たって」
「え……?それは……予知していたってことですか?」
1か月後に起こる出来事を夢で見た……?
それが正夢になったっていうこと?
「そうなのかもしれないわ。そんなこと言ったらだめよと注意したら、『だって正夢は人に話すと叶わないって聞いたから』っていじけたように言ってたのよ。でも、あの子の口からそれを聞いていたのは私だけだからねぇ。でも、確かにあの子はそう話していたの。そのときはまさかそれが本当になるなんて私も奏多も思っていなかったから。『事故は危ないから気を付けないとね』という話だけで終わりにしてしまったの。でも、今思うと……」
おばあさんは苦しそうに顔をしかめた。
もしも。そのとき藤原くんが話したことを信じていればその事故は避けられたのかもしれないとおばあさんが後悔する気持ちはよくわかる。そして、藤原くんの気持ちも痛いほどに。
「お葬式の日には『どうして僕だけ死ななかったんだ。僕だけ生き残るなんて』って自分を責めて、『次に死ぬのは僕だ!』って取り乱してねぇ。見ていられなかったのよ」
「そんなことがあったんですね……」
藤原くんの過去を知り、胸が痛む。
わたしは藤原くんのことを何も知らない。その現実を突きつけられた気がする。
「ごめんなさいね。暗い話をしてしまって。でも、今はこうやってあなたみたいな可愛らしい彼女を連れてきてくれて私はすごく嬉しいわ」
しんみりした空気を振り払うかのようにおばあさんが笑顔を浮かべる。
「い、いえ!わたしは藤原くんの彼女じゃないです」
藤原くんにとってもわたしがおばあさんに彼女だと誤解されたら心外だろう。
必死になって誤解を解こうするわたしを温かいまなざしでみつめるおばあさん。
「だったらなってあげて。あの子が家に女の子を連れてきたのは初めてだから」
「そうなんですか……?」
意外だった。
藤原くんだったら何人、ううん、何十人、何百人の女子を家に招き入れることはたやすいことだろう。
「あの子はあの事故の後自分の気持ちを口にしなくなったの。辛い時に辛いって言えなくなってしまった。自分の気持ちを口に出せないのは辛いね。そういうところ、あなたと奏多は少しだけ似ているわね」
おばあさんはすべてを悟ったかのようにシワのある顔を更にくしゃくしゃにして笑った。
言葉に詰まった。言葉がでないのではない。なんて答えたらいいのか分からなかった。
わたしはおばあさんに場面緘黙症とは伝えていなかった。
それなのに。
「あの……」
「お嬢さんは洸多と同じなんだろう?場面……なんとかって言ったかい?」
「は、はい。場面緘黙症です」
「あぁ、それそれ。年を取るとダメだね。すぐに忘れてしまう」
自分自身に呆れたように言った後、おばあさんはわたしを見つめた。
「これからも奏多と仲良くしてやってね。それと、いつでも暇な日はうちへおいで。じいさんと奏多とずっと3人暮らしで女は私一人だけでしょ?たまには女性同士でおしゃべりしたいのよ」
「ありがとうございます。また、遊びにきます」
心の中がじんわりと温かくなる。こんな出会いがあるとは思わなかった。
藤原くんとの出会いをキッカケに狭かったわたしの世界が少しずつ広がっている。
そのとき、玄関の引き戸がガラガラと音を立てて開く音がした。
「――ただいま」
藤原くんがコンビニ袋を手に部屋に入ってきた。
おかえり、の代わりに小さく頭を下げる。
「また雨降ってきた」
「悪かったね。ご苦労様」
「この雨の中じいちゃんまだ畑にいたけど」
「困ったじいさんだねぇ。子供じゃないんだからしばらくほうっておけば帰ってくるだろう。さてと、お茶の用意でもしようかね。ちょっと待っててね」
おばあさんはゆっくりと立ち上がると台所へと歩き出した。
藤原くんはおばあちゃんに受け取ったタオルで髪を拭きながらわたしの隣にあぐらをかいて座った。
「ごめんな、結衣。ばあちゃんおしゃべりだっただろ?」
【そんなことないよ。色々お話できてよかった】
藤原くんの過去に胸が痛む。
でも、藤原くんのことをわたしはほんの少しだけ知ることができた。
それと同時に知りたいという気持ちが沸き上がってくる。
藤原くんはいつだってわたしに手を差し伸べ、背中を押してくれた。
わたしにも同じことができるとは思えない。
だけど、わたしにできることがあるならばしたいと思えた。
こんなことを考えるのは生まれて初めてだ。
誰かの為に自分から何かをしてあげたいと思うなんて。
「寒くない?」
【大丈夫だよ。ありがとう】
「なぁ」
なに?という意味を込めて藤原くんの目を見て首を傾げる。
藤原くんはなぜか真剣な表情を浮かべている。
一瞬だけ、空気が張り詰める。
藤原くんの緊張が空気越しに伝わってきて思わず身構える。
えっ。なんだろうこの雰囲気。
どんな話?あまりよくないこと?
ごくりと唾を飲みこんでその言葉の続きを待つ。
すると、藤原くんは意を決したように口を開いた。
「番号、交換しよう」
番号交換しよう。番号交換しよう。番号交換しよう。
藤原くんの言葉がグルグルと頭の中を回る。
『マジか。じゃあ、こうしよう。公平にじゃんけんで決めるってことで』
『いっくぞー!出さなきゃ負けだよ、最初はグー、じゃんけーん』
前に番号を聞かれた時、わたしは激しく首を横に振った。
お願いだからわたしに構わないで、と心の中で叫んだ。
『もう構わないでくれって顔してる』
『俺のことしつこいしウザいって思ってる?どう?正解?』
『俺が話しかけなければ、結衣はこの教室で平和に過ごせんの?』
あの時、余裕そうな表情でそう言っていた藤原くんをわたしは拒んだ。自分が傷付きたくなくて。
だから藤原くんの気持ちなんてまったく考えてもいなかった。
あの時、藤原くんはどんな気持ちでわたしに声をかけてくれたんだろう。
わたし、バカだ。バカすぎる。
すべてわかったような気になっていただけなのかもしれない。
みんなの気持ちを先読みして人に気を遣って遠慮して。
でも、全然分かっていなかった。少なくとも、藤原くんの気持ちには1ミリも。
『今までもずっとそうやって過ごしてきた?教室の中で一人でいることが結衣の望み?』
『俺にはそうは思えないんだけど』
あの時藤原くんの言葉に、得体のしれない焦燥感が全身を駆け巡った。
今なら、分かる。
藤原くんの言葉はわたしの心の中を見透かしているかのように、封印したわたしの気持ちを代弁してくれていた。
正直、彼から距離を置かなければならないと思っていた。
わたしのテリトリーに土足で足を踏み入れてくるから。彼と離れよう。彼に近付いてはいけない。
自分を守るための防衛本能がわたし自身にそう言い聞かせてた。
でも、本当は心のどこかで誰かが自分のテリトリーの中に入ってくれることを願っていた。
誰かと繋がりたい、と願っていた。
一人は好きだ。一人の時間も大好き。
だけど、ひとりぼっちは嫌い。孤独はもっと大っ嫌い。
『結衣は結衣でいいんだって。できる部分は誇りに思って、できない部分はそれを認めてあげてよ。全部100%完璧じゃなくていいんだし。自分のことちゃんと認めて好きになってあげなよ。そうしないと結衣が可哀想だから』
藤原くんの言葉が蘇る。
自分を好きになってあげる第一歩は自分の正直な気持ちに耳を傾けてあげることなのかもしれない。
自分を知り、ダメな部分も認めてあげること。
いまだに少しだけ強張った表情でわたしの答えを待っている藤原くん。
今の正直な自分の気持ちをわたしはメモ帳に書き込んだ。
【090-××××-×××× ID:●●××】
メモ帳を一枚破った。
そして、二枚目のメモにこう記した。
【私も藤原くんの連絡先が知りたい】
藤原くんはメモを受け取ると、「マジで?」と驚いたようにわたしを見つめた。
もちろんだよ、という意味を込めて笑いながら頷くと藤原くんは「今年に入って一番嬉しかった出来事かも」と言った。
「結衣の気が変わらないうちに登録するわ」
藤原くんは慣れた手つきでスマホを操作してわたしの連絡先を自分のスマホに入れ、メッセージを送ってきた。
【よろしく】というよくわからないお世辞にもあまり可愛くないキャラクターのスタンプを送ってきた藤原くん。
くすっと笑うと、「このキャラ、可愛いだろ?」と何かを誤解した藤原くんは真面目な顔で得意げに胸を張った。
やっぱり藤原くんには絵のセンスがな……いではなくて、個性的と思っておこう。
わたしは苦笑いを浮かべながら誤魔化した。