今年の桜の開花は例年通りとのことで入社式当日、大学病院の周りにはぐるっと並んだ桜の大木のどれもが薄ピンク色に染まっていた。
リクルートスーツはほぼ未使用の状況だった。就職活動はあってないようなものだったし、片手で数えるほどしか着た記憶はなかった。
まずは技術の練習だった。清拭や陰部洗浄のような学生時代に実習で習得したものではなく、採血や点滴に関するもの、浣腸や摘便、導尿といった排泄関連も行われた。4月上旬の全部署ローテーション研修後、4月半ばから配属先でシャドーが始まった。
配属は脳外科病棟だった。脳梗塞、脳出血、くも膜下出血が多い。どの病棟に配属されても同じだが学生でなくなっても勉強の日々が続く。
教育係であるプリセプターの飯田加奈は4年目でとても優しい。動きに無駄がなく仕事が早い。笑顔が素敵で、患者からもご家族からの信頼も厚い。
そんな人に教えていただけることがとても誇らしかった。
実習中でもわかっていたことだが、看護師の早歩きは本当に早い。那月はついていくので精一杯。メモを取るので精一杯だった。帰ってから自分のメモを見返すと、ミミズが這ったような字ばかりで読めないこともあったし、ボールペンの黒インクは一瞬で出なくなった。
桜の花はとっくに散り、葉桜が美しい新緑を芽吹かせた。大型連休が明けて独り立ちが決まった。まずは受け持ち一人からである。バイタルサイン測定に、全身状態の観察に、点滴の交換、食事摂取量の観察......見ることは山ほどある。厳密には看ることである。
そして那月はミスをした。膀胱留置カテーテルの患者の尿量が明らかに少ないことを不審に思った那月は、他のスタッフが破棄した後記載を忘れたのだと思い込んだ。
しかし実際には、尿中浮遊物によりカテーテルが閉塞し、膀胱内に尿が多量に溜まっていたのである。
日勤帯の終わりに尿量が少ないことを那月は飯田に伝えた。飯田が血相を変えて簡易エコーのできる残尿測定器を持ってその患者の元へ走ったことで事態が発覚した。
「ねえ紺野さん。人間誰しも全くミスをしないわけにはいかないよね。ただ対処法がある。早く対処すれば影響しない場合もある。分からなかったら即聞く。疑問に思ったら聞く。分からないままの方が怖い。紺野さんも不安だったでしょ?私達は命を預かっている。いいね?」
膀胱留置カテーテルを新しいものへ交換し、排尿を認めた後でステーションに戻ると、飯田はいつになく真剣な眼差しで話し始めた。飯田と共にインシデントレポートを書いて主任に確認印をもらい、師長へ提出した。
「よし次がんばろう!」
飯田は明るく、那月の背中を優しく叩いた。
それから数日、反省はしても凹みすぎずに、という飯田の教え通り、なんとか毎日仕事に励んでいた。ある日の仕事からの帰り道、携帯電話が鳴った。
「もしもし山中だけど。」
「はい、お久しぶりです。」
久しぶりの山中英輔の声は受話器越しではくすぐったく感じた。
「これから会えないかな?」
最後に会ったのはあのクリスマスイヴ。
その間山中英輔は舞台で全国を飛び回っていて、各地から報告の写真が送られては来ていたが、簡単に返信をするだけで声を聞くのはおよそ二か月ぶりだった。
「明日休みなのでいいですよ。」
よしっと電話の向こうで山中英輔が小さくガッツポーズしたのが見えた気がした。待ち合わせは繁華街から一本入ったところにある雑居ビルで、その地下にある数年前にミシュラン星1つだった日本料理のお店らしい。
やや高級そうな店構えにドキドキしながら暖簾をくぐる。たまたまちょっといいワンピース着ててよかったと胸を撫で下ろした。
山中と名前を告げると1番奥の部屋に案内された。既に山中英輔は席についていた。
「お待たせしてしまいましたか?」
「いいや現場が近かったんだ。さあそれより何飲む?」
そう那月にお品書きを渡した。
「俺はとりあえず生ね。」
「じゃあ私も。」
「そしたら生2つね。」
どうやら料理は既に頼んであるらしく、前菜とともに生ビールが2つ運ばれてくる。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
乾杯してグラスに口をつける。ふわふわの泡が唇に触れて気持ちいい。冷んやりとした液体が喉の奥を流れていった。
「山中さん、相変わらず忙しそうですね。」
「ねー有難い話だけどね。」
山中英輔は苦笑いした。
「ちゃんと身体休めてますか?ちょっと心配です。」
「ありがとう。でも大丈夫。でも疲れちゃったら那月ちゃんが癒してね。」
山中英輔が今度はいたずらっぽく笑う。童顔の彼がくしゃっと笑うとその可愛さに那月はドキッとした。
「那月ちゃんこそ就職して、どう?大変?」
山中英輔が今度は心配したように怪訝そうな表情をみせた。那月が少し俯いて、一口ビールを口に含んでから答えた。
「まあ楽ではないです。でも良い先輩に恵まれて、充実してます。」
「それなら良かった。」
「あーでも最近失敗しちゃって。詳しくは言えないんですけど、流石にちょっと凹みました。」
那月が苦笑いすると、山中英輔はぽんぽんと頭を撫でてた。
「よく頑張ってるね。」
山中英輔は詳しくは聞かなかった。ただ優しい微笑みを那月に向けた。
「で早速なんだけど、これ合格祝いね。」
山中英輔が小さな紙袋を出した。
「え!そんな!」
「大したものじゃないし、気にいるか分からないけど。」
「じゃあ開けていいですか?」
山中英輔はもちろん、と頷いた。紙袋を開けるとどうやら化粧品らしかった。
包みを開けると、1本の口紅が入っていた。
“ Natsuki ”
名前が彫ってある。
「これ山中さんが買いに行ったんですか?」
「行ったよ。バッチリ変装して。喜んでくれた?」
「勿論です。こんないい口紅持ってませんもん。」
「良かった。」
山中英輔が安堵の表情を見せた。那月はドラッグストアで手に入るものしか使ったことがなく、デパコスには縁遠いと思っていた。どうやら山中英輔はスタイリストに聞いて買いに行ったようだった。色味はお仕事でも使いやすいピンクベージュを選んだらしい。
「会えなくても、いつも、そばにいるよって。」
照れながら山中英輔が言った。
素敵なプレゼントに、美味しいお料理。山中英輔は日本酒が進んで、【空】やら【獺祭】やらをぐいぐい飲む。釣られて、那月もお酒が進んだ。
楽しい時間はあっという間で気づくともう終電はなかった。
店を出て繁華街のメインストリートから反対側に歩くと、ビジネス街に出る。タクシーを拾って大まかな行き先を伝えた。
「ふー飲んだなー。」
タクシーの後部座席に腰を下ろすと山中英輔が満足そうに溜息をついた。
「はい、ご馳走さまでした。とっても美味しかったです。」
「お気に召したようで何よりです。」
山中英輔が柔和に笑った。
「手貸して。」
山中英輔にそう言われて手を差し出すと、そのまま手を繋がれた。那月がドキドキしていると耳元に囁かれた。
「何もしないから朝まで一緒にいて。」
驚いて山中英輔から離れてしまう。が手は離されずぐいっと引っ張られた。
「俺が疲れたら那月が癒してくれるんでしょ?」
突然の呼び捨てに心拍数がどんどん上がる。
「いや、えと、その......。」
「ダメなの?」
「......ダメじゃないです」
山中英輔の潤んだ瞳で見つめられると那月は断れなかった。
リクルートスーツはほぼ未使用の状況だった。就職活動はあってないようなものだったし、片手で数えるほどしか着た記憶はなかった。
まずは技術の練習だった。清拭や陰部洗浄のような学生時代に実習で習得したものではなく、採血や点滴に関するもの、浣腸や摘便、導尿といった排泄関連も行われた。4月上旬の全部署ローテーション研修後、4月半ばから配属先でシャドーが始まった。
配属は脳外科病棟だった。脳梗塞、脳出血、くも膜下出血が多い。どの病棟に配属されても同じだが学生でなくなっても勉強の日々が続く。
教育係であるプリセプターの飯田加奈は4年目でとても優しい。動きに無駄がなく仕事が早い。笑顔が素敵で、患者からもご家族からの信頼も厚い。
そんな人に教えていただけることがとても誇らしかった。
実習中でもわかっていたことだが、看護師の早歩きは本当に早い。那月はついていくので精一杯。メモを取るので精一杯だった。帰ってから自分のメモを見返すと、ミミズが這ったような字ばかりで読めないこともあったし、ボールペンの黒インクは一瞬で出なくなった。
桜の花はとっくに散り、葉桜が美しい新緑を芽吹かせた。大型連休が明けて独り立ちが決まった。まずは受け持ち一人からである。バイタルサイン測定に、全身状態の観察に、点滴の交換、食事摂取量の観察......見ることは山ほどある。厳密には看ることである。
そして那月はミスをした。膀胱留置カテーテルの患者の尿量が明らかに少ないことを不審に思った那月は、他のスタッフが破棄した後記載を忘れたのだと思い込んだ。
しかし実際には、尿中浮遊物によりカテーテルが閉塞し、膀胱内に尿が多量に溜まっていたのである。
日勤帯の終わりに尿量が少ないことを那月は飯田に伝えた。飯田が血相を変えて簡易エコーのできる残尿測定器を持ってその患者の元へ走ったことで事態が発覚した。
「ねえ紺野さん。人間誰しも全くミスをしないわけにはいかないよね。ただ対処法がある。早く対処すれば影響しない場合もある。分からなかったら即聞く。疑問に思ったら聞く。分からないままの方が怖い。紺野さんも不安だったでしょ?私達は命を預かっている。いいね?」
膀胱留置カテーテルを新しいものへ交換し、排尿を認めた後でステーションに戻ると、飯田はいつになく真剣な眼差しで話し始めた。飯田と共にインシデントレポートを書いて主任に確認印をもらい、師長へ提出した。
「よし次がんばろう!」
飯田は明るく、那月の背中を優しく叩いた。
それから数日、反省はしても凹みすぎずに、という飯田の教え通り、なんとか毎日仕事に励んでいた。ある日の仕事からの帰り道、携帯電話が鳴った。
「もしもし山中だけど。」
「はい、お久しぶりです。」
久しぶりの山中英輔の声は受話器越しではくすぐったく感じた。
「これから会えないかな?」
最後に会ったのはあのクリスマスイヴ。
その間山中英輔は舞台で全国を飛び回っていて、各地から報告の写真が送られては来ていたが、簡単に返信をするだけで声を聞くのはおよそ二か月ぶりだった。
「明日休みなのでいいですよ。」
よしっと電話の向こうで山中英輔が小さくガッツポーズしたのが見えた気がした。待ち合わせは繁華街から一本入ったところにある雑居ビルで、その地下にある数年前にミシュラン星1つだった日本料理のお店らしい。
やや高級そうな店構えにドキドキしながら暖簾をくぐる。たまたまちょっといいワンピース着ててよかったと胸を撫で下ろした。
山中と名前を告げると1番奥の部屋に案内された。既に山中英輔は席についていた。
「お待たせしてしまいましたか?」
「いいや現場が近かったんだ。さあそれより何飲む?」
そう那月にお品書きを渡した。
「俺はとりあえず生ね。」
「じゃあ私も。」
「そしたら生2つね。」
どうやら料理は既に頼んであるらしく、前菜とともに生ビールが2つ運ばれてくる。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
乾杯してグラスに口をつける。ふわふわの泡が唇に触れて気持ちいい。冷んやりとした液体が喉の奥を流れていった。
「山中さん、相変わらず忙しそうですね。」
「ねー有難い話だけどね。」
山中英輔は苦笑いした。
「ちゃんと身体休めてますか?ちょっと心配です。」
「ありがとう。でも大丈夫。でも疲れちゃったら那月ちゃんが癒してね。」
山中英輔が今度はいたずらっぽく笑う。童顔の彼がくしゃっと笑うとその可愛さに那月はドキッとした。
「那月ちゃんこそ就職して、どう?大変?」
山中英輔が今度は心配したように怪訝そうな表情をみせた。那月が少し俯いて、一口ビールを口に含んでから答えた。
「まあ楽ではないです。でも良い先輩に恵まれて、充実してます。」
「それなら良かった。」
「あーでも最近失敗しちゃって。詳しくは言えないんですけど、流石にちょっと凹みました。」
那月が苦笑いすると、山中英輔はぽんぽんと頭を撫でてた。
「よく頑張ってるね。」
山中英輔は詳しくは聞かなかった。ただ優しい微笑みを那月に向けた。
「で早速なんだけど、これ合格祝いね。」
山中英輔が小さな紙袋を出した。
「え!そんな!」
「大したものじゃないし、気にいるか分からないけど。」
「じゃあ開けていいですか?」
山中英輔はもちろん、と頷いた。紙袋を開けるとどうやら化粧品らしかった。
包みを開けると、1本の口紅が入っていた。
“ Natsuki ”
名前が彫ってある。
「これ山中さんが買いに行ったんですか?」
「行ったよ。バッチリ変装して。喜んでくれた?」
「勿論です。こんないい口紅持ってませんもん。」
「良かった。」
山中英輔が安堵の表情を見せた。那月はドラッグストアで手に入るものしか使ったことがなく、デパコスには縁遠いと思っていた。どうやら山中英輔はスタイリストに聞いて買いに行ったようだった。色味はお仕事でも使いやすいピンクベージュを選んだらしい。
「会えなくても、いつも、そばにいるよって。」
照れながら山中英輔が言った。
素敵なプレゼントに、美味しいお料理。山中英輔は日本酒が進んで、【空】やら【獺祭】やらをぐいぐい飲む。釣られて、那月もお酒が進んだ。
楽しい時間はあっという間で気づくともう終電はなかった。
店を出て繁華街のメインストリートから反対側に歩くと、ビジネス街に出る。タクシーを拾って大まかな行き先を伝えた。
「ふー飲んだなー。」
タクシーの後部座席に腰を下ろすと山中英輔が満足そうに溜息をついた。
「はい、ご馳走さまでした。とっても美味しかったです。」
「お気に召したようで何よりです。」
山中英輔が柔和に笑った。
「手貸して。」
山中英輔にそう言われて手を差し出すと、そのまま手を繋がれた。那月がドキドキしていると耳元に囁かれた。
「何もしないから朝まで一緒にいて。」
驚いて山中英輔から離れてしまう。が手は離されずぐいっと引っ張られた。
「俺が疲れたら那月が癒してくれるんでしょ?」
突然の呼び捨てに心拍数がどんどん上がる。
「いや、えと、その......。」
「ダメなの?」
「......ダメじゃないです」
山中英輔の潤んだ瞳で見つめられると那月は断れなかった。