那月が在籍する某国公立大学保健学科看護学部では1~3年で座学と実習をこなし、4年で研究と国家試験対策をする。就職は半数以上が系列の大学病院へ、残りは地元に帰る学生もいれば保健師になって企業へ就職する学生、はたまた助産師資格取得を目指す学生もいた。
那月は倒れてから病院にかかることが多く、いつしか憧れ看護師を目指すことにしていた。
勉強は好きだから座学は良かった。だが実習は指導者と教員との狭間で板挟みに遭うことも多く挫折しそうになることも多々あったが、なんとか全ての単位を取得した。
那月はヤマナカエイスケと約束した、今しかやれないことを存分にやった。
勉強も、バイトも、自分磨きも。運動は苦手だったが、ウォーキングから始め5km程度のジョギングなら難なく走れるようになった。
更に実家暮らしだったが両親を説得して一人暮らしを始めたのは4年生の4月からだった。順調に国家試験をパスすれば大学病院に就職が内定していた那月は大学病院の自転車圏内に小さなアパートを借りた。一人暮らしは自由そのものであったが、油断をすれば体調を崩しそうになったし、実際に風邪をひいたときなんかは誰かの助けを求めたくなった。帰宅すると既に出来上がっているほかほかの夕食も、脱衣所に脱ぎ散らかしておけば綺麗に畳んで戻ってくる洗濯物も、全ては母あってのことだった。
ふとあらゆる負担に挫折しそうになるとヤマナカエイスケのことを思い出した。彼のことを考えるだけで頑張れた。
一人暮らしを始めてからテレビを持たなくてよいと購入しなかったが、就職して引っ越すというバイト先の隆二が24インチのテレビを譲ってくれたのを機にテレビを見るようになった。実家にいるときも実習中は朝が早くテレビを見る時間はなかったが、4年生になって朝少しゆったりできるようになりテレビをつけて支度をすることが増えた。
その日たまたまテレビの電源を入れるとNHK朝の連続テレビ小説が映った。
オープニングはここ数年で有名になった男性シンガーソングライターだった。
特別好きというわけでもなかったがなんとなく朝から元気が出るBGMだと思った。朝食のトーストをかじると少し焼き過ぎていてパンが硬かった。もぐもぐと咀嚼しながら引き続き朝ドラを見た。
適温になったポタージュを飲もうとキッチンに木のスプーンを取りに行く。テレビを背にした瞬間、聞き覚えのある声がした。急いで振り向くと木のスプーンが那月の手から落ちた。
テレビのステレオからヤマナカエイスケの少し低くて柔らかな声が聞こえた。穏やかな表情で笑うそれは明らかにヤマナカエイスケで、那月の知っているヤマナカエイスケと同じなようでそうでないような気もした。
大学生役のヤマナカエイスケはアラサーとは思えぬ若いオーラを振りまいていた。
「可愛い。」
心の声が漏れていた。
あれから3年。あのご飯から3年。
確かに忙しくてメディア媒体から離れ気味ではあった那月は自分が一緒にご飯に行った人が俳優だったってことに気づかなかったことを悔やんだ。
ヤマナカエイスケに会いたい。声が聞きたい。あの笑顔が見たい。
それは俳優ヤマナカエイスケに向けられたものではなく、久しぶりに目にした懐かしい人に対するものだった。3年間抑えてきた欲求がふつふつとこみ上げてきていた。那月は自分で認めることができなかったその思いが、ダムが崩壊するように抑えきれなかった。胸がぎゅっと締め付けられた。
一度食事に行ったくらいで厚かましい気もした。しかし気づいてしまったその感情をどうにか伝えたい気持ちもあった。
だがヤマナカエイスケの連絡は知らなかった。ましてや朝ドラ出演中でとても忙しいことは想像がついた。バイト先のカフェがヤマナカエイスケの生活圏だったとしても多忙であれば偶然会えることは稀であると那月はやっと理解した。
一通り興奮して、想いが溢れかえった後那月は寂しくなった。
きっともう手の届かない人なんだろう、と那月は思った。有名な人があんなお客さんの多いカフェになんて二度と来ないと思うとなんだかぽっかりと胸に穴が開いてしまったようだった。
悶々と考えた末、ヤマナカエイスケとの思い出は大事にしまってしまうことにした。楽しみにしていた俳優ヤマナカエイスケの出る朝ドラもいつしか最終回を迎えた。もう朝のNHKをつけても、もう俳優ヤマナカエイスケは出てこない。
追いかけることが嫌になってまたテレビをつけない日々が増えた。
ヤマナカエイスケのことは良い思い出だったと思うことにして、那月は勉学に打ち込んだ。夏の間ずっと研究室や図書館で論文を書いた。やっとの事で研究が終わって、あとは国家試験対策メインで卒業試験も視野に入れて勉強に励むことに決めたのがもう秋も深まり、そろそろ冬物のコートを出そうか悩み始めた頃だった。
ヤマナカエイスケも、忙しい中頑張っている。今やるべきこと、今しかやれないことをやる、と那月は切り替えた。
それから毎日10時間国家試験対策と、週に3回のバイトをこなす日々が続いた。
クリスマスイヴと当日のカフェは昼夜問わずお客さんが多く、スタッフ増員で回していた。例年通り今年も大盛況で、休憩もなかなか入れず、ずっと途切れなくバタバタしていた。
閉店10分前、ラストオーダーも終わって厨房は片付けに入っていた。ホールの掃除はまだこれからで掃除のできる席から少しずつ掃除していた。
「紺野ちゃんそこ終わったら上がっていいよ。」
店長が厨房から那月に声をかけた時には既に23時を5分回っていた。
「じゃあお言葉に甘えてお先に失礼しまーす。」
「お疲れ様でーす。」
バイト仲間にに声をかけ自転車に跨った。
自宅までここから自転車で5分、小腹の空いた那月はコンビニに寄ることにした。
明日も昼からバイトだから朝食用にパンをひとつ。サラダチキンと、低糖質の缶ビールをひとつ。クリスマスイヴにサラダチキンと、低糖質ビール。なんて寂しい女子大生なの、と打ち伏しがれながらレジに向かう途中にパンを選んでいた。
「よう。那月ちゃんじゃないですか。」
那月がこの声を忘れるわけがなかった。
「ヤマナカさん...。」
振り返る前には声を発していた。恐る恐る振り返り見上げるとブリーチしたような茶髪のヤマナカエイスケが立っていた。
「元気だった?」
はい、と返事をするのが精一杯だった。
もう3年以上も会ってない。テレビで目にしてしまったせいでなんだか、どんな顔して話したらいいのか分からなかった。
那月が言葉に詰まっていると、子犬のような瞳でヤマナカエイスケが見つめた。
止まっていた時間が、ギーっと音を立てて歯車が動き始めた音がした。
「あの、ここではなんですし、そのうちに来ませんか?」
自分でも驚くほど、突飛押しもなくて積極的である。
「え?」
まさかそう来るとは思っていなかったであろうヤマナカエイスケが目を見開く。
「この近所で一人暮らしをしています。ここで立ち話も微妙かと。」
確かにね、と頷きながらヤマナカエイスケが納得したように呟いた。
ヤマナカエイスケも缶ビールを1本、那月が持っていた買い物カゴに入れて、カゴを奪い取って、さっとレジまで運んでさっと会計を済ませた。
二人で並んで歩くのは3年半以上ぶりであった。
恥ずかしいような、気まずいような、でも本当はヤマナカエイスケに会えて嬉しい気持ちが強いのも確かだった。
「狭いですけど、どうぞ」
来客用のスリッパを取り出し、ヤマナカエイスケを招き入れた。ヤマナカエイスケはどこか緊張した面持ちで恐る恐る、お邪魔しますと呟いた。
「いつから一人暮らしなの?」
ヤマナカエイスケはコートを脱ぎながら聞いた。キョロキョロと視線が定まらない。
那月がその挙動不審な男ののコートを受け取りハンガーにかけるとありがとうと柔和な笑顔を見せた。
ああこの笑顔だ、と思った那月は口元が緩みそうになるのをこらえて、ビアグラスを出した。
「4年生になってからです。自立したくて。」
「偉いな那月ちゃんは。」
ヤマナカエイスケの厚く大きな手が那月の頭をぽんぽんと撫でた。ヤマナカエイスケの掌の感触を感慨深く思いながら、那月はビアグラスに綺麗に注いだ缶ビールをヤマナカエイスケの前に差し出した。
「ありがとう。」
ビールを一口含んでゆっくりと喉を潤す。苦さが喉の奥で名残惜しそうに流れていった。
そしてゆっくりと長く息を吐いた。
「さて何から話そうかな。」
先に口を開いたのはヤマナカエイスケだった。
もう一度今度は短く溜息をついた。那月がゆっくりと声を発した。
「私知りませんでした。」
ヤマナカエイスケが小さく頷く。その表情は那月が既に俳優ヤマナカエイスケの存在を知っていることを理解しているようだった。
「ユウちゃん。」
それはあの朝ドラで見た童顔で可愛い大学生役のヤマナカエイスケの役名、太田祐樹の愛称だった。ふははとヤマナカエイスケが笑った。
「笑うところじゃないです。」
那月がムッとしてヤマナカエイスケを上目遣いで見つめると彼は少し嬉しそうに笑ったままだった。
「そうだねごめんごめん。」
そう言いながらもヤマナカエイスケの口角は上がったままだった。
「どうして教えてくれなかったんですか?」
ヤマナカエイスケは少し口籠った。その童顔で少し可愛い雰囲気を残したままで、それでいて本当のヤマナカエイスケは大人の男性なのだとどこかで色気をも感じる憂いを帯びた表情に那月は不覚にもどきりとした。ビールを口に含んで、もう一度言葉を選んでいるようでもあった。
「那月ちゃんに偏見を持って俺のこと見て欲しくなかったんだよ。」
那月が小首をかしげた。
「俺の周りには、俺が俳優だ有名人だって理由で俺に近づいてくる女の子がいっぱいいる。」
「いっぱい、ですか?」
「まあ、嘘じゃないよね。いっぱいいる。」
那月は分かりやすく溜息をついた。
「でも那月ちゃんがそういう理由で近づいてきて火傷しちゃ可哀想だからさ。」
自分が俳優であると認めたその男がふざけるようにヘラヘラと笑うのを見て、那月はまた溜息をついた。
「なんてのは冗談だけど、当時未成年だった那月ちゃんの未来を潰しちゃいけないと思った。」
そのままヤマナカエイスケは続けた。
「俺は大学を卒業できなかった。だから、那月ちゃんには勉強したり、やるべきことやりたいことに一生懸命になってほしかった。」
一度はふざけたヤマナカエイスケは再び真っ直ぐな視線で那月を見つめ、憂いを帯びた表情で少し悲しそうに笑った。
「実は、那月ちゃんが高校生の時倒れたあの時、一目惚れだったんだ。可愛い子だなと思っていたらふらふらと倒れ込んだ。転ぶ前に身体を支えたんだけど、その時にはもう君は意識がなくてね。真っ白な君はどこかのおとぎ話から出てきた眠ったままのお姫様かと思うくらい美しかった。」
「まあ貧血で青白かっただけですけど。」
ヤマナカエイスケの口からこぼれ落ちる口説き文句に那月が口を挟むとキッと睨まれた。
あの駅で倒れた時にどこも打撲しなかったのはヤマナカエイスケが支えてくれたからだったとは那月は思いもしなかった。
時計の長針と短針がてっぺんで重なった瞬間突然ヤマナカエイスケが切り出した。
「ねえ今日俺誕生日なんだけど。」
那月がポカンとしているとヤマナカエイスケは続けた。
「何かプレゼント頂戴。」
アラサー男が無邪気に笑う。
「何も用意してないですよ!?え!?ほんとに?」
那月は焦って早口になった。キョロキョロと部屋中を見渡してみてもプレゼントになりそうなものは何もない。
「うんほんとに。」
「でも、でもーー」
吃っていると再びアラサー男が笑った。
「じゃあさ、プレゼントにちゅーして?」
この人は何をいうか。那月は目をまん丸くさせて動きを止めた。22歳になるまで真面目にほぼ勉強一筋で生きてきた那月は、彼氏もできたことはないしキスをしたこともない。耳まで赤くなるのがわかった。
「おいで。大丈夫だから。」
腕を掴まれて引っ張られるとふらついてアラサー男の隣に座ってしまう。二人の膝がぶつかる。そのまま腰に腕を回されて抱き寄せられる。仄かな煙草の匂い。綺麗な肌。垂れた目尻。ピアスホール3つ。
それは本能的な動物的な衝動だった。ヤマナカエイスケが那月の頬を親指で撫でると掌から熱が伝わって那月の頬も熱を帯びた。
那月の潤んだ瞳にヤマナカエイスケが映っていたし、彼の瞳にもまた那月が映っていた。
そのまま、どちらからともなく短い口付けをした。
そして那月はおめでとうございます、と続けた。初めてのキスはビールと、仄かな煙草の味がした。
身体を離そうと少しヤマナカエイスケの胸を押す。
「もうちょっとこうしていたい。」
ヤマナカエイスケがまた、子犬のような上目遣いで那月を見上げた。
「だめなことないけど、いや、嬉しいけど、いや、そうじゃなくて、もう心臓もたないから、離れてください。」
那月が少し焦ってヤマナカエイスケの胸を押すと少し口を尖らせてゆっくりと離れた。
いつの間にか二人ともビールがなくなっていたので、那月はジャスミンティーを入れることにした。ジャスミンティーからのぼる湯気が揺れて空中で消える。淡く甘い香りが立ち込める。
ヤマナカエイスケがゆっくりと話し始めた。
「那月ちゃんの受験番号覚えてる?」
「え?」
那月は全く記憶になかった。小首を傾げているとヤマナカエイスケがスラスラと数字を唱えた。
「00120025」
「よく覚えてますね」
「うん、合格発表の日に偶然駅で会ったでしょ。受験票に書いてある受験番号見て驚いたんだ。運命的な何か。俺の誕生日だなって。またいつか、偶然出会えることがあったら、きっとそれは本当に運命だと思った。」
ヤマナカエイスケは柔和に笑いながら、あちちとジャスミンティーを啜った。どうやら猫舌のようだった。
「那月ちゃんと出会った頃。そう、那月ちゃんが駅で倒れた頃ね。まだ俺はテレビへの出演は少なくて、後から出てきた事務所の後輩たちがどんどん売れてくのを見て、もどかしい思いもしてた。もちろん頂けるお仕事には全力で取り組んでいたし、俺のお芝居を認めてくださる監督もいた。」
こっちおいで、とヤマナカエイスケに抱き寄せられた。
「くっついてないと寒い。」
「じゃあエアコンの温度上げます。」
「違うの。くっついてたいの。」
一度は解放されたはずの抱擁に再び捕獲されたがもう拒めなかった。甘えた声と表情のヤマナカエイスケが愛おしく思えて離れるのが勿体無かった。
「再会した時。あの合格発表の日、自信に満ち溢れていて、前向きで一生懸命な那月ちゃんの若いパワーが眩しくて。ああ俺も頑張ろうって思ったんだ。最初は一目惚れだった君に力をもらったんだ。」
ヤマナカエイスケは那月が知りたかったこと、知らなかった全てを一つ一つ吐露した。言葉を紡ぐようにゆっくりと。
「私もです。」
すうっと息を吸い込んだ。
「ヤマナカさんとお食事行ったあの、GWに行ったイタリアン。あれ以降、毎日を一生懸命過ごした。勉強も、バイトも、自分磨きもした。」
「那月ちゃん頑張り屋さんだから。」
「ふふふ。ヤマナカさんに見合う女性になりたくて、一つ一つ大人になろうと思った。」
「そうだね、一緒にビール飲めるようになったしね。」
ヤマナカエイスケの大きく柔らかな手が那月の髪を撫でた。
「これからは、どうするの?もう就職だよね?」
「就職先は大学病院の病棟勤務が決まっています。希望科は出してありますけど通るかどうかはわかりません。でもそれ以前に国家試験に受からなければ意味がなくて。」
そんな風に伝えるとヤマナカエイスケが柔和に笑って、那月の頭を今度はぽんぽんと優しく撫でた。
「那月ちゃんなら大丈夫。俺もついてる。」
心配などしていないとでも言うように、ふははとヤマナカエイスケが笑う。
楽しい時間はあっという間で、いつしか新聞配達の自転車の音がする時間帯になった。
ヤマナカエイスケがベランダに出る。
「ヤマナカさん寒いですよ。」
まだ仄暗い空は夜と朝の丁度間のグラデーションだった。空気がツーンとして、鼻先を冷たい空気が通り過ぎる。ヤマナカエイスケが息をはーっと吐くと真っ白になった。
「ほら、月が出てるよ。」
「ほんとだ。」
細い下弦の月が光っていた。
「「月が綺麗ですね。」」
二人の声が重なった。
ヤマナカエイスケは今日は昼から民放ドラマの収録があるとかで帰っていった。帰り際にメモ用紙を渡された。携帯電話の番号だった。
山中 英輔 090-xxxx-1225
と書かれたメモは昨夜コンビニで買い物をしたレシートの裏だった。ボールペンで殴り書きされたそれは男性らしい、よく言えば達筆な字体であった。
那月は山中英輔の使ったグラスを洗いながらうっとりとした。昨夜、厳密には朝まで彼は確かにそこにいた。まだそこにあるソファーには彼の温もりさえ残っているようにも感じた。
偶然の出会いから既に4年半の年月が過ぎていたことを思うと、それは偶然ではなく運命的な何かだったのではないかとさえ思えた。
那月は余韻が冷めぬまま、シャワーを浴びて一眠りすることにした。気持ちは高揚していたが、睡魔は簡単に襲ってきて、思いの外早く眠りについた。
目が醒めるともう10時を回っていて、那月は慌てて支度をした。コンビニで購入した菓子パンを朝食として食べて、11時のカフェの開店前にはバイトに行かなければならなかった。
クリスマスイヴもクリスマスもバイトとは寂しい気もしたが、昨夜の記憶があればどんなに忙しくても、注文の多いクレーマーがいても頑張れる気がした。
バイトが終わった18時。遅番に交代して、今日はまっすぐ帰って眠ることにした。今朝明け方まで山中英輔と一緒にいたから睡眠不足である。
帰宅してすぐにシャワーを浴びて、布団に潜り込む。この瞬間が何よりも至福であった。
昨夜の余韻が抜けないこととカフェが忙しかったこともあり、アドレナリンが出てしまっているようですぐには眠ることができずに、スマートフォンを取り出した。ケースに挟んでおいた山中英輔から渡されたメモの電話番号を登録した。
スマホ画面に映る【山中 英輔】の文字に頬が緩んだ。
次の朝、テレビをつけると朝のワイドショーで長髪茶髪の山中英輔が映った。黒のスーツに大きな花束を持って細身のお洒落ネクタイを締めた山中英輔は元はグラビアアイドルの美人な女優さんと並んで笑っていた。
あの日。クリスマスイヴのあの日。山中英輔とコンビニで偶然会ったあの日。
山中英輔はドラマのプロモーションのイベントの後だった。イベントではたくさんの報道陣に囲まれて、美人の女優さんとイケメンの後輩俳優と、背筋をしゃんと伸ばして立っていた。それは那月の知っている可愛い山中英輔ではなく、少し前のまだ遠い存在だったヤマナカエイスケであった。
疲れているのに、朝まで付き合ってくれたことが、嬉しいよりもなんだか申し訳なく思った。
紺野那月
先日は引き止めてしまってすみません。ドラマ頑張ってください。
電話番号を登録した際に勝手に入ったSNSでメッセージを一つ送ってスマートフォンの画面を消した。
それよりも国試対策ラストスパートである。看護師国家試験は9割の合格率だと言われているが、残りに1割に入るわけにはいかなかった。
元々机に向かうことが好きだった那月は卒業試験も、看護師国試も、保健師国試も難なくパスした。
その間、山中英輔とは会わなかった。厳密には会えなかった。ドラマに舞台に、それらのプロモーションに忙しすぎるとも言える山中英輔とは週に数回メッセージがやりとりされるだけで、お互いに会う余裕がなかった。
山中 英輔
国家試験の合格祝い、今度しようね。
そんなメッセージはきたけれど、会えるのはいつになるのか、那月にも山中英輔にも分からなかった。
今年の桜の開花は例年通りとのことで入社式当日、大学病院の周りにはぐるっと並んだ桜の大木のどれもが薄ピンク色に染まっていた。
リクルートスーツはほぼ未使用の状況だった。就職活動はあってないようなものだったし、片手で数えるほどしか着た記憶はなかった。
まずは技術の練習だった。清拭や陰部洗浄のような学生時代に実習で習得したものではなく、採血や点滴に関するもの、浣腸や摘便、導尿といった排泄関連も行われた。4月上旬の全部署ローテーション研修後、4月半ばから配属先でシャドーが始まった。
配属は脳外科病棟だった。脳梗塞、脳出血、くも膜下出血が多い。どの病棟に配属されても同じだが学生でなくなっても勉強の日々が続く。
教育係であるプリセプターの飯田加奈は4年目でとても優しい。動きに無駄がなく仕事が早い。笑顔が素敵で、患者からもご家族からの信頼も厚い。
そんな人に教えていただけることがとても誇らしかった。
実習中でもわかっていたことだが、看護師の早歩きは本当に早い。那月はついていくので精一杯。メモを取るので精一杯だった。帰ってから自分のメモを見返すと、ミミズが這ったような字ばかりで読めないこともあったし、ボールペンの黒インクは一瞬で出なくなった。
桜の花はとっくに散り、葉桜が美しい新緑を芽吹かせた。大型連休が明けて独り立ちが決まった。まずは受け持ち一人からである。バイタルサイン測定に、全身状態の観察に、点滴の交換、食事摂取量の観察......見ることは山ほどある。厳密には看ることである。
そして那月はミスをした。膀胱留置カテーテルの患者の尿量が明らかに少ないことを不審に思った那月は、他のスタッフが破棄した後記載を忘れたのだと思い込んだ。
しかし実際には、尿中浮遊物によりカテーテルが閉塞し、膀胱内に尿が多量に溜まっていたのである。
日勤帯の終わりに尿量が少ないことを那月は飯田に伝えた。飯田が血相を変えて簡易エコーのできる残尿測定器を持ってその患者の元へ走ったことで事態が発覚した。
「ねえ紺野さん。人間誰しも全くミスをしないわけにはいかないよね。ただ対処法がある。早く対処すれば影響しない場合もある。分からなかったら即聞く。疑問に思ったら聞く。分からないままの方が怖い。紺野さんも不安だったでしょ?私達は命を預かっている。いいね?」
膀胱留置カテーテルを新しいものへ交換し、排尿を認めた後でステーションに戻ると、飯田はいつになく真剣な眼差しで話し始めた。飯田と共にインシデントレポートを書いて主任に確認印をもらい、師長へ提出した。
「よし次がんばろう!」
飯田は明るく、那月の背中を優しく叩いた。
それから数日、反省はしても凹みすぎずに、という飯田の教え通り、なんとか毎日仕事に励んでいた。ある日の仕事からの帰り道、携帯電話が鳴った。
「もしもし山中だけど。」
「はい、お久しぶりです。」
久しぶりの山中英輔の声は受話器越しではくすぐったく感じた。
「これから会えないかな?」
最後に会ったのはあのクリスマスイヴ。
その間山中英輔は舞台で全国を飛び回っていて、各地から報告の写真が送られては来ていたが、簡単に返信をするだけで声を聞くのはおよそ二か月ぶりだった。
「明日休みなのでいいですよ。」
よしっと電話の向こうで山中英輔が小さくガッツポーズしたのが見えた気がした。待ち合わせは繁華街から一本入ったところにある雑居ビルで、その地下にある数年前にミシュラン星1つだった日本料理のお店らしい。
やや高級そうな店構えにドキドキしながら暖簾をくぐる。たまたまちょっといいワンピース着ててよかったと胸を撫で下ろした。
山中と名前を告げると1番奥の部屋に案内された。既に山中英輔は席についていた。
「お待たせしてしまいましたか?」
「いいや現場が近かったんだ。さあそれより何飲む?」
そう那月にお品書きを渡した。
「俺はとりあえず生ね。」
「じゃあ私も。」
「そしたら生2つね。」
どうやら料理は既に頼んであるらしく、前菜とともに生ビールが2つ運ばれてくる。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
乾杯してグラスに口をつける。ふわふわの泡が唇に触れて気持ちいい。冷んやりとした液体が喉の奥を流れていった。
「山中さん、相変わらず忙しそうですね。」
「ねー有難い話だけどね。」
山中英輔は苦笑いした。
「ちゃんと身体休めてますか?ちょっと心配です。」
「ありがとう。でも大丈夫。でも疲れちゃったら那月ちゃんが癒してね。」
山中英輔が今度はいたずらっぽく笑う。童顔の彼がくしゃっと笑うとその可愛さに那月はドキッとした。
「那月ちゃんこそ就職して、どう?大変?」
山中英輔が今度は心配したように怪訝そうな表情をみせた。那月が少し俯いて、一口ビールを口に含んでから答えた。
「まあ楽ではないです。でも良い先輩に恵まれて、充実してます。」
「それなら良かった。」
「あーでも最近失敗しちゃって。詳しくは言えないんですけど、流石にちょっと凹みました。」
那月が苦笑いすると、山中英輔はぽんぽんと頭を撫でてた。
「よく頑張ってるね。」
山中英輔は詳しくは聞かなかった。ただ優しい微笑みを那月に向けた。
「で早速なんだけど、これ合格祝いね。」
山中英輔が小さな紙袋を出した。
「え!そんな!」
「大したものじゃないし、気にいるか分からないけど。」
「じゃあ開けていいですか?」
山中英輔はもちろん、と頷いた。紙袋を開けるとどうやら化粧品らしかった。
包みを開けると、1本の口紅が入っていた。
“ Natsuki ”
名前が彫ってある。
「これ山中さんが買いに行ったんですか?」
「行ったよ。バッチリ変装して。喜んでくれた?」
「勿論です。こんないい口紅持ってませんもん。」
「良かった。」
山中英輔が安堵の表情を見せた。那月はドラッグストアで手に入るものしか使ったことがなく、デパコスには縁遠いと思っていた。どうやら山中英輔はスタイリストに聞いて買いに行ったようだった。色味はお仕事でも使いやすいピンクベージュを選んだらしい。
「会えなくても、いつも、そばにいるよって。」
照れながら山中英輔が言った。
素敵なプレゼントに、美味しいお料理。山中英輔は日本酒が進んで、【空】やら【獺祭】やらをぐいぐい飲む。釣られて、那月もお酒が進んだ。
楽しい時間はあっという間で気づくともう終電はなかった。
店を出て繁華街のメインストリートから反対側に歩くと、ビジネス街に出る。タクシーを拾って大まかな行き先を伝えた。
「ふー飲んだなー。」
タクシーの後部座席に腰を下ろすと山中英輔が満足そうに溜息をついた。
「はい、ご馳走さまでした。とっても美味しかったです。」
「お気に召したようで何よりです。」
山中英輔が柔和に笑った。
「手貸して。」
山中英輔にそう言われて手を差し出すと、そのまま手を繋がれた。那月がドキドキしていると耳元に囁かれた。
「何もしないから朝まで一緒にいて。」
驚いて山中英輔から離れてしまう。が手は離されずぐいっと引っ張られた。
「俺が疲れたら那月が癒してくれるんでしょ?」
突然の呼び捨てに心拍数がどんどん上がる。
「いや、えと、その......。」
「ダメなの?」
「......ダメじゃないです」
山中英輔の潤んだ瞳で見つめられると那月は断れなかった。