正午になり一斉に店の時計が各々の特徴を誇示するかのように十二回ないしは十回程度の時報を鳴らした。その音に慣れない聡は身体がびくっとする。そのリズムたるや指揮者不在のオーケストラのようで一貫性を欠く。作業場で集中していると、聡はいつもこのタイミングに出くわす。それは仕方のないことだ。なぜならここが彼の仕事場なのだから。
さらにびくっとしたといえば時報が鳴り終わり、後ろを振り向いた瞬間に、姉の水樹がいたことだ。聡は目を見開き、口をあんぐりと開けた。
「情けない顔」
水樹は的確で鋭い指摘を彼にした。
聡は顔の筋肉、並びに口元を戻し、「びっくりしたよ、まるで影のようだ」とニヤニヤしながら言った。だが、彼の発言に水樹は何の反応も示さなかった。
彼女は近くにあった手頃な白い椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろした。そして肩に掛けていた画材道具をゆっくりと床に置いた。その一連の動きに無駄はなかった。
「今から、アトリエ?」
聡は訊いた。アトリエといっても古びたガレージを改装しただけのものだ。しかしそこは彼女なりのこだわりなのか、ときに芸術家にとって環境が重要であるように、一流の建築士と一流のデザイナーに改装依頼をした。場所は時計屋『レッド』の三軒隣である。なので非常に近い。商店街沿いにあるためカラフルがガレージ兼アトリエは非常に目を引く。一時期、売れない画家であったり、クリエイティブを生業にする人達がよく訪れていた。それが口コミで広まり、ある女性雑誌に取り上げられ、彼女の容姿も幸いしてか、個展を開くまでに至った。そのことに対して水樹は喜ぶでもなく、かといって不快さを滲ませることもなかった。ようはいつものように淡々としていた。
「なんで、歌うことを止めたの?」
聡の問いかけは無視され、朝食のときの話題を水樹は持ち出してきた。
「なぜといわれても」聡は口ごもり、「みんな先のことを考え出したんじゃないかな」と言った。
「先って、氷河期のこと?」
「まあ、それもあるし才能がないってわかったんだよ。それに音楽で食べていくのは難しい」
「それは言い訳よ」と水樹はびしっと上司が部下に叱るように言い。「継続をし続けることが才能よ」と爽やかな笑顔を見せた。
聡は彼女の言葉が胸に突き刺さった。〝継続〟その二文字が頭の中を駆け巡る。そうだよな、好きならやり通すべきだったよな、と彼は思う。『氷河期』や『経済面』は言い訳でしかなかったのかもしれない。
ふと、なぜ今時計屋に戻ることになったのか聡は考えた。
夢への挑戦は十三年前、十七歳の時だった。
高校二年の聡は夢を追いかけた。
その時には、『氷河期到来』報道は成されていたが、学生の身分では遠い先のことであり、むしろ『氷河期』なんてものは到来しないと思っていた。
聡は、時計屋『レッド』を父から継ぐつもりでいた。
が、友達から渡された一枚のCDが聡を変えた。それは爆音でギターをかき鳴らすロックミュージックだった。重低音をコンサートホール、または野外で轟かせ、歓声を浴びる。地味な時計屋にはない、華やかさがそこにはあった。聡はそこに魅了され、家で、学校で耳に接着剤でもつけてるかのようにイヤホンが耳から離れなかった。
しかし聡は楽器が弾けない。その時、バンドに誘ってくれたのが同じクラスだった栗原洋一だった。彼はギターを弾いていた。音楽を志すものにとって長髪はトレードマークなのか洋一もそうだった。長身でスタイルよく彫りの深い顔は女性からモテた。
洋一とはよくカラオケに行った。一時間、一五〇円という安価な値段のためか、学校終わりはむさぶるように歌った。
聡は別段、歌に関してトレーニングを積んだわけではない。腹筋が発達しているのか、はたまた声帯が特殊なのか、他の人よりは比較的歌唱力があった。高音は伸び、低音領域も安定している。ときにはシャウトだってできる。そこに洋一の一言が聡に拍車をかける。
「聡、めちゃくちゃうまいやん」
男二人、カラオケのブースでマイク越しに洋一の声が反響した。なぜか関西弁だった。
「え、そう?」聡は内心で嬉しい気持ちをおくびにも出さず、「それはありがとう」と言った。
「いや、まじでいい声してるよ。プロ目指せる器だよ」
今思えばカラオケの一室で、お世辞ともとれる洋一の発言を鵜呑みにしたことが全ての始まりと言えば始まりであり、素直といえば素直だった。十代の誰しもが思うように、誰かから〝認められる〟というのは嬉しいことであり、自尊心をくすぐる。誰だって、必要とされたいと思うはずだ。
「なあ、軽音部来いよ!今、ボーカルがいなくて困ってたんだよ」洋一は言い、「まあ、一応はいるんだけど音痴なんだよ。これは致命的だろ」と聡の顔を伺った。
「たしかにね」
それぐらいしか聡に言えることがなかった。バンドについて知らないことが多すぎた。
「俺はメジャーデビューしたいんだ。お前が加入すれば夢へ一歩近づける」
その洋一の一言は聡の心に響くものがった。誰もいない教室でトライアングルをチーンと響かせたように。
が、一つ心配事があった。
時計屋『レッド』のことだ。まだまだ半人前だが今では時計職人としては食べれるスキルを得ている。それは父のお陰であり、日々の修練の賜物だとも思っている。そのことを洋一に伝えた。
「おい、聡!人生一度だぞ。スポットライト浴びて歓声浴びてこそ人生生きた甲斐があるってもんだ」と洋一は力強く発し、「親の敷いた時計屋というレールで果たしてそれが得られるのか」有無を言わせぬ鋭い目つきで聡を凝視した。
「心に響くね」
聡は言った。
「音楽は人の心に響くだろ。感情の奥深くを揺さぶろうぜ」洋一はニヤッとし、「明日部室来いよ」と半ば強引に聡の加入を決め、次に歌うカラオケの選曲を始めた
さらにびくっとしたといえば時報が鳴り終わり、後ろを振り向いた瞬間に、姉の水樹がいたことだ。聡は目を見開き、口をあんぐりと開けた。
「情けない顔」
水樹は的確で鋭い指摘を彼にした。
聡は顔の筋肉、並びに口元を戻し、「びっくりしたよ、まるで影のようだ」とニヤニヤしながら言った。だが、彼の発言に水樹は何の反応も示さなかった。
彼女は近くにあった手頃な白い椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろした。そして肩に掛けていた画材道具をゆっくりと床に置いた。その一連の動きに無駄はなかった。
「今から、アトリエ?」
聡は訊いた。アトリエといっても古びたガレージを改装しただけのものだ。しかしそこは彼女なりのこだわりなのか、ときに芸術家にとって環境が重要であるように、一流の建築士と一流のデザイナーに改装依頼をした。場所は時計屋『レッド』の三軒隣である。なので非常に近い。商店街沿いにあるためカラフルがガレージ兼アトリエは非常に目を引く。一時期、売れない画家であったり、クリエイティブを生業にする人達がよく訪れていた。それが口コミで広まり、ある女性雑誌に取り上げられ、彼女の容姿も幸いしてか、個展を開くまでに至った。そのことに対して水樹は喜ぶでもなく、かといって不快さを滲ませることもなかった。ようはいつものように淡々としていた。
「なんで、歌うことを止めたの?」
聡の問いかけは無視され、朝食のときの話題を水樹は持ち出してきた。
「なぜといわれても」聡は口ごもり、「みんな先のことを考え出したんじゃないかな」と言った。
「先って、氷河期のこと?」
「まあ、それもあるし才能がないってわかったんだよ。それに音楽で食べていくのは難しい」
「それは言い訳よ」と水樹はびしっと上司が部下に叱るように言い。「継続をし続けることが才能よ」と爽やかな笑顔を見せた。
聡は彼女の言葉が胸に突き刺さった。〝継続〟その二文字が頭の中を駆け巡る。そうだよな、好きならやり通すべきだったよな、と彼は思う。『氷河期』や『経済面』は言い訳でしかなかったのかもしれない。
ふと、なぜ今時計屋に戻ることになったのか聡は考えた。
夢への挑戦は十三年前、十七歳の時だった。
高校二年の聡は夢を追いかけた。
その時には、『氷河期到来』報道は成されていたが、学生の身分では遠い先のことであり、むしろ『氷河期』なんてものは到来しないと思っていた。
聡は、時計屋『レッド』を父から継ぐつもりでいた。
が、友達から渡された一枚のCDが聡を変えた。それは爆音でギターをかき鳴らすロックミュージックだった。重低音をコンサートホール、または野外で轟かせ、歓声を浴びる。地味な時計屋にはない、華やかさがそこにはあった。聡はそこに魅了され、家で、学校で耳に接着剤でもつけてるかのようにイヤホンが耳から離れなかった。
しかし聡は楽器が弾けない。その時、バンドに誘ってくれたのが同じクラスだった栗原洋一だった。彼はギターを弾いていた。音楽を志すものにとって長髪はトレードマークなのか洋一もそうだった。長身でスタイルよく彫りの深い顔は女性からモテた。
洋一とはよくカラオケに行った。一時間、一五〇円という安価な値段のためか、学校終わりはむさぶるように歌った。
聡は別段、歌に関してトレーニングを積んだわけではない。腹筋が発達しているのか、はたまた声帯が特殊なのか、他の人よりは比較的歌唱力があった。高音は伸び、低音領域も安定している。ときにはシャウトだってできる。そこに洋一の一言が聡に拍車をかける。
「聡、めちゃくちゃうまいやん」
男二人、カラオケのブースでマイク越しに洋一の声が反響した。なぜか関西弁だった。
「え、そう?」聡は内心で嬉しい気持ちをおくびにも出さず、「それはありがとう」と言った。
「いや、まじでいい声してるよ。プロ目指せる器だよ」
今思えばカラオケの一室で、お世辞ともとれる洋一の発言を鵜呑みにしたことが全ての始まりと言えば始まりであり、素直といえば素直だった。十代の誰しもが思うように、誰かから〝認められる〟というのは嬉しいことであり、自尊心をくすぐる。誰だって、必要とされたいと思うはずだ。
「なあ、軽音部来いよ!今、ボーカルがいなくて困ってたんだよ」洋一は言い、「まあ、一応はいるんだけど音痴なんだよ。これは致命的だろ」と聡の顔を伺った。
「たしかにね」
それぐらいしか聡に言えることがなかった。バンドについて知らないことが多すぎた。
「俺はメジャーデビューしたいんだ。お前が加入すれば夢へ一歩近づける」
その洋一の一言は聡の心に響くものがった。誰もいない教室でトライアングルをチーンと響かせたように。
が、一つ心配事があった。
時計屋『レッド』のことだ。まだまだ半人前だが今では時計職人としては食べれるスキルを得ている。それは父のお陰であり、日々の修練の賜物だとも思っている。そのことを洋一に伝えた。
「おい、聡!人生一度だぞ。スポットライト浴びて歓声浴びてこそ人生生きた甲斐があるってもんだ」と洋一は力強く発し、「親の敷いた時計屋というレールで果たしてそれが得られるのか」有無を言わせぬ鋭い目つきで聡を凝視した。
「心に響くね」
聡は言った。
「音楽は人の心に響くだろ。感情の奥深くを揺さぶろうぜ」洋一はニヤッとし、「明日部室来いよ」と半ば強引に聡の加入を決め、次に歌うカラオケの選曲を始めた