戦後に懐中時計店『レッド』として足立区梅田に店を構え、祖父から数えて聡が三代目である。今は総合時計店として店を開いている。
 が、一年前に父親が脳梗塞で倒れ、入院、そしてその日に亡くなった。
 聡は葬式に出れなかった。むしろ父親が亡くなったことすら知らなかった。
〝親不幸もの〟
 実家に戻ってきてからいつもその言葉が頭を離れない。俺は何をやっていたんだ、と己を聡は責める。
 聡はレジ奥にある作業場に向かった。奥に引っ込んでも店内の秒針を刻む音が聞こえてくる。修理依頼された腕時計の修復に彼は取りかかった。ルーペをつけ、ピンセットを器用に使い、劣化した部品を取り除き、新しい命を吹き込んでいく。
 聡は父親に小学校から高校まで時計屋としての基礎を叩き込まれた。もちろん学校が終わった後に、マンツーマンで訓練した。最初のうちは、友達と遊びたく何かと理由をつけて断ったが、時計の構造を知り、父親の時計に接する姿勢、お客への真摯な対応を間近で見ている内に、少しづつ時計をいじくり回す機会が増えた。それはパズルと一緒だった。個々のパーツは何がなんだかわからないし、意味を成さないが、それが全て適切な位置に嵌まった瞬間、形を成す。パズルと違うところは、『時を刻む』。完成させるまでは非常に厳しく、クリアせねばならない条件は多いが、それを乗り越えたときの達成感は高揚感がある。
 聡は今でも初めて自分が作成した時計を覚えている。
 それは中学校三年の時だ。当時好きだった女の子にプレゼントしようと思い、時計を制作した。文字盤にはアラビア数字を使用し、レディースということで小ぶりな腕時計を制作した。しかし、中学卒業までに間に合わなかった。普段、制作した腕時計より小さいということもあり苦戦を強いられた。自分の技術力のなさを呪い、結局完成したのは高校一年の夏だった。
 が、父親は聡が制作した腕時計を見て、笑った。普段は姉の水樹と一緒で無表情の父親が笑うのは珍しい。言葉ではない聡の心を煌びやかにするものがあった。
 そういえば、あの時計はどこにあるんだろう、と聡は思った。部屋に置いたままの気もするが、と思いつつも作業場の抽斗を漁った。やはりなかった。
 その時、カラン、と扉の開く音がした。
「いらっしゃいませ」と聡は作業場から声を響かせる。
 聡は作業場から店内に移動した。そこには女性がいた。肩まである栗毛色の髪、目尻の小じわが三十代前後を想起させるが、決して若作りをしてるわけではないパンツルックは自分の似合う服装を熟知している。もしかしら二十代後半かも、と聡は思い直す。
「なにかお探しですか?」
 聡は訊ねた。
「あ、ごめんなさい。時計ってたくさんの種類があるんですね。見惚れちゃった」
 と女性は意図的ではなく自然発生的に舌をペロっと出した。それは聡にとって好感の持てる仕草だった。
「意外に種類は多いんですよ。懐中時計なんか昔は将校さんとか今でもお年寄りの方なんかが、携帯していますし、それにプレミアムが付いてるのもあるんですよ。その辺のオメガやブルガリ、なんかより優れたものはたくさんあります」
 気づけば聡は熱弁を奮っていた。おそらく目の前にいる女性が美人だからに違いない。なぜ、男というのはこうも美人を目の前にすると気持ちが高揚するのだろう、か。それに高揚するか見てみぬふりをするか、どちらかの場合もある。現時点の状況は明らかに前者である。
 が、女性の下腹部を見て聡の情熱を急速に冷えていった。というのも妊娠していたからだ。はたから見たら分からないだろうが、少し膨らんでいる。
 その思考を女性の一言が掻き消した。
「いい声ですね」
 と女性は聡から視線を外さずにいう。どんな男でも誰もが見つめられれば石化するのではないかという妖艶な眼差しだった。さらには足立区という街にそういう女性がいたということに聡は驚いた。いや、驚くのは世の足立区に住んでいる女性に失礼かもしれない。
「あ、あ、本当ですか?」と聡は頭を掻き、「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。褒められ、動揺し、この状況に至ったわけだが、頭を下げすぎた、と彼は後悔する。
「そんなに頭を下げなくても」と予定調和な返答を女性はし、「時計屋をやりながらプロの歌い手を目指せばよかったのに」とやさしい微笑みを讃え彼女は言った。
 聡は封印していた過去が深海から浮上し、そして顔を崩した。
「いやいや、僕なんか才能ないですから」
 愛想笑いを聡は彼女に向けた。
「私、なんか変なこといっちゃっかしら。でも、いい声よ」
「そういってもらえて嬉しいです」と聡は改めて礼を述べ、「で、今日はどうされたんでしょか」と訊いた。
「あ、ごめんね」と髪の毛を人差し指で彼女は捻った。それが癖なのだろう。無意識に行っているのが聡にはわかった。
「腕時計の修理依頼してたはずなんですよ」
 恐る恐る彼女は訊いた。
 たしかに修理依頼は二件あり、どちらも先ほど終わらせた。だが、どちらの時計も目の前の女性のものではない。
 しかし聡の疑問も彼女の一言が払拭した。
「母のです」と彼女は言い、肩に掛けていたブランド物のバッグから受取証を聡に手渡した。
「ああ、なるほど」
 受取証を見つめながら聡は納得した。そこには、「松原幸江」と名が記されていた。
「では、娘さんですか?」
 聡は訊いた。
「そうです。美穂っていいます」と快活のよい受け答えをし、「もしかして詐欺師か何かと疑いました?」と聡の疑念を見透かされた。
「一瞬、そのことが頭を過りました。そんなことはないですよね」
 聡は言った。
 実際高価な時計は狙われていたらしい。それは報道で知ったことだが、『氷河期」が近づき数年前までは時間に対する意識が強く、「時間を無駄にできない」それならばと、「高価で優良な時計が欲しい」というニーズが高まり、買われ、そしてとある時計店では盗みが横行した。ある家庭では時計が五十個あり、さらにある家庭では、時計が百個あり、という具合に家庭にいくつ時計があるか抜き打ちでテストし競う番組に人気が集まったときもある。
 その時に聡は思った。君たちも時計店を開けばいいのに、と。
「わからないですよ」
 美穂の言葉で聡の意識が戻る。
「わからない?」
 聡は訊いた。
「私、実は、詐欺師です。なんてことだったらどうします?」
「見事に騙されたいと思います」
 聡は冗談で返した。二人は声を出して笑った。
「少し待ってもらえます。今、時計包みますね」と聡は作業場の方に向かった。「はい」という甲高い声が彼の背に投げかけられた。
 聡は小ぶりな腕時計をやさしく掴み、小ぶりなジプロックに入れた。『レッド』と印字された赤い小箱に時計を収めた。そして紙袋に入れた。
「お待たせしました」
 聡は快活に言う。
「大丈夫ですよ。待つのには慣れてますから」
 意味深な発言を美穂はした。
 聡はあまり深く美穂の発言には踏み込まず、「お母さんによろしくお伝えください」時計の入った紙袋を差し出し、「どうぞ」と美穂に手渡した。
「ありがとうございます」と美穂は笑顔を見せ、「ひとつ気になることが」と言った。
「なんでしょう?」
「今、店内で流れている曲って『ビートルズ』なのはわかるんですけど、何の曲でしたっけ?」
 美穂は二回目の必殺ベロ出しを見せた。女性の表情というのは豊だと思った。姉の水樹とは大違いだと、聡は思う。
 そして、「『ヒア・カムズ・ザ・サン』ですね。アルバム『アビーロード』B面の一曲目ですね」
「そうだ、そうだ。ドラムであるジョージ・ハリスンの名曲ですよね」
「お詳しいですね。好きなんですか?」
「好きですね。演奏もシンプルなのに複雑ですし」と美穂は言い、「『アビーロード』をレコーディングしてたときは仲悪かったんですよね、みんな?」と付け加えた。
「らしいですね。僕もわからないけど、その中でポールが率先して曲を一つにまとめてアルバムが生まれたんでしょうね」
「バラバラな心も一つになる典型例ですね」
 美穂はどこか遠くの方を見つめた。遠くの雲を眺めるように。
「バラバラな心?」
 聡は首を傾げた。
「ほら」と美穂は目を輝かせ、「一週間後に『氷河期』を迎えるじゃないですか」と一呼吸置いた。
 ここまで長話をするならば、何か飲み物を持ってきた方がいいだろうか、と聡は思った。
 が、美穂の話は続く。
「段々それが近づくにつれて、人と人が寄りそうようになったというか、連帯感が生まれたというか。もちろんそうじゃない人達もいますけど。より人の心に重きが置かれている気がします」
 聡にも美穂の言っていることは何となくだがわかる。親と疎遠だった子が急に戻ってきたり、急に人にやさしくなったり、誰かの役に立ちたかったり、と彼女の言う通り人の心に変化が生じてるのはたしかだ。
「おしゃってることはわかります」
 聡は慣れない笑みを美穂に向けた。
「本当ですか?よかった」
 白く整列された歯を美穂は見せた。
 まだ彼女は喋り足りなそうだったが、腕時計を確認し、「いけない。もうこんな時間」と突然慌て出し、「長話すみません」とお辞儀をし店を去った。香水なのだろう、甘い柑橘系の匂いが店の中を漂っていた。