十五年前、アメリカ航空宇宙局である通称『NASA』が、ある記者会見を行った。

それは、〝世界全土に氷河期が訪れる〟というものだった。その場にいた記者団も、ぽかんと口を開いた。その開いた口にキャンディを忍ばせたい気持ちに誰もがなったに違いない。

 それもそうだ。なぜならどこの国も〝温暖化〟問題に力を入れてたはずで、代替エネルギーであったり、身近な節電、環境悪化を防ぐべく苦心してきたはずなのだ。それなのにいきなり〝氷河期〟とは僕も後で知ったことだが恐れ入った。あまりに突然で、急な物言いはいかせん誰も予期していなかった。

 が、NASAの上層部は至って冷静だった。炊かれるフラッシュに瞬きひとつせず、徹夜して考えたであろう文面を研究者にありがちな抑揚のない口調で淡々と喋った。

『地球は氷河期サイクルに入りました。過去を見れば明らかであり、そういうサイクルになっています。それが今の温暖化に当たります。本格的な氷河期が訪れる前に、〝寒冷〟と〝温暖〟の時期があります。それを過ぎると本格的な氷河期に突入し、試算で申し訳ないですが』と研究者はテーブルに置かれたリプトンのレモンティーを一口飲む。記者会見上には〝水〟が定番なはずだが、その思い込みを一蹴する力をやはりNASAの上層部は持っている。そして彼らは話を続けた。
「氷河期に突入しますと、人類はいまより七、八割、いや何か不穏な因果関係が起これば九割近く縮小することは明白であります」と上層部は言い切った。

 これほど非現実的である記者会見は翌日のメディアを大いに賑わせた。どこかの大学教授に至っては、「だから僕は最初から言っていたんだ。氷河期が来ると」と、いつ君はそんな発言をしていたんだ、と疑いたくなる輩が多数出現し、それでも世界全体がそのことに興味津々だったのも幸いして民放各局の視聴率はバブル期並みに上昇した。本屋には、『氷河期時代を生き抜くために』という何の根拠もない指南本まで出版されベストセラーにまでなった。誰も経験したことないのに、なにが語れるのだと僕は思い、その本を立ち読みしてみた。最終ページはユーモアに溢れていた。

〝寒くてもひたすら耐えろ〟

 これは言葉の重みというものを充分すぎるぐらい僕に与えた。結局最後は精神力、つまりは忍耐に集約されるということだ。この一言は随分、的を得ている。耐えて、耐えて、ひたすら耐えた先に、希望を見出せということ、か。だが、そんな根性論を他の人々が、「そうですよね」と受け入れるとは到底思えない。

 その最中、世界各地で異常気象が勃発した。別段、異常気象に関しては珍しいものではなくなっている。しかし、NASAの『氷河期が来る』という発表以来、その見方は変わった。温暖化が原因でもある異常気象だが、実は氷河期到来の前触れでもあるらしい。その証拠に太陽の表面にある黒い点、つまりは黒点の減少が確認され、太陽王の力は権力剥奪の危機にひん死ている。太陽王が平民になる日も実は近く、その時には地球内部は氷河期に突入し、暗黒の時代を経験することになる。

 世界は、人類の存亡に諦めを滲ませる者もいれば、楽観視する者、そしてこの事態を何としても食い止めようと知恵を振り絞る者もいた。

 これが面白いもので。諦める者の中には、どうせ死ぬならと、一発奮起で起業する者もいたり、なにか忘れかけていた、心の奥深くに眠っていたものを呼び覚まし、挑戦するものが増えた。彼らは別段、お金を稼ぐ、ということではなく、己の心の内を表現したい、人様の役に立ちたいという欲求に駆られているため、一部上場企業のように体たらくで、怠慢経営よりサービスと質は群を抜き、株主、アナリスト関係者、そしてなによりお客の支持を集めた。

 人間関係にも変化が訪れた。一家に一台はパソコンがある中で、家にひきこもり、またはネット上でのコミュニケーションが活発、人間関係の希薄さは著しかった。

 が、徐々に家族間の見直し、恋人との結婚、友情の復活、ご近所付き合いの活性、さらには商店街の活気、一つの出来事が連鎖的相乗効果をもたらし、街に〝愛〟が溢れ、幸せに満ちた光景が目につくようになった。
 氷河期宣言が成される前と後では、世界全体が活気づき生活に勢いが生まれた。

 しかし、決していい側面だけではなかった。

 そうなのだ。メリットもあればデメリットもあるという二律背反が氷河期到来時代にも存在した。

 世界各地では紛争が絶えない。それは今に始まったことではなく、認め合えない人種は血を流し、己の主張を誇示する。もしここで一歩引くようなことがあれば、今まで生きてきた存在意義を否定することになってしまう。どこそかのコメンテーターが、「テロはよくない」と言えば皆が皆、頭の中ではわかっていても、実際に同胞が、または家族が、恋人が、目の前で殺されたら、どういう気分なのだろう。もしかしたら誰しもがテロリスト側に回っていたかもしれない。

 それはないだろう、と誰が言い切れるの?

 そう、氷河期が訪れると食糧問題がある。慢性的ともいっていいぐらいの飢饉だ。食糧争奪戦は、世界各地で十年前から早くも徐々に行われ、五年前には加熱し、三年前には沸騰、一年前にはようやく沈静化に向かった。そんなに早くから争奪戦を繰り広げても、食糧は腐ってしまうだろう、と僕なんかは楽観的に思ってしまうのだが、世界には貧しい国が多数ある。そうは言ってられない事情というものが少なからず存在する。歴史の教科書で学ぶ以上の現実は現地に行き、この眼でしかと瞼の奥深くに焼き付けない限り、知ることはできない。

 海を渡った世界は日本以上に混沌としていた、人種が違うから、という理由だけではないかもしれないが日本では宗教がまた勢いを取り戻した。怪しい宗教が増え、悲観的な者たちは、心の拠り所を求め、教祖と云われるまがいものに全ての財を投げ打ち、功徳を求めた。一時期、「人体浮遊」すれば氷河期を食い止めることができる、「太陽の勢いを取り戻せ」と銘打って、「我々が結集すれば世界を救うことも可能。一人より二人。三人より四人」と銘打って募集広告を募っている宗教団体があった。さすがの僕もこれは少しばかりやり過ぎでアニメの見過ぎではないか、と思った次第だが、どうやら想像力という観点でいうならば彼らのが一枚上手だった。なぜなら、募集広告を打ち出した後には、信者の入信希望者が続出したからだ。それも富裕層に多かった。こんな言い方は失礼かもしれないが、末端の人達より、富裕層というのは不安が多い。そう、貯めた銭、溜めた幸福な心、肥えた体重というのがいつ目減りするか、不安で仕方ない。彼らにとって資本主義経済は永久に続いて欲しいのだ。その不安が彼らを宗教という荒療治に向かわせた。もちろんそうでない人もいる。彼らは不安というよりは純粋に宗教という魔力に取り憑かれ、純粋に信心している。それは別段悪いことでもなく、いいことなのかも僕にはわからない。何を信じ、何を信じないかは人それぞれだと思うから。

 そんなことが起こってる中、『無能』というレッテルを貼られ、首相がコロコロとダンゴムシのように転がり、気づけば変わる政府は十数年かけ地下施設並びにシェルターを創設した。というのも集団を一緒くたに東京ドームのような施設に詰め込むため、快適とは言えず、むしろ不快のが強いかもしれない。最初の内は、「みんな頑張りましょう」と、どこかのアイドルが歌う歌詞に出てきそうな言葉が発せられるが、徐々にストレスが増幅し、いずれ爆発しそうで僕は恐怖の方が強い。

 そう、人間というのは誰しもが思っていることだが、難しくデリケートな生き物なのだ。集団を形成してないと不安だし、だからといっていつも集団を形成していると嫌気が差し、一人になりたい、という欲求が高まる。その高まりが爆発したとき、どうなるか、想像するだけで、やれやれ、という気持ちに僕はなる。
 ようやく僕の話も終着駅を迎え、今は早絵とタワーマンションの屋上にいる。


「お疲れさま」

 早絵は僕に対して労いの言葉を穏やかに言った。その時に彼女の右手が僕の太腿に置かれた。太腿の部分だけ慈愛の温かさを感じた。
「ありがとう」と僕は素直に言い、「語ることしかできないけどね」とぎこちない笑みを見せた。

「でも、もうそれぐらいしかすることはないんでしょ?」
 早絵は訊いた。

「うーん」と僕は唸り、「コーヒーでも飲みたいね」と言った。だが、この屋上にコーヒーなんて突如舞い降りてくるなんていうファンタジー的展開はありえないし、都合よく登場してくるわけでもない。

 が、「あるよ」と快活な響きを帯びた声で早苗は立ち上がった。僕は早絵の後ろ姿を目で追った。背筋がピンとなり定規で線を引いたような姿勢はファッションモデルのようでもある。白のブラウスにタイトなデニムスタイルがより一層、歩きを華美に際立たせた。

 そもそもどこにコーヒーなんてあるのだろう?と思った矢先、早絵が僕の方に振り向き、ここよ、と指で示した。

 なるほど。貯水タンクの中にコーヒーセット一式を隠していたらしい。それらを早絵は持ってきた。僕も手伝おうとしたが、「もう遅いよ」と早絵にか細い声で言われた。

「なぜ、貯水タンクにコーヒーセットがあるのかな?」
 僕は訊いた。

「こういうときのために決まってるじゃない。でもインスタントだけど構わない?」と早絵は訊いた。

 それに対して僕は軽くうなずいた。

 むしろここまでやってもらって、インスタントはちょっと、なんて大それた発言は僕にはできない。できる人がいるならばそれはかなりのコーヒーマニアか、前世がコーヒー豆か、その他雑多な事情が絡み合っている難しい人間なのだろう。

 早絵はカップを手にとり、丁寧にインスタントコーヒーの粉末を入れた。もちろん僕の分も、だ。そしてポットを押し、お湯を出し、カップに注いだ。湯気が僕の鼻先を掠め、インスタントコーヒーの香りが鼻孔を刺激した。

「どうぞ」と早絵は僕にカップを差し出し、「いただきます」と僕は言った。

 僕らはコーヒーを一口飲んだ。インスタントコーヒーであるが、コーヒーには変わりはない。草原のど真ん中、いや自然に囲まれ、風を感じ、太陽を浴び、サンドイッチを食べながらコーヒーを。そのシチュエーションを僕に想起させた。

「美味しいね」
 早絵は言った。

「最近のインスタントコーヒーは馬鹿にはできないね」

「なにもかも技術水準が上がっている」

「そうだね。上がっている」
 僕はおうむ返しに言った。

 少しばかり気温が下がったようだ。僕の語りは気温を下げる効果があるのかもしれない。いや、それは考え過ぎだ。NASAの上層部が言っていたではないか。
〝地球は氷河期のサイクルに入ってる〟って。

 この壮大な青みを帯びた空がまた明日も続くような気がしてならない。そしてもはや何色か判別しない太陽も、その活動を一旦休止すると思うとなんだか心が萎む。

 僕はコーヒーをまた一口飲んだ。身体の芯まで湯気で満たされてる気がした。
「ねえ、雪人」
 早絵はカップを置き僕を呼んだ。

「なに?」
 僕もカップを置き訊いた。

「奇跡って起こらないのかな?」
 僕は首を傾げ、「どんな奇跡?」と訊いた。

「実は氷河期なんてデタラメです。とか、実は地球全体をイリュージョンにかけて大掛かりなマジックを施しました。とかさ」
 自分で言ったことが可笑しかったのか、早絵のえくぼが連続して垣間見えた。

「マジックという発想は僕にはなかったな。むしろそこまで大掛かりなイリュージョンがあったら相当お金稼げるだろうね」
「ああ、たしかにね。じゃあ、それはないか。だっていないもんね」

「もしかしたら隠れてるかもよ。ひっそりと」
 僕は意地悪な笑みを見せた。だが、僕の笑顔はたまにひきつる。

「それはどうかな」
 早絵は訝しげな表情をした。完全に僕を疑っている。

「よくいうじゃないか。能ある鷹は爪を隠す、って」
 僕は悦な表情をし、コーヒーを一気に飲み干した。既に冷めていた。

「なるほどね」と早絵は納得した様相を呈したが、「でも、隠し過ぎじゃない」とハニカんだ。

「それは言えてる。隠しすぎたツケはでかいね。後で払ってもらわないと」
 僕の発言に早絵は笑った。

「たぶん払わないだろうけどね」

「それはいえてる」
 僕と早絵は声を出して笑った。

 僕は立ち上がり揺すってもびくともしないフェンスに向かった。フェンス越しに地上を見下ろすと、爪先から頭のてっぺんまで緊張感に苛まれた。気づけば早絵は僕の隣りにいた。

「こんなに静かだと、なにか足りないわね」
 沈黙を掻き切るように、力を込めた口調で早絵は言った。

「コンサートホールで指揮棒を振れないこと?」

「それもあるわね」
 早絵は遠くを見つめながら言った。

 彼女は二十二歳という若さながら、ヨーロッパの国際指揮者コンクールで一位に輝いている。十八歳で海を渡り、孤独に苛まれながらも早絵は一人奮闘した。僕が嬉しかったのは、「雪人の声を聞くと頑張れるのよ」という本心から言っているもの特有である吐息混じりでの電話のやりとりだった。国際電話は高い、という昔からの通説は崩壊し、テクロノジーは進化し無料アプリケーションで通話代を気にせず話をした。

 そんな早絵はプロ指揮者として交響楽団入りが決まっていたが、この事態だ。彼女の指揮棒は音を操る。それは当然のことなのだが、身体のバネを使い表現し、ホルンやバイオリンやビオラ、はたまたトロンボーンというくせのある楽器を指揮棒一本で統一していった。彼女が指揮棒を流麗に操れば、その空間に音の女神が降臨し、幻想的な世界に誘う。演奏が終われば観客達はとろんとした目のまま拍手をせざるを得ない。

「もっと世界を周りたかったな」
 早絵は天を見上げた。

「その思いは届くんじゃないかな」

 天から早絵は僕の方に視線を移し、「そう?」とくりんとした目を向けた。
「うん。僕が『ビートルズ』が好きだっては知ってるよね?」と僕は早絵に問いかけ、「お父さんの影響でしょ」と早絵は言った。

「まあ、そうなんだけど」と僕は言葉を濁し、「そこは認めたがらないのね」と早絵は、どこか僕の反応を楽しむように言った。

「彼らは解散してるけど、ずっと第一線で活躍してるように僕らの心に色褪せないで音楽が鳴り響いている。それも世界で聴かれている」

「何がいいたいの?」
 早絵は訊いた。

「ようするに、音楽は世界を包み込むんだ」

「なるほどね。世界を周る必要はない。音が世界を回ってる、ってことね」
 早絵は僕の言葉を素敵な言い回して解釈した。

「なんか、君の言葉は僕の琴線に触れるな」
 フフ、と早絵は笑い、「それは雪人の言葉があったからじゃない」と言った。

「奇跡起こるかな」
 早絵はまた訊いた。

「この静けさだったら、起こるよ」
 僕は言った。

「それにしても寒くなってきたね」

「さすがに上着が必要だ」
 僕と早絵は半袖だった。そのことに二人は笑みをこぼした。

 そして僕らはまたコーヒーを飲んで少し身体を温めようという結論に達した。上着よりも大事なことがある。この静けさに身を委ねることはそうそう体験できるものではない。今がその時だ。