氷河期が始まろうとしていた。といっても事のはじめに人類が経験したのは世界各地での就職氷河期だ。基幹産業を疎かにし、実体もなく、よくわからないIT革命の波に押され、何事もシステマティックに効率よく、かつ簡便に処理することを覚えてしまい、物事を考えているようで考えなくなってしまった。

データに頼り、預金残高のお金がシステム上で行き交う。そして何か社会全体で大きな物事が起こると、そのシステムに印字されていた数値は胡散霧消と化す。ある者はパニックになり、ある者は職業を失い、ある者は懲りずに資本主義の権化と成り果てる。それら資本主義に魅せられた愚かな者達の驕りが、前途有望な若者の職を奪い、いや大学だけではなく高校を卒業をしても職にありつけなくなった。もちろん四十代の働き盛りで、真面目に汗水垂らし地道にコツコツと働いていた者たちも職を失った。
 僕はペットボトルに入った水を一口飲んだ。さらにもう一口。

「ねえ、雪人」

 早絵が雪人を見ながら言った。その瞳は潤っていて今にも涙がでそうなほどだった。

「なに?」
 僕は訊いた。

「雪人って、本当に美味しそうにお水を飲むよね」と早絵は言った。

「それはありがとう。それよりも僕の話は聞いてくれてるの?」

「聞いてるよ。就職氷河期がどうとかでしょ」
 早絵は覗き込むように僕を見た。そのままキスでもしてきそうな雰囲気だった。あくまで雰囲気だ。それに僕の話を幾分か上の空で聞いてることは間違いない。これだけ太陽が僕らを照射すれば、身体は火照り、思考を麻痺させる。そしてなにより、喉が渇く。

 東京都足立区西新井にあるタワーマンションの屋上にいる。駅から三分で立地条件はいい。僕はそこの七階に住んでいて、早絵は十五階に住んでいる。

 一口頂戴、と早絵が言ったので僕は無言でペットボトルを差し出した。

 僕は彼女の喉仏を観察した。ゴクゴク、と緩急をつけた動きに見惚れた。ペットボトルに入った水が早絵の体内に侵入していった。

 しばし僕らは空を眺め、空気を吸った。

「でもさ、明日から、『氷河期』が始まるなんて信じられないよね」と早絵は言った。

「早絵、まだその部分まで話してないんだ。先走らないでくれよ」
 と僕は早絵の肩に手を起き、頼むから、という念を込めた。

「私、映画でも小説でもさ、すぐ結末を知りたくなって、最後から観たり読んだりしちゃうんだよね」

 笑うとえくぼが出現し八重歯をのぞかせた屈託のない笑みを早絵は僕に向けた。

「やはり早絵は変わり者だ。それに結末知っても、全体像がわからなければなんのことだかよくわからないじゃないか」

「うん。それでいいの」

「それでいい?」

 僕は答えの続きを待った。

 早絵は一度立ち上がり、タイトなデニムの後ろポケットから二十一世紀が生んだ革命的製品、アイフォンを手際良く取出し撮影した。僕は空より、革命的製品アイフォンより、早絵の答えが気になった。焦らすのはやめてもらいたい。

 約三分間の沈黙の後、早絵はようやく口を開いた。
「それでいいのよ。結末を知ったら、その前の部分は想像するの。そういうやり方が好きなのよ。わたし」

 最後の、わたし、には有無を言わせぬものがあった。

「やはり君は少しばかり変わっている」

「そう?」
 早絵は首を傾げた。それは計算された角度だった。ショートカットの女性が行うとより一層首のラインが強調される。もちろん大半の人はそんなところは見ていない。だが、僕は見る。彼女の計算しているようで、していない、そういう細かな仕草は僕の心を掴む。

「君の考え方は嫌いではない」

「私も、雪人の考え方は嫌いではない。でも、少し話が長いけどね」と早絵は僕の隣りに座り、「そこも魅力よ」と付け加えた。

「それは嬉しいな。僕の話を楽しんでくれる女性は珍しいし、僕のことを好きになるというのは、地球が破裂するぐらいの出来事だよ」

「破裂はしないけど、氷河期は明日よね」

「早絵」と僕はため息をつき、「何度も言うようだけど、僕はまだその部分を話していないんだ」と言った。

「そうだったね。ごめんね」早絵は素直に謝り、「じゃあ、話の続きを聞こうかな」と言った。

「じゃあ、僕も喋ろうかな」

「人ってさ、実は喋ったり、話を聞いたりするだけでも幸せ感じるんだね」

「随分、達観した物言いだね」

「雪人も、年の割には、かたい物言いね」
 と早絵が笑いながら言い、僕もつられて笑った。

「でも、喋る、聞く、ときたら大事な物を忘れてるよ」

 僕は空を見上げた。太陽が眩しかった。このまま屋上で寝るのも悪くはない。が、時代は悪い。
「それはなに?」
「早絵もいずれ気づくさ」
「焦れったいなあ」と早絵は頬を膨らませ、「結末が知りたい」とつぶやいた。
 失業率が増加し、政府は様々な対策を施したが、効果は短期的であり、長期的にみると実はなんの効果もでていなかった。その度に、メディアに出演する自称経済ジャナーリストであり、評論家は、「無能政府」と言い放った。その中の一人は政治家であり、君も『無能』という二文字の一味だよ、と僕は言いたかったが胸に秘めた。声に出したところで何も変わらないし、僕一人の力は限られている。

 その失業率は日本だけではなかった。世界各地で起こっていた。一度加速し始めた負の連鎖は誰も止められないのかもしれない。ドミノ倒しのように進み続け、どこか間違った配置を期待して止めるしか方法はないのかもしれない。

 連日連夜、報道は加熱した。どこかの国では溜まった鬱憤を晴らすかの如く、デモを起こした。それで何か変わったといえば何も変わらない。変化といえば、デモで声高に叫び、飲食店のガラスを割り、建物を破壊し、国旗を燃やす。その国の政府に対する愚痴をプラカードに赤いペンで目立つように書く。そうすることで全身に溜まったストレスが発散された。やり場のない怒りを皆、どこに向けていいのかわからないのかもしれない。僕もその状況下だったら、周りに流され、そうしていたかもしれない。これが集団心理の恐いところだ。周りが行っていることをやらないと、自分も同じ目に遭うんじゃないか、って。

 日本のその後は、火を見るより明らかだった。正社員雇用は減り、非正規雇用で食いつないでいく人達が増えた。いつからかマスメディアが好きそうな、「勝ち組」「負け組」という言葉が横行し、非正規雇用の人達は、「まあ、俺は負け組」だから、と。人生に希望が持てなくなった。といっても正社員も「勝ち組」とは言えない。なぜなら透明な不景気というオーラが嫌でも貧乏神のように纏わりついた。業務量は増え、残業が増えた。人を雇う余裕のない企業では一人にかかる負担が大きいため過労死まで出た。

 人気ある企業は、優秀な大学から優秀そうに見える人材を雇い悦に入り、不人気な企業の説明会にはまばらな人だけが集まり、選考に臨んで内定を出しても、最終的には断られる始末だった。僕はいつも思う。それら企業説明会のパンフレットに書かれている言葉にいつも僕は苦笑する。
〝君もグローバルに活躍しないか〟、だ。

 僕は一度〝グローバルに活躍とはどういうことか〟と企業の人事担当者に聞いたことがある。明確な解答は得られなかった。それよりか問題がより複雑になった気がする。「海を渡り世界を股に駆けビジネス展開」だとか、「外国語を操り深く市場に食い込む」だとか、しまいには、「世界を知るにはグローバルから」という意味のわからない担当者まで出現したときは、さすがの僕も焦った。焦りを通り超して目が点になったのを覚えている。もっと日本語をいや、四方海に囲まれ、それでも先進国として台頭してきた日本中心のビジネスがでるべきではない、か。だからいつまでも経っても〝日本は海外のビジネスモデルの真似ばかり〟と揶揄される。その結果、徐々に国際社会からの衰退を余儀なくされる。

 そして就職氷河期は終わりをみないのであった。


「ねえ、雪人」
 早絵はアイフォンの画面をタッチし、僕に画面を向けた。

「ほお、気温が下がってるな」
 アイフォンの画面には気温が映し出されていた。今は二十三度。わずか一時間足らずで五度も減少したことになる。

「ついに始まるんだね。氷河期、が」
 今からファンであるロックバンドの演奏が始まり楽しみで仕方がない、というような声音で早絵は言った。

「嬉しそうだね」
 僕は早絵を見た。やはり瞳は潤ったままだ。

「だってさ、始めてだから。氷河期、って」
 と早絵は、何かの標語のように言った。

「誰しも始めてだろうね」と僕は苦笑混じりに答え、「楽しみにしているのは早絵ぐらいじゃないかな」と付け加えた。

「そうかなあ。人類七十億人の時代なら千人ぐらいは私みたいにウキウキしてる人もいると思うよ」とあながち間違ってなさそうな応対を早絵はした。

 なるほど。たしかに世界に七十億人もいれば、悲観的な人達よりも、少なからず楽しみにしている人がいてもおかしくはない、か。と僕は思った。

「ねえ。それにしても静かだね」
 早絵は目を輝かせ、静寂に耳を傾けるように目を瞑った。

「みんな、地下施設やシェルターに避難してるのかな。少し早すぎる気がするけど。でも、気温が徐々に下がってるのも事実」

 僕は冷静に言った。

「早いと思う」早絵は断言した。

「今という時間は、実は物凄く幸せなんじゃないかって思うよ」
 僕は早絵を見た。だが、彼女はまだ目を瞑っていた。もしかしたら心の目でこ
の光景を見ているのかもしれない。

「今まで人々は忙しすぎたから。小休止、よ」

「三文字熟語を久々に聞いたするよ」

「それは忙しすぎたからよ」
 早絵は言った。

「でも、僕は暇だったよ」

「ううん。生きるってこと時代大変なことなのよ」
 重みのある言葉を放った。そして彼女は目を開けていた。

「でも、これから大変だ。備蓄食糧も数十年、いや数年かもしれない。それに氷河期は明日から数百年とも言われてるし、数十年続くともいわれてる」

「先のことなんてわからないわよ。遥か昔だって氷河期はあったわけでしょ?」
 早絵は訊き、僕は頷いた。

「なら、大丈夫よ。それでも人類は生存繁栄を繰り返してきたんだから」

「なんとかなる」
 僕が言う。

「そう、なんとかなる」
 早絵のあどけない笑顔は僕の心のもやもやを払拭する力を持っている。いつの時代も笑顔に勝る力はない。人を勇気づけ、穏やかにし、気分が安らぐ。とくに早絵の笑顔は格別のものがある。
「続きをどうぞ」
 と早絵は僕に促した。
 十五年前、アメリカ航空宇宙局である通称『NASA』が、ある記者会見を行った。

それは、〝世界全土に氷河期が訪れる〟というものだった。その場にいた記者団も、ぽかんと口を開いた。その開いた口にキャンディを忍ばせたい気持ちに誰もがなったに違いない。

 それもそうだ。なぜならどこの国も〝温暖化〟問題に力を入れてたはずで、代替エネルギーであったり、身近な節電、環境悪化を防ぐべく苦心してきたはずなのだ。それなのにいきなり〝氷河期〟とは僕も後で知ったことだが恐れ入った。あまりに突然で、急な物言いはいかせん誰も予期していなかった。

 が、NASAの上層部は至って冷静だった。炊かれるフラッシュに瞬きひとつせず、徹夜して考えたであろう文面を研究者にありがちな抑揚のない口調で淡々と喋った。

『地球は氷河期サイクルに入りました。過去を見れば明らかであり、そういうサイクルになっています。それが今の温暖化に当たります。本格的な氷河期が訪れる前に、〝寒冷〟と〝温暖〟の時期があります。それを過ぎると本格的な氷河期に突入し、試算で申し訳ないですが』と研究者はテーブルに置かれたリプトンのレモンティーを一口飲む。記者会見上には〝水〟が定番なはずだが、その思い込みを一蹴する力をやはりNASAの上層部は持っている。そして彼らは話を続けた。
「氷河期に突入しますと、人類はいまより七、八割、いや何か不穏な因果関係が起これば九割近く縮小することは明白であります」と上層部は言い切った。

 これほど非現実的である記者会見は翌日のメディアを大いに賑わせた。どこかの大学教授に至っては、「だから僕は最初から言っていたんだ。氷河期が来ると」と、いつ君はそんな発言をしていたんだ、と疑いたくなる輩が多数出現し、それでも世界全体がそのことに興味津々だったのも幸いして民放各局の視聴率はバブル期並みに上昇した。本屋には、『氷河期時代を生き抜くために』という何の根拠もない指南本まで出版されベストセラーにまでなった。誰も経験したことないのに、なにが語れるのだと僕は思い、その本を立ち読みしてみた。最終ページはユーモアに溢れていた。

〝寒くてもひたすら耐えろ〟

 これは言葉の重みというものを充分すぎるぐらい僕に与えた。結局最後は精神力、つまりは忍耐に集約されるということだ。この一言は随分、的を得ている。耐えて、耐えて、ひたすら耐えた先に、希望を見出せということ、か。だが、そんな根性論を他の人々が、「そうですよね」と受け入れるとは到底思えない。

 その最中、世界各地で異常気象が勃発した。別段、異常気象に関しては珍しいものではなくなっている。しかし、NASAの『氷河期が来る』という発表以来、その見方は変わった。温暖化が原因でもある異常気象だが、実は氷河期到来の前触れでもあるらしい。その証拠に太陽の表面にある黒い点、つまりは黒点の減少が確認され、太陽王の力は権力剥奪の危機にひん死ている。太陽王が平民になる日も実は近く、その時には地球内部は氷河期に突入し、暗黒の時代を経験することになる。

 世界は、人類の存亡に諦めを滲ませる者もいれば、楽観視する者、そしてこの事態を何としても食い止めようと知恵を振り絞る者もいた。

 これが面白いもので。諦める者の中には、どうせ死ぬならと、一発奮起で起業する者もいたり、なにか忘れかけていた、心の奥深くに眠っていたものを呼び覚まし、挑戦するものが増えた。彼らは別段、お金を稼ぐ、ということではなく、己の心の内を表現したい、人様の役に立ちたいという欲求に駆られているため、一部上場企業のように体たらくで、怠慢経営よりサービスと質は群を抜き、株主、アナリスト関係者、そしてなによりお客の支持を集めた。

 人間関係にも変化が訪れた。一家に一台はパソコンがある中で、家にひきこもり、またはネット上でのコミュニケーションが活発、人間関係の希薄さは著しかった。

 が、徐々に家族間の見直し、恋人との結婚、友情の復活、ご近所付き合いの活性、さらには商店街の活気、一つの出来事が連鎖的相乗効果をもたらし、街に〝愛〟が溢れ、幸せに満ちた光景が目につくようになった。
 氷河期宣言が成される前と後では、世界全体が活気づき生活に勢いが生まれた。

 しかし、決していい側面だけではなかった。

 そうなのだ。メリットもあればデメリットもあるという二律背反が氷河期到来時代にも存在した。

 世界各地では紛争が絶えない。それは今に始まったことではなく、認め合えない人種は血を流し、己の主張を誇示する。もしここで一歩引くようなことがあれば、今まで生きてきた存在意義を否定することになってしまう。どこそかのコメンテーターが、「テロはよくない」と言えば皆が皆、頭の中ではわかっていても、実際に同胞が、または家族が、恋人が、目の前で殺されたら、どういう気分なのだろう。もしかしたら誰しもがテロリスト側に回っていたかもしれない。

 それはないだろう、と誰が言い切れるの?

 そう、氷河期が訪れると食糧問題がある。慢性的ともいっていいぐらいの飢饉だ。食糧争奪戦は、世界各地で十年前から早くも徐々に行われ、五年前には加熱し、三年前には沸騰、一年前にはようやく沈静化に向かった。そんなに早くから争奪戦を繰り広げても、食糧は腐ってしまうだろう、と僕なんかは楽観的に思ってしまうのだが、世界には貧しい国が多数ある。そうは言ってられない事情というものが少なからず存在する。歴史の教科書で学ぶ以上の現実は現地に行き、この眼でしかと瞼の奥深くに焼き付けない限り、知ることはできない。

 海を渡った世界は日本以上に混沌としていた、人種が違うから、という理由だけではないかもしれないが日本では宗教がまた勢いを取り戻した。怪しい宗教が増え、悲観的な者たちは、心の拠り所を求め、教祖と云われるまがいものに全ての財を投げ打ち、功徳を求めた。一時期、「人体浮遊」すれば氷河期を食い止めることができる、「太陽の勢いを取り戻せ」と銘打って、「我々が結集すれば世界を救うことも可能。一人より二人。三人より四人」と銘打って募集広告を募っている宗教団体があった。さすがの僕もこれは少しばかりやり過ぎでアニメの見過ぎではないか、と思った次第だが、どうやら想像力という観点でいうならば彼らのが一枚上手だった。なぜなら、募集広告を打ち出した後には、信者の入信希望者が続出したからだ。それも富裕層に多かった。こんな言い方は失礼かもしれないが、末端の人達より、富裕層というのは不安が多い。そう、貯めた銭、溜めた幸福な心、肥えた体重というのがいつ目減りするか、不安で仕方ない。彼らにとって資本主義経済は永久に続いて欲しいのだ。その不安が彼らを宗教という荒療治に向かわせた。もちろんそうでない人もいる。彼らは不安というよりは純粋に宗教という魔力に取り憑かれ、純粋に信心している。それは別段悪いことでもなく、いいことなのかも僕にはわからない。何を信じ、何を信じないかは人それぞれだと思うから。

 そんなことが起こってる中、『無能』というレッテルを貼られ、首相がコロコロとダンゴムシのように転がり、気づけば変わる政府は十数年かけ地下施設並びにシェルターを創設した。というのも集団を一緒くたに東京ドームのような施設に詰め込むため、快適とは言えず、むしろ不快のが強いかもしれない。最初の内は、「みんな頑張りましょう」と、どこかのアイドルが歌う歌詞に出てきそうな言葉が発せられるが、徐々にストレスが増幅し、いずれ爆発しそうで僕は恐怖の方が強い。

 そう、人間というのは誰しもが思っていることだが、難しくデリケートな生き物なのだ。集団を形成してないと不安だし、だからといっていつも集団を形成していると嫌気が差し、一人になりたい、という欲求が高まる。その高まりが爆発したとき、どうなるか、想像するだけで、やれやれ、という気持ちに僕はなる。
 ようやく僕の話も終着駅を迎え、今は早絵とタワーマンションの屋上にいる。


「お疲れさま」

 早絵は僕に対して労いの言葉を穏やかに言った。その時に彼女の右手が僕の太腿に置かれた。太腿の部分だけ慈愛の温かさを感じた。
「ありがとう」と僕は素直に言い、「語ることしかできないけどね」とぎこちない笑みを見せた。

「でも、もうそれぐらいしかすることはないんでしょ?」
 早絵は訊いた。

「うーん」と僕は唸り、「コーヒーでも飲みたいね」と言った。だが、この屋上にコーヒーなんて突如舞い降りてくるなんていうファンタジー的展開はありえないし、都合よく登場してくるわけでもない。

 が、「あるよ」と快活な響きを帯びた声で早苗は立ち上がった。僕は早絵の後ろ姿を目で追った。背筋がピンとなり定規で線を引いたような姿勢はファッションモデルのようでもある。白のブラウスにタイトなデニムスタイルがより一層、歩きを華美に際立たせた。

 そもそもどこにコーヒーなんてあるのだろう?と思った矢先、早絵が僕の方に振り向き、ここよ、と指で示した。

 なるほど。貯水タンクの中にコーヒーセット一式を隠していたらしい。それらを早絵は持ってきた。僕も手伝おうとしたが、「もう遅いよ」と早絵にか細い声で言われた。

「なぜ、貯水タンクにコーヒーセットがあるのかな?」
 僕は訊いた。

「こういうときのために決まってるじゃない。でもインスタントだけど構わない?」と早絵は訊いた。

 それに対して僕は軽くうなずいた。

 むしろここまでやってもらって、インスタントはちょっと、なんて大それた発言は僕にはできない。できる人がいるならばそれはかなりのコーヒーマニアか、前世がコーヒー豆か、その他雑多な事情が絡み合っている難しい人間なのだろう。

 早絵はカップを手にとり、丁寧にインスタントコーヒーの粉末を入れた。もちろん僕の分も、だ。そしてポットを押し、お湯を出し、カップに注いだ。湯気が僕の鼻先を掠め、インスタントコーヒーの香りが鼻孔を刺激した。

「どうぞ」と早絵は僕にカップを差し出し、「いただきます」と僕は言った。

 僕らはコーヒーを一口飲んだ。インスタントコーヒーであるが、コーヒーには変わりはない。草原のど真ん中、いや自然に囲まれ、風を感じ、太陽を浴び、サンドイッチを食べながらコーヒーを。そのシチュエーションを僕に想起させた。

「美味しいね」
 早絵は言った。

「最近のインスタントコーヒーは馬鹿にはできないね」

「なにもかも技術水準が上がっている」

「そうだね。上がっている」
 僕はおうむ返しに言った。

 少しばかり気温が下がったようだ。僕の語りは気温を下げる効果があるのかもしれない。いや、それは考え過ぎだ。NASAの上層部が言っていたではないか。
〝地球は氷河期のサイクルに入ってる〟って。

 この壮大な青みを帯びた空がまた明日も続くような気がしてならない。そしてもはや何色か判別しない太陽も、その活動を一旦休止すると思うとなんだか心が萎む。

 僕はコーヒーをまた一口飲んだ。身体の芯まで湯気で満たされてる気がした。
「ねえ、雪人」
 早絵はカップを置き僕を呼んだ。

「なに?」
 僕もカップを置き訊いた。

「奇跡って起こらないのかな?」
 僕は首を傾げ、「どんな奇跡?」と訊いた。

「実は氷河期なんてデタラメです。とか、実は地球全体をイリュージョンにかけて大掛かりなマジックを施しました。とかさ」
 自分で言ったことが可笑しかったのか、早絵のえくぼが連続して垣間見えた。

「マジックという発想は僕にはなかったな。むしろそこまで大掛かりなイリュージョンがあったら相当お金稼げるだろうね」
「ああ、たしかにね。じゃあ、それはないか。だっていないもんね」

「もしかしたら隠れてるかもよ。ひっそりと」
 僕は意地悪な笑みを見せた。だが、僕の笑顔はたまにひきつる。

「それはどうかな」
 早絵は訝しげな表情をした。完全に僕を疑っている。

「よくいうじゃないか。能ある鷹は爪を隠す、って」
 僕は悦な表情をし、コーヒーを一気に飲み干した。既に冷めていた。

「なるほどね」と早絵は納得した様相を呈したが、「でも、隠し過ぎじゃない」とハニカんだ。

「それは言えてる。隠しすぎたツケはでかいね。後で払ってもらわないと」
 僕の発言に早絵は笑った。

「たぶん払わないだろうけどね」

「それはいえてる」
 僕と早絵は声を出して笑った。

 僕は立ち上がり揺すってもびくともしないフェンスに向かった。フェンス越しに地上を見下ろすと、爪先から頭のてっぺんまで緊張感に苛まれた。気づけば早絵は僕の隣りにいた。

「こんなに静かだと、なにか足りないわね」
 沈黙を掻き切るように、力を込めた口調で早絵は言った。

「コンサートホールで指揮棒を振れないこと?」

「それもあるわね」
 早絵は遠くを見つめながら言った。

 彼女は二十二歳という若さながら、ヨーロッパの国際指揮者コンクールで一位に輝いている。十八歳で海を渡り、孤独に苛まれながらも早絵は一人奮闘した。僕が嬉しかったのは、「雪人の声を聞くと頑張れるのよ」という本心から言っているもの特有である吐息混じりでの電話のやりとりだった。国際電話は高い、という昔からの通説は崩壊し、テクロノジーは進化し無料アプリケーションで通話代を気にせず話をした。

 そんな早絵はプロ指揮者として交響楽団入りが決まっていたが、この事態だ。彼女の指揮棒は音を操る。それは当然のことなのだが、身体のバネを使い表現し、ホルンやバイオリンやビオラ、はたまたトロンボーンというくせのある楽器を指揮棒一本で統一していった。彼女が指揮棒を流麗に操れば、その空間に音の女神が降臨し、幻想的な世界に誘う。演奏が終われば観客達はとろんとした目のまま拍手をせざるを得ない。

「もっと世界を周りたかったな」
 早絵は天を見上げた。

「その思いは届くんじゃないかな」

 天から早絵は僕の方に視線を移し、「そう?」とくりんとした目を向けた。
「うん。僕が『ビートルズ』が好きだっては知ってるよね?」と僕は早絵に問いかけ、「お父さんの影響でしょ」と早絵は言った。

「まあ、そうなんだけど」と僕は言葉を濁し、「そこは認めたがらないのね」と早絵は、どこか僕の反応を楽しむように言った。

「彼らは解散してるけど、ずっと第一線で活躍してるように僕らの心に色褪せないで音楽が鳴り響いている。それも世界で聴かれている」

「何がいいたいの?」
 早絵は訊いた。

「ようするに、音楽は世界を包み込むんだ」

「なるほどね。世界を周る必要はない。音が世界を回ってる、ってことね」
 早絵は僕の言葉を素敵な言い回して解釈した。

「なんか、君の言葉は僕の琴線に触れるな」
 フフ、と早絵は笑い、「それは雪人の言葉があったからじゃない」と言った。

「奇跡起こるかな」
 早絵はまた訊いた。

「この静けさだったら、起こるよ」
 僕は言った。

「それにしても寒くなってきたね」

「さすがに上着が必要だ」
 僕と早絵は半袖だった。そのことに二人は笑みをこぼした。

 そして僕らはまたコーヒーを飲んで少し身体を温めようという結論に達した。上着よりも大事なことがある。この静けさに身を委ねることはそうそう体験できるものではない。今がその時だ。
 いつものように鏡の前に立った。
 髭を剃ろうと思いシェーバーのスイッチを入れようとした田丸聡は、顔をしかめた。スイッチをオンにしても一向に独特の擬音が鳴り響かなかったからだ。原因はなんだろう、と思い試行錯誤した結果、電池が入っていないことに気づいた。 
 なぜ、電池がない?
 母か?姉か?と聡の頭を過った。
 が、両方とも女性ということに気づき、聡はその考えを振り払った。いや、もしかしたら興味本位でショーバーを使用したのかもしれない。それに女性の社会進出が進んで、過度なストレスや意思決定にさらされ男性と同じ様な職務を経験した結果、女性にもオス化の兆候が表れ出したというのをテレビで観た。その兆候は至って明らかに分かる。
〝髭が生えるのだ〟
 そう思った矢先に、「聡、朝食できたわよ」と三十歳にもなって尚、実家暮らしの恩恵に授かり、朝食が出て来る境遇に感謝しつつ聡は食卓へ向かった。
 既に姉は起きてい、味噌汁を啜っていた。
「聡、一週間後に氷河期だよ。準備できてるの」
 母は言った。
「時計修理していてそれどころじゃなかった」
 聡はテーブルにあるキュウリの漬物を口に放りこんだ。姉の水樹が、「行儀悪い」と努めて冷静に言った。そしていつの間にか黒縁の眼鏡をかけていた。さっきまで味噌汁を啜っていたはずなのに。そのスピーディーな展開に聡は開いた口が塞がらなかった。
「あんたね。父さんが死んでフラッと戻ってきたと思ったら、この様だよ。最初から時計屋継いでればいいものを」
 と母は積年の恨みを晴らすかの如く、恫喝した。
「もう、歌わないの?」
 水樹が聡を見た。姉弟でなかったら彼は姉に惚れているだろう。手入れの行き届いた長い黒髪、整った顔立ち。普段は無表情だが時折見せる笑顔は、一瞬で心を掴む。なによりワンピースがよく似合う。なのに未婚。
「プロを目指すのは諦めたけど、趣味では歌おうかなとは思ってる」
 聡はバツの悪い表情をした。
「あんたね、父さんがあれだけ反対してたのに、それを押し切ってまで〝俺はプロになる〟って言って家飛び出したくせに。ああ、もう父さんが可哀相」
 そう言いながら母の感情が卵に乗り移り、スクランブルエッグの焦げたものがテーブルに並べられた。
「母さん、音楽の世界はとても大変なのよ」と水樹はスクランブルエッグをつまみ、顔を崩し、「たしかに今はどこの世界も大変だけど、それでも挑戦するだけ偉いわよ。だって、ほとんどの人が現実を見るんだもん。夢みたって、いいと思う」
 朝から討論番組のような熱のこもった発言を、水樹は冷静に言った。
 小さい時から姉は聡の味方だった。小さい時にいじめら、泣いて帰ってきた聡に、「どうしたの?」とやさしい声で語りかけ、その内容を知るや否や、「報復よ」と家を飛び出し、問題の相手の家の玄関扉に絵の具を塗り付けた。その扉には、「いつでも私が相手になるわよ」と赤字で書かれていたらしい。それ以来、ぴたりと聡に対する嫌がらせは止まった。それ以来、近所では『絵の具の水樹』という通り名が付けられた。そんな水樹は画家である。あながち通り名も間違ってなかったみたいだ。
「水樹ちゃんに、そう言われるとね。お母さん何も言えないわよ」と母は口ごもり、「今度、千住で個展開くんでしょ?聡と観にいくわね」と話題を変えた。
 しかし姉は母の問いかけに無言だった。そんなの聞かなくてもわかるでしょ、と言いたげな表情にも見えるが、ポーカーフェイスは崩さなかった。
 聡はテレビを点けた。連日に渡って『氷河期到来』のニュースが伝えられている。日本はお国柄なのか落ち着きを取り戻した。お偉い研究機関が『氷河期が来ます』という報道は最初、総スカンもいいところだった。
 しかしだんだんと天候の激変が深刻になるにつれ、真実味を帯び、一時期人々はパニックに陥った。数年前に聡も齧っていたパンを横取りされ、「このパンが重要なんだ」と捨て台詞を吐かれた記憶がある。齧りかけのパンを奪うほど、人々の理性は乱され、善悪の判断ができなくなっていた。
 さらにはどうせ氷河期が始まったらセックスは出来ないだろう、というよくわからない理由からか強姦が多発した。いつの時代も女性に対する犯罪は多いが、その時期は十倍にまで膨れ上がり、女性に対し外出禁止令が出たほどだ。さらに家にいても危険な場合もあり、数名で生活を共にするように、という政府の通達があった。そういう強姦などを行う輩の頭脳は氷河期=世界の終幕、らしい。それはあながち間違ってはいないが、生き残る確率もある。ただ、比較的生き残る確率は低いのかもしれない。いつの時代も、三大欲求は重要な位置を占めると、聡は思う。
「ここ最近は、天候穏やかだよね。あまり実感湧かないな」
 水樹がテレビを観ながら言った。
「一週間前は竜巻が起こって、雷も落ちたもんね。氷河期って寒くなるだけだと思ったけど」
「怒ってるのよ」
 母は言った。
「怒ってる?」
 珍しく水樹が聞き返す。
「ほら、父さん職人気質だから言葉数少ないじゃない」と母はお茶を啜り、椅子に腰掛けた。その時椅子の木材が母の体重で軋んだ。オナラじゃないわよ、と母は付け加える。最初にそのネタを目撃し聞いたときは笑ったが、毎日同じネタを毎回同じタイミングで行うので、さすがに飽きる。
 そして母が話を続けた。
「でも、聡がプロになるんだ、って言った時は、今まで溜め込んでいたものを発散するかのように言葉を捲し立てじゃない。だから、そういうこと」
「どういうこと?」
 聡は肩からガクンとなり訊いた。
「地球も溜め込んでたってことよ。だから今は発散の最中か、予兆、よ」
 と水樹は補足した。
「わかりやすい」
 聡は焦げたスクランブルエッグを避け、焦げてないものを箸でひとつかみし言った。
「お母さんの言いたいことは水樹ちゃんが言ってくれました」
 母は立ち上がり椅子を軋ませ台所に向かった。
「姉貴、よく理解できたね」
 聡は言った。
 数秒間の沈黙後、「だって、親子だもん」と水樹は焦らすように言った。
戦後に懐中時計店『レッド』として足立区梅田に店を構え、祖父から数えて聡が三代目である。今は総合時計店として店を開いている。
 が、一年前に父親が脳梗塞で倒れ、入院、そしてその日に亡くなった。
 聡は葬式に出れなかった。むしろ父親が亡くなったことすら知らなかった。
〝親不幸もの〟
 実家に戻ってきてからいつもその言葉が頭を離れない。俺は何をやっていたんだ、と己を聡は責める。
 聡はレジ奥にある作業場に向かった。奥に引っ込んでも店内の秒針を刻む音が聞こえてくる。修理依頼された腕時計の修復に彼は取りかかった。ルーペをつけ、ピンセットを器用に使い、劣化した部品を取り除き、新しい命を吹き込んでいく。
 聡は父親に小学校から高校まで時計屋としての基礎を叩き込まれた。もちろん学校が終わった後に、マンツーマンで訓練した。最初のうちは、友達と遊びたく何かと理由をつけて断ったが、時計の構造を知り、父親の時計に接する姿勢、お客への真摯な対応を間近で見ている内に、少しづつ時計をいじくり回す機会が増えた。それはパズルと一緒だった。個々のパーツは何がなんだかわからないし、意味を成さないが、それが全て適切な位置に嵌まった瞬間、形を成す。パズルと違うところは、『時を刻む』。完成させるまでは非常に厳しく、クリアせねばならない条件は多いが、それを乗り越えたときの達成感は高揚感がある。
 聡は今でも初めて自分が作成した時計を覚えている。
 それは中学校三年の時だ。当時好きだった女の子にプレゼントしようと思い、時計を制作した。文字盤にはアラビア数字を使用し、レディースということで小ぶりな腕時計を制作した。しかし、中学卒業までに間に合わなかった。普段、制作した腕時計より小さいということもあり苦戦を強いられた。自分の技術力のなさを呪い、結局完成したのは高校一年の夏だった。
 が、父親は聡が制作した腕時計を見て、笑った。普段は姉の水樹と一緒で無表情の父親が笑うのは珍しい。言葉ではない聡の心を煌びやかにするものがあった。
 そういえば、あの時計はどこにあるんだろう、と聡は思った。部屋に置いたままの気もするが、と思いつつも作業場の抽斗を漁った。やはりなかった。
 その時、カラン、と扉の開く音がした。
「いらっしゃいませ」と聡は作業場から声を響かせる。
 聡は作業場から店内に移動した。そこには女性がいた。肩まである栗毛色の髪、目尻の小じわが三十代前後を想起させるが、決して若作りをしてるわけではないパンツルックは自分の似合う服装を熟知している。もしかしら二十代後半かも、と聡は思い直す。
「なにかお探しですか?」
 聡は訊ねた。
「あ、ごめんなさい。時計ってたくさんの種類があるんですね。見惚れちゃった」
 と女性は意図的ではなく自然発生的に舌をペロっと出した。それは聡にとって好感の持てる仕草だった。
「意外に種類は多いんですよ。懐中時計なんか昔は将校さんとか今でもお年寄りの方なんかが、携帯していますし、それにプレミアムが付いてるのもあるんですよ。その辺のオメガやブルガリ、なんかより優れたものはたくさんあります」
 気づけば聡は熱弁を奮っていた。おそらく目の前にいる女性が美人だからに違いない。なぜ、男というのはこうも美人を目の前にすると気持ちが高揚するのだろう、か。それに高揚するか見てみぬふりをするか、どちらかの場合もある。現時点の状況は明らかに前者である。
 が、女性の下腹部を見て聡の情熱を急速に冷えていった。というのも妊娠していたからだ。はたから見たら分からないだろうが、少し膨らんでいる。
 その思考を女性の一言が掻き消した。
「いい声ですね」
 と女性は聡から視線を外さずにいう。どんな男でも誰もが見つめられれば石化するのではないかという妖艶な眼差しだった。さらには足立区という街にそういう女性がいたということに聡は驚いた。いや、驚くのは世の足立区に住んでいる女性に失礼かもしれない。
「あ、あ、本当ですか?」と聡は頭を掻き、「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。褒められ、動揺し、この状況に至ったわけだが、頭を下げすぎた、と彼は後悔する。
「そんなに頭を下げなくても」と予定調和な返答を女性はし、「時計屋をやりながらプロの歌い手を目指せばよかったのに」とやさしい微笑みを讃え彼女は言った。
 聡は封印していた過去が深海から浮上し、そして顔を崩した。
「いやいや、僕なんか才能ないですから」
 愛想笑いを聡は彼女に向けた。
「私、なんか変なこといっちゃっかしら。でも、いい声よ」
「そういってもらえて嬉しいです」と聡は改めて礼を述べ、「で、今日はどうされたんでしょか」と訊いた。
「あ、ごめんね」と髪の毛を人差し指で彼女は捻った。それが癖なのだろう。無意識に行っているのが聡にはわかった。
「腕時計の修理依頼してたはずなんですよ」
 恐る恐る彼女は訊いた。
 たしかに修理依頼は二件あり、どちらも先ほど終わらせた。だが、どちらの時計も目の前の女性のものではない。
 しかし聡の疑問も彼女の一言が払拭した。
「母のです」と彼女は言い、肩に掛けていたブランド物のバッグから受取証を聡に手渡した。
「ああ、なるほど」
 受取証を見つめながら聡は納得した。そこには、「松原幸江」と名が記されていた。
「では、娘さんですか?」
 聡は訊いた。
「そうです。美穂っていいます」と快活のよい受け答えをし、「もしかして詐欺師か何かと疑いました?」と聡の疑念を見透かされた。
「一瞬、そのことが頭を過りました。そんなことはないですよね」
 聡は言った。
 実際高価な時計は狙われていたらしい。それは報道で知ったことだが、『氷河期」が近づき数年前までは時間に対する意識が強く、「時間を無駄にできない」それならばと、「高価で優良な時計が欲しい」というニーズが高まり、買われ、そしてとある時計店では盗みが横行した。ある家庭では時計が五十個あり、さらにある家庭では、時計が百個あり、という具合に家庭にいくつ時計があるか抜き打ちでテストし競う番組に人気が集まったときもある。
 その時に聡は思った。君たちも時計店を開けばいいのに、と。
「わからないですよ」
 美穂の言葉で聡の意識が戻る。
「わからない?」
 聡は訊いた。
「私、実は、詐欺師です。なんてことだったらどうします?」
「見事に騙されたいと思います」
 聡は冗談で返した。二人は声を出して笑った。
「少し待ってもらえます。今、時計包みますね」と聡は作業場の方に向かった。「はい」という甲高い声が彼の背に投げかけられた。
 聡は小ぶりな腕時計をやさしく掴み、小ぶりなジプロックに入れた。『レッド』と印字された赤い小箱に時計を収めた。そして紙袋に入れた。
「お待たせしました」
 聡は快活に言う。
「大丈夫ですよ。待つのには慣れてますから」
 意味深な発言を美穂はした。
 聡はあまり深く美穂の発言には踏み込まず、「お母さんによろしくお伝えください」時計の入った紙袋を差し出し、「どうぞ」と美穂に手渡した。
「ありがとうございます」と美穂は笑顔を見せ、「ひとつ気になることが」と言った。
「なんでしょう?」
「今、店内で流れている曲って『ビートルズ』なのはわかるんですけど、何の曲でしたっけ?」
 美穂は二回目の必殺ベロ出しを見せた。女性の表情というのは豊だと思った。姉の水樹とは大違いだと、聡は思う。
 そして、「『ヒア・カムズ・ザ・サン』ですね。アルバム『アビーロード』B面の一曲目ですね」
「そうだ、そうだ。ドラムであるジョージ・ハリスンの名曲ですよね」
「お詳しいですね。好きなんですか?」
「好きですね。演奏もシンプルなのに複雑ですし」と美穂は言い、「『アビーロード』をレコーディングしてたときは仲悪かったんですよね、みんな?」と付け加えた。
「らしいですね。僕もわからないけど、その中でポールが率先して曲を一つにまとめてアルバムが生まれたんでしょうね」
「バラバラな心も一つになる典型例ですね」
 美穂はどこか遠くの方を見つめた。遠くの雲を眺めるように。
「バラバラな心?」
 聡は首を傾げた。
「ほら」と美穂は目を輝かせ、「一週間後に『氷河期』を迎えるじゃないですか」と一呼吸置いた。
 ここまで長話をするならば、何か飲み物を持ってきた方がいいだろうか、と聡は思った。
 が、美穂の話は続く。
「段々それが近づくにつれて、人と人が寄りそうようになったというか、連帯感が生まれたというか。もちろんそうじゃない人達もいますけど。より人の心に重きが置かれている気がします」
 聡にも美穂の言っていることは何となくだがわかる。親と疎遠だった子が急に戻ってきたり、急に人にやさしくなったり、誰かの役に立ちたかったり、と彼女の言う通り人の心に変化が生じてるのはたしかだ。
「おしゃってることはわかります」
 聡は慣れない笑みを美穂に向けた。
「本当ですか?よかった」
 白く整列された歯を美穂は見せた。
 まだ彼女は喋り足りなそうだったが、腕時計を確認し、「いけない。もうこんな時間」と突然慌て出し、「長話すみません」とお辞儀をし店を去った。香水なのだろう、甘い柑橘系の匂いが店の中を漂っていた。
正午になり一斉に店の時計が各々の特徴を誇示するかのように十二回ないしは十回程度の時報を鳴らした。その音に慣れない聡は身体がびくっとする。そのリズムたるや指揮者不在のオーケストラのようで一貫性を欠く。作業場で集中していると、聡はいつもこのタイミングに出くわす。それは仕方のないことだ。なぜならここが彼の仕事場なのだから。
 さらにびくっとしたといえば時報が鳴り終わり、後ろを振り向いた瞬間に、姉の水樹がいたことだ。聡は目を見開き、口をあんぐりと開けた。
「情けない顔」
 水樹は的確で鋭い指摘を彼にした。
 聡は顔の筋肉、並びに口元を戻し、「びっくりしたよ、まるで影のようだ」とニヤニヤしながら言った。だが、彼の発言に水樹は何の反応も示さなかった。
 彼女は近くにあった手頃な白い椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろした。そして肩に掛けていた画材道具をゆっくりと床に置いた。その一連の動きに無駄はなかった。
「今から、アトリエ?」
 聡は訊いた。アトリエといっても古びたガレージを改装しただけのものだ。しかしそこは彼女なりのこだわりなのか、ときに芸術家にとって環境が重要であるように、一流の建築士と一流のデザイナーに改装依頼をした。場所は時計屋『レッド』の三軒隣である。なので非常に近い。商店街沿いにあるためカラフルがガレージ兼アトリエは非常に目を引く。一時期、売れない画家であったり、クリエイティブを生業にする人達がよく訪れていた。それが口コミで広まり、ある女性雑誌に取り上げられ、彼女の容姿も幸いしてか、個展を開くまでに至った。そのことに対して水樹は喜ぶでもなく、かといって不快さを滲ませることもなかった。ようはいつものように淡々としていた。
「なんで、歌うことを止めたの?」
 聡の問いかけは無視され、朝食のときの話題を水樹は持ち出してきた。
「なぜといわれても」聡は口ごもり、「みんな先のことを考え出したんじゃないかな」と言った。
「先って、氷河期のこと?」
「まあ、それもあるし才能がないってわかったんだよ。それに音楽で食べていくのは難しい」
「それは言い訳よ」と水樹はびしっと上司が部下に叱るように言い。「継続をし続けることが才能よ」と爽やかな笑顔を見せた。
 聡は彼女の言葉が胸に突き刺さった。〝継続〟その二文字が頭の中を駆け巡る。そうだよな、好きならやり通すべきだったよな、と彼は思う。『氷河期』や『経済面』は言い訳でしかなかったのかもしれない。
 ふと、なぜ今時計屋に戻ることになったのか聡は考えた。

 夢への挑戦は十三年前、十七歳の時だった。
 高校二年の聡は夢を追いかけた。
 その時には、『氷河期到来』報道は成されていたが、学生の身分では遠い先のことであり、むしろ『氷河期』なんてものは到来しないと思っていた。
 聡は、時計屋『レッド』を父から継ぐつもりでいた。
 が、友達から渡された一枚のCDが聡を変えた。それは爆音でギターをかき鳴らすロックミュージックだった。重低音をコンサートホール、または野外で轟かせ、歓声を浴びる。地味な時計屋にはない、華やかさがそこにはあった。聡はそこに魅了され、家で、学校で耳に接着剤でもつけてるかのようにイヤホンが耳から離れなかった。
 しかし聡は楽器が弾けない。その時、バンドに誘ってくれたのが同じクラスだった栗原洋一だった。彼はギターを弾いていた。音楽を志すものにとって長髪はトレードマークなのか洋一もそうだった。長身でスタイルよく彫りの深い顔は女性からモテた。
 洋一とはよくカラオケに行った。一時間、一五〇円という安価な値段のためか、学校終わりはむさぶるように歌った。
 聡は別段、歌に関してトレーニングを積んだわけではない。腹筋が発達しているのか、はたまた声帯が特殊なのか、他の人よりは比較的歌唱力があった。高音は伸び、低音領域も安定している。ときにはシャウトだってできる。そこに洋一の一言が聡に拍車をかける。
「聡、めちゃくちゃうまいやん」 
 男二人、カラオケのブースでマイク越しに洋一の声が反響した。なぜか関西弁だった。
「え、そう?」聡は内心で嬉しい気持ちをおくびにも出さず、「それはありがとう」と言った。
「いや、まじでいい声してるよ。プロ目指せる器だよ」
 今思えばカラオケの一室で、お世辞ともとれる洋一の発言を鵜呑みにしたことが全ての始まりと言えば始まりであり、素直といえば素直だった。十代の誰しもが思うように、誰かから〝認められる〟というのは嬉しいことであり、自尊心をくすぐる。誰だって、必要とされたいと思うはずだ。
「なあ、軽音部来いよ!今、ボーカルがいなくて困ってたんだよ」洋一は言い、「まあ、一応はいるんだけど音痴なんだよ。これは致命的だろ」と聡の顔を伺った。
「たしかにね」
 それぐらいしか聡に言えることがなかった。バンドについて知らないことが多すぎた。
「俺はメジャーデビューしたいんだ。お前が加入すれば夢へ一歩近づける」
 その洋一の一言は聡の心に響くものがった。誰もいない教室でトライアングルをチーンと響かせたように。
 が、一つ心配事があった。
 時計屋『レッド』のことだ。まだまだ半人前だが今では時計職人としては食べれるスキルを得ている。それは父のお陰であり、日々の修練の賜物だとも思っている。そのことを洋一に伝えた。
「おい、聡!人生一度だぞ。スポットライト浴びて歓声浴びてこそ人生生きた甲斐があるってもんだ」と洋一は力強く発し、「親の敷いた時計屋というレールで果たしてそれが得られるのか」有無を言わせぬ鋭い目つきで聡を凝視した。
「心に響くね」
 聡は言った。
「音楽は人の心に響くだろ。感情の奥深くを揺さぶろうぜ」洋一はニヤッとし、「明日部室来いよ」と半ば強引に聡の加入を決め、次に歌うカラオケの選曲を始めた
 カラオケで熱唱した翌日、聡は洋一に言われた通り部室に向かった。部室といっても視聴覚室をあてがわれただけであり、演奏の音が漏れていた。
「失礼します」
 と誰に聞こえるでもなく丁重なな姿勢を崩さず聡は扉を開けた。
 扉を開けた瞬間、ちょうど演奏が終わりを迎え、一斉に視線が聡の方に向く。
「おお、聡。きたんか」
 洋一がどこそかの方言を混ぜつつ聡に歩み寄り、「ロックよろしく」と言わんばかりの熱い握手をされた。見渡すとギターが洋一の他に一名、ベース、トラムという編成だった。ロックバンドでよくある編成であり、聡がプロのライブ映像を観てたのと違って華がなかった。
 それは当然か、プロではないのだから。
 洋一が聡を他のメンバーを紹介し、聡に他のメンバーを紹介してくれた。他のメンバーは違うクラスの人達だった。
「来月の文化祭はこれでばっちりだ」
 洋一の力強い声が響いた。
 文化祭で演奏する曲目を洋一から聡は手渡された。邦楽のパンクロックが中心だった。テンポが早く歌詞を覚えるにも一苦労。そんな曲目だった。
「盛り上がれそうなのをピックアップしたんだ」
 洋一は笑みをこぼした。
「これいつまでに覚えればいい?」
「なるべく早めにお願いしたい。合わせたいし」
 その洋一の一言に、合わせたい衝動を抑えきれず各々の楽器をかき鳴らし、叩いた。
「わかった。全力で覚えるよ」
 聡は力強く言った。
 どこかパッとしなかった学園生活に彩りが生まれた瞬間だった。景色が変わり、風景が変わる。それが今この瞬間だった。

 その後は曲を覚え、文化祭当日を迎えた。はじめてバンドとして合わせたときはカラオケとは違い、音やリズムがうまくとれなかった。だが、何回か繰り返す内に、コツを掴み、リズム感を体得していった。放課後に練習をしていたせいか、いつしか時計屋『レッド』での修練は疎かになり、全く時計に触らなくなっていた。
 文化祭当日。出番直前の聡は緊張していた。教室内で教科書を読むのにも額に冷や汗をかきながら声の震えを止めることができない彼がステージに上がる。足は震え、その震えを抑えようと立ち、座りを犬のしつけのように繰り返す。
「よし、円陣組もう」
 洋一がみんなを集め輪になり、肩に手をかける。洋一には申し訳ないが聡は〝円陣〟のことを自動車などに搭載される〝エンジン〟と勘違いしていたことは胸に秘めといた。
 ああ、円陣、か。と思った瞬間に少なからず肩の荷がおり、聡の緊張感は和らいだ。
「気合い入れていくぞ」
 洋一のかけ声と共に、全員で、「おぉぉお」と野獣の咆哮がステージ袖で轟いた。
 聡達はステージに上がった。といっても体育館なのだが、目の前ににガンを飛ばしている他校の生徒や、存在の薄い聡に向かって、「あれ誰だっけ」と指をさす女生徒がいた。
 聡は文化祭ライブ前に洋一から、「始まる前の挨拶はなしで、準備できたら合図を送ってくれ。すぐに演奏GO、だ」と興奮気味に戦略を力説した。
 ざわついた体育館。照明が聡達を包みこむ。周りを確認する。メンバーの楽器調整が終わったようだ。それを確認し、聡はドラムに合図を送った。ハイハットでスリーカウントをとり、洋一のギタースクラッチで演奏は始まった。聡は洋一のギタースクラッチが好きだ。至って簡単なのだが、ツゥーンというピック側面を弦にこすりつけ、アンプから鳴り響く独特の音は聡の脳内を刺激し、身体を発奮させる。
 気づけば体育館の雰囲気は一辺し、目の焦点が全員ステージ側に釘付けになり、雄叫びをあげるもの、手を振りかざすもの、飛び跳ねるものが続出した。
 聡は気持ちよかった。歌うことの楽しさをこの時見出した気がした。人に聴いてもらい、人を興奮させるこのポジションに生きる楽しさを感じた。教科書を読むにも声は震え、人前で何かを発表するのが苦手だった聡は、堂々とした立ち振る舞いで歌い上げ、拍手を全身に浴びた。気づけば上半身は汗まみれになっていた。毛先から落ちる汗は達成感の表れだった。

それは高校三年の二学期に起きた。進路問題だ。聡は両親と揉めた。
「プロ?」
 父が不快感を滲ませながら訊いた。
「音楽の分野で挑戦したいんだ」
「そんなよくわからんガヤガヤしたくそったれな音より、時計が時を刻む音の方が魅力だろうが」
 と父は怒気を飛ばした。
「父さん、聡の言い分も聞いてあげようよ」
 水樹がやさしい声音で言う。
「聡、あんたね。音楽なんて才能がなきゃ無理だよ。ああいうのは決められてんのよ」
 母が言った。母親というのは現実的だから、という洋一の言葉を聡は思い出した。
「で、プロになれると思っているのか?半端もんのお前が」
 父はビールを一気に飲み干し、またグラスに注いだ。
「自信はある」
 聡は言った。
「あのな、何かを目指すやつってのは、全員が全員、自信持って臨んでるんだよ」と父はまたビールを一口飲み、「その他多勢から抜け出すには、人とは違うことをしなければならねえ。それがお前にあるのか?同じでは駄目だぞ。人を惹き付ける何か、だ」と捲し立てた。普段無口な父がこの日に限って饒舌だった。お酒の力を借りているからかもしれない。いや、時計屋『レッド』を継いでくれるという父の期待を聡が裏切ったからかもしれない。
「聡のね、歌声は凄く人を惹き付けるよ」
 水樹の言葉に聡は涙が出そうだった。なんでそこまで俺を、と彼は思う。でも嬉しかった。味方がいてくれることに。
「水樹、お前も画家なんだからわかるだろ。うまくて、凄くて、人を惹き付けるやつなんて五万といるんだ。そしてすぐ飽きられる。その惹き付ける魅力を継続させることはできんのか、ってことだ」
 父の言葉に水樹は押し黙った。画家の彼女はそのことをわかっているのだろう。継続させる難しさ、よりよいものを常に生み出す難しさ、を。
「ふっ」と父は鼻で笑い、「やりたきゃやってみろ」と言った。
「ありがとう。父さん」
 聡は目を輝かせながら聡は頭を下げた。
「ただし。高校を卒業したら家を出て行け。もうお前の顔は見たくねえ」と冷徹に、背後に鬼でもいるかのような声音で言った。
「あなた」
 母は困惑した表情を浮かべ、父と聡を交互に見た。
「やるしかないね。聡。家族を見返しなさい」 
 なぜか明るい口調で水樹は聡の背中を思いっきり叩いた。
 それ以来、父親と言葉を交わすことはなくなった。
 いついつまでも。
 転機が訪れたのは二十五歳だった。家を出て七年になる。家族とは連絡をとっていない。雑誌で水樹の活躍は目にした。それぐらいだ。
 洋一とバンドを組み、その他のメンバーは入れ替わり立ち替わりという状況だった。それでも地道にライブハウスでバンド活動をし、近年急速に発達したソーシャルメディアを積極的に活用。さらにはユーチューブなる動画コンテンツなども登場し、バンドのライブ映像や新曲などを投稿していった。
 その甲斐あってか、とあるインディーズレーベルから誘いがあり、そこの事務所に入った。そこからは忙しくなり、全国ツアーと銘打ってライブハウスを回った。都内では知名度はそれなりにあったが、地方では聡達のことを知っているものはいなく、ライブハウスには空席が目立った。それでもネット上でのアクセスは増えていった。
 メジャーデビューも近い、そう誰もが思った。そして、聡の元にある関係者から電話が入った。それはメンバーには秘密にしとくことにした。
 この時期は、天候も荒れていた。『氷河期』の影響だろうか。
「雨、風、雷、やばいな」
 窓を覗き込みながら洋一は言った。事務所が用意してくれたスタジオの一室にいる。今日は洋一と聡の二人だ。新曲の構想を練る。
「新曲のタイトル『雷風雨(らいふうう)』でいいじゃん」
 聡はギターを持ちながら言った。今ではギターコードだけなら弾けるようになった。
「おい聡。それじゃ、ラーメン屋みてえじぇねか」
「たしかにそれは言えてる」
 そう聡は言い二人は声を出して笑った。
「本当に氷河期って来るのかな?」
 聡はAコードを終始ストロークしながら訊いた。
「ナチスが言ったんだから到来するだろ」と洋一は言い、「洋ちゃん、ナサだよNASA」聡は訂正した。
「ああ、そうだった」洋一はおどけて見せ、「でも、ナチスとナサも一緒だろ」という結論に達した。
「ヒトラーと宇宙を研究してる人達じゃ、全く違うじゃん。かたや独裁者、かたや宇宙を解明し人々の為に、だもん」
「思い出したんだけど、ヒトラーって背低いらしいな」洋一はさりげなく言った。
「誰、情報?」
「本」と洋一は簡潔に言った。
「たしかに演説の映像観ると背が高く見えるね」
 聡は言う。
「踏み台か何かに乗ってたらしいな。あのヒトラーにもコンプレックスがあったと見受けられる」
「だから背が高く見えたのか」
 聡は感慨にふける。
「ヒトラーも身の丈にあってないことをしてるからな」
「どういうこと?」
 聡は訊いた。
「ヒトラー最大の敗因は自分を大きく見せ過ぎた」
「踏み台に乗ってるからじゃなくて?」
 聡の訊いた言葉が悪かったのか、他の要因があるのか定かではないが、洋一は急に押し黙った。
「なあ、聡」
 さっきまでとは打って変わり洋一の表情は曇りがちになり悩ましげな表情だった。
「いきなり深刻な顔してどうしたの?」
「ヒトラーだよ」と洋一は言い、「俺らというか、俺って身の丈に合ってるのかなって」と弱気な発言をした。
「バンド?」
 聡はギターをスタンドに立て掛けた。その行動を見届けてから洋一が喋り出した。
「お前とは高校からバンド組んでさ、文化祭でちやほやされて、だから今があるんだよな」と洋一はスタジオの天井を見つめた。
「なんか洋ちゃんらしくないな」
 聡は素直にそう思った。
「ここいらで潮時かなって」と洋一は淀みなく透き通る水のように言い放った。
「それはないよ」
 聡は思わず立ち上がる。
「いや、俺も現実を見ちまってよ。上には上がいるし。ギタースキルもこれ以上は伸びないと思う。前から悩んでたんだ。このままでいいのかな、って」
 洋一は俯いた。全ての苦悩を床に吐き出すかのように。
 スタジオ内は重い沈黙に包まれた。防音設備が施された室内は音もなく本来はあってはならない静寂に包まれた。剥き出しに放置され床に転がっているドラムスティックがバラバラな心を表していた。
「ようやくここまで来たじゃないか。メジャーデビューも手の届くところに来てるって」
 聡の声がスタジオ内に反響した。この間行ったライブより声の調子がよかった。
「まあ、お前はな」
「えっ?」
 聡は身を乗り出した。
「知ってるんだよ。お前がメジャーのレコード会社からオファーが来ているのは」と洋一は目を細め、見開き、様々な感情が入り交じった瞳を聡に向けた。
 聡は何も言えなかった。
 それは一週間前のことだった。家賃四万ワンルームアパートの一室で腹筋をしていた聡は、マナーモードにしていた携帯電話が鳴った。彼は通話ボタンを押した。
「あ、聡君。初めまして。私、ワールドミュージックの湯本と申します。突然のお電話申し訳ございません」
 湯本と名乗る男は快活な声で言った。それにワールドミュージックは中堅どころのメジャーのレコード会社だ。近年、そこから出されるアーティストCDは時代の閉塞感を捉えてか、不況の並をもろともせず爆発的に売れている。
「あ、はじめまして田丸聡です」
 幾分かしどろもどろになりながら聡は言った。
「弊社の名前は知ってるよね?」 
 あたかも既に知ってるのは織り込み済みのような言い方を湯本はした。
 なので聡は、「はい」と返事をした。
「うん。じゃあ。話しは早い。君をメジャーデビューさせようと思うん、だ」
 単刀直入に、あらゆる障害物を払いのゴールに向かうかのように湯本は言った。優秀なビジネスマンにありがちな合理的思考の持ち主だった。
 聡は小さく拳を握りガッツポーズをした。遂に、遂に、夢が叶う。
 しかし彼は湯本の言葉で一点気になることがあった。〝君を〟というのはどういうことだろう、と。
「〝君を〟というのは?」
「そのままだよ。君だけをメジャーデビューさせる。他のメンバーは、こういっちゃ悪いんだけど」と効果的な沈黙を湯本は置き、「プロレベルに達していない」と言い添えた。
「できれば、僕はバンドでデビューしたいんですが」
 聡は正直な気持ちを伝えた。
「いやね、聡君。『氷河期』も来ることだし、そんな悠長なことは言ってられないよ。我々も慈善事業ではないからね。クオリティの高いものを市場に提供していきたいわけだよ。だから、言いたいことは君には価値があるけど他のメンバーにはない」
 と湯本は言い切った。
「今まで一緒にやってきたんですよ」
「洋一君だっけ?聡君と同級生の子。彼のレベルなら世の中にたくさんいるし、さらに上もたくさんいる。それに彼のギターは独りよがりなところがある。グルーヴがないんだ」
 と何回も君たちの曲は聴いたから、と言いたげな湯本の口調だった。
 聡が何も言わないと、「三日後また連絡するから、その時に返事頂戴よ。君の才能を弊社で爆発させよう」
 おそらく何人、いや何十人、何百人に同じ口説き文句を言ってきたのだろう。そこには無機質な声の響きが聡の耳元に届き、電話が切れた。ツーツーと不協和音がこだました。

「知ってたの?」
 聡は訊いた。
「ああ、湯本とかいう男が電話してきたからな。単刀直入に言われたよ。君たちには才能はないが、聡」と洋一は顔を上げ目を見開き、「お前にはあるってな」と抑揚のない口調で言った。
 その言葉を放ち洋一は椅子から立ち上がり、ギターをケースにしまい肩に掛け、「頑張れよ」と言ってスタジオの扉を開け静かに立ち去った。その後姿は寂しげな香が滲んでいた。
 一つの歯車が狂い出すと、止めることは難しい。聡はスタジオ内をぐるぐると歩き回り、窓に近寄った。雨、風、雷はさらに勢いを増していた。一つの友情が終わりを告げ、一つのバンド活動が終わりを告げた。歌うことに対するモチベーションが急速に萎んでいくのを彼は感じた。
 ポケットから太腿に振動が伝わった。
 聡は携帯を取出した。着信表示は、「湯本」となっていた。通話ボタンに押そうとしたが、彼はその親指を止めた。気持ちが急速に萎んでいくのを感じていたからだ。たしかに、歌うのは好きだが、全てが破綻してまで友情を犠牲にしてまでやるべきことなのか、聡の思考は右往左往した。
 後日、聡は湯本からのメジャーデビューの話を断った。その際に、「君は大バカものだ。正真正銘のバカだ」と湯本から罵倒された。そのことに対し否定はしない。というより受け入れることにした。別にプロではなくても歌う場所はたくさんある、聡はそう判断した。
 それからは、ロックとは違うジャンルに挑戦した。ジャズバーで唄い、スナックでは演歌も唄った。ときにはキャバクラでも売れない歌手としてその辺のアイドルの陳腐な曲も唄った。違うジャンルに触れ、今までとは違う人達、価値観に触れ、聡は心の安定、穏やかさを取り戻して行った。
 そんなある日、いつものようにジャズバーで唄うためにリハーサルをしていた。休憩に入り、そこのマスターが雑誌を食い入るように見つめていた。
「マスター、何をそんなに真剣に眺めているんですか?」
 マスターは顔を上げ、五十代とは思えない綺麗な歯を除かせた。そしていつもの癖でよく手入れされた髭をさすった。
「ああ、これだよ。聡君」とマスターが雑誌を聡に見せる。彼は思わず、「あっ!」を声を上げた。そこには記憶の片隅に封印していた、姉の水樹が載っていた。数年前に軽く記事が掲載されているだけだったが、独創性と斬新さ、なにより美貌が人気を博し六ページの特殊が組まれていた。
「田丸水樹って、可愛いし綺麗だね。それに感情が読めないところがいい。そこがまた惹き付ける」と珍しくマスターが褒め、「そういえば、聡君も田丸、だよね?」と傍にあったスコッチを飲みながら言った。
「そうですけど、田丸違いです」
 聡そう言ったが、マスターは彼の顔から視線を外さなかった。そしてニコリと笑い、
「無理はしなくていいんじゃないかい。君の帰りを待ってるよ」
 とだけ言ってカウンターの奥へゆっくりと引っ込んだ。
 はて、マスターは聡と水樹が姉弟ということを知ってるような口ぶりだった。やはり姉弟であるから顔のどこかが似ているのだろうか。それよりも姉の活躍は聡にとって嬉しかった。無表情で感情を決して表には出さないが、芯の強さ、繊細な感受性を〝絵〟で表現する。そんなことを考えていたら家族に会いたい、という気持ちが聡は強くなった。
 外の空気を吸おうと、バーを出た。夏だというのに寒かった。肌寒いを通り越し、ボアジャケットが必要な寒さだった。街にはイヌイットのような風貌の人が多数いた。もしかしたら本当に、『氷河期』は来るかもしれない。歌うことはいつでもできる。そう思った瞬間、彼の決意は固まった。

 家を出て十二年。足立区梅田には全く足を踏み入れなかった。千住方面から歩いて時計屋『レッド』に向かおうと聡は思った。気づいたことは、街には大学が出来、洒落た店が軒を連ねていた。千住の賑わいとは対照的に梅田の商店街は静かだった。聡が子供の頃のような活気はなく、店のシャッターは昼間にも関わらず、ほとんどが閉まっていた。
 聡は、昔の思いでに浸りながら、気づけば時計屋『レッド』の前に来ていた。変わらぬゴシック体で印字された看板。〝レ〟の前の部分に聡が小さくマジックで〝パ〟と書いてあるのが残っていた。
 よく凝視すれば〝パレッド〟と読める。それを見て聡は苦笑した。
 昔、水樹が、「パレット、パレット」と冷淡な口調で連呼していて、それを聡が、「パレッド」と聞こえた為、このようなイタズラを思いついた。我ながらくだらない、と彼は思う。
 聡が看板を見ていたら急に店の扉が開いた。そこには、水樹がいた。彼は逃げようと思った。だが意外にも、「ああ、お帰り」と姉は淡々としたいつもの口調で言った。その言葉に聡はトイレマークの姿勢を崩せずにいた。
 帰るなり早々、水樹とは対照的に母から平手打ちをくらった。
「親不孝もんが。父ちゃん、脳梗塞で・・・・・・・」母が涙を流した。その涙が年月を物語っていた。聡は一歩遅過ぎた自分を呪った。だが、夢を掴む、ということを宣言した手前、なかなか自分の感情には素直になれなかった。家族の元に戻りたい気持ち。意地を張りたい気持ち。交互に織り交ぜになったのは事実だ。
「父ちゃん。最後は静かにあの世にいったよ」
 母はそれだけ言った。
 父の仏壇に線香をあげ、聡は手を合わせた。
 そして、〝やっぱ、駄目だったよ。ごめんなさい〟と心の中で父に語りかけた。