水曜日のデリカテッセン

――あ、まただ。

午前八時四十七分。
いつもの着流し姿の少年が、風に髪を遊ばせ空を見上げている。
大学の入り口、バス停の前でのことだ。
朝の人混みにうずもれる少年は明らかにその場では浮いているのに、通り過ぎる学生たちは見向きもしない。
誰にも見えていないのか、そんなはずはないのについ疑ってしまう。
朝一限の授業に向かう途中、俺は毎日同じ時間と場所に彼の姿を認めていた。
陽の光を吸いこむ深い紫紺の着流し姿で、バランスの取りづらそうな高下駄を履いている。
初夏のからりとした風を受け、彼はいつもバス停に背を向け立っている。
人通りの多い大学の前で、斜め上の虚空を凝視する寂しげな姿――見つめる先には大学のバスロータリーしかないのに、いったい何を見ているのだろう。
『午前八時四十七分の君』。
心の中でかってにそう命名した少年をちらりと眺め、俺はいつも一瞬で通りすぎる。
バスを降り、時間的にぎりぎりな一限の教室まで突っ走る――けれど、今日はバスロータリーの前で足を止めることになった。同じ科の友達からメッセージが届いたのだ。

『一限休講。柏原(かしわばら)先生、緊急入院だって』

「えっ」

柏原先生は俺のゼミの担当教授、さらには今から受ける予定だった一限の先生だ。
入院、という知らせにも驚いたが、かなり高齢なので仕方ないのかもしれない。以前から体調が悪いやら、引退したいとぼやいていた。心配ではあるが――それより、向かうはずだった一限が休講になってしまったことで俺は出鼻をくじかれた。突然数時間の暇を申し渡されても困る。驚きと困惑、向かう先をためらったことで無意識に歩みを進めた、ちょうど目の前に件の少年が立っていた。

「あ――」

『午前八時四十七分の君』。
手を伸ばせば彼の肩をつかめる距離に俺は立っていた。こんなにも近づいたのは初めてのことだ。
遠目の後ろ姿からかってに「少年」と思いこんでいたが、歳は俺と変わらないのかもしれない。若くとも十代後半、たぶん高校生か大学生くらいだろう。
心地よい風に吹かれる横顔は端正だが、おそろしく生気がなかった。心配になるほど白い。
柳のように細腰で、儚げという言葉がぴったりの風貌をしている。
しみひとつない肌、長いふさとした睫が不穏な影を落とす。
かすかに憂いを含ませた眉、物思いに煙る涼しげな瞳は斜め上を――やはり遠くの虚空を凝視している。
初夏の風が吹くたびに青みがかった短い黒髪が揺れる。
見つめていたのは一瞬だったろうが、俺はハッとした。不躾にも魅入ってしまった。声をかけようとしたとき、彼はなんともいえないため息を漏らした。
嘆息には諦めが多く含まれている。
哀しげに揺らぐつり目がふと俺を認め、目があった。あってしまった。――瞬間、ひやりとした。
しまった、何か見てはいけないものを見てしまったのではないか。
とくに霊感があるわけでもないし、二十年近く生きてきて心霊体験などしたこともないが、体感として危険を察知したのだ。
(だって、こんなにも――)
じっと見つめてくる寂しげな黒い眼(まなこ)のせいかもしれない。
睨まれたわけでもないのに、全身にひんやりとした微粒子がまとわりついた気がする。彼に見つめられるだけで、心なしか吸う空気まで薄くなった。
なにか言わなければ。

「あ、の。こんにちは?」

声の震えに気づいたか知らないが、少年はそこで「おや?」と無音で目を丸くする。
カラコロ高下駄を鳴らし数歩の距離を埋めてくると、動けない俺を一段低い位置から見上げ、すんすん匂いを嗅いできた。俺より頭ひとつ分身長が低い。

「え、なに。なんすか……?」

見ず知らずの怪しい少年から顔を近づけられ、体臭を嗅がれたらどう反応すべきだろう。
俺は昔飼っていた白うさぎのことを思い出していた。
ひげの生えた桃色の鼻ですんすんふんふん、俺に近寄ってきては匂いを嗅いでいたあの、愛らしい生き物。
けれど今、目の前にいるのは小動物ではなく着流し姿の少年だ。
それも異様な雰囲気の、ひんやりとした空気をまとう不可思議な。
間近に見下ろせば襟元から白い首、鎖骨のあたりまでが目に飛び込んでくる。
白い喉仏がこくりと動き、ハスキーがかった声で彼はひと言、

「さくらのはなが」

――”桜の花が”?
疑問に答えるよう、少年が白い指で示した先に、見慣れたバスロータリーがある。
バスが数台止まっていて、待機中なのだろうバスの運転手さんと目があい、怪訝な顔をされてしまう。
バスロータリーの真横、大学構内にはたしかにソメイヨシノの木がずらりと植えられていた。
春になれば満開の桜花も拝めようが、五月半ばの今は豊かな新緑の葉にびっしりと覆われ、一見してそれが何の木かもわからない。

「桜がなに?」

このとき、俺はなにも聞かず立ち去るべきだったのだろう。
毎日見かける少年のことが気になっても――好奇心は猫をも殺すとも言うではないか。
少年は眉をあげ、すこし離れると片手を静かに差し出してきた。
何かくれとでもいう風に、病的なまでに白い手のひらが目の前で俺を待っている。
(白い。本物か?)
プラスチックか大理石みたいに作り物めいたその腕に、触れてみたいと好奇心が頭をもたげた。
触ってみたら冷たいのだろうか。
意外と体温があるかもしれない、否、ひょっとしたら本当に白い大理石から切り出した彫刻のように硬いのかも。
反射的に手を伸ばしていた。
無防備に差し出された真白い手のひらに、なんとなく右手を重ねおく。
握手するのでもない、空気の塊を与えるような、我ながら意味不明な行為だ。いったい何をしているのだろう。
つめたく白い手のひらに触れた――瞬間、力強くぎゅっと手を握られた。

「っ、――!?」

強風が突然頬を打ち、飛んできた葉っぱや白い花弁に視界が奪われる。
風が止み、おそるおそる目を開けるとあたりは暗くなっていた。
快晴だった空は黒雲に覆われ、今にも雨が降りそうだ。
空気の流れに沿い、白い花びらがたくさん漂っている。
はらはらと大量に舞うそれがうす紅の桜だと気づいたとき、目の前に巨大な桜樹が現れた。
苔むした盛り土に力強く根を張り、節くれだった大きく立派な樹。
四方へ伸びる枝にたわわに桜の花を実らせている、今が盛りの零れ桜だった。
綺麗だ。いっそ神聖なほどに神々しい、曇天の下の桜吹雪。
暗い背景のなかで、季節外れの桜の花が白く輝きみえる。
けれどおかしい、理性が頭の中で混乱しわめいていた。
目の前の桜の巨樹、そこはバスロータリーだったのだ。
整備されたコンクリートの平地に緑の市バスが何台もあったはずが、すっかり消え去り、今は平らな庭が広がっている。代わりのように忽然と現れたのは、桜の木。

「なんで――え?」

ぎゅっと手を握る少年が、悲しげに桜を見て何か訴えた。
無音の唇がパクパク開き、必死に俺に言葉を伝えようとしている――のに、聞こえない。音が――……。
またひとつ強風が吹き、頬に痛いほどの花びらが叩きつけられた。
目の前が真っ白な花吹雪に染まっていき、俺は目をとじる――……。

 ****

――灰色の水の中だ。
目を開けた刹那、そう思った。
大学前の道、バスロータリーの前に俺は立っている。
桜の花は消えていた。少年の姿も、もうない。
いつも通りの風景だった、ただ一点を除けば。
(色が、ない)
濃い黒、薄い灰色、グラデーションの白黒世界が広がっていた。目をこすっても風景に色は戻らない。

『大丈夫ですか!?』
『救急車、AEDは!』
『写真撮らないで! 関係ない人は行って!』

聴こえてくる音はぼんやりと遠く、俺は小学校の水泳の時間を思い出していた。
水中にいると、地上の音はとても遠くなる。現状はそれに近い。
音のほうを振り返ると、バス停の前に人だかりができていた。
何事かと取り囲む人や慌てているバスの運転手さん、学生たちの真ん中で倒れているのは――、

「俺、……」

白黒の滲む視界をかき分け、慌てて近づいてみる。
意識を失い眠るように目を閉じた己の身体が、仰向けにシャツのボタンをゆるめられて、呼吸しやすい姿勢で寝かされている。
大学のほうからAEDが運ばれてきて、バスの運転手さんと大学の事務員らしき男性が真剣な顔でそれを使おうとしていた。
これは何だ。
夢かもしれない。
考えてみれば、今朝は現実離れしすぎていた。
『午前八時四十七分の君』に近づいたのもそうだし、あるはずのない桜の幻も見た。
きっと俺はバスの中で居眠りをした、そうに違いない。
だって、そうでなければこんな――こんなことって。
これじゃあまるで俺が、

「えー、午前九時〇二分。御身・五〇四八号は脳梗塞により死亡、と。ん、ん、んー」

人だかりの脇に猫目の青年が立ち、黒いボードにさらさらと何か記していた。
灰色の視界のなかで、彼ひとりだけがカラフルだ。そこだけ明るい光が灯ったように目立つ。
短く刈った金髪、銀縁の丸メガネ、茶色くて人懐こい大きな両目が、すばやく手にした黒いボード上のメモを追う。
五月には多少暑苦しく見える黒革のフードつきコートを揺らし、彼は「ん?」と俺を見る。表情は明るく人懐こい猫のよう。二十歳くらいだろう、まだあどけなさの残る表情で、彼はにっこり笑った。

「ああ、気にしないで。嫌な世の中だよね。人が道で倒れてたらみんなカメラ向けるの、やられたほうは嫌だよねぇ。お前らいっぺん死んでみろって感じ? あはは、大丈夫だいじょぶ、彼らもすぐに君と似た目に――いやもっと酷い目にあうからさ。ああ、混乱してるね~落ち着いて。顔が怖いなぁ、あはは」

俺は声を発そうとしたが、虚しく口を開くだけに終わった。
なにから話せばいいのか、あまりの事態に言語中枢が追いつかない。
猫目の彼は、鼻歌でも口ずさみそうな上機嫌でさらりと告げた。

「僕の名前はアップル・ビー。死んだ人間をお迎えするのがお役目さ。まぁ、俗に言うところの ” Death ”だね」
「僕の名前はアップル・ビー。死んだ人間をお迎えするのがお役目さ。まぁ、俗に言うところの ” Death ”だね」

「です?」
「そ」
「……死んだ、人間?」
「君のことー。ま、正確にはまだ生きてるけど。はは、そう簡単には受け入れられないよねぇ。安心して、僕、腕は確かだ。見てて」

白い光る糸が落ちていた。
倒れてAEDを当てられた俺の肉体から伸びるそれは、立っている俺の右脚のつま先まで伸びている。糸を踏んでいるのかと足をあげると、白い糸もつま先にくっつき連動し動く。
どうやらこれは、倒れた俺の肉体と繋がる糸らしい。
どう見ても死にかけているらしい俺の肉体と、ここにいる「俺」を結ぶ白い糸。
しゃきん、と音がし、眼鏡を押し上げた青年、アップル・ビーが手芸で使うような大きな裁ちばさみを素敵な笑顔でかざしてみせた。

「これで魂糸(こんし)を切れば、君は今世を完全に離れることになる。大丈夫、安心して。痛くないよー、さくっと済ませるから」
「まっ――」

反射的に止めようとした俺より、アップル・ビーの裁ちばさみのほうが早い。
ためらいもなく糸へと伸ばされた凶器は、けれど寸前で動きを止められていた。一瞬にして現れた、紫紺色の着流しの影によって。

「――おんやぁ、マツカゼ?」

マツカゼ――『午前八時四十七分の君』は、アップル・ビーの腕をつかみ上げ、裁ちばさみを使わせまいとしていた。
忽然と現れた着流しの背から、立ち上るような怒気が見える。
文字通り、陽炎のように青白い怒気がゆらめき視えるのだ。
マツカゼに力強く掴まれたアップル・ビーの腕が、ミシリと嫌な音をたてた。

「い、痛、イタタ、わかった、わかったから。放してッ、とりあえず切らないよっ……ふう。相変わらず乱暴だなあ」

アップル・ビーは、間に立つ『午前八時四十七分の君』と俺を交互に見て、掴まれていた手首をふりふり首をかしげた。怪訝と片手に抱えていた黒バインダーの紙を数枚めくる。

「ん、ん、んー? 君は……ふつうの大学生だよね? 実家が神職なわけでも、歴史的に有名な家系でもないよね」
「はあ? うちは総菜屋ですけど」

間の抜けた返事だったが、本当のことだ。
両親が小さいときに他界した俺は、小料理屋を営む叔父・叔母の家に引き取られ、生活してきた。
ふたりは忙しく、特に叔父は無口な料理人だったが、叔母は俺のことを初孫のように可愛がってくれた。
数年前にふたりは小料理屋をたたみ、週末のみ開店の総菜屋を開いたのだが、これがかなりの盛況をみせている。
元々、味に定評があった叔父の小料理屋は、リーズナブルでおしゃれな総菜屋として生まれ変わり、若い世代や遠方からも支持を集めるようになった。
アップル・ビーは惣菜、とつぶやき、敬礼するように右目を隠し、左目だけで俺を凝視する。

「ん、んー? 君は……なるほど、なるほど。どうやらマツカゼに気に入られたみたいだね。僕の仕事は、君を今世から切り離すこと――だけど、マツカゼがそれをよしとしない、と。ちょっと面倒だなぁ」
「マツカゼ、さん?」

『午前八時四十七分の君』は、呼ばれて静かに振り返った。
なんとなく頭を下げると、マツカゼは寂しげな笑みを浮かべてみせた。
笑うとき、眉が八の字に下がる。やわらかい表情ともいえるが、心の底から痛快で笑っている雰囲気ではない。マツカゼの心には常に翳りがあるようだ。
アップル・ビーがバインダーを音高く閉じた。

「よしわかった。君、料理はできる?」
「あ、ええ。すこし」
「すこしって具体的に?」
「……家の仕事を手伝っていたので、簡単な調理はひと通り。惣菜をつくるとか」
「じゃ、こうしよう」

銀縁眼鏡を押し上げ、アップル・ビーは猫のように笑み告げた。

「うちで一年、働いてもらう。それで今回の件は帳消しにするよ――君を一年後に生き返らせると約束する。どうかな?」
「どうって。あの、『うち』って?」
「僕ら死神の社食だよ。管理者をちょうど探してたんだ。要は、住みこみの料理人だね」
「……これって夢じゃないんですよね?」
「夢じゃないよぉ。君は瀕死の状態で、その生き死には僕が握ってる。この話をのめないなら、僕にできることはもうない。君は死に、今世を離れる。そのときには悪いけどマツカゼ、君にも強制的に引いてもらうよ」

ぐっとマツカゼの身が強張った。
息苦しい緊張が漂い、マツカゼとアップル・ビーが睨みあう。
先に視線をそらしたのは皮肉げに笑んだアップル・ビーだった。
どうする? と眼鏡の下から俺を窺う目は笑みをたやさず、まるで現実感がない。本当だろうか。
けれど俺は頷いていた。
夢であろうとなかろうと、この誘いに乗るしかない。
なにより、飽くなき好奇心が背を押した。
いつも俺はそれで身を滅ぼすというのに。

 ****

アップル・ビーに連れられ、交通機関を乗り継ぎ、大学から数キロの距離にある大阪・中崎町までやってきた。
俺たちの姿は誰にも見えないようで、アップル・ビーはさも当然のように切符も買わずに改札を乗り越えていた(誤検知のブザーは盛大に反応したが)。
繁華なJR大阪駅からHEP前を通りすぎ、線路沿いにずっと歩いていくと中崎町に到達する。近年、発展著しいおしゃれなエリアだ。
雑貨店やカフェ、オーガニック食品専門店に骨董屋――それらの店が、民家の合間にひっそりと点在している。
もの珍しくあたりを見回していると、アップル・ビーが足を止めた。

「到着~。さ、入って入って」
「ここ、ですか?」

どう見ても普通の一軒家、あばら屋だ。
左は月極駐車場で、右は大手チェーンのコンビニだ。間に、草木がぼうぼうの人がいる気配が微塵もない打ち捨てられた民家がある。
以前は誰か住んでいたのだろう、そんな気配はある。
前庭からはみ出す勢いで伸びた草花は、意図して植えられていたに違いない。
蔦科の植物には珍しくも見事な白い花がついていたし、目を凝らすと花屋で売られているような薔薇や洋ラン、ヒペリカムなんかも生えている。
アップル・ビーは、ジャングルを切り拓くように草花をかき分けて進んだ。
慌ててついていくと、すりガラス製の引き戸がみえた。表札こそ出ていないが、通常の民家の入り口だ。
戸に手をかけたアップル・ビーは「おや」と声をあげたが、ひと息に扉をスライドした。真っ暗な室内を見て、

「あ、君かぁ」

と苦笑する。
入り口を開けると高級な寿司屋のようだった。木のカウンターと数脚の椅子が置かれている。
部屋うちに明かりはついておらず、俺がカラカラ後ろ手に閉めたすりガラス越しに、初夏の陽が外の緑を透かし入り込んでくる。
先客がいた。
全身、黒のつなぎ姿の青年が、カウンターに突っ伏し眠っている。

「廣田(ひろだ)くん、廣田くん。起きて」

心地よさそうに寝ているのを、アップル・ビーは容赦なくゆすり起こした。
唸り青年が身を起こすと、金属がしゃらしゃら揺れる音がする。
よく見れば、彼の着る黒のつなぎには無数に細い銀鎖がついていた。
両肩から両袖へ向けて数本ずつ、それから腰回り、おそらくズボンにも。
変な格好だと思っていたら、もっと変なものが横に立てかけてあった。
人の身長ほどもある黒い筒。
布袋に包まれたそれは弓道で使う弓にも似ているが、形は真っ直ぐな棒状だ。
アップル・ビーはちらりと黒筒を見て、口もとを歪めた。

「廣田くん今日、実働だったんだ。ご飯食べた?」
「ん、まだ、です……ふわぁぁぁ」

欠伸をした青年がもそりと頭を上げ、俺を見る。
純朴そうな、市役所の職員か図書館司書でもしてそうな雰囲気だった。
ショートボブに切りそろえた黒髪、人の良さそうなとろんとした目が怪訝と俺を見て、慌てて覚醒する。

「え、ちょっ。誰ですかこの人」
「あははー、新入りさん。今日からここで働くんだ」
「寝顔見られちゃったじゃないですか!」
「うん、だから起こしてあげたじゃん。ご飯も彼が用意してくれるからさ」
「彼が……?」

あからさまに値踏みされ、俺は愛想笑いする。どう答えてよいのかわからない。
アップル・ビーは今思い出したと、わざとらしく部屋の壁かけ時計に目をやった。

「いけない、もうこんな時間だ。僕これから用事があるから、廣田くん色々と教えてあげて」
「はぁ? 俺は実働明けで……」
「じゃ、よろしく」

からりと笑顔の影だけをのこし、アップル・ビーはあっという間に外へ出ていってしまった。無情にもガラスの引き戸がぴしゃりと閉ざされる。
口を「あ」の形にして固まった青年、廣田(ひろだ)と呼ばれた彼は、俺が頭を下げると細長くため息をつく。面倒そうに頭をかき、

「あー……、ここで働くって?」
「はあ。そうみたい、なんですけど」
「なにそれ」

廣田さんはそのままカウンターに突っ伏してしまう。
「すみません」と謝ると、顔もあげずに片手をひらひら振った。

「いや、ごめん。俺、実働明けで。ものすごく、疲れてて……色々教えてあげたいけど、いま気力ない……」

大きな腹の虫が鳴った。
俺じゃない、廣田さんのだ。
お腹が空いているのかと思ったら、彼は「お腹空いた……」と虫の息で呻いた。
そっとカウンターの内へ入り、俺はそこにある備品類を確認した。
普通のコンロが四つ、洗い場に作業台がある。
背後には食器となべ類が綺麗に整頓された棚があり、引き出しを開けると、清潔な布巾やストロー、クッキー用の型抜きなんかが用意されていた。
銀色につやびかりする業務用の大型冷蔵庫、内部にありとあらゆる食材がみっちり詰められている。
肉、魚、野菜に卵、チーズに牛乳。いずれも新鮮だが、これだけあると早々に調理しなければ量をもてあまし、腐らせてしまいそうだ。

「――なにしてるの?」
「俺、なんか作ります。作っていいですか?」

廣田さんはすると顔を勢いよく上げかけ、呻いて力なくまたカウンターへ突っ伏した。

「お願いする……できたら、起こして……」

どうやら相当に空腹らしい。
経験があるのでわかるが、人は極度の空腹に陥ると意識を保つのが難しくなる。体力を温存するために眠気に引きずられ、動けなくなってしまうのだ。
(魔のトライアングルの一角だな)
人は「空腹、睡眠不足、体温低下」に弱い生き物だ。
その三拍子が揃うと死んでしまう。ひとつでも当てはまった場合には何も考えないようにしたほうがいい。まずは足りないものを埋めることを優先する。でないと思考はマイナスのほうへ引きずられ、何事もうまくいかなくなってしまう。
俺は「空腹、睡眠不足、体温低下」という三項目を、心のうちで「魔のトライアングル」と名付けていた。雪山で遭難すると、見事にこのトライアングルに引っかかるから雪山は恐ろしい。

(死神も人間と同じようにお腹がすくのかな。それとも、廣田さんは人間?)

アップル・ビーはここを「死神の社員食堂」と呼んでいた。
管理者を探していたとも――調理ができるかと問われたのだから、俺は彼らに料理を振る舞うのが仕事だろう。廣田さんは空腹で動けないみたいだし、食材をかってに使っても怒られないはずだ、きっとそうだと俺は都合よく納得する。
冷蔵庫を開け、何を作るか逡巡した。
手早くできるものがいい。
極度の空腹状態で食べても胃を痛めない、軽めのものを――……。

「よし」

お米を取り出してざるで簡単に洗い、炊飯器を探した。
無ければ土鍋で炊いてもよかったが、振り返り見た冷蔵庫の脇にはちゃんと漆黒の炊飯器が用意されていた。それも最新式の土鍋釜タイプ。一式うん十万はする代物がふたつも並んでいる。

「おぉ」

電気屋さんでいつも遠巻きに眺める、美味しく炊飯できると触れこみの高級炊飯器だ。
俺はおそるおそる蓋を開け、洗いたての米をセットした。
水を入れ、早炊きボタンがあったので試しに押してみる。
良い家電は使い勝手もわかりやすいものだ。すぐに炊き上がりまでの分数が表示され、釜は息を吹き返し静かに呼吸をはじめる。俺はすこし感動し、わくわくしてきた。後で炊きあがりを見るのが楽しみだ。

次に、冷蔵庫から切り身の鮭を取り出して、魚焼きグリルで炙っておく。
切り身を手にした瞬間にわかったが、これはかなり上等な銀鮭だ。
身に厚みがあり重い。
ていねいにくるまれたラップには産地表記はなかったが、きっと良い鮭がとれると評判の地域産だろう。こちらも焼き上がりが非常に楽しみである。

わずかにできた隙間時間に、冷蔵庫から白たくあんと水茄子の漬物を取り出し、切っておく。
驚くべきことに、巨大な業務用冷蔵庫には漬物だけでも十種類近くの品が揃えられていた。市販されているものから、どこから買ってきたかわからないものまで。念のため賞味期限が書かれているものを選び使ったが、どれも腐っている風には見えないし、昨日今日買いそろえたばかりのようだ。アップル・ビーが揃えておいてくれたのだろうか。

(いやあの人、自分のこと死神だって言ってたしな)

思い返してみても不思議だ。
どう見ても彼は人間だった。「社食」というからには、彼もここで食事をするのだろうか。
死神って神さまじゃないのか。人間と同じものを食すのか。
そもそも、アップル・ビーは本当に死神なのか?
俺が根本的に勘違いをしていて、すべての認識を間違えているのかもしれない。そうでなければ不可思議すぎる――。

銀鮭のいい匂いが漂ってきたころ、廣田さんが身じろいだ。
またひとつ大きくお腹が鳴り、彼は顔をかすかに上げる。
ねぼけ眼で鼻をくんくんしている。

「鮭……?」
「もうすこし待ってください。あとすこし」

グリルを開け、銀鮭の焼き加減をたしかめひっくり返す。
脂の乗った塩鮭はじゅっと旨みを滴らせ、皮に焦げ目を作り始めていた。上出来。
ふっくらした身が弾力をもち旨みでつやつや光り、これでもかと食欲をそそる。とてつもなく良い匂い。
知らず、俺は唾を飲みこんでいた。磯っぽい焼き鮭の匂いを嗅ぐと口中に味を思い出してしまう。脂の乗った塩味。白米に絶妙に合う、馴染みある味を――。
背後で早炊きの炊飯器がピーッと鳴った。炊飯完了だ。
釜を開けたくなる気持ちをおさえ、先に湯を沸かすことにする。
数分で湯の沸く電子ケトルの姿もあったが、俺は先ほどなべ類をざっと見たとき、珍しい品を見つけていた。

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