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アップル・ビーに連れられ、交通機関を乗り継ぎ、大学から数キロの距離にある大阪・中崎町までやってきた。
俺たちの姿は誰にも見えないようで、アップル・ビーはさも当然のように切符も買わずに改札を乗り越えていた(誤検知のブザーは盛大に反応したが)。
繁華なJR大阪駅からHEP前を通りすぎ、線路沿いにずっと歩いていくと中崎町に到達する。近年、発展著しいおしゃれなエリアだ。
雑貨店やカフェ、オーガニック食品専門店に骨董屋――それらの店が、民家の合間にひっそりと点在している。
もの珍しくあたりを見回していると、アップル・ビーが足を止めた。
「到着~。さ、入って入って」
「ここ、ですか?」
どう見ても普通の一軒家、あばら屋だ。
左は月極駐車場で、右は大手チェーンのコンビニだ。間に、草木がぼうぼうの人がいる気配が微塵もない打ち捨てられた民家がある。
以前は誰か住んでいたのだろう、そんな気配はある。
前庭からはみ出す勢いで伸びた草花は、意図して植えられていたに違いない。
蔦科の植物には珍しくも見事な白い花がついていたし、目を凝らすと花屋で売られているような薔薇や洋ラン、ヒペリカムなんかも生えている。
アップル・ビーは、ジャングルを切り拓くように草花をかき分けて進んだ。
慌ててついていくと、すりガラス製の引き戸がみえた。表札こそ出ていないが、通常の民家の入り口だ。
戸に手をかけたアップル・ビーは「おや」と声をあげたが、ひと息に扉をスライドした。真っ暗な室内を見て、
「あ、君かぁ」
と苦笑する。
入り口を開けると高級な寿司屋のようだった。木のカウンターと数脚の椅子が置かれている。
部屋うちに明かりはついておらず、俺がカラカラ後ろ手に閉めたすりガラス越しに、初夏の陽が外の緑を透かし入り込んでくる。
先客がいた。
全身、黒のつなぎ姿の青年が、カウンターに突っ伏し眠っている。
「廣田(ひろだ)くん、廣田くん。起きて」
心地よさそうに寝ているのを、アップル・ビーは容赦なくゆすり起こした。
唸り青年が身を起こすと、金属がしゃらしゃら揺れる音がする。
よく見れば、彼の着る黒のつなぎには無数に細い銀鎖がついていた。
両肩から両袖へ向けて数本ずつ、それから腰回り、おそらくズボンにも。
変な格好だと思っていたら、もっと変なものが横に立てかけてあった。
人の身長ほどもある黒い筒。
布袋に包まれたそれは弓道で使う弓にも似ているが、形は真っ直ぐな棒状だ。
アップル・ビーはちらりと黒筒を見て、口もとを歪めた。
「廣田くん今日、実働だったんだ。ご飯食べた?」
「ん、まだ、です……ふわぁぁぁ」
欠伸をした青年がもそりと頭を上げ、俺を見る。
純朴そうな、市役所の職員か図書館司書でもしてそうな雰囲気だった。
ショートボブに切りそろえた黒髪、人の良さそうなとろんとした目が怪訝と俺を見て、慌てて覚醒する。
「え、ちょっ。誰ですかこの人」
「あははー、新入りさん。今日からここで働くんだ」
「寝顔見られちゃったじゃないですか!」
「うん、だから起こしてあげたじゃん。ご飯も彼が用意してくれるからさ」
「彼が……?」
あからさまに値踏みされ、俺は愛想笑いする。どう答えてよいのかわからない。
アップル・ビーは今思い出したと、わざとらしく部屋の壁かけ時計に目をやった。
「いけない、もうこんな時間だ。僕これから用事があるから、廣田くん色々と教えてあげて」
「はぁ? 俺は実働明けで……」
「じゃ、よろしく」
からりと笑顔の影だけをのこし、アップル・ビーはあっという間に外へ出ていってしまった。無情にもガラスの引き戸がぴしゃりと閉ざされる。
口を「あ」の形にして固まった青年、廣田(ひろだ)と呼ばれた彼は、俺が頭を下げると細長くため息をつく。面倒そうに頭をかき、
「あー……、ここで働くって?」
「はあ。そうみたい、なんですけど」
「なにそれ」
廣田さんはそのままカウンターに突っ伏してしまう。
「すみません」と謝ると、顔もあげずに片手をひらひら振った。
「いや、ごめん。俺、実働明けで。ものすごく、疲れてて……色々教えてあげたいけど、いま気力ない……」
大きな腹の虫が鳴った。
俺じゃない、廣田さんのだ。
お腹が空いているのかと思ったら、彼は「お腹空いた……」と虫の息で呻いた。
そっとカウンターの内へ入り、俺はそこにある備品類を確認した。
普通のコンロが四つ、洗い場に作業台がある。
背後には食器となべ類が綺麗に整頓された棚があり、引き出しを開けると、清潔な布巾やストロー、クッキー用の型抜きなんかが用意されていた。
銀色につやびかりする業務用の大型冷蔵庫、内部にありとあらゆる食材がみっちり詰められている。
肉、魚、野菜に卵、チーズに牛乳。いずれも新鮮だが、これだけあると早々に調理しなければ量をもてあまし、腐らせてしまいそうだ。
「――なにしてるの?」
「俺、なんか作ります。作っていいですか?」
廣田さんはすると顔を勢いよく上げかけ、呻いて力なくまたカウンターへ突っ伏した。
「お願いする……できたら、起こして……」
どうやら相当に空腹らしい。
経験があるのでわかるが、人は極度の空腹に陥ると意識を保つのが難しくなる。体力を温存するために眠気に引きずられ、動けなくなってしまうのだ。
(魔のトライアングルの一角だな)
人は「空腹、睡眠不足、体温低下」に弱い生き物だ。
その三拍子が揃うと死んでしまう。ひとつでも当てはまった場合には何も考えないようにしたほうがいい。まずは足りないものを埋めることを優先する。でないと思考はマイナスのほうへ引きずられ、何事もうまくいかなくなってしまう。
俺は「空腹、睡眠不足、体温低下」という三項目を、心のうちで「魔のトライアングル」と名付けていた。雪山で遭難すると、見事にこのトライアングルに引っかかるから雪山は恐ろしい。
(死神も人間と同じようにお腹がすくのかな。それとも、廣田さんは人間?)
アップル・ビーはここを「死神の社員食堂」と呼んでいた。
管理者を探していたとも――調理ができるかと問われたのだから、俺は彼らに料理を振る舞うのが仕事だろう。廣田さんは空腹で動けないみたいだし、食材をかってに使っても怒られないはずだ、きっとそうだと俺は都合よく納得する。
冷蔵庫を開け、何を作るか逡巡した。
手早くできるものがいい。
極度の空腹状態で食べても胃を痛めない、軽めのものを――……。
「よし」
お米を取り出してざるで簡単に洗い、炊飯器を探した。
無ければ土鍋で炊いてもよかったが、振り返り見た冷蔵庫の脇にはちゃんと漆黒の炊飯器が用意されていた。それも最新式の土鍋釜タイプ。一式うん十万はする代物がふたつも並んでいる。
「おぉ」
電気屋さんでいつも遠巻きに眺める、美味しく炊飯できると触れこみの高級炊飯器だ。
俺はおそるおそる蓋を開け、洗いたての米をセットした。
水を入れ、早炊きボタンがあったので試しに押してみる。
良い家電は使い勝手もわかりやすいものだ。すぐに炊き上がりまでの分数が表示され、釜は息を吹き返し静かに呼吸をはじめる。俺はすこし感動し、わくわくしてきた。後で炊きあがりを見るのが楽しみだ。
次に、冷蔵庫から切り身の鮭を取り出して、魚焼きグリルで炙っておく。
切り身を手にした瞬間にわかったが、これはかなり上等な銀鮭だ。
身に厚みがあり重い。
ていねいにくるまれたラップには産地表記はなかったが、きっと良い鮭がとれると評判の地域産だろう。こちらも焼き上がりが非常に楽しみである。
わずかにできた隙間時間に、冷蔵庫から白たくあんと水茄子の漬物を取り出し、切っておく。
驚くべきことに、巨大な業務用冷蔵庫には漬物だけでも十種類近くの品が揃えられていた。市販されているものから、どこから買ってきたかわからないものまで。念のため賞味期限が書かれているものを選び使ったが、どれも腐っている風には見えないし、昨日今日買いそろえたばかりのようだ。アップル・ビーが揃えておいてくれたのだろうか。
(いやあの人、自分のこと死神だって言ってたしな)
思い返してみても不思議だ。
どう見ても彼は人間だった。「社食」というからには、彼もここで食事をするのだろうか。
死神って神さまじゃないのか。人間と同じものを食すのか。
そもそも、アップル・ビーは本当に死神なのか?
俺が根本的に勘違いをしていて、すべての認識を間違えているのかもしれない。そうでなければ不可思議すぎる――。
銀鮭のいい匂いが漂ってきたころ、廣田さんが身じろいだ。
またひとつ大きくお腹が鳴り、彼は顔をかすかに上げる。
ねぼけ眼で鼻をくんくんしている。
「鮭……?」
「もうすこし待ってください。あとすこし」
グリルを開け、銀鮭の焼き加減をたしかめひっくり返す。
脂の乗った塩鮭はじゅっと旨みを滴らせ、皮に焦げ目を作り始めていた。上出来。
ふっくらした身が弾力をもち旨みでつやつや光り、これでもかと食欲をそそる。とてつもなく良い匂い。
知らず、俺は唾を飲みこんでいた。磯っぽい焼き鮭の匂いを嗅ぐと口中に味を思い出してしまう。脂の乗った塩味。白米に絶妙に合う、馴染みある味を――。
背後で早炊きの炊飯器がピーッと鳴った。炊飯完了だ。
釜を開けたくなる気持ちをおさえ、先に湯を沸かすことにする。
数分で湯の沸く電子ケトルの姿もあったが、俺は先ほどなべ類をざっと見たとき、珍しい品を見つけていた。