「僕の名前はアップル・ビー。死んだ人間をお迎えするのがお役目さ。まぁ、俗に言うところの ” Death ”だね」

「です?」
「そ」
「……死んだ、人間?」
「君のことー。ま、正確にはまだ生きてるけど。はは、そう簡単には受け入れられないよねぇ。安心して、僕、腕は確かだ。見てて」

白い光る糸が落ちていた。
倒れてAEDを当てられた俺の肉体から伸びるそれは、立っている俺の右脚のつま先まで伸びている。糸を踏んでいるのかと足をあげると、白い糸もつま先にくっつき連動し動く。
どうやらこれは、倒れた俺の肉体と繋がる糸らしい。
どう見ても死にかけているらしい俺の肉体と、ここにいる「俺」を結ぶ白い糸。
しゃきん、と音がし、眼鏡を押し上げた青年、アップル・ビーが手芸で使うような大きな裁ちばさみを素敵な笑顔でかざしてみせた。

「これで魂糸(こんし)を切れば、君は今世を完全に離れることになる。大丈夫、安心して。痛くないよー、さくっと済ませるから」
「まっ――」

反射的に止めようとした俺より、アップル・ビーの裁ちばさみのほうが早い。
ためらいもなく糸へと伸ばされた凶器は、けれど寸前で動きを止められていた。一瞬にして現れた、紫紺色の着流しの影によって。

「――おんやぁ、マツカゼ?」

マツカゼ――『午前八時四十七分の君』は、アップル・ビーの腕をつかみ上げ、裁ちばさみを使わせまいとしていた。
忽然と現れた着流しの背から、立ち上るような怒気が見える。
文字通り、陽炎のように青白い怒気がゆらめき視えるのだ。
マツカゼに力強く掴まれたアップル・ビーの腕が、ミシリと嫌な音をたてた。

「い、痛、イタタ、わかった、わかったから。放してッ、とりあえず切らないよっ……ふう。相変わらず乱暴だなあ」

アップル・ビーは、間に立つ『午前八時四十七分の君』と俺を交互に見て、掴まれていた手首をふりふり首をかしげた。怪訝と片手に抱えていた黒バインダーの紙を数枚めくる。

「ん、ん、んー? 君は……ふつうの大学生だよね? 実家が神職なわけでも、歴史的に有名な家系でもないよね」
「はあ? うちは総菜屋ですけど」

間の抜けた返事だったが、本当のことだ。
両親が小さいときに他界した俺は、小料理屋を営む叔父・叔母の家に引き取られ、生活してきた。
ふたりは忙しく、特に叔父は無口な料理人だったが、叔母は俺のことを初孫のように可愛がってくれた。
数年前にふたりは小料理屋をたたみ、週末のみ開店の総菜屋を開いたのだが、これがかなりの盛況をみせている。
元々、味に定評があった叔父の小料理屋は、リーズナブルでおしゃれな総菜屋として生まれ変わり、若い世代や遠方からも支持を集めるようになった。
アップル・ビーは惣菜、とつぶやき、敬礼するように右目を隠し、左目だけで俺を凝視する。

「ん、んー? 君は……なるほど、なるほど。どうやらマツカゼに気に入られたみたいだね。僕の仕事は、君を今世から切り離すこと――だけど、マツカゼがそれをよしとしない、と。ちょっと面倒だなぁ」
「マツカゼ、さん?」

『午前八時四十七分の君』は、呼ばれて静かに振り返った。
なんとなく頭を下げると、マツカゼは寂しげな笑みを浮かべてみせた。
笑うとき、眉が八の字に下がる。やわらかい表情ともいえるが、心の底から痛快で笑っている雰囲気ではない。マツカゼの心には常に翳りがあるようだ。
アップル・ビーがバインダーを音高く閉じた。

「よしわかった。君、料理はできる?」
「あ、ええ。すこし」
「すこしって具体的に?」
「……家の仕事を手伝っていたので、簡単な調理はひと通り。惣菜をつくるとか」
「じゃ、こうしよう」

銀縁眼鏡を押し上げ、アップル・ビーは猫のように笑み告げた。

「うちで一年、働いてもらう。それで今回の件は帳消しにするよ――君を一年後に生き返らせると約束する。どうかな?」
「どうって。あの、『うち』って?」
「僕ら死神の社食だよ。管理者をちょうど探してたんだ。要は、住みこみの料理人だね」
「……これって夢じゃないんですよね?」
「夢じゃないよぉ。君は瀕死の状態で、その生き死には僕が握ってる。この話をのめないなら、僕にできることはもうない。君は死に、今世を離れる。そのときには悪いけどマツカゼ、君にも強制的に引いてもらうよ」

ぐっとマツカゼの身が強張った。
息苦しい緊張が漂い、マツカゼとアップル・ビーが睨みあう。
先に視線をそらしたのは皮肉げに笑んだアップル・ビーだった。
どうする? と眼鏡の下から俺を窺う目は笑みをたやさず、まるで現実感がない。本当だろうか。
けれど俺は頷いていた。
夢であろうとなかろうと、この誘いに乗るしかない。
なにより、飽くなき好奇心が背を押した。
いつも俺はそれで身を滅ぼすというのに。