【第八章】「アンインストール」
【sideA' 香織】
「やっと会えたね、香織」
うれしそうにその男は言った。
ボサボサに伸びた髪に赤いパーカー姿。暗い照明のせいでその顔はあまり見えないけれど、わたしの知っている人じゃなかった。
「だ、誰……」
ガチガチと鳴る歯でなんとか尋ねるが、男は笑顔のまま微動だにしない。よく見ると、男の視線はわたしの少し上あたりをふらふらさまよっていた。
なにかブツブツつぶやいている。
この人が……ストーカーなの?
それともこれはわたしの見ている幻?
手にあるサバイバルナイフが赤黒く染まっていて、まるで元からそういう色だったかのよう。
そのときになってようやくわたしは気づいた。男の着ているパーカーは、元々は白色だということを。
返り血のせいで赤色になっているんだ……。
まるで落雷に打たれたかのように目の前が真っ暗になる。
「あなたがみんなを殺した……の?」
意思とは関係なく、口がそうしゃべっていた。
男はうつろな目でわたしを見るが、まだなにかつぶやいている。少し高い声……
ああ、これは歌を歌っているんだ。どこかで聞いたことのあるメロディだけど思い出す余裕もない。
ピタリと男が口を閉ざし、そしてまた開いた。もう、歌は聞こえない。
笑みをうかべたままで、
「そう。僕が殺したんだよ」
と、当たり前のように言った男が一歩足を前に踏み出した。
「だってこれから香織に会うのに邪魔だろ? 僕たちの本当の出会いは神聖なものにしないといけなかったから、仕方ないんだよ」
「仕方ない……そんな……」
「僕だって大変だったんだよ。ボランティアにまぎれこんで建物に入って、今までリネン庫に隠れていたんだ。ああ、もうすっかり夜なんだね」
また足を進める男に、わたしは同じ歩幅であとずさりをした。
「あなたがあの赤い手紙をわたしに送っていたの?」
「なにを今さら言ってるんだい。僕たち、ずっとつき合ってきたじゃないか」
「そんな、違う……」
冬と言うのに暖房のせいか、汗が頬に流れ落ちた。
うしろを見ると、カップルは廊下の隅で小さく震えていた。
「だけどね」
男の声に視線を戻す。
「香織は僕たちの清らかな恋を汚してしまった」
右手に持つナイフの先端を見やる男の声は低音に変わっていた。もう笑みも浮かんでいない。
「僕は君のために、心のすべてを捧げた。君だって喜んでくれていただろう?それなのに、君は僕を裏切ったんだ。こんな病院に逃げこんで、僕をシャットアウトしようとした」
「違う……。それは、違う」
「違わない!」
怒号がフロアに響いた。
「僕を翻弄し捨てようとしている。こんなに僕が想っているのに、お前は僕をだましたんだよ!」
向かい側にある部屋のドアが開いていることに気づいたのはそのときだった。
「香織ちゃん?」
寝ぼけ眼で立っているのはパジャマ姿の杏だった。叫ぶ声に気づき起きてしまったのだろう。
男がゆるゆるとそちらを見る。
「やあ、こんばんは」
「こん……」言いかけた杏の口が止まったのは持っているナイフに気づいたからだろう。じっと男の手元に視線が置かれている。
「杏ちゃん、ドアを閉めて! 早く!」
叫ぶわたしに、
「香織ちゃん、怖い。怖いよ……」
杏の身体は動かない。ただならぬ状況を察し固まってしまったのだろう。
廊下を横切り杏の部屋の前へ急いだ。
「香織ちゃん……」
「いい、杏ちゃん。ドアを閉めるからね。なかからカギかけられるの知っているよね?」
こくんとうなずく杏の目をしっかりと見て諭す。
「なにがあっても絶対に出てきちゃダメ。わかった?」
「うん。でも……」
「約束だからね」
強引にドアを閉めると、遅れてカチャッとカギのかかる音が聞こえたので安心する。
振り向くと男はゆらゆらと体を揺らせている。
「許さない。許さない。許さない」
ブツブツつぶやきながら男がまた足を前に出したので、わたしはゆっくりと反対側の壁へ戻る。杏から気を逸らせなくちゃいけない。
もう一方の壁に寄ったときだった。
先ほど廊下を徘徊していた老人がナースステーションの向こうから歩いて来るのが見えた。
男に気づいたのだろう、老人が近づいて行くのがわかった。
「ダメ、近づいちゃダメ!」
叫んでも歩幅を緩めない老人がついに男の横に並んだ。
「こんばんは」
「……許さない。許さない」
まだつぶやきをやめない男の肩に老人は手を置いた。
「今日は雪がふってるらしいよ。こんな暑いのに雪なんておかしいなあ。なあ、あんたは――」
男が前を向いたままサバイバルナイフを素早く振りあげた。
スパッという音がして、次の瞬間、老人の首から血が噴き出していた。噴水のように血しぶきがあふれ、糸の切れた操り人形のように老人は床に倒れた。
ゴポゴポという音がして、その周りにゆっくり血が広がっていく。
ウソだ。こんなの夢だよ……。
「キャーッ!」
カップルの女性のほうが悲鳴をあげた声で我に返った。
間違いない、これは現実のこと。今、ここで殺人がおこなわれているんだ。
男は血で汚れた顔をパーカーの袖で拭うと、
「んだよこれ……どうしてこんなこと僕にさせるんだよ」
と怒りをにじませた口調でわたしを見た。
「お前のせいだ。お前が僕を壊した。僕たちを壊したんだっ。僕たちをおおお!」
「わたし……」
ガタガタ震える足に力が入らない。目の前がまるでグルグルと回っているようだ。
「僕はここまでやっているんだよ。ぜんぶ君のためじゃないか」
男がゆらゆらと近づいてくる。
「どうして……どうしてわたしなの?」
カップルが少しずつあとずさりをしている。
いくつかの部屋のドアが開くけれど、事態を察したのかすぐに閉められてしまう。
カップルの男性のほうが私にだけ聞こえるような声で、
「おい、やばいぜ。どうするんだよ」
と尋ねてきた。
「香織、一緒に死のう。僕はそのためにここまできたんだよ。君のいない人生なんて考えられない。だから、死のう?」
男の精神はまともとは思えなかった。
大量の返り血を浴びてもなおゆっくりと進んでくるそれは、まるで悪魔のように見えた。
このままでは殺されてしまう……。
「逃げよう」
カップルの男性に向かって言うと、彼は小さく何度もうなずいた。
わたしは足の向きを変えると、奥の部屋に走り出す。
「早く!」
ふたりに声をかけると、ようやく彼らも走り出す。
目指すのは奥にあるカップルの部屋。
開いているドアに飛びこむと、ふたりがなかに入るのを待ち素早く閉める。続いて施錠をすると、私は床に座りこんだ。
汗と涙と鼻水で顔はひどいことになっている。
カップルの男性もガチガチと歯を鳴らせて、
「いったいなにがおきてるんだよぉ」
と震えている。
「あたしに聞いてもしらないよ。怖い、怖いよ」
女子中学生は両手で顔を覆って荒く呼吸をしていた。
「警察へ電話をしてください!」
叫ぶわたしに、
「ああ、そうだ。警察、警察……」
携帯電話を取り出す彼氏だが指先が震えてうまく操作できない。指先からこぼれ落ちた携帯電話に、彼はあとずさりをした。
「無理だ……。なあ、お前やれよ」
「できないよ。あたし、できないよ!」
彼女のほうはパニックに陥ってるのか、部屋の隅で首を横に振り続けている。
床に落ちた携帯電話を手に取ると、わたしは自ら警察へ電話をかけた。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
「110番です。事件ですか、事故ですか?」
すぐにつながった電話から男性の声が聞こえたとき、わたしはようやくこれが現実に起きていることだと自覚した。
「あ……あのっ」
「落ち着いてください。どうかされましたか?」
「たっ、助けてください!」
叫ぶわたしの声に、
「助けて!」
ふたりも口々に声をあげたので、わたしはスピーカーホンにして床に携帯電話を置いた。