校門を出て少し歩くといつものバス停が見えてきた。まだバスが来るまでは少し時間がある。一人なら携帯でも見ながら時間を潰すが、直樹がいるから会話がいつまでも続いた。話していると不安が紛れ心が安らぐ自分がいる。佑香のことを考えないでいられる時間はとても楽だった。
目の前を流れていく車をいくつも見送る。右から左へと流れていく方が多く、黒や白を基調とした車が多いな等とどうでもいいことを考えながら、直樹とこの間のテストの話をしていた。
「俺、赤点スレッスレで回避したけど、やっぱり母ちゃんには怒られた」
と、直樹。
「直樹が赤点一つもないなんて快挙なのにな」
と、俺。
「ホントだぜ。にしても、追試も居残りもない学生生活がこんなにも素晴らしいなんてよー。居残りで勉強している奴らを横目に見ながら帰る優越感なんて一度味わったらやみつきになりそうだ」
直樹は戯けたように言う。その瞬間、バス停の脇にある木から蝉が直樹目掛けて落ちてきた。
「うおっ! 何だよ急に、ビビらせやがって」
落ちてきた蝉に本気で驚いたのか、直樹はその場から両足を揃えたまま飛び退いた。
ジージーと先程まで煩かった蝉の音が少し遠ざかった。そのことを認識したと同時に、この落ちてきた蝉は死んだんだと理解した。
そうか、死も繰りかえされる日常の延長線上に存在しているんだ。この蝉も今この瞬間に自分が絶命するなどとは思っていなかっただろう。ついさっきまで力いっぱい鳴き声を上げていて、他の蝉と同じように木にくっついていて、蝉にとって代わり映えのない日常を送っていたはずなのに、急に死が訪れた。案外人間もこんなものなのだ。
自分の身近に死が少ないから人間は死に鈍感なだけで、地球規模で見れば毎日多くの命が失われている。
「お、友也、バス来たぜ」
俺がたった今絶命した蝉を見ていると、直樹がバスに気が付いた。
バスが目の前に停まり乗り込む。運転手に目をやると、いつもの運転手とは違い三十歳くらいの比較的若い男だった。
バスは家の近くから乗るときとは違って人が沢山乗っている。ただ、今日のように座れないほどの人の多さは珍しかった。しょうがないので運転手の斜め後ろくらいのスペースを直樹と共に陣取る。普段はバスの後方を利用するため、運転手と同じ景色を見ながら乗るバスは新鮮だった。
ビルや家、コンビニなどが次第に近づいては後ろに流れていく。ビルは徐々に低く、少なくなり、コンビニの見えてくる感覚は長くなる。目の前の二人がけの座席が空いたので直樹と座った。この座席からもバスの前方の窓から景色がよく見える。
流れていく景色の中、ビルが林になり、家が畑になり、コンビニが田んぼになっていく。見えてくる物が少しずつ街中から田舎へと移ろいでいく。
街中にあった高校から、コンクリートのグレーの上に緑の絵の具を足していくことで中学校の頃の風景に。ここで直樹がバスから降りた。そこからさらにキャンパスの全面に緑の色を塗りたくっていけば小学校の頃の風景へと変化する。まるで過去へとタイムスリップしていくかのような感覚だ。
限界まで過去に戻ったところで俺はバスから降りた。ただ、本当に過去に戻れたのなら俺の隣には佑香の姿がある。今の俺は独りだ。学校の友人も、直樹も、佑香もいない。ただ独りだ。
バスに乗る前の蝉の姿が脳裏に過ぎった。世界の急変など前触れもなく訪れる。自分の周りは安全だとか、自分に限ってそんなことはないとか、そんな幻想は麻薬と同じだ。
バス停でしばらく立ち尽くした後、俺は自分の家へ続く最短の道へと足を向けた。日射しを遮る木陰も、勝ち負けを争う信号もない、ただ帰るだけの味気ない道。色を失った俺の世界と似ているように感じた。
ふと佑香の家に目が向く。俺の家から五件隣りの佑香の家。その丁度中間には小川が流れていて、申しわけ程度に橋も架かっている。その橋がたまたま佑香の家と重なって見えた。まるで佑香の元へと続く橋のように感じる。
俺は引き寄せられるように小さな橋へと歩を進めていた。橋へと近付くにつれ、周りの景色は青々とした田んぼが絨毯のように広がる世界が開けていく。市街地とは違い十分な水分を吸って湿り気を帯びた風が、田んぼの絨毯を波立たせて大海原へと変化させる。辺り一帯から聞こえる蝉の声にも負けない緑の波の音。一際強い風が吹き、俺は思わず目を右の手の平で覆った。
一歩進むごとに橋の細部まで見えるようになってくる。今まで景色の一つとしか認識しておらず、橋の名前まで気にしたことはなかった。そんな橋の名前が刻まれた部分までも鮮明に見える距離になった。
橋の名前は……思返橋と刻まれていた。漢字で書かれた柵の反対側の柵には平仮名で“おもいかえりばし”とある。変わった名前の橋だと思った。
目の前を流れていく車をいくつも見送る。右から左へと流れていく方が多く、黒や白を基調とした車が多いな等とどうでもいいことを考えながら、直樹とこの間のテストの話をしていた。
「俺、赤点スレッスレで回避したけど、やっぱり母ちゃんには怒られた」
と、直樹。
「直樹が赤点一つもないなんて快挙なのにな」
と、俺。
「ホントだぜ。にしても、追試も居残りもない学生生活がこんなにも素晴らしいなんてよー。居残りで勉強している奴らを横目に見ながら帰る優越感なんて一度味わったらやみつきになりそうだ」
直樹は戯けたように言う。その瞬間、バス停の脇にある木から蝉が直樹目掛けて落ちてきた。
「うおっ! 何だよ急に、ビビらせやがって」
落ちてきた蝉に本気で驚いたのか、直樹はその場から両足を揃えたまま飛び退いた。
ジージーと先程まで煩かった蝉の音が少し遠ざかった。そのことを認識したと同時に、この落ちてきた蝉は死んだんだと理解した。
そうか、死も繰りかえされる日常の延長線上に存在しているんだ。この蝉も今この瞬間に自分が絶命するなどとは思っていなかっただろう。ついさっきまで力いっぱい鳴き声を上げていて、他の蝉と同じように木にくっついていて、蝉にとって代わり映えのない日常を送っていたはずなのに、急に死が訪れた。案外人間もこんなものなのだ。
自分の身近に死が少ないから人間は死に鈍感なだけで、地球規模で見れば毎日多くの命が失われている。
「お、友也、バス来たぜ」
俺がたった今絶命した蝉を見ていると、直樹がバスに気が付いた。
バスが目の前に停まり乗り込む。運転手に目をやると、いつもの運転手とは違い三十歳くらいの比較的若い男だった。
バスは家の近くから乗るときとは違って人が沢山乗っている。ただ、今日のように座れないほどの人の多さは珍しかった。しょうがないので運転手の斜め後ろくらいのスペースを直樹と共に陣取る。普段はバスの後方を利用するため、運転手と同じ景色を見ながら乗るバスは新鮮だった。
ビルや家、コンビニなどが次第に近づいては後ろに流れていく。ビルは徐々に低く、少なくなり、コンビニの見えてくる感覚は長くなる。目の前の二人がけの座席が空いたので直樹と座った。この座席からもバスの前方の窓から景色がよく見える。
流れていく景色の中、ビルが林になり、家が畑になり、コンビニが田んぼになっていく。見えてくる物が少しずつ街中から田舎へと移ろいでいく。
街中にあった高校から、コンクリートのグレーの上に緑の絵の具を足していくことで中学校の頃の風景に。ここで直樹がバスから降りた。そこからさらにキャンパスの全面に緑の色を塗りたくっていけば小学校の頃の風景へと変化する。まるで過去へとタイムスリップしていくかのような感覚だ。
限界まで過去に戻ったところで俺はバスから降りた。ただ、本当に過去に戻れたのなら俺の隣には佑香の姿がある。今の俺は独りだ。学校の友人も、直樹も、佑香もいない。ただ独りだ。
バスに乗る前の蝉の姿が脳裏に過ぎった。世界の急変など前触れもなく訪れる。自分の周りは安全だとか、自分に限ってそんなことはないとか、そんな幻想は麻薬と同じだ。
バス停でしばらく立ち尽くした後、俺は自分の家へ続く最短の道へと足を向けた。日射しを遮る木陰も、勝ち負けを争う信号もない、ただ帰るだけの味気ない道。色を失った俺の世界と似ているように感じた。
ふと佑香の家に目が向く。俺の家から五件隣りの佑香の家。その丁度中間には小川が流れていて、申しわけ程度に橋も架かっている。その橋がたまたま佑香の家と重なって見えた。まるで佑香の元へと続く橋のように感じる。
俺は引き寄せられるように小さな橋へと歩を進めていた。橋へと近付くにつれ、周りの景色は青々とした田んぼが絨毯のように広がる世界が開けていく。市街地とは違い十分な水分を吸って湿り気を帯びた風が、田んぼの絨毯を波立たせて大海原へと変化させる。辺り一帯から聞こえる蝉の声にも負けない緑の波の音。一際強い風が吹き、俺は思わず目を右の手の平で覆った。
一歩進むごとに橋の細部まで見えるようになってくる。今まで景色の一つとしか認識しておらず、橋の名前まで気にしたことはなかった。そんな橋の名前が刻まれた部分までも鮮明に見える距離になった。
橋の名前は……思返橋と刻まれていた。漢字で書かれた柵の反対側の柵には平仮名で“おもいかえりばし”とある。変わった名前の橋だと思った。